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2022年1月24日月曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーバードライブ』15 (2)

 15(2)

  私たちの関心は、しだいに社会状況を反映して、私たちを取り巻く不条理な世界を表現することへと向かいます。描かれる作品も具象絵画から抽象的、表現主義的なものへと変わりました。
 そうして、私たちは「レベル88(Level88)」と名付けた美術グループを結成します。レベルの綴りは、反抗を意味するRebelではなく、水平や同等を表すLevelです。八月八日に集まった人々の願いや思いが、あたりまえの日常になることへの願いを込めて名付けました。
 私たちはグループ展の開催を企画します。
私たちの制作した作品を展示することは、当時のミャンマーでは困難でした。展覧会を開催するには、事前に情報省の検閲部の許可が必要でした。展示作品の点数、それぞれの作品のサイズ、作品の内容などを申請しますが、抽象画などの展示の許可はなかなか下りません。当局が美術と認めるのは、農村や寺院を描いた伝統的な具象絵画で、そこから外れた作品は反社会的、反体制的な意図を持つとみなされました。仮に展示ができても、検閲官がやってきて、作品に展示不可のスタンプを押すこともありました。検閲官は、作家の意図に関わらず、黒は闇、国軍のシンボルカラーである緑は軍、赤は革命を象徴していると勝手に解釈して規制しました。
 ヒトラーは、ダダイズムやキュビズムなどの新しい美術を退廃美術と呼んで弾圧しました。スターリンも前衛美術を禁止し、写実的な作品以外の制作を許しませんでした。独裁者のすることはみな同じです。
 でも、暴力でデモのような直接的な運動は封じ込めても、想像力や精神の自由まで奪うことはできません。作品を創造することは、社会の要求する常識や規範から自己を解放し、己の生を肯定することを意味します。強圧的な権力が自由な表現を恐れるのは、想像力が最も純粋な形の不服従だからでしょう。私たちには特定の政治的な意図やイデオロギーは存在しませんでした。ただ、想像力のおもむくまま自由に表現できる場を求めていただけです。軍事政権が押し付ける無意味な決まり事や規則に従わずに済む、ささやかでも自由な空間を作りたかったのです。
 そうして、私たちはゲリラ的にグループ展の開催を始めます。展示会場は、川沿いの倉庫、あるいは空き家や廃墟となったビルなどです。場所は毎回変えました。秘密警察の目を逃れるためです。グループのメンバーの親類や知人の物件で開催する時はオーナーの許可を取りましたが、打ち捨てられた廃屋や廃墟となったビルなどを会場にした時は無許可で展示することもありました。長年にわたって経済が停滞していたこの国には、当時の首都ヤンゴンにも誰も管理していない空き家や廃ビルがたくさんありました。明け方に会場に作品を運び込んで展示し、午後三時に撤収というスケジュールです。照明がないので夜間の展示はできません。車を持っていたメンバーは車に作品を積んで会場にやってきましたし、私のように車のないメンバーの作品は、小型のトラックを持っていたアウン・ミンがまとめて運んでくれました。
 来場者は私たちレベル88のメンバー十人のみです。秘密警察に知られれば逮捕されて、投獄される危険もありましたから、関係者を最小限にする必要がありました。この秘密のグループ展は、在学中は半年に一度の頻度で開催していました。秘密の会場で、互いの作品を鑑賞し、批評し合うのはエキサイティングな体験でした。あの頃、自分を表現する場は他にありませんでしたから。
 制作を重ねるうちに各人のスタイルも確立されていきました。アウン・ミンは寓意を含んだ表現主義的な作風、ボー・ナインは抽象表現主義に影響を受けた抽象画、テット・テットは国軍のプロパガンダ看板を素材にしたポップアート作品といった風に。私はイヴ・クラインやルーチョ・フォンタナといった知的なアプローチで美術の枠組みを拡張するアーティストに惹かれました。彼らの表現には、私が専攻していた数学の論理的な美しさに通じるものを感じました。
 その頃、現代美術について入手できる情報は非常に限られていました。当時のミャンマーは、ほぼ国交を閉じていましたし、もちろんインターネットもありません。船員が海外から持ち込む本や雑誌、あるいはフランス文化を紹介する施設Institut français de Birmanieの図書室にある美術関係の本だけが情報源でした。私たちは、数少ない情報を互いに共有しながら、手探りで新しい表現を模索していきました。
 私たちが大学を卒業してからは、互いの時間を合わせることが難しくなったため、年に一回の開催と決めました。私は卒業後の進路として、数学を学んだことが活かせる、計画・財務省や中央統計局などの政府機関への就職を考えていましたが、国軍の弾圧を目の当たりした後は、政府のために仕えるという気持ちにはなれませんでした。Institut français de Birmanieで現代美術のことを調べるのと同時に、この施設の提供するフランス語のクラスに通いました。フランス語ができれば、図書室にある美術書の解説も読めるようになると考えたからです。受講後も独学を続けるうちにかなり上達したので、フランス語を教えることで生計を立てることにしました。今は自分で教室を開いていて、頼まれれば家庭教師もしています。
 私たちは卒業してからも、必ず年に一度グループ展を開催することを誓い合いました。
みんな美術以外で生計を立てながら創作を続けました。そして、グループ展で集まった時に、一年間の創作の成果を発表します。作品が展示されたのは、麻袋が山高く積まれた倉庫の片隅や、廃ビルの奥まった部屋の中や、打ち捨てられた家具が散乱する廃屋などでした。
そうした場所で、互いにメンバーの作品を鑑賞し、批評します。そこは、想像力を解放し、自らの思いをためらいなく口にできる唯一の場所でした。私たちには、民衆が政府に従順であるように、あらゆる規則や規範が張り巡らされた社会からの避難所が必要でした。私たちはのグループ展は、想像の王国への亡命だったとも言えるかもしれません。私たちは、その王国に仕える宮廷芸術家でした。作品が飾られた廃墟は、私たちの作品を奉納する、名も知れぬ神を祀る神殿でした。
 早朝から午後過ぎまでのグループ展が終わると、私たちは元いた世界に戻って行きます。
帰りの車の中で、「地下と地上の破壊分子に注意せよ」という国軍のプロパガンダ看板を見て、アウン・ミンが「俺たちも破壊分子になるのかな?」と言って、笑っていたのを覚えています。
 グループ展が終わってからも、折に触れてメンバー間で連絡を取り合い、創作の進捗を伝え合いました。もちろん当時は携帯電話もSNSもありませんから、電話での伝言ゲームのような連絡方法でした。私たちの他にも、ミャンマーにいくつか現代美術グループは存在しましたが、交流はありませんでした。どこかで情報が漏れて秘密警察に伝わることを私たちは恐れてましたから。実際、他の現代美術グループのメンバーが、見せしめ的に投獄されることもありました。
 普段は政府が押し付ける現実の社会で暮らし、年に一度、私たちが本来住むべき想像の王国へ戻る、そんなことが二十年以上続きました。いえ、むしろ私たちにとっては、政府の提供する社会が虚構で、私たちの作り上げた想像の王国こそが現実でした。その場所でのみ、私たちは、自らを解放し、自由に語らい、議論し、共感し合えたからです。
 結局、軍事政権は二十三年間も続きました。政府の規制や検閲は、時期によって厳しくなったり、緩くなったりしましたが、いずれにせよ表現の自由はありませんでした。検閲官の気分や独断で、作品や活動が反政府的・反社会的なものとみなされました。反政府的だと判断されたアーティストや軍事政権を風刺したコメディアンが投獄されて、三年近く獄中で過ごすことも珍しくありませんでした。運が悪ければ拷問を受けました。拷問の方法は、鉄棒で殴る、電気ショック、熱湯をかけるなど様々でした。彼らの想像力は人間が多様な存在であることを認めるよりも、人々を弾圧する方法を考え出すことにもっぱら発揮されたようです。過酷な獄中生活で、精神や肉体を病んでしまった人もたくさんいます。
 幸い二〇一五年の総選挙で、アウンサンスーチーさん率いるNLD(国民民主連盟)が大勝し、今のミャンマーは民主政権によって運営されています。一九九〇年の総選挙でもNLDが勝ちましたが、軍事政権は選挙結果を認めず、同じ政権がその後もずっと続きました。その時代と比べると大きな進歩です。
 今では、アウン・ミンは自分のギャラリーを運営して、後進の育成に努めています。ボー・ナインはアムステルダムに渡って創作活動を続けています。私が大学を卒業した後、しばらくして父が亡くなり、母と弟を養う必要があったため、海外に行く夢は叶いませんでした。フランスで美術館を回って、美術書でしか見たことがない作品を思う存分鑑賞するのが私の夢でした。それでも、こうして創作活動を続けれられているのは幸せです。仲間の多くは日々の生活に追われるあまり、美術への熱意を失い創作を断ちました。十人で始まったレベル88のメンバーの中で、今でも創作を続けているのは、アウン・ミン、ボー・ナイン、私の三人だけです。
 ここは私たちの記憶の集積庫です。若かった私たちの希望や理想、そして失望や挫折が、それぞれ作品の形を取って積み重なってます。
 私は時折この部屋を訪れて、メンバーの作品を見直します。すると、その作品が過去のグループ展に出品されたときの誰かの批評や巻き起こった議論の記憶が蘇ります。時には辛辣だったりすることもあったけど、そこには創作への情熱を共有しているという親密な空気が常に漂っていました。
 「これは単なるノスタルジーなのだろうかか?」私は自分にそう問いかけたことがあります。答えは「いいえ」です。
 ここには輝かしい勝利も、目覚ましい成功も、万人が認める賞賛もありません。でも、私にとってここに眠る作品は、創作の起源、表現の始原が刻まれた碑のようなものです。
 私たちの作品は、現代美術の潮流という観点から見れば、時代遅れで不恰好なのかもしれません。現代美術の世界が情報戦なのは私も知っています。美術史や美術業界のコンテキストを理解した上で、斬新なコンセプトを打ち出せなければ評価の対象になりません。入手できる情報が乏しく業界のルールも知らない私たちは、そうした知的ゲームに参加することさえできませんでした。
 でも、ここが私たちにとっての原点である以上、やはりここから出発する他ありません。それが流された血、失われた命、未来を奪われた者たちへの私たち–––少なくとも私に課せられた責務なのです。

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2022年1月17日月曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーバードライブ』15 (1)

 15(1)

 私たちの活動は一九八八年に遡ります。この時、私たちは美術サークルに属するラングーン大学の学生でした。専攻は生物学だったり数学だったりと–––私は数学科の学生でした–––ばらばらだったけれど、美術に対する関心や情熱を持った学生が自主的に十人ほど集まって結成されたサークルです。講義のない土日の教室に外部から講師を招いてデッサンなどを学んでました。
 この年の三月に喫茶店でラングーン工科大学の学生達と地方政府の高官の息子との間で、他愛のないことで喧嘩が起こりました。騒ぎが大きくなって警官がやって来た時に、学生の一人が射殺されました。工科大学の学生は怒り、デモが始まります。この運動は五マイル先のラングーン大学へもすぐに飛び火します。きっかけは何だってよかったのだと思います。一九六二年の軍事クーデターから続く軍事政権に学生たちは飽き飽きしてましたから。ラングーン大学は常に政治運動の中心でした。建国の父アウンサン将軍による植民地からの独立運動もここから始まりました。
 
 その週のうちに両大学の学生による共同デモが起こります。一万五千人を超える学生たちがインヤー湖畔に集まりました。棒も石も持たない平和的なデモでした。しかし、政府は軍と治安警察を出動させます。軍用トラックで追い立てられた学生は湖に逃げ込みました。溺れて這い上がろうとする学生は警棒で殴られ、沈められました。四十人あまりの学生が溺死しました。自動小銃により発砲もあり、二百名を超える学生が射殺されました。逮捕された学生達が小さなトラックに多数押しこまれたため、警察署に着くまでに四十人が窒息死するという事件もありました。この後、すべての大学が三ヶ月閉鎖されました。
 
 それでも、軍政に対する抗議や抵抗は衰えることなく、八月八日にゼネストと大規模なデモが起こりました。一九八八年の八月八日に起こったため、我が国では8888民主化運動として知られています。
 この時のデモには二十万人近い人々が参加したと言われています。それまでの学生が中心だったデモとはスケールがまったく異なるものでした。ダウンタウンのスーレー・パゴダ前は、見渡す限り人で埋め尽くされていました。学生、公務員、農民、医療関係者、法律家、仏教徒、ムスリム、あらゆる職業、階層、年齢の人間が集いました。こんなことは今まで一度もありませんでした。あちこちから「打倒一党独裁」や「デモクラシーの獲得」を叫ぶ、地鳴りのようなシュプレヒコールが湧き上がりました。何かが変わるかもしれない、軍の高官に独占されていた富や権力が平等に行き渡る社会が訪れるかもしれない、そんな期待とそれがもたらす高揚感にデモ隊全体が包まれていました。この時に感じた一体感や高揚感は、今でもリアルに思い出せます。

 この日を境に、軍政への抗議から始まったデモは、しだいに民主主義の実現、経済の自由化といった主張へと焦点が絞られていきます。
 私たちの美術サークルも、学生のデモ隊が掲げるスローガンが書かれた幟や横断幕を作るのを手助けしました。私はそれまで特に政治に興味がある学生ではありませんでした。それ以前のデモにも参加しませんでした。両親から危ないから行くなと止められていましたから。でも、周囲の熱気に押されて、この日のデモには参加しました。大規模なデモはその後四日間続きました。私の参加した日ではありませんでしたが、軍はやはりデモ隊に発砲し、多数の人が亡くなりました。

 しかし、運動はこの後だんだんと停滞し始めます。理由の一つは、運動に明快な戦略を欠いていたことです。軍事政権側も少し譲歩の姿勢を見せたこともありましたが、双方の落とし所を見つけることができませんでした。
 もう一つの理由は、運動全体を統括して指導するリーダーが現れなかったことです。
ミンコーナイン、モーティーズンといった学生活動家は8888民主化運動を主導していました。そして、母親の介護のため一時帰国中だったアウンサンスーチーさんが押し出されるように政治の表舞台に登場したのもこの頃です。でも、運動を一本化して、軍事政権と交渉する人物は現れませんでした。
 
 状況が行き詰まる中、運動もしだいに暴力化していきます。政府のスパイがデモ隊の飲料水に毒を入れたのが発覚した時は、五人の首が切られ、晒首が通りに並んでいたと聞きました。爆弾を持っていると疑われたカップルが誤って斬首される痛ましい事件もありました。政府のスパイがデモ隊に紛れて運動を撹乱しようと試みたため、疑心暗鬼になった群衆の間でリンチや処刑が相次いだとも聞いています。多くの交番が暴徒に襲われ武器が奪われました。逮捕されたデモの参加者を収監するのと入れ替わりに、服役中の犯罪者が刑務所から大量に釈放されて街の治安が悪化しました。街に放たれた犯罪者は、デモを煽動して暴力を誘発するよう言い含められていました。政府のスパイや暴徒から身を守るために、地区ごとに武装した自警団が結成されました。デモはあちこちの地域で散発的に起こっていました。

