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2022年1月17日月曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーバードライブ』15 (1)

 15(1)

 私たちの活動は一九八八年に遡ります。この時、私たちは美術サークルに属するラングーン大学の学生でした。専攻は生物学だったり数学だったりと–––私は数学科の学生でした–––ばらばらだったけれど、美術に対する関心や情熱を持った学生が自主的に十人ほど集まって結成されたサークルです。講義のない土日の教室に外部から講師を招いてデッサンなどを学んでました。
 この年の三月に喫茶店でラングーン工科大学の学生達と地方政府の高官の息子との間で、他愛のないことで喧嘩が起こりました。騒ぎが大きくなって警官がやって来た時に、学生の一人が射殺されました。工科大学の学生は怒り、デモが始まります。この運動は五マイル先のラングーン大学へもすぐに飛び火します。きっかけは何だってよかったのだと思います。一九六二年の軍事クーデターから続く軍事政権に学生たちは飽き飽きしてましたから。ラングーン大学は常に政治運動の中心でした。建国の父アウンサン将軍による植民地からの独立運動もここから始まりました。
 
 その週のうちに両大学の学生による共同デモが起こります。一万五千人を超える学生たちがインヤー湖畔に集まりました。棒も石も持たない平和的なデモでした。しかし、政府は軍と治安警察を出動させます。軍用トラックで追い立てられた学生は湖に逃げ込みました。溺れて這い上がろうとする学生は警棒で殴られ、沈められました。四十人あまりの学生が溺死しました。自動小銃により発砲もあり、二百名を超える学生が射殺されました。逮捕された学生達が小さなトラックに多数押しこまれたため、警察署に着くまでに四十人が窒息死するという事件もありました。この後、すべての大学が三ヶ月閉鎖されました。
 
 それでも、軍政に対する抗議や抵抗は衰えることなく、八月八日にゼネストと大規模なデモが起こりました。一九八八年の八月八日に起こったため、我が国では8888民主化運動として知られています。
 この時のデモには二十万人近い人々が参加したと言われています。それまでの学生が中心だったデモとはスケールがまったく異なるものでした。ダウンタウンのスーレー・パゴダ前は、見渡す限り人で埋め尽くされていました。学生、公務員、農民、医療関係者、法律家、仏教徒、ムスリム、あらゆる職業、階層、年齢の人間が集いました。こんなことは今まで一度もありませんでした。あちこちから「打倒一党独裁」や「デモクラシーの獲得」を叫ぶ、地鳴りのようなシュプレヒコールが湧き上がりました。何かが変わるかもしれない、軍の高官に独占されていた富や権力が平等に行き渡る社会が訪れるかもしれない、そんな期待とそれがもたらす高揚感にデモ隊全体が包まれていました。この時に感じた一体感や高揚感は、今でもリアルに思い出せます。

 この日を境に、軍政への抗議から始まったデモは、しだいに民主主義の実現、経済の自由化といった主張へと焦点が絞られていきます。
 私たちの美術サークルも、学生のデモ隊が掲げるスローガンが書かれた幟や横断幕を作るのを手助けしました。私はそれまで特に政治に興味がある学生ではありませんでした。それ以前のデモにも参加しませんでした。両親から危ないから行くなと止められていましたから。でも、周囲の熱気に押されて、この日のデモには参加しました。大規模なデモはその後四日間続きました。私の参加した日ではありませんでしたが、軍はやはりデモ隊に発砲し、多数の人が亡くなりました。

 しかし、運動はこの後だんだんと停滞し始めます。理由の一つは、運動に明快な戦略を欠いていたことです。軍事政権側も少し譲歩の姿勢を見せたこともありましたが、双方の落とし所を見つけることができませんでした。
 もう一つの理由は、運動全体を統括して指導するリーダーが現れなかったことです。
ミンコーナイン、モーティーズンといった学生活動家は8888民主化運動を主導していました。そして、母親の介護のため一時帰国中だったアウンサンスーチーさんが押し出されるように政治の表舞台に登場したのもこの頃です。でも、運動を一本化して、軍事政権と交渉する人物は現れませんでした。
 
 状況が行き詰まる中、運動もしだいに暴力化していきます。政府のスパイがデモ隊の飲料水に毒を入れたのが発覚した時は、五人の首が切られ、晒首が通りに並んでいたと聞きました。爆弾を持っていると疑われたカップルが誤って斬首される痛ましい事件もありました。政府のスパイがデモ隊に紛れて運動を撹乱しようと試みたため、疑心暗鬼になった群衆の間でリンチや処刑が相次いだとも聞いています。多くの交番が暴徒に襲われ武器が奪われました。逮捕されたデモの参加者を収監するのと入れ替わりに、服役中の犯罪者が刑務所から大量に釈放されて街の治安が悪化しました。街に放たれた犯罪者は、デモを煽動して暴力を誘発するよう言い含められていました。政府のスパイや暴徒から身を守るために、地区ごとに武装した自警団が結成されました。デモはあちこちの地域で散発的に起こっていました。

 膠着と混乱が深まる中、九月十八日に事態は大きく動きます。その日の午後四時過ぎに国営ラジオ局の番組が突然中断し、軍隊行進曲が流れました。それに続いて男性のアナウンサーが、法秩序の回復と治安維持のため、民意に基づき国軍が全権を掌握したと告げました。一九六二年以来のミャンマーで二度目の軍事クーデターでした。軍用車が当時首都だったラングーンに集結してきました。国境で少数民族のゲリラと戦っていた部隊が呼び寄せられたのです。それから二日間、兵士達が非武装の市民を撃ち始めました。街中に銃声が響き渡りました。この時、動くものはすべて撃たれたと伝えられています。民家の窓際に人影が見えても撃たれました。私は息を潜めて家族と家の中に閉じ篭っていることしかできませんでした。この軍の弾圧による死亡者は千人とも三千人とも言われていますが、正確な数はいまだにわかっていません。民衆を制圧すると戒厳令が敷かれ、集会は禁止されました。こうして自由を求める私たちの願いは圧倒的な暴力によって潰されました。
 およそ一万人の学生が逮捕を恐れて国境地帯に逃れ、カレン民族同盟(KNU)やカチン独立機構(K1O)といった長年国軍と対立しているゲリラ組織に合流しました。私の同級生も何人か行方知らずとなりました。彼らのその後は、生死すらわかっていません。
 翌年、国名はビルマからミャンマーへ、首都はラングーンからヤンゴンへと改称されました。民主化運動の拠点となった大学は閉鎖され、キャンパスを遠い郊外へ移転させることで、学生運動の芽を摘みました。

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2021年12月31日金曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーバードライブ』11

