2020年8月8日土曜日

東南アジア的な視点から、北九州市の活性化について考えた(3)

ここで近隣の九州では最大の都市、福岡市と北九州市の関係について考えたいと思います。
日本が工業国であった1960年代までは、北九州市の方が圧倒的に大都市でした。
最初の投稿でも書いたように、1950年代の朝鮮戦争の時、アメリカ人将校が遊びに来る街は博多ではなく小倉でした。
その後、平地や河川に乏しいため工業地帯になれなかった福岡市が、1970年以降に起こった日本の産業構造の変化に対応して、サービス業と商業施設の集積に特化したことが功を奏し、両者の地位が逆転します。 両市の人口推移を比較すると、1979年に人口が逆転して以来、清々しいくらいくらいの差が開いています。しかも40年前に始まった、北九州のダウントレンドと福岡市のアップトレンドは、今をもって継続中です。


日本全体で11年連続人口が減少し、ほとんどの自治体の人口減が続く中で、人口が増加し続けている数少ない地方都市として、近年、福岡市は注目を集めています。日本における数少ない成長都市として、福岡に関する書籍も増えてきています。





世界的にも認知度が高まり、イギリスのライフスタイル・マガジン『MONOCLE』では、定点観測する日本の都市として、東京、京都と並び福岡が選ばれています。同誌では2008年に、福岡が世界で最も買い物がしやすい街として選出されています。
ちなみに、2019年福岡市における外国人入国者数は269.5万人に対して北九州市は69.1万人でした。

北九州市と福岡市の関係は、ミャンマーのヤンゴンとタイのバンコクとの関係に似てなくともないです。
ヤンゴンも1980年くらいまでは、バンコクを凌ぐ都会だったと言われています。バンコクの駐在員が、休日はヤンゴンまで日常品の買い出しに訪れていたという、今となっては信じられない話も伝えられています。バンコクが商業施設の集積の集積によって都市としての魅力を高め、多くの観光客や居住者を海外から引き付けているところも福岡と似ています。
雑誌『BRUTUS』がバンコクや福岡の特集を組むのは、両市にグルメやショッピングといった消費の楽しみが都市の中にあるからでしょう。



北九州も福岡に劣らず、食べ物は美味しい(しかも福岡よりも1、2割安い)ですが、ショッピングはちょと厳しい。北九州の若者は高校生くらいになると、高速バスの回数券(JRより運賃が安い)で、福岡までショッピングに出かけるようです。 この辺りも、お金を持ったヤンゴンの若者は、バンコクで買い物するところに似ています。北九州もヤンゴンも消費する都市としての煌びやかさに欠けるところも共通しています。北九州の大型の商業施設では、テナントが埋っていないため閑散とした印象を与えます。
これだけ差が開いた今では、商業施設の集積で福岡市と競争する意味はないため、北部九州の都市として棲み分けを図るべきでしょう。
そもそも、地勢上工業地帯が作れなかったため、サービス産業を中心とする商業地域として発展したきた福岡市と、重工業を中心とする製造業で過去に繁栄した北九州市では歴史的な経緯が異なります。北九州市は、生産地であったことが都市の成り立ちに大きな影響を与えています。
そこで基本に立ち戻り、北九州市を生産者にとって魅力的な街として再生してはどうかという提案です。
といっても大きな工場を誘致しようとか、そういう話ではありません(そういう活動は、すでにやっているでしょうし)。
シェアアトリエpopolato3comichiかわらぐちといった遊休不動産をリノベーションして、地場のクリエイターや独立自営業者に提供する試みを拡大して、東南アジア地域からもテナントを誘致してはどうかという提案です。

前の投稿にも書きましたが、生産年齢人口が減少が続く地方で、個性的で魅力的なテナント候補となるクリエイターや個人事業主を次々と見つけるのは、簡単なことではないと推測します。そしてプレイヤーの層が薄いため、魅力的なテナントが去った後に、同じレベルのテナントで埋めるのは難しい。ならば、生産年齢人口が日本に比べて多く、経済成長が続く東南アジアから人材を呼び込めれば、魅力的な場作りを通じて、街の再生へと繋がるのではないでしょうか。

