2018年3月31日土曜日

【悲報】僕、ミャンマーのネットで炎上する〜ミャンマーの市場について考えた【長文】

今週、半年前からサンプルの作成を重ねていた、ウェストをシェープしたドレスの完成形がようやくでき上がりました。

そこでFBグループ、Yangon Connectionに、このドレスの販売を始めたことを告知しました。Yangon Connectionは、現時点で12万2千人の参加者を擁する在緬外国人にとって最大の情報交換の場です。
すると意外なことに、ターゲットとは想定していなかった(もともとYangon Connectionは、在緬外国人の情報交換のために作られたFBグループです)ミャンマー人女性から、批判的な意見が相次ぎました。

曰く、「ぜんぜん良くない!」、「もっと勉強して!」、「レベルアップが必要!」
これは、同一人物が三つの投稿を立て続けにしています。

続いて、もう一人のミャンマー人女性からの投稿。
「このドレスは良くない。チャリティーならいざ知らず、この値段で買う価値はない。場末のローカル・テーラーでも、もっと縫製が良い。フィッティングも良くないし、生地も良くない。この値段ならもっと良いものが買えるはず!」

ネット・ジャーゴンで言うところの火病ってると言って良い状態で批判しています。
友人のウェイヤン君が私よりも先に、投稿が炎上しているのに気がついて(私はその時、近所のWin Starでビール飲んでたので)、援護射撃してくれていました。
ご興味があればこちらのリンクでYangon Connectionの実際の投稿をご覧ください。

ご参考のため、この投稿に掲載した写真をアップします。







これらの意見に対する私の回答は、「教養がないというのは度し難いですね。私が説明した通り、このドレスは1960年代後半から70年代前半のスタイルを意識しています。いわば、イヴ・サンローランやケンゾーといった偉大な先人の作品に対するオマージュです。そうした、ファッションの歴史に対する歴史観も敬意も欠いた人たちを、お客様として想定していないし、眼中にありません」というものでは勿論ありません。そんなことは、毛ほども、露ほども、いや一ナノミクロンも思ってませんから。

正式な回答は、ちょっと長いけど(本当の記述はもっと長い)、「やあ、皆さんご意見ありがとうございます!僕は基本的に、どの作品にも批評は開かれているべきだと思ってます。だから、皆さんの意見は尊重します。でも、余計なことかもしれないけど、ちょっとこのドレスのバックグラウンドについて説明させてください。このドレスは、イヴ・サンローランやケンゾーといった偉大な先人の偉績に基づいて作られています。だから、あなたがそうしたファッション界の偉人をリスペクトしてくれていたら嬉しいし、僕は自分の仕事がそうした偉大な先人に連なるものであれば幸せです。ともあれ、実際にお店に来て、実物を見て判断してくれれば、もっと嬉しいです」 というものです。

ちなみに私がイメージしたのは、サンローランのこんな感じのドレスです。




でも、なぜ彼女たちは火病ってるといった状態にまでなって、ここまで激烈な言葉を書き連ねたのでしょう?
そのことが気になったので、分析してみました。

(1) シンプルでシックなものに対する価値を認めない
ミャンマーのファッションは盛ってなんぼというところがあります。引き算の美学みたいな感性は未だ存在しません。上にあげたような、モノトーンの生地で微妙なシェープやプリーツで、理想とするシルエットを形作るタイプのドレスは、どこが良いのか理解し難い。フィッティングも良くないと書いている人もいましたが、これはロンジーとかエインジーといった民族衣装の体にぴったりした作りを基準にしていて、ある種のデザインのドレスに求められる自然なドレープ感を評価する感性が存在しないからでしょう。

(2) 手工業的な生産方式で作られた物に対する評価が低い
今回炎上したのは、製作現場の写真を載せたのが大きいのではないかと分析しています。先進諸国の人間からすれば、裁断を機械化して、流れ作業的に大人数の縫製工が機械的に縫い上げる工業製品のようにして作られた服(代表的なのがファースト・ファッション)よりも、すべての工程を人力でまかなう、家内製産業的な生産方式の方が味とホームメード感があって楽しいという感覚があります。ミャンマーの婦人服では、既製服よりもオーダーメイドの方が主流なので、ミャンマー人にはその種のありがたみはまったく感じません。むしろ、H&MやZARAといった、先進国ならどこでも手に入るファースト・ファッション・ブランドが、ありがたがられているのが現状です。

