2015年10月30日金曜日

日本の問題点、そしてミャンマーに不足しているもの

先日、日本へビザ更新のため一時帰国していました。
今回の申請では、ビザ取得の必要書類が、新たに追加されていました。
現在のミャンマーのビジネス・ビザの取得申請には、ミャンマーへの航空チケットと、招待状を交付したミャンマー企業の会社登記の写しも必要とされます。例によって、在日本ミャンマー大使館でのWeb等では周知されていません。
大使館へ必要書類とパスポートを郵送して手続き行いましたが、追加で上記の書類を大使館へFAXで送るように指示されました。急いでFAXで送った書類も職員に見落とされていたようで、それだけで処理に3~4日の遅延が生じました。ミャンマーへ帰る日が決まっているので、間に合うかどうかヒヤヒヤしました。

久々の日本でしたが、感じたことの一つとして、少子高齢化が本当に進んでいることを実感しました。ミャンマーでの街角の風景に目が馴染んでいるので、通りに子供が少なく、一部の繁華街を除いて若者より中高年やお年寄りが多い風景が異様に映ります。多くの人は、加齢と共に新しい分野への好奇心や挑戦する意欲を失う傾向があるので、こうした人口構成だと新しい流行やムーブメントは日本では生まれにくいと感じました。

フェーズが違う事柄なのですが、日本で提供されているAirbnb物件のレベルが一般に低いことにも落胆しました。
私が滞在した福岡市では、アジアからの観光客が増えてホテルが満室もしくは高騰しているため、Airbnbで提供されている物件を複数利用したのですが、そのうち一軒が非常にお粗末でした。
部屋にある家具は、安っぽいちゃぶ台のみ。椅子も机もソファもベッドもなし。座布団や座椅子がないため、固い床に直接座るとお尻が痛くなる。さすがにこの状態では、部屋でくつろげないので、座椅子はホストに頼んで用意してもらいました。Wifi環境と冷蔵庫はありましたが、このレベルの物件で一泊4,000円は高過ぎます。
バンコクのAirbnb物件だと、一泊35~50USD程度で洗濯機・乾燥機などの電化製品、テーブル・ソファ・ベッド等の家具完備のプール付きの50平米クラスのコンドミニアムが利用できます。もちろんタイと日本では、物価水準や不動産事情が違うので、一概に比較はできませんが。
それを考えても、日本では単に賃料の安いアパートを借りて、必要最低限の初期投資やサービスレベルの維持を怠ったまま、収益を得ようする安易なAirbnb物件が多いような気がします。
ホストとして宿泊先を提供するなら、最低限の設備投資を実施し、客観的なレベルで満足できる利便性や快適さを担保すべきでしょう。利用者の多くはホテルの代替として、Airbnbを利用しているので、同じ宿泊料のホテルと同等のグレードか、もしくはそれ以上の利便性や快適さを求めています。
同等の金額で利用できるAirbnbのグレードでは、タイと日本では格段の格差があり、当然、それはその国に滞在して感じる快適さにも影響します。
観光で訪れるなら、文化やエンターテインメント等の他の要素も加味されますが、私の場合、ビザの関係で必要に迫られてミャンマーから一時出国して、宿泊先でPCで作業する時間が長いので、日本の宿泊施設の貧弱さが特に気になりました。
どうも観光立国とか言う割には、唱導する理念に、現実のオペレーションが追いついていないように感じます。
少子高齢化が進む中、観光業は日本で伸びしろがある数少ない産業なので、観光地の整備と共に宿泊施設のレベルアップも重要な課題です。 Airbnbのホストは、そうした日本の課題を背負った問題解決者であるべきことを強く自覚すべきでしょう。
日本国内でさかんに喧伝されている「おもてなし」や「クールジャパン」も、国外から見ると内輪の自己満足・自画自賛に過ぎないと、率直に指摘している本や雑誌を本屋で見つけたので、以下にご紹介します。





また、日本におけるミャンマー・ブームもそろそろ終わりつつあることを感じました。
「アジアのラストフロンティア」などと喧伝されて、ミャンマーへの進出・投資ブームが 一時は起こりましたが、大半の企業は一年余りで撤退を余儀なくされていると聞きます。事務所を構えたものの、現地法人の設立さえできずに同地を去る企業も多いようです。
さらに、ミャンマーで一番期待され、必要とされている製造業の進出はなかなか進んでいません。
代わりに目立つのは、日系企業の進出を当て込んだ、日系の弁護士事務所や会計事務所です。製造業に代表される実質的な産業の進出が少なく、それをサポートする補助的なサービス業の数の方が増えているという不思議な現象が起きています。実質的な産業をミャンマーに事業を立ち上げ、運営するのは、法的・人的・インフラ的にもかなりハードルが高いので、資本リスクが少ないサービス業の進出が目立つのは、ある意味必然かもしれませんが。
最近は、ミャンマー進出の実態が日本でも共有されつつあるようで、一時のような経済フロンティアとしてユーフォリア的な幻想を抱かなくなってきたようです。
おそらく、これは日系企業に限った現象ではないと思います。
近隣ASEAN諸国との比較の中で、ミャンマーが真に投資や進出に値する国なのかが、これから本質的に問われる局面に入ったのことを感じます。