 11

  待ち合わせの場所は、ダウンタウンのギャラリー〈Burm/art〉だった。マハバンドゥーラ通りの東端にあるそのギャラリーは、現地に住むアメリカ人女性が運営していると聞いた。
 ギャラリーでは個展が開催中だった。磁器の立体作品がいくつかの台座の上に置かれていた。壁に取り付けられた作品もある。台座の上の作品群は、植物と女性像や人体パーツが融合した不思議なフォルムのものだった。ぱっくり開いた大きな傷口を持つトルソーには、内部から伸びた枝が複雑に交差し、葉を茂らせ、棘を尖らせ、花を咲かせていた。壁に取り付けられた蛇をモチーフにした作品群も胴部から触手のような突起が飛び出し、葉と花が絡みついた内臓を備えていた。
 面会の約束をしていたSoe Mayの作品だった。彼女はアメリカのアート誌に「注目すべき三〇歳未満の三〇人のアーティスト」の一人に選出されたこともある。日本でその記事を読んだ私は、今回の面会を申し込んでいた。アメリカとミャンマーを行き来している彼女は折良く私のミャンマー訪問時に一時帰国していた。
 ギャラリー内の壁で仕切られた事務スペースから二十代後半の中国系の女性が現れた。
「Soe Mayさん?」と私は声を掛けた。
「連絡してくれた日本の人?」と彼女は言った。
「そうです。お会いできて嬉しいです」
 背は高くないが恰幅が良い体型で、セミロングに伸ばされた髪は額で横分けされていた。化粧気はない。Vネックのシンプルな黒のワンピースを着ていた。
 彼女の促すままに傍のテーブルを挟んで向かい合わせてに腰掛けた。
初対面の挨拶を済ませると展示されている彼女の作品について尋ねた。「磁器の立体作品ばかりなのは何か理由はあるの?」
「私は中国系ミャンマー人の三世としてここで育ったの。私の実家は、ここの近所のチャイナタウンにある。家には先祖の代から伝わる花瓶や茶器があって、磁器は身近な素材だった」
「自分の民族的なアイデンティティを反映させるためにこの表現を選んだ?」
「最初はそんな深い理由はなかった。創作を始めたのも化学を学ぶつもりでシアトルに留学したんだけど、定員いっぱいで入れなくてファインアートの学科に入ったのがきっかけ。いろいろと試してみたけど、絵筆でカンヴァスをなぞるより、手で直接粘土を捏ねる方がしっくりきたの」
「人体のパーツと蛇が作品のモチーフになってるけどこれはなぜ?」
「人体パーツの作品はある種の自己像ね。伝統的なミャンマーの社会が求める女性性に対する違和感や自分の内側にある他者性が表れている。蛇はいろんな意味に表彰化されることに惹かれるの。邪悪さの象徴とも吉兆とも見られる。ミャンマーの神話では守護神のひとつでもある。そしてわたしの干支は蛇なの」
「二つとも君のアイデンティティに根ざしてるんだ。どちらのモチーフにも内部が露出してて中に植物のようなものが見えるね」
「自分の経験や精神性のいろんな要素が出てきたみたい。受けた傷と生命力、死と再生、儚さと永遠性、どうとでも解釈できるけど自然に湧き出てきたものなの。作ってるうちに自分のアイデンティティが自然に現れた感じ」黒めがちな瞳を真っ直ぐに向けて彼女は答えた。「故郷を離れて創作を始めたアメリカでの孤独感や疎外感、それ以前にも、ビルマ人がマジョリティであるミャンマー社会に、中国系ミャンマー人として完全に溶け込めなかったことも関係してるかもしれない」
 対立する多様な要素を含みながら、それらを一体化した彼女の作品は彼女の出自や経験も反映されているようだ。「君の作品にはミャンマー的な土着性と同時に世界に繋がる普遍性も感じさせる。閉じられた部分と開かれた部分が両立している。それは君が中国系ミャンマー人であることやアメリカでの経験が反映されたからなんだ」
「おそらくそうなんだろうけど、あまり自己分析はしないことにしてるの。それが足枷になって作品の幅が狭まるのを避けたいから」
「それもそうだね」と私は答えた。「ところで僕は日本の福岡というところに住んでる。あまり知られてないけどヤンゴンの姉妹都市でもある。ここに福岡南アジア美術館という南アジアの現代美術に特化した市営の美術館がある。ここに作品を収蔵することに興味がある?」
「その場所もその美術館のことも知らないけど、公営の美術館に私の作品が展示されるのは魅力的ね」
「それにASEAN各国からレジデンス・アーティストも招聘している。一定期間住んで、創作活動のためのアトリエが提供されるし、ワークショップを開催することもできる。よかったら向こうに、いま受け入れ枠があるかどうか確認してみるよ」アメリカのアート誌に取り上げられた実績のある新進アーティストなら美術館側も受け入れに積極的だろうと予想して提案してみた。
「制作拠点にしてるアメリカとASEANで最大の現代美術のマーケットのあるシンガポールでの活動で手一杯だから日本のことは考えたことがなかった」と彼女は戸惑いがちに答えた。「ミャンマーには条件に合う窯と粘土素材がないからシアトルの工房を借りて制作してるんだけど、そうした制作に必要な環境は用意してもらえるの?」
「大丈夫だと思う」
「考えてみるわ。アメリカよりも日本の方が近いから制作拠点としては便利だし」
「それに東京より福岡の方が南アジアに立地が近い分、文化的な親和性がある。日本で初めてアジアの現代美術展が開かれたのも福岡だし」さらにひと押ししてみた。彼女の創作するユニークな立体作品を東京よりも先に紹介したかった。「帰国したら担当の学芸員と相談してみる」 
「わかったわ。まだ、決めてたわけじゃないけど。日本に行くことは考えたことがなかったし」
「できるだけいい制作環境が準備できるよう交渉してみる」
「ありがとう。条件次第で考えてみるわ」

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2021年4月28日水曜日

そろそろミャンマーの革命の話をしよう(2)

前稿の続きです。
前稿では、今回起きたミャンマー国軍によるクーデターは、ミャンマーの政治経済システムに内在する力学が剥き出しの形で露呈しただけで、偶発的・突発的なものではないことを指摘しました。
本稿では、こうした政治経済システムの不安定性を内在する民族的な気質について深堀りしてみたいと考えます。

ここで援用するのが、人類学者エマニュエル・トッドの仮説です。
トッドは、各地域の家族制度が、自由主義・共産主義・社会主義といった イデオロギー(宗教もそこに含まれる)を特徴づけると論じました。
つまり、下部構造(家族制度)が上部構造(イデオロギー)を規定するという分析です。
トッドは家族構造の類型を「権威主義的家族」、「平等主義核家族」、「絶対核家族」、「外婚制共同体家族」、「内婚性共同体家族」、「非対称共同体家族」、「アノミー 的家族」の7つに分類しました。

上の7つの分類から4つを選んで、以下に説明します。
分析は、主に家族制度が平等か不平等か、親子関係が権威主義か平等かの二つの軸によってなされます。

たとえば、日本がカテゴライズされる「権威主義的家族」は、 子どものうち一人が跡取りとなり、全ての遺産を相続する家族制度です。こうした家族形態は、親子関係が権威主義的であり、兄弟関係が不平等主義的といった特徴を持ちます。戦前日本のイエ制度や、江戸時代以来続く、暖簾を守るといった家業に基づく長期的・継続的な商人道のあり方は、こうした家族制度に由来している可能性があります。

イングランド,オランダ,デ ンマークなどの北ヨーロッパが属する「絶対核家族」の家族構造は,子どもたちは独立していきますが,遺産の相続は親の遺言・信託によって決定されます。親 子関係は自由主義的であり、兄弟関係は平等への無関心によって特徴付けられます。資本主義が誕生した国家が属するカテゴリーですが、株式や契約等の証書を根拠とした社会システムは、こうした家族制度のあり方を、家族の外部(社会)に敷衍した結果という見方もできます。

