2021年8月31日火曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーヴァードライブ』1 2019年4月 福岡市大名(1)

3 二〇一九年四月 福岡市大名(1)

 福岡市の大名の雑居ビル内にあるバー「スモール・タウン・トーク」には、私以外の客はまだいなかった。バーテンダーの背後のスピーカーからダニー・ハサウェイの『L1VE』が流れている。午後七時の店内の空気はまだ酔客に掻き回される前で澄んでいた。  
 今夜、重野聡とここで待ち合わせをしていた。浄水通りの彼の祖父の邸宅で会ってから二週間あまりが過ぎていた。福岡南アジア美術館で学芸員との面談をセッティングしてくれた礼も直接会って言いたかったが、重野が多忙で、なかなか彼の時間が取れなかった。
 私がその間にしたことといえば、せいぜいタイとミャンマーの現代美術についてのレポートをまとめて、福岡南アジア美術館の学芸員、山本良恵へメールを送ったくらいだった。
 ギムレットを一杯飲み終わる頃に、重野がやって来た。私の隣のカウンター席に腰掛けて、ブラントンのオンザロックを頼んだ。いつの間にか、ターンテーブルの上の音盤がカーティス・メイフィールドのライヴ盤に変わっていた。今夜の選曲ははライヴ盤を中心に組み立てるらしい。 
「遅れて悪い。いろいろと立て込んでてね。大学は新学期が始まったばかりで、いろいろと行事がある。会社は、祖父さんが亡くなってから、新体制になったので、役員会が頻繁に開かれてる」
 仕事帰りの重野はヒューゴ・ボスのグレーのスーツで、茶色のコードバンのウィングチップを履いていた。私はデニムジャケットとチノパンツにスニーカーという普段着だった。
 「この前は、福岡南アジア美術館への口利きありがとう。おかげで学芸員に会えたよ」
「どうだった?」
「何とも言えないね。こちらは何の実績も肩書きもないわけだし」
「しかし、お前はなんで経済学部を卒業して、アートの仕事なんか始めたんだ?」重野が尋ねた。 
「いろいろと理由はあるけど、経済学的な観点からだと価格形成の面白さに惹かれたということになるかな。
 たとえば、アダム・スミスやカール・マルクスの唱えた労働価値説、つまり商品に投入された労働量によって価格が決まるという理論はあてはまらない。ピカソは九十一年の生涯でおよそ一万三五〇〇点という大量の絵画を描いているが、一枚当たりに要した時間は非常に短いと言われている。知ってのとおり、ピカソは美術市場で最も高い値段のつく画家の一人だ」
「キャリアの長さを考えれば、生涯を通じて投入された労働量は多いだろ」
「ところがそうとはいえないんだ。ピカソの評価は、キャリアの前半の方が圧倒的に高い。美術愛好家でもある経済学者デイヴィッド・ギャレソンが調査したところ、ピカソの二十代半ばに描いた絵は平均して一点につき、六十代に描いた絵の四倍の値がついている。つまりアートのマーケットでは労働価値説はあてはまらない」
「新古典派の限界効用説は適用できるだろう。供給量の限られた希少品だから、作品を一つ購入することによって得られる満足度が高い」
「必ずしもそうともいえないんだ。特に現代美術については。作り過ぎてもだめだが、寡作すぎるとマーケットで市場が形成されない。いまの傾向だと、マルティプルしやすい–––平たく言うとグッズ化しやすい–––アーティストの作品の価格が上がりやすかったりする。草間彌生も村上隆もルイ・ヴィトンとコラボレーションしているけど、そうした傾向とは無関係ではないだろうね」
「家の祖父さんはオリジナルのコレクターだったけどな。複製品の人気がオリジナルの評価に逆流してるってことか」
「そうとも言える。さっきの質問にもう一度答えると、古典派や新古典派経済学の枠に収まらない人間の欲望について関心があるからということになるかな」
「ずいぶんご大層な理由だな」重野が笑いながらまぜっ返した。「で、それで食えそうなのか?」
「正直まだわからない。競合が少ない東南アジアの現代美術に専門化するつもりだ。もうすぐリーサーチのため、タイとミャンマーに行く」

