2017年5月5日金曜日

ミャンマーとタイの違いを仏教から考えた

<追記>
再読し、気になった箇所を仏教の解説書及び入門書で確認したところ、誤解を招きそうな表現、あるいは明らかな事実誤認がありましたので、一部削除・修正・加筆しました。(2017年5月9日)

ミャンマーと隣国のタイでは、ずいぶんと経済規模や訪れる観光客数なので、差がついています。
これまで、概ね政治や統治システムに原因が求められることが多かったのですが、今やタイが軍政でミャンマーが民主制なので、実のところそれほど関係ないのかもしれません。
最近読んだ、プラユキ・ナラテポー氏、魚川祐司氏の対談集『悟らなくたって、いいじゃないか 普通の人のための仏教・瞑想入門 (幻冬舎新書)』では、ミャンマーとタイの仏教が同じテーラワーダ(上座部仏教)でもずいぶん教義と実践において、違いがあることが両者によって語られています。
経済や文化などの表層に見えるミャンマーとタイの差異は、政治などの社会システムよりも、人々の思考の深層に属する仏教観の違いから生じているのではないかとも思えてきます。
仮説として、なかなか面白いと感じたので、今回の投稿のテーマにします。

仏教の基本概念のおさらい〜智慧と慈悲

まずは、仏教の基本的な概念について確認します。ご存知の方も多いでしょうけど、前提を共有しておかないと、後の議論が成り立たないので。
まず、智慧について。
瞑想などの修行により解脱し、涅槃の境地に達した修行者は、衆生の謂うところの現実、つまり縁起の法則(原因によって生じた結果の世界、因果律に支配された世界)から脱して、欲望による条件づけ(物語)が解除され、現象が継起する相を中立的に如実知見するベクトル(物語)のない世界 ー そこでは言葉は音に過ぎないし、美しい異性は単に目に入る色の組み合わせに過ぎない ー の境地に入ります。この修行によって得られた知見が、智慧と呼ばれます。
次に、慈悲について。
修行によって智慧を得た覚者(解脱者)が、衆生との関わり中で果たす利他行の実践が慈悲です。
物語の世界から超越した覚者が、敢えて遊戯三昧の境地で、物語の世界に生きる衆生の世界で実践する利他行が慈悲行です。

梵天勧請という、ゴータマ・ブッダが解脱した直後の葛藤を示す有名なエピソードがあります。
智慧と慈悲という仏教の基本概念を分かりやすく示すエピソードなので、仏教入門書でもよく紹介されています。

菩提樹の下で瞑想中に解脱し、涅槃に至った直後にゴータマ・ブッダはこう考えました。
「私の証得したこの法は、深甚として見難く、難解、寂静、妙勝であり、推論の領域を超えた微妙なもので、智者にのみ知り得るものだ。しかるに、世の人々は、欲望の対象を楽しみ、欲望の対象にふけり、欲望の対象を喜んでいる。そのように欲望の対象を楽しみ、欲望の対象にふけり、欲望の対象を喜んでいる人々にとっては、相依性・縁起というこの道理は見難い。また、一切諸行の寂止、一切の依りどころの捨離、渇愛の壊滅、離貪、滅、涅槃というこの道理も見難いのである。もし、私が法を説いたとしても、他人が理解しないならば、私は疲れて悩むだけである」(P30、魚川祐司著『仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か』)
瞑想によって自分が得た智慧は、常人には理解し難いので、最初は自分の中に留めておこうと考えたわけですね。
その時、梵天(バラモンの神様ブラフマン)が、ゴータマ・ブッダの前に現れます。「梵天は、世の中には煩悩の汚れの生まれつき少ない衆生も存在するし、彼らは法を説けば理解するだろうと言ってゴータマ・ブッダへの説得を試み」ました。(P168、魚川祐司著『仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か』)
説得を受けたゴータマ・ブッダは、「衆生へのあわれみの心」を持って、仏の目を通して世界と衆生を観察した後に、説法を決意します。
後世の定義で言い換えれば、慈悲行の実践を決意したわけです。ここでのポイントは、梵天は、「世の中には煩悩の汚れの生まれつき少ない衆生も存在する」、すなわち分かる人には分かるからと言って、智慧を広めることをゴータマ・ブッダに勧めていることです。ゴータマ・ブッダも「仏の目をもって世界と衆生を観察した後に」、つまり実現可能性を検証した上で、決意しています。つまり大乗仏教のような一切衆生の救済は、初期経典には含まれていません。
こうして、ゴータマ・ブッダが菩提樹の下から立ち上がり、説法に向かった時に、仏教の歴史ははじまりました。