(3) ファッションの歴史に対して、興味もしくは知識が無い
1962年から2011年までミャンマーは鎖国していたので、一部の富裕層を除き、ファッションのトレンドを含む海外の情報にほとんど触れていません。そのため、ファッションやポップミュージックなどの文化・風俗的な現象に対する歴史観を多くの人は持っていません。こうした歴史観なしでは、ファッションなどのサブカルチャー的な商品の背後にあるコンテキスト(文脈)を理解できません。文化には、過去の文化遺産の継承と、新たな価値観の提示という二つの側面があります。「温故知新」とか「新しい酒を古い革袋に入れる」とか「ルネッサンス」とかと表現されるように、常に過去を参照しつつ、新たな美意識や価値観を創造していくのが、アートとか音楽とか文学とかファッションといった文化現象の定理です。ミャンマーは長らく国を閉じていたこともあり、ファッションを含むポップカルチャーの重層性は多くの人に意識されませんし、興味がない人が大半です。こうした環境では、過去の文化遺産のオマージュや引用といった手法は通用しません。 

(4) ミャンマーの値付けの手法が独特
値段が高いといのも気に障ったようです。
そこで、いまエシカルさと透明性で、高い評価を得ているアメリカのブランドEverlaneと比較してみました。 Everlaneは、委託工場や製造コストなどの商品生産に関わる情報を開示して、その姿勢に共感した消費者に買ってもらうというビジネスモデルで成功したアメリカのブランドです。最近では、ユニクロがこの手法に影響を受けています。



上のWebでの公開資料を元に計算してみます。

Everlane:
生地の値段/店頭価格:10.9%
縫製費/店頭価格:17.3%

Yangon Calling:
生地の値段/店頭価格:23%
縫製費/店頭価格:16.6%

いや縫製費の割合は0.7%しか変わらないし、生地の値段に関しては私の方が二倍以上高い割合、つまり商品価格の割に高い生地を使ってます。
少なくとも国際標準では、ミャンマー人が言うように「生地が良くない」とは言えません。これは物の価値がわかってないか、ミャンマーの根付け方法があまりに国際標準から外れているのかのどちらかでしょう。
ミャンマーには、デザインに対価を払うという価値観が希薄なので、おそらく後者ではないかと推測します。

論理立てて説明しようとすると記述がずいぶん長くなりました。
では、ミャンマー人はこうした商品を絶対に買わないのかというと、必ずしもそうでもないことを次に説明します。

私はいつも店頭にいるわけではないので、知らないケースもあるかもしれませんが、自分の知る限り、私の企画した商品を買ってくれたミャンマー人は今までで三人です。
一人はイギリス帰りで配偶者もイギリス人のご婦人、もう一人は日本に留学歴のある韓国人の配偶者を持つご婦人、最後はシンガポールの美大出て、ミャンマーでデザイナーをやっている女の子です。
今、このデザイナーやっている女の子と協業できないかと話し合っていますが、私のブランドのブラック・ドレスを見せたら、すごくはしゃいで大喜びして買ってくれました。その時も写真撮らせてもらいましたが、FBのオフ写真でも着ている頻度が高いので、かなり気に入ってもらえたようです。

そんなわけで、私見ではミャンマーのマーケットは以下の四つに大別できます。

1. ミャンマーのマジョリティのマーケット:推定約90%
2. ミャンマーの富裕層のマーケット:推定約8%
3. ミャンマーの富裕層のうち海外での滞在経験を持つ人のマーケット:推定約2%
4. ミャンマーに住む外国人のマーケット:推定約0.1%

マーケット毎に商品の価格帯やテイストを変えて、ターゲティングした層にリーチするのがマーケティングの原則ですが、ミャンマーの場合、メディアもそれほど市場毎に細分化していないので、3、4の層に向けてメッセージを送ったところ、1の層からリアクションがあったというのが今回のケースだと思います。

