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2022年1月24日月曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーバードライブ』15 (2)

 15(2)

  私たちの関心は、しだいに社会状況を反映して、私たちを取り巻く不条理な世界を表現することへと向かいます。描かれる作品も具象絵画から抽象的、表現主義的なものへと変わりました。
 そうして、私たちは「レベル88(Level88)」と名付けた美術グループを結成します。レベルの綴りは、反抗を意味するRebelではなく、水平や同等を表すLevelです。八月八日に集まった人々の願いや思いが、あたりまえの日常になることへの願いを込めて名付けました。
 私たちはグループ展の開催を企画します。
私たちの制作した作品を展示することは、当時のミャンマーでは困難でした。展覧会を開催するには、事前に情報省の検閲部の許可が必要でした。展示作品の点数、それぞれの作品のサイズ、作品の内容などを申請しますが、抽象画などの展示の許可はなかなか下りません。当局が美術と認めるのは、農村や寺院を描いた伝統的な具象絵画で、そこから外れた作品は反社会的、反体制的な意図を持つとみなされました。仮に展示ができても、検閲官がやってきて、作品に展示不可のスタンプを押すこともありました。検閲官は、作家の意図に関わらず、黒は闇、国軍のシンボルカラーである緑は軍、赤は革命を象徴していると勝手に解釈して規制しました。
 ヒトラーは、ダダイズムやキュビズムなどの新しい美術を退廃美術と呼んで弾圧しました。スターリンも前衛美術を禁止し、写実的な作品以外の制作を許しませんでした。独裁者のすることはみな同じです。
 でも、暴力でデモのような直接的な運動は封じ込めても、想像力や精神の自由まで奪うことはできません。作品を創造することは、社会の要求する常識や規範から自己を解放し、己の生を肯定することを意味します。強圧的な権力が自由な表現を恐れるのは、想像力が最も純粋な形の不服従だからでしょう。私たちには特定の政治的な意図やイデオロギーは存在しませんでした。ただ、想像力のおもむくまま自由に表現できる場を求めていただけです。軍事政権が押し付ける無意味な決まり事や規則に従わずに済む、ささやかでも自由な空間を作りたかったのです。
 そうして、私たちはゲリラ的にグループ展の開催を始めます。展示会場は、川沿いの倉庫、あるいは空き家や廃墟となったビルなどです。場所は毎回変えました。秘密警察の目を逃れるためです。グループのメンバーの親類や知人の物件で開催する時はオーナーの許可を取りましたが、打ち捨てられた廃屋や廃墟となったビルなどを会場にした時は無許可で展示することもありました。長年にわたって経済が停滞していたこの国には、当時の首都ヤンゴンにも誰も管理していない空き家や廃ビルがたくさんありました。明け方に会場に作品を運び込んで展示し、午後三時に撤収というスケジュールです。照明がないので夜間の展示はできません。車を持っていたメンバーは車に作品を積んで会場にやってきましたし、私のように車のないメンバーの作品は、小型のトラックを持っていたアウン・ミンがまとめて運んでくれました。
 来場者は私たちレベル88のメンバー十人のみです。秘密警察に知られれば逮捕されて、投獄される危険もありましたから、関係者を最小限にする必要がありました。この秘密のグループ展は、在学中は半年に一度の頻度で開催していました。秘密の会場で、互いの作品を鑑賞し、批評し合うのはエキサイティングな体験でした。あの頃、自分を表現する場は他にありませんでしたから。
 制作を重ねるうちに各人のスタイルも確立されていきました。アウン・ミンは寓意を含んだ表現主義的な作風、ボー・ナインは抽象表現主義に影響を受けた抽象画、テット・テットは国軍のプロパガンダ看板を素材にしたポップアート作品といった風に。私はイヴ・クラインやルーチョ・フォンタナといった知的なアプローチで美術の枠組みを拡張するアーティストに惹かれました。彼らの表現には、私が専攻していた数学の論理的な美しさに通じるものを感じました。
 その頃、現代美術について入手できる情報は非常に限られていました。当時のミャンマーは、ほぼ国交を閉じていましたし、もちろんインターネットもありません。船員が海外から持ち込む本や雑誌、あるいはフランス文化を紹介する施設Institut français de Birmanieの図書室にある美術関係の本だけが情報源でした。私たちは、数少ない情報を互いに共有しながら、手探りで新しい表現を模索していきました。
 私たちが大学を卒業してからは、互いの時間を合わせることが難しくなったため、年に一回の開催と決めました。私は卒業後の進路として、数学を学んだことが活かせる、計画・財務省や中央統計局などの政府機関への就職を考えていましたが、国軍の弾圧を目の当たりした後は、政府のために仕えるという気持ちにはなれませんでした。Institut français de Birmanieで現代美術のことを調べるのと同時に、この施設の提供するフランス語のクラスに通いました。フランス語ができれば、図書室にある美術書の解説も読めるようになると考えたからです。受講後も独学を続けるうちにかなり上達したので、フランス語を教えることで生計を立てることにしました。今は自分で教室を開いていて、頼まれれば家庭教師もしています。
 私たちは卒業してからも、必ず年に一度グループ展を開催することを誓い合いました。
みんな美術以外で生計を立てながら創作を続けました。そして、グループ展で集まった時に、一年間の創作の成果を発表します。作品が展示されたのは、麻袋が山高く積まれた倉庫の片隅や、廃ビルの奥まった部屋の中や、打ち捨てられた家具が散乱する廃屋などでした。
そうした場所で、互いにメンバーの作品を鑑賞し、批評します。そこは、想像力を解放し、自らの思いをためらいなく口にできる唯一の場所でした。私たちには、民衆が政府に従順であるように、あらゆる規則や規範が張り巡らされた社会からの避難所が必要でした。私たちはのグループ展は、想像の王国への亡命だったとも言えるかもしれません。私たちは、その王国に仕える宮廷芸術家でした。作品が飾られた廃墟は、私たちの作品を奉納する、名も知れぬ神を祀る神殿でした。
 早朝から午後過ぎまでのグループ展が終わると、私たちは元いた世界に戻って行きます。
帰りの車の中で、「地下と地上の破壊分子に注意せよ」という国軍のプロパガンダ看板を見て、アウン・ミンが「俺たちも破壊分子になるのかな?」と言って、笑っていたのを覚えています。
 グループ展が終わってからも、折に触れてメンバー間で連絡を取り合い、創作の進捗を伝え合いました。もちろん当時は携帯電話もSNSもありませんから、電話での伝言ゲームのような連絡方法でした。私たちの他にも、ミャンマーにいくつか現代美術グループは存在しましたが、交流はありませんでした。どこかで情報が漏れて秘密警察に伝わることを私たちは恐れてましたから。実際、他の現代美術グループのメンバーが、見せしめ的に投獄されることもありました。
 普段は政府が押し付ける現実の社会で暮らし、年に一度、私たちが本来住むべき想像の王国へ戻る、そんなことが二十年以上続きました。いえ、むしろ私たちにとっては、政府の提供する社会が虚構で、私たちの作り上げた想像の王国こそが現実でした。その場所でのみ、私たちは、自らを解放し、自由に語らい、議論し、共感し合えたからです。
 結局、軍事政権は二十三年間も続きました。政府の規制や検閲は、時期によって厳しくなったり、緩くなったりしましたが、いずれにせよ表現の自由はありませんでした。検閲官の気分や独断で、作品や活動が反政府的・反社会的なものとみなされました。反政府的だと判断されたアーティストや軍事政権を風刺したコメディアンが投獄されて、三年近く獄中で過ごすことも珍しくありませんでした。運が悪ければ拷問を受けました。拷問の方法は、鉄棒で殴る、電気ショック、熱湯をかけるなど様々でした。彼らの想像力は人間が多様な存在であることを認めるよりも、人々を弾圧する方法を考え出すことにもっぱら発揮されたようです。過酷な獄中生活で、精神や肉体を病んでしまった人もたくさんいます。
 幸い二〇一五年の総選挙で、アウンサンスーチーさん率いるNLD(国民民主連盟)が大勝し、今のミャンマーは民主政権によって運営されています。一九九〇年の総選挙でもNLDが勝ちましたが、軍事政権は選挙結果を認めず、同じ政権がその後もずっと続きました。その時代と比べると大きな進歩です。
 今では、アウン・ミンは自分のギャラリーを運営して、後進の育成に努めています。ボー・ナインはアムステルダムに渡って創作活動を続けています。私が大学を卒業した後、しばらくして父が亡くなり、母と弟を養う必要があったため、海外に行く夢は叶いませんでした。フランスで美術館を回って、美術書でしか見たことがない作品を思う存分鑑賞するのが私の夢でした。それでも、こうして創作活動を続けれられているのは幸せです。仲間の多くは日々の生活に追われるあまり、美術への熱意を失い創作を断ちました。十人で始まったレベル88のメンバーの中で、今でも創作を続けているのは、アウン・ミン、ボー・ナイン、私の三人だけです。
 ここは私たちの記憶の集積庫です。若かった私たちの希望や理想、そして失望や挫折が、それぞれ作品の形を取って積み重なってます。
 私は時折この部屋を訪れて、メンバーの作品を見直します。すると、その作品が過去のグループ展に出品されたときの誰かの批評や巻き起こった議論の記憶が蘇ります。時には辛辣だったりすることもあったけど、そこには創作への情熱を共有しているという親密な空気が常に漂っていました。
 「これは単なるノスタルジーなのだろうかか?」私は自分にそう問いかけたことがあります。答えは「いいえ」です。
 ここには輝かしい勝利も、目覚ましい成功も、万人が認める賞賛もありません。でも、私にとってここに眠る作品は、創作の起源、表現の始原が刻まれた碑のようなものです。
 私たちの作品は、現代美術の潮流という観点から見れば、時代遅れで不恰好なのかもしれません。現代美術の世界が情報戦なのは私も知っています。美術史や美術業界のコンテキストを理解した上で、斬新なコンセプトを打ち出せなければ評価の対象になりません。入手できる情報が乏しく業界のルールも知らない私たちは、そうした知的ゲームに参加することさえできませんでした。
 でも、ここが私たちにとっての原点である以上、やはりここから出発する他ありません。それが流された血、失われた命、未来を奪われた者たちへの私たち–––少なくとも私に課せられた責務なのです。