「外婚制共同体家族」は、ロシア、中 国、ヴェトナム、旧ユーゴ地域等の共産主義化した国に見られる家族制度です。子どもは成人・結婚後も親と同居し続けるため,家族を持つ兄弟同士が、家父長の下に暮らす大きな家族形態を取ります。遺産は平等に 分配され,権威主義的な親子関係と平等主義的な兄弟関係となります。
このような家族制度を持つ地域・国家が共産主義化したことは、イデオロギー・社会システム(上部構造)という擬制(フィクション)は、家族制度という民族・地域に自然発生した、本来的・根源的な制度(下部構造)の上に立脚するというトッドの仮説を強く補強する事実です。

さて、ミャンマーは、タイ・カンボジア・ラオス・マレーシア・フィリピ ンなどの東南アジア諸地域が属する「アノミー的家族」に分類されています。この形態は、親子関係と兄弟関係 が共に不安定なため、人々は共同体主義と個人主義の間の緊張状態の中で生きることを強いられます。これは政情不安にも繋がり、トッドは、ポル・ポト率いるクメール=ルージュによるジェノサイドは、こうした緊張状態が現象化した事例として指摘しています。カンボジアは、対立野党の解体などフンセンによる事実上の独裁が現在も続いており、いまなお混乱した政情です。そして、タイでは、周期的に軍事クーデターが起きています。
トッドの説に従うなら、現在、起きているミャンマー国軍による弾圧もこうした家族制度に起因していることになります。
個人的に不思議なのは、タイで軍事クーデターが起きても、経済活動や為替への影響が極めて軽微なのに対し、ミャンマーでは毎回災厄レベルのダメージを被ることです。
タイにあってミャンマーにないものー交通・上下水道・電気等の社会的インフラと教育・医療等の制度資本ーの差が、軍事クーデターの社会に与える深刻さの軽重に繋がっているのではないかと推測していますが、明快な結論はまだ出せていません。
世界の成長エンジンとして期待されてきた東南アジア諸国ですが、文化人類学的な見地では、この地域には、社会の不安定性が構造的にビルトインされていることに、投資を考える際には意識的になるべきでしょう。

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2021年4月26日月曜日

そろそろミャンマーの革命の話をしよう(1)

2月1日に起こったミャンマー国軍のクーデターから約3ヶ月が経とうとしています。
随時、TwitterやFacebookで現地の状況を追っていますが、現場にいるわけでもないので、速報性のある情報や一次情報は伝えられません。タイムラインには、国軍に拷問されたり、虐殺された犠牲者の目を覆いたくなるような映像が流れてきていますが、ここでは転載しません。

現在のミャンマーで起こっている事象を、現地速報との差別化のため、もう少し長い射程で考えてみることにします。
ここ3ヶ月間考えていたのは、今回のクーデターは偶発的・突発的に起こったものではなく、むしろミャンマーの社会システムに内在する既存の力学が、剥き出しの形で顕在化したということです。

ミャンマーの政治経済は、ビルマ族を主体とする国軍により支配されてきたのは、周知の事実です。
国会の4分の1の議席に軍人議員の割り当て枠があり、内務省、国防省、国境省の主要3省の大臣の任命権は国軍司令官にあります。
経済についても、国家の主要な収入源であるガス・木材等の天然資源の権益・利権を握っているのはMEHL (Myanmar Economic Holding Limited) やMEC (Myanmar Economic Corporation) といった国軍系の企業群です。
国会議員の議席の割り当ても、国軍系企業による透明性の低い収益も、一部の軍の高官が独占しています。既得権益の受益者である国軍の高官は、民族的マジョリティであるビルマ族によって占められています。
つまり、ミャンマーという国家の政治経済の構造は、国軍のビルマ人高官の政治権力・経済的利益を最大化するように設計されています。
約10年前に、「アジア最後のフロンティア」としてミャンマーへの投資熱が高まった時期がありましたが、その頃のミャンマーに多数居た日系コンサルタントたちが、こうした社会構造の不安定性を説明していたとは思えません。

こうした政治経済システムの下で、昨年11月の国軍系政党のUSDP(連邦団結発展党)の大敗を受けて、これまで享受してきた利権や権益を失うことを怖れた軍の高官たちが、今回の武力による実力行使に踏み切ったことは、それほど驚くべきことではないのかもしれません。
彼らにとっての関心事は、国家の安定や発展ではなく、あくまで自分たちの利権や権益の維持・拡大だからです。彼らのような既得権益の受益者にとって、国軍は、自らの地位や利権を保全のために存在するもので、国防や国民の安全を図ることはおそらく視野に入れていません。
こうしたミャンマー国軍に内在する力学や理念(と呼べるかはさておき)を鑑みると、日本政府が持つとされていた国軍との独自の外交ルート(パイプ)が、今回の国軍による市民の弾圧の抑制・中止に無力であったことは納得できます。自らの権益の拡大に繋がるODA等の海外からの投資については話を聞く気になっても、利権の縮小を招く、民主化や社会の透明性の向上などを聞き入れる余地は、彼らにはないからです。彼らにとって、一般国民の安全や生命よりも、自らの利権の方がはるかに重要なので、人権の遵守を求める他国からの勧告を聞く耳は持ちません。国軍がODA等の日本からの投資について対話に応じていたのは、それが彼らの権益の拡大に資するからです。外国資本による投資の多くは、国軍系の企業を通して、軍の高官の懐へ流れ込んでいることは容易に想像がつきます。

これまで、国軍は天然資源の利権(とおそらく麻薬の原料となるケシの権益)を巡って、国境周辺の少数民族武装戦力と戦闘を繰り広げていました。国軍による弾圧で、最も規模が大きくなったロヒンギャ族への武力行使では、2017年7月の死者は6,000人、2019年時点での難民は91万人に達したと伝えられています。
こうした国軍による弾圧は、国境地帯の少数民族へ向けられていたため、これまで可視化されにくく、また、都市部に住む多くのミャンマー人、特にマジョリティであるビルマ人にとっては、遠くの場所で起きていることとして、大きな関心を集めることはありませんでした。
軍のクーデター以降、民主主義の回復を主張するデモ隊の市民に、国軍兵士が銃口を向け、活動家を拉致し、拷問にかけ、惨殺する事態となって、都市部の市民の多くは、国軍が一部の高官の利益を保全するための暴力装置であることを強く認識しはじめました。
SNSでは、「国境地帯の少数民族が武装している理由が初めてわかった」とか「いままで少数民族の武装組織をテロリストと思ってたけど、テロリストはミャンマー国軍の方だったんだ」といった投稿が、国軍による弾圧が強まり、死傷者が増加しはじめた時期に目立ちました。いまでは、ミャンマー国軍は、SNS上でテロリストと呼ばれるのが慣例化しています。1988年、軍事独裁体制に対する大規模な民主化運動(8888民主化運動)が起こった時は、軍の弾圧で数千人の民衆が犠牲となったと言われていますが、現在の民主化運動とSNSでの情報発信の主体となっているZ世代にはリアリティが薄かったようです。

これまで国境周辺の周縁部に居住する少数民族に向かっていた国軍による暴力が、いまでは都市部のマジョリティであるビルマ族へも及ぶ事態となりました。周縁に発動されていた暴力が、中心へと向かうことは、発動される方向性が変わっただけで、暴力を支える力学は変わっていません。
ただし、ミャンマーという国家の政治経済システムが、軍の高官の権力と利益の維持・拡大を目的とし、国軍という暴力装置がそれを下支えしているという構図が、今回の弾圧で誰の目にも明らかになりました。都市部の住民、とりわけZ世代のような若い世代にとって、これは初めてのことかもしもしれません。