ミャンマーのハードコア・テーラワーダとタイのソフト・テーラワーダ

以前の投稿で、ミャンマーのテーラワーダ(上座部仏教)と日本の大乗仏教の違いを書いたことがありますが、実は同じテーラワーダでもミャンマーのそれとタイのそれとでは、かなり異なるようです。
「ミャンマーの瞑想寺院では、修行僧にいわゆる作務をやらせることをほとんどしない。『余計なことはせずに、ただ瞑想だけに集中せよ』というわけで、これは真剣に取り組んでいるところほどそうである。他方、タイでは瞑想者にも、掃除や居住小屋(クティ)の修理といった作務を、積極的にやらせる寺院が多い。これは涅槃や瞑想というものを、通常の暮らしも含めた生の全体性の中において実践・実現されるものとして、捉えていることの表れであると思われる」(P201、魚川祐司著『仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か』)

悟らなくたって、いいじゃないか 普通の人のための仏教・瞑想入門 (幻冬舎新書)』では、現在アメリカを中心として流行している「マインドフルネス」運動をつくった一人であるジャック・コーンフィールド氏による、タイとミャンマーの両国の寺院で修行した体験記 "This Fantastic, Unfolding Experiment"(ネット上でPDFが無料ダウンロードできます)が、魚川氏によって「両国のテーラワーダを見てきた上での実感と、全く同じ」ものだったとして紹介されています。
「コーンフィールドさんは、(註:タイの)チャー氏の寺と(註:ミャンマーの)マハーシ・センターとでは『図と地が反転した』という表現をしています。チャー氏の寺では瞑想するのは一日に二時間から四時間程度で、それ以外の時間はコミュニティにおける生活の中で苦を手放す法の実践に充てられた。ところがマハーシ・センターに行くと、一日に十時間から十八時間も瞑想して、コミュニティおける実践のようなものは皆無だった。つまり、生活における実践が主で瞑想がそれに奉仕するのか、瞑想が主で生活がそれに奉仕するのか、という『図と地』の関係が、全く反転していたというわかです」。


同じテーラワーダでもずいぶん違うものです。本書では、瞑想センターは地域・宗派・指導者によって、修行方法も、瞑想によって達する目的地も違うので、事前によく吟味して、個々人に合った瞑想センターを選ぶことの大切さが説かれています。実際にチャー氏とマハーシ氏は共に深く悟った高僧とされていますが、「悟りの内容やそれを得る方法に関して全く意見が相容れなかった」そうです。

便宜上、以降ミャンマーのテーラワーダをハードコア・テーラワーダ、タイのテーラワーダをソフト・テーラワーダと呼びます(そんな呼称は、実際にはありませんが)。
コンピュータに喩えると、スクリーンに映る画像が形作る物語を幻想として、瞑想によってレイヤーを下げて解体して行くとき、ソフト・テーラワーダでは8ビット・16ビットの文字が認識できるレベルで踏み止まりますが、ハードコア・テーラワーダでは電荷負荷マイナス・プラスが01として電気信号として明滅する、完全に意味性を解体し、無化する状態まで突き進みます。

ハードコア・テーラワーダでは、物語性を瞑想により解体し尽くしてしまうため、一定以上の段階まで進むと衆生が暮らす日常の中で暮らすことは難しくなることも実際に起こり得るようです。