たとえば、タイのバンコクには、チャトチャック・ウィークエンドマーケットのような、テント形式のテナントが1万5000店舗を超える巨大な市場があります。出店者のすべてが自社ブランドの商品を販売しているわけではありませんが(おそらく10%弱がオリジナル・ブランド)、ここを出発点として、成長ステージ毎に売り場をグレードの高い商業施設へと出店・移転してゆくブランドも散見します。創業時は、チャトチャック・ウィークエンドマーケットのみの出店だったのが、認知度が上がりと売り上げが伸びると、ターミナル21やサイアム・センターなどの中心街のショッピングモールにも出店する。プレイヤーの層が厚いため、仮に成長したブランドが去った後も、別のブランドが後を埋めて、売り場の新鮮さを保っています。外国人旅行者のみならずタイ人の買い物客も多いのは、商品やブランドの入れ替わりが適時あるからでしょう。


 チャトチャック・ウィークエンドマーケットの独立系ブランドが並ぶ一角

インキュベーションを目的として作られたわけではない雑多な商業施設が、独立自営業者やスモールビジネスの登竜門として機能しているのは興味深いです。
たしかに東南アジアらしい怪しげなコピー商品も多いのですが、独立系ブランドの商品のクオリティは、日本の地方物産展などで展示されている商品よりもデザインが洗練されていたりします。
普段はミャンマー在住で、約2ヶ月毎にビザランでバンコクへ行くため、5年以上定点観測していますが、ここ4、5年の間に、クオリティの高い独立系ブランドが増えているのを実感します。
バンコクには他にも同規模の巨大なナイトマーケットが5つくらいあります。これは外国人旅行者を含めた巨大な消費者層がいることはもちろん、売り場を埋めるだけのプレイヤーが存在するから成立しています。
規模はずっと小さくなりますが、ミャンマーにもThe Makers Marketという地場の素材を使用した独立系ブランドの展示即売会が月に一度開催されています。


 ミャンマーのローカルメイドの物産展のThe Makers Market

現在、北九州では、遊休不動産をリノベーションして、地場のクリエイターや独立自営業者に提供する地域活性化策が地元の有志によってなされていますが、これを地理的に近く、プレイヤーの層が厚い東南アジアからクオリティの高い独立系ブランドにも開放すれば、より魅力的で集客力のある空間になりそうです。
福岡市の福岡アジア美術館内にロンファという東南アジアのグッズを販売しているセレクトショップがありますが、こちらが平場でそれぞれの国の物産を販売しているに対して、ブランド毎にブースを区切って、ブランドの世界観を見せる施設とすれば差別化できるのではないでしょうか。

実現させるには、通関や検疫などの問題をクリアする必要もあるし、仮に外国人が居住してビジネスをするとなると在留資格をどうするかなどの問題も生じるでしょうけど。経済特区として例外措置を認めるなどの、行政の協力も必要になるかもしれません。

それ以前に、頼んでも来てくれるかどうか不明です。タイのイベント・オーガナイザーや独立系ブランドのオーナーは、富裕層が趣味でやっている場合も多いです。タイ人富裕層は、大方の日本人よりも遥かにゴージャスで洗練されたライフスタイルを送っています。ヨーロッパの高級ホテルを泊まり歩いたり、東京に来た時はヨウジヤマモトとコムデギャルソンをまとめ買いしたり、九州で温泉巡りする時は車をチャーターして各地の高級旅館に泊まりながら九州を横断したりと、今の日本人の多くができないような(私を含む)ラグジュアリーなライフスタイルを謳歌しています。地味な日本の地方都市に、彼らが進出する魅力を感じるかどうかは分かりません。とりあえず人が来るかどうかは別として、商品だけを置かせてもらえるように交渉するのが現実的かもしれません。