国軍による正当性のない暴政に対抗する組織として、4月16日にNUG, National Unity Government(国民統一政府)が結成されました。
NUGのスポークスマンとして積極的に情報発信しているのは、チン族のDr. Sasaであり、副大統領にカチン族、首相にカレン族が任命されています。また、Dr. Sasaは前政権では不法移民として扱われていたロヒンギャ族をミャンマーの仲間と呼びかけました。SNS上でも、ビルマ族により、これまでの弾圧を謝罪する声が上がりはじめています。
NUGによる連邦軍の創設の構想に伴い、KIA, Kachin Independence Army(カチン独立軍)やKNU, Karen National Union(武装民族カレン国民連合)などの少数民族武装戦力との共闘・合流も取り沙汰されはじめています。

少数民族の自治権を保障する連邦国家の創立は、1947年に2月のバンロン協定により同意されましたが、同年7月のアウンサン将軍の暗殺により、実現されませんでした。
現在起こっている軍事独裁に対する抗議運動は、Spring Revolution(春の革命)と呼ばれています。革命と呼ばれるのは、この運動の目指す先が、クーデター前の政体に戻ることではなく、少数民族の自治権を認める、多民族による連邦国家の創設という、これまでにない新しい国体を構想しているからです。
これから先、国軍とNUGの対立がどのように展開するのか予想もつきませんが、今回は過去の弾圧とは異なり、民衆側に妥協する意思が感じられません。これまで通り、一部のビルマ人国軍高官による政治経済の支配体制が続けば、彼らの利権が脅かされるたびに、現在起きているよう国民への弾圧が起こり得るからです。国軍の蜂起は、1962年、1988年、2007年に続いて今回で4回目なので、国民も学習しています。一部のビルマ人高官の利権を支えるために存在している、既存のミャンマー国軍を解体しない限り、大多数のミャンマー国民にとって希望の持てる未来はありません。それゆえ、国軍の国民への弾圧は、日を追うごとに苛烈さを増していますが、国民を服従させる効果は薄そうです。
良いニュースとしては、国軍から離反者が現れつつあり、内部告発も始まっていることです。

ミャンマーがこうした不安定な社会にならざるを得ない社会学的な理由についての仮説も書くつもりでしたが、長くなったため、次稿にゆずります。

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2020年9月13日日曜日

コロナの影響でヤンゴン地区の独立国家化が進んでいる

ヤンゴン地区でのコロナ拡大に伴い、タウンシップ(日本でいうところの区(世田谷区、渋谷区 etc.))間の移動が制限されているようです。これを受けて、在ミャンマー外国人の間で、タウンシップを独立国家に見立て、新しくデザインされた国旗がFacebook内で拡散しています。
「新しい国のビザはどこで取ればいいの?」とか「ヤンキンは何国になったの?」とかのコメントがタイムラインに飛び交っています。
新国家の国旗は、25近くあるようですが、そのいくつかをここでご紹介します。
サンチャウン連邦
私が戻ったらここの国民になります

ミニゴン諸島
ミニゴンは、サンチャウン区内の地区ですが、自治区として独立したようです。
 
サン・ミニゴン
同じくサンチャウンのミニゴン地区にできた自治区
外国人が多いエリアなので、租界みたいに自治区が多いのかもしれません

インセイン共和国

ノースダゴン王国
 
パソーダン州

ノース・オカランド共和国
 
ダラ島
独立国家となったようです

タムウェイ共和国

ダゴン国

たぶん、みんなステイホーム中で暇なので、国旗のデザインとか始めたんでしょう。
なかなか洒落が効いていて面白いので、ヤンゴンに残ってる皆さんは、新国家の国旗のデザインをしてみたらいかがでしょう。
今のところ、日本人のこのムーブメントの参加者は見あたりません。

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2020年7月11日土曜日

ただいま日本でバイト中~昭和の仕事はゆるかった?

6月に引き続き日本の某地方都市で、特別定額給付金のデータ入力のアルバイトをしています。
当初は、8月までこの仕事がある予定でしたが、入力作業が予想より早く終わって、7月末で業務がなくなりました。
大量のアルバイトを雇って、一日10時間投入作業に従事させて、さらに途中から追加の人員まで補充していたので、請負会社の予想より1ヶ月以上前倒しで、ほぼデータ入力が完了しました。当初の契約通りの日数を出勤していますが、先週から作業時間より待機時間の方が長くなりました。一か月前に、肩こりと眼痛と戦いながら、長時間ぶっ通しでPC入力作業に従事していたのが遠い過去のように思われます。

ひたすら入力作業をしていた時期につらつら考えていたのは、「そういえばこうした仕事も昔は正社員がやってたな」ということです。私が公社系の電話会社に新入社員として入った頃、アルバイト先の仮設オフィスで行われているデータ入力作業もコールセンター業務も正社員の仕事でした。
今では、派遣会社と契約したアルバイトが同じ作業をしています。
アルバイトを統括するグループリーダーもどうやらアルバイトです。バイト長みたいなものですね。

昔の会社員は、今ではアルバイトがしている作業に従事して、それほど豊かではないものの、家のローンや子供の教育費を何とか賄えるだけの賃金を貰ってたことを考えると隔世の感があります。
もちろん、コールセンターなどの部署を束ねる管理者も、正社員の課長でした。

これだけを見ると、昔はゆるい仕事で生計が楽に立てられたように見えます。
タイムリーに、以下のようなニュースがありました。

「昭和時代にサラリーマンをやりたかった」という投稿に反発相次ぐ 「普通に働いていればそれでよかった」というのは本当なのか

しかし、必ずしも「昔はゆるくて良かった」と言い切れるものでもありません。
上のニュースにもありましたが、全員正社員・終身雇用が前提だと、とにかく組織の同調圧力や村社会ぷりが激しく、風通しの悪いことこの上ないというのが、当時の実感です。
社内の飲み会は強制参加、結婚式の仲人は直属の上司、特に仲が良くなくても同じ部署の社員の結婚式には出席、管理職の引っ越し作業に休日返上で参加、長くその部署に居る人間が牢名主化していてうかつに逆らえない等々、もはや会社は仕事する場というより一種の村社会的な共同体でした。
仕事とは直接関係ないのに、これらの不文律を破ると、仕事や人事評価に影響するという極めて透明性の低い場所でもありました。
バイトでもできる作業の管理に正社員の課長を据えていたのも、昔は労働組合がやたらと強く、現場の管理職に解決不能な無理難題を要求したり、組合員による鬱憤晴らしの突き上げなどが頻繁していたからという面があります。
事務能力の有無よりも、理不尽な罵詈雑言に耐える我慢強さがのある中年男性が、こうした部署の中間管理職として選ばれ、上層部へ組合員の突き上げが波及する防波堤となっていました。
私が入社する前は、一部の組合員が調子に乗って、中間管理職に暴言を吐いたりすることもよくあったと聞きました。

90年代に入ってから、業務や作業の内容による賃金の国際標準化が進み、単なる作業従事者が非正規雇用者に取って代わられ、生計のための十分な賃金を得ることは難しい時代になりました。
地域コミュニティの破壊とか、環境負荷の増大とか、あくなき利潤追求のため安全性の棄損とか、いまや諸悪の根源とされるグローバル資本主義ですが、単なる作業しかしていない人間が夜郎自大に威張り散らすという状況がなくなったのは、グローバル資本主義の正の側面だと個人的には考えています。こうした国際標準化の圧力にさらされているのが、現業の従事者だけで、経営層に及んでないことは大きな問題ですが。