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2021年8月25日水曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーヴァードライブ』1 2019年4月 福岡市中洲(2)

2 二〇一九年四月 福岡市中洲(2)

 席に着いた彼女がウェイトレスにコーヒーを注文して、話し始めた。「すみません。突然上司に言われてここに来たので、事情がわかってないんです」
「こちらこそ貴重なお時間をいただいて、恐れ入ります。友人の親族のコネクションを通じて、東南アジアの現代美術を担当する学芸員さんを紹介していただくようお願いしました」
「それで本日はどういう御用件なんでしょうか?」
「銀座の画廊に勤めてましたが、一か月ほど前に退職しました。こちらで東南アジアの現代美術専門のギャラリストとして独立することを考えています。フリーのギャラリストとして何かお手伝いできることはないかと思い、お訪ねいたしました」
「ご存知かもしれませんが、まずは当館についてご説明させてください。当館は、南アジアの現代美術を収集、保存、展示する、世界唯一の美術館として一九九九年に開館しました。約三四〇〇点の作品を所蔵し、随時、展覧会などで展示しています。福岡市のアジアの美術関係者との交流は長い歴史があります。日本で最初のアジアの現代美術展『アジア美術展』が、福岡市美術館により開催されたのが一九七九年です。その頃から福岡市美術館によるアジアの現代美術の収集は始まっています。南アジアの現代美術の作品の多くは、西欧美術とは文脈が異なり、既存の美術館ではコレクションの展示がなじまなかったため、福岡市美術館から枝分かれする形で、当館『福岡南アジア美術館』が開館されました。開館を記念して、開館と同年の一九九九年に『第一回アジア美術トリエンナーレ』が開催され、その後、原則三年に一度、トリエンナーレはこれまで計五回開催されています。残念ながら諸事情で、二〇一四年を最後にトリエンナーレの開催は休止していますが、少なくとも、南アジアの現代美術に、世界で最も早く注目して、最初に取り上げたのは福岡の美術関係者であったことは確かです。早くから福岡市の学芸員が現地を訪れ、調査の上、アーティストを選抜、招聘し、展覧会を開催して、時には作品を購入したことで、南アジアのアーティストや学芸員には当館はよく知られた存在です」
 おそらくあちこちで何度も説明して慣れているのだろう。よどみなく流れるように一気に話し切った。 
「もちろん、公的な美術関係者には広く認知されているし、これまでの活動も高く評価されてるでしょうね。でも最近バンコクなどの東南アジアの大都市に増えている独立系のギャラリーの活動はご存知ですか?」
 彼女は、少し悪戯っぽく微笑んだ。「私どもが公務員だからといって、時流に疎いとは限りませんよ。美術の専門家としていつも現地の情報はフォローしています」
「失礼しました。ただ、東南アジアの新進のアーティストは、独立系のギャラリーが主な発表の場で、現地の公的な美術機関や美術関係者とは交流がないケースの方が多いです。私はそうした中からめぼしいアーティストやギャラリーを見つけて、関係を築いている最中です」
「もちろん存じています。そうした場所も海外出張した時の調査対象に入れています」
