2017年5月22日月曜日

TEDxYangonに行ってきた

昨日、Rose Garden Hotelで開催された、TEDxYangonに行ってきました。


正確には、TEDxYangonのイベントに参加したわけではなく、同イベントにショップ・テーブルを設けたYangon Collectiveの一角で自分のブランドの商品を販売していました。
Yangon Collectiveは、ミャンマーの独立自営業者へ販売やマーケティングを支援するプロジェクトで、自主企画の即時販売会の開催や、他の有力なイベントでの物販の機会などをミャンマーの独立自営業者へ提供しています。

今回は、10業者くらいのミャンマーの独立系ブランドが、Yangon Collectiveのテーブルを分け合う形で、TEDxYangon会場のRose Gaden Hotelの入り口で、それぞれの商品を販売しました。

商品を吊るしたハンガーラックを、展示の一番奥に置かれて、お客さんが寄り付きにくいのがキツかった。共同展示だと展示方法を自分で選べないのが辛い。

今まで、TEDもTEDxにも行ったことがないので、今回初めてこの種のイベントに行ったことになります。ただし、参加費は払ってないので、イベント会場内には入っていません。参加費は、一人100USDとかなり高めでした。

客層はミャンマー人6割、欧米人3割、ミャンマー人以外のアジア人1割といった感じでした。アジア人は中華系(シンガポール、香港なども含む)とインド系が多いように見えました。日本人の参加者は、私が見た限りいませんでした。いたとしても、目につかない程少数だったと思います。
別に国を憂える気はありませんが(自分が日々生き残ることで精一杯なため)、多くの日本人が、ミャンマーに来てまで日本語圏に閉じ籠っていて、こうした様々な国の参加者で構成されたイベントでの存在感が薄い(というよりまったく無い)のは、大丈夫かなと少しばかり心配になります。母語が同じ人間のみで構成されたコミュニティの中で情報交換していても、異質な情報はなかなか入手できないだろうし。

ミャンマー人の参加者は、お洒落で裕福そうな若いミャンマー人が多かったです。やはり、100USDの参加費が払える層なので、納得です。ミャンマーでは、大卒の初任給の約半額ですから。




会場入口に置かれた登壇者の紹介ボード

参加者が約650人と聞いて、この日の物販の売上げには期待していたのですが、思ったほどではありませんでした。20枚くらい売る気で臨んだのですが、実際に売れたのは下の4枚です(笑)。




 昨日のイベントで売れた四点。すべて一点物なので、気に入った物があれば、お早めの購入をお勧めします。
他の商品はすべて、今朝Princess Tailoring Shopへ戻して展示販売しています。

いつもイベントで顔を合わせる、近所のKさんも参加していて、彼女とボーイフレンドは、TEDxのチケットをちゃんと買って、物販業務の傍らイベントにも参加していました。
朝8時から夜8時までの長丁場だったので、昼は食べたものの、夕刻を過ぎるとだんだんお腹が空いてきた時、参加者が懇親会場のビュッフェで食べてるのを横目で眺めていたら、Kさんのボーイフレンドが、参加者用のIDカード貸してくれて(別に頼んでない)、「ほら、カード貸すから食べてきなよ」と言われました。
そんなに俺はひもじそうにしてたのかなと、かなり気になりました。まあ、お言葉に甘えて(ry



今回のTEDxYangon会場のYangon Collectiveの物販テーブルでは、意外な物が売れ行き好調でした。家具や調度品などの大型の商品が売り切れになっていました。普段のイベントでは、この種の大型の商品は敬遠されがちなのですが、今回はいつも客層が違ったためか、売れる物の種類が違いました。やはり、参加してみないと分からないものです。


出来るだけいろんなイベントに参加してみて、購買される現場に実際に身を置いて、購買動向や傾向をリアルに体験する必要性を、今回も改めて感じました。

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2017年5月19日金曜日

『VOGUE』の「タイをスキップしてミャンマーに行く8つの理由」についての反論

モード雑誌の頂点に立つ『VOGUE』に、「タイをスキップしてミャンマーに行く8つの理由」という記事が掲載されました。
あの『VOGUE』に、お勧めの旅行先として紹介されるとは、ミャンマーもメジャーな国になったものです。
記事を読んでみたら、まだ、あまり知られておらず、行った人も少ない場所へ、先物買い的に行ったらトレンドを先取りできるかも的な雰囲気を感じました。
まあ、ファッション雑誌だから仕方ないし、細かい瑕疵を言い立てるのも大人げないと思い読み流したのですが、ミャンマー在住外国人の中には許せない人もいたようで、掲載の数日後の昨日に、ガッツリ反論した記事がWebに上がってました(笑)。

ネタとして笑えるので、こちらの反論記事を和訳して、掲載します。

論旨がわかりやすいように、この反論の元となる「タイをスキップしてミャンマーに行く8つの理由(8 Reasons to Skip Thailand and Head to Myanmar Instead)」の概要を以下に記します。

1. 素晴らしい料理
タイ料理ほど有名ではないけれど、ミャンマー料理も素晴らしい。ヘルシー、美味、新鮮、地域で育った家畜、獲れたての魚。ミャンマー料理は、産地から直接人々の元へ届いている。そこに住む人々は、地域に根ざした食生活を送っていて、食材を無駄にしたりしない。

2. あまり観光化されていない歴史的な遺跡
バガンには歴史的な価値のあるパゴダがたくさん。

3. 観光客が少ない
タイは年間3000万人以上の観光客が来る。ミャンマーは500万人以下。あまり英語を話す他の旅行者を見かけない。

4. スリル満点の冒険
山登りとかカヤックとかトレッキングとかを、まだ観光客が少ない場所で楽しめる。

5. 安い
バンコクの3つ星ホテルは110ドル、同等のホテルがヤンゴンでは60~70ドル。

6. 川と村
イラワジ川などでクルージングやボートを利用すれば、川沿いの風景や人々の生活を見ることができる。河イルカも見れるかも。

7. 人がフレンドリー
観光化された地域と違い、打算抜きの笑顔、ホスピタリティ、優しさ、思いやりに出会える。

8. 素晴らしい風景
ヒマラヤ山脈、黄金のパゴダ、インレー湖など雄大な景観に満ちている。

次に、本編として、上記の『VOGUE』の掲載記事に対するミャンマー在住外国人の反論の全訳を以下に記します。

ヴォーグのミャンマー旅行のアドバイスがゴミで差別的である6つの理由(6 reasons Vogue’s advice on Myanmar is dumb and racist)」By Jacob Goldberg

なんかヴォーグのクレアと名付けられた女が、「タイをスキップしてミャンマーに行く8つの理由」という記事を先週あげていた。これがお気楽なレイシズムと、いい加減な記述に満ちていて、昔の帝国主義的社会の悪弊と、連中が途上国をどんな風に見てるかの見本になっている。

僕らも、君たちがミャンマーに来るべきなのは同意する。いいところだよ。だけど、できるなら、タイも同時に行くべきだよね。誰が一つしか行っちゃいけないって決めたの? でも、君が事実に基づいていて、差別主義的でない、ミャンマーを楽しむためのアドバイスが欲しいのなら、クレア以外の誰かに聞いた方がいいと思うよ。

以下に理由を書くね。

1. 無神経な植民地主義
クレアは、ミャンマーを「未発見」で「秘密」で「未踏」で「手付かず」、と表現している。
実際は、ミャンマーの存在は、ここに住んでる人たちや、地図を見たことがある人にとって秘密なんかじゃない。でも、クレアは、ミャンマーの存在を他の人たちへ紹介した栄誉にあずかろうとしている。

これはコロンブス化(植民地主義)のテキスト ー 元々あるものを発見することについて述べている。この行為は多くの場合、君の属するコミュニティの立場から、君の「発見」を伝えるという形をとる。

ミャンマーを発見したという言い方が吐き気をもよおすのは、クレアがヨーロッパ語圏の人たちの興味を惹くかもと考えるまで、ミャンマーも、そこに住む人々も、その文化も、どうでもいいってことになるからだ。

おめでとう、クレア。僕らは君に続いて、未発見の大陸に名前を付けているよ。

2. 差別以上に無自覚
クレアは、ミャンマー料理の魅力を、読者にこんな美辞麗句で伝えようとしている。「ローカルの人びとは大地に根差した生活を送っていて、手に入るものすべてを料理に使うようにしている。決して食材を無駄にしたりしない。シャンヌードルは試してみるべき」。

この文章は、ミャンマー国民全員について当て嵌まるものじゃない。都市と地方では環境が違うし、食事に要する手順も楽しみ方もたくさんある。だけど、ミャンマーには医者も教師も住んでいて、ビニール袋を使ったり、KFCが大好きだったりすることを書くのは、エキゾチックじゃないのだろう。