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2022年1月13日木曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーバードライブ』14

14

 ゲストハウスの近くでタクシーを拾って、プーから教えられた住所へ向かった。二十分ほど走って着いた場所は、ヤンゴン郊外の住宅街で、通りの両側に四、五階建の古びたアパートが並ぶ連なりが、一〇〇メーターほど先の大通りが横切るまで続いていた。それぞれのアパートの下には日本の中古車が隙間なく路上駐車されている。人通りは少ない。商業施設らしきものもないので、ベッドタウン的な地域なのかもしれない。 
 すべての建物が同様に古び、コンクリートの外壁は煤けて黒ずんでいる。個別の特徴らしきものがないため、建物の区別がつかない。路上に捨てられたゴミや果物を売る露店などの人の暮らしを感じさせるものがなければ、ゴーストタウン化した廃墟だと言われても信じるだろう。
 メモに書かれた建物の番号と、建物入り口の上部に取り付けられた金属プレートに記された番号を照合して、中に入った。狭い玄関口を抜けて、粗いコンクリートで作られた急な階段を登る。階段は埃っぽく、ペットボトルやタバコの吸い殻が散乱していた。フロア毎に向かい合わせに二つのドアがある。最上階の五階まで登って、部屋番号を確かめて、右側のドアの横に付いた呼び鈴を押した。

 内側からドアを開かれた。迎えてくれたのは銀縁の眼鏡をかけた中年女性だった。五十代の中頃だろうか。地味な茶系のロンジーの上にシンプルな白いブラウスを着ていた。何かの研究者のような学究的な佇まいの人物だった。
「ようこそ、Khin Suです」と彼女は言った。挨拶を済ませると中に通された。
 コンクリートの床が剥き出しとなった装飾のない部屋だった。壁はミントグリーンに塗られていた。ミャンマーの賃貸物件では一般的な壁の色だ。多数のカンヴァスに描かれた作品が壁に掛けられたり、無造作に重ねて壁に立て掛けられている。人が住んでいる気配はない。
「ここは私たちの作品の倉庫として使ってます」と彼女は言った。「私たちの活動についてプーから聞いてますか?」
私は首を振った。「いえ、長く活動されているということ以外は知りません」
「説明すると長くなりますが、お時間は大丈夫?」と気遣うように彼女は尋ねた。
 私は頷いた。「特にこれから予定はありません」
「じゃあ座ってお話ししましょう」そう言って彼女は部屋の隅にあった青いプラスチック製の椅子を二脚部屋の中央に置いた。我々が向かい合わせに座ると彼女は話し始めた。

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2022年1月10日月曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーバードライブ』13

13

 午前中に〈Bodhi Taru〉のカフェで、MacBookを開いて福岡南アジア美術館の学芸員、川奈梨沙へSoe MayとChu Chu Khineの作品の写真にキャプションを付けてメールを送信した。
 昼前になって今年最初のスコールが降った。大粒の雨が灼けたコンクリートの舗道を激しく叩きつけた。荷車にココナッツを山積みした行商人や自転車の横に車輪の付いた座席を取り付けた人力車の車夫がずぶ濡れになりながら、庇や屋根を求めて通りから走り去った。来月六月になれば本格的な雨季に入る。それからは、ほとんど晴れ間の見えない空の下、断続的な豪雨で腰の高さまで路面が泥水で冠水する日々が雨季の明ける十月末まで続く。
 ビル・ブラックがテーブルに近づいてきた。「紹介するよ。共同経営者のプーだ」。そう言って、隣の小柄なミャンマー人女性へ手をかざした。
「あなたはアートの仕事をしてると聞いたわ。私も〈グリーン・エレファント・ギャラリー〉というこちらの作家を扱うギャラリーを経営してる。海外とも取引してて、昨夜シンガポールから戻ってきたばかりよ」。短髪の女性はそう語った。無地の黒のTシャツとグレーのショートパンツを履いている。年齢はおそらく三十代後半で、化粧気はなかった。
「東南アジアの現代美術をリサーチしてます。いい作家や作品があれば日本の美術館やコレクターに紹介するつもりです」
「有望な作家は見つかった?」と彼女は訊いた。
「Soe MayとChu Chu Khineという二人の作家は日本でも評価されそうです」と私は答えた。
「あの二人は最近注目されてる作家ね。他のギャラリーの専属だけど」。彼女は、そう言って肩をすくめた。「うちで扱ってるのは主にミャンマーで長く活動している現代美術家なんだけど、関心があるなら紹介するわ」
「ええ、ミャンマーの現代美術の歴史に詳しいとは言えないので、興味があります」
「じゃあ、ちょっと待って」。そう言うと彼女は別のテーブルの上に置いたスマートフォンを手に取って電話をかけた。通話先とミャンマー語で話しながら、私の方を向いて尋ねた。「明後日の午後三時は空いてる?」
「大丈夫です」と返事した。ここに泊まっている間は、街のギャラリーを見て回るつもりだったが、行き当たりばったりに回るより紹介者のいた方が効率が良いだろう。
 彼女は電話を切ると傍のナプキンにボールペンで文字を書き込んだ。「明後日の午後三時にここへ行って」ナプキンにはミャンマー文字の住所とKhin Suという名前が書かれていた。

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2021年12月14日火曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーバードライブ』9