では、今の方が良いかというとこれも微妙です。
最近、ナイキの創業者フィル・ナイトの回顧録『SHOE DOG(シュードッグ) 』を読んだのですが、ナイキがアメリカの銀行から取引を中止されて、1975年に会社が潰れかけた時に、資金を提供して会社を救ったのは、日本の商社日商岩井の駐在員でした。

当時のナイキの取引銀行バンク・オブ・カリフォルニアに、日商岩井の駐在員 伊藤氏が、創業者フィル・ナイトと共に訪れた部分を引用します。
イトーはあごを撫でながら自分で切り出そうとした。彼は直ちに本題に入った。忌々しい本題に。彼はホランドしか相手にしていなかったが、「みなさん」と前置きした。「私の理解では、ブルーリボン(註:ナイキの前身)との取引を今後は中止とするようですが」
ホランドはうなずいた。「そのとおりです。ミスター・イトー」
「それならば、日商岩井がブルーリボンの借金を返済します。全額」
ホランドが目を凝らした。「全額……?」
イトーは低く、声にならない声で返事をした。私はホランドをにらみつけた。私は、これが日本人だと言ってやりたかった。言葉を詰まらせながらでも。(同書 P386-P387)

これは銀行の横暴を見かねた伊藤氏の義侠心(とナイキの将来性を信じた)から出た判断で、上層部の許可を得ていない独断でした。後日談として、伊藤氏はこの独断によって、本社から一度は解雇と帰国命令を発令されています。


ちなみにナイキのポートランド本社には、この故事を感謝して、日本庭園 日商岩井ガーデンが敷地の中心部に造園されています。
昭和の時代は伊藤氏のように、馘首されるリスク取ってまで挑戦するサラリーマンがいたのには驚かされます。今のサラリーマンは汲々として、自己利益と自己保身しか考えられない小役人タイプが跋扈しているので。
日本経済全体が右肩上がりだった時期と、人口が減って縮小しつつある現在との環境の違いもありますが。
ただ、日本からこうした義侠心に富んだり、リスクテイクできる人間が完全に払底されたわけではなく、職業選択の幅が広がって、そうしたタイプの人間はサラリーマンを職業として選ばなくなったという要因も大きいです。起業や独立自営業なども、ネットの発達で、昭和の時代に比べれば、格段に始めやすくなっていますし。

価値観や美意識は時代を経ると変わる事もあり、物事には正負の両面があるので、一概に比較はできません。ただ、真面目で従順なだけなのが取り柄の人でも食いっぱぐれなかった時代から、何らかの新しい価値観や美意識を提供できないと食い詰める可能性が高い時代に移行しつつあることは確かです。

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2020年5月15日金曜日

COVID-19騒動の中での日本への帰国体験記を書いた

4月24日から、日本に一時帰国中です。
帰国してから、3週間が経とうとしています。こんなに長く日本に滞在するのは、2012年にヤンゴンに住むようになってから初めてです。
帰国して2週間は、Airbnbで取った新宿御苑のアパートで待機していました。
東京に滞在するのも、8年振りでした。新宿の街は、紀伊國屋書店も伊勢丹新宿店も閉まっていて閑散としていました。
今は、福岡の大濠公園の近くに住んでいます。
福岡では、多くの人々が大濠公園でジョギングする姿も見られ、現在の東京ほどの閉塞感と圧迫感は感じません。こちらでも、飲食店の多くは、閉まっていたり、テイクアウトのみの営業だったりはしますが。
最近、ミャンマーの日本語フリーペーパーから、日本へ帰国した時の状況について書くように依頼されました。以下に書いた記事を転載します。このまま採用されるかどうかは不明です。
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COVID-19騒動の中での日本への帰国体験記

4月24日午後11時、私は、成田国際空港第一ターミナル到着ロビーにいました。周囲には、私も含めて5,6人がロビーのベンチで過ごしています。私と同じく、ヤンゴン発のANA NH814便で成田に到着した人たちです。海外からの帰国者は、公共交通機関の使用禁止を要請されているため、明日の迎えが来るまで、皆ここで一晩過ごすのでしょう。
一か月前まで、自分がこの時期に、この場所にいるとは思っていませんでした。

3月中旬時点での、私の4月の計画は、次の通りでした。
4月5日 The Makers Marketに出店
4月8日 ヤンゴン-->チェンマイ ティジャン(水祭り休暇)
4月19日 チェンマイ-->ヤンゴン ミャンマーに帰国

4月5日に開催予定だったThe Makers Marketは、毎月一回ヤンゴンで開催されている、ローカルメイドの工芸品や雑貨を集めたナイトマーケットです。タイのようにローカル・マーケットが充実していないミャンマーで、ここでしか手に入らないローカル・ブランドの商品が購入できるイベントとして、在緬外国人に人気のイベントです。毎回、3000人近い来場者を集客しています。


3月8日に開催されたThe Makers Marketの様子

しかし、3月末になって、コロナウィルスの感染拡大の影響により、状況が次々と変わり、当初の計画はすべて覆りました。
まず、タイ政府の発令により、3月26日から、すべての国境ルートから、外国人の入国禁止となります。続く3月31日には、ミャンマー政府により、国際空港への旅客航空便の着陸禁止が発令されます。さらに、ミャンマー政府が4月中のイベント自粛を要請したことで、4月5日開催予定だったThe Makers Marketは中止となります。

タイへの外国人の入国禁止となった時点で、予約していたヤンゴン、チェンマイ往復航空便は運航休止になりました。
前回のビザランで3月末にバンコクから戻って来た時、ミャンマーへはノービザで入国していました。いつもは滞在日数70日のビジネス・ビザで入国していますが、この時はティジャンの休暇が近く、2週間程度の短期滞在になるからです。
この安易な判断が、仇となります。
ノービザで入国すると、滞在延長の申請ができません。よって、滞在期限が切れるまでに、どこかへ出国する必要があります。しかし3月末時点で、周辺のASEAN諸国は、ほぼ封鎖中となっていました。
こうなると、日本人の私が入国できる国は、日本しかありません。
実家のある福岡行のチケットをネットで探しましたが、これが見事にない。ハノイや香港経由のメジャーなトランジット便は全便休航となっています。
では、日本への直行便しかないとANAのウェブサイトへ。
検索すると、滞在期限前の運航便の片道チケットの価格が15万円から20万円へと高騰しています。日本からミャンマーへの往路は全席空席なので、しかたないのでしょうけど。やむえず、オーバステイになっても、できるだけ安い価格のチケットを探して、約1か月先の4月24日ヤンゴン発の片道8万円のチケットを購入しました。

さて、今の環境下で、日本に帰国するとどういう状況になるかを、先にミャンマーから帰国した知り合いや周囲の友人へ聞いたところ、ものすごく面倒なことになっていました。

政府は、海外からの帰国者へ、以下の要請をしています。
- 海外からの帰国者は、もれなく2週間の待機を命じられる
- 日本帰国から2週間の待機期間中は、公共交通機関の使用禁止

