2021年7月27日火曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーヴァードライブ』プロローグ 2

プロローグ

2014年11月20日、サザビーズ・ニューヨークのオークション会場で「アメリカン・アート・セール」が開催された。
この日の出品作品で最も注目されていたのは、ジョージア・オキーフの「Jimson Weed/White Flower No. 1(チョウセンアサガオ/白い花No.1)」だ。ニューメキシコ州サンタフェのジョージア・オキーフ・ミュージアムからの出品だった。
48×40インチ(121.9 × 101.6 cm)のカンヴァスに描かれた1932年制作のこの油彩画は、オキーフの花をモチーフとした一連の作品の中でも、例外的に大きなサイズの作品であるため希少性が高い。
原寸6.5cmから9cmの花をカンヴァス全体を使って巨大に描いたこの絵の前に立つと、見る者は、自己が消失し、花と一体化したかのような感覚に入り込む。今の瞬間、この刹那に、花と同一化した自分が世界の内に存在していることを認識させられる。人工物に囲まれた生活の中で忘れがちな、かつて人間が自然の一部であったことをも思い出させる。

サザビーズの出した落札予想価格は、1000万ドルから1500万ドル。オキーフの作品のそれまでの最高落札額は、2001年5月クリスティーズ・ニューヨークでの620万ドル、当時の女性アーティストの最高落札額は、ジョーン・ミッチェルが2014年5月にクリスティーズ・ニューヨークのオークションで記録した1190万ドルだった。
競売(オークション)は、七人の入札者(ビッダー)で始まった。オークションでは、三人以上が入札に参加すると最低落札額を越えると言われているので上々の滑り出しだ。
入札額が2000万ドルを超えると、壇上の競売人(オークショニア)の宣言する価格が50万ドル刻みで上がっていく。
二人にまでふるい落とされたラリーを制したのは、電話で参加した匿名の入札者だった。落札者の代理人は、サザビーズの会長リサ・デニソンが勤めた。落札価格(ハンマー・プライス)は4440万5000ドル、落札予想価格の約三倍、女性アーティストとしては史上最高の落札額となった。競売の所要時間は、約8分間だった。
後に落札者は、ウォルマート創業者サム・ウォルトンの娘で、相続人でもあるアリス・ウォルトンが創立したアーカンソー州ベントンビルのクリスタル・ブリッジ・ミュージアムだったことが判明した。 

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2021年7月19日月曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーヴァードライブ』プロローグ 1

プロローグ

戦後間もない頃、草間彌生は、長野県松本市の古本屋で手にした画集の中に、ジョージア・オキーフの作品を見つけた。
カンヴァスの中央に牛の頭蓋骨が大きく描かれた、『牛の頭蓋骨: 赤、白、青』と名付けられた1931年に描かれた絵画だった。背景の左右両端は赤く塗られ、中央の白地からはグラデーションのかかった青が放射状に外へと伸びている。左右に拡がった牛の角は、人間の腕をも思わせ、それはキリストの磔刑図を連想させた。その絵は、現生を超越した宗教的なヴィジョンを帯びていて、草間の魂を激しく揺さぶった。それは、同じ画集の中の他の作品では感じることのできない感興だった。

その頃、草間が知っていたアメリカの画家は、オキーフだけだった。6時間かけて松本駅から新宿駅まで出て、それから赤坂にあるアメリカ大使館へと向かった。そこでMarquis社の発行する名士録『Who's Who in America』を借りて、オキーフの住所を調べ、彼女の住所を書き写した。松本へ帰ってから、一面識もないオキーフへ手紙を出した。アーティストとしての心のありようを尋ね、アメリカへ行きたいという気持ちを切々と訴えた。自分の描いた水彩画も何点か同封した。驚いたことに、オキーフから返信が来た。暖かい心遣いへの感謝の念を伝えると、またもや激励の手紙が届いた。

第二次世界大戦直後のその当時、ジャクソン・ポロックに代表される、アメリカの抽象表現主義がアートの新潮流として世界を席巻しはじめていた。美術の中心地は、パリからニューヨークへ移ろうとしていた。草間はどうしてもアメリカへ渡りたかった。
当時、アメリカに渡航するには現地の見受引受人が必要だった。なんとか身内の伝手をたどって、シアトルで成功した日系一世のビジネスマンの未亡人を紹介してもらった。ヴィザ取得のための渡航目的は、シアトルで個展開催のためとした。最初のアメリカの地、シアトルにたどり着いたのは、1957年11月18日、草間が28歳の時だった。
1957年12月、シアトルのズゥ・ドゥザンヌ・ギャラリーで開催した個展では、水彩画、パステル画を26点出品した。