彼女のミャンマーの人びとを誤った一般化によって褒めそやすやり方は、いくつかの文献で使われている「高貴なる野蛮人」の考え方と一致している。自分たちの文化圏外にいる人びとを、文明によって「堕落していない」と決めつけるやり方だ。たしかに耳障りはいい、でも危険だ。

19世紀には、このアイディアは、ヨーロッパの帝国主義を「科学的に」正当化するために使われた。
クレアが、こんなやり方でヴォーグの読者にミャンマーに行くことを勧めているのは、単なる悪意よりもタチが悪いように見える。

3. ものすごくいい加減で不正確
クレアはバガンの寺院群を「比較的手付かずの歴史的遺跡」と紹介している。うーん、クレア。バガンはすごく手を入れられていて、1996年にユネスコの世界遺産登録を却下されたんだけど。

エレファント・パンツから頭を出して、将軍たちが、数十年間にわたって、人権侵害の他にも、考古学的な根拠のない修復に携わってきた ー 今になって少しづつ改善されてきている ー ことも学んだほうがいいんじゃない。

それに、シェダゴンパゴダが「2500年の歴史」があるというのは、ブッダの八本の遺髪が光を放ち、地震を引き起こし、盲人を回復させたという、建立に関する神話上のお話だよ。現実的には、歴史学者は最初期のパゴダが6世紀から10世紀の間に建てられたと言っている。見ての通り、パゴダは今も建て増しが行われているわけだし。

そして、クレアはインレー湖をミャンマーで一番大きな湖と言っている。勘弁してくれよ、クレア。

4. 記述の不一致
クレアは「もっと発見されてないのは(ムカつく)、Hp-Pan and Hpa-Anを含むミャンマーの南地方」と書いている。
ワウ、クレア。本当に二つともあるなら、行ってみたいよ。

5. 金額的な誤り
クレアは、ヤンゴンはバンコクよりも安くつくと考えている。ここへ着くまでを安くすることは、考えなくてもいい。ヴォーグの読者は、ヤンゴンに来る時は、バンコクか他のハブとなる場所へいったん立ち寄るはずだから(訳注:アメリカ・ヨーロッパからヤンゴンへの直行便はない)。

それは置いておいて、ミャンマーへ来た人たちの根強い世評は、思ったより高くつくというものだ。

でもクレアはホテル代について、「バンコクの三ツ星ホテルは、だいたい110ドル以上かかるけど、ヤンゴンの同レベルのホテルは60~70ドル」とホテルについて書いている。

オーケー、たぶんバンコクのいくつかの三ツ星ホテルより安い三ツ星ホテルがヤンゴンにあるんだろう。でも、アゴダでちょっと検索してみると、バンコクで一番安い三ツ星ホテルは、ヤンゴンのそれの半額だった。

また、僕たちは、生活コスト比較サイトを探して、見てみたらバンコクで暮らすのは、ヤンゴンよりも19%安くついていた。

6. 見逃されている点
タウンジーの熱気球祭りを推薦してくれて、ありがとう、クレア。あれは、ミャンマーで一番クールなイベントの一つだもの。でも、どうして「澄んだ夜空の中を熱気球が象り、浮かんだ姿を連ねる」なんて書かなきゃいけなかったの?

クレア!本当に行ったことがあるの? 祭りのクライマックスは、気球から放たれた花火が文字通り夜空を汚すところなんだけど。

いや、君は花火については書きたくなかったのかもしれない。ましてや、それで死人が出たことなんて。
だって、君はミャンマーが本当はどんなところなんて興味がないんだから。君はただ、ミャンマーが発展してなくて、観光化されてないタイって読者に思わせたいだけだから。

でも、ミャンマーは、それだけの場所じゃないんだよ、クレア。

(男目線で偉そうでゴメン)

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2017年5月11日木曜日

ミャンマーのテーラワーダをもっと知ってもらうためにマンガの原作を考えた

前回の投稿を書くために、手持ちのテーラワーダの入門書・解説書を何冊か再読してたら、脳内が仏教情報でパンパンになって、しばらく他のことが考えられなくなりました。
以前も書きましたが、大乗仏教の経典は二次製作で、あらまほしきゴータマ・ブッダ像を宗派の教義に沿うように、あるいは作者の好みで、ブッダ入滅後に同人誌的に創作されたものです。
こう脳内に仏教情報が溢れていると、大乗仏教の経典みたいに自分もスピンアウト的にミャンマーの仏教関連のコンテンツを製作してみたくなります。とはいっても、入門書・解説書の読みかじり程度の知識しかなく、瞑想寺院での修行経験もない私に、本格的な仏教関連本などは書けるわけがないので、何か別の切り口を考えてみました。

最近ネットでスクール・カーストを扱った記事を読んだ時に、スクール・カースト最下層にいた男子のトラウマを慰撫すれば売上げが見込めるので、アキバ系二次元コンテンツは、そのような方向性で製作されているといった内容のことが語られてました。
だったら、アキバ系二次元コンテンツの学園物のフォーマットを借りつつ、ミャンマー仏教の世界観を提示するマンガがあれば面白いかも、とストーリーを考えてみました。
主人公は、成績もスポーツもぱっとせず、容姿も凡庸なため、スクール・カースト最下層に属する男子高校生です。彼がミャンマー仏教と出会い、モテやリア充に対するコンプレックスを超克していくというビルディングスロマンが、基本的なストーリー展開です。
ただし、「瞑想したらモテるようになるのではなく、瞑想をしたらモテなくても気にならなくなる」というテーラワーダの基本線は外せないので、アキバ系二次元コンテンツのように、巨乳美少女に囲まれるハーレム状態が到来するといった卑俗レベルでの問題解決のカタルシスは得られません。その代わりに、仏教の非人間性や反自然性のような、(少なくとも日本人には)あまり知られていない、初期経典の教えに忠実なミャンマーのテーラワーダのアナーキーな魅力が伝わる内容を目指します。

<主な登場人物>
面井紋次郎(おもいもんじろう):
学校の成績は中の下、スポーツは苦手、容姿は中の中の平凡な男子高校生。これといった長所や強みがないので、スクール・カーストは、最下層に属する。帰宅部。趣味は、二次元コンテンツの鑑賞。好きな音楽は、アニソン、ヘビメタ、ベビメタ。友人は少なく、基本的にぼっち。
学校一の美少女 姫島マヤにほのかな思いを抱いているが、カースト最下層の自分が相手にされないのは自覚しているので、とくに何の行動も起こしていない。

世渡充太郎(せとじゅうたろう):
紋次郎のクラスメイト。学校の成績は常に学内10位以内、イケメン、バスケットボール部ではシューティングガードとして活躍。典型的なリア充で、スクール・カーストの頂点に君臨している。趣味は、サーフィンを中心にアウトドア全般。好きな音楽は、ケンドリック・ラマーとかアンダーソン・パックとかのヒップホップ及びヒップホップぽいR&B。リア充の友人達との付き合いは忙しいが、カーストの異なる紋次郎とは、まったく接点がない。

姫島マヤ(ひめしままや):
学校一の美少女で、充太郎のガールフレンド。演劇部所属。父親は、地域を代表する老舗企業の経営者。充太郎との関係は、お互いの両親公認。趣味は、スウィーツ巡り。好きなブランドは、ケイト・スペード。仏教とか哲学とか、そういうのまったく興味なし。

ウ・コミンダ師(仮称):
ミャンマーの瞑想寺院の指導者。講演や瞑想指導等で海外へ出張することも多い。
日本からやって来た二人の修行僧、紋次郎と充太郎を暖かく見守っている。

<タイトル>
『サーマネーラ紋次郎』
サーマネーラは、修行僧の一番最初の段階です。シリーズ化したら島耕作みたいに、グレードが上がるごとにタイトルが変わります(笑)。
最初は、『魔太郎がくる』のオマージュとして、『紋次郎がいく』というのを考えましたが、魔太郎をググって見直したら記憶していた以上に内容が禍々しかったので(そこが面白いんですけど)、『サーマネーラ紋次郎』にしました。


<あらすじ>
帰宅部の紋次郎は、下校時に立ち寄った本屋でいつも通り二次元コンテンツの新作チェックをした後、文庫本コーナーを通った時に見かけたある本が、なぜか心に深く突き刺さる。「ニートになれ。世界を終わらせろ。」と帯に書いた文庫本『講義ライブ だから仏教は面白い! (講談社+α文庫)』に、「もしかして、今の自分に必要なことが、この本に書かれているかもしれない」と直感し、その本をレジに持っていく。
一方、充太郎は、お気に入りのヒップホップ・グループのリーダー伊田丸のポッドキャストを聞いていた。サブカルにも明るい伊田丸が「夏の課題図書」として『仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か』をあげていたのを聞いて、「ふーん、なんか面白そうじゃん」とAmazonでポチる。
同じ学校の同じクラスにいながら、まったく接点のなかった二人に機縁が生じた瞬間だった…