 膠着と混乱が深まる中、九月十八日に事態は大きく動きます。その日の午後四時過ぎに国営ラジオ局の番組が突然中断し、軍隊行進曲が流れました。それに続いて男性のアナウンサーが、法秩序の回復と治安維持のため、民意に基づき国軍が全権を掌握したと告げました。一九六二年以来のミャンマーで二度目の軍事クーデターでした。軍用車が当時首都だったラングーンに集結してきました。国境で少数民族のゲリラと戦っていた部隊が呼び寄せられたのです。それから二日間、兵士達が非武装の市民を撃ち始めました。街中に銃声が響き渡りました。この時、動くものはすべて撃たれたと伝えられています。民家の窓際に人影が見えても撃たれました。私は息を潜めて家族と家の中に閉じ篭っていることしかできませんでした。この軍の弾圧による死亡者は千人とも三千人とも言われていますが、正確な数はいまだにわかっていません。民衆を制圧すると戒厳令が敷かれ、集会は禁止されました。こうして自由を求める私たちの願いは圧倒的な暴力によって潰されました。
 およそ一万人の学生が逮捕を恐れて国境地帯に逃れ、カレン民族同盟(KNU)やカチン独立機構(K1O)といった長年国軍と対立しているゲリラ組織に合流しました。私の同級生も何人か行方知らずとなりました。彼らのその後は、生死すらわかっていません。
 翌年、国名はビルマからミャンマーへ、首都はラングーンからヤンゴンへと改称されました。民主化運動の拠点となった大学は閉鎖され、キャンパスを遠い郊外へ移転させることで、学生運動の芽を摘みました。

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2022年1月13日木曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーバードライブ』14

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 ゲストハウスの近くでタクシーを拾って、プーから教えられた住所へ向かった。二十分ほど走って着いた場所は、ヤンゴン郊外の住宅街で、通りの両側に四、五階建の古びたアパートが並ぶ連なりが、一〇〇メーターほど先の大通りが横切るまで続いていた。それぞれのアパートの下には日本の中古車が隙間なく路上駐車されている。人通りは少ない。商業施設らしきものもないので、ベッドタウン的な地域なのかもしれない。 
 すべての建物が同様に古び、コンクリートの外壁は煤けて黒ずんでいる。個別の特徴らしきものがないため、建物の区別がつかない。路上に捨てられたゴミや果物を売る露店などの人の暮らしを感じさせるものがなければ、ゴーストタウン化した廃墟だと言われても信じるだろう。
 メモに書かれた建物の番号と、建物入り口の上部に取り付けられた金属プレートに記された番号を照合して、中に入った。狭い玄関口を抜けて、粗いコンクリートで作られた急な階段を登る。階段は埃っぽく、ペットボトルやタバコの吸い殻が散乱していた。フロア毎に向かい合わせに二つのドアがある。最上階の五階まで登って、部屋番号を確かめて、右側のドアの横に付いた呼び鈴を押した。

 内側からドアを開かれた。迎えてくれたのは銀縁の眼鏡をかけた中年女性だった。五十代の中頃だろうか。地味な茶系のロンジーの上にシンプルな白いブラウスを着ていた。何かの研究者のような学究的な佇まいの人物だった。
「ようこそ、Khin Suです」と彼女は言った。挨拶を済ませると中に通された。
 コンクリートの床が剥き出しとなった装飾のない部屋だった。壁はミントグリーンに塗られていた。ミャンマーの賃貸物件では一般的な壁の色だ。多数のカンヴァスに描かれた作品が壁に掛けられたり、無造作に重ねて壁に立て掛けられている。人が住んでいる気配はない。
「ここは私たちの作品の倉庫として使ってます」と彼女は言った。「私たちの活動についてプーから聞いてますか?」
私は首を振った。「いえ、長く活動されているということ以外は知りません」
「説明すると長くなりますが、お時間は大丈夫?」と気遣うように彼女は尋ねた。
 私は頷いた。「特にこれから予定はありません」
「じゃあ座ってお話ししましょう」そう言って彼女は部屋の隅にあった青いプラスチック製の椅子を二脚部屋の中央に置いた。我々が向かい合わせに座ると彼女は話し始めた。

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2022年1月10日月曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーバードライブ』13

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 午前中に〈Bodhi Taru〉のカフェで、MacBookを開いて福岡南アジア美術館の学芸員、川奈梨沙へSoe MayとChu Chu Khineの作品の写真にキャプションを付けてメールを送信した。
 昼前になって今年最初のスコールが降った。大粒の雨が灼けたコンクリートの舗道を激しく叩きつけた。荷車にココナッツを山積みした行商人や自転車の横に車輪の付いた座席を取り付けた人力車の車夫がずぶ濡れになりながら、庇や屋根を求めて通りから走り去った。来月六月になれば本格的な雨季に入る。それからは、ほとんど晴れ間の見えない空の下、断続的な豪雨で腰の高さまで路面が泥水で冠水する日々が雨季の明ける十月末まで続く。
 ビル・ブラックがテーブルに近づいてきた。「紹介するよ。共同経営者のプーだ」。そう言って、隣の小柄なミャンマー人女性へ手をかざした。
「あなたはアートの仕事をしてると聞いたわ。私も〈グリーン・エレファント・ギャラリー〉というこちらの作家を扱うギャラリーを経営してる。海外とも取引してて、昨夜シンガポールから戻ってきたばかりよ」。短髪の女性はそう語った。無地の黒のTシャツとグレーのショートパンツを履いている。年齢はおそらく三十代後半で、化粧気はなかった。
「東南アジアの現代美術をリサーチしてます。いい作家や作品があれば日本の美術館やコレクターに紹介するつもりです」
「有望な作家は見つかった?」と彼女は訊いた。
「Soe MayとChu Chu Khineという二人の作家は日本でも評価されそうです」と私は答えた。
「あの二人は最近注目されてる作家ね。他のギャラリーの専属だけど」。彼女は、そう言って肩をすくめた。「うちで扱ってるのは主にミャンマーで長く活動している現代美術家なんだけど、関心があるなら紹介するわ」
「ええ、ミャンマーの現代美術の歴史に詳しいとは言えないので、興味があります」
「じゃあ、ちょっと待って」。そう言うと彼女は別のテーブルの上に置いたスマートフォンを手に取って電話をかけた。通話先とミャンマー語で話しながら、私の方を向いて尋ねた。「明後日の午後三時は空いてる?」
「大丈夫です」と返事した。ここに泊まっている間は、街のギャラリーを見て回るつもりだったが、行き当たりばったりに回るより紹介者のいた方が効率が良いだろう。
 彼女は電話を切ると傍のナプキンにボールペンで文字を書き込んだ。「明後日の午後三時にここへ行って」ナプキンにはミャンマー文字の住所とKhin Suという名前が書かれていた。

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2022年1月3日月曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーバードライブ』12

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   Soe Mayに別れを告げてギャラリーを後にした。ここからマハバンドゥーラ通りを二キロメートルばかり西に進むとボージョー・アウン・サン・マーケットがある。宝石、骨董品、民芸品などを扱う店が一〇〇〇軒あまり密集する観光客向けのバザールだ。ここにもギャラリーがいくつかあると聞いていたので、覗いてみることにした。
 英国植民地時代から続くコロニアル様式のアーケード状の建物は歴史を感じさせるものの、マーケットで売られている商品は雑多で、これといった工夫もなく、食指の動くものはなかった。施設内に点在するギャラリーを何軒か回ったが、ミャンマーの風景を印象派風に描いた絵画、僧侶やパゴダなど外国人にとってエキゾチックなモチーフを描いた旅行者向けの作品が主流で心動かされるものはなかった。さしずめチャイナ・トレード・ペインティング–––十八世紀末から十九世紀後期の清朝で描かれた西洋への輸出用絵画–––のミャンマー版といったところだ。
 早々にボージョー・アウン・サン・マーケットを出て、裏口の石畳の舗道伝いにローカル環状線の鉄道を跨ぐ木製の陸橋を登った。橋の片側に露店がいくつか出ていた。地べたに敷いたビニールシートの上に川魚や鶏肉・豚肉、野菜や果物が無造作に並べられている。魚や肉の生臭い匂いが鼻を突いた。四十度近い気温の中を歩いてきたので、体は汗まみれになっていた。今は五月の中旬で本格的な雨季に入る前だが、空気は湿気を孕み始めていた。街を行く現地の人々の半分程度は男女とも民族衣装である巻きスカート、ロンジーを穿いていた。トップスはTシャツが多い。この気候の中で一番過ごしやすい服装なのだろう。
 陸橋を降りた先はヨーミンジー通りに通じていた。ブティックホテルや外国人向けのカフェ、レストランが集まるエリアだ。何か目新しいものはないかと付近を散策していると、入口にカラープリントされたビニールシートの横断幕が張られた建物が目に入った。
「An Exibition by Chu Chu Khine」という
個展を告げるキャプションとその文字を挟んで、髪を高く結い、片手に尖塔のような形をした何らかの儀式に用いられる壺を片手に抱えた同じ女性の絵が左右対称に配されていた。女性はエンジーと呼ばれる長袖のブラウス状の民族衣装を上に着ているがボトムスはショーツ一枚だった。
 描かれた絵の奇妙なコントラストに惹かれて中に入ってみることにした。敷地内には木造二階建ての建物を改装したギャラリーがあった。交差した木製の格子により菱形の幾何学模様を形作った窓が二階に並んでいるのが見える。ミャンマーの伝統的な意匠を持つ古民家だった。少しばかり京都の町屋を連想させる。木製のアーチ状のポーチをくぐってドアを開けると、中は白く塗られた壁にアクリル絵の具で描かれたカンヴァスが等間隔に架けられた空間だった。私の他に客はいなかった。
 展示されている作品はすべて外の横断幕と同じ顔の女性像だった。皆髪を高く結っている。記録写真などで見る、日本の正月の鏡餅のように円形が二段重ねになった形状のビルマ王朝時代の女性のヘアスタイルだ。正面を向いた女性達の視線はカンヴァスの中からこちらに向けられているが、そこからは何の表情も読み取れない。伝統的な衣装を身につけた女性像は、半裸だったり、はだけた衣服から乳房が覗いていたりした。性的なタブーの強いミャンマーで裸婦像の作品は珍しい。背景は民族衣装のロンジーに使われる柄が描かれているか、作品によってはロンジーの布が直接カンヴァスに貼られているものもあった。
 絵の中の同じ顔をした半裸の女性達は、足を組んだり、広げたり、腕を組んだり、頬杖をついたりしていて、どことなく挑発的な態度のように見える。同じ人物が異なった衣装を着て、様々なポージングを取るという表現手法はシンディー・シャーマンの「アンタイトルズ・フィルム・スティール」を思い出させた。ステレオタイプ化された女性像に対する問題意識が作品の核となっていることも共通している。現代美術の分野では、いささか定型化されたテーマだが、それを補ってあまりあるだけの強度とオリジナリティが作品を世界的な水準にまで押し上げていた。スマートフォンで作品の写真をいくつか撮って、作家の名前をアプリのメモに記入した。
 展示スペースは二部屋で、奥の部屋から入り口に通じる部屋に戻って外に出ようとしたところ、若いミャンマー人の女性から作品がカラー印刷されたパンフレットを渡された。丈の短い上衣のエンジーと巻きスカートのロンジーというミャンマーの伝統的な民族衣装姿だった。上下とも光沢のある白地のシルクに金の刺繍が施された高級感のある生地で仕立てられていた。ミャンマーで着られている民族衣装は、仕立て屋に客が気に入った生地を持ち込んで作らせた、一点物のオーダーメイド品だ。テーラーの看板は、ヤンゴンの街角の方々にあげられている。ミャンマー人女性は、行きつけのテーラーを必ず持っていると言われている。他の国の女性が、気心の知れたスタイリストのいる美容院に通うのと似ている。
 パンフレットを受け取ると、「私の個展はどうだった?」と訊かれた。
「これ君が描いたの?」と私は驚いて尋ねた。こんなに若い女性の作品だとは思っていなかった。
「そう」と彼女は微笑んで答えた。笑うと丸みのある頬にえくぼができた。真紅のリップが引かれた口元から綺麗な歯並びが覗けた。くっきりと弧を描いた太い眉の下の大きな瞳は意思的な眼差しを宿している。褐色の肌と彫りの深い顔立ちの典型的なビルマ美人だ。
 虚を衝かれて咄嗟に言葉が出てこなかった。言うべきことを考えながら改めて彼女の姿を眺めた。タイトなエンジーとロンジーが細身の体にぴったりと張り付いている。長く伸ばされた黒髪は背中まで達し、室内の照明を反射してひそやかな煌きを放っていた。数秒間の沈黙の後、彼女に訊いた。「描かれているのは同じ女性に見えるけど何か理由はあるの?」
「女性達はマンダレー王朝の女官をイメージしてる。イギリスの植民地になる前の最後の王朝ね。私はマンダレー出身なの。私の地元では、この時代の女官がいまだに理想の女性像だったりするわ」。彼女は絵の一枚を指差しながら答えた。
「女性が半裸だったり、下に身につけてるのがショーツだけだったりするのは何か意味があるの?」
「民族衣装を着た女性達がセクシャリティを強調しているのは、この国の女性に求められるステレオタイプの女性像に対する違和感から来ている。女性達が現代的なポーズを取ってるのも、女性を縛るそうした過去の因習めいたものが現代へと繋がっていることを表しているの」
「背景がロンジーの柄なのもそうした意図が反映してる?」
「そう」と彼女は頷いて、再び微笑んだ。
「日本で展覧会に参加したり、作品を販売することに興味がある? 君の作品は海外でも受け入れられそうだ。ミャンマー固有の民族的なモチーフとテーマの世界性が共存してるから」
「ありがとう。去年パリで個展を開いたわ。評判も上々だったし、絵も何枚か売れた」
 彼女は若いけど、まったく無名の作家というわけでもないようだった。すでに目を付けている海外の画商もいるのだろう。気付くのが遅かったかなと少しばかり後悔した。
「日本の福岡という都市に南アジアの現代美術に特化した美術館があるんだ。そこの学芸員へ君の作品を紹介してもいいかな?」
「もちろん。他の国で私の作品が認められるのは嬉しいわ。今のところ海外ではヨーロッパとシンガポールでしか個展をしたことがないから」
「君の作品を見せて、先方に関心がありそうなら連絡する。展示とか購入とかにつながればいいけど」
「ありがとう。今までギャラリーでの経験しかないから、美術館で作品を展示できる機会があれば嬉しいわ」
 渡されたパンフレットにも書かれていたが、Facebookのアカウントとメールアドレスを念のため確認してギャラリーを出た。エアコンの効いた室内から外に出ると、湿気を含んだ熱帯の空気が体にまとわりついた。湿度の高さが雨季の到来が近いことを告げていた。

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2021年12月31日金曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーバードライブ』11