 彼女と話していると、東京のアートマーケットに属する人々と接していた時に感じていたのと同じ印象を受けた。社交的で、にこやかで、万事そつない。弾力性のある透明な繭のような膜に覆われていて、それより先に近づくとやんわりと押し戻される。
 地元出身者でないことは、言葉遣いや立ち振る舞いでわかる。美術館の学芸員は、オーケストラの楽団員と同様、極端な買い手市場だ。一定以上の規模の都市で、組織に欠員が出て、補充の求人を出すと、全国から応募者が殺到する。美大や音大からは、毎年確実に卒業生が送り出されるが、彼らが学んだことに関連する職種の求人は、同じ割合で増えていないからだ。彼女も相当な競争率を勝ち抜いて今の職を得ているはずだ。
「もしかしたら、私が知っている東南アジアのアーティストやギャラリー、現地の美術運動で、こちらの学芸員さん達がまだご存知ないものもあるかもしれません。よろしければ無償で現地の情報をご提供させていただけませんか?」もう少し粘ってみることにした。美術館の展示や購入を仲介する立場になれば、現地のアーティストやギャラリーから得られる信用や協力もずいぶん違ってくる。直接の収入にはならなくとも、やってみる価値はある。
「アジアの美術関係者の中では、当館のプレステージは、こちらで想像するよりずいぶんと高いです。東南アジアの現代美術家の中には、当館での展覧会の開催や、当館が中心となってキュレーションするアジア美術トリエンナーレへの参加を、自国外での認知を広める最初のステップと考えているアーティストも一定数います。そのため、先方から展示や購入のオファーも少なくありませんが、こちらで集客を望めるアーティストの作品でない限りお断りせざるを得ないのが現状です。もちろん無料で情報をご提供くださることはお断りしませんが」
「では後ほど、メールでレポートをお送りします。もしご興味のあるアーティストやギャラリーがあればお知らせください。来月、タイとミャンマーに行く予定です。ご紹介したアーティストの作品の展示や購入をご検討されるなら、私が彼らに美術館の意向をお伝えしますし、簡単な交渉なら代理としてお引き受けします」
「あまり期待されないでくださいね。ご存知の通り、当館は市営で予算も限られています。現代美術を扱う公立の美術館でも東京現代美術館なんかと比べれば、使える予算の桁が違います。正直言って、ここでは現代美術に関心のある人々の数は限られていますし、その中でも扱っているのが南アジアの現代美術ですから。東京やアジアの美術関係者には、世界で唯一の南アジアの現代美術に特化した美術館であることを評価されていますが、市民の皆さんの関心が高いとは言えません。西欧絵画、たとえば印象派やキュビズムのように、鑑賞のしかたが広く知られた分野でもないですし。どうしたら市民の皆さんに南アジアの現代美術をもっとご理解していただけるかについては、私たち学芸員もいまだ手探りです」
「いまのお仕事を始めてどれくらいなのですか?」
「二年になります。東京の美大を卒業して、しばらくフリーのキュレーターをやっていました。今の仕事が決まって、福岡に引っ越しました。まだ、こちらのことは知らないことばかりで」
「私も戻ってきたばかりですが、よろしければご案内しますよ。いちおう地元なので土地勘はあります」
 もう一度、彼女が微笑んだ。今度は、相手から何の感情も読み取ることができなかった。「ご親切にどうもありがとうございます。でも、職場の皆さんが気にかけてくださっているので、ご心配には及びません」
 彼女を覆う透明の膜が、再びやんわりと私を押し戻すのを感じた。