たまたま、ネットでスクール・カースト関連記事を読んだので、物語の背景にスクール・カーストを入れることになりましたが、考えてみればブッダの作った仏教はカーストを否定、無化する教えだったので、仏教とカーストの関係が教義と物語内の展開において相似をなすこととなり、物語に重層性・多層性を生み出す効果を与える効果が期待できます。

作品化に際しては、監修者として魚川祐司氏をお迎えしたいです(引き受けていただけるかどうかは分かりませんが)。
印税の分配は、監修者の魚川氏、作画者、原作者の私で三分の一づつとします。

これウチで出版してみたい、という大手出版社の編集者のご連絡お待ちしております。

 

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2017年5月5日金曜日

ミャンマーとタイの違いを仏教から考えた

<追記>
再読し、気になった箇所を仏教の解説書及び入門書で確認したところ、誤解を招きそうな表現、あるいは明らかな事実誤認がありましたので、一部削除・修正・加筆しました。(2017年5月9日)

ミャンマーと隣国のタイでは、ずいぶんと経済規模や訪れる観光客数なので、差がついています。
これまで、概ね政治や統治システムに原因が求められることが多かったのですが、今やタイが軍政でミャンマーが民主制なので、実のところそれほど関係ないのかもしれません。
最近読んだ、プラユキ・ナラテポー氏、魚川祐司氏の対談集『悟らなくたって、いいじゃないか 普通の人のための仏教・瞑想入門 (幻冬舎新書)』では、ミャンマーとタイの仏教が同じテーラワーダ(上座部仏教)でもずいぶん教義と実践において、違いがあることが両者によって語られています。
経済や文化などの表層に見えるミャンマーとタイの差異は、政治などの社会システムよりも、人々の思考の深層に属する仏教観の違いから生じているのではないかとも思えてきます。
仮説として、なかなか面白いと感じたので、今回の投稿のテーマにします。

仏教の基本概念のおさらい〜智慧と慈悲

まずは、仏教の基本的な概念について確認します。ご存知の方も多いでしょうけど、前提を共有しておかないと、後の議論が成り立たないので。
まず、智慧について。
瞑想などの修行により解脱し、涅槃の境地に達した修行者は、衆生の謂うところの現実、つまり縁起の法則(原因によって生じた結果の世界、因果律に支配された世界)から脱して、欲望による条件づけ(物語)が解除され、現象が継起する相を中立的に如実知見するベクトル(物語)のない世界 ー そこでは言葉は音に過ぎないし、美しい異性は単に目に入る色の組み合わせに過ぎない ー の境地に入ります。この修行によって得られた知見が、智慧と呼ばれます。
次に、慈悲について。
修行によって智慧を得た覚者(解脱者)が、衆生との関わり中で果たす利他行の実践が慈悲です。
物語の世界から超越した覚者が、敢えて遊戯三昧の境地で、物語の世界に生きる衆生の世界で実践する利他行が慈悲行です。

梵天勧請という、ゴータマ・ブッダが解脱した直後の葛藤を示す有名なエピソードがあります。
智慧と慈悲という仏教の基本概念を分かりやすく示すエピソードなので、仏教入門書でもよく紹介されています。

菩提樹の下で瞑想中に解脱し、涅槃に至った直後にゴータマ・ブッダはこう考えました。
「私の証得したこの法は、深甚として見難く、難解、寂静、妙勝であり、推論の領域を超えた微妙なもので、智者にのみ知り得るものだ。しかるに、世の人々は、欲望の対象を楽しみ、欲望の対象にふけり、欲望の対象を喜んでいる。そのように欲望の対象を楽しみ、欲望の対象にふけり、欲望の対象を喜んでいる人々にとっては、相依性・縁起というこの道理は見難い。また、一切諸行の寂止、一切の依りどころの捨離、渇愛の壊滅、離貪、滅、涅槃というこの道理も見難いのである。もし、私が法を説いたとしても、他人が理解しないならば、私は疲れて悩むだけである」(P30、魚川祐司著『仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か』)
瞑想によって自分が得た智慧は、常人には理解し難いので、最初は自分の中に留めておこうと考えたわけですね。
その時、梵天(バラモンの神様ブラフマン)が、ゴータマ・ブッダの前に現れます。「梵天は、世の中には煩悩の汚れの生まれつき少ない衆生も存在するし、彼らは法を説けば理解するだろうと言ってゴータマ・ブッダへの説得を試み」ました。(P168、魚川祐司著『仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か』)
説得を受けたゴータマ・ブッダは、「衆生へのあわれみの心」を持って、仏の目を通して世界と衆生を観察した後に、説法を決意します。
後世の定義で言い換えれば、慈悲行の実践を決意したわけです。ここでのポイントは、梵天は、「世の中には煩悩の汚れの生まれつき少ない衆生も存在する」、すなわち分かる人には分かるからと言って、智慧を広めることをゴータマ・ブッダに勧めていることです。ゴータマ・ブッダも「仏の目をもって世界と衆生を観察した後に」、つまり実現可能性を検証した上で、決意しています。つまり大乗仏教のような一切衆生の救済は、初期経典には含まれていません。
こうして、ゴータマ・ブッダが菩提樹の下から立ち上がり、説法に向かった時に、仏教の歴史ははじまりました。

ミャンマーのハードコア・テーラワーダとタイのソフト・テーラワーダ

以前の投稿で、ミャンマーのテーラワーダ(上座部仏教)と日本の大乗仏教の違いを書いたことがありますが、実は同じテーラワーダでもミャンマーのそれとタイのそれとでは、かなり異なるようです。
「ミャンマーの瞑想寺院では、修行僧にいわゆる作務をやらせることをほとんどしない。『余計なことはせずに、ただ瞑想だけに集中せよ』というわけで、これは真剣に取り組んでいるところほどそうである。他方、タイでは瞑想者にも、掃除や居住小屋(クティ)の修理といった作務を、積極的にやらせる寺院が多い。これは涅槃や瞑想というものを、通常の暮らしも含めた生の全体性の中において実践・実現されるものとして、捉えていることの表れであると思われる」(P201、魚川祐司著『仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か』)

悟らなくたって、いいじゃないか 普通の人のための仏教・瞑想入門 (幻冬舎新書)』では、現在アメリカを中心として流行している「マインドフルネス」運動をつくった一人であるジャック・コーンフィールド氏による、タイとミャンマーの両国の寺院で修行した体験記 "This Fantastic, Unfolding Experiment"(ネット上でPDFが無料ダウンロードできます)が、魚川氏によって「両国のテーラワーダを見てきた上での実感と、全く同じ」ものだったとして紹介されています。
「コーンフィールドさんは、(註:タイの)チャー氏の寺と(註:ミャンマーの)マハーシ・センターとでは『図と地が反転した』という表現をしています。チャー氏の寺では瞑想するのは一日に二時間から四時間程度で、それ以外の時間はコミュニティにおける生活の中で苦を手放す法の実践に充てられた。ところがマハーシ・センターに行くと、一日に十時間から十八時間も瞑想して、コミュニティおける実践のようなものは皆無だった。つまり、生活における実践が主で瞑想がそれに奉仕するのか、瞑想が主で生活がそれに奉仕するのか、という『図と地』の関係が、全く反転していたというわかです」。


同じテーラワーダでもずいぶん違うものです。本書では、瞑想センターは地域・宗派・指導者によって、修行方法も、瞑想によって達する目的地も違うので、事前によく吟味して、個々人に合った瞑想センターを選ぶことの大切さが説かれています。実際にチャー氏とマハーシ氏は共に深く悟った高僧とされていますが、「悟りの内容やそれを得る方法に関して全く意見が相容れなかった」そうです。

便宜上、以降ミャンマーのテーラワーダをハードコア・テーラワーダ、タイのテーラワーダをソフト・テーラワーダと呼びます(そんな呼称は、実際にはありませんが)。
コンピュータに喩えると、スクリーンに映る画像が形作る物語を幻想として、瞑想によってレイヤーを下げて解体して行くとき、ソフト・テーラワーダでは8ビット・16ビットの文字が認識できるレベルで踏み止まりますが、ハードコア・テーラワーダでは電荷負荷マイナス・プラスが01として電気信号として明滅する、完全に意味性を解体し、無化する状態まで突き進みます。

ハードコア・テーラワーダでは、物語性を瞑想により解体し尽くしてしまうため、一定以上の段階まで進むと衆生が暮らす日常の中で暮らすことは難しくなることも実際に起こり得るようです。

たとえば、修行を重ねて解脱した人が、瞑想センターから会社に戻ってサラリーマンを再開した際(あり得るかどうかはともかく)、上司から「君もっと頑張ってくれないと四半期目標が達成できないよ」と言われて、「ああ、この人は縁起が形成する物語に囚われた凡夫なんだ。可哀想に」と慈悲の心で接しても、世俗的なレイヤーでの解決には繋がりません(たぶん)。下手したらクビになるかもしれません。