今回、日本で10日余りを過ごして、ミャンマーでの生活で足りないものをありありと実感した瞬間がありました。
ミャンマーで足りないもの、それはブルックリン・パーラー
ご存じない方に説明すると、ブルックリン・パーラーは、剥き出しのレンガの壁を使用したブルックリン風の内装のカフェで、趣味の良いJAZZかR&BのBGMが大きめな音量で流れ、食事はそこそこ旨く、ワインもビールもカクテルも飲めて、ウェイターもウェイトレスも普通の店より垢抜けていて、ライブラリーとしてサブカル本やアート本が置いている飲食店です。

ライブラリーにあるのは、この種の本。



さきほど店のWeb見たら、店のコンセプトが「人生における無駄で優雅なもの、ぜんぶ」となっていました。
自分が何を求めてこの店に行くのかが、腑に落ちました。
そしてミャンマーには、「人生における無駄で優雅なもの」があまりにも不足しています。
これは人間の生存にとって必須の精神的な栄養素なので、私はミャンマー滞在が2ヶ月を越したあたりで、毎回、精神的な栄養失調のような状態に陥ります。
ビザの関係で、70日に一度はタイに一時出国しているので、なんとか乗り切ってますが。
正確に言えば、ミャンマーにも「人生における無駄で優雅なもの」は存在します。
多くのミャンマー人にとって、仏教行事への参加やお坊さんの法話を聴くことがそれに該当します。ただし、コミュニティやバックグラウンドの違う外国人には、それを共有できないため、どうしても「人生における無駄で優雅なもの」の不在を強く意識せざるを得ません。

やっぱり、ミャンマーにも「人生における無駄で優雅なもの」を体現した店が欲しい。
付随的なサービス業ばかり増えて実質的な製造業が少ないと書きながら、なぜか自分が一番現実的ではないという、謎の展開になりました(笑)。

ただ、ミャンマーで娯楽の選択肢の少なさを嘆く外国人は多く、つまり「人生における無駄で優雅なもの」を求める在ミャンマー外国人は少なくないので、実現したい方はご一報ください。

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2015年10月5日月曜日

【悲報】自宅が水没した -->【朗報】悟った(少し)

10月1日の午前中、豪雨が30分あまり続きました。
ミャンマーの雨期特有のバケツをひっくり返すしたような、激しい集中豪雨です。
雨期の終わりの最後の豪雨かな、となごり雪を見るような気分で、オフィスの窓越しに雷を伴う激しい雨を眺めてました。
甘かった。ここはミャンマー。
外国人の甘っちょろいロマンティシズムを、完膚なきまで叩きのめす土地なのを忘れていた。2、3時間して自宅の1階が水没しているとの報。

定刻になって自宅に帰ると、果たして部屋は濁流に飲み込まれていた。
本も衣服も電化製品も泥の中に沈んでいた。
私が帰宅したのは、部屋から水が引いた後だったが、壁や棚の泥の後で測るとおそらく70~80cmの高さまで浸水した模様。

家の中から見た外の後継。この泥水が、玄関を乗り越えて、流れ込んで来ていた。

本棚2段目までに置いた物は、すべて泥まみれになっていた。
テレビも洗濯機も冷蔵庫も水流に押されて横倒しになっている。


いちばん泣けたのは、本が泥水の中に没していたこと。
乾かして何とかなりそうな本を必死で選んで、天気が回復した外で乾かすことにする。
人から嫌われても大して気にかけないが、本が汚れるとかなり気になる偏愛的な愛書家なので、これは本当にこたえる。

救いだったのは、コンピュータ関係の物とアウターの衣服は2階に置いていたので、被害がなかったこと。

とにかく、こんなところまでと驚く部分まで、泥が入り込んでいる。スーツケースの中、靴の中、カバンの中、食器の中、電化製品のケースの中。


使えそうな物は、洗ったり、干したりして、無理そうな物はどんどん捨てる。
3日かけて、なんとか住めるように部屋を復旧した。

本も被害が軽いものを選んで、外で乾かす。
しかし濡れた本はなかなか乾かない。3日間、外で天日に晒してしたが、まだ湿っている。


初日はショックで寝れないほどだったが、なぜこんなことが起きたのか、因果をよくよく考えてみた。
ここは上座部仏教の国。
仏教の基本は、執着を捨てること。人は、こうあらねばという執着があるから苦しむ。
執着を捨ててしまえば、人は自由になり、苦からも解放される。
物への執着も同様。
形あるものは、すべて変質する。物は壊れる、人は死ぬ。仏教用語で謂うところの無常ですね。 それを忘れて、物への過度な愛着を抱くことは、煩悩の一形態に他ならない。
気に入った本を本棚に並べて、悦に入っていた私は物に囚われていなかったか?
物に執着していなかったか?
否定するのは、難しいですね。

これは、執着や我執を捨てよという、御仏の有り難い思し召しと思うことにしました。
御仏は、物への執着を断つ、断捨離の機会を与えてくださった。
嗚呼、有り難い。これで一歩、悟りに近づいた。
もちろん、部屋の惨状を見た時、思わず激昂して、泥まみれの本を床に叩き付けて、跳ね返りを浴びたことは、誰にも言っていません。

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