たとえば、修行を重ねて解脱した人が、瞑想センターから会社に戻ってサラリーマンを再開した際(あり得るかどうかはともかく)、上司から「君もっと頑張ってくれないと四半期目標が達成できないよ」と言われて、「ああ、この人は縁起が形成する物語に囚われた凡夫なんだ。可哀想に」と慈悲の心で接しても、世俗的なレイヤーでの解決には繋がりません(たぶん)。下手したらクビになるかもしれません。

しかし、ハードコア・テーラワーダの価値観では、それでいいのだと定義されています。
「例えば、長者の子であったヤサという阿羅漢がおりますが、ゴータマ・ブッダは、彼についてヤサの心は煩悩から解脱してしまってるから、『かつての在家であった時のように、卑俗に戻って諸欲を享受することはできない』と言っています。つまりゴータマ・ブッダの教えに本当に本当に忠実に従って、煩悩を滅尽した修行完成者である阿羅漢になったのなら、もう世俗での生活は不可能になるし、またそれでよいのだ」という認識です。「瞑想実践者が在家者であった場合でも、仮にその人が阿羅漢になった場合には、彼/彼女のその後の選択肢は死ぬか出家する以外にない、というのはテーラーワーダの一般的な教理でもあります」。(『悟らなくたって、いいじゃないか 普通の人のための仏教・瞑想入門 (幻冬舎新書)』)

ただし、本当にそれでいいのかどうかは、属する文化圏や環境により受容度が相当に異なるでしょう。コーンフィールド氏らによるアメリカの瞑想センターでは、テーラワーダのウィパッサナー瞑想を導入したものの、「人生否定(life-negating)、来世思考(other-wordly)および二元論的(dualistic)な要素を持つ 東南アジアのテーラワーダと関係を持つことが大変難しいと考え」、テーラワーダ教団との直接の関係は断っている模様です。また、彼が主催者である瞑想センターでは、「ウィパッサナー瞑想の集中的なリトリートのみならず、チャー師の寺で経験したコミュニティにおける実践や、禅やチベット仏教、ヨーガや西洋式の心理療法に至るまで、様々な伝統や文化を引き継いだ実践を『マンダラ』的に提供して、そこから瞑想者たちがそれぞれに学べる形を」取っています。
ハードコア・テーラワーダに属するミャンマーのゴエンカ師は、この「瞑想のウィンドウ・ショッピング」とも呼べるコンセプトを「悪魔の所業」と呼びました。

では、なぜミャンマーでは、「選択肢は死ぬか出家する以外にない」解脱を目指すことが受容あるいは推薦されているのでしょう?
私も長年ミャンマー人が、5年先の将来についてはまったく考えないのに、来世については非常に熱心に考えている理由が分かりませんでしたが、本書を読んでその疑問が氷塊しました。

「ミャンマーなどの上座部仏教おいて<中略>、輪廻転生は『ネタ』でも『物語』でもない、端的な『事実』」(『悟らなくたって、いいじゃないか 普通の人のための仏教・瞑想入門 (幻冬舎新書)』)であるため、人生に対する時間軸の長さの概念が、日本やアメリカとはまったく異なります。
「『この一生』だけを視野に入れて考えた場合、渇愛を滅尽することは、実践者にとってあまり魅力のある目標」になりませんが、「死んで『この一生』が終わっても、苦なる輪廻転生のプロセスは続いていくと思うからこそ、今生で何とか渇愛を滅尽しようと」するモチベーションが生まれてきます。
「『この一生』だけの幸福を問題とするのであれば、長者の子ヤサのように『かつての在家であった時のように、卑俗に戻って諸欲を享受することはできない』状態になることは、ほとんどの人にとって魅力的に感じられない選択になるでしょう。
美しい異性に心惹かれたり、美味しい食事を楽しんだり、ファンキーな音楽に身も心も委ねたり、生活のためにあくせく働いたり、そんな経験は過去生で散々やってきたのでもう結構、それより今生で解脱して物語の世界の外側に出ておかないと、また生まれ変わって、縁起の法則が引き起こす煩悩に引き回されながら再生・再死を無限に繰り返すループに陥ってしまうという危機感に貫かれて、修行、瞑想に励むわけですね。解脱してしまえば、もう輪廻転生はしませんから、苦や煩悩(終わりのない不満足)に苛まれる無限ループから脱出できます。
文化圏が違うとなかなか理解し難いですが、ミャンマー人の考え方を理解するのに、知っておくべき概念です。