望みがあるとすれば、タイではビームスやユナイテッドアローズなどのセレクトショップが若者に人気なことです。海外のスタイルを日本的にアレンジする、日本人の編集力が評価されています。逆に言うと、ビームスやユナイテッドアローズも知らないようだと相手にされません。タイに住んで長い日本人の方が、昔は自分が日本人ということで、日本の情報を聞いていてくれたが、今の若いタイ人からまったく相手にされないとこぼしていたのはこうした事情によります。


タイで出版された九州のガイドブック
西新の裏道にあるパン屋から大名のマンションの一室に構えたセレクトショップなど内容が異様にマニアック
おそらく福岡在住タイ人による取材

北九州エリアは、人口が減少し続けているため、中心地にも遊休不動産があるという福岡にはない環境を強みに変えてはどうでしょうか。
現在の北九州で起こっているリノベーションによる街の再生プロジェクトのテナントとして、東南アジアから広義の生産者(独立系ブランドのオーナー)加われば、多様性の広がりとクオリティの向上によって、より魅力的で集客力のある空間になりそうです。
検疫、通関、在留資格等の法律的な問題と共に、こうしたプロジェクトに理解のある物件オーナーを見つけるのもそう簡単ではないかもしれませんが。

タイとミャンマーなら日本に持って来ても競争力のある独立系ブランドをいくつか知ってますので、ご関心のある方はお声がけください。おそらくベトナムにもありそうですが、ベトナムの事情は知りません。
東南アジアからから生産者が集まる集積地となれば、もしかしたら今の北九州に広がる広大な工場跡地の使い道も見つかるかもしれません。東南アジア諸国の独立系ブランドの小規模な工場が、製鉄所の工場跡地に並んでいる未来の光景を想像したら楽しくなりませんか。

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2020年8月6日木曜日

東南アジア的な視点から、北九州市の活性化について考えた(2)

前回の投稿では、北九州市の気風やそれが形成された経緯について述べました。 製鉄業を中心とする重工業産業が、この街から去って久しいですが、そうした産業が隆盛だった時代の痕跡を未だに街を歩けば目にします。

たとえば、24時間営業のうどんを中心とする定食屋の「資さんうどん」や、こちらも24時間営業の海産居酒屋「磯丸水産」。



いずれも夜勤明けの工員達のために終日営業としていたのでしょうが、今も客層を変えながら同じ営業形態で続けているのは驚きです。工員向けの店だっただけあって、やたらご飯の盛りが多い。最初は、頼んだものが出てきた時に、「あれ、大盛頼んだっけ?」と途惑ったものです。
日本に全国チェーンではない、こうした地場の24時間営業の飲食店や居酒屋がある場所は、今ではそうないのではないでしょうか。

その一方で、代官山とか福岡の大名にありそうな、コーヒースタンドを備えたセレクトショップが出来ていたりします。


そうはいっても、製造業が去った後の主力産業が見つかっていない都市なので(人口減と高齢化の予測値は政令指定都市の中で一位)、街の中心地でも空きテナントが目立ちます。


製造業の撤退による人口減や高齢化、そして生産年齢人口の減少による活気のなさなどは、80年代からずっと続いてきた傾向なので、特に驚きはありません。
しかし、今回、久し振りに北九州で暮らしてみて気がついたのは、以前には見かけなかったタイプの個性的なお店や施設が増えてきていることです。

こちらは、古い長屋をリノベーションしたcomichiかわらぐちというプロジェクトです。


テナントの一つにアウトドアセレクトショップがありました。今年の6月1日に新しく入ったテナントです。



カウンターもあって飲食ができる作りになっています。店主にお話を聞いたところ、「北九州には、パタゴニアもノースフェイスもないので、自分でアウトドアショップを作りたかった。街のコミュニティ・プレイスとして機能させたい」ということです。