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2021年8月19日木曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーヴァードライブ』1 2019年4月 福岡市中洲(1)

 2 二〇一九年四月 福岡市中洲(1)

 重野に会った約一週間後、私は福岡市の中洲にある福岡南アジア美術館で人を待っていた。福岡南アジア美術館は、南アジアの現代美術に特化した世界で唯一の美術館だ。美術館は、福岡市の歓楽街、中洲の商業ビルの中にある。建物の上層フロアの二階(正確には高さを維持するため三階分のフロアを使用している)がこの美術館に割り当てられている。一〇〇〇平方メートルを少し超えるギャラリー二つと約四〇〇平メートルにシアターホール、図書室、カフェなどを備えた文化施設だ。
 
 私が福岡に移住した理由の一つに、東京よりも立地がアジアに近いことがあった。東南アジアのアーティストを専門にするギャラリストとして活動すれば、他の同業者との差別化ができるのではないかと考えたのだ。
 東京のアート・マーケットは、買い手も売り手も、ほぼ富裕層のネットワークに属していた。東京の中で連綿と資産や文化資本を受け継いできた人々だ。彼らの多くは、学費の嵩むリベラルな校風の私立高校の卒業生で、同じような服を着て、同じような話し方をし、(概ね誰とでも社交的であるものの)親しく付き合うのは同じ階層に属する人々とだった。直接の交流がない業界内の人物でも、仕事上の必要性が生じれば、知人や親族を通じて、比較的容易にコンタクトをとることができた。こうした地縁、血縁で結びついたネットワークの外にいる地方出身者で、名を知られた現代美術のアーティストとも特別なコネクションを持たない私が、東京で独立してアート・ビジネスを営むのは難しいと考えた。
 そこで、市場での評価がまだ完全に定まっていない東南アジアの現代美術に特化して、既存のアートディーラーとの差別化することを考えた。福岡は、アジアの現代美術を専門に扱う福岡南アジア美術館があるほか、アジアの二十数カ国の現代美術が一同に会する福岡アジア美術トリエンナーレを開催していた。アジアの現代美術がほぼ無視されていた時代から、市営美術館がアジアのアーティストの作品を購入していた歴史もある。

 今日この美術館へ来たのは、南アジアの美術を担当している学芸員にヒアリングするためだった。市の関連部署に電話をしても、メールを送っても思うような反応が得られなかったので(こちらに何の実績もないので当然ともいえるが)、重野の祖父の生前の美術関係者との伝手を頼って面談にこぎつけた。
 美術館併設のカフェでコーヒーを飲みながら待っていると、約束の午後一時半ぴったりに学芸員が現れた。
「お約束していた、小林天悟さんでいらっしゃいますか?」声の主は、三十代前半の女性だった。「はじめまして、山本良恵と申します」
「はじめまして、小林です」互いに名刺を差し出して、交換した。
 市営の美術館の職員だが、地方公務員にありがちな、個人の特性がまったく見えてこないタイプではなかった。むしろ正反対だ。sacaⅰのミリタリージャケットに同系色のカーキのタイトスカートを合わせている。髪はミディアムショートで、首筋のあたりで綺麗に切り揃えられていた。よく手入れされた爪には、ナチュラルカラーのマニキュアが塗られていた。ブラウンのミディアムカラーのアイシャドウに縁取られた二重の大きな目がくるくると動き、知的好奇心をもって外の世界を観察している。
 この日、私が着ていたのは、ジュンヤワタナベのグレンチェックのジャケットとチノパンツで、靴はグレーのニューバランスのスニーカーだった。スーツだと硬い印象を与えるのではと思い、それ以外で所有する数少ない比較的フォーマルな服をワードローブから選んでいた。この相手なら、今日の衣服の選択はそうは外していないはずだ。もちろん私のワードローブの極めて限られた選択肢の中での話だが。 

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2021年8月12日木曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーヴァードライブ』1 2019年4月 福岡市浄水通り(2)

1 2019年4月 福岡市浄水通り(2) 