しかし、ハードコア・テーラワーダの価値観では、それでいいのだと定義されています。
「例えば、長者の子であったヤサという阿羅漢がおりますが、ゴータマ・ブッダは、彼についてヤサの心は煩悩から解脱してしまってるから、『かつての在家であった時のように、卑俗に戻って諸欲を享受することはできない』と言っています。つまりゴータマ・ブッダの教えに本当に本当に忠実に従って、煩悩を滅尽した修行完成者である阿羅漢になったのなら、もう世俗での生活は不可能になるし、またそれでよいのだ」という認識です。「瞑想実践者が在家者であった場合でも、仮にその人が阿羅漢になった場合には、彼/彼女のその後の選択肢は死ぬか出家する以外にない、というのはテーラーワーダの一般的な教理でもあります」。(『悟らなくたって、いいじゃないか 普通の人のための仏教・瞑想入門 (幻冬舎新書)』)

ただし、本当にそれでいいのかどうかは、属する文化圏や環境により受容度が相当に異なるでしょう。コーンフィールド氏らによるアメリカの瞑想センターでは、テーラワーダのウィパッサナー瞑想を導入したものの、「人生否定(life-negating)、来世思考(other-wordly)および二元論的(dualistic)な要素を持つ 東南アジアのテーラワーダと関係を持つことが大変難しいと考え」、テーラワーダ教団との直接の関係は断っている模様です。また、彼が主催者である瞑想センターでは、「ウィパッサナー瞑想の集中的なリトリートのみならず、チャー師の寺で経験したコミュニティにおける実践や、禅やチベット仏教、ヨーガや西洋式の心理療法に至るまで、様々な伝統や文化を引き継いだ実践を『マンダラ』的に提供して、そこから瞑想者たちがそれぞれに学べる形を」取っています。
ハードコア・テーラワーダに属するミャンマーのゴエンカ師は、この「瞑想のウィンドウ・ショッピング」とも呼べるコンセプトを「悪魔の所業」と呼びました。

では、なぜミャンマーでは、「選択肢は死ぬか出家する以外にない」解脱を目指すことが受容あるいは推薦されているのでしょう?
私も長年ミャンマー人が、5年先の将来についてはまったく考えないのに、来世については非常に熱心に考えている理由が分かりませんでしたが、本書を読んでその疑問が氷塊しました。

「ミャンマーなどの上座部仏教おいて<中略>、輪廻転生は『ネタ』でも『物語』でもない、端的な『事実』」(『悟らなくたって、いいじゃないか 普通の人のための仏教・瞑想入門 (幻冬舎新書)』)であるため、人生に対する時間軸の長さの概念が、日本やアメリカとはまったく異なります。
「『この一生』だけを視野に入れて考えた場合、渇愛を滅尽することは、実践者にとってあまり魅力のある目標」になりませんが、「死んで『この一生』が終わっても、苦なる輪廻転生のプロセスは続いていくと思うからこそ、今生で何とか渇愛を滅尽しようと」するモチベーションが生まれてきます。
「『この一生』だけの幸福を問題とするのであれば、長者の子ヤサのように『かつての在家であった時のように、卑俗に戻って諸欲を享受することはできない』状態になることは、ほとんどの人にとって魅力的に感じられない選択になるでしょう。
美しい異性に心惹かれたり、美味しい食事を楽しんだり、ファンキーな音楽に身も心も委ねたり、生活のためにあくせく働いたり、そんな経験は過去生で散々やってきたのでもう結構、それより今生で解脱して物語の世界の外側に出ておかないと、また生まれ変わって、縁起の法則が引き起こす煩悩に引き回されながら再生・再死を無限に繰り返すループに陥ってしまうという危機感に貫かれて、修行、瞑想に励むわけですね。解脱してしまえば、もう輪廻転生はしませんから、苦や煩悩(終わりのない不満足)に苛まれる無限ループから脱出できます。
文化圏が違うとなかなか理解し難いですが、ミャンマー人の考え方を理解するのに、知っておくべき概念です。

瞑想をしたからと言って、人格は向上しない〜仏教のヤバさ

魚川氏は複数の著書のなかで、「瞑想をしたからと言って、人格は向上しない」と指摘しています。

つまり瞑想の目的が、世俗の価値観の超越であるため(出世間)、世俗の世界で言う「いい人」ではあり得なくなる可能性もあります。善悪という世俗の価値観を超えてしまうため、悪人にもならない代わりに、必ずしも善人にもならない。善悪というのも、縁起の法則によって形成された物語による価値判断に過ぎないからです。「人間やめますか?、仏教やりますか?」みたいなコピーができそうです。
ミャンマーのハードコア・テーラワーダの瞑想センターで修行を続けている魚川氏の実感によると、「解脱した人は空気を読まない」傾向にあります。「空気を読む(=普通の人々が生きている『現実』の物語に囚われる)ことをしなくなれば、それは相変わらず世間の物語に囚われている人々からすれば、違和感のある振る舞いに見えることがあり得る」わけですね。

ゴータマ・ブッタの人となりを仏教入門書に紹介される経典などから想像すると、世俗的な「いい人」のカテゴリーに押し込んでしまうことは、やはり相当無理があります。
当時のインドは、同時代の中国と同じく百家争鳴だったので、道場破り的にゴータマ・ブッダに思想対決を挑んでくる行者も後を絶ちませんでした。いくつかのケースでは、ゴータマ・ブッダは手ひどく相手をやり込めています。これはいわばプロ同士の対決なので当然かもしれませんが、素人のお嬢さんにもひどいことを言ったことが、経典『スッタニバータ』に記録されています。以下に引用します。

「第四章の『マーガンディヤ』である。この経はゴータマ・ブッダの「この糞尿に満ちた(女が)何だというのだ。私はそれに足でも触れたくない」という過激な言葉を含む偈ではじまる。経の本文には文脈が記されていないので少し戸惑うが、註釈によれば、これはマーガンディヤというバラモンが美人の娘を連れてゴータマ・ブッダに婿になってくれるように頼んだ際に、彼がそう言って拒絶したということらしい」

「岩波文庫の註には出ていないが、註釈家(ブッダゴーサ)の説によれば、このことで彼女はずいぶんゴータマ・ブッダのことを恨んだようで、それが後に、けっこうなトラブルの火種になったとされている」
(P27、魚川祐司著『仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か』)

註釈書や入門書などの情報に想像も交えて話を繋げると、バラモンの(すなわち富裕な)マーガンディヤ家がゴーダマ・ブッダの近所に居住しており、「あのいつも近所で修行している青年は、凄いイケメンだし、育ちが良さそうだし、立ち振る舞いも大変立派だ(実際、王子だったわけですしね)。是非、ウチへ婿として迎えたい」とその家のお父さんが思い、評判の美人である娘(マーガンディヤの娘)を正装させて、自分と奥さんと娘の三人でゴータマ・ブッダの元を訪れた(もしかしたら、元王子という情報も知っていたかもしれません)。そこで、娘を見たゴータマ・ブッダが言ったのが前掲の「この糞尿に満ちた(女が)何だというのだ。私はそれに足でも触れたくない」という発言です。

註釈書を読んだら、どこまでが事実に基づくかは分かりませんが、マーガンディヤの娘は「男の子はみんな私が可愛いから付き合いたがるわ。なのにあなたは何でそんなに私を無下にするわけ?」みたいなことを言っています(言い回しはずいぶん難しいですが、基本的にそんな内容です)。完全な想像になりますが、バラモン(すなわち、カーストの最上位で、お金持ち)で、かつ求婚者数多のモテガールだったので、彼女は高慢な性格の女性だったのかもしれません。そんな女の子に向かって「糞袋」呼ばりするのは、たとえ解脱者であっても空気読まなさ過ぎ、と凡夫の私などは感じてしまいます。ゴーダマ・ブッダの提唱する智慧の非人間性や反直感性は、既存の認知のフレームワークを揺さぶるという点で魅力的ですし、解脱して如実知見すれば人間みんな「糞袋」(みんな大腸持ってるので)といいう認知に達するのかもしれませんが、この件に関しては、私はマーガンディヤの娘の味方です。終生彼女がゴータマ・ブッダを恨んで、ゴータマ・ブッダの活動を妨害した(とも言われています)のも分からないでもありません。

言うまでもありませんが、私は衆生の物語に生きる凡夫です。なので、女性間のトラブルが発生したときは、基本的に美人の方の味方をします(いちいち話を聞いて、内容を精査するのが面倒だから)。こんな美人の味方である私に、『マーガンディヤ』のような魅力的なオファーが来ないのは、人生は不公平だと言わざるを得ません。
まあ、スーパーイケメン王子で、紛れもない天才であったゴータマ・ブッダと一介の凡夫の私を引き比べても、まったく意味がないのは、私だって理解していますが。ぶつぶつ。