9 

 チェックアウト時間の十一時前に部屋を出て、レセプションにキーを返した。コンドを出ると、スーツケースを引いてコンドと同じブロックの裏手にあるカフェ〈ブルーダイ・カフェ〉に入った。ミャンマー行きの飛行機は夜の便なので、それまで時間を潰すつもりだった。
 トンローの住宅街の一画にあるそのカフェは、近隣の若いタイ人が主な客層だった。MacBookでグラフィック・デザインをしたり、動画を編集している独立系のクリエイターらしき若者も数人いた。梁の横木が剥き出しになった天井と寄木張りのフローリングのウディなインテリアの店で、四分の一程度が物販スペースになっていた。アメリカのヴィンテージ・ウェアの古着を吊るしたラックと地元の作家による陶器が並べられた棚が置かれている。木枠のガラス窓から前庭に植えられたパームツリーとシダ植物が見える。とりあえずパスタとカプチーノを頼んだ。昨日ビールを飲んだ〈ロイヤルオーク〉の隣にあった日系の古本屋で買ったフィリップ・K・ディックの小説を読んだ。
 カフェには二時間ほど滞在した。スーツケースを引いてスクンビット通りに出て、歩道脇のエレベーターで高架を登り、トンロー駅の改札に達するまで十分くらいだった。トンロー駅からBTSに三十分ほど乗車してモーチット駅に着くと、高架を降りてバス停へと向かった。ドンムアン空港行きのエアポートバスのバス停にはすでに十人くらいのバックパッカーが列をなしていた。行列の最後尾に並んでバスを待った。午後の日射しが容赦なく肌を刺した。たえず行き交うバスやタクシーが吐き出す排ガスが周囲に沈殿していた。熱気と息苦しさで意識が朦朧としてくると、いったい自分がどこに居て、どこに向かおうとしているのかも分からなくなってくる。空港行きのA1バスが来るまで二十分ほど待った。頭がぼうっとしたままバスに乗り込んだ。スーツケースを荷物置き場に置いて、なんとか空いていた座席に座る。タイ人二割、外国人が八割くらいの割合でバスは満席だ。女性の車掌が乗客一人ひとりを回って、個別に三〇バーツを徴収して、バス券を渡していく。高速道路を三十分ほど走った後、バスは空港への連結路に沿って旋回しながら国際線ターミナル前に到着した。
 ドンムアン空港国際線ターミナル1は搭乗手続きを待つ旅行客でごった返していた。L C Cの旅客数が世界最多であるこの空港は、ASEAN各国と中国各地との定期便が発着の大部分を占めている。スーツケースを持った旅行客の行列が、チェックイン・カウンター・エリアの外側に設けられた柵を幾重も取り巻いている。通路が人とスーツケースや手荷物カートで塞がれているため、空港内を歩くのもままならない。私の搭乗便の出発時刻は午後七時半で、空港に着いたのが 午後三時半頃なので時間の余裕はあるはずだが、この様子だと搭乗手続きのためチェックイン・カウンターにたどり着くのにどれだけ時間が掛かるのかも分からない。とりあえずチェックイン・カウンター・エリア入口の反対側まで達した列の最後尾に並んだ。私の搭乗便の受付はまだ始まってなかったが、列で待っているうちにその時間になるだろう。
 二時間あまり並んで、チェックイン・カウンター・エリアの内側に入った。カウンターで搭乗手続きを済ませ、スーツケースを預けた。搭乗時間まで一時間半程度あったので、空港内のフードコートでグリーンカレーを食べ、シンハービールを飲んだ。
 搭乗ゲート前のロビーの座席もほぼ満席で空いてるシートは少なかった。床に座り込んでスマートフォンを触っている乗客も多い。
 搭乗ゲートから離れた場所の空いている席を見つけて座った。搭乗時間まで一時間あまりあるので、カフェで読んでいたフィリップ・K・ディックの小説の続きを読んだ。荒廃した火星で日々の暮らしに苦闘する地球からの移住者や未来を幻視する自閉症の少年が登場するが、移動で疲れているせいかストーリーの展開が頭に入らない。
 読書に集中できなくなると周囲を見渡した。ミャンマー行きの複数の定期便のための搭乗ゲート並ぶ出発ロビーなのでここで待つ乗客はミャンマー人が多かった。ある程度裕福なミャンマー人にとってバンコクは手近な買い物エリアとなっている。特に若いミャンマー人にとっては、最新のファッションや風俗に触れられる先端エリアとして人気が高い。
 予定の出発時間を三十分ほど過ぎてから搭乗開始のアナウンスがあった。搭乗ゲートをくぐって、外に横付けされたランプバスに乗り込む。駐機場を横切って、タラップの付けられた機体前にバスが着くと、乗客はめいめいバスを降りて、タラップを登り、機内に入っていく。
 ノックエアDD4238便は定刻より三十分あまり遅れて離陸した。バンコクの高層ビル群と渋滞した車のヘッドランプの連なりが織りなす夜景が遠ざかると、窓の外は闇に包まれた。離陸して一時間ほどで機体はヤンゴン上空に達した。街の上空を飛んでいるはずだが眼下の光はまばらだった。ただ、ライトアップされて黄金色に輝く巨大な仏塔シュエダゴン・パゴダだけが闇の中で光を放っていた。
 ヤンゴン国際空港に到着したのは午後九時前だった。イミグレーションの列に並ぶ人間の数はそう多くなく、十五分ほどで入国できた。空港で手持ちの米ドルを現地通貨のチャットに両替し、スマートフォンを使うために五〇〇〇チャット分のプリペイドカードを買った。ミャンマーに来るのは三回目で、現地キャリアのS1Mカードはすでに持っているため、必要分をチャージをすればいい。
 スーツケースを引いて入国ロビーに出るとタクシーの運転手が次々と群がってくる。ミャンマーでは、タクシー運賃は料金交渉をして決める。空港発のタクシーは、相手側が強気になるため、運賃が割高になる。スマートフォンで配車アプリのGrabを起動してみたがディスプレイ上に車が現れない。空港からの利用客には相場より高い料金を請求できるため、システムが料金を自動計算するGrabを使わせないのが不文律となっているようだ。空港の敷地外の通りまで出てGrabを使うという方法もあったが、朝からの移動で疲れていたので気が進まなかった。何人かのドライバーと交渉して、宿まで一万チャットで折り合った。相場より二、三割割高だがしかたない。
 空港を出発した車はピーロードを南下して進んだ。まばらに並んだ蛍光灯の街灯が街路を仄暗く照らしている。インヤー湖に差し掛ると湖の尽きるところで左折してインヤロードに入った。前方に黄金色に輝くシュエダゴン・パゴダが見える。パゴダを覆うのは本物の黄金で、肉眼では見えないが尖頭部分の装飾にはダイヤモンドやルビーなどの宝石が七〇〇〇粒以上ちりばめられていると聞く。ASEAN最貧国であるこの国の富のすべてをこの仏塔が吸い込んでいるような気がしてくる。
 タクシーが予約していたホステル〈Bodhi Taru〉の前に停車した。通りの両側に四、五階建てのローカルアパートメントが並ぶ裏通りだった。僅かな街灯に照らされた薄暗い通りの先に、黄金色のシュエダゴン・パゴダが輝いている。
 ホステルは一階がカフェで、二階が宿泊施設となっている。一階部分は一面のガラス張りなので、天井から吊るされた暖色の白熱灯に照らされた内側が見渡せた。十席ほどの木製のテーブルとソファが三席、奥は右側がキッチンカウンター、左側に二階の宿泊施設に通じる階段が見える。カフェの営業時間は過ぎていりようで客はいなかったが、三十代半ばの白人男性が奥のテーブルでMacBookを開いていた。
 中に入って「今夜から宿泊予定なんだけど」と声を掛けると、立ち上がって「ああ、予約していた日本人だね。ようこそ。僕はオーナーのビル・ブラック」と言った。立つと身長が百八十センチ近くあるのがわかった。金髪の長髪を後ろで縛ってポニーテールにしていた。細面の顔にボストン型の眼鏡が載っていた。欧米人にしてはスリムな体型だった。どことなく三十代の頃のジョン・レノンを思わせる風貌だ。アクセントと雰囲気からおそらくイギリス人だろうとあたりをつけた。
「案内するよ」彼はそう言って、カウンター下からキーを取り出した。彼の後に付いて奥の階段を登った。ドミトリーが二室、個室が二室の小規模なホステルだ。宿泊サイトで予約したが、空いていた個室を予約していた。キングサイズのダブルベットが置かれたシンプルな内装の部屋だった。バスルームとトイレは共用のため部屋内にはない。テラスに面した窓からミントグリーンに塗られた向かいの民家が見えた。
「じゃあ。明日の朝も下のカフェにいるから何か用事があれば遠慮なく言って」そう言うと下に降りて行った。
 ビールが飲みたかったが周囲に買えそうな売店はなかった。朝からの移動で疲れていたので、共用のバスルームでシャワーを浴びて、歯を磨くとすぐに寝た。

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2021年9月24日金曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーヴァードライブ』4 (2)

 4(2)

 調べてみると、瞑想センターによってメソッドや指導法にかなり違いがあることがわかった。瞑想のメソッドはサマタとヴィパッサナーの二つに大きく分けられる。サマタは呼吸などの対象へ一点集中することによって禅定の状態に達することを目指している。ヴィパッサナーは集中力を使わずに、心身の観察によって気づきを得る瞑想法だ。ただし、ヴィパッサナーから枝分かれして、サマタのような集中没頭型の瞑想法を開発した比較的新しい分派もある。伝統的な指導法として、サマタ瞑想によって禅定の状態に達し、意識にニミッタと呼ばれる光が現れるようになった後に、次の段階としてヴィパッサナー瞑想に入るメソッドを採る瞑想センターもある。このメソッドでは、光が現れるようになるまで次の段階に進めないため、何年も先の見えない修業を続ける瞑想者もいるようだ。
 いずれの瞑想法も最終的な目標は解脱して涅槃に達することを目的としている。
 解脱とは、条件付けられた欲望や本能から超出した、認知の転換を意味する。人間も生物として、他の生物と共通する欲望や本能を備えている。自己保存を図るため快を求め不快を避ける欲求や、自らの遺伝子のコピーを増やす衝動に基づく生殖本能は他の生物と変わりない。進化の自然選択によって獲得されたこうした形質は、個体の自己保存と遺伝子の拡散を目的とするもので、それは必ずしも個人の幸福とは結びつかない。

