2017年5月1日月曜日

ミャンマーの未来を考えた~その日暮らしの哲学と経済

問:以下の記述は、どの国の経済システム及び仕事観について書かれたものか?
1980年代にゴラン・ハイデンは、植民地期から社会主義期に至る農村変容を明らかにする中で、最低限の生存維持を最優先した小農型の生産様式と、血縁や地縁などを基盤とする互酬的な交換に着目し、再分配を通じた相互補助システムを『情の経済』と名づけた」。
ふだんは『何とかなるはずだ』という信念にみずからの生存を掛け、過度に自然や社会関係を改変せず、未来に思い悩まず『自然』のリズムでまったり暮らしながらも、いざというときは、呪術や超自然的な事象も駆使して切り抜ける」。
ミャンマー在住者なら迷わず「ミャンマー」と答えそうですが、答えは「タンザニア」です。
上記は『「その日暮らし」の人類学~もう一つの資本主義経済~ (光文社新書)』からの引用です。著書はタンザニアを中心とした東アフリカの零細事業者をフィールドワークしている文化人類学者で、自らタンザニアで路上販売したり、タンザニア商人の中国への商品の買付けに同行したりしている経歴の持ち主です。
本書で記述されているタンザニアの経済システムや人びとの仕事観が、ミャンマーと酷似しているので今回の投稿で紹介します。本書に書かれているタンザニア(及び取引先の中国)での仕事の進め方などは、凡百のミャンマー指南書より参考になります。両国ともイギリスの植民地であった歴史や、熱帯・亜熱帯の気候、人口規模(タンザニアの人口は約4千600万人)などもミャンマーと共通した部分があります。


Living for Today〜その日暮らしの哲学と経済

著書は、タンザニア人の生き方・仕事観を "Living for Today" というキーワードに集約させています。本書の主旨に従って、日本語に訳すと「その日暮しの哲学と経済」とでもなるでしょうか。

著者が調査しているのは、タンザニアでインフォーマル経済の活動に従事している人びとです。インフォーマル経済は「一般的には「政府の雇用統計に載らない、零細な自営業や日雇い労働を意味して」いますが、途上国を中心に「この『見えない』経済圏は、世界中で一六億人もの人びとに仕事の機会を提供し、その経済規模は一八兆ドルにも上る」ため、経済学的にも無視できない規模に達しています。
ミャンマーに来て間もない頃、制服を着てバスで通勤しているたくさんのワーカーを見た時に、オフィスや会社らしい会社もほとんどないのにどこに通っているのだろう、と不思議に思ったものですが、大部分がこうした零細自営業・企業で働く従業員です。

タンザニアで零細自営業・企業を営む都市住民にとって、「事業のアイデアとは、自己と自身が置かれた状況を目的的・継続的に改変して実現させるものというより、出来事・状況とが、その時点でのみずからの資質や物質的・人的な資源に基づく働きかけと偶然に合致することで現実化するもの」です。
具体例が紹介されていますが、最初に売る物を決めて事業を始めても、途中で知人・友人との出会いや、外部環境(その商品が過当競争に陥ったり、資金の確保が難しくなったりなど)によって、成り行きと偶発性によってコロコロと事業内容が変わっていきます。
読んでいて途中で気付きましたが、ミャンマーとタンザニアが似ているというより、「計画を立てても本人の努力ではどうにもならない状況に置かれている」アフリカや東南アジアの人びとに共通する事業に対する態度と仕事観です。

「このような状況では、計画的に資金を貯めたり、知識や技能を累積的に高めていく姿勢そのものが非合理、ときには危険ですらある」ため、その時々の状況や環境に応じて、良く言えば臨機応変に、悪く言えば無計画に、仕事や事業を変えていきます。

「こうした『仕事は仕事』(註:綿密な計画を立てず、知り合い・友人らのネットワークを利用して偶有的に、その時々の仕事や事業を決めていくこと。うまくいかない場合は、即撤退して、別の仕事や事業を探す)の姿勢は、技術や知識の累積化・熟達化に基づく社会/経済の発展観、あるいは目的合理的・計画的な選択に基づいた生産主義的な主体観と対立するために、『経済システム』としては否定的な評価がなされる傾向」にあります。
私もミャンマーの事業者の一貫性のなさ、専門性の低さを理念・哲学がないと感じ否定的だったのですが、本書を読んで、むしろ一貫性のなさ、専門性の低さ、無計画性、流動性の高さこそが、彼らの理念であり、哲学であることに気付かされました。
特に日本人は、この道何年的な職人的な価値観・熟達を称揚する傾向があるので、違和感を感じる人が多いでしょうが(私もその一人でした)、これはもうアフリカや東南アジアに共通する文化であり哲学あると認めるしかありません。