最後に、私のブランドを着たミャンマー人デザイナーの女の子の写真を見て癒されてください。明日、4月1日(日)はPrincess Tailoring Shopに日本語通訳ボランティアの女性に入ってもらえますので、その際にでも実際の商品を手に取っていただけたら嬉しいです。





ハァハァ、ちゃんと説明しようとすると、思ったよりずいぶん長くなった
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2018年3月28日水曜日

【4月1日(日)】日本語通訳付きでロンジーや注文服が作れます【Princess Tailoring Shop】

4月1日(日)10:00~12:30の間、日本のNGO AAR Japanさんが運営するテイラー・ショップのPrincess Tailoring Shopに、日本語通訳ボランティアのLさんに入っていただきます。


ロンジーやワンピースなどのオーダーメイドの服をミャンマーで作ってみたいけれど、言葉の壁でためらっていた方は、これを機会に作ってみてはいかがでしょう?

ミャンマーの素材を使用して作った、店舗で販売している既製服をご参考のため掲載します。これらと同じデザインのドレスやご自分でデザインした服を採寸して作れます。

ロンジー生地を使用したワンピース



シャン州産のコットンを使用したワンピース

お店の住所は、こちらです。
Princess Tailoring Shop 【No.8 Ground Floor, Nyaung Tone Road, Sanchaung Township, Yangon (レストラン喜洋洋の二軒左隣)】

水祭りも近いし、新しい服で街へ出かけたいな、
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2018年3月24日土曜日

ミャンマーで、いま村上春樹ブームが起きている!?

友人のNさんから『Myanmar Times』の最新号に村上春樹の翻訳者のインタビューが載っていると聞いて、読んでみました。

最初は、 村上春樹の最初の翻訳者で、初期の作品を英訳した、アルフレッド・バーンバウムのことかと思いました。彼がミャンマー人の女性と結婚して、ミャンマーに住んでいると何か読んだことがあるからです。村上は、彼について「バーンバウムは一種のボヘミアンなんです。特に定職もなく、大学に属しているわけでもなくて、タイに行ったりミャンマーに行ったりフラフラして暮らしている」と語っています。
彼は今もミャンマーに住んでいると思っていましたが、ネットで見つけた2年前のインタビューの場所は東京でした。掲載写真から、下北沢のBio Cafeだと分かります。なぜ分かるかというと、ミャンマーに来る前に、ここから50メーターくらい先のアパートに住んでいたからです。

さて実際に記事を読んでみると、インタビューされていたのは、ミャンマー人の翻訳者の Ye Mya Lwin氏でした。
以前の投稿で、再新作の『騎士団長殺し』が英訳より先にミャンマー語訳出ていることを書きましたが、この方が訳していたんですね。
『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』などは、英訳が出版された直後のタイミングでミャンマー語訳が出てました。おそらく村上春樹のミャンマー語訳の本は、日本語から直接翻訳された本と、英訳からの重訳の二つのヴァージョンが存在します。Ye Mya Lwin氏がインタビューで、重訳ではニュアンスが伝わらないといった意味合いのことを言っていますが、おそらくこの辺の事情について言及しているのだと思われます。

ミャンマーは英語を読める人も多いので、英訳のペーパーバックを格安で販売している業者もいます。長編が一冊300円から500円くらいなので、ミャンマーの洋書の相場からして、不自然に安過ぎますが、Facebookで堂々と広告が打たれているのは、さすがミャンマーです。



なかなか興味深い記事だったので、私も翻訳してみました。
2001年に『風の歌を聴け』がミャンマー語に訳されて、これがミャンマーで最初に紹介された作品だったことは知りませんでした。ミャンマーの書籍はあまり重版をかけないので、売り切れて書店から消えると、どんな本が出版されていたのか分かりません。私は、『風の歌を聴け』のミャンマー語訳の本を書店で見たことがありません。