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  待ち合わせの場所は、ダウンタウンのギャラリー〈Burm/art〉だった。マハバンドゥーラ通りの東端にあるそのギャラリーは、現地に住むアメリカ人女性が運営していると聞いた。
 ギャラリーでは個展が開催中だった。磁器の立体作品がいくつかの台座の上に置かれていた。壁に取り付けられた作品もある。台座の上の作品群は、植物と女性像や人体パーツが融合した不思議なフォルムのものだった。ぱっくり開いた大きな傷口を持つトルソーには、内部から伸びた枝が複雑に交差し、葉を茂らせ、棘を尖らせ、花を咲かせていた。壁に取り付けられた蛇をモチーフにした作品群も胴部から触手のような突起が飛び出し、葉と花が絡みついた内臓を備えていた。
 面会の約束をしていたSoe Mayの作品だった。彼女はアメリカのアート誌に「注目すべき三〇歳未満の三〇人のアーティスト」の一人に選出されたこともある。日本でその記事を読んだ私は、今回の面会を申し込んでいた。アメリカとミャンマーを行き来している彼女は折良く私のミャンマー訪問時に一時帰国していた。
 ギャラリー内の壁で仕切られた事務スペースから二十代後半の中国系の女性が現れた。
「Soe Mayさん?」と私は声を掛けた。
「連絡してくれた日本の人?」と彼女は言った。
「そうです。お会いできて嬉しいです」
 背は高くないが恰幅が良い体型で、セミロングに伸ばされた髪は額で横分けされていた。化粧気はない。Vネックのシンプルな黒のワンピースを着ていた。
 彼女の促すままに傍のテーブルを挟んで向かい合わせてに腰掛けた。
初対面の挨拶を済ませると展示されている彼女の作品について尋ねた。「磁器の立体作品ばかりなのは何か理由はあるの?」
「私は中国系ミャンマー人の三世としてここで育ったの。私の実家は、ここの近所のチャイナタウンにある。家には先祖の代から伝わる花瓶や茶器があって、磁器は身近な素材だった」
「自分の民族的なアイデンティティを反映させるためにこの表現を選んだ?」
「最初はそんな深い理由はなかった。創作を始めたのも化学を学ぶつもりでシアトルに留学したんだけど、定員いっぱいで入れなくてファインアートの学科に入ったのがきっかけ。いろいろと試してみたけど、絵筆でカンヴァスをなぞるより、手で直接粘土を捏ねる方がしっくりきたの」
「人体のパーツと蛇が作品のモチーフになってるけどこれはなぜ?」
「人体パーツの作品はある種の自己像ね。伝統的なミャンマーの社会が求める女性性に対する違和感や自分の内側にある他者性が表れている。蛇はいろんな意味に表彰化されることに惹かれるの。邪悪さの象徴とも吉兆とも見られる。ミャンマーの神話では守護神のひとつでもある。そしてわたしの干支は蛇なの」
「二つとも君のアイデンティティに根ざしてるんだ。どちらのモチーフにも内部が露出してて中に植物のようなものが見えるね」
「自分の経験や精神性のいろんな要素が出てきたみたい。受けた傷と生命力、死と再生、儚さと永遠性、どうとでも解釈できるけど自然に湧き出てきたものなの。作ってるうちに自分のアイデンティティが自然に現れた感じ」黒めがちな瞳を真っ直ぐに向けて彼女は答えた。「故郷を離れて創作を始めたアメリカでの孤独感や疎外感、それ以前にも、ビルマ人がマジョリティであるミャンマー社会に、中国系ミャンマー人として完全に溶け込めなかったことも関係してるかもしれない」
 対立する多様な要素を含みながら、それらを一体化した彼女の作品は彼女の出自や経験も反映されているようだ。「君の作品にはミャンマー的な土着性と同時に世界に繋がる普遍性も感じさせる。閉じられた部分と開かれた部分が両立している。それは君が中国系ミャンマー人であることやアメリカでの経験が反映されたからなんだ」
「おそらくそうなんだろうけど、あまり自己分析はしないことにしてるの。それが足枷になって作品の幅が狭まるのを避けたいから」
「それもそうだね」と私は答えた。「ところで僕は日本の福岡というところに住んでる。あまり知られてないけどヤンゴンの姉妹都市でもある。ここに福岡南アジア美術館という南アジアの現代美術に特化した市営の美術館がある。ここに作品を収蔵することに興味がある?」
「その場所もその美術館のことも知らないけど、公営の美術館に私の作品が展示されるのは魅力的ね」
「それにASEAN各国からレジデンス・アーティストも招聘している。一定期間住んで、創作活動のためのアトリエが提供されるし、ワークショップを開催することもできる。よかったら向こうに、いま受け入れ枠があるかどうか確認してみるよ」アメリカのアート誌に取り上げられた実績のある新進アーティストなら美術館側も受け入れに積極的だろうと予想して提案してみた。
「制作拠点にしてるアメリカとASEANで最大の現代美術のマーケットのあるシンガポールでの活動で手一杯だから日本のことは考えたことがなかった」と彼女は戸惑いがちに答えた。「ミャンマーには条件に合う窯と粘土素材がないからシアトルの工房を借りて制作してるんだけど、そうした制作に必要な環境は用意してもらえるの?」
「大丈夫だと思う」
「考えてみるわ。アメリカよりも日本の方が近いから制作拠点としては便利だし」
「それに東京より福岡の方が南アジアに立地が近い分、文化的な親和性がある。日本で初めてアジアの現代美術展が開かれたのも福岡だし」さらにひと押ししてみた。彼女の創作するユニークな立体作品を東京よりも先に紹介したかった。「帰国したら担当の学芸員と相談してみる」 
「わかったわ。まだ、決めてたわけじゃないけど。日本に行くことは考えたことがなかったし」
「できるだけいい制作環境が準備できるよう交渉してみる」
「ありがとう。条件次第で考えてみるわ」

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2021年12月27日月曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーバードライブ』10

10

 翌朝、窓から差し込む日射しで目を覚ました。外を見ると燕脂色の僧衣に身を包んだ托鉢僧達が近隣の民家を回っていた。在家の住民達が僧が抱えた鉢の中に米を注いでいる。ミャンマーで毎朝繰り返されている光景だ。
 バスルームで洗顔して外を散策することにした。ホステルのある路地から大通りに出ると向かいにカンドージー湖が見える。通りを横切って、湖のある柵内の敷地に入った。敷地内には湖を囲んで公園やレストランが点在している。
 湖上に渡された木製の遊歩道を進むうちに、賑わっている場所があるのを見つけた。そちらを目指して歩くと〈Yangon Farmers Market〉と入口に垂れ幕が掛かった広場に行き着いた。入ってみると三十あまりのテントが設置され、テント毎に様々な野菜や果物が販売されていた。見たこともない南国の果物を並べられたテントもある。フレッシュジュース、ジャム、コーヒー豆などの加工した食品も売られている。この場所で定期的に開かれている朝市のようだ。看板やパッケージに、オーガニックであること、地場産であることを謳っているのが目立った。訪れている客は、外国人とミャンマー人が半々だった。民生移管後に外国人居住者が増えて、こうしたオーガニック食品の需要も生まれているのだろう。ひと通りテントを眺めて、来た道を引き返した。
 
 宿に戻ると、一階のカフェにビル・ブラックがいた。
「おはよう、どこかに行ってたの?」そう言って、テーブルの上のMacBookから顔を上げてこちらを見た。
「湖の周りを散歩してた。朝市をやってたよ」と言うと、「ああ、あれは毎週末やってるんだ」と彼は答えた。 
 私も彼の近くのテーブル席に座った。「オーガニックとかローカル・メイドとかを強調した店が多かったけど、そういうのがこちらでは盛んなの?」と訊いてみた。
「ここに住む外国人と一部の裕福なミャンマー人相手の商売だね。まあ、うちのカフェの客層もそうなんだけど」
「ここを始めてどれくらい経つの?」と私は尋ねた。
「一年半くらいだね。その前はここの1LOで働いてたんだけど」
「ミャンマーは住んで長いの?」
「八年くらいになるね。イギリスの大学でビルマ語を学んだから、ミャンマーに来るのは当然の成り行きだった。君は観光に来たの?」
「ミャンマーは三回目なんだ。東南アジアの現代美術のリサーチのために来た。日本でアート関係のビジネスをしている」近くにいたミャンマー人のスタッフにスムージー・ボウルとカプチーノを頼んだ。
「共同経営者のプーがギャラリーをやってるからよければ紹介するよ。彼女は今シンガポールに行ってるけど、今週戻ってくる。たしか君の滞在は一週間だったよね?」
「ここには一週間泊まる予定だ。それから瞑想センターに行くつもりなんだけど。ギャラリーをやっている君の共同経営者に会えると嬉しいな。いろんなツテがあった方がいいから」
「戻ってきたら教えるよ。彼女もミャンマーにいるときは、だいたいここにいるから」
 スムージー・ボウルとカプチーノが運ばれてきた。スムージーにはスライスしたマンゴーとバナナとキウイがトッピングされていた。スプーンですくって口に含むとココナッツ・ミルクと果物の甘い香りで口内が満たされた。「ありがとう。瞑想センターに行くのは君の共同経営者に会ってからにするよ」と私は答えた。

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2021年12月14日火曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーバードライブ』9

9 

 チェックアウト時間の十一時前に部屋を出て、レセプションにキーを返した。コンドを出ると、スーツケースを引いてコンドと同じブロックの裏手にあるカフェ〈ブルーダイ・カフェ〉に入った。ミャンマー行きの飛行機は夜の便なので、それまで時間を潰すつもりだった。
 トンローの住宅街の一画にあるそのカフェは、近隣の若いタイ人が主な客層だった。MacBookでグラフィック・デザインをしたり、動画を編集している独立系のクリエイターらしき若者も数人いた。梁の横木が剥き出しになった天井と寄木張りのフローリングのウディなインテリアの店で、四分の一程度が物販スペースになっていた。アメリカのヴィンテージ・ウェアの古着を吊るしたラックと地元の作家による陶器が並べられた棚が置かれている。木枠のガラス窓から前庭に植えられたパームツリーとシダ植物が見える。とりあえずパスタとカプチーノを頼んだ。昨日ビールを飲んだ〈ロイヤルオーク〉の隣にあった日系の古本屋で買ったフィリップ・K・ディックの小説を読んだ。
 カフェには二時間ほど滞在した。スーツケースを引いてスクンビット通りに出て、歩道脇のエレベーターで高架を登り、トンロー駅の改札に達するまで十分くらいだった。トンロー駅からBTSに三十分ほど乗車してモーチット駅に着くと、高架を降りてバス停へと向かった。ドンムアン空港行きのエアポートバスのバス停にはすでに十人くらいのバックパッカーが列をなしていた。行列の最後尾に並んでバスを待った。午後の日射しが容赦なく肌を刺した。たえず行き交うバスやタクシーが吐き出す排ガスが周囲に沈殿していた。熱気と息苦しさで意識が朦朧としてくると、いったい自分がどこに居て、どこに向かおうとしているのかも分からなくなってくる。空港行きのA1バスが来るまで二十分ほど待った。頭がぼうっとしたままバスに乗り込んだ。スーツケースを荷物置き場に置いて、なんとか空いていた座席に座る。タイ人二割、外国人が八割くらいの割合でバスは満席だ。女性の車掌が乗客一人ひとりを回って、個別に三〇バーツを徴収して、バス券を渡していく。高速道路を三十分ほど走った後、バスは空港への連結路に沿って旋回しながら国際線ターミナル前に到着した。
 ドンムアン空港国際線ターミナル1は搭乗手続きを待つ旅行客でごった返していた。L C Cの旅客数が世界最多であるこの空港は、ASEAN各国と中国各地との定期便が発着の大部分を占めている。スーツケースを持った旅行客の行列が、チェックイン・カウンター・エリアの外側に設けられた柵を幾重も取り巻いている。通路が人とスーツケースや手荷物カートで塞がれているため、空港内を歩くのもままならない。私の搭乗便の出発時刻は午後七時半で、空港に着いたのが 午後三時半頃なので時間の余裕はあるはずだが、この様子だと搭乗手続きのためチェックイン・カウンターにたどり着くのにどれだけ時間が掛かるのかも分からない。とりあえずチェックイン・カウンター・エリア入口の反対側まで達した列の最後尾に並んだ。私の搭乗便の受付はまだ始まってなかったが、列で待っているうちにその時間になるだろう。
 二時間あまり並んで、チェックイン・カウンター・エリアの内側に入った。カウンターで搭乗手続きを済ませ、スーツケースを預けた。搭乗時間まで一時間半程度あったので、空港内のフードコートでグリーンカレーを食べ、シンハービールを飲んだ。
 搭乗ゲート前のロビーの座席もほぼ満席で空いてるシートは少なかった。床に座り込んでスマートフォンを触っている乗客も多い。
 搭乗ゲートから離れた場所の空いている席を見つけて座った。搭乗時間まで一時間あまりあるので、カフェで読んでいたフィリップ・K・ディックの小説の続きを読んだ。荒廃した火星で日々の暮らしに苦闘する地球からの移住者や未来を幻視する自閉症の少年が登場するが、移動で疲れているせいかストーリーの展開が頭に入らない。
 読書に集中できなくなると周囲を見渡した。ミャンマー行きの複数の定期便のための搭乗ゲート並ぶ出発ロビーなのでここで待つ乗客はミャンマー人が多かった。ある程度裕福なミャンマー人にとってバンコクは手近な買い物エリアとなっている。特に若いミャンマー人にとっては、最新のファッションや風俗に触れられる先端エリアとして人気が高い。
 予定の出発時間を三十分ほど過ぎてから搭乗開始のアナウンスがあった。搭乗ゲートをくぐって、外に横付けされたランプバスに乗り込む。駐機場を横切って、タラップの付けられた機体前にバスが着くと、乗客はめいめいバスを降りて、タラップを登り、機内に入っていく。
 ノックエアDD4238便は定刻より三十分あまり遅れて離陸した。バンコクの高層ビル群と渋滞した車のヘッドランプの連なりが織りなす夜景が遠ざかると、窓の外は闇に包まれた。離陸して一時間ほどで機体はヤンゴン上空に達した。街の上空を飛んでいるはずだが眼下の光はまばらだった。ただ、ライトアップされて黄金色に輝く巨大な仏塔シュエダゴン・パゴダだけが闇の中で光を放っていた。
 ヤンゴン国際空港に到着したのは午後九時前だった。イミグレーションの列に並ぶ人間の数はそう多くなく、十五分ほどで入国できた。空港で手持ちの米ドルを現地通貨のチャットに両替し、スマートフォンを使うために五〇〇〇チャット分のプリペイドカードを買った。ミャンマーに来るのは三回目で、現地キャリアのS1Mカードはすでに持っているため、必要分をチャージをすればいい。
 スーツケースを引いて入国ロビーに出るとタクシーの運転手が次々と群がってくる。ミャンマーでは、タクシー運賃は料金交渉をして決める。空港発のタクシーは、相手側が強気になるため、運賃が割高になる。スマートフォンで配車アプリのGrabを起動してみたがディスプレイ上に車が現れない。空港からの利用客には相場より高い料金を請求できるため、システムが料金を自動計算するGrabを使わせないのが不文律となっているようだ。空港の敷地外の通りまで出てGrabを使うという方法もあったが、朝からの移動で疲れていたので気が進まなかった。何人かのドライバーと交渉して、宿まで一万チャットで折り合った。相場より二、三割割高だがしかたない。
 空港を出発した車はピーロードを南下して進んだ。まばらに並んだ蛍光灯の街灯が街路を仄暗く照らしている。インヤー湖に差し掛ると湖の尽きるところで左折してインヤロードに入った。前方に黄金色に輝くシュエダゴン・パゴダが見える。パゴダを覆うのは本物の黄金で、肉眼では見えないが尖頭部分の装飾にはダイヤモンドやルビーなどの宝石が七〇〇〇粒以上ちりばめられていると聞く。ASEAN最貧国であるこの国の富のすべてをこの仏塔が吸い込んでいるような気がしてくる。
 タクシーが予約していたホステル〈Bodhi Taru〉の前に停車した。通りの両側に四、五階建てのローカルアパートメントが並ぶ裏通りだった。僅かな街灯に照らされた薄暗い通りの先に、黄金色のシュエダゴン・パゴダが輝いている。
 ホステルは一階がカフェで、二階が宿泊施設となっている。一階部分は一面のガラス張りなので、天井から吊るされた暖色の白熱灯に照らされた内側が見渡せた。十席ほどの木製のテーブルとソファが三席、奥は右側がキッチンカウンター、左側に二階の宿泊施設に通じる階段が見える。カフェの営業時間は過ぎていりようで客はいなかったが、三十代半ばの白人男性が奥のテーブルでMacBookを開いていた。
 中に入って「今夜から宿泊予定なんだけど」と声を掛けると、立ち上がって「ああ、予約していた日本人だね。ようこそ。僕はオーナーのビル・ブラック」と言った。立つと身長が百八十センチ近くあるのがわかった。金髪の長髪を後ろで縛ってポニーテールにしていた。細面の顔にボストン型の眼鏡が載っていた。欧米人にしてはスリムな体型だった。どことなく三十代の頃のジョン・レノンを思わせる風貌だ。アクセントと雰囲気からおそらくイギリス人だろうとあたりをつけた。
「案内するよ」彼はそう言って、カウンター下からキーを取り出した。彼の後に付いて奥の階段を登った。ドミトリーが二室、個室が二室の小規模なホステルだ。宿泊サイトで予約したが、空いていた個室を予約していた。キングサイズのダブルベットが置かれたシンプルな内装の部屋だった。バスルームとトイレは共用のため部屋内にはない。テラスに面した窓からミントグリーンに塗られた向かいの民家が見えた。
「じゃあ。明日の朝も下のカフェにいるから何か用事があれば遠慮なく言って」そう言うと下に降りて行った。
 ビールが飲みたかったが周囲に買えそうな売店はなかった。朝からの移動で疲れていたので、共用のバスルームでシャワーを浴びて、歯を磨くとすぐに寝た。

