2022年1月24日月曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーバードライブ』15 (2)

 15(2)

  私たちの関心は、しだいに社会状況を反映して、私たちを取り巻く不条理な世界を表現することへと向かいます。描かれる作品も具象絵画から抽象的、表現主義的なものへと変わりました。
 そうして、私たちは「レベル88(Level88)」と名付けた美術グループを結成します。レベルの綴りは、反抗を意味するRebelではなく、水平や同等を表すLevelです。八月八日に集まった人々の願いや思いが、あたりまえの日常になることへの願いを込めて名付けました。
 私たちはグループ展の開催を企画します。
私たちの制作した作品を展示することは、当時のミャンマーでは困難でした。展覧会を開催するには、事前に情報省の検閲部の許可が必要でした。展示作品の点数、それぞれの作品のサイズ、作品の内容などを申請しますが、抽象画などの展示の許可はなかなか下りません。当局が美術と認めるのは、農村や寺院を描いた伝統的な具象絵画で、そこから外れた作品は反社会的、反体制的な意図を持つとみなされました。仮に展示ができても、検閲官がやってきて、作品に展示不可のスタンプを押すこともありました。検閲官は、作家の意図に関わらず、黒は闇、国軍のシンボルカラーである緑は軍、赤は革命を象徴していると勝手に解釈して規制しました。
 ヒトラーは、ダダイズムやキュビズムなどの新しい美術を退廃美術と呼んで弾圧しました。スターリンも前衛美術を禁止し、写実的な作品以外の制作を許しませんでした。独裁者のすることはみな同じです。
 でも、暴力でデモのような直接的な運動は封じ込めても、想像力や精神の自由まで奪うことはできません。作品を創造することは、社会の要求する常識や規範から自己を解放し、己の生を肯定することを意味します。強圧的な権力が自由な表現を恐れるのは、想像力が最も純粋な形の不服従だからでしょう。私たちには特定の政治的な意図やイデオロギーは存在しませんでした。ただ、想像力のおもむくまま自由に表現できる場を求めていただけです。軍事政権が押し付ける無意味な決まり事や規則に従わずに済む、ささやかでも自由な空間を作りたかったのです。
 そうして、私たちはゲリラ的にグループ展の開催を始めます。展示会場は、川沿いの倉庫、あるいは空き家や廃墟となったビルなどです。場所は毎回変えました。秘密警察の目を逃れるためです。グループのメンバーの親類や知人の物件で開催する時はオーナーの許可を取りましたが、打ち捨てられた廃屋や廃墟となったビルなどを会場にした時は無許可で展示することもありました。長年にわたって経済が停滞していたこの国には、当時の首都ヤンゴンにも誰も管理していない空き家や廃ビルがたくさんありました。明け方に会場に作品を運び込んで展示し、午後三時に撤収というスケジュールです。照明がないので夜間の展示はできません。車を持っていたメンバーは車に作品を積んで会場にやってきましたし、私のように車のないメンバーの作品は、小型のトラックを持っていたアウン・ミンがまとめて運んでくれました。
 来場者は私たちレベル88のメンバー十人のみです。秘密警察に知られれば逮捕されて、投獄される危険もありましたから、関係者を最小限にする必要がありました。この秘密のグループ展は、在学中は半年に一度の頻度で開催していました。秘密の会場で、互いの作品を鑑賞し、批評し合うのはエキサイティングな体験でした。あの頃、自分を表現する場は他にありませんでしたから。
 制作を重ねるうちに各人のスタイルも確立されていきました。アウン・ミンは寓意を含んだ表現主義的な作風、ボー・ナインは抽象表現主義に影響を受けた抽象画、テット・テットは国軍のプロパガンダ看板を素材にしたポップアート作品といった風に。私はイヴ・クラインやルーチョ・フォンタナといった知的なアプローチで美術の枠組みを拡張するアーティストに惹かれました。彼らの表現には、私が専攻していた数学の論理的な美しさに通じるものを感じました。
 その頃、現代美術について入手できる情報は非常に限られていました。当時のミャンマーは、ほぼ国交を閉じていましたし、もちろんインターネットもありません。船員が海外から持ち込む本や雑誌、あるいはフランス文化を紹介する施設Institut français de Birmanieの図書室にある美術関係の本だけが情報源でした。私たちは、数少ない情報を互いに共有しながら、手探りで新しい表現を模索していきました。
 私たちが大学を卒業してからは、互いの時間を合わせることが難しくなったため、年に一回の開催と決めました。私は卒業後の進路として、数学を学んだことが活かせる、計画・財務省や中央統計局などの政府機関への就職を考えていましたが、国軍の弾圧を目の当たりした後は、政府のために仕えるという気持ちにはなれませんでした。Institut français de Birmanieで現代美術のことを調べるのと同時に、この施設の提供するフランス語のクラスに通いました。フランス語ができれば、図書室にある美術書の解説も読めるようになると考えたからです。受講後も独学を続けるうちにかなり上達したので、フランス語を教えることで生計を立てることにしました。今は自分で教室を開いていて、頼まれれば家庭教師もしています。
