2016年5月12日木曜日

ミャンマーで仏教を考えた~おっぱいからの超克

ミャンマーに住んでいると、仏教を意識せずに生活をすることはできません。
毎朝、あらゆる通りで、数多くの托鉢僧の姿を目にするわけですから。
たまに、托鉢僧の中で、この人は本当に悟ってるんだろうなと感じさせるお坊さんもいます。
纏っている空気感や、醸し出すオーラが、明らかに俗人と異なっている。
こうした人は、渇愛や我執といった、凡夫が囚われている世界から精神的に自由なのでしょう。

ただ凡夫から見ると、僧院で厳しい戒律を守って、毎日修行するのは、肉体的にかなり不自由な気がしますが、それは私が凡夫故の感覚です。

3、4年前に通勤路だったShin Saw Pu通りで毎朝すれ違っていたお坊さんは、静謐なオーラと歩く所作の美しさから、この人は悟っているのだろうな思わされました。



テーマが壮大かつ難解なので、これまで仏教をテーマに書くことは避けてきたのですが、最近滅法面白い仏教の入門書、魚川佑司著『講義ライブ だから仏教は面白い!』(講談社+α文庫)を読んだのを期に、この本を底本として参照しつつ、凡夫の視点から仏教について書き連ねることにしました。
本書は、質問者と著者の問答による形式で構成されていて、説明がコロキアル(口語的)で、比喩や表現が現代的で読みやすい、煩悩の対象となる喩えに、おっぱいやイケメンを持ってきたり、そんなとっつきやすい表現を用いつつ、仏教の基本的なエッセンスが詳細に説明されています。そもそも、お経もお釈迦様と弟子の問答という形式を取っているので、もともとのお経は同時代人の人たちにこんな風に響いていたのかもしれないと想像しました。
著者の魚川佑司氏は気鋭の仏教研究者で、ミャンマーの僧院で5年間の修行された方です。



言うまでもないことですが、私は悟っているわけでもないし、さらに言えば仏教徒とも言い難い人間です。これから書くことは、アマチュア仏教関連書籍愛好者としての(おそらくは)かなりバイアスのかかった見解であることをご了承ください。

1. 日本の仏教(大乗仏教)とミャンマーの仏教(テーラワーダ)

まずは我々日本人にとっての仏教について、再確認します。
なぜかと言えば、ミャンマーや周辺の東南アジア諸国で信仰されているテーラワーダ(上座部仏教)と、我々日本人がイメージする仏教(大乗仏教)ではずいぶん異なるからです。
わかりやすい例を挙げると、テーラワーダでは、日本の仏教のような先祖供養のような習俗はありません。
先祖供養の習俗は、儒教の先祖霊崇拝の影響を受けた中国経由の大乗仏教から伝わったものとされています。
テーラワーダは、開祖のお釈迦様(ゴーダマ・ブッタ)が説いた教えに忠実な教義を採用している宗派のため、大乗仏教のように、儒教など他の思想・信仰から、その習俗・習慣を仏教と習合させることはありません。
さらに言えば、中国経由で日本に輸入された経典のほとんどは大乗仏教に基づいていたため、お釈迦様の口伝を直弟子の記憶の元に書き写したと言われるテーラワーダ経典(初期経典)の多くが日本に紹介されたのは、日本の仏教史の中では、かなり最近のことです。イギリスの植民地になったインド・東南アジアでの宗主国の研究者による文献研究を通して、イギリス経由で日本へ入って来たのは、明治以降になってからです。
では、大乗仏教の経典とは何なの?、ということになりますが、お釈迦様入滅後の各地の仏教僧達による創作物です。
『だから仏教は面白い!』では、「同人誌」あるいは「二次創作」と表現されています。登場人物や舞台設定等のフレームをオリジナルから借りながら、自分好みに(あるいは、後世に出来上がった新宗派の教義に沿うように)創作された新ストーリーということです。
ただし、魚川佑司氏は、大乗経典は「同人誌」・「二次創作」だから価値がないという立場を取っていません(中には、価値がないという立場を取るハードコアな仏教関係者もいます)。
「『オリジナル』も『同人誌』も含んだ、思想の維持・変化・発展の運動の総体」として仏教を捉えているため、たとえ「同人誌」であっても、千年以上も生きながらえている経典であれば、研究対象としての価値はあるという見解です。
ただ、日本の仏教の多くが鎌倉時代の仏僧が開祖の「新宗教」で、教義が「新宗教」の開祖を称揚するように編まれているため、大本の開祖であるお釈迦様の姿が見えにくいとことは、他の仏教関係者から指摘されています。
ときどき「ミャンマーは仏教国だから、同じく仏教国である日本との親和性が高い」みたいな記事を読みますが、同じ仏教でも宗派により、ずいぶん教義も宗教行事も違います。おそらく、日本の仏教しか知らない人が、ミャンマーの仏教と接すると、かなり面食らうのではないでしょうか。
また、「日本は仏教国」という認識もずいぶんナイーブなものかもしれず、ミャンマーの僧院や瞑想センターのように、解脱を求めて修行に専念できる環境や施設は日本には非常に少なく、むしろ精神世界の探求者の母数が多いアメリカの方が充実しているという実践者の意見もあります。