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2021年11月12日金曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーバードライブ』8

8 

 トンロー駅前で配車アプリのGrabを使ってタクシーを捕まえた。タイでは流しのタクシーを使った方が安くつくが、目的地が説明しにくい場所なのでGrabを使うことにした。東南アジアをサービスエリアとするGrabは、ライドシェアサービスのUberとは異なり登録されたタクシーを呼びだすことができる。走り出して三十分ほどで、車は仏教寺院ワット・マクット・カサッティリヤーラームを右に見ながら、ラマ八世橋を渡り、チャオプラヤー川を越えた。東南アジア特有の茶色く濁った川面を午前のやわらかな陽射しが鈍く光らせていた。タイで川向こうに出ることは滅多にない。チャオプラヤー川沿いは、川を見下ろす眺望を備えたラグジュアリー・ホテルが立ち並ぶエリアだ。市街地の対岸にもペニンシュラやミレニアム・ヒルトンといった富裕な観光客向けのホテルがあるが、もちろん私には無縁の場所だった。
 Kotchakorn Maleeと会うのは二回目だ。一年前にヤンゴンのカフェで会ったのが最初だった。そこで、ドイツ人の写真家が植民地時代から残るヤンゴンの歴史ある建造物を撮影した写真をスライドで写し、それについて解説すイベントが開催されていた。リサーチのためヤンゴンに滞在していた時に、Facebookの告知を見て、参加した。会場となったカフェも植民地時代の建物ををリノベーションしたものだった。高い天井に大型の扇風機が取り付けられたボールルームのような広いスペースが、コロアニアル・スタイルのインテリアで飾られていた。中にはチーク材で作られた大きなテーブルが十台ほど置かれていた。たまたま座った席の隣にいたのが彼女だった。
「あなたは日本人? わたしはタイから来たの」と向こうから話しかけられた。ショートカットの二十代の女の子だった。オーバーサイズ気味のレモンイエローのカットソーに、程良く色落ちした太めのストレート・ジーンズを合わせていた。こうしたこなれたカジュアル感は、ミャンマーの同世代の子にはない。
「そう日本から来た。君はどうしてここに来たの?」と私は尋ねた。
「昨日、このカフェに来た時に、イベントがあるのを知ったから。ヤンゴンへの移住を考えてるの。今住んでるのはバンコクなんだけど」と彼女は答えた。
「仕事を求めてヤンゴンからバンコクへ移住するミャンマー人は多いけど、その逆は聞いたことがないな。でもどうして?」
「ピカピカの大きなビルがどんどん建てられてるバンコクが好きじゃないから」軽く唇を歪めて、そう答えた。東南アジア人にしては彫りが浅い顔だった。ただ、黒目がちな大きな瞳は東南アジア的な特徴を備えている。おそらく中国系のハーフかクオーターだろう。「ここはバンコクよりのんびりした空気が流れてて、そこに惹かれるの」
 たいていのミャンマー人は–––特に事業活動をしているミャンマー人は–––ヤンゴンが
バンコクのようなビルが立ち並ぶ、資本の集積地になることを望んでるんだけどなと思ったが黙っておいた。何に幻想を抱くかは人それぞれだし、結局のところ人は今目の前にないものを求めるものなのだろう。
「あなたはどうしてヤンゴンに?」
「タイとミャンマーの現代美術についてリサーチしている。今は東京のギャラリーに勤めてるんだけど独立を考えているんだ。東南アジアの現代美術を日本に紹介できないかなと思ってる」
「わたしもバンコクに小さなアトリエを持ってるの。友達とグループ展を時々開いてるわ。もし、バンコクに来ることがあったら訪ねてみて」
「いつもヤンゴンに来る前にバンコクに滞在しているから今度お邪魔するよ」
 Facebookで繋がったので、バンコクに来る時はメッセンジャーで連絡すると言った。そのとき話した通り仕事を辞めて独立準備中の身となった私は、一年前の約束を果たそうとタクシーを走らせていた。
 チャオプラヤー川を渡ってから十分くらいで目的地に着いた。観光客がまず足を踏み入れることはない郊外の住宅街の路地裏だった。スクンビット通りに林立するコンビニエンス・ストアもここでは見かけない。門柱の前に立つと、スマートフォンで到着したことを告げた。
 横手の小さな鉄門の閂を開けて出てきた彼女は杢グレーのタンクトップとショートパンツ姿だった。午前十一時頃だったが、まだ寝起きの顔をしていた。シャワーを浴びたばかりなのか、まだ髪が湿っている。再会の挨拶をすると、内側に通された。外壁は煉瓦造りで、通りに面して小さな丸窓が付いた建物だった。建物前の駐車スペースには車がなかった。築三十年は経っている民家で、一階がアトリエとして使われていた。壁には制作途中の作品のカンヴァスがいくつか無造作に立て掛けられていた。パウル・クレー風の淡い色彩の抽象画だった。小さなテーブルに置かれたPCの画面には、ジャン=リュック・ゴダールの『中国女』の映像が流れていた。
「昨日遅くまで絵を描いてたから、さっきまで寝てたの」湿った髪をいじりながら彼女は言った。「もうすぐ友達と合同展示会をやるの」
「ここに展示するの?」ここを会場にするなら、展示できる作品数は限られそうだ。
「ここは狭いから、友達が働いてるホステルを借りるわ」と彼女は答えた。「あとで打ち合わせに行くから一緒に行く?」
 迷惑じゃなければと私は答えた。
「大丈夫。みんなフレンドリーだから。じゃあ、軽くランチを食べてから行きましょう」
 彼女に促されるまま、奥のキッチンのある小部屋に入った。小さなテーブルを差し向かいに座って、彼女が皿に盛ったカオマンガイ
を食べた。
「どう?」と彼女は訊いた。
「美味しい」と私は答えた。実際、鶏肉はジューシーだし、ご飯はナンプラーの風味が程よく効いていて、店で食べたのと遜色がなかった。
「ここに越してから毎日自炊してるから、腕が上がったわ」彼女は微笑んだ。
「ここに住んでどれくらいになるの?」と私は尋ねた。周囲に住居しかない郊外の鄙びたエリアに、二十代の女の子が一人で住んでいることが不思議だった。
「二年くらいね。その前は街中に住んでたんだけど、ビルが立ち並ぶ風景と騒がしいのが嫌で引っ越したの」
 去年、ヤンゴンで彼女と会った時に、バンコクの喧騒を逃れるためにヤンゴンに移住したいと言っていたのを思い出した。「そういえば、ヤンゴンに住むのはどうなったの?」
「長期滞在できるビジネス・ビザが取れなくて諦めた。アパートも探しもしてたんだけど」と彼女は答えた。ミャンマーでビジネス・ビザを取るには投資企業管理局(Directorate of Investment and Company Administration)に登録された企業の推薦状が必要となる。
「ミャンマーの会社で、わたしのために推薦状出してくれそうなところ知ってる?」と彼女は訊いた。
「残念ながら役に立てそうもない。今まで三回行ってるけど、アート関係者としか会ってなくて、ビジネスパーソンとは縁がないんだ」と私は答えた。ギャラリーや展示会巡りしかしていないので、現地の日本人駐在員や起業家とはまったくと言っていいほど接点がなかった。
「そうなの。ヤンゴンは諦めてもうしばらくバンコクに住むことにする」
 昼食を済ませると、彼女は着替えと化粧のため二階に上がり、私はコーヒーを飲みながらキッチンで待っていた。勝手口の先に小さな庭が見えた。草むらの上に、錆びた子供用のブランコが打ち捨てられたように置かれている。先住者が残していったのだろう。
 二階から降りて来た彼女は、ふんわりしたパステルブルーのワンピースを着ていた。淡いベージュのアイラインを引いて、ライトピンクのリップと同系色のチークを塗っていた。二人で家を出て、路地を抜け、大通りまで出てタクシーを拾った。彼女が運転手に行き先を告げると、今度はプラ・ポック・クラオ橋を渡り、チャオプラヤー川を越えた。十五分ほど走って着いた先は、彼女の家のちょうど対岸にあたるカオサン地区の外れにあるホステルだった。屋上庭園のある二階建ての鉄筋の建物で、ピロティとなったエントランス部分にはウッドデッキが敷かれていた。デッキの上には、ガーデンテーブル、チェアと数台の自転車が置かれている。中に入ると仕切りのない広いオープンスペースが広がっていた。入口正面の奥がレセプション、残りのスペースをギャラリーが併設されたカフェが占めている。高い天井から多数の電球が吊るされ、所々で星座のような模様を形作っていた。世界各地からやって来たバックパッカーたちが、カフェやテラスでスマートフォンやノートPCを操作していた。
 カフェ・スペースの席に着くと、彼女はバブルティー、私はマンゴージュースを頼んだ。
「友達を紹介するわ」彼女はカフェのスタッフに手を振った。二十代の長髪で背の高い青年だ。テーブルに近づいてきた男の子に向かって言った。「彼はテンゴ、日本からタイのアートをリサーチしに来たの」そして私に彼を紹介した。「こちらはヴァン。ここで働きながらアーティスト活動をしてるの。アート仲間の一人よ」
 私がヴァンと握手すると、彼はKotchakornの隣の席に座った。ネイヴィーの無地のTシャツと色落ちしたジーンズ姿に、履き古したエア・ジョーダンを履いていた。 
「これから、ここでやるグループ展の打ち合わせがから仲間が来るよ」と彼は言った。「僕の前の作品は、あそこのギャラリースペースに展示している。今は新しいシリーズに取りかかっている」そう言って、ギャラリースペースを指さした。
 席を立って、展示されている作品を見てみた。彼の名前が記された名札が付いた作品は、タイの神話をモチーフにしたらしいスピリチャルな画風の絵画だった。その他にも、絵画やオブジェが展示されていた。ギャラリー・スペースは三〇平米メートル程度で、そう広くない。アート作品の展示の他に、タイのクリエーターによるオリジナル雑貨が販売されている。アート作品については、美大生の習作の域を出ていないように感じられた。
 しばらくして、グループ展の仲間たちがカフェにやって来た。全部で、男の子が三人、女の子が二人の、二十代のグループだ。みんな中産階級の子らしいこなれたカジュアルなファッションだった。タイ語なので内容はわからないが、おそらく展示方法や各人の展示する作品数を話し合っているのだろう。新たな美術運動を目的としたグループというよりも、アマチュアの同好会的なサークルという雰囲気だ。アートへの関心が高まっているタイでは、こうした同好会的なサークルが数多く同時発生しているのだろう。これまでの急激な経済成長が踊り場に達したタイが、文化的な成熟期に入っていることを実感させる。
「この後みんなでご飯食べに行くけど、一緒に行かない?」Kotchakornが私に訊いた。
「ありがたいけど、明日はミャンマーに行かくから遠慮しとくよ」と私は答えた。みんな英語が達者なものの、ただ一人タイ語のできない私がいて気を使われるのが気詰まりだった。
「残念、またバンコクに来る時は教えて。今度日本に行く時は連絡する」とKotchakornが言った。
「また来ると思う。日本に来る時は教えて。今日は楽しかった、ありがとう」いくぶん多めにタイバーツ紙幣をテーブルに置いて、テーブルを離れた。
 外でタクシーを拾って、運転手にプロンポン行きを告げた。BTSの駅前で降りて〈ロイヤルオーク〉に向かった。夕方の早い時間にも関わらず、ハッピーアワーでビールの割引があるせいか、店内は外国人客で賑わっていた。外国人夫婦の客もいれば、タイ人のガールフレンドを連れた中年の外国人男性もいる。店の喧騒を眺めながらタイガービールをジョッキで三杯飲んだ。

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2021年11月2日火曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーバードライブ』7

 

第二章
7

 タイでのあと一件のアポイントメントは三日後だった。その間にバンコクの街を歩いて回った。
 プラ・スメン通りは、〈タイランド・ストレージ〉のKullaya Wongrugsaが言うとおり、新たなギャラリーの集積地となっていた。ギャラリーはカフェなどに併設された小規模なものが多い。カフェは中産階級と思しきタイの若者で賑わっていた。在学中の美大生や卒業して間もない若いアーティストの作品の展示が中心だ。経済成長が一段落して、踊り場を迎えたこの国の若者の関心がアートなどの文化的な方向に向かっているのが見て取れる。同じ通りのセレクト・ブック・ストアには、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェやジュノ・ディアスの英語版のペーパーバックと村上春樹のタイ語訳の著作が棚に並んでいた。同時代の世界文学の潮流を反映させた棚作りだ。こうしたオーナーの嗜好や関心が店の品揃えとして表現されている独立系書店は、ある程度、文化が成熟した世界各地の都市で見かける。隣国のミャンマーのような途上国ではこうした本屋はない。
 コンドのあるトンローから隣駅のエマカイにかけて、セレクトショップ、古着屋やサードウェーブカフェが点在している。セレクショップではエンジニアド・ガーメンツのシャツ、古着屋ではビームスやユナイテッド・アローズのワンピースを見つけた。バイヤーが日本にも買い付けに来ているようだ。トンローの路地にタイファンクや伝統音楽のモーラムやルクトゥーンを専門に扱う中古レコード屋があった。こうした音源はフィジカルでないと入手できないため、世界中からDJやコレクターが買い求めにやって来る。テキサスのサイケ・ファンク・バンド〈Khruangbin〉のように、こうしたタイの民族音楽に影響受けた国外のミュージシャンも二〇一〇年代に入ってから現れ始めている。
 バンコク郊外のシーナカリンのナイトマーケットの広大さには圧倒された。平安時代の日本の学僧が大唐西市の、あるいはヴェネツィア共和国の商人が元の大都宮城の市場の賑わいを見た時に同じ驚きを感じたかもしれない。
 鉄道駅の跡地で開かれているナイトマーケットは、あらゆる形と色のネオンや照明に照らされた無数の店が見渡す限り立ち並んでいる。市場は、屋台、レストラン、雑貨などのテーマ毎にエリア分けされていて、古い倉庫を店舗に改装したヴィンテージ・エリアでは、一九五〇年代のキャデラックやシボレーが展示・販売されていた。こんな車は映画でしか見たことがなかった。このエリア付近のレストランは、アメリカのダイナーを模した建物だった。これほど広くはないものの、バンコクには他にも大規模なナイトマーケットが少なくともあと五つはある。とても一週間の滞在では回りきれなかった。
 トンローの隣駅プロンポンのアイリッシュ・パブ〈ロイヤルオーク〉はいつも欧米人の客で賑わっていた。コンドのプールでひと泳ぎした後、昼はここのオープンテラス席でビールを飲んで、ハンバーガーを食べるのが日課になった。パブは日系のスーパーマーケットの側にあるため、日本人の駐在員の家族がよく目の前を通り過ぎるのが見えた。昼間からビールを飲んでいる自分が、彼らから遠く隔たった場所にいるのを感じた。