そして、2週間待機の宿泊場所は、自己解決かつ自費で賄う必要があります。
この条件だと、関東近辺以外の居住者は、空港からアクセスできる場所に自費で宿を取り、しかも、その場所まで公共交通機関を使わずに行き着く必要があります。こうした条件を課すなら、政府が宿泊施設と移動手段を用意するのが筋ではないかと思いますが、残念ながら、個人での自己解決が求められています。
しかたなくAirbnbで、東京に2週間待機する宿を取りました。
問題は、宿泊地までの移動手段です。
先にミャンマーから帰国していた千葉の知人に頼んでみたところ、快く引き受けてもらえました。しかし、承諾から3日後に断りの連絡があります。家族に話したところ、猛反対に遭い、車のキーを取り上げられたとのことです。
となると、残る選択肢は、空港発の予約制リムジンバス・サービスくらいしかない。しかし、これが公共交通機関に入るのか、入らないのかの判断に苦しみます。小学生の頃、遠足のおやつはX円までという教師からの指示があった時、「先生、バナナはおやつに入るんですか?」とお約束のように聞く児童のような疑問です。
考えあぐねていたところ、4年くらい会っていない、以前ミャンマーに住んでいた友人から突然メールが入りました。私のブログを読んで、ミャンマーにスタックしていることを知り、メールをくれたようです。空港から宿泊地への移動手段に困っていると伝えたところ、ご親切にもレンタカーを借りて迎えに来てくれると言ってくれました。ありがとうHさん。あなたがいなければ、移動で詰んでいた。

航空チケットは取った、2週間宿泊する待機場所も予約した、空港から宿泊場所までの移動手段も確保した。でも、これで一安心とはいきません。
ビザの問題が残っています。
この頃、突然国境を閉鎖されたため、私同様にオーバーステイを余儀なくされた在緬外国人のトラブルが続発していました。地元の英字フリーペーパーでは、外国人が移民局へ延長申請のために赴いても、役所をたらい回しにされて、結局延長ができないケースが多発していることが記事になっていました。ビザの滞在期限が切れると、法律上、賃貸住宅へ居住することはできず、かと言ってホテルにも宿泊することもできません。住処を失ったある在緬外国人男性が、ミャンマー人女性のガールフレンドのアパートに転がりこんだところ、借主である女性の勤務先からクレームがついて追い出され、文字通りホームレスになってしまったケースも報告されています。
ミャンマーは異性間のモラルが厳格なため、周囲の住人や関係者は、未婚のミャンマー人女性と外国人男性が同居することを快く思いません。幸いにして(と言うべきか)私は、女性と縁がなく、アパートへの女性の出入りもないので、近隣の住人の反感を買い、密告されて住居を追い出される可能性は低そうです。しかし、そうは言っても、安心はできません。

その後、今回の特例で、ビジネス・ビザ以外でも、移民局で延長申請が可能になったとの情報を得ました。4月上旬に、パソーダン通りの移民局に着くと、建物前から優に100メーターは続く長蛇の列ができていました。どうやら、みんなビザの延長申請に来ているようです。私も一時間以上列に並んで、担当官に必要書類を提出しました。手続きが完了したら、電話するということでしたが、結局、連絡はありませんでした。

4月上旬、移民局前にできていた行列

移民局からの連絡を待つうちに、夜間外出の禁止令が発令され、外出に対する規制がさらに強まっていきました。こうした中で、処理されているかどうかもわからない申請を、再度一時間以上列に並んで、移民局で確認する気にもならなかったので、ビザの延長申請は立ち消えになりました。こうした状況で多くの外国人が、ビザの延長を果たせず、運の悪かった人が路上に放り出される事態に陥ったのでしょう。
タイ政府は、ビザの種類に関わらず、手続きなしで滞在期限を自動延長する救済措置を発表しましたが、残念ながらミャンマーは、そこまで外国人に対して配慮がされる国ではありません。

こうなると、オーバーステイの延長料金を空港で払うしか方法はありません。
夜間の外出禁止など、規制が日に日に増していく中で、宙ぶらりんな立場で過ごすのは、あまり気分の良いものではありませんでした。
まいったのは、夜間外出禁止令の発表により、ANA NH814便の運行時間が突然変更されたことです。ANAに確認したところ、その時点では、フライトが半日後ろ倒しになる予定だとの回答でした。それでは、移動をお願いしているHさんの都合がつかない日時に到着するので、やはり移動で詰む。繰り返しますが、公共交通機関の使用はできません。
果たして、フライト3日前になってANAから届いたメールを開くと、半日前倒しのスケジュールへと変更となっていました。このスケジュールなら、早く着くぶん待ち時間は長くなりますが、Hさんが迎えに来れる時間には成田空港に着いています。迎えが無理となった場合、レンタカーのキャンセルも発生するので、直前までHさんとやりとりをしていました。

4月24日、出発の日のヤンゴン国際空港は未だ封鎖中で、閑散としていました。どうやら運航しているのは、ANAの臨時便だけのようです。搭乗手続きを終え、スーツケースを預けて、イミグレーションのフロアに移動します。気になっていた、オーバーステイの手続きは、イミグレーション前の窓口で、一日当たり3USDのオーバーステイ料金を払うことで、難なく終わりました。以前も同じ手続きをしたことがありますが、ミャンマーでは、唐突にシステムが変更することがよくあるので、実際やってみるまで気が抜けませんでした。
ANA NH814便の搭乗率は、10%程度でした。帰る必要のある邦人はすでに帰国していて、これから帰国する在緬邦人はあまり多くないのでしょう。午後1時半に、ヤンゴン国際離陸した飛行機は、定刻通り。夜10時半に成田国際空港へ着陸しました。
機内で4、5枚の書類を渡され、それぞれに2週間の待機期間中の宿泊地の住所や、日本での連絡先を記入します。宿泊地の管轄保健所からの連絡方法について、Lineのスマートフォン・アプリを使うか、保健所からの電話を受けるかの選択項目もありました。とりあえず、アプリでの報告へチェックを入れておきましたが、ミャンマーは入国制限対象地域の国ではないため、保健所からの確認はないようでした。
飛行機から降りると、イミグレ前に待機していた検疫官に記入した書類を渡し、簡単な問診を受けた後、入国審査カウンターへと進みます。搭乗客が少なかったこともあり、飛行機を降りてから、検疫、入国審査を経て、到着ロビーに出るまで要した時間は30分程度でした。

そして、到着ロビーのベンチで、翌日午後2時に迎えが来るまで、13時間待機します。成田空港の到着ロビーも閑散としていました、ロビーにいるのは、私と同便で到着して、翌日まで迎えを待つ5、6人の人たちと空港のスタッフのみです。ちなみに到着ロビーに着いてから、移動の規制はありませんでした。迎えを頼める親族・友人が見つからず、他に方法がなければ、やむえず公共交通機関を使う人がいてもおかしくはありません(私もそうした可能性がある)。そのような事態を招かないためにも、政府が何らかの移動手段を用意すべきではないか、と到着後も改めて思いました。

4月24日、成田空港第一ターミナル到着ロビー

出国と到着の経緯を書いたところで、指定の字数をとうに過ぎました。
私がミャンマーで取り組んでいるプロジェクトについても、少しお伝えしたかったのですが。
私のミャンマーでのミッションは、「ミャンマーの素材を使って、世界で通用するブランドを、ミャンマーで作る」ことです。世界のどの都市でも通用するクオリティを持った、ミャンマー発のブランドを作ることを目標としています。
お時間があれば、私のブランドYANGON CALLINGのWebサイトとFacebookページを見ていただけると嬉しいです。
Webサイト:
https://www.ygncalling.com/
Facebookページ:
https://www.facebook.com/ygncalling/




5月中旬の現時点で、ミャンマーへいつ戻れるか状況は不透明ですが、ミャンマーへ入国できる環境が整いしだい、帰る予定です。また、The Makers Marketなどのイベントで、皆さんとお会いできる日が訪れることを心待ちにしております。
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2020年4月4日土曜日