翌年、草間は引き止める人たちを振り切って、ニューヨークへ転居した。
ニューヨークは、物価も高く、競争も熾烈だった。無名のアーティスト達は、誰もが生き延びるため、競争相手から抜きん出るために、現実と格闘していた。日々の食事も欠く中で、絵具代とキャンバス代を捻出しなければならなかった。魚屋が捨てた魚の頭を裏のゴミ箱から漁り、八百屋の捨てたキャベツの切れ端を拾い、屑屋から10セントで譲り受けた鍋でそれらを煮たスープで、毎日の飢えをしのいだ。
住居も兼ねたアトリエの窓は破れ放題で、凍てつく夜は寝ることさえままならなかった。空腹と寒さに耐えかねて、深夜に起き上がっては絵を描いた。

募る侘しさに押しつぶされそうになった夜は、一人でエンパイアステートビルに登った。
草間がそこに立つおよそ30年前に、スコット・フィッツジェラルドはニューヨークの街に別れを告げるため同じ場所に立った。フィッツジェラルドは、当時、建設されて間もないこの摩天楼からの眺望に驚愕した。街は無限に広がるビルの宇宙だと想像していたのに、現実には、大地の限られたエリアに人工物が立ち並ぶ、都市化された区画に過ぎなかった。
狂騒の1920年代に、都会の風俗を巧みに描き、時代の寵児となったかつての流行作家は、1929年に起こった大恐慌を境にすっかり世間から忘れ去られていた。零落した作家は、後に、街のちっぽけさを、かつて手にした自らの富と名声の儚さ、脆さと重ね合わせた。
しかし、野心以外何も持たない草間には、遠く下方で瞬く夜景は、自ら希望と可能性を燃え立たせ、成功へと誘う、街の甘美な目配せと映った。眺めている間は、常につきまとっていた空腹さえ忘れるほどだった。

1959年10月、草間は念願だったニューヨークでの最初の個展を「オブセッショナル・モノクローム展」をブラタ・ギャラリーで開催した。この時発表した作品「無限の網」は、草間のキャリアを通じた代表作のひとつとなる。
カンヴァスに描かれた、縦2m、横4mを少し超えるモノトーンのシリーズ5点は、大きな反響を呼び、小さなギャラリーは来場者で溢れた。ニューヨーク・アート界の大立者も訪れ、美術評論家によるレビューが『ニューヨーク・タイムズ』誌にも掲載された。
アイボリー色の下地に、それより少し濃い色の単色の斑点を無数に反復させた作品は、全体を律する中心がなく、図と地が同時に世界を表象していた。流動的に反復する色付いた斑点である図は律動する個体の集合であり、斑点の狭間で白い網目となった地はネットワーク化された全体として認識できる。生滅を無限に繰り返す無常の世界を、あたかもカンヴァスの上に投影したかのようだった。そこには、ミクロとマクロが等価であり、実体と無が同時に存立する世界が現出していた。
オキーフが超越的なヴィジョンをキリスト教の黙示録的な世界観で表出したのに対して、草間は縁起や空といった仏教的な世界観を通じて同じ事象を描き出したかのようだった。

ジョージア・オキーフが、ニューヨークの草間のアパートメントを訪れたのは1961年のことだった。ニューメキシコからのはるばるの訪問だった。手紙のやりとりはあったものの、草間がオキーフに会うのはそれが初めてだった。
後ろにひっつめた白髪、意志的な額、鋭角的で高い鼻筋。頬に刻まれた深い皺は、彼女が絵画のモチーフに用いる風化した動物の骨と似た印象を与えた。樹齢を重ねた巨木のようながっしり体躯はドレープのかかった、ゆったりとした黒のコットンドレスに包まれていた。胸元には友人の彫刻家アレクサンダー・カルダーから贈られたブロンズ色の幾何学形のブローチが付けられ、ウエストはネイティブ・アメリカンの銀細工で飾られた革ベルトで締められていた。フェラガモにオーダーしたスウェードの黒のモカシンは、甲の部分に葉脈のようなエンボス加工が施されていた。
オキーフの佇まいは、森の奥深い修道院で、厳格な戒律を守りながら暮らす修道女を思わせた。彼女は1949年にニューヨークを離れてから、ニューメキシコの荒野に立つ一軒家に住み、世間からは隠遁者として見做されていた。実際に会ってみると、彼女は厳格で気難しい一面はあったものの、率直で機知に富んだ人物だった。草間の身を案じて、ニューメキシコで一緒に暮らさないかとまで提案してくれた。
この街に魅せられ、ここでの成功を夢見ていた草間は、残念ながら断わざるを得なかった。


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