 私が銀座の画廊を退職し、下北沢のアパートを引き払って福岡に移り住んだのは一ヶ月前だ。叔父が遺してくれたマンションにそのまま暮らすことにした。十階建マンションの五階にある2LDKのその部屋からは、すぐそばの大濠公園を見下ろせた。下北沢で借りていた1DKのアパートに比べればずいぶん広くて快適だ。大濠公園は、福岡市の中心部に立地する、美術館、能楽堂、日本庭園を内に備えた都市型の公園だ。二十二万六千平方メートルの大池を取り囲む約二キロメーターの周回歩道は、市民のジョギング・コースとして親しまれている。
 毎朝、起きると大濠公園でジョギングした後、部屋に戻ってコーヒーを淹れて飲んだ。ネットでニュースを読んで、協業の可能性のあるアートビジネス関係者に連絡を取った。夜は本棚から本とLPを取り出して、読書をしながら音楽を聴いた。テレヴィジョンの『マーキー・ムーン』やパティ・スミスの『ホーシズ』やルー・リードの『トランスフォーマー』を聴きながら、ロベルト・ポラーニョの『2666』やジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリの『千のプラトー』を読み、酒を飲んだ。おそらく叔父もこうして夜を過ごしていたのだろう。酒好きだった叔父は、小さなバーが開店できるくらいのボトルを残していてくれたので、幸い飲む酒に困ることはなかった。これも私のために残していてくれたのかもしれない。叔父の心遣いに感謝した。ボトルのコレクションは、スコッチ、バーボン、焼酎が中心で、日本酒やワインは少なかった。叔父の生前の私生活を連想させるような遺品は、部屋から注意深く取り除かれていた。

 重野にコンタクトを取ったのもこの頃だ。地場財界の重鎮であった彼の祖父の死は、この地で大きく報道された。
 一般に、価値のある美術作品がまとまって市場に出る機会は「3D」––- 死(Death)、離婚(Divorce)、負債(debt)–––と言われている。やはり私も、コレクターとして知られる彼の祖父の遺品が市場に出る可能性を考えた。
 
「家の遺族は、美術品を一括で買い取ってくれる業者を探している」と重野が言った。
「それは俺には手に余る仕事だな。二、三点なら買ってくれるコレクターを仲介できると思う。俺も自分のビジネス用の在庫として欲しいものがある。もちろんキャッシュの持ち合わせはないから、叔父から引き取ったマンションを売った金で買える作品になるけど」  
「遺産の処分の方針については、いま親族と税理士が話し合っている。それ次第だな。お前でも関われそうなら、また連絡するよ」 
「恩に着るよ」

 ジョージ・ネルソンがデザインしたテーブルの上に、PCに繋がれたVRゴーグルがあった。ゴーグルは横二十センチ、縦と奥行きが十センチ程度の大きさだった。
「これは何だ?」と私は尋ねた。
「機能的磁気共鳴断層撮影でスキャンした祖父さんの脳の活動を、プログラマーが作ったアルゴリズムで変換して映像化したものが見れる」
「何だってそんなことをしたんだ?」
「祖父さんは、三十年以上臨済宗の禅をやっていた。熟練の瞑想者の脳の活動は、普通の人間それとはけっこう違うらしい。祖父さんは現代美術のコレクターだったが、自分で作品を作ることはなかった。これを作ったのは亡くなる半年くらい前だ。これをインスタレーションと呼べるなら、祖父さんが作った生前唯一の作品と言えるかもしれない。自分でも何か作品を残したかったかもな」
「見てみてもいいかい?」
「ああ、ちょっと刺激的かもしれないが、お前なら大丈夫だろう」
 私はVRゴーグルを手に取って、自分の顔に取り付けた。
「じゃあ、PCをオンにして、これから流すぞ」後ろから重野の声がした。
 しばらくして、眼前に映像が浮き上がってきた。無数の発光する不定形なアメーバ状の物体が視界全体に迫ってくる。それぞれの物体はひも状に突起を伸ばしながら、相互に複数の物体と繋がっている。個々の物体から複数の突起が現れ、細長くそれを伸ばしながら、軟体動物の触手が何かを掴むように次々と他の物体に繋がっていく。まるで脳の神経細胞から軸索が伸びて、シナプスが他の神経細胞の樹状突起の受容体へシグナルを送っているのを見ているようだ。
 個々の物体は新しく現れては消え、それにつれて互いの接続点が変わることで、ネットワーク全体も不断に流動している。
 こうした現象を概念化したモデルがいくつかあったのを思い出した。
 ひとつは、空海の唱えた重々帝網だ。仏法の守護神である帝釈天の宮殿を飾る光り輝く網を例に取って説明された世界像だ。網の結び目ひとつひとつは、鏡球(宝珠)で、互いに鏡像を映し合っている。それぞれの鏡球に、全方位の他の鏡球が映り込むことで、鏡球のひとつひとつがネットワーク全体を包摂している。鏡球が互いに鏡映し合い、個であると同時に相互に連結したネットワークの全体である世界像。個々が相互に結びつき、映し合うことで、関係性が生じ、あらゆる事象が起きていく。空海は、世界を律する縁起の法則を、このモデルによって説明した。
 あるいは、ドゥルーズ=ガタリが提唱したリゾームの概念。ドゥルーズ=ガタリは、超越的な一者から他のものが派生していく固定的、不活的なツリー型の思考形式に対峙する、流動的で生命力を孕んだモデルとしてリゾームの概念を提唱した。多方に線が飛び交い、異質な結節点が互いに影響を与え合いながら、ネットワーク全体が生成変化して形成される、脱中心的で、始まりも終わりもない、個と全体の境界が不可分なエネルギーの力場だ。
 そして、現代美術の分野でも眼前の映像と同様の世界観を感じさせる作品があったのを思い出した。
 草間彌生の一九六〇年制作の作品『Infinity Nets Yellow(無限の網 黄)』だ。草間のスタジオを訪ねたフランク・ステラが個人的に買い取り、美術界で草間の再評価の機運が高まる中、二〇〇二年にワシントンのナショナルギャラリーにより百万ドルで購入された作品だ。個々のドットが相互に複雑に絡み合いネットワークを構成し、個と全体の境界が消失し、図と地が等しく存在する図像は、まるで空海やドゥルーズ=ガタリがモデル化した世界像をカンヴァス上に具現化したようだ。
 