コロナ対策で自宅勤務中のミャンマー女子に写真を撮らせてもらった

現在、ヤンゴン市内では、飲食店の営業も店内での飲食は禁止されて、数少ない営業中のお店も持ち帰りのみとなっています。
街は閑散として、普段は賑わっている場所でも人通りはまばらです。
さっき聞いた話によると、4月10日から4月21日まで、外出禁止令が発令されそうです。
人聞きなので、真偽の程はわかりませんが、この国では、空港閉鎖も飲食店の営業禁止も突然発令されて即施行されたので、可能性はあります
(4月5日追記:どうやら、政府が「ティンジャン(ミャンマー正月)で休日となる10~19日の外出を、食品や医薬品の購入目的を除いて自粛するよう通達した」事実に尾ひれが付いて、一律の外出禁止令が布告されるとの噂に転じたようです。公共のニュースに対する信頼度が低いミャンマーでは、確度の低い噂がSNSを通じて拡散しやすいです)。

そんな不穏な空気が漂う中ですが、ミャンマーのメディア企業で働く近所のミャンマー人女子に商品着用写真を撮らせてもらいました。
今、彼女の勤務先でも従業員の出勤を自粛して、ビデオ会議などのリモートワークで業務対応しているようです。
そうした状況なので、平日の昼間にアパートにお邪魔して、写真を撮らせてもらえました。
彼女のアパートの狭いバルコニーで撮影したので、アングルを選べませんでしたが、着用イメージはある程度伝わるかと思います。

















上記商品のサイズ・価格などの詳細は、こちらのページでご覧になれます。
https://www.ygncalling.com/shop

この時期、多くの人が自宅に籠ることを強いられるはずなので、これを機会に、手持ちの服でできるコーディネートを試したり、積読中の本を読んだり、みなさん自宅でできることを楽しめるよう気持ちを切り替えられたらいいなと思います。

ちなみに彼女とは、読書SNS Goodreads で知り合いになりました。
読了リストに、洋書ファンクラブで紹介されていた、 Daisy Jones & The Sixが上がっていたので、興味を持ってこちらからコンタクトしました。
この本の邦訳が出るのを待つか、原著で読むかちょうど迷っている時だったので。


本書は、70年代の架空のロックバンドについての手記・回想録というスタイルで描かれたフィクションです。
レビュー読むと、主人公のモデルとして、フリートウッド・マックのスティービー・ニックスが想起されるようです。
ちなみに、彼女にこの本の感想を聞いたら、イマイチだったということでした。
主人公のDaisyのキャラクター造形が、ミャンマーの文化的価値観と離れすぎていてなじめなかったようです。
それに加えて、60年代末から70年代初期にかけてロック音楽が表象していた時代の空気感など、時代背景や前提となる知識がないと楽しめないのかもしれません。タランティーノの映画『ワンスアポンアタイムインハリウッド』同様に。
あの映画について、公開当時に話題にしていたミャンマー人は、アメリカとかヨーロッパの大学を卒業して戻ってきた富裕層の子女のみでした。
彼女はヤンゴン外語大学のフランス語科卒で、フランス語と英語ができますが、自分をWorking Class Womanと自己紹介していました。ミャンマーの上流階級・富裕層は、キャリアの最初から親族経営の会社の役員になるか、親の資金で起業するかが一般的なので、身内でもない他人に指図されて働くこと自体がWorking Classと定義されるのかもしれません。ミャンマー国外から出たこともないみたいな様子でした。
そうした子が、こうしたタイプの小説を原著で読むことはミャンマーではかなりレアケースです。
少しずつですが、ミャンマーの文化的価値観や文化の受容性も多様化しつつある気配を感じます。

とりあえず、ちょうどいい休みができたと思って、今まで読めなかった本でも読んで、ゆっくりこの時期をやり過ごそう、と思ったらクリック!
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2020年3月28日土曜日

【悲報】僕、コロナのせいで4月の計画がむちゃくちゃに

世界各地で多くの問題を生み出しているコロナウイルスにまつわる騒動ですが、この影響で予定が狂った人も多いはずです。
ご多分に漏れず、私も巻き込まれました。
2月末時点での3月、4月の私の計画は、以下の通りでした。
  • 3月17日 ビザランから帰国 バンコク-->ヤンゴン
  • 4月5日 イベント The Makers Market出店
  • 4月8日 ビザラン ヤンゴン-->チェンマイ
例年、4月上旬から中旬にかけて水祭りで、一週間以上の休業に入るローカルの店舗・企業が大多数のため、この時期は水祭りの喧噪を避けて、ミャンマー国外へ出る外国人が多いです。
私もミャンマーに来て最初の3年は水祭りの時期も、ミャンマーに残っていましたが、他の機会・場所では存在価値を示せないような連中が、ここぞとばかり街場でイキってるのを見るのが不快、かつ毎日五月蠅くてうんざりするので、ここ5年はミャンマー国外へ出るようにしています。

通常eVISAで70日滞在可能のビジネスビザを使ってミャンマーに入国していますが、3月17日の入国時は、どうせ一か月以内に出国するからと、70USDケチってビザなしで入国しました。ビザなしだと、滞在可能日数は30日です。
見通しが甘かった。
ミャンマー政府が4月中のイベント自粛を発令したため、4月のMakers Marketは中止。
タイ政府も、3月26日に海外からの旅行者の入国禁止を発令したため、4月8日のチェンマイ行きは不可能になりました。
滞在期限が切れる前にどこか一時出国できる国を探しましたが、周辺のASEAN諸国はほぼ封鎖。
カタール航空がこの時期もヤンゴン線を就航していることをネット広告でアピールしていますが、カタールは物価が高そうだし、そもそも入国できるかどうかも不明(調べてません)。
最後の選択肢として、ヤンゴン-->福岡のチケットをネットで探しましたが、これが見事にない。ハノイや香港経由のメジャーなトランジット便は全便休航の模様。
見つかるのは、中華系航空会社とLCC二つ乗り継いで、移動時間が20時間以上かかる便のみ。
移動時間はともかく、この時期に複数の国でトランジットするのは、かなりリスキーです。
九歳の子供を連れたロシア人の女性が、Air Asiaで、ロシアからマレーシア経由でタイに着いたものの、コロナの陰性証明書か罹患時に10万USD以上をカバーする保険証を持っていないかで、マレーシアに戻されて、どこにも出国できずに、クアラルンプールの空港内に閉じ込められて、進退窮まったケースもFacebookで話題になっています。

こうなると割高でも、ミャンマー-->日本の直行便しかないかとANAのウェブサイトへ。
検索したら、滞在期限4月16日までの運航便の片道チケットの価格が15万円とか20万円とかの鬼価格。
ないわ。
もう何年も新しいMacbook Pro買うの我慢しているのに、そんな金は払えん。
仕方ないので、オーバステイになってもそれより安い価格のチケットを探して、4月24日発の片道8万円のチケットを購入。
通常時ならベトナム航空で往復4万円代なので、片道で2倍の値段になるのも納得いかんが、他に選択肢がないので仕方ない。
とりあえず、このチケットを押さえておいて、4月16日までに出国できる航空券を直前まで探してみます。

不幸中の幸いだったのは、Airbnbで予約したチェンマイの宿は、この期間中の特別措置として全額返還されたことと、Trip.comで予約したヤンゴン<-->チェンマイ便も、運航中止となったため、返金されたことです。