瞑想をしたからと言って、人格は向上しない〜仏教のヤバさ

魚川氏は複数の著書のなかで、「瞑想をしたからと言って、人格は向上しない」と指摘しています。

つまり瞑想の目的が、世俗の価値観の超越であるため(出世間)、世俗の世界で言う「いい人」ではあり得なくなる可能性もあります。善悪という世俗の価値観を超えてしまうため、悪人にもならない代わりに、必ずしも善人にもならない。善悪というのも、縁起の法則によって形成された物語による価値判断に過ぎないからです。「人間やめますか?、仏教やりますか?」みたいなコピーができそうです。
ミャンマーのハードコア・テーラワーダの瞑想センターで修行を続けている魚川氏の実感によると、「解脱した人は空気を読まない」傾向にあります。「空気を読む(=普通の人々が生きている『現実』の物語に囚われる)ことをしなくなれば、それは相変わらず世間の物語に囚われている人々からすれば、違和感のある振る舞いに見えることがあり得る」わけですね。

ゴータマ・ブッタの人となりを仏教入門書に紹介される経典などから想像すると、世俗的な「いい人」のカテゴリーに押し込んでしまうことは、やはり相当無理があります。
当時のインドは、同時代の中国と同じく百家争鳴だったので、道場破り的にゴータマ・ブッダに思想対決を挑んでくる行者も後を絶ちませんでした。いくつかのケースでは、ゴータマ・ブッダは手ひどく相手をやり込めています。これはいわばプロ同士の対決なので当然かもしれませんが、素人のお嬢さんにもひどいことを言ったことが、経典『スッタニバータ』に記録されています。以下に引用します。

「第四章の『マーガンディヤ』である。この経はゴータマ・ブッダの「この糞尿に満ちた(女が)何だというのだ。私はそれに足でも触れたくない」という過激な言葉を含む偈ではじまる。経の本文には文脈が記されていないので少し戸惑うが、註釈によれば、これはマーガンディヤというバラモンが美人の娘を連れてゴータマ・ブッダに婿になってくれるように頼んだ際に、彼がそう言って拒絶したということらしい」

「岩波文庫の註には出ていないが、註釈家(ブッダゴーサ)の説によれば、このことで彼女はずいぶんゴータマ・ブッダのことを恨んだようで、それが後に、けっこうなトラブルの火種になったとされている」
(P27、魚川祐司著『仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か』)

註釈書や入門書などの情報に想像も交えて話を繋げると、バラモンの(すなわち富裕な)マーガンディヤ家がゴーダマ・ブッダの近所に居住しており、「あのいつも近所で修行している青年は、凄いイケメンだし、育ちが良さそうだし、立ち振る舞いも大変立派だ(実際、王子だったわけですしね)。是非、ウチへ婿として迎えたい」とその家のお父さんが思い、評判の美人である娘(マーガンディヤの娘)を正装させて、自分と奥さんと娘の三人でゴータマ・ブッダの元を訪れた(もしかしたら、元王子という情報も知っていたかもしれません)。そこで、娘を見たゴータマ・ブッダが言ったのが前掲の「この糞尿に満ちた(女が)何だというのだ。私はそれに足でも触れたくない」という発言です。