著者は "Living for Today" の哲学に基づく経済システムの特徴を実例を交えつつ記述していますが、ミャンマーでもまったく同様のことが行われているケースとして、「殺到する経済」と「対面交渉のみが有効」の二つの事例を紹介します。


殺到する経済

著者は、東一眞『中国の不思議な資本主義 (中公新書ラクレ)』の中国の小規模製造業についての記述を引用しながら、タンザニアの越境貿易を営む零細業者との類似性を指摘しています。
「『殺到する経済』とは、『儲かる』と思われる」業種にドッと大勢の人びと、会社が押し寄せて、すぐにその商品が生産過剰に陥り、価格が暴落して、参入した企業が共倒れになる経済のことを指す」。
ひとつの業種に多くの事業者が殺到する結果、「不確実性の高い混沌とした市場を再生産」することになります。
そして「専門分野で製品を高度化して後続者が太刀打ちできない高付加価値商品を製造する方向には向わずに、儲かると思われる別の分野を探して、転戦する傾向」にあります。


ただし、ミャンマーの事業者もタンザニアの事業者も、中国の事業者のように自ら製造する業態に進むことはなく、中国で製造された廉価な商品を自国で販売して利ざやを稼ぐ輸入・仕入れ・販売業に特化しています。
ここで言われる「儲かる」と思われる」業種にドッと大勢の人びと、会社が殺到して、すぐに過当競争に陥り、商品価格が暴落して、参入した企業が共倒れになる状態は、ある程度長くミャンマーに住んだ方ならずいぶんと目撃したと思います。
5、6年前の中古車自動車販売、2、3年前のコンドミニアム建設、そして現在のスマートフォン販売業、いずれも「儲かる」と思われた業種に多数の事業者が殺到して、たちまち過当競争に陥り、閉店や撤退が相次ぎました。
そして本書の指摘通りに、専門性を掘り下げる方向には進まずに、撤退したら別の「儲かる」と思われる業種に向かいます。
現在のミャンマーでは、専門性がなくても「儲かる」業種が見つからず、資金力のある事業者が「儲かる」事業を探して右往左往しています。
5年前の中古車ブームの時も、最近のスマートフォンブームの時も、輸入される商品をエンジニアリング的に解析して、自国で製造技術を培おうという起業家に現れていません。「殺到する経済」環境では、売れる物や利益の上がる商品が頻繁に変わるため、継続的にノウハウや技術を蓄積して、他社と差別化した競争力のある商品を開発するという時間のかかる経営手法は適していません。
また、国民気質的に中古自動車販売や不動産販売・仲介のように、短期間に利ざやを取って利益が上がるビジネスモデルが好まれるため、製造業のような初期投資から投資回収して、利益が上がりはじめるまで時間を要する事業は関心を持たれません。これはミャンマー一国に限らず、東南アジア(そして、おそらくアフリカ諸国)全体に見られる傾向ですが。
ミャンマーが、製造業の産業集積地になる可能性は極めて低いと私は予想しています。


対面交渉のみが有効

前掲書では、タンザニアの商人が中国まで行って、自国で販売する商品を買い付けを、著者がフィールドワークとして同行調査していますが、ここでレポートされる商慣習がミャンマーとまったく同様だと感じたので、以下に紹介します。

なぜ、彼らが現地に住むのアフリカ系仲介者に一任せず、わざわざ中国本土まで足を運ぶのかは、「この経済が『契約』ではなく対面交渉による『信頼』に基づいて動いていることに深く関係して」います。

「ここでは、国家の法や公的な文書は価値を持たず、香港や中国に商人本人が出向いてみずから対面交渉をし、そこで取引の子細と輸送までの手続きを確かめなければ騙されやすい。人びとは大企業の権威を無視(註:交易品は模造品やコピー商品であることが多い)して、具体的な人間との関係でしか動かない。面倒な交渉を通じて人間関係を築いてやり取りしない限り、安易に『カモ』にされる」。