 最初期の仏教は、通常の世間の人々の考える、欲望により形作られた世界を解体し、そこから超出するラディカルな理論と実践の体系として出発した。これは仏教が、古代インド北部の王国の王子として生まれ、容姿にも才能にも恵まれ、物質的には何不自由ない環境で暮らしていた青年、ゴータマ・シッダールタによって開かれたことに由来している。世俗のレイヤーでは悩みようのないこの青年ですら逃れられなかった「苦」–––パーリ語の「ドゥッカ」の翻訳に漢字のこの文字が当てられた。単なる苦痛というよりもより射程の広い意味を持つ。英語では「不満足(unsatisfactoriness)」と訳されいる–––から解放されるため、六年に及ぶ思索と修行の果てに証得したのは、「世の流れに逆らう」智慧だった。ゴータマが達したのは、生物的な本能に根ざした、快適な状態を望み、いとおしいものを愛で、危険や不快から遠ざかる感覚を「苦」を形作る煩悩として滅尽し、世俗のレイヤーの価値観が織りなす世界から別の次元、涅槃へと超出することで、真の自由を獲得できるという結論だった。
 「覚者」仏陀となったゴータマが完成させた、欲望や本能による条件付けから解放された領域、涅槃に到達するための理論と実践の体系である仏教の、実践の分野を担う修行が瞑想だ。
 こうしたオリジナルの仏教が持つ、反直感性やラディカルさは、五百年から千年あまりの歳月をかけて伝播し、それぞれの地域の固着の習俗や宗教と習合した東アジアでは薄められたり、変質したりしているが、南アジアの上座部仏教では、その原初の特質を色濃く残している。私が南アジアの仏教に興味を持ち、瞑想センターへの滞在を決めたのもそうした部分に惹かれたからだ。

 どの瞑想センターに滞在するかについては、ずいぶんと考えた。
 対象を一点に絞って集中するサマタ瞑想や、観察の対象を瞑想時の足の痛みに集中するヴィパッサナー瞑想の分派である集中没頭型のメソッドを採用する瞑想センターは、指導者が攻撃的なことがよくあるようだ。一つの対象に集中没頭して、力づくで思考や感情を無効化するこのメソッドは、精神的な消耗度が高いため、それに耐えられるのは偏執的な性向の人物である場合が多い。そして外部の環境や内的な思考・感情を無視して一点に集中する修行を続けた結果として、ある種の不寛容さや独善性を招きやすいようだ。ミャンマーで、第二次世界大戦後に開発されたヴィパッサナー瞑想の分派である集中没頭型のメソッドは、短期間の修行で解脱者を続出させたことで、一躍注目を浴び、一時はミャンマーの仏教界で瞑想法の主流をなすまでになった。しかし、独善的な傾向をもつ指導者を多数輩出し、異なるメソッドを採用する瞑想センターを激しく批判したため、ミャンマーの仏教界を混乱させる弊害も生んだ。そして、このメソッドを採用する瞑想センターには、外国人の修行者に評判が良くないところが少なからずある。勝手がわからずまごつく初心者の外国人が、指導者から怒鳴られることも珍しくないからだ。
 一方、伝統的なヴィパッサナー瞑想のメソッドを採用する瞑想センターは、穏やかな雰囲気で、指導者も温厚なようだ。ヴィパッサナーとはパーリ語で明確に観ることを意味している。ヴィパッサナー瞑想は、集中力を使わずに、心身の状態をニュートラルに観察する瞑想法だ。この瞑想法は集中没頭型のように短期の瞑想修行で解脱することはない代わりに、人格的な成熟を促す副次的な効果も期待できるという。仏陀は、瞑想法についての経典『大念住経(マハーサティパッターナ・スッタ)』を残しているが、この経典に最も忠実と言われているシェ・ウ・ウィン瞑想センターを選ぶことにした。この瞑想センターの創設者のシェ・ウ・ウィン師は、もともと集中没頭型の瞑想法を学んだ人物だった。しかし、このメソッドで解脱した指導者の多くが攻撃的で、その排他性から他の瞑想法を批判したことで、ミャンマーの仏教界の混乱と民衆の困惑を招いたことを深く憂慮した。ミャンマーは、人口の八割以上が仏教徒であり、敬虔な上座部仏教の信徒が多いため、僧侶とりわけ解脱者である指導者の社会的な影響力が強い。こうした状況を省みて、シェ・ウ・ウィン師は、戦後に主流となった集中没頭型の瞑想法を封じ、伝統的なヴィパッサナー瞑想を伝える自らの名を冠した瞑想センターを創立した。
 ヴィパッサナー瞑想は、観察による気づきの実践を主眼としているが、この「気づき」はマインドフルネスと英訳されている。二十一世紀になって西洋社会で注目されているマインドフルネス瞑想もヴィパッサナー瞑想がベースとなっている。ただしシリコンバレーの1T企業の経営者などが推薦している世俗的なマインドフルネス瞑想は、判断力の向上などの現世的な実利を目的としているため、瞑想の基盤となる仏教経典の教えとの結びつきは弱い。オリジナルの仏教では、ヴィパッサナー瞑想により得られた気づきにより、瞑想者は三相–––無常、条件付けられた苦、無我–––といった世界の真理を認識する智慧へと到達するとされているが、西洋で流行しているマインドフルネス瞑想の多くは、こうした現実をメタ認知するという視座の獲得は目指していない。このような測定可能な効果を求める世俗的なマインドフルネスは、仏教的マインドフルネスにあった真理との関係を切り離し、世俗的な価値基準へと矮小化しているとの仏教界からの指摘もある。そもそも解脱つまり涅槃への到達を目標とする瞑想の実践は、「役に立つ」とか「人格がよくなる」のような世俗の世界が織りなす物語の中で上手に機能することを求める文脈から超出することを本質としている。修行により解脱の最終段階に達した阿羅漢は、欲望により形作られた世界から完全に逸脱した存在となる。そのため、世俗の生活を営むことはもはや不可能となり、選択肢は出家して残りの一生を瞑想寺院・瞑想センターで送るか死ぬかしかない。それを肯定するのが仏陀の説いた仏教と、そのエッセンス受け継ぐ南アジアの上座部仏教のラディカルなところだ。

 五月の上旬の福岡発––バンコク着とその一週間後のバンコク発––ヤンゴン着の航空券をネットで検索して購入した。シェ・ウ・ウィン瞑想センターに五月中旬からの滞在は可能かどうか尋ねるため、Webサイトで連絡先やeメールを調べたが、センターでは予約の受付はしていなかった。直接現地へ行って滞在できるかどうか尋ねるしかないようだ。
タイもミャンマーも三十日以内ならビザ無しで滞在できる。
 福岡南アジア美術館の学芸員、山本良恵からeメールで返信があった。送ったレポートについての礼に将来性のありそうなアーティストやギャラリーがあれば繋いで欲しいと書き添えてあった。こちらの情報収集力も少しは認められたようだ。

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2021年4月28日水曜日

そろそろミャンマーの革命の話をしよう(2)

前稿の続きです。
前稿では、今回起きたミャンマー国軍によるクーデターは、ミャンマーの政治経済システムに内在する力学が剥き出しの形で露呈しただけで、偶発的・突発的なものではないことを指摘しました。
本稿では、こうした政治経済システムの不安定性を内在する民族的な気質について深堀りしてみたいと考えます。

ここで援用するのが、人類学者エマニュエル・トッドの仮説です。
トッドは、各地域の家族制度が、自由主義・共産主義・社会主義といった イデオロギー(宗教もそこに含まれる)を特徴づけると論じました。
つまり、下部構造(家族制度)が上部構造(イデオロギー)を規定するという分析です。
トッドは家族構造の類型を「権威主義的家族」、「平等主義核家族」、「絶対核家族」、「外婚制共同体家族」、「内婚性共同体家族」、「非対称共同体家族」、「アノミー 的家族」の7つに分類しました。

上の7つの分類から4つを選んで、以下に説明します。
分析は、主に家族制度が平等か不平等か、親子関係が権威主義か平等かの二つの軸によってなされます。

たとえば、日本がカテゴライズされる「権威主義的家族」は、 子どものうち一人が跡取りとなり、全ての遺産を相続する家族制度です。こうした家族形態は、親子関係が権威主義的であり、兄弟関係が不平等主義的といった特徴を持ちます。戦前日本のイエ制度や、江戸時代以来続く、暖簾を守るといった家業に基づく長期的・継続的な商人道のあり方は、こうした家族制度に由来している可能性があります。

イングランド,オランダ,デ ンマークなどの北ヨーロッパが属する「絶対核家族」の家族構造は,子どもたちは独立していきますが,遺産の相続は親の遺言・信託によって決定されます。親 子関係は自由主義的であり、兄弟関係は平等への無関心によって特徴付けられます。資本主義が誕生した国家が属するカテゴリーですが、株式や契約等の証書を根拠とした社会システムは、こうした家族制度のあり方を、家族の外部(社会)に敷衍した結果という見方もできます。

「外婚制共同体家族」は、ロシア、中 国、ヴェトナム、旧ユーゴ地域等の共産主義化した国に見られる家族制度です。子どもは成人・結婚後も親と同居し続けるため,家族を持つ兄弟同士が、家父長の下に暮らす大きな家族形態を取ります。遺産は平等に 分配され,権威主義的な親子関係と平等主義的な兄弟関係となります。
このような家族制度を持つ地域・国家が共産主義化したことは、イデオロギー・社会システム(上部構造)という擬制(フィクション)は、家族制度という民族・地域に自然発生した、本来的・根源的な制度(下部構造)の上に立脚するというトッドの仮説を強く補強する事実です。