註釈書を読んだら、どこまでが事実に基づくかは分かりませんが、マーガンディヤの娘は「男の子はみんな私が可愛いから付き合いたがるわ。なのにあなたは何でそんなに私を無下にするわけ?」みたいなことを言っています(言い回しはずいぶん難しいですが、基本的にそんな内容です)。完全な想像になりますが、バラモン(すなわち、カーストの最上位で、お金持ち)で、かつ求婚者数多のモテガールだったので、彼女は高慢な性格の女性だったのかもしれません。そんな女の子に向かって「糞袋」呼ばりするのは、たとえ解脱者であっても空気読まなさ過ぎ、と凡夫の私などは感じてしまいます。ゴーダマ・ブッダの提唱する智慧の非人間性や反直感性は、既存の認知のフレームワークを揺さぶるという点で魅力的ですし、解脱して如実知見すれば人間みんな「糞袋」(みんな大腸持ってるので)といいう認知に達するのかもしれませんが、この件に関しては、私はマーガンディヤの娘の味方です。終生彼女がゴータマ・ブッダを恨んで、ゴータマ・ブッダの活動を妨害した(とも言われています)のも分からないでもありません。

言うまでもありませんが、私は衆生の物語に生きる凡夫です。なので、女性間のトラブルが発生したときは、基本的に美人の方の味方をします(いちいち話を聞いて、内容を精査するのが面倒だから)。こんな美人の味方である私に、『マーガンディヤ』のような魅力的なオファーが来ないのは、人生は不公平だと言わざるを得ません。
まあ、スーパーイケメン王子で、紛れもない天才であったゴータマ・ブッダと一介の凡夫の私を引き比べても、まったく意味がないのは、私だって理解していますが。ぶつぶつ。

話を戻します。ハードコア・テーラワーダの瞑想・修行によって得られる解脱・涅槃の境地は、世俗の物語の世界を超越するものであるため、世俗の社会で生きていく上で要求される常識や規範から逸脱する可能性もあるということです。
ハードコア・テーラワーダの「解脱・涅槃を目的とする実践は、『役に立つ』とか『人格がよくなる』とか、そのような『物語の中で上手に機能すること』を求める文脈からは、むしろできるだけ距離をとっていくことを、その本旨とする」(P67、魚川祐司著『仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か』)ため、「長く修行して一定の境地に達した人でも、社会的な意味で『優れて』いて『役に立つ』人物であるかどうかというのは、結局のところ、その人の元々の性格や能力、そして『物語の世界で上手に機能する』ために意識的に行ってきた訓練の度合いに、依存することがほとんである」(P68、魚川祐司著『仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か』)
つまり、瞑想そのものには、「人格の向上」や「日常生活が上手くいく」等の効能は期待できません。
敢えて瞑想の効用をあげるなら、「瞑想すると上手くいくのではなくて、瞑想すると上手くいかなくても気にならなくなる」ということです。

プラユキ氏も魚川氏も個々人が自分の目的や資質に合った宗派や寺院を選ぶことの重要性を説いています。実際に、向いてない場所で修行を重ねたため、精神を患ってしまう人も少なくないようです。「世俗的ないい人」や「物語の世界で上手に機能する有能な人」を目指すなら、ハードコア・テーラワーダの瞑想寺院で修行することを避けた方が無難です。

ハードコア・テーラワーダは役に立つのか?〜実存が震えるとき

何だかゴリゴリ瞑想して、目指す目的地が日常を上手く過ごすのとは無縁の場所(涅槃)である、ハードコア・テーラワーダの旗色が悪くなってきたような気がします。
実際、『悟らなくたって、いいじゃないか 普通の人のための仏教・瞑想入門 (幻冬舎新書)』でも、基本的にハードコア・テーラワーダの立場に立つ魚川氏が「仏教について解説する際に、必ず『仏教はヤバい』という話からはじめるようにしている」ことについて、プラユキ氏が「知的な好奇心を持って人々には有効かもしれないが、自分の元にやって来るような、人間関係等の日常的な心の悩みを持つ人々には、その手法は無効かもしれない」(そこまで直裁には語ってませんが)という意味の発言をしています。