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2021年10月19日火曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーバードライブ』6(1)

第二章
6(1)

 スマートフォンでグーグルマップを見ながら目的地を探したが、それらしき建物が見当たらない。チャオプラヤー川沿いの、元は倉庫街だったエリアにあるギャラリーが目的地だった。昼過ぎの日射しを浴びながら、最寄り駅のサーバタクシンからここまで歩く間に汗まみれになった。
 辺りを何度か行きつ戻りつしていると、車一台がようやく通れる幅の小道があるのに気が付いた。道の両側は植えられたシダ類の熱帯植物が繁茂している。個人宅の引き込み道かもしれないので躊躇ったが中に入ることにした。五〇メートルくらい前に進むとガラス張りの大きな二階建ての木造建築が現れた。入り口の上に「Warehouse 54」という真鍮製の切り文字が取り付けられている。ここで間違いなかった。
 大きなガラスのドアを開けて中に入った。人影が奥のカウンターに見えたが、約束の時間には間があったので、建物内をひと巡りすることにした。元は広大な邸宅だった物件をリノベーションして展示スペースやギャラリーに転用したようだ。床はコンクリートの打ちっ放しで、入り口近くに直径が二メートル近い大理石の丸テーブル、その後ろに八人掛けのチーク材で作られたダイニングテーブルが置かれている。吹き抜け構造の建物の中庭は四面をガラスで囲まれていて、内側にガーデンテーブルとチェアが置かれている。奥の窓からは熱帯植物の生い茂った庭園が見渡せる。庭園内に木製の支柱に支えられた祠が見えた。
 動線に従い中庭を回り込んで反対側の部屋に出ると展示スペースが広がっていた。部屋の両側に天井まで達する棚が置かれ、色とりどりの陶器が展示・販売されている。床には様々なオブジェが置かれている。タイの神話を反映したのであろうトーテムポール、木造の立体作品、壁に吊るされた民族柄の織物の間をくぐって、中庭を見下ろしながら奥に見える木製の階段を登る。
 二階は、壁を白く塗ったギャラリースペースとなっていた。こちらの床は、古材を使ったフローリングだ、絵画、写真、インスタレーションなどジャンル毎にそれぞれ別の部屋に展示している。私の他に若いタイ人のカップルが二組いた。
 タイ人アーティストによる絵画作品の横には、タイ語と英語で作家の説明文が貼られいる。複数の作家の作品が数点づつ展示されている。名前を知らない作家ばかりだった。
 壁で仕切られた一画にはインスタレーション作品が展示されていた。扇風機の作る風で大きな布がはためいている。後ろの壁には、プロジェクターでモノクロームのタイの古い風景写真が映されている。河畔を行き交う渡し船、青果市場の賑わい、タイの伝統的な様式で建てられた邸宅などが数秒壁に映っては次の写真に切り替わる。
 個人所有のスペースとしては破格の規模だ。一階の棚で展示・販売されている陶器の中には、日本の地酒の古い容器などヴィンテージとしては首を傾げるものも含まれていたが、大した瑕疵ではない。建物、調度品、什器、展示のすべてが個人の美意識により貫かれている。いったいどんな人物がこの施設を作ったのだろう?

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2021年10月14日木曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーバードライブ』5 (2)

 第二章
5(2)

 〈タイランド・ストレージ〉のオーナー、Kullaya Wongrugsaと会うのは今回で二回目だった。裕福な中国系タイ人の家系に属する三十代半ばの女性だ。ギャラリーの他に自らがディレクションするファッションブランドも立ち上げている。今日は自ブランドの赤のゆったりとしたフレアドレスを着ていた。彼女のふくよかな体型を反映してか彼女のブランドの服はルーズなシルエットが特徴だ。ドレスの色に合わせて、真紅のリップを塗っていた。パンプスの色も同系色の赤だ。ただしセクシャルな雰囲気ではない。フレームの太い黒のスクエアタイプの眼鏡を掛けた丸顔のせいか、なにかのアニメーションのキャラクターめいた印象を与えていた。
 東南アジアの富裕層は中国系が多く、家業を継ぐのは男性の兄弟であることがほとんどだ。そのため、富裕層の家系の二代目、三代目の女性が、実業を離れて趣味のアートやファッションや音楽の世界に進むのはよくあるケースだ。彼女もそうした東南アジアの富裕層に属する女性の典型例だった。
 ギャラリーでは、タイ人のグラフィック・アーティストの個展が開かれていた。極彩色のシンメトリーな幾何学模様で描かれた植物や昆虫の図像の作品が壁一面に掛けられている。どことなく田名網敬一の作風を連想させた。再会の挨拶をして、最近のタイの現代美術のトレンドを尋ねた。
「相変わらず新しいギャラリーがあちこちでできてるわ。プラ・スメン通り辺りが若い人に人気ね。ただきちんとアートを学んでないオーナーが作ったギャラリーもあるから、全部がちゃんとしたところというわけでもないけど。まだタイでは体系的に美術を学んだ人は少ないの」そう言って、肩をすくめた。  
 たしかにタイは現代美術の展示が中心で、西洋の近代美術を収蔵・展示する美術館はない。日本で人気の高い印象派やピカソやマティスのような巨匠の作品の実物を目にする機会もない。
「私は今、日本の福岡というところに住んでますが、ここには福岡南アジア美術館という南アジアの現代美術に特化した美術館があります。南アジアの現代美術を専門に扱う世界で唯一の美術館です。もちろんタイのアーティストの作品も収蔵しています」
「そこにチェンマイのアーティスト、モンティエン・ブンマーの作品が購入されて、展示されたと聞いたことがあるわ。行ったことはないけど」
「チャーチャーイ・プイピアの作品も収蔵しています。映像作家として有名なアピチャッポン・ウィーラセタクンは、福岡アジア文化賞を二〇一三年に受賞しています。福岡は、日本でアジア美術や文化の紹介に最も熱心な地方ですよ」
「面白そうな所ね。日本は東京しか行ったことがないけど。東京には時々ショッピングに行くの。ヨウジヤマモトの古着を買ったりするため。タイにはヨウジの服を手頃な値段で買えるお店はないの」
「日本のネット通販業者は国外への配達に対応してない場合があるし、英語のページすらないことも多いですからね。もし、気に入った服があったら私が買って、こちらに来る時に届けますよ」と私は返した。彼女の属するタイ人の富裕層ネットワークには、このギャラリーの顧客以外の現代美術のコレクターも含まれているはずだ。日本人アーティストの作品をタイ人コレクターに販売できるコネクションを作れる可能性を考えれば、ここで恩を売っておくのも悪くない。
「それは助かるわ。年に何度も東京に行くわけにはいかないから」
「日本の服もいいけど、日本の現代美術の作品に興味がありそうなタイ人のコレクターはいませんか? 最近、タイ人が日本の現代美術を扱うギャラリーに来ることが増えています」と私は尋ねた。
「あたってみるわ。私のクライアントはタイ人アーティストの作品を買う人しかいないけど、彼らのコレクター仲間にそういう人もいるかもしれない」と彼女は応えた。「逆にタイ人アーティストに関心のある日本人コレクターいる?」
「東南アジアの現代美術は、日本ではまだ一般的ではありません。ただ一部でタイやシンガポールのアーティストの作品を扱うギャラリーも出てきています」
「どういうタイプのアーティストが日本では人気があるの?」
「タイだとアレックス・フェイスとか良さそうです。奈良美智なんかに通じるキャッチーさとポップさがあって、マルティプルしやすいから。そういう意味で、ウィスット・ポンニミットのイラストは、すでにキャラクター商品化されて日本でも人気ですよ」
「あの絵はアレックスが五年前に描いたの」と彼女はカウンター後ろのスペースに描かれた壁画を指さした。曲がりくねった松の木を描いた絵だった。日本の屏風絵によく描かれるモチーフだが、タイで見たのはここだけだ。色使いやフォルムがポップなのは伊藤若冲の影響かもしれない。「アレックスは今は活動の拠点をLAに移してバンコクにいないし、新作は、作品購入の順番を待っている専属ギャラリーのウェイティングリストに載っていなければ、いつ買えるかも分からないわ」
「今から買うには、もう遅過ぎるかもしれませんね。世界デビューから間もないから、セカンダリー市場に作品が出てくる段階でもないですし」
 彼女のコネクションを通してアレックス・フェイスの作品を購入できるなら、福岡南アジア美術館へ購入の提案をする腹づもりだったが、あてが外れた。他にマルティプルしやすいキャッチーさやポップさを持つ新進タイ人アーティストがいないか訊いてみた。
 しばらく考えてから、「いますぐ思いつく人はいないわね」と彼女は言った。福岡南アジア美術館へ購入を推薦する作品を探していると彼女に伝えた。念のため、美術館に収蔵されればアーティストのプレステージが上がることも付け加えた。考えておく、その美術館がタイのアーティストによく知られているかどうかはわからないけど、と彼女は応えた。
 一時間あまり話したところで、彼女は手首の腕時計で時間を確かめた。スクエアタイプのピンクフェイスのカルティエだった。 
「約束のディナーまで時間があるから、その前に一杯やりたくなったわ」と彼女は言った。「よかったらご一緒しない?」
 私でよろしければ、と私は応えた。彼女は一人いた女性スタッフに何かをタイ語で伝えると外に出た。私は後を追った。
 行き先は、BACCから高架歩道に出て、一〇分ほど歩いた先にある、こちらも高架歩道と直結した複合商業施設だった。クロームのルーバーで覆われたファサードが目立つ四階建ての建物は、高級腕時計、宝飾品、ハイブランドなどのショップなどで占められている。完全に富裕層に特化したコンセプトのモールだ。
 入ったのは二階にあるワインバーだった。二階といっても天井が高い構造なので、四、五階程度の高さがある。入って左の壁一面に背の高いワインセラー置かれている。棚は隙間なくボトルで埋められていた。彼女の顔馴染みらしいウエイターが我々を窓際のテーブル席に案内した。窓からはバンコクの悪名高い渋滞が見下ろせた。
 ワインのリストを渡された彼女は私に尋ねた。「ピノ・ノワールの赤でいい? それからちょっとサイドディッシュも」
 私は頷いた。ワインには不案内なので、何も言えることはない。彼女はタイ語でウェイターに注文した。
「ここにはよく来るのですか?」と私は尋ねた。
「時々ね。ディナーの約束までの時間潰しとかに使ってるわ。今日もシェラトンのレストランで会食なの」
 ウェイターが、ミートソースを絡めたフェットチーネとトマトとモッツァレラチーズにバジルを添えたサラダの皿を運んで来た。ソムリエがボトルのラベルを彼女に見せてから、ソムリエナイフで器用にキャップシールを剥がし、コルクを抜いた。ワインがそれぞれのグラスに注がれ、我々は乾杯した。ミディアムボディに属するであろうそのワインは、私が普段スーパーマーケットで買い求めるものに比べてずいぶんと重厚な味がした。
「いま友達が九州の温泉巡りを計画してて、私も誘われてるの。行くのは来月くらい。車をチャーターして湯布院、黒川、別府の旅館に泊まるつもり。もちろん私達は日本語が話せないから通訳も連れていくけど」
 日本は中流以上のタイ人にとって手頃な観光地だ。距離的に近く、移動が楽な上に、東南アジアとは異なる異国情緒も味わえる。旅行にかかる費用もアメリカやヨーロッパに比べればずいぶん安い。東京や京都といった定番の観光地をひと通り体験したタイ人は、日本の地方都市を訪れる傾向にある。 
「楽しそうだ。九州に来るなら福岡も案内したいけど、ただ来月だとミャンマーにいる可能性が高いですね」
「ミャンマーは一度行ったことがあるわ。二泊しただけだけど。知り合いの旅行会社にモニターを頼まれたの。広報用のレポートを書くのを条件に、ホテルも移動も面倒見てもらえたわ。費用も向こう持ちだった。泊まったのはヤンゴンのストランドホテル」
 ストランドホテルは、東南アジアで最もプレステージの高いホテルのひとつだ。イギリス植民地時代に建てられたヴィクトリア様式の建物は、かつての大英帝国の威光を偲ばせる。このホテルはジョージ・オーウェルやサマセット・モームが逗留したことでも知られている。もちろん予算的に私が泊まれるグレードのホテルではない。
 ワインのボトルが空になる頃、ⅰPhoneをBAOBAOのバックから取り出して操作した。誰かにメッセージを送っているようだった。
「約束の時間が近いから、そろそろ出るわ。あなたはどうする?」と彼女が訊いた。
 私も出ると答えると、彼女はウェイターを呼んで会計を告げた。ウェイターが勘定書を持ってくると、それを一瞥して彼女はカードを渡した。勘定は私の月々の生活費の半分程度ではないかと想像した。
 ご相伴に与った礼を言うと、「いいわ。今度、日本に行く時にいろいろと教えて欲しいこともあるし」と応えた。
 エスカレーターで一階まで降りて建物を出ると、目の前の通りにシルバーのBMW7シリーズが止まっていた。小型の潜水艦みたいな車だ。彼女は軽く手を振るとリアドアを開けて、後部座席に乗り込んだ。車がゆっくりと発進するのを見送って、私はBTSの改札口のある高架歩道に向かって歩いた。

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2021年10月8日金曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーバードライブ』5 (1)

 第二章

5(1)

 ゴールデンウィーク明けの五月晴れの朝、私はバンコク行きの飛行機に乗るため、福岡国際空港へ向かった。マンションを出てスーツケースを一〇分ほど引きずって地下鉄大濠公園駅へ行く。荷物があるため、通勤客のいる時間帯を避けて遅めに出発した。地下鉄線に乗って一五分で福岡空港に着く。空港内のシャトルバスで国際線ターミナルまで一〇分。市内の自宅から四〇、五〇分で空港に行けるのが福岡の都市として利点だ。東京に住んでいた時に成田空港を利用していたような移動のストレスはない。
 十時頃に家を出て、十一時三十五分発のタイ国際航空TG649便のチェックイン・カウンターで搭乗手続きを済ませたのは十一時前だった。
 機内の乗車率は見たところ六割程度だった。半分はスーツを着たビジネス客だ。連休明けのハイシーズン直後だからだろう。昨晩自宅で遅くまで酒を飲んでいた私は席につくとまもなく眠りに落ちた。
 機内でうとうとしているうちに窓からの景色が東南アジア独特の風景に変わっていた。点在する農村や田園を縫うようにメコン川が蛇行している。機体がバンコクに近づくと、眼下に高層ビル群が唐突に現れ、地上に道路や車やビルボードのような人工物の数がにわかに増えた。 