 私たちは卒業してからも、必ず年に一度グループ展を開催することを誓い合いました。
みんな美術以外で生計を立てながら創作を続けました。そして、グループ展で集まった時に、一年間の創作の成果を発表します。作品が展示されたのは、麻袋が山高く積まれた倉庫の片隅や、廃ビルの奥まった部屋の中や、打ち捨てられた家具が散乱する廃屋などでした。
そうした場所で、互いにメンバーの作品を鑑賞し、批評します。そこは、想像力を解放し、自らの思いをためらいなく口にできる唯一の場所でした。私たちには、民衆が政府に従順であるように、あらゆる規則や規範が張り巡らされた社会からの避難所が必要でした。私たちはのグループ展は、想像の王国への亡命だったとも言えるかもしれません。私たちは、その王国に仕える宮廷芸術家でした。作品が飾られた廃墟は、私たちの作品を奉納する、名も知れぬ神を祀る神殿でした。
 早朝から午後過ぎまでのグループ展が終わると、私たちは元いた世界に戻って行きます。
帰りの車の中で、「地下と地上の破壊分子に注意せよ」という国軍のプロパガンダ看板を見て、アウン・ミンが「俺たちも破壊分子になるのかな?」と言って、笑っていたのを覚えています。
 グループ展が終わってからも、折に触れてメンバー間で連絡を取り合い、創作の進捗を伝え合いました。もちろん当時は携帯電話もSNSもありませんから、電話での伝言ゲームのような連絡方法でした。私たちの他にも、ミャンマーにいくつか現代美術グループは存在しましたが、交流はありませんでした。どこかで情報が漏れて秘密警察に伝わることを私たちは恐れてましたから。実際、他の現代美術グループのメンバーが、見せしめ的に投獄されることもありました。
 普段は政府が押し付ける現実の社会で暮らし、年に一度、私たちが本来住むべき想像の王国へ戻る、そんなことが二十年以上続きました。いえ、むしろ私たちにとっては、政府の提供する社会が虚構で、私たちの作り上げた想像の王国こそが現実でした。その場所でのみ、私たちは、自らを解放し、自由に語らい、議論し、共感し合えたからです。
 結局、軍事政権は二十三年間も続きました。政府の規制や検閲は、時期によって厳しくなったり、緩くなったりしましたが、いずれにせよ表現の自由はありませんでした。検閲官の気分や独断で、作品や活動が反政府的・反社会的なものとみなされました。反政府的だと判断されたアーティストや軍事政権を風刺したコメディアンが投獄されて、三年近く獄中で過ごすことも珍しくありませんでした。運が悪ければ拷問を受けました。拷問の方法は、鉄棒で殴る、電気ショック、熱湯をかけるなど様々でした。彼らの想像力は人間が多様な存在であることを認めるよりも、人々を弾圧する方法を考え出すことにもっぱら発揮されたようです。過酷な獄中生活で、精神や肉体を病んでしまった人もたくさんいます。
 幸い二〇一五年の総選挙で、アウンサンスーチーさん率いるNLD(国民民主連盟)が大勝し、今のミャンマーは民主政権によって運営されています。一九九〇年の総選挙でもNLDが勝ちましたが、軍事政権は選挙結果を認めず、同じ政権がその後もずっと続きました。その時代と比べると大きな進歩です。
 今では、アウン・ミンは自分のギャラリーを運営して、後進の育成に努めています。ボー・ナインはアムステルダムに渡って創作活動を続けています。私が大学を卒業した後、しばらくして父が亡くなり、母と弟を養う必要があったため、海外に行く夢は叶いませんでした。フランスで美術館を回って、美術書でしか見たことがない作品を思う存分鑑賞するのが私の夢でした。それでも、こうして創作活動を続けれられているのは幸せです。仲間の多くは日々の生活に追われるあまり、美術への熱意を失い創作を断ちました。十人で始まったレベル88のメンバーの中で、今でも創作を続けているのは、アウン・ミン、ボー・ナイン、私の三人だけです。
 ここは私たちの記憶の集積庫です。若かった私たちの希望や理想、そして失望や挫折が、それぞれ作品の形を取って積み重なってます。
 私は時折この部屋を訪れて、メンバーの作品を見直します。すると、その作品が過去のグループ展に出品されたときの誰かの批評や巻き起こった議論の記憶が蘇ります。時には辛辣だったりすることもあったけど、そこには創作への情熱を共有しているという親密な空気が常に漂っていました。
 「これは単なるノスタルジーなのだろうかか?」私は自分にそう問いかけたことがあります。答えは「いいえ」です。
 ここには輝かしい勝利も、目覚ましい成功も、万人が認める賞賛もありません。でも、私にとってここに眠る作品は、創作の起源、表現の始原が刻まれた碑のようなものです。
 私たちの作品は、現代美術の潮流という観点から見れば、時代遅れで不恰好なのかもしれません。現代美術の世界が情報戦なのは私も知っています。美術史や美術業界のコンテキストを理解した上で、斬新なコンセプトを打ち出せなければ評価の対象になりません。入手できる情報が乏しく業界のルールも知らない私たちは、そうした知的ゲームに参加することさえできませんでした。
 でも、ここが私たちにとっての原点である以上、やはりここから出発する他ありません。それが流された血、失われた命、未来を奪われた者たちへの私たち–––少なくとも私に課せられた責務なのです。

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