ハードコア・テーラワーダでは、瞑想により徹底的に物語の世界を解体することを目指すため、指導者が世俗のレイヤーである人間関係の悩み等をカウンセリング的に聞くということはありません。瞑想の段階で、過去のトラウマが見えたりするようですが、その内容ついても全く無関心で、仮に指導者に話しても「そんなことはどうでもいい。それより、その時の身体反応(センセーション)はどうだった?」と身体反応から瞑想がどの段階に進んでいるかのみに留意します。

これに対して、ソフト・テーラワーダでは(少なくともプラユキ氏は)、世俗的なレイヤーで問題解決を図ります。心理療法的に相手をカウンセリングして、また日常生活へ戻すことに主眼を置いています。『物語の中で上手に機能すること』を求める文脈からは、むしろできるだけ距離をとっていくこと」を、その本旨とするハードコア・テーラワーダとは、問題解決のアプローチが異なります。

そこで、上記のハードコア・テーラワーダを「知的関心を満たすだけのもの」とも解釈できる発言が出てきたわけですが、魚川氏は多くの言葉を割いてこの見解に反駁しています。本書では、互いに相手の見解に同意しながら、穏やかに対談が進んでいくのですが、この部分だけは、両者の仏教に関する見解の相違が明確に示されています。
長くなりますが、重要なポイントなので以下に引用します。

「『世の流れに逆らう』ゴータマ・ブッダの言説をごまかさずに語ることが、単に人々の『知的な興味関心』のみにしかアピールしない行為であるとは、私は考えておりません」

「ブッダの語ったことを、ごまかさずに伝えたならば、それは一部の人にとっては『知的な興味関心』どころではない、実存の最深部に突き刺さる。仏教の経説と言えば、単に耳に心地よく快適なことだけを『ありがたく』語るものだと思っていて、全く関心を持ってなかった人たちが、『これなら私の実存を何ほどか賭ける価値がある』と、本当に感じることがあるのです」

「人々が当然のことと考えている『現実』を所与の前提とせずに、それが解体された深層にあるものを『ヤバく』ても直接に提示する教説に対しては、実存が震える人たちもいるのです。というのも、彼らの苦しみの根源が、実際にそこにあるからです。この世には『そういう種類』の人々が存在するということも、ご理解いただければと思います」
(『悟らなくたって、いいじゃないか 普通の人のための仏教・瞑想入門 (幻冬舎新書)』)

もちろん、魚川氏ご本人も仏教の「ヤバさ」が実存の最深部に突き刺さった、「そういう種類」の人だからこそ、5年以上に渡りミャンマーの瞑想寺院で修行を続けているのでしょう。
ゴータマ・ブッダは、王子だったし、超絶イケメンだったし、お金にも女性にも不自由しなかった(王子時代は側室がいたと言われています)。世俗のレイヤーでは、悩みようがなかった彼が、「出家して『世の流れに逆らう』智慧を証得しブッダになった。そこまでしなければならなかったのは、彼の悩みや苦しみが、『現実』における処世術の操作で何とかなるようなものではなかったからです」。(『悟らなくたって、いいじゃないか 普通の人のための仏教・瞑想入門 (幻冬舎新書)』)
初期経典のゴータマ・ブッダの教えに忠実に従っているハードコア・テーラワーダの信仰の対象者が、「そういう種類」の人々であるのはある意味当然です。開祖のブッダは「世の中には煩悩の汚れの生まれつき少ない衆生も存在するし、彼らは法を説けば理解するだろう」という梵天の説得によって、智慧を衆生と共有する道を選んだのですから。