 そして私の遍歴はここから始まった。行き先は、ダンテがくぐった地獄の門でも、ロバート・プラントが歌った天国への階段でもなく、ブッダの説いた涅槃の入り口だった。

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2021年8月7日土曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーヴァードライブ』1 2019年4月 福岡市浄水通り(1)

1 2019年4月 福岡市浄水通り(1) 

 私はタクシーに乗って、福岡市浄水通りの邸宅に向かっていた。浄水通りは、福岡市の緑に囲まれた閑静な高級住宅地で、大邸宅、高級分譲マンションが建ち並ぶ丘と、富裕層向けのレストラン、カフェ、ブティックなどが軒を連ねる麓を結ぶ約八〇〇メートルの並木道だ。一九八〇年代にジョルジオ・アルマーニが日本に本格的に参入する前に、テストマーケティングのため日本で最初のブティックを作ったのがこのエリアだと聞いたことがあるが真偽のほどは定かではない。
 目指す邸宅は丘の中腹にあった。タクシーから降りて、背の高い鉄扉の脇にある、風雨に晒されて年季の入ったインターフォンを押して、訪問を告げた。
「お約束していた小林天悟です」
インターフォンを通して返事があった。「ああ、いま行く」重野聡の声だった。
 内側から関が開けられ、鉄扉が開いた。「久しぶり。古い家だから電気解錠じゃないんだ」
 二年振りに会う重野は、ヒューゴ・ボスと思しきネイヴィーのピンストライプのスーツを着ていた。学生時代にラグビー部に所属していた胸板の厚い重野によく似合っていた。
 門から建物まで繋がる芝生に埋められた石畳を並んで歩いた。
「祖父さんが亡くなってから、誰も住んでない。生きていた頃は、祖母ちゃんと通いのヘルパーが二人いたが、今は家の両親が祖母ちゃんを引き取って、一緒に暮らしている」と重野が言った。
 