話を戻します。ハードコア・テーラワーダの瞑想・修行によって得られる解脱・涅槃の境地は、世俗の物語の世界を超越するものであるため、世俗の社会で生きていく上で要求される常識や規範から逸脱する可能性もあるということです。
ハードコア・テーラワーダの「解脱・涅槃を目的とする実践は、『役に立つ』とか『人格がよくなる』とか、そのような『物語の中で上手に機能すること』を求める文脈からは、むしろできるだけ距離をとっていくことを、その本旨とする」(P67、魚川祐司著『仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か』)ため、「長く修行して一定の境地に達した人でも、社会的な意味で『優れて』いて『役に立つ』人物であるかどうかというのは、結局のところ、その人の元々の性格や能力、そして『物語の世界で上手に機能する』ために意識的に行ってきた訓練の度合いに、依存することがほとんである」(P68、魚川祐司著『仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か』)
つまり、瞑想そのものには、「人格の向上」や「日常生活が上手くいく」等の効能は期待できません。
敢えて瞑想の効用をあげるなら、「瞑想すると上手くいくのではなくて、瞑想すると上手くいかなくても気にならなくなる」ということです。

プラユキ氏も魚川氏も個々人が自分の目的や資質に合った宗派や寺院を選ぶことの重要性を説いています。実際に、向いてない場所で修行を重ねたため、精神を患ってしまう人も少なくないようです。「世俗的ないい人」や「物語の世界で上手に機能する有能な人」を目指すなら、ハードコア・テーラワーダの瞑想寺院で修行することを避けた方が無難です。

ハードコア・テーラワーダは役に立つのか?〜実存が震えるとき

何だかゴリゴリ瞑想して、目指す目的地が日常を上手く過ごすのとは無縁の場所(涅槃)である、ハードコア・テーラワーダの旗色が悪くなってきたような気がします。
実際、『悟らなくたって、いいじゃないか 普通の人のための仏教・瞑想入門 (幻冬舎新書)』でも、基本的にハードコア・テーラワーダの立場に立つ魚川氏が「仏教について解説する際に、必ず『仏教はヤバい』という話からはじめるようにしている」ことについて、プラユキ氏が「知的な好奇心を持って人々には有効かもしれないが、自分の元にやって来るような、人間関係等の日常的な心の悩みを持つ人々には、その手法は無効かもしれない」(そこまで直裁には語ってませんが)という意味の発言をしています。

ハードコア・テーラワーダでは、瞑想により徹底的に物語の世界を解体することを目指すため、指導者が世俗のレイヤーである人間関係の悩み等をカウンセリング的に聞くということはありません。瞑想の段階で、過去のトラウマが見えたりするようですが、その内容ついても全く無関心で、仮に指導者に話しても「そんなことはどうでもいい。それより、その時の身体反応(センセーション)はどうだった?」と身体反応から瞑想がどの段階に進んでいるかのみに留意します。

これに対して、ソフト・テーラワーダでは(少なくともプラユキ氏は)、世俗的なレイヤーで問題解決を図ります。心理療法的に相手をカウンセリングして、また日常生活へ戻すことに主眼を置いています。『物語の中で上手に機能すること』を求める文脈からは、むしろできるだけ距離をとっていくこと」を、その本旨とするハードコア・テーラワーダとは、問題解決のアプローチが異なります。

そこで、上記のハードコア・テーラワーダを「知的関心を満たすだけのもの」とも解釈できる発言が出てきたわけですが、魚川氏は多くの言葉を割いてこの見解に反駁しています。本書では、互いに相手の見解に同意しながら、穏やかに対談が進んでいくのですが、この部分だけは、両者の仏教に関する見解の相違が明確に示されています。
長くなりますが、重要なポイントなので以下に引用します。

「『世の流れに逆らう』ゴータマ・ブッダの言説をごまかさずに語ることが、単に人々の『知的な興味関心』のみにしかアピールしない行為であるとは、私は考えておりません」

「ブッダの語ったことを、ごまかさずに伝えたならば、それは一部の人にとっては『知的な興味関心』どころではない、実存の最深部に突き刺さる。仏教の経説と言えば、単に耳に心地よく快適なことだけを『ありがたく』語るものだと思っていて、全く関心を持ってなかった人たちが、『これなら私の実存を何ほどか賭ける価値がある』と、本当に感じることがあるのです」

「人々が当然のことと考えている『現実』を所与の前提とせずに、それが解体された深層にあるものを『ヤバく』ても直接に提示する教説に対しては、実存が震える人たちもいるのです。というのも、彼らの苦しみの根源が、実際にそこにあるからです。この世には『そういう種類』の人々が存在するということも、ご理解いただければと思います」
(『悟らなくたって、いいじゃないか 普通の人のための仏教・瞑想入門 (幻冬舎新書)』)

もちろん、魚川氏ご本人も仏教の「ヤバさ」が実存の最深部に突き刺さった、「そういう種類」の人だからこそ、5年以上に渡りミャンマーの瞑想寺院で修行を続けているのでしょう。
ゴータマ・ブッダは、王子だったし、超絶イケメンだったし、お金にも女性にも不自由しなかった(王子時代は側室がいたと言われています)。世俗のレイヤーでは、悩みようがなかった彼が、「出家して『世の流れに逆らう』智慧を証得しブッダになった。そこまでしなければならなかったのは、彼の悩みや苦しみが、『現実』における処世術の操作で何とかなるようなものではなかったからです」。(『悟らなくたって、いいじゃないか 普通の人のための仏教・瞑想入門 (幻冬舎新書)』)
初期経典のゴータマ・ブッダの教えに忠実に従っているハードコア・テーラワーダの信仰の対象者が、「そういう種類」の人々であるのはある意味当然です。開祖のブッダは「世の中には煩悩の汚れの生まれつき少ない衆生も存在するし、彼らは法を説けば理解するだろう」という梵天の説得によって、智慧を衆生と共有する道を選んだのですから。

こうした、ある意味選民的とも言えるハードコア・テーラワーダを、90%近くの人間が信仰しているミャンマーは改めて不思議な国です。

ミャンマーにおける慈悲行についても言及します。
ゴリゴリ瞑想して、コミュニティおける実践がほとんどないと言われるハードコア・テーラワーダでは、どのように慈悲行が実現されているのでしょう?
これも長い間私が疑問に思っていたことなのですが、『悟らなくたって、いいじゃないか 普通の人のための仏教・瞑想入門 (幻冬舎新書)』に解答があったので、ご紹介します。

魚川氏が師事するウ・ジョーティカ師が在家時代に自分の師匠に対して「私は僧侶になるよりもむしろ隠者になりたい」と言ったことがあるそうです。テーラワーダの正式な僧侶はお金に触れない等律の縛りが厳しく、在家信者に依存しなければ生活できません。それよりも、律に縛られずに、自立して生きる隠者の方が、生活に不具合が少ない上、他人の世話になっている負い目もありません。その時の師匠の答えが「もし僧侶たちが自分の食べ物を育てて、自分の食事を調理し、人々から離れたところに留まっていたら、誰が教えを伝えていくのかね?お前が人々と付き合おうとしないなら、誰が彼らを教えるかね?」でした。つまり、ハードコア・テーラワーダのような智慧の獲得に重点を置く宗派でも、慈悲行の実践が有効に機能するように、出家者と在家信者の相互依存システムが設計されています。改めて、精緻に作られたシステムだと感心します。

ここまで、ハードコア・テーラワーダ(ミャンマー)とソフト・テーラワーダ(タイ)を、教義や実践の違いにおいて比較してきました。
自分にあった瞑想寺院選びという観点では、実存的な問題に悩む人、現実を解体して認知の転換を図りたいという人は、ミャンマーを選べばいいし、もう少し穏当に世俗のレイヤーで悩みを解決したい、あるいは悩みの種類が「上司との付き合い方」のような物語内での現実である場合は、タイを選べば良いと思います。
実はこれは、観光にもビジネスにも敷衍できる両国の差異ではないかと思っています。
例えば、観光の場合、美味しいもの食べて、ショッピングを楽しみたいといった世俗のレイヤーの欲求があるなら、タイに行けばいいし、実存を揺るがすような体験がしてみたい人は、ミャンマーを選ぶべきでしょう。
ビジネスでは、従来のフレームワークの延長でビジネスをしたいならタイ、今までのビジネス慣行や常識がまったく通用しない異世界に身を投じたいならミャンマーになるしょう。
いずれにせよ、瞑想寺院選び同様に、自分の目的に合った国選びも大切ですね。

   