 飛行機はスワンナプーム空港にほぼ定刻に到着した。福岡を発ってから約五時間半が経っていた。二時間の時差があるので、現地時間は十五時あたりだ。イミグレーションの前には世界各国からやってきた旅行客が列をなしている。タイが東南アジアで最も観光客の多い国であることを実感させる。イミグレーションのカウンターにたどり着くまで三〇分ほど並んで待った。パスポートを出して、係員にスタンプを押してもらい、スーツケースを拾うためターンテーブルへ向かう。スーツケースを受け取ると、同じフロアで旅行者用S1Mカードを買った。今回の滞在予定は一週間のため、七日間有効のカードを選んだ。 
 空港直結の高速鉄道エアポート・レール・リンクに乗り、パヤータイで高架鉄道BTSスカイトレインのスクンビット線に乗り換え、トンローで降りた。電車からホームに出ると湿気を帯びた熱気が一気に体を包んだ。タイの季節が本格的な雨季に入る前で、雨は降っていないものの湿度は高い。
 宿泊場所はAⅰrbnbで予約したトンロー駅のコンコースに直結したコンドミニアムだ。駅に近く移動しやすい立地なので、これまでバンコクに来た時に何度か利用している。コンドミニアムは三十三階建て、五〇〇室あまりの部屋数の建物だ。建物内にある共有施設のプールとフィットネスジムも無料で使える。バンコクによくあるタイプの富裕層向けの分譲コンドだ。一階のレセプションで部屋番号を告げて、カード式のキーを受け取る。エレベーターに乗り十七階の部屋に着いたのは、スワンナプーム空港を出て一時間あまり、福岡の家を出てから約八時間後だった。
 部屋の広さは五〇平方メートル程度で、洗濯機やキッチンも付属しているので、一週間の滞在で不便はなさそうだ。バルコニーに続く、天井まで達する大きな掃き出し窓からは、バンコクの高層ビル群が望める。一泊四〇ドル以下でこうした場所に泊まれるのは悪くない。
 部屋に入るとシャワー浴びて汗を流してから、MacBookをWⅰ–Fⅰに接続し、メールやメッセンジャーでアポイントメントを取ったアート関係者に、予定通り到着したことを知らせ、面会日時を再確認した。夕刻になると近所のフードコートでガパオライスを食べて、ビールを飲んだ。一五あまりの屋台が半露天の敷地を取り囲み、内側にテーブル席が一〇席程度置かれている。客は近隣に住むタイ人と欧米人の半々くらいだった。その日は移動で疲れていたので、コンドに戻るとすぐに寝た。

 翌朝、BTS高架下に連なる屋台でザクロのフレッシュジュースとカオマンガイ買って、部屋で朝食を摂った。コンドのプールで一時間程度泳いでから、ランチに外へ出た。リーズナブルでありながら小綺麗なインテリアで外国人に人気のトンローのタイ料理店〈シット・アンド・ワンダー〉でグリーンカレーを食べた。店を出るとBTSスクンビット線に乗り、面談の場所のあるサイアムで下車した。約束の時間は午後四時なので、二時間ほど先だ。しばらく街を歩いて時間を潰すことにした。
 サイアムの街の賑わいは渋谷を思わせる。ただしショッピングモールの規模はこちらの方が格段に大きい。サイアム駅に直結したモールの一つ、サイアムセンターに入った。このモールは、タイのローカル・ファッションブランドをテナントの主体としているところに特色がある。他のモールが欧米のハイブランドやファーストファッション中心なのとは一線を画している。ディスプレイもそれぞれのショップが趣向を凝らしている。中には、名和晃平の作品を思わせる、動物を形取った大きなオブジェが置かれたショップもあった。床面積当たりの売り上げをシビアに問われる日本では、こんな贅沢な空間の使い方はなかなかできない。日本ではコム・デ・ギャルソンのオンリーショップでくらいでしか見たことがない。
 足の向くままショップを巡って、タイのトレンドやタイ・ブランドのオリジナリティについてリサーチした。数年前までは、デザインの詰めや縫製の作りが甘かったが、ここ二、三年で大幅に改善されている。新たに開業された商業施設の多くにハイブランドのショップが店を構え、日常的にそうした商品を目にする機会が増えたからかもしれない。バンコクに来る度に巨大なショッピングモールが新たに建設されているのにいつも驚かされる。

 約束の時間が近くなったので、サイアムセンターに直結した高架歩道に出て、バンコク・アート&カルチャー・センター(BACC)に向かう。BACCの建物も同じ高架歩道と繋がっていて、サイアムセンターから徒歩で一〇分以内で行ける。BACCは、ニューヨクのグッゲンハイム美術館を思わせる螺旋構造を持つ九階建ての現代美術館だ。行先は、この建物にテナントとして入居しているギャラリーだった。BACCはバンコク都庁の所有物件で、運営資金の六割は都庁からの補助金で賄われている。残りの四割は運営組織が独自で調達する必要があるため、公営の美術館でありながら、民間のギャラリー、物販店、飲食店などがテナントとして数多く入居している。テナントからの賃料収入は、美術館運営のための収益源の柱となっている。各フロアに、五〇平米メートル程度のテナント用スペースが四、五箇所設けられている。私がこれから訪れるのも、この建物の三階に店を構える個人経営のギャラリーの一つだ。

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2021年9月24日金曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーヴァードライブ』4 (2)

 4(2)

 調べてみると、瞑想センターによってメソッドや指導法にかなり違いがあることがわかった。瞑想のメソッドはサマタとヴィパッサナーの二つに大きく分けられる。サマタは呼吸などの対象へ一点集中することによって禅定の状態に達することを目指している。ヴィパッサナーは集中力を使わずに、心身の観察によって気づきを得る瞑想法だ。ただし、ヴィパッサナーから枝分かれして、サマタのような集中没頭型の瞑想法を開発した比較的新しい分派もある。伝統的な指導法として、サマタ瞑想によって禅定の状態に達し、意識にニミッタと呼ばれる光が現れるようになった後に、次の段階としてヴィパッサナー瞑想に入るメソッドを採る瞑想センターもある。このメソッドでは、光が現れるようになるまで次の段階に進めないため、何年も先の見えない修業を続ける瞑想者もいるようだ。
 いずれの瞑想法も最終的な目標は解脱して涅槃に達することを目的としている。
 解脱とは、条件付けられた欲望や本能から超出した、認知の転換を意味する。人間も生物として、他の生物と共通する欲望や本能を備えている。自己保存を図るため快を求め不快を避ける欲求や、自らの遺伝子のコピーを増やす衝動に基づく生殖本能は他の生物と変わりない。進化の自然選択によって獲得されたこうした形質は、個体の自己保存と遺伝子の拡散を目的とするもので、それは必ずしも個人の幸福とは結びつかない。

 最初期の仏教は、通常の世間の人々の考える、欲望により形作られた世界を解体し、そこから超出するラディカルな理論と実践の体系として出発した。これは仏教が、古代インド北部の王国の王子として生まれ、容姿にも才能にも恵まれ、物質的には何不自由ない環境で暮らしていた青年、ゴータマ・シッダールタによって開かれたことに由来している。世俗のレイヤーでは悩みようのないこの青年ですら逃れられなかった「苦」–––パーリ語の「ドゥッカ」の翻訳に漢字のこの文字が当てられた。単なる苦痛というよりもより射程の広い意味を持つ。英語では「不満足(unsatisfactoriness)」と訳されいる–––から解放されるため、六年に及ぶ思索と修行の果てに証得したのは、「世の流れに逆らう」智慧だった。ゴータマが達したのは、生物的な本能に根ざした、快適な状態を望み、いとおしいものを愛で、危険や不快から遠ざかる感覚を「苦」を形作る煩悩として滅尽し、世俗のレイヤーの価値観が織りなす世界から別の次元、涅槃へと超出することで、真の自由を獲得できるという結論だった。
 「覚者」仏陀となったゴータマが完成させた、欲望や本能による条件付けから解放された領域、涅槃に到達するための理論と実践の体系である仏教の、実践の分野を担う修行が瞑想だ。
 こうしたオリジナルの仏教が持つ、反直感性やラディカルさは、五百年から千年あまりの歳月をかけて伝播し、それぞれの地域の固着の習俗や宗教と習合した東アジアでは薄められたり、変質したりしているが、南アジアの上座部仏教では、その原初の特質を色濃く残している。私が南アジアの仏教に興味を持ち、瞑想センターへの滞在を決めたのもそうした部分に惹かれたからだ。

 どの瞑想センターに滞在するかについては、ずいぶんと考えた。
 対象を一点に絞って集中するサマタ瞑想や、観察の対象を瞑想時の足の痛みに集中するヴィパッサナー瞑想の分派である集中没頭型のメソッドを採用する瞑想センターは、指導者が攻撃的なことがよくあるようだ。一つの対象に集中没頭して、力づくで思考や感情を無効化するこのメソッドは、精神的な消耗度が高いため、それに耐えられるのは偏執的な性向の人物である場合が多い。そして外部の環境や内的な思考・感情を無視して一点に集中する修行を続けた結果として、ある種の不寛容さや独善性を招きやすいようだ。ミャンマーで、第二次世界大戦後に開発されたヴィパッサナー瞑想の分派である集中没頭型のメソッドは、短期間の修行で解脱者を続出させたことで、一躍注目を浴び、一時はミャンマーの仏教界で瞑想法の主流をなすまでになった。しかし、独善的な傾向をもつ指導者を多数輩出し、異なるメソッドを採用する瞑想センターを激しく批判したため、ミャンマーの仏教界を混乱させる弊害も生んだ。そして、このメソッドを採用する瞑想センターには、外国人の修行者に評判が良くないところが少なからずある。勝手がわからずまごつく初心者の外国人が、指導者から怒鳴られることも珍しくないからだ。
 一方、伝統的なヴィパッサナー瞑想のメソッドを採用する瞑想センターは、穏やかな雰囲気で、指導者も温厚なようだ。ヴィパッサナーとはパーリ語で明確に観ることを意味している。ヴィパッサナー瞑想は、集中力を使わずに、心身の状態をニュートラルに観察する瞑想法だ。この瞑想法は集中没頭型のように短期の瞑想修行で解脱することはない代わりに、人格的な成熟を促す副次的な効果も期待できるという。仏陀は、瞑想法についての経典『大念住経(マハーサティパッターナ・スッタ)』を残しているが、この経典に最も忠実と言われているシェ・ウ・ウィン瞑想センターを選ぶことにした。この瞑想センターの創設者のシェ・ウ・ウィン師は、もともと集中没頭型の瞑想法を学んだ人物だった。しかし、このメソッドで解脱した指導者の多くが攻撃的で、その排他性から他の瞑想法を批判したことで、ミャンマーの仏教界の混乱と民衆の困惑を招いたことを深く憂慮した。ミャンマーは、人口の八割以上が仏教徒であり、敬虔な上座部仏教の信徒が多いため、僧侶とりわけ解脱者である指導者の社会的な影響力が強い。こうした状況を省みて、シェ・ウ・ウィン師は、戦後に主流となった集中没頭型の瞑想法を封じ、伝統的なヴィパッサナー瞑想を伝える自らの名を冠した瞑想センターを創立した。
 ヴィパッサナー瞑想は、観察による気づきの実践を主眼としているが、この「気づき」はマインドフルネスと英訳されている。二十一世紀になって西洋社会で注目されているマインドフルネス瞑想もヴィパッサナー瞑想がベースとなっている。ただしシリコンバレーの1T企業の経営者などが推薦している世俗的なマインドフルネス瞑想は、判断力の向上などの現世的な実利を目的としているため、瞑想の基盤となる仏教経典の教えとの結びつきは弱い。オリジナルの仏教では、ヴィパッサナー瞑想により得られた気づきにより、瞑想者は三相–––無常、条件付けられた苦、無我–––といった世界の真理を認識する智慧へと到達するとされているが、西洋で流行しているマインドフルネス瞑想の多くは、こうした現実をメタ認知するという視座の獲得は目指していない。このような測定可能な効果を求める世俗的なマインドフルネスは、仏教的マインドフルネスにあった真理との関係を切り離し、世俗的な価値基準へと矮小化しているとの仏教界からの指摘もある。そもそも解脱つまり涅槃への到達を目標とする瞑想の実践は、「役に立つ」とか「人格がよくなる」のような世俗の世界が織りなす物語の中で上手に機能することを求める文脈から超出することを本質としている。修行により解脱の最終段階に達した阿羅漢は、欲望により形作られた世界から完全に逸脱した存在となる。そのため、世俗の生活を営むことはもはや不可能となり、選択肢は出家して残りの一生を瞑想寺院・瞑想センターで送るか死ぬかしかない。それを肯定するのが仏陀の説いた仏教と、そのエッセンス受け継ぐ南アジアの上座部仏教のラディカルなところだ。

 五月の上旬の福岡発––バンコク着とその一週間後のバンコク発––ヤンゴン着の航空券をネットで検索して購入した。シェ・ウ・ウィン瞑想センターに五月中旬からの滞在は可能かどうか尋ねるため、Webサイトで連絡先やeメールを調べたが、センターでは予約の受付はしていなかった。直接現地へ行って滞在できるかどうか尋ねるしかないようだ。
タイもミャンマーも三十日以内ならビザ無しで滞在できる。
 福岡南アジア美術館の学芸員、山本良恵からeメールで返信があった。送ったレポートについての礼に将来性のありそうなアーティストやギャラリーがあれば繋いで欲しいと書き添えてあった。こちらの情報収集力も少しは認められたようだ。

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2021年9月20日月曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーヴァードライブ』4 (1)

 4(1)

 重野が帰った後、もう一杯ボウモアのソーダ割りを飲んだ。ターンテーブルの上の音盤は、ディアンジェロのライブ盤になっていた。「Brown Sugar」が店内に流れている。 
 店を出て、大名から大濠公園のマンションまで歩いて帰った。福岡城の城址を囲む堀に沿って植えられた桜は若葉を茂らせていた。堀の水面は睡蓮の葉に覆われている。睡蓮の花が咲く頃には、タイかミャンマーにいるはずだ。