業界よりもファンの動きの方が速いとき、そこには新しい何かが起きている。
村上春樹の新作『騎士団長殺し』は、英訳より先にミャンマー語訳が出版された。ミャンマーのファンは大喜びだ。彼らは翻訳者のYe Mya Lwinに感謝すべきであろう。
村上は作家として、『ノルウェーの森』や『スプートニクの恋人』といった作品で、世界的な評価を受けている。彼のミャンマーにおける名声は、Ye Mya Lwinが村上の処女作『風の歌を聴け』を翻訳した2001年にはじまった。
その時、彼はヤンゴンの日本大使館の図書館に勤務していた。ある日そこで、『風の歌を聴け』の薄い原著と衝撃的な出会いをはたした。彼はすっかりその本に引き込まれてしまい、空いた時間を充ててミャンマー語に翻訳した。
訳し終えると、彼はそれを月刊誌に分けて掲載した。後にそれは書籍として一冊にまとめられた。
その本が翻訳書として世に出ると、瞬く間に読者を獲得したとYe Mya Lwinは言う。この成功に促された彼は、四か月をかけて『ノルウェーの森』と『海辺のカフカ』の翻訳を完成させた。どの翻訳書も約1,000部が売れた。
「村上の作品は、他の著者の書く、愛や憎しみ、結婚や離婚とは違っている。彼の書き方は独創的で、個人的なんだ」とYe Mya Lwinは言う。
彼にとって、村上の本は何度も再読を促す力を持っている。 ある種の人びとは、作品の重層性や登場人物のキャラクターを理解したくて、何度も読み返すのだ。
あるファンもこの意見に同意する。
「たいていの作家は、キャラクターを現実のそれよりもはっきりと描く。村上は違う。村上の小説の登場人物は、普通の人たちだ。僕は普通の人間だから、彼の本が好きだ」とMyo Tayzar Maungは言う。
熱心な村上の読者の彼は、『海辺のカフカ』がお気に入りだ。最初は英訳で読んで、次にMoe That Hanによるミャンマー語訳を読んだ。
 Nyi Nyi Shatは、友人が熱心に薦めてきたのがきっかけで読んだ村上の短編集にすっかり夢中になった。
「村上の短編は他とは違うんだ。彼はシンプルな言葉で精巧な作品を作り上げる」とNyi Nyi Shatは説明する。
村上の翻訳書の成功により、翻訳者たちは良質な本を世に出すため、著作の全訳化に取りかかった。村上の作品の著作の大半は、今やミャンマー語訳で読むことができる。
『スプートニクの恋人』、『めくらやなぎと眠る女』、『走ることについて語るときに僕の語ること 』、『ノルウェーの森』、『海辺のカフカ』、『1973年のピンボール』、『国境の南、太陽の西』等々。

翻訳者に会う
Ye Mya Lwinは、政府が彼に科学を学ばせるために岡山大学に留学させた際に日本語を学習した。その頃、彼は学校教師で、国費留学生として選抜された。
クラスでは、日本語が不自由なため、気恥ずかしい思いをしていた。タイから来た国費留学生の女性は、日本語をよく習得していた。彼女に日本語を教えてくれるよう頼んだが、断られた。
「彼女は、私に教える時間がないと言った。とくにミャンマー人の私には。タイ人の彼女にとって、ミャンマー人の私は敵だと言ったよ」
この出来事は、彼女より日本語が上手くなるように、彼を発奮させることになった。今の彼のように、彼女が村上の著作を翻訳できたかどうかはわからない。
 Ye Mya Lwinは、ミャンマーにおける日本文学の紹介者として知られている。
1981年に日本に留学していた時、日本の偉大な作家、夏目漱石の『坊ちゃん』をたまたま手に取った。
1983年にモン州のモーラミャインの家に戻ると、彼は翻訳に取りかかった。
「日本から本を持ち帰ったのは、いつも雨が降っていたからだよ。酒を飲むか、何か書くかしかやることがない。だから、私は翻訳をはじめたんだ」
 Ye Mya Lwinはヤンゴンに行き、『坊ちゃん』を書籍化してくれる出版社を探した。だが、どこも文学の世界で実績のない彼の原稿を書籍化することに乗り気ではなかった。結局、彼は妻の金の鎖を売った金で、1985年に自費出版した。この本はその年の"National Literary Award"を受賞した。
表紙の擦り切れた『坊ちゃん』の翻訳書は、ノースダゴンにある彼の自宅のガラス製のキャビネットに恭しく収められている。
彼は自分の翻訳にはアドバンテージがあると考えている。
「アジアの作家によって書かれた本は、西洋の翻訳者には完全に訳すことはできない。アジアの文化は、本質的に西洋とは異なるからだ」
「日本語からミャンマー語のように、直接翻訳するのは、木に生った新鮮な果物を食べるのに似ているが、英語に訳された本をさらに翻訳するのは、リスが地面に落とした果物を食べるようなものだ。もっとも、本物の果物の香りは原語でしか味あえないと言う人もいるかもしれないがね。彼らに言わせれば、翻訳者は嘘つきということになる」
Ye Mya Lwinは、これまで70冊を越える日本の本を翻訳した。その中には、ノーベル文学賞を受賞した川端康成の本や『ビルマの竪琴』がある。『ビルマの竪琴』の翻訳によって、彼はミャンマーで広く知られるようになった。
村上の言葉と戯れることは、明らかに彼を刺戟したようだ。 Ye Mya Lwinは、翻訳の困難さに向き合った先に、自分自身で小説を書くことを考えている。彼は書くことの困難さに向き合い、乗り越えることを成功よりも楽しんでいる。これからの氏の活動に期待しよう。