さて、ミャンマーは、タイ・カンボジア・ラオス・マレーシア・フィリピ ンなどの東南アジア諸地域が属する「アノミー的家族」に分類されています。この形態は、親子関係と兄弟関係 が共に不安定なため、人々は共同体主義と個人主義の間の緊張状態の中で生きることを強いられます。これは政情不安にも繋がり、トッドは、ポル・ポト率いるクメール=ルージュによるジェノサイドは、こうした緊張状態が現象化した事例として指摘しています。カンボジアは、対立野党の解体などフンセンによる事実上の独裁が現在も続いており、いまなお混乱した政情です。そして、タイでは、周期的に軍事クーデターが起きています。
トッドの説に従うなら、現在、起きているミャンマー国軍による弾圧もこうした家族制度に起因していることになります。
個人的に不思議なのは、タイで軍事クーデターが起きても、経済活動や為替への影響が極めて軽微なのに対し、ミャンマーでは毎回災厄レベルのダメージを被ることです。
タイにあってミャンマーにないものー交通・上下水道・電気等の社会的インフラと教育・医療等の制度資本ーの差が、軍事クーデターの社会に与える深刻さの軽重に繋がっているのではないかと推測していますが、明快な結論はまだ出せていません。
世界の成長エンジンとして期待されてきた東南アジア諸国ですが、文化人類学的な見地では、この地域には、社会の不安定性が構造的にビルトインされていることに、投資を考える際には意識的になるべきでしょう。

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2021年4月26日月曜日

そろそろミャンマーの革命の話をしよう(1)

2月1日に起こったミャンマー国軍のクーデターから約3ヶ月が経とうとしています。
随時、TwitterやFacebookで現地の状況を追っていますが、現場にいるわけでもないので、速報性のある情報や一次情報は伝えられません。タイムラインには、国軍に拷問されたり、虐殺された犠牲者の目を覆いたくなるような映像が流れてきていますが、ここでは転載しません。

現在のミャンマーで起こっている事象を、現地速報との差別化のため、もう少し長い射程で考えてみることにします。
ここ3ヶ月間考えていたのは、今回のクーデターは偶発的・突発的に起こったものではなく、むしろミャンマーの社会システムに内在する既存の力学が、剥き出しの形で顕在化したということです。

ミャンマーの政治経済は、ビルマ族を主体とする国軍により支配されてきたのは、周知の事実です。
国会の4分の1の議席に軍人議員の割り当て枠があり、内務省、国防省、国境省の主要3省の大臣の任命権は国軍司令官にあります。
経済についても、国家の主要な収入源であるガス・木材等の天然資源の権益・利権を握っているのはMEHL (Myanmar Economic Holding Limited) やMEC (Myanmar Economic Corporation) といった国軍系の企業群です。
国会議員の議席の割り当ても、国軍系企業による透明性の低い収益も、一部の軍の高官が独占しています。既得権益の受益者である国軍の高官は、民族的マジョリティであるビルマ族によって占められています。
つまり、ミャンマーという国家の政治経済の構造は、国軍のビルマ人高官の政治権力・経済的利益を最大化するように設計されています。
約10年前に、「アジア最後のフロンティア」としてミャンマーへの投資熱が高まった時期がありましたが、その頃のミャンマーに多数居た日系コンサルタントたちが、こうした社会構造の不安定性を説明していたとは思えません。

こうした政治経済システムの下で、昨年11月の国軍系政党のUSDP(連邦団結発展党)の大敗を受けて、これまで享受してきた利権や権益を失うことを怖れた軍の高官たちが、今回の武力による実力行使に踏み切ったことは、それほど驚くべきことではないのかもしれません。
彼らにとっての関心事は、国家の安定や発展ではなく、あくまで自分たちの利権や権益の維持・拡大だからです。彼らのような既得権益の受益者にとって、国軍は、自らの地位や利権を保全のために存在するもので、国防や国民の安全を図ることはおそらく視野に入れていません。
こうしたミャンマー国軍に内在する力学や理念(と呼べるかはさておき)を鑑みると、日本政府が持つとされていた国軍との独自の外交ルート(パイプ)が、今回の国軍による市民の弾圧の抑制・中止に無力であったことは納得できます。自らの権益の拡大に繋がるODA等の海外からの投資については話を聞く気になっても、利権の縮小を招く、民主化や社会の透明性の向上などを聞き入れる余地は、彼らにはないからです。彼らにとって、一般国民の安全や生命よりも、自らの利権の方がはるかに重要なので、人権の遵守を求める他国からの勧告を聞く耳は持ちません。国軍がODA等の日本からの投資について対話に応じていたのは、それが彼らの権益の拡大に資するからです。外国資本による投資の多くは、国軍系の企業を通して、軍の高官の懐へ流れ込んでいることは容易に想像がつきます。

これまで、国軍は天然資源の利権(とおそらく麻薬の原料となるケシの権益)を巡って、国境周辺の少数民族武装戦力と戦闘を繰り広げていました。国軍による弾圧で、最も規模が大きくなったロヒンギャ族への武力行使では、2017年7月の死者は6,000人、2019年時点での難民は91万人に達したと伝えられています。
こうした国軍による弾圧は、国境地帯の少数民族へ向けられていたため、これまで可視化されにくく、また、都市部に住む多くのミャンマー人、特にマジョリティであるビルマ人にとっては、遠くの場所で起きていることとして、大きな関心を集めることはありませんでした。
軍のクーデター以降、民主主義の回復を主張するデモ隊の市民に、国軍兵士が銃口を向け、活動家を拉致し、拷問にかけ、惨殺する事態となって、都市部の市民の多くは、国軍が一部の高官の利益を保全するための暴力装置であることを強く認識しはじめました。
SNSでは、「国境地帯の少数民族が武装している理由が初めてわかった」とか「いままで少数民族の武装組織をテロリストと思ってたけど、テロリストはミャンマー国軍の方だったんだ」といった投稿が、国軍による弾圧が強まり、死傷者が増加しはじめた時期に目立ちました。いまでは、ミャンマー国軍は、SNS上でテロリストと呼ばれるのが慣例化しています。1988年、軍事独裁体制に対する大規模な民主化運動(8888民主化運動)が起こった時は、軍の弾圧で数千人の民衆が犠牲となったと言われていますが、現在の民主化運動とSNSでの情報発信の主体となっているZ世代にはリアリティが薄かったようです。

これまで国境周辺の周縁部に居住する少数民族に向かっていた国軍による暴力が、いまでは都市部のマジョリティであるビルマ族へも及ぶ事態となりました。周縁に発動されていた暴力が、中心へと向かうことは、発動される方向性が変わっただけで、暴力を支える力学は変わっていません。
ただし、ミャンマーという国家の政治経済システムが、軍の高官の権力と利益の維持・拡大を目的とし、国軍という暴力装置がそれを下支えしているという構図が、今回の弾圧で誰の目にも明らかになりました。都市部の住民、とりわけZ世代のような若い世代にとって、これは初めてのことかもしもしれません。

国軍による正当性のない暴政に対抗する組織として、4月16日にNUG, National Unity Government(国民統一政府)が結成されました。
NUGのスポークスマンとして積極的に情報発信しているのは、チン族のDr. Sasaであり、副大統領にカチン族、首相にカレン族が任命されています。また、Dr. Sasaは前政権では不法移民として扱われていたロヒンギャ族をミャンマーの仲間と呼びかけました。SNS上でも、ビルマ族により、これまでの弾圧を謝罪する声が上がりはじめています。
NUGによる連邦軍の創設の構想に伴い、KIA, Kachin Independence Army(カチン独立軍)やKNU, Karen National Union(武装民族カレン国民連合)などの少数民族武装戦力との共闘・合流も取り沙汰されはじめています。

少数民族の自治権を保障する連邦国家の創立は、1947年に2月のバンロン協定により同意されましたが、同年7月のアウンサン将軍の暗殺により、実現されませんでした。
現在起こっている軍事独裁に対する抗議運動は、Spring Revolution(春の革命)と呼ばれています。革命と呼ばれるのは、この運動の目指す先が、クーデター前の政体に戻ることではなく、少数民族の自治権を認める、多民族による連邦国家の創設という、これまでにない新しい国体を構想しているからです。
これから先、国軍とNUGの対立がどのように展開するのか予想もつきませんが、今回は過去の弾圧とは異なり、民衆側に妥協する意思が感じられません。これまで通り、一部のビルマ人国軍高官による政治経済の支配体制が続けば、彼らの利権が脅かされるたびに、現在起きているよう国民への弾圧が起こり得るからです。国軍の蜂起は、1962年、1988年、2007年に続いて今回で4回目なので、国民も学習しています。一部のビルマ人高官の利権を支えるために存在している、既存のミャンマー国軍を解体しない限り、大多数のミャンマー国民にとって希望の持てる未来はありません。それゆえ、国軍の国民への弾圧は、日を追うごとに苛烈さを増していますが、国民を服従させる効果は薄そうです。
良いニュースとしては、国軍から離反者が現れつつあり、内部告発も始まっていることです。