おまけ

ゴータマ・ブッダは、超越者で天才であったことは確かですが、慈悲行の実践を選択した以上、終生世俗の世界との接点を保って生きることになりました。
教団運営の責任者でもあったので、弟子たちが引き起こす、面倒な世俗的な問題に対処する必要もあったようです。
お経というのは、ゴータマ・ブッダと弟子の問答の中から、ためになる話、人間の認知の転換を図るような話を抜粋して構成されたものと理解していますが、問答の中には、ためにならない残念な話も含まれているようです。修行僧は若い男性が大多数だったため、彼らが戒律で禁じられているオナニーとかセックスとか恋愛とかの問題を教団内で起こしてしまうこともあったようで、教団の責任者としてブッダも「破門」とか「うーん、今回セーフ」とか、いちいちジャッジしないといけませんでした。
仏教が好き! (朝日文庫)』という河合隼雄氏と中沢新一氏対談本に、そういう残念なタイプの問答が、バーリー語から日本語へ翻訳されて掲載されています。興味のある方は読んでみてはいかがでしょう。笑えます。
超越者のブッダですら世俗の些事の問題と向き合わなければならなかった、という事実は何だか親しみを感じます。それでも、面倒だからといって投げ出したりせずに、梵天勧請での決意を変えずに死ぬまで慈悲行を貫いたため、2500年後に生きる我々がブッダの教えについて思いを巡らすことが可能となりました。改めて言うまでもありませんが、本当に偉大な覚者です。

 
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2017年5月1日月曜日

ミャンマーの未来を考えた~その日暮らしの哲学と経済

問:以下の記述は、どの国の経済システム及び仕事観について書かれたものか?
1980年代にゴラン・ハイデンは、植民地期から社会主義期に至る農村変容を明らかにする中で、最低限の生存維持を最優先した小農型の生産様式と、血縁や地縁などを基盤とする互酬的な交換に着目し、再分配を通じた相互補助システムを『情の経済』と名づけた」。
ふだんは『何とかなるはずだ』という信念にみずからの生存を掛け、過度に自然や社会関係を改変せず、未来に思い悩まず『自然』のリズムでまったり暮らしながらも、いざというときは、呪術や超自然的な事象も駆使して切り抜ける」。
ミャンマー在住者なら迷わず「ミャンマー」と答えそうですが、答えは「タンザニア」です。
上記は『「その日暮らし」の人類学~もう一つの資本主義経済~ (光文社新書)』からの引用です。著書はタンザニアを中心とした東アフリカの零細事業者をフィールドワークしている文化人類学者で、自らタンザニアで路上販売したり、タンザニア商人の中国への商品の買付けに同行したりしている経歴の持ち主です。
本書で記述されているタンザニアの経済システムや人びとの仕事観が、ミャンマーと酷似しているので今回の投稿で紹介します。本書に書かれているタンザニア(及び取引先の中国)での仕事の進め方などは、凡百のミャンマー指南書より参考になります。両国ともイギリスの植民地であった歴史や、熱帯・亜熱帯の気候、人口規模(タンザニアの人口は約4千600万人)などもミャンマーと共通した部分があります。


Living for Today〜その日暮らしの哲学と経済

著書は、タンザニア人の生き方・仕事観を "Living for Today" というキーワードに集約させています。本書の主旨に従って、日本語に訳すと「その日暮しの哲学と経済」とでもなるでしょうか。

著者が調査しているのは、タンザニアでインフォーマル経済の活動に従事している人びとです。インフォーマル経済は「一般的には「政府の雇用統計に載らない、零細な自営業や日雇い労働を意味して」いますが、途上国を中心に「この『見えない』経済圏は、世界中で一六億人もの人びとに仕事の機会を提供し、その経済規模は一八兆ドルにも上る」ため、経済学的にも無視できない規模に達しています。
ミャンマーに来て間もない頃、制服を着てバスで通勤しているたくさんのワーカーを見た時に、オフィスや会社らしい会社もほとんどないのにどこに通っているのだろう、と不思議に思ったものですが、大部分がこうした零細自営業・企業で働く従業員です。

タンザニアで零細自営業・企業を営む都市住民にとって、「事業のアイデアとは、自己と自身が置かれた状況を目的的・継続的に改変して実現させるものというより、出来事・状況とが、その時点でのみずからの資質や物質的・人的な資源に基づく働きかけと偶然に合致することで現実化するもの」です。
具体例が紹介されていますが、最初に売る物を決めて事業を始めても、途中で知人・友人との出会いや、外部環境(その商品が過当競争に陥ったり、資金の確保が難しくなったりなど)によって、成り行きと偶発性によってコロコロと事業内容が変わっていきます。
読んでいて途中で気付きましたが、ミャンマーとタンザニアが似ているというより、「計画を立てても本人の努力ではどうにもならない状況に置かれている」アフリカや東南アジアの人びとに共通する事業に対する態度と仕事観です。

「このような状況では、計画的に資金を貯めたり、知識や技能を累積的に高めていく姿勢そのものが非合理、ときには危険ですらある」ため、その時々の状況や環境に応じて、良く言えば臨機応変に、悪く言えば無計画に、仕事や事業を変えていきます。

「こうした『仕事は仕事』(註:綿密な計画を立てず、知り合い・友人らのネットワークを利用して偶有的に、その時々の仕事や事業を決めていくこと。うまくいかない場合は、即撤退して、別の仕事や事業を探す)の姿勢は、技術や知識の累積化・熟達化に基づく社会/経済の発展観、あるいは目的合理的・計画的な選択に基づいた生産主義的な主体観と対立するために、『経済システム』としては否定的な評価がなされる傾向」にあります。
私もミャンマーの事業者の一貫性のなさ、専門性の低さを理念・哲学がないと感じ否定的だったのですが、本書を読んで、むしろ一貫性のなさ、専門性の低さ、無計画性、流動性の高さこそが、彼らの理念であり、哲学であることに気付かされました。
特に日本人は、この道何年的な職人的な価値観・熟達を称揚する傾向があるので、違和感を感じる人が多いでしょうが(私もその一人でした)、これはもうアフリカや東南アジアに共通する文化であり哲学あると認めるしかありません。

著者は "Living for Today" の哲学に基づく経済システムの特徴を実例を交えつつ記述していますが、ミャンマーでもまったく同様のことが行われているケースとして、「殺到する経済」と「対面交渉のみが有効」の二つの事例を紹介します。


殺到する経済

著者は、東一眞『中国の不思議な資本主義 (中公新書ラクレ)』の中国の小規模製造業についての記述を引用しながら、タンザニアの越境貿易を営む零細業者との類似性を指摘しています。
「『殺到する経済』とは、『儲かる』と思われる」業種にドッと大勢の人びと、会社が押し寄せて、すぐにその商品が生産過剰に陥り、価格が暴落して、参入した企業が共倒れになる経済のことを指す」。
ひとつの業種に多くの事業者が殺到する結果、「不確実性の高い混沌とした市場を再生産」することになります。
そして「専門分野で製品を高度化して後続者が太刀打ちできない高付加価値商品を製造する方向には向わずに、儲かると思われる別の分野を探して、転戦する傾向」にあります。


ただし、ミャンマーの事業者もタンザニアの事業者も、中国の事業者のように自ら製造する業態に進むことはなく、中国で製造された廉価な商品を自国で販売して利ざやを稼ぐ輸入・仕入れ・販売業に特化しています。
ここで言われる「儲かる」と思われる」業種にドッと大勢の人びと、会社が殺到して、すぐに過当競争に陥り、商品価格が暴落して、参入した企業が共倒れになる状態は、ある程度長くミャンマーに住んだ方ならずいぶんと目撃したと思います。
5、6年前の中古車自動車販売、2、3年前のコンドミニアム建設、そして現在のスマートフォン販売業、いずれも「儲かる」と思われた業種に多数の事業者が殺到して、たちまち過当競争に陥り、閉店や撤退が相次ぎました。
そして本書の指摘通りに、専門性を掘り下げる方向には進まずに、撤退したら別の「儲かる」と思われる業種に向かいます。
現在のミャンマーでは、専門性がなくても「儲かる」業種が見つからず、資金力のある事業者が「儲かる」事業を探して右往左往しています。
5年前の中古車ブームの時も、最近のスマートフォンブームの時も、輸入される商品をエンジニアリング的に解析して、自国で製造技術を培おうという起業家に現れていません。「殺到する経済」環境では、売れる物や利益の上がる商品が頻繁に変わるため、継続的にノウハウや技術を蓄積して、他社と差別化した競争力のある商品を開発するという時間のかかる経営手法は適していません。
また、国民気質的に中古自動車販売や不動産販売・仲介のように、短期間に利ざやを取って利益が上がるビジネスモデルが好まれるため、製造業のような初期投資から投資回収して、利益が上がりはじめるまで時間を要する事業は関心を持たれません。これはミャンマー一国に限らず、東南アジア(そして、おそらくアフリカ諸国)全体に見られる傾向ですが。
ミャンマーが、製造業の産業集積地になる可能性は極めて低いと私は予想しています。