何だかミャンマーのことを書いているとしか思えません。ミャンマーでも契約書はまったく重視されませんし、契約内容の履行にもまったく関心が持たれません(少なくとも、現地の中小企業では)。なので、契約書にお互いサインして一安心とか思っていると、後でとんでもない目に遭います。たとえサインしても、最初から契約書をまともに読んでおらず、原本を読みたいので、見せてくれるように頼んでも、保管した場所すら分からなくなっているケースも実際にありました。契約書に書いているからといって、履行されるということは期待せず(そもそも読んでないことが多い)、要求次項があれば対面で都度相手に通告する必要があります。
言い方にもテクニックがあり、強く詰問したりすると嫌われて以後連絡がつかなくなったりもします。

長くなりますが、具体例として前掲書に、地理学者アンジェロ・ミュラーとライナー・ヴェアハーンの調査事例が紹介されていたので、以下に紹介します。ミャンマーで仕事をする際にも非常に参考になる事例です。
(1) アフリカ系仲介業者Dはアフリカの顧客のために、ある中国の会社にテレビカメラを注文した。二度目の取引だった。
(2) 集荷時にDは、カメラのアクセサリーの欠品、カメラの一つは偽ラベルがついた前年度のモデルであることに気がつく。
(3) Dはこの時点では、何のアクションを起こさない。
(4) 中国の会社から担当者がデポジットを除く、残金を集金にやって来る。Dはアフリカの顧客と最終確認が必要だと述べる。携帯でアフリカの顧客と何度も連絡を取りながら、顧客からの質問を担当者に取り次いでいく。
(5) 上記の過程で、カメラの一つは「いまや」顧客の期待を満たさないこと、商品の交換が必要なことがDと担当者の間で明らかになっていく。
(6) Dは上記の流れで、アクセサリーの確認や品質確認を行う。
(7) Dと中国人担当者は、(4)~(6)の過程中、中国語で他愛のない話、冗談を言い合う。この中で、相手の詐欺行為や欠品について、指摘されることはない。
(8) Dは最終的に、顧客からの質問という体裁を取りながら、問題のあったカメラの交換と不足していたアクセサリーの補填を、追加費用を発生させずに成功させた。
「仲介者は単に商品の生産や出荷を監督すればいいだけではなく、彼らとうまく渡り合う交渉術を必要とする。その交渉術では、中国人の取引相手の『メンタリティを感じ取る feeling mentality』ことが肝心とされる。明らか詐欺行為が発覚したあとにも、仲介業者は取引相手を責めたてることはなく、取引相手の顔を立てつつ、交渉が有利に運ぶように働きかけ」ています。
現地の仲介業者の存在価値が、上記のような実践知にあることが伺えます。

著者は「取引相手の道徳性、あるいは相手が誠実たろうとする意志はあまり取引の帰結に関係がない。約束を守ろうとする人が信頼できる人ではなく、騙しを含む実践知によりそれぞれの局面をうまく切り抜け、結果としてそのときに約束を守れた人が信頼できる人なのだから。つまり、信頼は取引する前に存在する何かではなく、交渉の過程で互いに機微を捉え利害を調整し、お互いに『信頼』を勝ちとることができた結果として生まれるものなのだ」と結論付けています。

ミャンマーでのビジネスは、信頼できるパートナーを見つけることが大事だとよく言われます。しかし、ここではビジネスの成否は、相手の道徳性や誠実さよりも、騙しを含む実践知にかかっていると言われています。異論はあるかもしれませんが、覚えておいて損はない現実的な認識です。

ミャンマーでも中国本土のビジネスパーソンは遣り手として知られていますが、同じ中華系でもシンガポール人はかなり手痛い目に遭っています。シンガポールは、契約、文書、法律が機能している国なので、騙しを含む実践知を磨く機会が少ないためではないかと推測しています。これは日本人も同様ですが。


ミャンマーの未来を考えた

前掲書でアフリカ諸国の仕事観と事業に対する認識を「人びとは組織化しないのではなく、組織化を目的としない連携(註:先行者に学ぶ、先行者の模倣等)に意義を感じており、生計実践、商売の意義ではなく、みずからの生を、『剥き出しの生』を謳歌しているのである。彼らは、固定的な関係性を拒否し、自分たちの生の領域である自律的な経済領域が、大規模な企業に回収されてしまうのを、日々の実践を通じて自然に回避しているのである。Living for Todayは商人としての彼らの生のスタイルである」と述べています。