ミャンマーがこうした不安定な社会にならざるを得ない社会学的な理由についての仮説も書くつもりでしたが、長くなったため、次稿にゆずります。

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2020年9月13日日曜日

コロナの影響でヤンゴン地区の独立国家化が進んでいる

ヤンゴン地区でのコロナ拡大に伴い、タウンシップ(日本でいうところの区(世田谷区、渋谷区 etc.))間の移動が制限されているようです。これを受けて、在ミャンマー外国人の間で、タウンシップを独立国家に見立て、新しくデザインされた国旗がFacebook内で拡散しています。
「新しい国のビザはどこで取ればいいの?」とか「ヤンキンは何国になったの?」とかのコメントがタイムラインに飛び交っています。
新国家の国旗は、25近くあるようですが、そのいくつかをここでご紹介します。
サンチャウン連邦
私が戻ったらここの国民になります

ミニゴン諸島
ミニゴンは、サンチャウン区内の地区ですが、自治区として独立したようです。
 
サン・ミニゴン
同じくサンチャウンのミニゴン地区にできた自治区
外国人が多いエリアなので、租界みたいに自治区が多いのかもしれません

インセイン共和国

ノースダゴン王国
 
パソーダン州

ノース・オカランド共和国
 
ダラ島
独立国家となったようです

タムウェイ共和国

ダゴン国

たぶん、みんなステイホーム中で暇なので、国旗のデザインとか始めたんでしょう。
なかなか洒落が効いていて面白いので、ヤンゴンに残ってる皆さんは、新国家の国旗のデザインをしてみたらいかがでしょう。
今のところ、日本人のこのムーブメントの参加者は見あたりません。

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2020年6月20日土曜日

ただいま日本でバイト中、そして日本の行く末を案じた

4月下旬から日本へ一時帰国中ですが、ミャンマーに帰る目途は未だ立っていません。 6月末までヤンゴン国際空港は閉鎖ですし、入国条件も詳細不明です。 とりあえず、収入確保のため日本でアルバイトをしています。

現在、日本の某市で「新型コロナウイルス感染症緊急経済対策」の一環として実施されている、特別定額給付金のデータ入力の仕事にパートタイマーとして従事しています。 日本の自治体の住民基本台帳のデータは、銀行口座等の個人の金融情報とリンクしていないため、今回のように給付金を全国民へ一律配布するという状況になると、個別に配布先に口座情報等のデータを人力で入力する必要があります。 たとえマイナンバーで申請しても、オンラインで処理が完結するわけではなく、各自治体の住民基本台帳のデータベースに基づいて、個別に人力で振込データを入力しています。もっとも、郵送での申請が大多数なので、入力作業の中心となるのは、申請者の手書きのデータを、入力担当者が目視で確認しつつPCへ手入力する業務です。 本来なら、オンラインで自動化すべき業務なのですが、個人情報の保護に対する懸念や行政手続きのIT化の遅延によって、日本では実現していません。
Facebookで海外在住者のタイムライン見ると、住民基本台帳と個人の口座情報が紐づけされているドイツやアメリカでは、オンラインで申請して、3日程度で給付金の振込がされているようです。

人口の多い大都市だと途方もない手間と人手を要するため、一定以上の人口の自治体では、これに関する処理を外注しているはずです。国内の各自治体から、この業務のアウトソーシング企業や人材派遣会社への外注が、相当な特需になっているのではないかと推測しています。もちろん出所は税金なので、新市場を創出して国内経済のパイを大きくしているわけではありませんが。

5月下旬からほぼ連日、朝9時から夜8時まで、昼休みを挟んで10時間、一日ぶっ続けでデータをPCに入力しています。新入社員当時は、よくこの手の作業をやっていましたが、30年前に比べて当然体力も視力も衰えているので、5時を過ぎたあたりから目がしばしばして、意識が朦朧としてきます。ただ、体力的にはしんどいですが、単に黙々とデータ入力するだけで、他人と会話する必要も、煩わしい人間関係もないので、お気楽な仕事ではあります。コミュ障の私にうってつけの仕事が、一時帰国中に見つかって良かったと感謝しています。

それに、日本人だけの環境で仕事をするのも久しぶりなので新鮮です。
改めて思うのが、日本人はロボットの代替として優秀だということです。
勤務中ひたすら入力作業に没頭していて、周囲の人と会話をすることもないので、事情は知りませんが、他の人もネットで人材派遣会社の募集を見て、応募したのではないかと推測します。つまり、みんな情報をネットで見つけて、バラバラに集まった人々です。
にも関わらず、会ったこともない人材派遣会社の担当者からのメールによる指示で、毎日定刻通りに職場まで来て、簡単なマニュアル読んで理解して、みんな黙々と一日中PC入力作業に従事しています。
ミャンマーに住んで長いので、どうしてもミャンマー目線で物事を見るようになっていますが、これはミャンマーではあり得ない。
こんな簡単な説明では、作業内容を理解してもらえないし、そもそもこれだけの大人数をタイトな出退勤管理やタイムカードなしに、定刻通り毎日通勤させるのは至難の業です。 ミャンマーでネットで人材募集して同じ業務をすると、出退勤管理の煩雑さと、マニュアル無視して、みんな好き勝手にデータ入力しだして、収拾がつかなくなり、現場は阿鼻叫喚と化すのではないでしょうか(私が知る例では、過去に建物の電気工事で設計図面を無視して、施行業者が好き勝手に配線して、収拾がつかなくったことがありました)。

これだけ均質で、勤勉な労働者を、ネットを通じて一定数すぐに動員できる国は、そうないのではないかと思います。
 冷戦時代、アジア唯一の工業国だった時期、人件費が欧米諸国に比べて安かった日本が、工業製品などの規格品大量生産で一時代を画したことは納得できます。
工場の組立ラインに必要なのは、一定水準以上の知的レベルに達した、多数の均質かつ勤勉な労働者ですから。
ただし、21世紀に入って、工業製品のコモディティ化、モジュール化が進んだことで、日本の競争力は一気に失われたのはご存知の通りです。
グローバル化が進展により、中国・韓国や東南アジア諸国が製造業に参入したことで、工業製品のコモディティ化、モジュール化が顕著になりました。この結果、従来の欧米諸国の後追い戦略から脱し、創造性やオリジナリティ、あるいはブランド価値の創造等により、新規参入してきた国々の製品との差別化を図り、製品価格が主な選好条件となるレッドオーシャン市場のプレイヤーとは異なるポジショニングを取ることを、日系企業が迫られるようになって久しいです。

わかりやすい事例として、スマートフォンを例にあげます。
- 機能の中核を担うOSは、AppleのiOSとGoogleのAndroidが独占しており、ハード(スマートフォン端末)は汎用部品の組立産業と化している。
- 利益率が高いのは、アプリや音楽販売のエコシステムを築いているOS開発・供給元であり、ハードメーカーは薄利多売の過当競争に陥っている。
- カメラの性能などで多少の差別化はできるものの、OS(iOS搭載のハードはAppleの専売なので、ここではAndroid)は同じなので、各メーカーが製造するハードが提供できる基本的な機能は同じで、大きな差別化はできない(よって、ハードの市場は価格競争のレッドオーシャンと化す)。
- こうした過当競争下では、膨大な国内需要を背景にして、大規模な設備投資を行い、製造単価の低減化を実現し、その生産体制を足掛かりに、世界市場に打って出る中国メーカーが優位に立つ。実際、ミャンマーのスマートフォン販売店で見かけるメーカーの大部分が、Huawei・OPPO・Vivoなどの中国メーカーである。日系メーカーの存在感は薄い。
- 中国や東南アジア諸国に比べて人件費や地代が相対的に高い(それでもG7で最低賃金)日本は、イノベーティブで利益率の高い事業分野への進出が望まれるが(スマートフォンOSのプラットフォーマーとなっているAppleやGoogleのように)、残念ながら、そのような創造性・構想力・マーケティング力を備えた大企業は見当たらない。
- 現在、世界時価総額20位以内にランキングされている日系企業はゼロ。日系企業の最上位 は、トヨタ自動車の42位。しかし、テスラモーターズやGoogoleが電気自動車・自動運転のOS開発競争をしている現状で、自動車のコモディティ化・モジュール化(要するにパソコン化・スマホ化)がトヨタの製造技術をバイパスして実現すれば、その地位も危うい。

人材が均質で、現場の労働者が勤勉なことが、事業の強みになりにくい21世紀になってから、日系企業の凋落が目立ち始めたのは、決して偶然ではありません。 ここ20年間さんざん議論されてきた(そして解決していない)問題なので、いまさら私が書くまでもありませんが。日経新聞系のメディアとかは、日本にGAFAが生まれない理由について年中書いているような気がするし(そして、何ら解決しているように見えない)。