トランジット便を利用する場合は、コロナの陰性証明書が必要となるので、よくドレス買ってくれるミャンマー人のお客さんが医師だったのを思い出して、証明書発行できるかどうか聞いてみましたが、彼女の関わる医療機関では発行できないとのことでした。
ミャンマーでも 陰性証明書を取得して、タイのトランジットを経て、他国へ帰国している外国人の報告もネットにあるので、発行してくれるミャンマーの医療機関はあるはずです。
こちらが聞いたついでに、彼女がこぼしていたのは、彼女もこの時期にペンシルベニア州に住む身内を訪ねるつもりで、ヤンゴン<-->NYCの往復航空券を買っていたのが、キャンセルとなり、しかも返金されるかどうかが不明だということです。
NYCの旅行代理店からチケットを購入したので、その代理店に問い合わせ中ですが、気の毒なことに、先方からの返信はないそうです。

今回の混乱で、こうしたケースも多発しているはずです。
ミャンマーを含む東南アジア諸国の水祭りの時期は、この地域最大のバケーション・シーズンで、海外旅行を計画していた人が多いはずですから。

しかし今回気づいたのは、ミャンマーに住んでると、タイへの依存度が高いなということです。タイへビザランができないとなると、いきなり社会生活が破綻する。
ミャンマーから見て、安近短、かつ都市的な娯楽や消費が楽しめる場所は、今のところタイ以外にありません。

それから、今回の報道で覚えた英単語が、 quarantine(隔離)です。英文のニュース読んでると毎回出てくるので。
Wikipediaでペストの項を見ていたら、語源が載ってました。イタリア語が語源だそうです。
14世紀の大流行は中国大陸で発生し、中国の人口を半分に減少させる猛威を振るった。当時ユーラシアの一大勢力を築いていたモンゴル帝国ではチンギス・ハーン末裔の諸家どうしの権力抗争が続いていたところへ流行が襲い、諸家の断絶を招いて帝国を衰亡させる要因となった。ペストは1347年10月に(1346年とも)、中央アジアからイタリアのシチリア島のメッシーナに上陸した。ヨーロッパに運ばれた毛皮についていたノミが媒介したとされる。流行の中心地だったイタリア北部では住民がほとんど全滅した[6]。疫病の原因が「神の怒り」と信じたキリスト教会では、ユダヤ人が雑居しているからとして1万人以上のユダヤ人を虐殺した。1348年にはアルプス以北のヨーロッパにも伝わり、14世紀末まで3回の大流行と多くの小流行を繰り返し、猛威を振るった。ヨーロッパの社会、特に農奴不足が続いていた荘園制に大きな影響を及ぼした。 1377年にヴェネツィアで海上検疫が始まった。当初30日間だったが、後に40日に変更された。イタリア語の「40」を表す語「quaranta」から、「quarantine(検疫)」という言葉ができた。
今回は、650年前のペスト禍に比べれば、ずいぶん被害が小さいはずです(なにしろペストは、当時の致死率が60%から90%だった)。
先人の経験した壊滅的な災厄に比すれば、乗り切れないわけがないと心安んじるしかありません。

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2020年3月10日火曜日

The Makers Market #11へ出店しました

今週の日曜日に、今回で11回目の開催となるThe Makers Marketへ出店しました。今のところ全回参加していますが、もう11回目になるのかと考えると感慨深いものがあります。
今回は同じ敷地内であるものの、3日前にいきなり場所の変更の周知がありました。これについては、出店者へのメールやFBグループでの通知はなく、公式のFacebookページで一回告知があっただけでした。
変更について、事情の説明もないので、理由は不明です。
同日に、いつも開催している広場で、別のイベントが開催されていたので、会場側がダブルブッキングしたのかもしれません。



今回の会場は、カラウェイクガーデン入口近くのデッキでした。
デッキの板がところどころ剥がれいたり、外れていたりで、足場が悪く、設営にいつもより手間取りました。




いつもより狭い敷地へテントを押し込んでいるため、通路幅が狭く、動線が悪い場所だとお客さんの入りが悪そうでした。私が割り当てられた場所も、ちょっと来場者の回遊性が低そうな位置でした。
そのため、今回は厳しいかな、と設営しながら感じていました。設営終了直後に最初に来店した、アフリカ系アメリカ人の男性に、サイズ設定の説明を正確にできなかったため、販売機会を逸しました。
これは幸先が悪い。今日は出店料や移動費を考えると赤字かも、と嫌な予感がよぎります。
結果的には以前お買い上げいただいた日本人のお客様や、ミャンマー人の知り合い、撤収直前になって駆け込み的に買っていただいたお客様がいたため、なんとか黒字は確保できました。
ここへ来る労力と無店舗で運営していることを勘案すると、もう二倍くらいの売り上げが欲しいところですが、マーケティングが相変わらず課題です。商品力は他のブランドに対して優位だと思いますが(あくまで当社比)、マーケットでのブランド認知度が他のヨーロッパ人運営のブランドに比べて、相当に低い。だいたいいつもこのイベントに来てるけど、今回初めて見たというフランス人のご婦人がいたくらいですから。


デッキスペースは、カンドジー湖を挟んで、シェゴダンパゴダを臨める眺望のため、飲食スペースのロケーションは、いつもより良かったかもしれません。

急な場所の変更とか、出店者の選考結果発表日と出店料の振込締め切り日が同日とか、いろいろと運営上ではありますが、The Makers Marketがいまのところミャンマーで唯一成功しているナイトマーケットであることは確かです。
ミャンマーの屋内型ナイトマーケットとして始まったUrban 86は、運営のまずさと集客力のある質の高いテナントが集まらなかったことで、一年を待たずに閉鎖しました。
Strand Streetのナイトマーケットのテントは出店者もまばらです。
去年の雨期に始まったPansodan Streetのナイトマーケットは、その後どうなっているか話を聞きませんが、今も継続しているのかどうか不明です。 私の知る限り、特に話題になっていないようです。
上にあげたナイトマーケットの盛り上がらなさ加減に比すれば、11回目を数えるまで継続し、しかも毎回着実に集客しているThe Makers Marketの成功は、ミャンマーでは例外的と言っても良いかもしれません。

個人や中小企業が、ミャンマーでBtoCビジネスを場合、市場構造や特性を観測する絶好の機会でもあるので、ミャンマーでこうした業態にご興味があれば、ご来場をお勧めします。
このイベントでの日本人の来場者数の比率が、ミャンマーの外国人マーケット全体における消費者の比率と見ても、そう大きな誤差はないはずです。
また、ミャンマーの外国人消費者層に加えて、ミャンマーの国産品に関心を持つ0.1%のミャンマー人富裕層も観測することができます。
それを除く、ミャンマーの99.9%の消費層はミャンマーの国産品に対する消費選好はありません。
ファッションに例を取ると、ミャンマーの99.9%の消費層は、国産品よりも、H&MやZARAやユニクロなどのファーストファッションの方に関心があります。ちょっと無理をすればバンコクへ行ける程度に裕福な中産階級の若者は、H&MやZARAやユニクロを現地のショッピングモールへ買い出しへ行きます。
ミャンマーの伝統的な服飾文化をエッセンスに加えたローカルファッションに興味を持つミャンマーの消費者層は、日常的に海外へ渡航しているため、世界の主要都市のどこにでも売っているファーストファッションに、あまり有難味を感じない0.1%の富裕層のみです。

次回12回目の開催は、4月5日(日)ではないかと予想しています。

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