テナントの中には角打ちもあって、私が行った時に、ちょうど昼飲みを終えて出てきた労務者風の酩酊した初老の男性を見かけました。こうしたお店があるのも北九州らしいです。
北九州には昼飲みができるお店が多く、休日は昼からはしご酒をして、早い時間に帰って寝て、翌日の出勤に備えるという文化があるようです。これも工場労働者が沢山いた時代の名残りなのでしょう。


この物件のリノベーションを手掛けているのは、北九州家守舎という、北九州市内の遊休不動産解消の為、リノベーションを通じた街の再生、事業の創出、人材の育成をミッションとする企業体です。この物件の他にも、北九州でのリノベーション・プロジェクトを手掛けています。

これらのプロジェクトは、通常の建築案件のように、設計して、施行した完成物件を引き渡して終わるのではなく、 オーナー・設計者・テナントの3者でリノベーション費用を分担して、設計者(北九州家守舎)はオーナーから一括して借りた物件を各テナントへサブリースして、テナントからもらう賃料とオーナーに支払う賃料の差額から、建築費用を回収するという仕組みで運営されています。設計した側がリスクと責任を取る代わりに、きちんとテナントが入れば継続的に利益が得られるという仕組みです。
遊休不動産を、地場の個人事業主やクリエイターの活動の場となるようリノベーションし、物件のオーナー、設計者・仲介者(北九州家守舎)、個人事業主・クリエイター3者がそれぞれ利益を上げ、魅力的な場作りによって地域を活性化する試みです。
中央の大手資本が店舗が入居することは、オーナーにとっては魅力的ですが、そうした大手資本は地域の活性化や共同体への寄与には無関心なため、会社の求める最低限の収益性を見込めなければ出店しないし、仮に出店しても当初の収益予想が外れればすぐに撤退します。現に小倉駅前の大型商業施設は、伊勢丹が撤退した後テナントが埋まらず、建物の三分の二程度が空きテナントとなっています。人口の減少が続く北九州市のような立地では、小売業などの業種では、経済合理性だけで事業を継続するのは困難です。

北九州家守舎の存在と活動は、この会社の代表取締役の一人でもある嶋田洋平氏の著書を読んで知りました。
人口が継続的に減少して、遊休不動産が増加し続けている環境では、新築の物件を建てる社会的な意義は失われており、むしろ効果的な既存物件のリノベーションを施すことが、地域の発展、地場資本によるビジネスの活性化、地元で創業する人材の育成などに寄与するという、「建てない建築家」嶋田氏の主張と実践が紹介されています。
少子高齢化と生産年齢人口減少が進む日本の中で、処方箋の一つとなる、示唆に富む内容の本なので、そうした問題に興味のある方にはお勧めです。


ただし、いくら理念や志が素晴らしくても、現実的に実践して、運営していくのはかなり難しそうです。
複数の物件を見ていて感じたのですが、テナントのクオリティを保って、物件の価値を維持するのが難しい。最初は個性的な地場のクリエイターをテナントとして誘致して、物件の価値を向上させ、地域を刺激することができても、そのテナントが出た後に同等のクオリティの新規テナントで埋めることがなかなかできないように見えました。競争力のあるテナントは、出店してある程度目途が立つと、ネット通販に切り替えたり、東京へ進出してしまうことがあるようです。
地方だとプレイヤーの層が薄いので、個性的で魅力的なテナントとなるクリエイターや個人事業主を次々と見つけるのは簡単ではありません。かといって、収益性を重視して、一定のクオリティに達していないテナントを入居させると物件の魅力は下がるし、地域の活性化にも繋がりにくい。
そもそも生産年齢人口が縮小の一途を辿っている北九州市のような都市で、新たな候補が次々と育ってくるという予想も立てにくい。

だったら、生産年齢人口の相対的な比率が日本よりも高く、絶対数も多い東南アジアからクリエイターや個人事業主をこのようなリノベーション物件に誘致してはどうだろうというのが、本稿の趣旨です。
そのアイディアの詳細については、次回の投稿に書くことにします。

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2020年8月3日月曜日

東南アジア的な視点から、北九州市の活性化について考えた(1)