ずいぶん乱暴で、図式的なため、突っ込み所満載の説明かと思いますが、前提事項として仏教の多様性を理解する必要があるため、本項を書きました。既に知っている方には不要でしょうが、私個人に限って言えば、大乗仏教の経典が「同人誌」・「二次創作」と知ったのは、かなり最近なので、もしかしたら他にもそんな人がいるかもしれないと思ったので。

以降、テーラワーダの教義に基づき、『講義ライブ だから仏教は面白い!』を引用しつつ、論を進めます。

2. 仏教から見る衆生の世界~おっぱい、あるいはヴィトンのバック問題

あまり聞いてもいい気持ちになれない仏教の概念で、「人生は苦である」というテーゼがあります。
でも、ここで言われる「苦」とは何でしょう?
バーリー語の「ドゥッカ」に漢字の「苦」が当てられているため、「苦痛」的な意味合いを意識しやすいのですが、もっと広い射程を持つ概念です。
英訳では「unsatisfactoriness」(不満足)と訳されいるそうです。
仏教的な概念では、「己の快感原則(=快感を追い求めて不快を避けるという生物の基本傾向)にしたがって欲望の対象を恋い求め、その衝動に条件付けられて行為している」(P56)状態にあり、その行為によって欲望が満たされ、欠落感が埋められれば、自分の「渇愛(タンハー、喉の渇いた人が水を求めるような強い欲望)が満たされる」という、欲望と代償行為の無限ループの内側にいる状態(不満足に終わりがない状態)を指します。

わかりやすい説明があるので、以下に引用します。
「かりに十八歳のピチピチしたおっぱいでも、二千回くらいさわったとしたら、『これはもういいかな』と、飽きてくることもしばしばありますね。仏教に言う『苦』というのはそういうことで、一つの欲望の対象を享受したら一定期間は喜ぶことができるけれども、その喜びは永続するということが決してない。<中略>欲望の対象も、欲望する気持ちそれ自体も、縁起の法則にしたがって無常のものとして、常に流動・変化を続けているからです」(P238)
女性にはわかりにくいかもしれないので、女性向けの喩えも引用します。
「『同僚のあの女は素敵なバックを持っていて悔しい』と思って、一生懸命に働いた給料でバックを買う。バックを買うことができたら『やった~』と思って喜ぶかもしれないけど、徐々にその喜びも薄れてきて、今度はまた『あの女はあんな素敵な服を着ていいて悔しい。畜生、私も買わなきゃ』みたいな感じになることはよくありますね」(P61)
そして、仏教は
「条件付けられた己の在り方 ― 即ち、生まれた時から何かしらの欲求や衝動に引きずり回されて、それで右往左往して喜んだり悲しんだりした上で、その過程を全体として、何とか『人生の幸福』だと自分に言い聞かせようとするような在り方 — とは別のエートス(世界における居住まい方)を見てみたいと思うのであれば、あるいは、そのような『別のモード』も自分の中にビルトインしてみたいと思う」(P74)
人々の前に開かれています。

繰り返しますが、私は悟っているわけでも、解脱しているわけでもありませんので、日本で話題になっている(らしい)このおっぱいが、ミャンマーでは見れないのが非常に残念です。

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3. 仏教の目指すもの~渇愛の滅尽と涅槃
原因によって生じるものごとについて
如来はそれらの原因を述べた
そしてまた、それらのものごとの滅尽なるものも
偉大なる沙門はこのように説くのである。
『縁生偈』
ものごとは縁りて起こる(縁起)、世界は原因とその結果により成立している。
「原因があるからには、縁起の法則をたどってそれらを消滅させていけば、先行する条件が消えるわけですから、後に来る結果も生じることができなくなるわけです。苦には原因があるろいうことだけではなくて、その原因を消滅させることもまた可能であるということをゴーダマ・ブッタは教えていた」(P122)
「ゴーダマ・ブッタによれば,苦の根本原因は『渇愛(喉の渇いた人が水を求めるような対象への強い希求)』である。そして、その渇愛を滅尽させることができれば、私たちは『無為』、即ち、条件付けられておらず、世間を超出した境域に達することができますよと、彼は教えているわけです。この『世間を超出した境域』のことを、仏教用語では『出世間(ロークッタラ)』と呼びます」(P125)
渇愛を滅尽させて、つまり不満足(苦)の原因を消滅させれば、結果として出世間、「悟り」、「涅槃」の状態に達することができるわけですね。
実際に、生成消滅する縁起、因果の法則を超出して、涅槃へ至るために、ミャンマーの僧院と瞑想センターでは多くの僧が修行しています。