この問題については、下記の本に体系立てて、詳しく説明されていますので、ご興味のある方はお読みください。


なんでこうしたことを延々と書くかと言うと、日本の行く末を案じてるから、という部分もなくはないのですが、ほぼ毎日、無言で10時間ぶっ通しでPC入力作業していると、作業の単調さに倦んで、いろいろと余計なことを考え出すからです。
他にも入力しながら、考えていることがあるので、気が向いたら書くかもしれません。
とりあえず、ミャンマー帰国の目途が立つまで、日本でこのバイトを続けるつもりです。

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2020年5月15日金曜日

COVID-19騒動の中での日本への帰国体験記を書いた

4月24日から、日本に一時帰国中です。
帰国してから、3週間が経とうとしています。こんなに長く日本に滞在するのは、2012年にヤンゴンに住むようになってから初めてです。
帰国して2週間は、Airbnbで取った新宿御苑のアパートで待機していました。
東京に滞在するのも、8年振りでした。新宿の街は、紀伊國屋書店も伊勢丹新宿店も閉まっていて閑散としていました。
今は、福岡の大濠公園の近くに住んでいます。
福岡では、多くの人々が大濠公園でジョギングする姿も見られ、現在の東京ほどの閉塞感と圧迫感は感じません。こちらでも、飲食店の多くは、閉まっていたり、テイクアウトのみの営業だったりはしますが。
最近、ミャンマーの日本語フリーペーパーから、日本へ帰国した時の状況について書くように依頼されました。以下に書いた記事を転載します。このまま採用されるかどうかは不明です。
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COVID-19騒動の中での日本への帰国体験記

4月24日午後11時、私は、成田国際空港第一ターミナル到着ロビーにいました。周囲には、私も含めて5,6人がロビーのベンチで過ごしています。私と同じく、ヤンゴン発のANA NH814便で成田に到着した人たちです。海外からの帰国者は、公共交通機関の使用禁止を要請されているため、明日の迎えが来るまで、皆ここで一晩過ごすのでしょう。
一か月前まで、自分がこの時期に、この場所にいるとは思っていませんでした。

3月中旬時点での、私の4月の計画は、次の通りでした。
4月5日 The Makers Marketに出店
4月8日 ヤンゴン-->チェンマイ ティジャン(水祭り休暇)
4月19日 チェンマイ-->ヤンゴン ミャンマーに帰国

4月5日に開催予定だったThe Makers Marketは、毎月一回ヤンゴンで開催されている、ローカルメイドの工芸品や雑貨を集めたナイトマーケットです。タイのようにローカル・マーケットが充実していないミャンマーで、ここでしか手に入らないローカル・ブランドの商品が購入できるイベントとして、在緬外国人に人気のイベントです。毎回、3000人近い来場者を集客しています。


3月8日に開催されたThe Makers Marketの様子

しかし、3月末になって、コロナウィルスの感染拡大の影響により、状況が次々と変わり、当初の計画はすべて覆りました。
まず、タイ政府の発令により、3月26日から、すべての国境ルートから、外国人の入国禁止となります。続く3月31日には、ミャンマー政府により、国際空港への旅客航空便の着陸禁止が発令されます。さらに、ミャンマー政府が4月中のイベント自粛を要請したことで、4月5日開催予定だったThe Makers Marketは中止となります。

タイへの外国人の入国禁止となった時点で、予約していたヤンゴン、チェンマイ往復航空便は運航休止になりました。
前回のビザランで3月末にバンコクから戻って来た時、ミャンマーへはノービザで入国していました。いつもは滞在日数70日のビジネス・ビザで入国していますが、この時はティジャンの休暇が近く、2週間程度の短期滞在になるからです。
この安易な判断が、仇となります。
ノービザで入国すると、滞在延長の申請ができません。よって、滞在期限が切れるまでに、どこかへ出国する必要があります。しかし3月末時点で、周辺のASEAN諸国は、ほぼ封鎖中となっていました。
こうなると、日本人の私が入国できる国は、日本しかありません。
実家のある福岡行のチケットをネットで探しましたが、これが見事にない。ハノイや香港経由のメジャーなトランジット便は全便休航となっています。
では、日本への直行便しかないとANAのウェブサイトへ。
検索すると、滞在期限前の運航便の片道チケットの価格が15万円から20万円へと高騰しています。日本からミャンマーへの往路は全席空席なので、しかたないのでしょうけど。やむえず、オーバステイになっても、できるだけ安い価格のチケットを探して、約1か月先の4月24日ヤンゴン発の片道8万円のチケットを購入しました。

さて、今の環境下で、日本に帰国するとどういう状況になるかを、先にミャンマーから帰国した知り合いや周囲の友人へ聞いたところ、ものすごく面倒なことになっていました。

政府は、海外からの帰国者へ、以下の要請をしています。
- 海外からの帰国者は、もれなく2週間の待機を命じられる
- 日本帰国から2週間の待機期間中は、公共交通機関の使用禁止

そして、2週間待機の宿泊場所は、自己解決かつ自費で賄う必要があります。
この条件だと、関東近辺以外の居住者は、空港からアクセスできる場所に自費で宿を取り、しかも、その場所まで公共交通機関を使わずに行き着く必要があります。こうした条件を課すなら、政府が宿泊施設と移動手段を用意するのが筋ではないかと思いますが、残念ながら、個人での自己解決が求められています。
しかたなくAirbnbで、東京に2週間待機する宿を取りました。
問題は、宿泊地までの移動手段です。
先にミャンマーから帰国していた千葉の知人に頼んでみたところ、快く引き受けてもらえました。しかし、承諾から3日後に断りの連絡があります。家族に話したところ、猛反対に遭い、車のキーを取り上げられたとのことです。
となると、残る選択肢は、空港発の予約制リムジンバス・サービスくらいしかない。しかし、これが公共交通機関に入るのか、入らないのかの判断に苦しみます。小学生の頃、遠足のおやつはX円までという教師からの指示があった時、「先生、バナナはおやつに入るんですか?」とお約束のように聞く児童のような疑問です。
考えあぐねていたところ、4年くらい会っていない、以前ミャンマーに住んでいた友人から突然メールが入りました。私のブログを読んで、ミャンマーにスタックしていることを知り、メールをくれたようです。空港から宿泊地への移動手段に困っていると伝えたところ、ご親切にもレンタカーを借りて迎えに来てくれると言ってくれました。ありがとうHさん。あなたがいなければ、移動で詰んでいた。

航空チケットは取った、2週間宿泊する待機場所も予約した、空港から宿泊場所までの移動手段も確保した。でも、これで一安心とはいきません。
ビザの問題が残っています。
この頃、突然国境を閉鎖されたため、私同様にオーバーステイを余儀なくされた在緬外国人のトラブルが続発していました。地元の英字フリーペーパーでは、外国人が移民局へ延長申請のために赴いても、役所をたらい回しにされて、結局延長ができないケースが多発していることが記事になっていました。ビザの滞在期限が切れると、法律上、賃貸住宅へ居住することはできず、かと言ってホテルにも宿泊することもできません。住処を失ったある在緬外国人男性が、ミャンマー人女性のガールフレンドのアパートに転がりこんだところ、借主である女性の勤務先からクレームがついて追い出され、文字通りホームレスになってしまったケースも報告されています。
ミャンマーは異性間のモラルが厳格なため、周囲の住人や関係者は、未婚のミャンマー人女性と外国人男性が同居することを快く思いません。幸いにして(と言うべきか)私は、女性と縁がなく、アパートへの女性の出入りもないので、近隣の住人の反感を買い、密告されて住居を追い出される可能性は低そうです。しかし、そうは言っても、安心はできません。

その後、今回の特例で、ビジネス・ビザ以外でも、移民局で延長申請が可能になったとの情報を得ました。4月上旬に、パソーダン通りの移民局に着くと、建物前から優に100メーターは続く長蛇の列ができていました。どうやら、みんなビザの延長申請に来ているようです。私も一時間以上列に並んで、担当官に必要書類を提出しました。手続きが完了したら、電話するということでしたが、結局、連絡はありませんでした。

4月上旬、移民局前にできていた行列

移民局からの連絡を待つうちに、夜間外出の禁止令が発令され、外出に対する規制がさらに強まっていきました。こうした中で、処理されているかどうかもわからない申請を、再度一時間以上列に並んで、移民局で確認する気にもならなかったので、ビザの延長申請は立ち消えになりました。こうした状況で多くの外国人が、ビザの延長を果たせず、運の悪かった人が路上に放り出される事態に陥ったのでしょう。
タイ政府は、ビザの種類に関わらず、手続きなしで滞在期限を自動延長する救済措置を発表しましたが、残念ながらミャンマーは、そこまで外国人に対して配慮がされる国ではありません。