6月、7月とここ2ヶ月の間、北九州市の小倉に滞在しています。
こんなに長く日本にいるのは、ミャンマーに住みだしたここ8年ではじめてです。北九州市にこんなに長くいるのも30年ぶりくらいです。実家は北九州にあるものの、これまで年に一度、一週間程度一時帰国した時は、国際空港の近い福岡市に滞在していました。見つかったバイトが北九州市だったので、ここに滞在しただけで、それ以上の理由はありませんでした。
今回の滞在で気がついたのは、30年前とは街の雰囲気が変わりつつあることです。
過去の衰退した工業地帯都市独特の荒廃した雰囲気がだいぶ薄らいでいる。
昔は、夜に女性の一人歩きができないような、暴力的で殺伐とした雰囲気の街でしたが、今はなんだかゆるくて、ほのぼのしています。

ほんの20年くらい前までこの地は、暴力団組合員のプレイを断ったゴルフ場のグリーンに重油を撒かれて、マネージャーが胸を刺されて死亡したり、入店を拒んだクラブのママが顔を刃物で切られたり、入店を拒まれた別の店では手榴弾を投げ込まれたりする事件が相次いでました。
2006年より福岡県警が本気で暴力団の摘発に取り組み、現在では、ほぼ暴力団の活動は根絶されたようです。


今では、自治体が過去のイメージを払拭して、移住者を増やすためのプロモーションビデオまで作られています。


そもそも北九州市の小倉は、先の大戦で空襲を免れたため、戦後復興が最も早かった都市でした。その後、工業都市として、1950年代の朝鮮戦争の特需で潤い(空襲を免れたため、軍需工場が残っていたらしい)、日本が西側の製造業を担うアジア唯一の工業国だった1960年代には隆盛を迎えました。日本で初めてアーケード商店街ができたのも、北九州の小倉です。このアーケードは、政府の補助金ではなく、商店街の店主達によってその建設費が賄われました。

ロバート・アルトマン監督の朝鮮戦争を舞台としたブラック・コメディ映画『MASH』では、不良アメリカ人軍医達が、息抜きに、戦場から近い日本の地方都市の小倉でゴルフや芸者遊びを楽しむシーンがあります。私がこの映画をビデオで観たのは1990年代でしたが、なぜ登場人物達が福岡に遊びに行かないのか不思議に思ったものです。映画を観た当時は知りませんでしたが、朝鮮戦争があった1950年代には、小倉の方が福岡よりも圧倒的に拓けた都会だったからです。


日本の経済成長に伴い人件費が上昇し、北九州の主力産業であった鉄鋼業などの製造業が競争力を失ない、産業構造が変化しはじめた1980年代から街の衰退がはじまります。近隣の地方都市・福岡市との人口が逆転したのが1979年です。
北九州のダウントレンドと福岡市のアップトレンドが交差したこの時から、現在に至るまでこのトレンドは継続し、今では商業施設の集積度や人口で大きな差がついています。街を歩いて、両市を見比べてみると、別に統計の数値に頼らなくても、街の活気や洗練度や多様性で大きな差があることが体感できます。

北九州市には、工場や製造業を中心とする企業が去った後も、工場労働者的あるいはブルーカラー的なエートスは残りました。企業の管理職はその場所での仕事がなくなれば転勤によってその地を去りますが、現業に従事する労働者の多くは、その地に残り続けるからです。

工場労働者を支えるエートスについては、イギリスの文化社会学者ポール・ウィリスによるエスノグラフィ『ハマータウンの野郎ども』がその嚆矢とされています。
実は読んでないので、ググった記述を以下に貼って、本書の概要を説明します。
ウィリスが行ったフィールドワークは,イギリス中部のある伝統的な工業都市を舞台にしている。『ハマータウンの野郎ども』のなかで〈野郎ども〉the lads と自称したのは、当該地域のセカンダリー・モダン・スクールに通う白人労働階級出身の若者たちである。彼らは,教師への反抗やからかい、飲酒、喫煙、逸脱的なファッション、笑いふざけなどを「反学校の文化」として実践する。
 『野郎ども』は学校で勉強をするのを忌避し馬鹿にしているが、自分たちはパブやケンカなどでの「社会勉強」のほうが重要と考えているのであって、むしろ学校の机での勉強しかしていない奴よりかはよっぽど社会のしくみに長け、人間としては上であると考えている。