 邸宅のオーナーは、一か月程前に九十歳代で物故していた。彼は、地方銀行の頭取で、地場デベロッパーの創業者でもあった人物だ。現代美術のコレクターとしても知られていて、その嗜好は彼の経営するデベロッパー事業の開発物件にも反映されていた。一九九〇年代初頭には、先鋭的な現代建築家六人によるデザイナー・マンション群を福岡市郊外に建設したこともある。各棟に、レム・コールハース棟、スティーブン・ホール棟といった設計者の名前を冠したこの集合住宅群は、冒険的なプロジェクトとして、竣工当時、国内外の建築関係者の話題をさらった。
 二十メートルほど続く石畳の先にある建物は、ガラス張りの大きな窓が連なるル・コルビュジエ風のモダニズム建築だった。科学の進歩が人類の発展に貢献するとナイーヴに信じられた、地球温暖化の心配なんか誰もしなかった時代の建築様式だ。
 一階はギャラリーを兼ねたリビング・ルームとキッチンで、二階がベッドルームのようだ。一階は、二階へと繋がる螺旋階段以外はほぼ遮蔽物のない、広さ三〇〇平米メートル程度の段差のない平坦な空間だった。そこにオーナーの収集したコレクションが所々に展示されている。
 ジャクソン・ポロックの紙作品、ジャスパー・ジョーンズのマップ・シリーズ、プライス・マーデンのドローイング、ジョゼフ・コーネルの木箱を使った立体コラージュ、フランク・ステラの金属製オブジェ。一九五〇年年代から七〇年代にかけて制作された、抽象表現主義、ミニマリズムなどのアメリカ現代美術を中心に構成されたコレクションだった。日本が不動産景気に沸いた、一九八〇年代中頃から一九九〇年代前半にかけて蒐集されたようだ。その頃はデベロッパー事業が好調で、蒐集のための資金も豊富だったのだろう。アートが今ほど投資対象として一般的でなく、まだ1Tで成功した起業家が美術市場に参入する前の時代だったので、今よりずいぶん手頃な価格で購入できたはずだ。
 窓から見える庭は和洋折衷で、枯山水の様式に則っているが、小石や砂が敷き詰められるべき部分は芝生となっていた。ヘンリー・ムーアの彫刻作品が庭の中央にあった。
 オーナーのお気に入りだったと思しき作品の前には、ミース・ファン・デル・ローエがデザインしたバルセロナ・チェアが置かれている。ジャクソン・ポロックやプライス・マーデンなどがお気に入りだったらしい。
「相続税対策のため、この家も美術品も売り出す予定だ」重野が言った。

 重野が私をここに呼んでくれたのは、つい最近私がギャラリストとして独立したからだった。私が通っていた地元の国立大学の学生時代の友人だった重野は、好意で他の画商やオークションハウスに公開するより先にコレクションを見せてくれたのだ。重野は同じ大学の大学院へ進んだ後、経済学部の助教になっていた。彼の祖父が創業した地場デベロッパーの社外取締役も務めていた。
 私は大学を卒業してから、三年間電気通信会社に勤め、銀座の画廊に転職し五年働いた後、その職を辞したところだった。銀座の画廊では、比較的高齢の富裕層の人たちに、日本の作家の印象派風の絵画や美人画を販売していたが、やはり同時代的なアートの世界との接点が欲しくなり、独立することにした。