対面交渉のみが有効

前掲書では、タンザニアの商人が中国まで行って、自国で販売する商品を買い付けを、著者がフィールドワークとして同行調査していますが、ここでレポートされる商慣習がミャンマーとまったく同様だと感じたので、以下に紹介します。

なぜ、彼らが現地に住むのアフリカ系仲介者に一任せず、わざわざ中国本土まで足を運ぶのかは、「この経済が『契約』ではなく対面交渉による『信頼』に基づいて動いていることに深く関係して」います。

「ここでは、国家の法や公的な文書は価値を持たず、香港や中国に商人本人が出向いてみずから対面交渉をし、そこで取引の子細と輸送までの手続きを確かめなければ騙されやすい。人びとは大企業の権威を無視(註:交易品は模造品やコピー商品であることが多い)して、具体的な人間との関係でしか動かない。面倒な交渉を通じて人間関係を築いてやり取りしない限り、安易に『カモ』にされる」。

何だかミャンマーのことを書いているとしか思えません。ミャンマーでも契約書はまったく重視されませんし、契約内容の履行にもまったく関心が持たれません(少なくとも、現地の中小企業では)。なので、契約書にお互いサインして一安心とか思っていると、後でとんでもない目に遭います。たとえサインしても、最初から契約書をまともに読んでおらず、原本を読みたいので、見せてくれるように頼んでも、保管した場所すら分からなくなっているケースも実際にありました。契約書に書いているからといって、履行されるということは期待せず(そもそも読んでないことが多い)、要求次項があれば対面で都度相手に通告する必要があります。
言い方にもテクニックがあり、強く詰問したりすると嫌われて以後連絡がつかなくなったりもします。

長くなりますが、具体例として前掲書に、地理学者アンジェロ・ミュラーとライナー・ヴェアハーンの調査事例が紹介されていたので、以下に紹介します。ミャンマーで仕事をする際にも非常に参考になる事例です。
(1) アフリカ系仲介業者Dはアフリカの顧客のために、ある中国の会社にテレビカメラを注文した。二度目の取引だった。
(2) 集荷時にDは、カメラのアクセサリーの欠品、カメラの一つは偽ラベルがついた前年度のモデルであることに気がつく。
(3) Dはこの時点では、何のアクションを起こさない。
(4) 中国の会社から担当者がデポジットを除く、残金を集金にやって来る。Dはアフリカの顧客と最終確認が必要だと述べる。携帯でアフリカの顧客と何度も連絡を取りながら、顧客からの質問を担当者に取り次いでいく。
(5) 上記の過程で、カメラの一つは「いまや」顧客の期待を満たさないこと、商品の交換が必要なことがDと担当者の間で明らかになっていく。
(6) Dは上記の流れで、アクセサリーの確認や品質確認を行う。
(7) Dと中国人担当者は、(4)~(6)の過程中、中国語で他愛のない話、冗談を言い合う。この中で、相手の詐欺行為や欠品について、指摘されることはない。
(8) Dは最終的に、顧客からの質問という体裁を取りながら、問題のあったカメラの交換と不足していたアクセサリーの補填を、追加費用を発生させずに成功させた。
「仲介者は単に商品の生産や出荷を監督すればいいだけではなく、彼らとうまく渡り合う交渉術を必要とする。その交渉術では、中国人の取引相手の『メンタリティを感じ取る feeling mentality』ことが肝心とされる。明らか詐欺行為が発覚したあとにも、仲介業者は取引相手を責めたてることはなく、取引相手の顔を立てつつ、交渉が有利に運ぶように働きかけ」ています。
現地の仲介業者の存在価値が、上記のような実践知にあることが伺えます。

著者は「取引相手の道徳性、あるいは相手が誠実たろうとする意志はあまり取引の帰結に関係がない。約束を守ろうとする人が信頼できる人ではなく、騙しを含む実践知によりそれぞれの局面をうまく切り抜け、結果としてそのときに約束を守れた人が信頼できる人なのだから。つまり、信頼は取引する前に存在する何かではなく、交渉の過程で互いに機微を捉え利害を調整し、お互いに『信頼』を勝ちとることができた結果として生まれるものなのだ」と結論付けています。

ミャンマーでのビジネスは、信頼できるパートナーを見つけることが大事だとよく言われます。しかし、ここではビジネスの成否は、相手の道徳性や誠実さよりも、騙しを含む実践知にかかっていると言われています。異論はあるかもしれませんが、覚えておいて損はない現実的な認識です。

ミャンマーでも中国本土のビジネスパーソンは遣り手として知られていますが、同じ中華系でもシンガポール人はかなり手痛い目に遭っています。シンガポールは、契約、文書、法律が機能している国なので、騙しを含む実践知を磨く機会が少ないためではないかと推測しています。これは日本人も同様ですが。


ミャンマーの未来を考えた

前掲書でアフリカ諸国の仕事観と事業に対する認識を「人びとは組織化しないのではなく、組織化を目的としない連携(註:先行者に学ぶ、先行者の模倣等)に意義を感じており、生計実践、商売の意義ではなく、みずからの生を、『剥き出しの生』を謳歌しているのである。彼らは、固定的な関係性を拒否し、自分たちの生の領域である自律的な経済領域が、大規模な企業に回収されてしまうのを、日々の実践を通じて自然に回避しているのである。Living for Todayは商人としての彼らの生のスタイルである」と述べています。

今の瞬間、刹那に自己を投企することで「剥き出しの生」の実感を得ることが、事業の計画性や将来性よりも大切であるという世界観です。ここまで行くと、実存とか、生の存立基盤といった、世界内存在としての人間の認識に関わる問題になってしまいます。もし、表層として現れている途上国と先進国の経済システム違いが、より深い実存に対する人間観の違いから生じているのなら、非効率だからシステムを改善しろなどという、先進国の議論がお門違いということになります。実際、ミャンマーに5年住んだ結果として、私自身ミャンマーに効率性や論理性を求めるのはお門違いではないかという実感を得ています。

ミャンマー在住の日本人が日本に帰国した時に感じる違和感は、多くの事象が予測可能性の元に管理されていて、「剥き出しの生」の実感が得られないからだと思います。時々、途上国ばかり行くタイプの旅行者がいますが、あの人たちは「剥き出しの生」の実感に触れるために旅行しているのだと思っています。

Living for Todayの精神が内面化された国では、都市計画や発電所建設や物流網の整備や上下水道の敷設などの計画性や将来設計が必要なプロジェクトは、ODA等の他国の資金と技術で実施しない限り実現することはないでしょう。私はミャンマーのインフラは、基本的にずっとこのままではないかと予想しています。

ミャンマーは、前掲書でレポートされたアフリカ諸国と同じく、プリコラージュの国民性を持つ国だと思っています。
プリコラージュとは、既存の物、ありあわせの物を組み合わせてやりくりする技術で、理論や設計図に基づくエンジニアリングとは対照的な概念です。レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)』で、狩猟採集生活を営み、持ち運べる物が限られているアマゾンの原住民が、見つけた時点で何の役に立つのか分からない木の枝を拾って、背負った籠の中に放り込む描写があります(たしか、あったような気がします。確認のため再読する気力がありません。かなり難渋な書物なので)。このように、論理に基づかない直感で、必要な物とそうでない物を見分ける野生の思考がプリコラージュです。


一方では、GoogleやAmazonやテスラといった先端技術を追求する企業群が、発電や輸送・物流の概念を根底から変える技術を開発しているため、現在のミャンマーでボトルネックとなっているインフラの未整備が問題にならない日がやってくるかもしれません。
太陽光発電の発電コストが劇的に下がってきているため、家庭用に関しては発電所がなくても戸別に設置したソーラーシステムで賄えるようになるかもしれません。物流に関しては、サンダーバード2号のような大型のドローンが開発されれば、道路網の敷設・整備は必要がなくなるかもしれません。AI・ロボット技術の進化で、産業ロボットが工場労働者を完全に代替してしまえば、現在必要とされている均質な労働者を育てる教育システムは無化されて、新たな教育システムに取って代わられるかもしれません。あくまで可能性ですが。

ここ20年で、メーンフレームが大部分パーソナル・コンピュータに置き換えられたり、5年で途上国では固定電話をスキップして、スマートフォンが普及したりという現象が起こっているので、発電の小型化・分散化や物流の空中利用も、そう先のことではないかもしれません。工場のロボット化に関しては、販売単価の高い自動車製造に使用されていたのが、スマートフォン製造まで降りて来ているので、10年以内にすべての分野で産業ロボットが途上国の人件費を下回る可能性もあります。

ミャンマーの経済成長の停滞やインフラ整備が一向に進まないことへの不満はよく見聞きしますが、しばらくこのまま停滞して、次世代技術が出てくるのを待った方が、20世紀型の大規模インフラ投資を中途半端に実施して、後で不良債権化するよりも得策かもしれません。