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2018年3月16日金曜日

なぜミャンマーでは、イケメン外国人と高学歴ミャンマー女子のカップルが少ないのか?

ミャンマーにも、ここ5年程でずいぶん外国人が増えました。5、6年前に近所のビア・ステーションのWin Starで飲んでいる外国人は、ほぼ私一人でしたが、今では常に客の2、3割が外国人です。
そうした変化にも関わらず、ミャンマー人女性と在緬外国人とのカップルを見る機会は、比較的少ないです。私が行ったことがある、近隣の東南アジア諸国、タイやカンボジアでは、街を歩けば何組かは必ず現地女性と外国人のカップルを見たものです。だいたい、外国人の方は、白人のそこそこイケメンが多かったですが。

ミャンマーの富裕層の子女は、お金持ちの順に、一番目はイギリス・アメリカ、次にシンガポール・オーストラリア、三番目が日本へ留学する傾向があります。
一番目と二番目の層の子女は、インターナショナル・スクールに通っているので、高校卒業時点で英語ができるため、日本人に比べて英語圏への留学のハードルは低いです。逆に、日本語のような特殊な言語を習得する必要がある日本への留学は、一般的に富裕層の子女には人気がありません。
ちなみに、政府高官や政商(クロニー)のような、超富裕層の子女は、海外留学をあまりしません。実家があまりに経済的に豊かなので、わざわざ海外で苦労して勉強する気がないのと、海外に行くとミャンマー国内にいる時のように、周囲からチヤホヤされないからではないからでしょう。

そんなわけで、ミャンマーの富裕層の高学歴女子は、英語圏で高等教育を受けているケースが多いのにも関わらず、他の周辺国に比べて、イケメン外国人とミャンマー人高学歴女子のカップルを見る機会が格段に少ないのはなぜか?
今回は、その理由について考えてみました。

理由その一:ミャンマー人富裕層と在緬外国人のミスマッチ
ミャンマーはタイ、シンガポールの近隣諸国と比較して、先進国に本社があるグローバル企業の進出数が格段に少ないです。当然、そうした職場に勤務している外国人も少ないため、安定した収入源を持った在緬外国人の数も限られています。
ミャンマーで増えている外国人の多くは、NGO勤務やインターンだと思われます。両者の金銭感覚や、社会に対す問題意識に相当の乖離があるため、仮に知り合っても交際するまでに至りません。

理由その二:両者の生活圏・活動領域が違う
上にあげた、ミャンマーへのグローバル企業の進出数が少ないということは、富裕なミャンマー人の高学歴層にとって、自身のキャリアに納得の行く職場が少ないことを意味します。 また、こうした層に属する子女は、学校を卒業しても、就職せずに家業を継ぐか、親の支援で起業する傾向にあります。よって、職場で出会うという機会も限られます。
では、オフタイムはどうかと言うと、そもそも両者の食事や遊興に行く場所が基本的に違うので、出会いの場がない。ミャンマー人富裕層子女のよく行くクラブは、入場料が高い割に、インテリアも、選曲もイマイチだと聞きます。私は行かないので、実態は知りませんが。たぶん、先進国の若者が行っても楽しくないので、それほど通うことはないでしょう。だいたい、ミャンマー人富裕層子女は、近い階層同士の同国人で群れて行動する傾向があるので、在緬外国人との接点を持つ人の数は、非常に少ないと思われます。