こうした、ある意味選民的とも言えるハードコア・テーラワーダを、90%近くの人間が信仰しているミャンマーは改めて不思議な国です。

ミャンマーにおける慈悲行についても言及します。
ゴリゴリ瞑想して、コミュニティおける実践がほとんどないと言われるハードコア・テーラワーダでは、どのように慈悲行が実現されているのでしょう?
これも長い間私が疑問に思っていたことなのですが、『悟らなくたって、いいじゃないか 普通の人のための仏教・瞑想入門 (幻冬舎新書)』に解答があったので、ご紹介します。

魚川氏が師事するウ・ジョーティカ師が在家時代に自分の師匠に対して「私は僧侶になるよりもむしろ隠者になりたい」と言ったことがあるそうです。テーラワーダの正式な僧侶はお金に触れない等律の縛りが厳しく、在家信者に依存しなければ生活できません。それよりも、律に縛られずに、自立して生きる隠者の方が、生活に不具合が少ない上、他人の世話になっている負い目もありません。その時の師匠の答えが「もし僧侶たちが自分の食べ物を育てて、自分の食事を調理し、人々から離れたところに留まっていたら、誰が教えを伝えていくのかね?お前が人々と付き合おうとしないなら、誰が彼らを教えるかね?」でした。つまり、ハードコア・テーラワーダのような智慧の獲得に重点を置く宗派でも、慈悲行の実践が有効に機能するように、出家者と在家信者の相互依存システムが設計されています。改めて、精緻に作られたシステムだと感心します。

ここまで、ハードコア・テーラワーダ(ミャンマー)とソフト・テーラワーダ(タイ)を、教義や実践の違いにおいて比較してきました。
自分にあった瞑想寺院選びという観点では、実存的な問題に悩む人、現実を解体して認知の転換を図りたいという人は、ミャンマーを選べばいいし、もう少し穏当に世俗のレイヤーで悩みを解決したい、あるいは悩みの種類が「上司との付き合い方」のような物語内での現実である場合は、タイを選べば良いと思います。
実はこれは、観光にもビジネスにも敷衍できる両国の差異ではないかと思っています。
例えば、観光の場合、美味しいもの食べて、ショッピングを楽しみたいといった世俗のレイヤーの欲求があるなら、タイに行けばいいし、実存を揺るがすような体験がしてみたい人は、ミャンマーを選ぶべきでしょう。
ビジネスでは、従来のフレームワークの延長でビジネスをしたいならタイ、今までのビジネス慣行や常識がまったく通用しない異世界に身を投じたいならミャンマーになるしょう。
いずれにせよ、瞑想寺院選び同様に、自分の目的に合った国選びも大切ですね。

   

おまけ

ゴータマ・ブッダは、超越者で天才であったことは確かですが、慈悲行の実践を選択した以上、終生世俗の世界との接点を保って生きることになりました。
教団運営の責任者でもあったので、弟子たちが引き起こす、面倒な世俗的な問題に対処する必要もあったようです。
お経というのは、ゴータマ・ブッダと弟子の問答の中から、ためになる話、人間の認知の転換を図るような話を抜粋して構成されたものと理解していますが、問答の中には、ためにならない残念な話も含まれているようです。修行僧は若い男性が大多数だったため、彼らが戒律で禁じられているオナニーとかセックスとか恋愛とかの問題を教団内で起こしてしまうこともあったようで、教団の責任者としてブッダも「破門」とか「うーん、今回セーフ」とか、いちいちジャッジしないといけませんでした。
仏教が好き! (朝日文庫)』という河合隼雄氏と中沢新一氏対談本に、そういう残念なタイプの問答が、バーリー語から日本語へ翻訳されて掲載されています。興味のある方は読んでみてはいかがでしょう。笑えます。
超越者のブッダですら世俗の些事の問題と向き合わなければならなかった、という事実は何だか親しみを感じます。それでも、面倒だからといって投げ出したりせずに、梵天勧請での決意を変えずに死ぬまで慈悲行を貫いたため、2500年後に生きる我々がブッダの教えについて思いを巡らすことが可能となりました。改めて言うまでもありませんが、本当に偉大な覚者です。

 
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