 勉強とか、先生の言うことばっかり聞くことで、青春という人生の大切な時間が失われるなんて馬鹿げている。青春時代こそ自分のやりたいように生きるべき。 

彼らの「成人した男性労働者の世界=職場の文化」に対する憧れ,イメージは、次のようである。すなわち,「異性にかかわる欲望や『大酒喰らう』性癖や『ズラかろうぜ』という暗示や、その他さまざまな感情を、野放図にとまではゆかいないまでもほどほどに自由に表現できる場所、職場とはそういうところでなければならない。

日本のヤンキー的な価値観と極めて酷似しています。
統計はないでしょうが、かつての北九州市は、おそらく日本一ヤンキーの多い都市でした。
こうしたブルーカラー的な価値観が、世代を超えて継承されていくところも、日本のヤンキー文化と共通しています。

そして『ハマータウンの野郎ども』では、彼らが必ずしも反社会的な価値観の持っているわけではなく、むしろ社会を下支えする階層として、資本主義システム内に組み込まれている構造が明らかにされています。
野郎どもは学校の体制や教師に反発するけど、学校に行くこと自体は否定しない。いや、学校へは仲間に会えることや面白いネタがあることなどにより、むしろ喜んで通っている。

単純労務作業は、普通ならばだれでも嫌がる。仕事はキツイのに給料や社会的地位は低い。でも、それをこなせるやつだからこそ、『真の男』と認められるのだ。
つまり学校や職場といった場所や制度そのものには、異議申し立てはしない、むしろ伝統的・保守的な価値観を持った階層であり、それゆえ資本主義システムを構成する工場労働者として制度の中に組み込まれていた。これも北九州市の工場労働者の在り方と共通しています。
産業構造の変化により、イギリスから工場という職場が失われた1970年代後半に、労働者階級発のユースカルチャーとして、既存のシステムそのものを否定するパンク・ロックが登場したのは示唆的です。
奇しくも『ハマータウンの野郎ども』が出版された1977年に、パンク・ロックというジャンルを決定づけたセックス・ピストルズの1stアルバムがリリースされています。
ちなみにローリング・ストーンズのギタリスト、キース・リチャーズはインタビューでミュージシャンになった理由を聞かれて、「工場で働いて、上司に『イエス、サー』というだけの人生を送りたくなかったから」と答えています。

いま日本でベストセラーになっている在英日本人ブレディみかこさんの『ワイルドサイドをほっつき歩け --ハマータウンのおっさんたち』は、「野郎ども」の50年後の現在が描かれてたエッセイです。
今では元「野郎ども」現「おっさん」は、自分の子供や年少者に「いま俺のやっている仕事は、これからAIに代替されてなくなるから、お前は大学行け」と過去の労働者階級のイギリス人なら絶対に言わなかったであろうことを言うようになっているそうです。


こうしたヤンキー的・「ハマータウンの野郎ども」的なエートスが街に漲り、加えて暴力団などの実際に反社会的な組織が幅を利かせる地域であったため、北九州市は「修羅の国」というありがたくない名称をネット内で拝命することになってしまいました。ちなみに2012年に実施された、同市の若者アンケートでは、北九州市のイメージについての回答で最も多かったのは、「暴力・犯罪」が一位で、62.5%をマークしています。

でも、2ヶ月ほど滞在していみると、30年前とはずいぶんと様相が違うことに気がついてきます。

北九州市のたどった経緯をざっと振り返るだけで、かなり紙(モニター)幅を費やしたので、今はどんな風に変わってきているのかについては次回に書くことにします。

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