理由その三:ばあやとか侍女みたいな役割のお供がいる
実は、これが書きたくて本稿を書いています。
富裕層の女の子には、ばあやとか侍女みたいな役割の女性が付いてるケースがあります。最初見た時は、これは例外だろうと思っていましたが、何組か見た今では、これは結構一般的な習俗のような気がしてきました。本当のところは、まだよくわかっていません。
こうした人たちに、富裕層の女の子が荷物持たせたり、着替えを手伝わさせたりするのを見ると、「君、どこの国の中世のお姫様?」と思わず突っ込みを入れたくなります。
華族制などの身分制度が無くなって、70年以上経つ日本のような国で育った者としては、かなり違和感を感じてしまいます。
しかし、こんな役割の人物が常時付いてると、いくら英語が堪能でも、外国人男性との恋愛とか無理だろうなと想像します。なんか、ちょっとでも親密になろうものなら、速攻で親にご注進が届きそうです。
それで、「ならん!ならん!!そんなどんな馬の骨ともわからんNGO勤務の外人なぞ。お前の婿は、ミャンマーxxxグループの御曹司と決まっておる」とか言われそうです。
そういや『ロメオとジュリエット』にも、ジュリエットに従者のばあやが付いていて、この人がエロキャラでした。
「まあ、ジュリエット様たら、こんな時間までお寝坊なさって。もっとも、ご結婚なさったら、旦那様が寝かせてはくれませんからね」みたいな、エロい台詞がたくさんあります。戯曲的に、二人の純愛を引き立たせる役回りなんですが。
だいたい、この手の中世の王子様、王女様の登場するラブストーリーでは、従者とか侍女を身内に引き込んで、反対しそうな親族に話が漏れないように工作するのが常道でした。はっきり覚えてませんが、子供の頃に読んだアーサー王とか、サー・ランスロットとかが登場する騎士物語にも、その種のプロットがあったような気がします。
というか21世紀にもなって、そんな中世的なソリューションが普通に適用できそうなミャンマーの社会システムは、かなり特殊だと思います。

そんなわけで、ミャンマーの富裕層女子と恋愛したい人に私ができるアドバイスは、まずは、お付きのばあやか侍女を味方につけろ、です。

そんなアドバイス、何の役にも立たんわ
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2018年3月11日日曜日

Myanmore主催のパーティに行ってみた

先日の木曜日に、ミャンマーでいちばん良く読まれているフリーペーパー『Myanmore magazine』主催のパーティに行ってきました。
『Myanmore magazine』は月刊で、新しい号が出るたびに、毎月場所を変えて出版パーティを開催しています。
今回は、ダウンタウンのパン・パシフィック・ホテルの屋上が会場でした。
英語で出版されているフリーペーパーなので、ゲストは欧米人が多いだろうと予想していましたが、意外に少なく、むしろミャンマー人の富裕層が主な客層でした。


いつもローカル食堂かビアステーションで飲み食いしている、私からすると随分豪勢な料理が供されていました。パン・パシフィック・ホテルの料理は、かなりレベルが高かったです。アルコールは、ミャンマー・プレミアム・ビールやワインが振る舞われていました。



ホテルの屋上には、フィットネス・ジムとインフィニティ・プールがあります。ここにいるとヤンゴンの地上の喧噪が遠い世界のように感じられます。



たぶん、日本人の参加者は自分たちだけだろうと予想して参加しましたが、他に数人の日本人の姿がありました。ミャンマーでも他国の多くの日本人同様に、海外に住んでいるのにも関わらず、日本人コミュニティに閉じ籠っている人が多いとよく聞きますが、こうした場に身を置いて、現地のマーケット勘を鍛えている人たちがいることを知って、何だかほっとしました。