 それからの十日間は、リサーチに時間を費やした。タイとミャンマーの現代美術の動向を調べた。
 東南アジアの国の中で、この二つの国を選んだのには理由がある。アジアの国々でアートマーケットが活況なのは、アートバーゼル香港が開催される香港と東南アジアで最も富裕層が居住するシンガポールだが、これらの国では、すでに有力ギャラリーが進出しているため新規参入は難しい。
 タイは一九九七年のアジア通貨危機でのタイバーツの下落を経た後、着実に成長を続け、一人当たりの実質GDPは二〇〇〇年代になってから八五パーセント近く伸びている。生活水準と可処分所得の向上に比例して文化的な関心も急激に高まっている。二〇〇八年には、現代美術を扱う大規模な美術館バンコク・アート&カルチャー・センターが開業している。また二十年にわたる経済成長の中で生まれたニューリッチの二代目や三代目が続々と首都バンコクにギャラリーを開設して、現地のアートマーケットは活況を呈している。街のDVDショップには、ジャン=リュック・ゴダール、ウォン・カーウァイ、ソフィア・コッポラらの作品が目立つ場所に置かれ、バブル経済が崩壊した後、一時的に文化的な爛熟が進んだ一九九〇年代後半の日本を思わせた。巨大なショッピングモールが次々と建設され、ヨーロッパやアメリカのラグジュアリーブランドのショップが中を埋めている。バンコクの商業都市としての規模は明らかに東京より大きい上、国際化もより進んでいる。外国人の居住者や観光客が多いため、ロンドンやニューヨークなどの先端文化や風俗が伝播する速度も東京よりも早い。
 ミャンマーはタイと対照的な国だ。長らく軍政で、経済停滞が続いたこの国では、ハイブランドで埋め尽くされたショッピングモールなど望むべくもない。二〇一一年に民政移管が実施され、二〇一五年の総選挙の結果、翌年、五十四年ぶりの文民政党による与党が誕生した。二〇一一年の民政移管後、海外からの投資が一気に拡大した。世界に残された数少ない経済フロンティアとしての注目を浴びたためだ。だが、その外国投資も二〇一五年をピークに減少傾向にある。電力や交通などのインフラが脆弱で、外国企業を保護する法律が未整備なことで、進出したものの事業が立ち行かずに撤退する企業が相次いだ。隣国のタイが一九八〇年代からODAを通じてインフラの整備を推進し、海外から企業の誘致に成功したことで、工業化と輸出の拡大が進み、目覚ましい経済発展を遂げたのとは異なる歴史を歩んでいた。少数の例外を除き、外国人や外資系企業がこの国で経済的な成功を収めるのは困難であることは明らかになりつつある。それでも、この国に惹かれる外国人はいた。未開拓で未整備な荒野のようなフロンティアの広がりを目にして、利得を超えた好奇心やある種の冒険心をくすぐられるのだろう。アート関係者からほぼ無視されているこの国に関心を持つ私もそうした人間の一人なのかもしれない。
 そしてこの対照的な両国は国境を接しており、首都バンコクと商都ヤンゴンは飛行機で一時間半足らずで移動できた。まず、福岡からバンコクへの直行便のあるタイに行って、それからミャンマーに移動することにした。最終目的地のミャンマーで、瞑想センターにしばらく滞在してみることにした。ネットの情報や上座部仏教の解説書を読むと、多くの瞑想センターがミャンマーに存在することがわかった。

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2021年9月2日木曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーヴァードライブ』1 2019年4月 福岡市大名(2)

3 二〇一九年四月 福岡市大名(2)

 ターンテーブルの音盤がまた切り替わった。今度は山下達郎のライヴ盤『IT'S A POPPIN' TIME』だった。
「話は変わるけど、山下達郎と村上春樹って似てないか?」と私は言った。
「なんだそれ? 少なくとも、顔は似てないぞ」
「そうじゃなくて、キャリアの進め方に共通するものを感じる」二杯目のギムレットを飲み終えた私は、ボウモアのソーダ割りに切り替えた。「達郎の初期のアルバムからは、カーティス・メイフィールドやアイズレー・ブラザーズの直接的な影響が聴き取れるし、春樹の初期の作品も、カート・ヴォネガットやリチャード・ブローディガンとの近似性を、発表当時は、批評家から指摘されていた。二人とも、リズム&ブルースやカウンターカルチャー小説といったアメリカの都市文化からの影響を出発点に、キャリアを重ねる中で、日本的な文脈を織り込んだオリジナリティを確立している。そうした意味で二人とも極めて日本的なクリエイターともいえる。この国の文化の基層は、外来の文化や文物をローカライズして、習合させることで成り立っているからね。漢字にしても、仏教にしても」
「なるほどな」重野が応えた。「経済学者のケースだと、宇沢弘文があてはまるかな」重野が二杯目のブラントンのオンザロックを頼んだ。「新古典派の理論経済学者として出発した宇沢は、シカゴ大学で頭角を現し学派を形成するまでになったが、ベトナム戦争が激化する中で右傾化するアメリカの政治経済に対する失望と反発からアメリカを去ることを決意する。日本への帰国後、今度は社会問題として先鋭化していた公害の問題に直面する。当時の高度成長期の日本では、水質汚染や大気汚染などの公害が引き起こす、健康被害や環境問題が深刻な社会問題となっていた。そうした被害が起こった現地に足を運び、被害者の支援グループや市民運動にコミットメントする過程を経て、宇沢は従来の経済学が無視していた外部不経済–––市場の取引外で生じる不利益–––をも包括する経済学の理論を構想した」
「主流の新古典派経済学では、私有されていない自然環境は、企業や個人が利潤追求のため制約なしに使ってよいとされていた?」
「そう、宇沢はその前提に疑問をもったはずだ。そこで市場経済の外にある環境や制度を経済学の対象に取り込もうとした。具体的には、海や山や大気などを自然資本、交通や電力などを社会的インフラストラクチャー、教育や医療などを制度資本と定義した。そしてこれらを市場原理が適用されるプライヴェート・セクターとは別の体系で運用されるべき社会的共通資本として概念化した。参照されたのは、人類のあらゆる文化や地域で観察されるコモンズの存在だ。たとえば、イランのボネー、スペインのエルタ、インドネシアのスバクなどの灌漑用水や、日本の入会制度、イタリアのヴァーリ、西アフリカのアカディアなどの沿岸漁業についての共有管理システムだ」
「『見えざる手』に導かれて、市場が調和的に均衡するという伝統的な経済学のもつ一神教的な価値観を、市場の外にあるものを取り込むことで多神教的なそれに展開させたともいえるな」
「面白い逸話が残っている。一九九一年に時のローマ法王ヨハネ・パウロ二世に経済学者として、この社会的共通資本を御進講した宇沢を、後に法王は、宇沢のことを『あの仏教徒』と呼んでいた」
「神の意思において市場が常に均衡するという一神教的な経済学に、市場以外の概念を導入したことに多神教の仏教的な世界観を感じたのかもな。仏教には、ユダヤ・キリスト教のような超越的な唯一神は存在しない。
 仏教的な世界観だと、お前が今飲んでいるバーボンも大麦や水などの原料だけに還元できない。太陽、大地、空気、木、雨、風などのウィスキーの原料以外の宇宙のすべてがそれに含まれている。仏教の縁起や因果という概念では、森羅万象のネットワークの中で、様々な要素や事象が交差し、切り結んだ結果として、我々の目の前の世界は構成されている」
「単純な要素還元主義では世界は説明できないということか。ケネス・アローとジュラール・ドブルーは、エレガントな数学的な手法を使って、世の中すべての生産と消費が一致する一般均衡のモデルを定式化したが、それは極めて限られた条件のもとでしか成立しない。そこでは人間は、経済的な利益を最大化すること以外の関心を持たない。言ってみれば、贈与もボランティアも恋愛も友情も存在しない世界だ。行動経済学の分野でも、そうした経済人の実在は疑われている。
 さらに完璧な市場の存在が前提とされている。つまり、すべての消費者は購入する製品やサービスについて完全な情報を持っていて合理的に行動するし、市場には寡占や独占は存在しない」
「完璧な市場などといったものは存在しない。 完璧な絶望が存在しないようにね」と私が返すと、重野が鼻で笑いながら応えた。
「ケインズは大恐慌の時代に、市場の不完全性を明らかにした。たしかにあの時に、新古典派の主張するような完璧な市場は存在しなかった。そうした状況で、政府支出などを通じて人為的に需要を作り、市場を安定させるというケインズの示した経済に対する処方箋は、当時は革命的とも言えた。ポール・サムエルソンは『南海島民の孤立した種族を最初に襲ってこれをほとんど全滅させた疫病』にたとえてるし、ポール・クルーグマンは『世界の見方をまるっきり変えてしまい、いったんその理論を知ったらすべてについて違った見方をするようになってしまう理論』と言っている。二人ともノーベル経済学賞の受賞者だ」
「『見えざる手』のような超越的な力に頼らず、自助努力で問題を解決すると言う点では、ケインズ革命は仏教と似ているかもしれない。もっとも仏陀の説いた仏教は、瞑想によって解脱して、欲望を消滅させることを目的にしているから、解脱者が増えたらその分確実に需要も供給も減る。解脱者は、労働も生殖もしないし、喜捨で施される以外の自発的な消費もしないからね」
「ケインズは『孫たちの経済可能性』という一九三〇年に発表したエッセイで、百年後の世界を予想している。ケインズの予想では、今から約十年後の二〇三〇年の世界では、技術革新によって物質的な要求は満たされ、日々の生活を保証するレベルの経済的な問題は解決されている。これは今の先進国には、ほぼ当てはまる状況だな。
 今のところ当たってないのが、そうした社会では一日三時間も働けば十分なため、人々は余暇をどう過ごすかに頭を悩ませるだろうという予想だ。『特別な才能もない一般人』が趣味や余暇を見つけるのは大変だろうと、彼は心配している。一世を風靡した経済学者で、有能な財務官僚で、やり手の投機家で、芸術家との親交が深かった、貴族的なエリートを自認していたケインズならではでのご心配だろうが。今後、そうした世界が訪れるなら、瞑想に没頭する人間が増えるのも悪くない。みんなたいして働く必要がないわけだからな」
「俺もタイとミャンマーにリサーチに行ったら、ついでにミャンマーの瞑想センターにしばらく滞在してみようかと思っている」
「お前は働く必要があるだろ」と重野がまた笑った。「そういえば、ジョン・スチュアート・ミルも、経済成長の時代が終わった後の人口や資本ストックが一定となる定常経済を予想している。十九世紀半ばのことだから、ケインズより一世紀近く前になる。
 ミルが予想した定常経済では、資本や人口が定常状態にあっても、技術革新の進歩や文化活動の停滞は起こらない。むしろ利潤の追求という成長経済の中で求められる目標から解放されることで、より高次の発展が期待できると考えた」
「経済成長そのものは普遍的な価値観ではありえないからね。いつの時代も考えられてきた真・善・美や幸福の追求とは位相が違う」
「そうかもしれないな。経済成長が政府目標となったのは、第二次世界大戦後のアメリカからだ」グラスのブラントンのオンザロックを飲み干して重野が言った。「そろそろ帰るよ。明日も朝から役員会だ。少なくとも、うちの古参の役員たちは、五十年前の日本の高度成長期を体験しているから、経済成長の神話をいまだに信じている。俺も社外取締役として残るためには、彼らの意向に沿う提案をしないといけない。それが現実的かどうかは別として」
「また連絡する。ミャンマーから帰ってきた後になるだろうけど」
「ああ、またな。次に会う時は、お前は解脱してるのかもな。涅槃の世界がどんなものか教えてもらえるとありがたいよ」

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2021年8月31日火曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーヴァードライブ』1 2019年4月 福岡市大名(1)

3 二〇一九年四月 福岡市大名(1)

 福岡市の大名の雑居ビル内にあるバー「スモール・タウン・トーク」には、私以外の客はまだいなかった。バーテンダーの背後のスピーカーからダニー・ハサウェイの『L1VE』が流れている。午後七時の店内の空気はまだ酔客に掻き回される前で澄んでいた。  
 今夜、重野聡とここで待ち合わせをしていた。浄水通りの彼の祖父の邸宅で会ってから二週間あまりが過ぎていた。福岡南アジア美術館で学芸員との面談をセッティングしてくれた礼も直接会って言いたかったが、重野が多忙で、なかなか彼の時間が取れなかった。
 私がその間にしたことといえば、せいぜいタイとミャンマーの現代美術についてのレポートをまとめて、福岡南アジア美術館の学芸員、山本良恵へメールを送ったくらいだった。
 ギムレットを一杯飲み終わる頃に、重野がやって来た。私の隣のカウンター席に腰掛けて、ブラントンのオンザロックを頼んだ。いつの間にか、ターンテーブルの上の音盤がカーティス・メイフィールドのライヴ盤に変わっていた。今夜の選曲ははライヴ盤を中心に組み立てるらしい。 
「遅れて悪い。いろいろと立て込んでてね。大学は新学期が始まったばかりで、いろいろと行事がある。会社は、祖父さんが亡くなってから、新体制になったので、役員会が頻繁に開かれてる」
 仕事帰りの重野はヒューゴ・ボスのグレーのスーツで、茶色のコードバンのウィングチップを履いていた。私はデニムジャケットとチノパンツにスニーカーという普段着だった。
 「この前は、福岡南アジア美術館への口利きありがとう。おかげで学芸員に会えたよ」
「どうだった?」
「何とも言えないね。こちらは何の実績も肩書きもないわけだし」
「しかし、お前はなんで経済学部を卒業して、アートの仕事なんか始めたんだ?」重野が尋ねた。 
「いろいろと理由はあるけど、経済学的な観点からだと価格形成の面白さに惹かれたということになるかな。
 たとえば、アダム・スミスやカール・マルクスの唱えた労働価値説、つまり商品に投入された労働量によって価格が決まるという理論はあてはまらない。ピカソは九十一年の生涯でおよそ一万三五〇〇点という大量の絵画を描いているが、一枚当たりに要した時間は非常に短いと言われている。知ってのとおり、ピカソは美術市場で最も高い値段のつく画家の一人だ」
「キャリアの長さを考えれば、生涯を通じて投入された労働量は多いだろ」
「ところがそうとはいえないんだ。ピカソの評価は、キャリアの前半の方が圧倒的に高い。美術愛好家でもある経済学者デイヴィッド・ギャレソンが調査したところ、ピカソの二十代半ばに描いた絵は平均して一点につき、六十代に描いた絵の四倍の値がついている。つまりアートのマーケットでは労働価値説はあてはまらない」
「新古典派の限界効用説は適用できるだろう。供給量の限られた希少品だから、作品を一つ購入することによって得られる満足度が高い」
「必ずしもそうともいえないんだ。特に現代美術については。作り過ぎてもだめだが、寡作すぎるとマーケットで市場が形成されない。いまの傾向だと、マルティプルしやすい–––平たく言うとグッズ化しやすい–––アーティストの作品の価格が上がりやすかったりする。草間彌生も村上隆もルイ・ヴィトンとコラボレーションしているけど、そうした傾向とは無関係ではないだろうね」
「家の祖父さんはオリジナルのコレクターだったけどな。複製品の人気がオリジナルの評価に逆流してるってことか」
「そうとも言える。さっきの質問にもう一度答えると、古典派や新古典派経済学の枠に収まらない人間の欲望について関心があるからということになるかな」
「ずいぶんご大層な理由だな」重野が笑いながらまぜっ返した。「で、それで食えそうなのか?」
「正直まだわからない。競合が少ない東南アジアの現代美術に専門化するつもりだ。もうすぐリーサーチのため、タイとミャンマーに行く」

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2021年8月25日水曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーヴァードライブ』1 2019年4月 福岡市中洲(2)

2 二〇一九年四月 福岡市中洲(2)

