2022年1月17日月曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーバードライブ』15 (1)

 15(1)

 私たちの活動は一九八八年に遡ります。この時、私たちは美術サークルに属するラングーン大学の学生でした。専攻は生物学だったり数学だったりと–––私は数学科の学生でした–––ばらばらだったけれど、美術に対する関心や情熱を持った学生が自主的に十人ほど集まって結成されたサークルです。講義のない土日の教室に外部から講師を招いてデッサンなどを学んでました。
 この年の三月に喫茶店でラングーン工科大学の学生達と地方政府の高官の息子との間で、他愛のないことで喧嘩が起こりました。騒ぎが大きくなって警官がやって来た時に、学生の一人が射殺されました。工科大学の学生は怒り、デモが始まります。この運動は五マイル先のラングーン大学へもすぐに飛び火します。きっかけは何だってよかったのだと思います。一九六二年の軍事クーデターから続く軍事政権に学生たちは飽き飽きしてましたから。ラングーン大学は常に政治運動の中心でした。建国の父アウンサン将軍による植民地からの独立運動もここから始まりました。
 
 その週のうちに両大学の学生による共同デモが起こります。一万五千人を超える学生たちがインヤー湖畔に集まりました。棒も石も持たない平和的なデモでした。しかし、政府は軍と治安警察を出動させます。軍用トラックで追い立てられた学生は湖に逃げ込みました。溺れて這い上がろうとする学生は警棒で殴られ、沈められました。四十人あまりの学生が溺死しました。自動小銃により発砲もあり、二百名を超える学生が射殺されました。逮捕された学生達が小さなトラックに多数押しこまれたため、警察署に着くまでに四十人が窒息死するという事件もありました。この後、すべての大学が三ヶ月閉鎖されました。
 
 それでも、軍政に対する抗議や抵抗は衰えることなく、八月八日にゼネストと大規模なデモが起こりました。一九八八年の八月八日に起こったため、我が国では8888民主化運動として知られています。
 この時のデモには二十万人近い人々が参加したと言われています。それまでの学生が中心だったデモとはスケールがまったく異なるものでした。ダウンタウンのスーレー・パゴダ前は、見渡す限り人で埋め尽くされていました。学生、公務員、農民、医療関係者、法律家、仏教徒、ムスリム、あらゆる職業、階層、年齢の人間が集いました。こんなことは今まで一度もありませんでした。あちこちから「打倒一党独裁」や「デモクラシーの獲得」を叫ぶ、地鳴りのようなシュプレヒコールが湧き上がりました。何かが変わるかもしれない、軍の高官に独占されていた富や権力が平等に行き渡る社会が訪れるかもしれない、そんな期待とそれがもたらす高揚感にデモ隊全体が包まれていました。この時に感じた一体感や高揚感は、今でもリアルに思い出せます。

 この日を境に、軍政への抗議から始まったデモは、しだいに民主主義の実現、経済の自由化といった主張へと焦点が絞られていきます。
 私たちの美術サークルも、学生のデモ隊が掲げるスローガンが書かれた幟や横断幕を作るのを手助けしました。私はそれまで特に政治に興味がある学生ではありませんでした。それ以前のデモにも参加しませんでした。両親から危ないから行くなと止められていましたから。でも、周囲の熱気に押されて、この日のデモには参加しました。大規模なデモはその後四日間続きました。私の参加した日ではありませんでしたが、軍はやはりデモ隊に発砲し、多数の人が亡くなりました。

 しかし、運動はこの後だんだんと停滞し始めます。理由の一つは、運動に明快な戦略を欠いていたことです。軍事政権側も少し譲歩の姿勢を見せたこともありましたが、双方の落とし所を見つけることができませんでした。
 もう一つの理由は、運動全体を統括して指導するリーダーが現れなかったことです。
ミンコーナイン、モーティーズンといった学生活動家は8888民主化運動を主導していました。そして、母親の介護のため一時帰国中だったアウンサンスーチーさんが押し出されるように政治の表舞台に登場したのもこの頃です。でも、運動を一本化して、軍事政権と交渉する人物は現れませんでした。
 
 状況が行き詰まる中、運動もしだいに暴力化していきます。政府のスパイがデモ隊の飲料水に毒を入れたのが発覚した時は、五人の首が切られ、晒首が通りに並んでいたと聞きました。爆弾を持っていると疑われたカップルが誤って斬首される痛ましい事件もありました。政府のスパイがデモ隊に紛れて運動を撹乱しようと試みたため、疑心暗鬼になった群衆の間でリンチや処刑が相次いだとも聞いています。多くの交番が暴徒に襲われ武器が奪われました。逮捕されたデモの参加者を収監するのと入れ替わりに、服役中の犯罪者が刑務所から大量に釈放されて街の治安が悪化しました。街に放たれた犯罪者は、デモを煽動して暴力を誘発するよう言い含められていました。政府のスパイや暴徒から身を守るために、地区ごとに武装した自警団が結成されました。デモはあちこちの地域で散発的に起こっていました。

 膠着と混乱が深まる中、九月十八日に事態は大きく動きます。その日の午後四時過ぎに国営ラジオ局の番組が突然中断し、軍隊行進曲が流れました。それに続いて男性のアナウンサーが、法秩序の回復と治安維持のため、民意に基づき国軍が全権を掌握したと告げました。一九六二年以来のミャンマーで二度目の軍事クーデターでした。軍用車が当時首都だったラングーンに集結してきました。国境で少数民族のゲリラと戦っていた部隊が呼び寄せられたのです。それから二日間、兵士達が非武装の市民を撃ち始めました。街中に銃声が響き渡りました。この時、動くものはすべて撃たれたと伝えられています。民家の窓際に人影が見えても撃たれました。私は息を潜めて家族と家の中に閉じ篭っていることしかできませんでした。この軍の弾圧による死亡者は千人とも三千人とも言われていますが、正確な数はいまだにわかっていません。民衆を制圧すると戒厳令が敷かれ、集会は禁止されました。こうして自由を求める私たちの願いは圧倒的な暴力によって潰されました。
 およそ一万人の学生が逮捕を恐れて国境地帯に逃れ、カレン民族同盟(KNU)やカチン独立機構(K1O)といった長年国軍と対立しているゲリラ組織に合流しました。私の同級生も何人か行方知らずとなりました。彼らのその後は、生死すらわかっていません。
 翌年、国名はビルマからミャンマーへ、首都はラングーンからヤンゴンへと改称されました。民主化運動の拠点となった大学は閉鎖され、キャンパスを遠い郊外へ移転させることで、学生運動の芽を摘みました。

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