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2018年3月9日金曜日

ヤンゴンでサブカル女子に会ってきた

ヤンゴンでデザイナーとして独立系のブランドを運営している女の子をFacebookで偶然見つけました。ミャンマー的には、かなりセンスを感じさせるヴィジュアルだったので、私もブランドやっているので、良かったら私のFacebook Pageに「いいね」してねと、こちらからメッセージを送りました。しばらくメッセンジャーでやりとりした後に、情報交換のため会わないかという流れになり、興味半分で会いに行ってきました。
彼女の運営しているのはRAMというブランドです。

会う前に、アップしてる写真を見て、随分サブカル入っているなぁと思っていました。
ちなみに、ミャンマーでサブカル入っている若者は非常に少ないです。何せ50年近く鎖国していた国で、6年前まで他国の文化へのアクセスが限定されていたため、サブカル拗らせる文化的な基盤がありません。たまに、その手のセンスがあるのは、ほぼ海外から帰国したミャンマー人です。
彼女もご多分に漏れず、シンガポールの美大を卒業しています。


サブカル入ったポートレート

看板がないので、相当に迷いつつ彼女の自宅兼事務所にたどり着きました。よく見ていませんが、アウディらしき4WDが車庫にあったので、かなりの富裕層に属するお家だと思います。
家族で住む自宅のワンフロアが事務所として使われていました。縫い子さん4名と事務員1名が従業員として雇われています。



実際に会ってみると、屈託のない良家のお嬢さんで、文化系特有の拗らせて屈折したところはありませんでした。ミャンマーの富裕層の子女のネットワークを通じて、自ブランドの商品を販売しているようです。事務所にあった在庫品の量から推測すると、結構な規模で取引しています。やっぱり、自分のマーケットを独自に持っていると強いですね。
売場や販路を作るのに苦労していると話したら、彼女のネットワークで私の商品も売ってくれるという協業にも繋がりました。

最近の彼女のFacebook Pageでの近影を見ると短髪なので、私が会った時はウィッグを被っていたのでしょう。彼女は、デザイナーと共に自ブランドのモデルも務めています。宣伝写真では、ミャンマーの富裕層の子女らしく、ゴージャス感をこれでもかと演出しています。 実物はきさくなお嬢さんでしたが、写真ではキメキメです。



 
見ていて、誰か思い出すなと思ってましたが、フェイ・ウォンでした。
短髪系アジアンビューティなので、連想したのでしょう。



フェイ・ウォンをご存じない方は、彼女の魅力が炸裂している映画『恋する惑星』をご覧ください。私は、20年以上前に福岡の親不孝通りのミニシアターで観ました。あの辺は、今や風俗街になっています。街の移り変わりも諸行無常ですね。


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2018年3月4日日曜日

ヤンゴンで今いちばん居心地の良いカフェ〜Bodhi Nava café

昨年、惜しまれながら閉店したサンチャウンのカフェThe Rough Cutの共同経営者だったイギリス人のBが、新たなカフェ&ホステルを開業しました。
店名はBodhi Navaです。菩提樹とバーリ語で9を意味する語の組み合わせです。両者とも仏陀の逸話の中で、平穏と幸福のシンボルであることから、この店名が採られました。

エントランスは、私がバンコクに行ったときに通っている、Blue Dye Cafeにも似た、大きな窓を特徴とする開放的な作りです。




一階がカフェとなっています。
店内は、天井が高く、白を基調としたインテリアと相まって開放感があります。




お客さんは、みんな思い思いにPC作業したり、読書したりしています。こういう一人でまったりと自分の時間を過ごせる場所がミャンマーには少ないので、貴重です。

二階はホステルになる予定です。現在、政府からの認可待ちです。今までのミャンマーの宿泊施設にはない、清潔感と洗練を両立させた施設になりそうです。

こちらは個室


相部屋のドミトリー




シャワールームとトイレは共同です

住所は、Bahan Street 2, Yangonです。
私はU Htaung Boロードから行こうとして、通りからBahan Street 2に繋がる横道を探せずに、30分あまり周囲を歩き回りました。 Bahanロードから直接Bahan Street 2に入った方が迷わないと思います。


それから最後に注意点を。
小ウサギが足元をウロウロしているので、踏みつけないように。


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