今の瞬間、刹那に自己を投企することで「剥き出しの生」の実感を得ることが、事業の計画性や将来性よりも大切であるという世界観です。ここまで行くと、実存とか、生の存立基盤といった、世界内存在としての人間の認識に関わる問題になってしまいます。もし、表層として現れている途上国と先進国の経済システム違いが、より深い実存に対する人間観の違いから生じているのなら、非効率だからシステムを改善しろなどという、先進国の議論がお門違いということになります。実際、ミャンマーに5年住んだ結果として、私自身ミャンマーに効率性や論理性を求めるのはお門違いではないかという実感を得ています。

ミャンマー在住の日本人が日本に帰国した時に感じる違和感は、多くの事象が予測可能性の元に管理されていて、「剥き出しの生」の実感が得られないからだと思います。時々、途上国ばかり行くタイプの旅行者がいますが、あの人たちは「剥き出しの生」の実感に触れるために旅行しているのだと思っています。

Living for Todayの精神が内面化された国では、都市計画や発電所建設や物流網の整備や上下水道の敷設などの計画性や将来設計が必要なプロジェクトは、ODA等の他国の資金と技術で実施しない限り実現することはないでしょう。私はミャンマーのインフラは、基本的にずっとこのままではないかと予想しています。

ミャンマーは、前掲書でレポートされたアフリカ諸国と同じく、プリコラージュの国民性を持つ国だと思っています。
プリコラージュとは、既存の物、ありあわせの物を組み合わせてやりくりする技術で、理論や設計図に基づくエンジニアリングとは対照的な概念です。レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)』で、狩猟採集生活を営み、持ち運べる物が限られているアマゾンの原住民が、見つけた時点で何の役に立つのか分からない木の枝を拾って、背負った籠の中に放り込む描写があります(たしか、あったような気がします。確認のため再読する気力がありません。かなり難渋な書物なので)。このように、論理に基づかない直感で、必要な物とそうでない物を見分ける野生の思考がプリコラージュです。


一方では、GoogleやAmazonやテスラといった先端技術を追求する企業群が、発電や輸送・物流の概念を根底から変える技術を開発しているため、現在のミャンマーでボトルネックとなっているインフラの未整備が問題にならない日がやってくるかもしれません。
太陽光発電の発電コストが劇的に下がってきているため、家庭用に関しては発電所がなくても戸別に設置したソーラーシステムで賄えるようになるかもしれません。物流に関しては、サンダーバード2号のような大型のドローンが開発されれば、道路網の敷設・整備は必要がなくなるかもしれません。AI・ロボット技術の進化で、産業ロボットが工場労働者を完全に代替してしまえば、現在必要とされている均質な労働者を育てる教育システムは無化されて、新たな教育システムに取って代わられるかもしれません。あくまで可能性ですが。

ここ20年で、メーンフレームが大部分パーソナル・コンピュータに置き換えられたり、5年で途上国では固定電話をスキップして、スマートフォンが普及したりという現象が起こっているので、発電の小型化・分散化や物流の空中利用も、そう先のことではないかもしれません。工場のロボット化に関しては、販売単価の高い自動車製造に使用されていたのが、スマートフォン製造まで降りて来ているので、10年以内にすべての分野で産業ロボットが途上国の人件費を下回る可能性もあります。

ミャンマーの経済成長の停滞やインフラ整備が一向に進まないことへの不満はよく見聞きしますが、しばらくこのまま停滞して、次世代技術が出てくるのを待った方が、20世紀型の大規模インフラ投資を中途半端に実施して、後で不良債権化するよりも得策かもしれません。

工場運営も運転もAI化されてしまえば、雇用が激減するので、ミャンマーの人たちは困るかもしれませんが(雇用が減るのはミャンマー人に限りませんが)、状況がどう変わろうが、この国の人たちは状況の変化に合わせて職や業種を変え、最新技術から得られる効用を果実としてプリコラージュしつつ、「剥き出しの生」を謳歌するに違いありません。

むしろ予測不確実性に脆弱な日本の方が、心配なくらいです。30年前は、家電王国とか言われていたのに、ネットの発達によるサプライヤーの水平化と、製品がモジュール化したことで、家電製品が付加価値の低いコモディティとなった結果、家電産業が総崩れになったことからも、今の日本が環境変化や不確実性に対して脆弱なことが伺えます。

ミャンマーからイノベーションが生まれたり、独自性のある製造業やソフトウェア産業が立ち上がったりすることはないと思いますが(R&Dは、将来や未来のことを考えることが不可欠なため)、その時々の状況や環境に応じて職や業種を転々としながら生き延びて行く逞しさや、見えない将来の中で、剥き出しの生を謳歌する大胆さを、日本人がミャンマー人から学ぶ日がやってくるかもしれません。


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