 席に着いた彼女がウェイトレスにコーヒーを注文して、話し始めた。「すみません。突然上司に言われてここに来たので、事情がわかってないんです」
「こちらこそ貴重なお時間をいただいて、恐れ入ります。友人の親族のコネクションを通じて、東南アジアの現代美術を担当する学芸員さんを紹介していただくようお願いしました」
「それで本日はどういう御用件なんでしょうか?」
「銀座の画廊に勤めてましたが、一か月ほど前に退職しました。こちらで東南アジアの現代美術専門のギャラリストとして独立することを考えています。フリーのギャラリストとして何かお手伝いできることはないかと思い、お訪ねいたしました」
「ご存知かもしれませんが、まずは当館についてご説明させてください。当館は、南アジアの現代美術を収集、保存、展示する、世界唯一の美術館として一九九九年に開館しました。約三四〇〇点の作品を所蔵し、随時、展覧会などで展示しています。福岡市のアジアの美術関係者との交流は長い歴史があります。日本で最初のアジアの現代美術展『アジア美術展』が、福岡市美術館により開催されたのが一九七九年です。その頃から福岡市美術館によるアジアの現代美術の収集は始まっています。南アジアの現代美術の作品の多くは、西欧美術とは文脈が異なり、既存の美術館ではコレクションの展示がなじまなかったため、福岡市美術館から枝分かれする形で、当館『福岡南アジア美術館』が開館されました。開館を記念して、開館と同年の一九九九年に『第一回アジア美術トリエンナーレ』が開催され、その後、原則三年に一度、トリエンナーレはこれまで計五回開催されています。残念ながら諸事情で、二〇一四年を最後にトリエンナーレの開催は休止していますが、少なくとも、南アジアの現代美術に、世界で最も早く注目して、最初に取り上げたのは福岡の美術関係者であったことは確かです。早くから福岡市の学芸員が現地を訪れ、調査の上、アーティストを選抜、招聘し、展覧会を開催して、時には作品を購入したことで、南アジアのアーティストや学芸員には当館はよく知られた存在です」
 おそらくあちこちで何度も説明して慣れているのだろう。よどみなく流れるように一気に話し切った。 
「もちろん、公的な美術関係者には広く認知されているし、これまでの活動も高く評価されてるでしょうね。でも最近バンコクなどの東南アジアの大都市に増えている独立系のギャラリーの活動はご存知ですか?」
 彼女は、少し悪戯っぽく微笑んだ。「私どもが公務員だからといって、時流に疎いとは限りませんよ。美術の専門家としていつも現地の情報はフォローしています」
「失礼しました。ただ、東南アジアの新進のアーティストは、独立系のギャラリーが主な発表の場で、現地の公的な美術機関や美術関係者とは交流がないケースの方が多いです。私はそうした中からめぼしいアーティストやギャラリーを見つけて、関係を築いている最中です」
「もちろん存じています。そうした場所も海外出張した時の調査対象に入れています」
 彼女と話していると、東京のアートマーケットに属する人々と接していた時に感じていたのと同じ印象を受けた。社交的で、にこやかで、万事そつない。弾力性のある透明な繭のような膜に覆われていて、それより先に近づくとやんわりと押し戻される。
 地元出身者でないことは、言葉遣いや立ち振る舞いでわかる。美術館の学芸員は、オーケストラの楽団員と同様、極端な買い手市場だ。一定以上の規模の都市で、組織に欠員が出て、補充の求人を出すと、全国から応募者が殺到する。美大や音大からは、毎年確実に卒業生が送り出されるが、彼らが学んだことに関連する職種の求人は、同じ割合で増えていないからだ。彼女も相当な競争率を勝ち抜いて今の職を得ているはずだ。
「もしかしたら、私が知っている東南アジアのアーティストやギャラリー、現地の美術運動で、こちらの学芸員さん達がまだご存知ないものもあるかもしれません。よろしければ無償で現地の情報をご提供させていただけませんか?」もう少し粘ってみることにした。美術館の展示や購入を仲介する立場になれば、現地のアーティストやギャラリーから得られる信用や協力もずいぶん違ってくる。直接の収入にはならなくとも、やってみる価値はある。
「アジアの美術関係者の中では、当館のプレステージは、こちらで想像するよりずいぶんと高いです。東南アジアの現代美術家の中には、当館での展覧会の開催や、当館が中心となってキュレーションするアジア美術トリエンナーレへの参加を、自国外での認知を広める最初のステップと考えているアーティストも一定数います。そのため、先方から展示や購入のオファーも少なくありませんが、こちらで集客を望めるアーティストの作品でない限りお断りせざるを得ないのが現状です。もちろん無料で情報をご提供くださることはお断りしませんが」
「では後ほど、メールでレポートをお送りします。もしご興味のあるアーティストやギャラリーがあればお知らせください。来月、タイとミャンマーに行く予定です。ご紹介したアーティストの作品の展示や購入をご検討されるなら、私が彼らに美術館の意向をお伝えしますし、簡単な交渉なら代理としてお引き受けします」
「あまり期待されないでくださいね。ご存知の通り、当館は市営で予算も限られています。現代美術を扱う公立の美術館でも東京現代美術館なんかと比べれば、使える予算の桁が違います。正直言って、ここでは現代美術に関心のある人々の数は限られていますし、その中でも扱っているのが南アジアの現代美術ですから。東京やアジアの美術関係者には、世界で唯一の南アジアの現代美術に特化した美術館であることを評価されていますが、市民の皆さんの関心が高いとは言えません。西欧絵画、たとえば印象派やキュビズムのように、鑑賞のしかたが広く知られた分野でもないですし。どうしたら市民の皆さんに南アジアの現代美術をもっとご理解していただけるかについては、私たち学芸員もいまだ手探りです」
「いまのお仕事を始めてどれくらいなのですか?」
「二年になります。東京の美大を卒業して、しばらくフリーのキュレーターをやっていました。今の仕事が決まって、福岡に引っ越しました。まだ、こちらのことは知らないことばかりで」
「私も戻ってきたばかりですが、よろしければご案内しますよ。いちおう地元なので土地勘はあります」
 もう一度、彼女が微笑んだ。今度は、相手から何の感情も読み取ることができなかった。「ご親切にどうもありがとうございます。でも、職場の皆さんが気にかけてくださっているので、ご心配には及びません」
 彼女を覆う透明の膜が、再びやんわりと私を押し戻すのを感じた。

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2021年8月19日木曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーヴァードライブ』1 2019年4月 福岡市中洲(1)

 2 二〇一九年四月 福岡市中洲(1)

 重野に会った約一週間後、私は福岡市の中洲にある福岡南アジア美術館で人を待っていた。福岡南アジア美術館は、南アジアの現代美術に特化した世界で唯一の美術館だ。美術館は、福岡市の歓楽街、中洲の商業ビルの中にある。建物の上層フロアの二階(正確には高さを維持するため三階分のフロアを使用している)がこの美術館に割り当てられている。一〇〇〇平方メートルを少し超えるギャラリー二つと約四〇〇平メートルにシアターホール、図書室、カフェなどを備えた文化施設だ。
 
 私が福岡に移住した理由の一つに、東京よりも立地がアジアに近いことがあった。東南アジアのアーティストを専門にするギャラリストとして活動すれば、他の同業者との差別化ができるのではないかと考えたのだ。
 東京のアート・マーケットは、買い手も売り手も、ほぼ富裕層のネットワークに属していた。東京の中で連綿と資産や文化資本を受け継いできた人々だ。彼らの多くは、学費の嵩むリベラルな校風の私立高校の卒業生で、同じような服を着て、同じような話し方をし、(概ね誰とでも社交的であるものの)親しく付き合うのは同じ階層に属する人々とだった。直接の交流がない業界内の人物でも、仕事上の必要性が生じれば、知人や親族を通じて、比較的容易にコンタクトをとることができた。こうした地縁、血縁で結びついたネットワークの外にいる地方出身者で、名を知られた現代美術のアーティストとも特別なコネクションを持たない私が、東京で独立してアート・ビジネスを営むのは難しいと考えた。
 そこで、市場での評価がまだ完全に定まっていない東南アジアの現代美術に特化して、既存のアートディーラーとの差別化することを考えた。福岡は、アジアの現代美術を専門に扱う福岡南アジア美術館があるほか、アジアの二十数カ国の現代美術が一同に会する福岡アジア美術トリエンナーレを開催していた。アジアの現代美術がほぼ無視されていた時代から、市営美術館がアジアのアーティストの作品を購入していた歴史もある。

 今日この美術館へ来たのは、南アジアの美術を担当している学芸員にヒアリングするためだった。市の関連部署に電話をしても、メールを送っても思うような反応が得られなかったので(こちらに何の実績もないので当然ともいえるが)、重野の祖父の生前の美術関係者との伝手を頼って面談にこぎつけた。
 美術館併設のカフェでコーヒーを飲みながら待っていると、約束の午後一時半ぴったりに学芸員が現れた。
「お約束していた、小林天悟さんでいらっしゃいますか?」声の主は、三十代前半の女性だった。「はじめまして、山本良恵と申します」
「はじめまして、小林です」互いに名刺を差し出して、交換した。
 市営の美術館の職員だが、地方公務員にありがちな、個人の特性がまったく見えてこないタイプではなかった。むしろ正反対だ。sacaⅰのミリタリージャケットに同系色のカーキのタイトスカートを合わせている。髪はミディアムショートで、首筋のあたりで綺麗に切り揃えられていた。よく手入れされた爪には、ナチュラルカラーのマニキュアが塗られていた。ブラウンのミディアムカラーのアイシャドウに縁取られた二重の大きな目がくるくると動き、知的好奇心をもって外の世界を観察している。
 この日、私が着ていたのは、ジュンヤワタナベのグレンチェックのジャケットとチノパンツで、靴はグレーのニューバランスのスニーカーだった。スーツだと硬い印象を与えるのではと思い、それ以外で所有する数少ない比較的フォーマルな服をワードローブから選んでいた。この相手なら、今日の衣服の選択はそうは外していないはずだ。もちろん私のワードローブの極めて限られた選択肢の中での話だが。 

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2021年8月12日木曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーヴァードライブ』1 2019年4月 福岡市浄水通り(2)

1 2019年4月 福岡市浄水通り(2) 

 私が銀座の画廊を退職し、下北沢のアパートを引き払って福岡に移り住んだのは一ヶ月前だ。叔父が遺してくれたマンションにそのまま暮らすことにした。十階建マンションの五階にある2LDKのその部屋からは、すぐそばの大濠公園を見下ろせた。下北沢で借りていた1DKのアパートに比べればずいぶん広くて快適だ。大濠公園は、福岡市の中心部に立地する、美術館、能楽堂、日本庭園を内に備えた都市型の公園だ。二十二万六千平方メートルの大池を取り囲む約二キロメーターの周回歩道は、市民のジョギング・コースとして親しまれている。
 毎朝、起きると大濠公園でジョギングした後、部屋に戻ってコーヒーを淹れて飲んだ。ネットでニュースを読んで、協業の可能性のあるアートビジネス関係者に連絡を取った。夜は本棚から本とLPを取り出して、読書をしながら音楽を聴いた。テレヴィジョンの『マーキー・ムーン』やパティ・スミスの『ホーシズ』やルー・リードの『トランスフォーマー』を聴きながら、ロベルト・ポラーニョの『2666』やジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリの『千のプラトー』を読み、酒を飲んだ。おそらく叔父もこうして夜を過ごしていたのだろう。酒好きだった叔父は、小さなバーが開店できるくらいのボトルを残していてくれたので、幸い飲む酒に困ることはなかった。これも私のために残していてくれたのかもしれない。叔父の心遣いに感謝した。ボトルのコレクションは、スコッチ、バーボン、焼酎が中心で、日本酒やワインは少なかった。叔父の生前の私生活を連想させるような遺品は、部屋から注意深く取り除かれていた。

 重野にコンタクトを取ったのもこの頃だ。地場財界の重鎮であった彼の祖父の死は、この地で大きく報道された。
 一般に、価値のある美術作品がまとまって市場に出る機会は「3D」––- 死(Death)、離婚(Divorce)、負債(debt)–––と言われている。やはり私も、コレクターとして知られる彼の祖父の遺品が市場に出る可能性を考えた。
 
「家の遺族は、美術品を一括で買い取ってくれる業者を探している」と重野が言った。
「それは俺には手に余る仕事だな。二、三点なら買ってくれるコレクターを仲介できると思う。俺も自分のビジネス用の在庫として欲しいものがある。もちろんキャッシュの持ち合わせはないから、叔父から引き取ったマンションを売った金で買える作品になるけど」  
「遺産の処分の方針については、いま親族と税理士が話し合っている。それ次第だな。お前でも関われそうなら、また連絡するよ」 
「恩に着るよ」

 ジョージ・ネルソンがデザインしたテーブルの上に、PCに繋がれたVRゴーグルがあった。ゴーグルは横二十センチ、縦と奥行きが十センチ程度の大きさだった。
「これは何だ?」と私は尋ねた。
「機能的磁気共鳴断層撮影でスキャンした祖父さんの脳の活動を、プログラマーが作ったアルゴリズムで変換して映像化したものが見れる」
「何だってそんなことをしたんだ?」
「祖父さんは、三十年以上臨済宗の禅をやっていた。熟練の瞑想者の脳の活動は、普通の人間それとはけっこう違うらしい。祖父さんは現代美術のコレクターだったが、自分で作品を作ることはなかった。これを作ったのは亡くなる半年くらい前だ。これをインスタレーションと呼べるなら、祖父さんが作った生前唯一の作品と言えるかもしれない。自分でも何か作品を残したかったかもな」
「見てみてもいいかい?」
「ああ、ちょっと刺激的かもしれないが、お前なら大丈夫だろう」
 私はVRゴーグルを手に取って、自分の顔に取り付けた。
「じゃあ、PCをオンにして、これから流すぞ」後ろから重野の声がした。
 しばらくして、眼前に映像が浮き上がってきた。無数の発光する不定形なアメーバ状の物体が視界全体に迫ってくる。それぞれの物体はひも状に突起を伸ばしながら、相互に複数の物体と繋がっている。個々の物体から複数の突起が現れ、細長くそれを伸ばしながら、軟体動物の触手が何かを掴むように次々と他の物体に繋がっていく。まるで脳の神経細胞から軸索が伸びて、シナプスが他の神経細胞の樹状突起の受容体へシグナルを送っているのを見ているようだ。
 個々の物体は新しく現れては消え、それにつれて互いの接続点が変わることで、ネットワーク全体も不断に流動している。
 こうした現象を概念化したモデルがいくつかあったのを思い出した。
 ひとつは、空海の唱えた重々帝網だ。仏法の守護神である帝釈天の宮殿を飾る光り輝く網を例に取って説明された世界像だ。網の結び目ひとつひとつは、鏡球(宝珠)で、互いに鏡像を映し合っている。それぞれの鏡球に、全方位の他の鏡球が映り込むことで、鏡球のひとつひとつがネットワーク全体を包摂している。鏡球が互いに鏡映し合い、個であると同時に相互に連結したネットワークの全体である世界像。個々が相互に結びつき、映し合うことで、関係性が生じ、あらゆる事象が起きていく。空海は、世界を律する縁起の法則を、このモデルによって説明した。
 あるいは、ドゥルーズ=ガタリが提唱したリゾームの概念。ドゥルーズ=ガタリは、超越的な一者から他のものが派生していく固定的、不活的なツリー型の思考形式に対峙する、流動的で生命力を孕んだモデルとしてリゾームの概念を提唱した。多方に線が飛び交い、異質な結節点が互いに影響を与え合いながら、ネットワーク全体が生成変化して形成される、脱中心的で、始まりも終わりもない、個と全体の境界が不可分なエネルギーの力場だ。
 そして、現代美術の分野でも眼前の映像と同様の世界観を感じさせる作品があったのを思い出した。
 草間彌生の一九六〇年制作の作品『Infinity Nets Yellow(無限の網 黄)』だ。草間のスタジオを訪ねたフランク・ステラが個人的に買い取り、美術界で草間の再評価の機運が高まる中、二〇〇二年にワシントンのナショナルギャラリーにより百万ドルで購入された作品だ。個々のドットが相互に複雑に絡み合いネットワークを構成し、個と全体の境界が消失し、図と地が等しく存在する図像は、まるで空海やドゥルーズ=ガタリがモデル化した世界像をカンヴァス上に具現化したようだ。
 
 そして私の遍歴はここから始まった。行き先は、ダンテがくぐった地獄の門でも、ロバート・プラントが歌った天国への階段でもなく、ブッダの説いた涅槃の入り口だった。

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