工場運営も運転もAI化されてしまえば、雇用が激減するので、ミャンマーの人たちは困るかもしれませんが(雇用が減るのはミャンマー人に限りませんが)、状況がどう変わろうが、この国の人たちは状況の変化に合わせて職や業種を変え、最新技術から得られる効用を果実としてプリコラージュしつつ、「剥き出しの生」を謳歌するに違いありません。

むしろ予測不確実性に脆弱な日本の方が、心配なくらいです。30年前は、家電王国とか言われていたのに、ネットの発達によるサプライヤーの水平化と、製品がモジュール化したことで、家電製品が付加価値の低いコモディティとなった結果、家電産業が総崩れになったことからも、今の日本が環境変化や不確実性に対して脆弱なことが伺えます。

ミャンマーからイノベーションが生まれたり、独自性のある製造業やソフトウェア産業が立ち上がったりすることはないと思いますが(R&Dは、将来や未来のことを考えることが不可欠なため)、その時々の状況や環境に応じて職や業種を転々としながら生き延びて行く逞しさや、見えない将来の中で、剥き出しの生を謳歌する大胆さを、日本人がミャンマー人から学ぶ日がやってくるかもしれません。


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2017年4月25日火曜日

チェンマイでミャンマーのアパレルと雑貨を考えた2〜ヂャルーンラート通り編

前回の投稿では、チェンマイのターペー通りにあるアパレル・雑貨店を紹介しました。
今回は、ターペー通りの東側、ピン川に掛かるナラワット橋を渡ったヂャルーンラート通り沿いのショップを紹介します。ターペー門からターペー通りに入り、出口まで抜けるのが散策のコースだったのですが、その時点で歩き疲れて、なかなか川を越えてその先に進めませんでした。せっかくチェンマイまで来たのだからと、滞在の後半になって、橋を渡ってショップ巡りにトライしました。
なかなか興味深いショップが多く、行った甲斐がありました。


まずは、チェンマイでシャツを中心に展開するブランドのオリエンタル・スタイル。
大きな古民家を改装した店舗です。 メンズ・レディースのドレスシャツが豊富な品揃えでした。
チェンマイの店舗はかなりの規模なのにも関わらず、バンコクで店舗を見たことはありません。商圏は、チェンマイのみなのでしょうか? タグにはMade in Chaing Maiとクレジットしています。バンコクのブランドでは、Made in Bangkokのクレジットは見たことがなく、Made in Thaiと表記されています。ブランド・アイデンティティとして、チェンマイへのこだわりが感じられます。



次はガイドブックにもよく紹介されているヌサラーです。オーナーはチェンマイの織物の研究者として著名な女性らしいです。入り口は狭いですが、中に入ると石庭があって、びっくりするくらい広々としています。







価格は高めですが、セレクションやクオリティのレベルは高いです。エスニックな生地やそれを使用した商品がお好きな方にお勧めです。


前回の投稿で紹介した、ターペー通りで見つけたお勧めのショップUNIQUE SPACEが、ヂャルーンラート通りにもありました。どちらが本店かは不明です。こちらの店舗の方が広いですが、商品のヴァリエーションは、ほんの少しターペー通りの方が多いです。ターペー通り店にあって、こちらの店舗にはない商品もありました。



下の写真はゲストハウスですが、古民家をリノベーションして、カフェ・レストランやブティックやゲストハウスなどとして再利用しているケースが目につきました。
ミャンマーにもイギリス植民地時代のコロニアル建築がまだ多く現存しているので、こうした物件の利用法が増えれば、観光客の楽しみが増えるのではないでしょうか。


チェンマイを散策していると、表通りから外れた入り組んだ場所に、洗練されたブティックやお洒落なカフェが突然現れたりします。今のところ、ヤンゴンではそのような経験は滅多にできません。海外からの旅行者や居住者の数や外国人居住者層の厚みと観光地としての歴史の差が、こうした文化的な洗練度の違いの原因となっているのでしょう。
今後のミャンマーへの旅行者や外国人の居住者の増加に伴い、お店の選択肢が増えることことをミャンマー居住者の一人として願っています。
観光客誘致にとって大切なことは、国際空港の拡張や移転ではなく、旅行者が滞在して楽しい場所となることであるのは論を俟ちません。分かりやすく書くと、グルメとショッピングが楽しい場所でないと、普通の観光客は寄りつきません。
ミャンマーの観光政策として、ミャンマーでしか手に入らないリーズナブルで洗練された商品や、ミャンマーでしか味あうことができない上質な食事の開発を促進することが、現在計画中と言われている空港の移転や拡張よりも先に取り組むへき課題だと思います。

私もミャンマーでしか入手できないアパレル・雑貨の企画販売をしているので、これからミャンマーに来る方はよろしければ、店舗で手に取ってご覧いただけると嬉しいです。

製品・サービスについての最新情報は、YANGON CALLINGのFB Pageで随時更新しています。
https://www.facebook.com/ygncalling/

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2017年4月15日土曜日

チェンマイでミャンマーのアパレルと雑貨を考えた1〜ターペー通り編

今回、チェンマイを水祭り中の渡航先に選んだのは、チェンマイのアパレル・ブランドを視察するためです。タイのオリジナル・ブランドとして有名な、アパレル・雑貨のGingerや帽子のMuakなどのブランドは、チェンマイを拠点として生産されています。
そこで、今回初めてチェンマイを訪れて、現地のアパレル・雑貨店巡りをしています。

今回は、旅行者が通る目抜き通りのターペー通りの店舗をご紹介します。

ターペー通りはカフェ・レストランに並んでアパレル・雑貨店が軒を連ねる通りですが、さすがに外国人が多いエリアだけあって、ディスプレイが洗練されています。


タイの素材を使用して、ラルフローレン的なテイストの商品を製作・販売しているブランド。ロゴもラルフローレンに似ています。ディスプレイもラルフローレン的なテイストです。


いかにも代官山や恵比寿にありそうな、ディスプレイを設置している雑貨店。


店番をしている、お洒落で愛想の悪いタイ人の女の子。
90年あたりまで、日本のDCブランドのショップに、こうした綺麗で、お洒落で、愛想の悪い店員が結構いたので、なんだか懐かしくなりました。今の日本は余裕がなく、売らんかなと必死なので、こうした無愛想な店員はいなくなりました。ブランド側も専属の店員を雇用するコストを負担できないようで、それなりにハイブランドでも生活感が滲み出た主婦のパートさんが売場に立っています。日本にたまに帰国して、こうした現象を見るにつけ、改めて今の日本は余裕のなさを感じます。



ミャンマーにもいる、チェンマイのモン族の市場。ミャンマーでは、カチンやカレンの存在感が大きいですが、チェンマイにはモン族のコミュニティが存在するようです。ミャンマーで言うところのシャンバックも売っています。タイでは何と呼ばれているかは知りません。




このお店が今回のターペー通り来訪の一番の収穫でした。間口が1mくらいの狭い入口を入ると、藍染めを中心とした魅力的な布素材をベーシックな形のアパレル製品として仕上げています。ブランドのテイストとしては、自然素材をファッションとして結実させている点で、ハリウッド・ランチ・マーケットに近いです。価格は、HRMの四分の一から三分の一で、お財布に優しい価格帯です(タイ製品としては高めですが)。商品の80%くらいはレディースで、残りはユニセックスです。私が女性だったら、ここで目の色変えて買い漁るところでした。




文字通り鰻の寝床のような店内の奥で、おばちゃんが針を動かしています。
ひょっとして、このおばちゃんがデザイナーなのか?
陳列されている商品の洗練度と実際の製作風景のギャップがあり過ぎて、なかなかシュールでした。


ターペー通りと周辺を一通り廻って感じたのは、VMDが上手い店舗が多いことです。ミャンマーでは、商品が魅力的に見えるように陳列するという概念がないので、無造作に吊るしたり、重ねたりすることが一般的です。時には、商品の全体像すら見えないような陳列の仕方で、本気で売る気があるのかすら疑問に感じます。

ヤンゴンで品揃えとセンスの両面において、私が最も信頼している布屋さん。ただし、商品カテゴリー毎にヒモで縛っているので、良いデザインの布を探し当てるために、いちいち頼んで解いてもらう必要があります。

また、ブランド・店舗ごとにコンセプトやテイストがあり、それに沿った商品構成がされていることが多かったです。ブランド・コンセプトやブランド・アイデンティティも、まだミャンマーにはない概念です。

ミャンマー在住の外国人の増加につれ、自らブランドを立ち上げる人も現れてきているので、もう少しすれば状況が変わるかもしれません。

商品のコンセプトやデザインの独自性は、それほど感じませんでした。自分のやっているブランドの商品をここに置いても、それなり競争力が発揮できるのではないかと(私は)思いました。

私もヤンゴンでミャンマーで生産された素材を使用したブランドを運営しているので、よろしければご覧ください。

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