 私は両親が地方公務員という、ある意味典型的な地方の中流家庭に育った。公務員や教員といった浮き沈みのない堅実な職業を選択することが常識的な人生設計と考えている、いささか保守的な人生観と生活感覚を持ち合わせた親族や両親に囲まれた環境で育ちながら、決して安定的とは言えないアートの世界に職を求めることになったのは、母方の叔父の影響が大きかったのかもしれない。
 叔父は、大学を卒業してから、(彼の親族が考えるような)定職に就かず、組織に属することもなく、フリーのプログラマーと個人投資家として生計を立てていた。時間の自由がきくため、気が向くと一人でよく旅に出ていた。行き先は、美術館巡りのためヨーロッパだったり、ビーチでくつろぐために東南アジアの離島だったりと、その時々の興味や関心によって方々で、これといった一貫性や傾向はなかった。こうしたボヘミアン的な気質の叔父は、堅実さと安定性を良しとする保守的な価値観を信じて疑わない我が親族からは少なからず疎まれていた。私はこの二十歳近く年上の叔父が気に入っていて、小中学生の頃、福岡市の大濠公園近くの叔父のマンションへよく遊びに行った。それについて、母親があまりいい顔をしなかった。「小さな頃から協調性がなくて、一人で自分の好きなことばかりしていた、身勝手な人」というのが、母親の自らの弟に対する人物評だった。「あなたもあの人に似たところがあるので心配」という息子の私に対する懸念も、それほど間違っていなかったのかもしれない。
 一人暮らしの叔父は、自分の趣味に合わせてリノベーションしたマンションの一室で多くの時間を過ごしていた。プログラミングも金融取引も自宅のコンピューターを使って完結する作業なので、仕事のために外に出る必要がないのだ。叔父は、国内の株式市場の後場が閉じる午後三時以降は仕事をしないことにしていたので、小中学生時代は、週に二、三日は、放課後に叔父のマンションに寄った。天井近くまで達した壁全面を占める特注の本棚には、アナログ・ディスクと本が隙間なく埋められていた。二人でソファに並んで腰掛けて、叔父はビールを私はジュースを飲みながら、叔父が本棚から取り出してレコードプレーヤーに載せたLPを一緒に聴いた。レコードのコレクションは、ジャズ、ロック、リズム・アンド・ブルースが中心で、JBLの大型スピーカーから流れるのは、ドアーズの『ストレンジ・デイズ』だったり、スライ・アンド・ファミリー・ストーンの『暴動』だったり、マイルズ・デイヴィスの『ビッチェズ・ブリュー』だったり、ジョニ・ミチェルの『コート・アンド・スパーク』だったりだった。
 私が高校、大学へと進級すると、同年代の友人付き合いが忙しくなり、ひと頃よりは疎遠になっていった。社会に出てからは年に一、二回、東京から帰省した時に外で会って酒を飲む仲だった。最後に会ったのは、一年ほど前で、福岡市の大名にあるバーだった。勤め先から独立してギャラリストになることを考えていることを伝えると、「いいんじゃない。俺とかお前は、好きなことしか真剣になれないタイプなんだから」というのが叔父の意見だった。
 叔父が五十代の前半の年齢で、胃がんにより突然この世を去ったのは三ヶ月ほど前だった。身内の誰も彼ががんに罹っていたことを知らされていなかった。そして、叔父は生涯未婚だった。それほど多くない叔父の友人たちが葬式を取り仕切った。プログラミング言語の研究サークルの仲間やラテンアメリカ文学愛好会のメンバーが叔父の友人たちだった。何人かの身内が形式的に葬式に参列した。突然の死による葬式だったため、東京にいた私は参列できなかった。株式、債券などの金融資産は生前に現金化されて、死後は信託により、葬式の費用や手伝ってくれた友人たちへの心付けを差し引いた金額が途上国支援のNGOに寄付された。特別な贅沢をしなければ、人ひとりが十年くらいは余裕を持って暮らせる金額だ。法定相続人である母親はいくぶん不満そうだったが、信託は弁護士により滞りなく執行され、誰も口を挟む余地はなかった。遺言により、私は親族で唯一の相続人として、叔父が居住していた大濠公園のマンションの一室とそこに収められていた蔵書とレコードコレクションを受け継いだ。これについては、誰もさしたる不満はないようだった。みんなそれぞれ持ち家に住んでいたし、蔵書もレコード・コレクションも彼らにとっては処分が面倒なガラクタに過ぎないからだ。

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