もちろん仏教は、ゴーダマ・ブッタが認識した凡夫・衆生の在り方「欲望の対象を楽しみ、欲望の対象にふけり、欲望の対象を喜んでいる」状態(まあ、大抵の現代人がそうだと思いますが)を「苦」と捉えない人々の存在を否定してはいません。
「私はよく『金パン教徒』という言葉を使うんですが、これは金とパンツ、つまりは金銭と性愛を人生の基本的な動機と目標であると考える人たちのことです。そうして、『お金を追いかけて異性をたくさんゲットして、刺激を補充し続けて死ぬことができるなら、僕は別にそれでいい。金パン教徒で全くかまわない。それ以外の人生のモードなんて、僕にはまるで必要ないんだ』と言いきれるのであれば、別にそれはそれでいいと思うんです。それはその人の人生だし、そうした人たちに言えることは仏教の立場からは何もないですからね」(P70)
ただ、それでけで納得ができないのも人間存在の難しさであって、
「出家以前の超絶リア充スーパーイケメン大金持ちのゴーダマ・ブッタには、(注:『金パン教徒』的な価値観では)『苦』なんかまるでなかったということになる。しかし、仏教ではそうは考えない。出家前のゴーダマ・ブッタの人生にも、きちんと『苦』はあった」(P60)
という実存的な実感の上に仏教は立脚しているわけですね。

4. 悟るとどうなる?~涅槃の境地

ここからは難題です。
くどいですが、私は悟っても解脱してもいないので、涅槃は私の認知の外側に属する事柄です。
しかも、言語が衆生(悟っていない人たち)の世界観で編まれたコミュニケーション・ツールなわけですから、涅槃は言語の包括できる領域の外に存在する概念なわけですね。
「仏教というのは、しばしば言われているように『行学』、つまり実践(行)と理論(学)の両側面から体系化されているものです。ゴーダマ・ブッタの仏教が衆生の認知を問題としており、その転換が彼の仏教の究極的な目標であるところの解脱・涅槃であるということは、そのように仏教が理論だけではなくて実践も重視することと、深く関わっているんです」(P260)
衆生の世界観から超出する「認知の転換」を得るためには、上に挙げた理論的な枠組みの理解(学)だけではなく、実践的な修行(行)が必要とされるわけですね。
それを瞑想と呼ぶか、座禅と呼ぶか、またその方法も宗派によって微妙に異なります。

おっぱいを欲望の対象として捉える認知、現世の価値観に囚われた物語からの超出し、「脂肪の塊、もしくは目に入ってくる色の組み合わせ」と如実知見の域に達するためには、頭での理解だけではなく身体的な実践が必要とされます。
「いま世界中の瞑想センターで教えられ、多くの人々が実践しているのは、その『認知を転換するための具体的な方法』であるということですね」(P275)
涅槃の境地へ至るためには、相当の修養が必要なようですが、修行の果てに悟った状態とはいかなる境地なのでしょう?
心が煩悩に汚されず、善も悪も捨て去って、目覚めている人にとっては、恐れるものは存在しない。
『ダンマバタ』第三十九偈
ここでのポイントは、悟ったからと言って世間的・世俗的な意味での善人になるわけではないことです。「善も悪も捨て去って」いるわけですから。
「ゴーダマ・ブッタの教説にしたがって解脱を達成した修行者は、そのような『物語の世界』に緊縛された価値基準を捨て去っているということです」(P336)
「ゴーダマ・ブッタの仏教は、本来的には『反社会』ではなくて、『脱社会』的なもの」で、「言い換えれば、『世界』の枠組みの内部において、その『世界』に反抗することを目指すのではなくて、そもそもその『世界』を超出してしまおうとする性質のものであるということです。ですから、世俗の社会に対しても労働と生殖を放棄することで、そこで当然視されている文脈から超出しようとはするけれども、別に社会と喧嘩するつもりはない。社会と対立するということは、逆の形で『社会に巻き込まれている』ことに他なりませんからね。
同様に、『善も悪も捨て去る』ということは、世俗の『善悪』の基準を否定するということではなくて、そこから超出し、自由であることです」(P339)
この項については、この辺で限界です。
自分が認識できていない世界を想像だけでなぞろうとするのは、かなりキツいですね。

興味のある方は、修行の実践による解脱・涅槃・悟りを主題に据えた同著者の『仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か 』(新潮社)、または共著者の一人がミャンマーでの修行経験者である藤田一照・山下良道著『アップデートする仏教 (幻冬舎新書) 』(幻冬舎新書)をお読みください。
二冊とも、仏教に興味のある読者にとって、とってもエキサイティングな書物です。
エキサイティングという興奮状態を指す言葉自体が、甚だ仏教的ではないのですが、



最後に。
涅槃について思いを巡らせていたら、ふとフランスの詩人による有名なフレーズを思い出しました。
また見つかった、 何が、永遠が、 海と溶け合う太陽が。
無常、永遠なるものは、地上には存在しない。少なくとも、涅槃に至っていない衆生には認知できません。
天才詩人と呼ばれた彼は、この詩を発表した少し後、詩作を放擲することになりました。
もしかしたら創作の探求の果てに「永遠」に触れて、人間の認知の外側、つまり言語の圏外へと踏み出していたのかもしれません。

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