こうなると、オーバーステイの延長料金を空港で払うしか方法はありません。
夜間の外出禁止など、規制が日に日に増していく中で、宙ぶらりんな立場で過ごすのは、あまり気分の良いものではありませんでした。
まいったのは、夜間外出禁止令の発表により、ANA NH814便の運行時間が突然変更されたことです。ANAに確認したところ、その時点では、フライトが半日後ろ倒しになる予定だとの回答でした。それでは、移動をお願いしているHさんの都合がつかない日時に到着するので、やはり移動で詰む。繰り返しますが、公共交通機関の使用はできません。
果たして、フライト3日前になってANAから届いたメールを開くと、半日前倒しのスケジュールへと変更となっていました。このスケジュールなら、早く着くぶん待ち時間は長くなりますが、Hさんが迎えに来れる時間には成田空港に着いています。迎えが無理となった場合、レンタカーのキャンセルも発生するので、直前までHさんとやりとりをしていました。

4月24日、出発の日のヤンゴン国際空港は未だ封鎖中で、閑散としていました。どうやら運航しているのは、ANAの臨時便だけのようです。搭乗手続きを終え、スーツケースを預けて、イミグレーションのフロアに移動します。気になっていた、オーバーステイの手続きは、イミグレーション前の窓口で、一日当たり3USDのオーバーステイ料金を払うことで、難なく終わりました。以前も同じ手続きをしたことがありますが、ミャンマーでは、唐突にシステムが変更することがよくあるので、実際やってみるまで気が抜けませんでした。
ANA NH814便の搭乗率は、10%程度でした。帰る必要のある邦人はすでに帰国していて、これから帰国する在緬邦人はあまり多くないのでしょう。午後1時半に、ヤンゴン国際離陸した飛行機は、定刻通り。夜10時半に成田国際空港へ着陸しました。
機内で4、5枚の書類を渡され、それぞれに2週間の待機期間中の宿泊地の住所や、日本での連絡先を記入します。宿泊地の管轄保健所からの連絡方法について、Lineのスマートフォン・アプリを使うか、保健所からの電話を受けるかの選択項目もありました。とりあえず、アプリでの報告へチェックを入れておきましたが、ミャンマーは入国制限対象地域の国ではないため、保健所からの確認はないようでした。
飛行機から降りると、イミグレ前に待機していた検疫官に記入した書類を渡し、簡単な問診を受けた後、入国審査カウンターへと進みます。搭乗客が少なかったこともあり、飛行機を降りてから、検疫、入国審査を経て、到着ロビーに出るまで要した時間は30分程度でした。

そして、到着ロビーのベンチで、翌日午後2時に迎えが来るまで、13時間待機します。成田空港の到着ロビーも閑散としていました、ロビーにいるのは、私と同便で到着して、翌日まで迎えを待つ5、6人の人たちと空港のスタッフのみです。ちなみに到着ロビーに着いてから、移動の規制はありませんでした。迎えを頼める親族・友人が見つからず、他に方法がなければ、やむえず公共交通機関を使う人がいてもおかしくはありません(私もそうした可能性がある)。そのような事態を招かないためにも、政府が何らかの移動手段を用意すべきではないか、と到着後も改めて思いました。

4月24日、成田空港第一ターミナル到着ロビー

出国と到着の経緯を書いたところで、指定の字数をとうに過ぎました。
私がミャンマーで取り組んでいるプロジェクトについても、少しお伝えしたかったのですが。
私のミャンマーでのミッションは、「ミャンマーの素材を使って、世界で通用するブランドを、ミャンマーで作る」ことです。世界のどの都市でも通用するクオリティを持った、ミャンマー発のブランドを作ることを目標としています。
お時間があれば、私のブランドYANGON CALLINGのWebサイトとFacebookページを見ていただけると嬉しいです。
Webサイト:
https://www.ygncalling.com/
Facebookページ:
https://www.facebook.com/ygncalling/




5月中旬の現時点で、ミャンマーへいつ戻れるか状況は不透明ですが、ミャンマーへ入国できる環境が整いしだい、帰る予定です。また、The Makers Marketなどのイベントで、皆さんとお会いできる日が訪れることを心待ちにしております。
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2020年4月4日土曜日

コロナ対策で自宅勤務中のミャンマー女子に写真を撮らせてもらった

現在、ヤンゴン市内では、飲食店の営業も店内での飲食は禁止されて、数少ない営業中のお店も持ち帰りのみとなっています。
街は閑散として、普段は賑わっている場所でも人通りはまばらです。
さっき聞いた話によると、4月10日から4月21日まで、外出禁止令が発令されそうです。
人聞きなので、真偽の程はわかりませんが、この国では、空港閉鎖も飲食店の営業禁止も突然発令されて即施行されたので、可能性はあります
(4月5日追記:どうやら、政府が「ティンジャン(ミャンマー正月)で休日となる10~19日の外出を、食品や医薬品の購入目的を除いて自粛するよう通達した」事実に尾ひれが付いて、一律の外出禁止令が布告されるとの噂に転じたようです。公共のニュースに対する信頼度が低いミャンマーでは、確度の低い噂がSNSを通じて拡散しやすいです)。

そんな不穏な空気が漂う中ですが、ミャンマーのメディア企業で働く近所のミャンマー人女子に商品着用写真を撮らせてもらいました。
今、彼女の勤務先でも従業員の出勤を自粛して、ビデオ会議などのリモートワークで業務対応しているようです。
そうした状況なので、平日の昼間にアパートにお邪魔して、写真を撮らせてもらえました。
彼女のアパートの狭いバルコニーで撮影したので、アングルを選べませんでしたが、着用イメージはある程度伝わるかと思います。

















上記商品のサイズ・価格などの詳細は、こちらのページでご覧になれます。
https://www.ygncalling.com/shop

この時期、多くの人が自宅に籠ることを強いられるはずなので、これを機会に、手持ちの服でできるコーディネートを試したり、積読中の本を読んだり、みなさん自宅でできることを楽しめるよう気持ちを切り替えられたらいいなと思います。

ちなみに彼女とは、読書SNS Goodreads で知り合いになりました。
読了リストに、洋書ファンクラブで紹介されていた、 Daisy Jones & The Sixが上がっていたので、興味を持ってこちらからコンタクトしました。
この本の邦訳が出るのを待つか、原著で読むかちょうど迷っている時だったので。


本書は、70年代の架空のロックバンドについての手記・回想録というスタイルで描かれたフィクションです。
レビュー読むと、主人公のモデルとして、フリートウッド・マックのスティービー・ニックスが想起されるようです。
ちなみに、彼女にこの本の感想を聞いたら、イマイチだったということでした。
主人公のDaisyのキャラクター造形が、ミャンマーの文化的価値観と離れすぎていてなじめなかったようです。
それに加えて、60年代末から70年代初期にかけてロック音楽が表象していた時代の空気感など、時代背景や前提となる知識がないと楽しめないのかもしれません。タランティーノの映画『ワンスアポンアタイムインハリウッド』同様に。
あの映画について、公開当時に話題にしていたミャンマー人は、アメリカとかヨーロッパの大学を卒業して戻ってきた富裕層の子女のみでした。
彼女はヤンゴン外語大学のフランス語科卒で、フランス語と英語ができますが、自分をWorking Class Womanと自己紹介していました。ミャンマーの上流階級・富裕層は、キャリアの最初から親族経営の会社の役員になるか、親の資金で起業するかが一般的なので、身内でもない他人に指図されて働くこと自体がWorking Classと定義されるのかもしれません。ミャンマー国外から出たこともないみたいな様子でした。
そうした子が、こうしたタイプの小説を原著で読むことはミャンマーではかなりレアケースです。
少しずつですが、ミャンマーの文化的価値観や文化の受容性も多様化しつつある気配を感じます。

とりあえず、ちょうどいい休みができたと思って、今まで読めなかった本でも読んで、ゆっくりこの時期をやり過ごそう、と思ったらクリック!
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2020年3月28日土曜日

【悲報】僕、コロナのせいで4月の計画がむちゃくちゃに

世界各地で多くの問題を生み出しているコロナウイルスにまつわる騒動ですが、この影響で予定が狂った人も多いはずです。
ご多分に漏れず、私も巻き込まれました。
2月末時点での3月、4月の私の計画は、以下の通りでした。
  • 3月17日 ビザランから帰国 バンコク-->ヤンゴン
  • 4月5日 イベント The Makers Market出店
  • 4月8日 ビザラン ヤンゴン-->チェンマイ
例年、4月上旬から中旬にかけて水祭りで、一週間以上の休業に入るローカルの店舗・企業が大多数のため、この時期は水祭りの喧噪を避けて、ミャンマー国外へ出る外国人が多いです。
私もミャンマーに来て最初の3年は水祭りの時期も、ミャンマーに残っていましたが、他の機会・場所では存在価値を示せないような連中が、ここぞとばかり街場でイキってるのを見るのが不快、かつ毎日五月蠅くてうんざりするので、ここ5年はミャンマー国外へ出るようにしています。

通常eVISAで70日滞在可能のビジネスビザを使ってミャンマーに入国していますが、3月17日の入国時は、どうせ一か月以内に出国するからと、70USDケチってビザなしで入国しました。ビザなしだと、滞在可能日数は30日です。
見通しが甘かった。
ミャンマー政府が4月中のイベント自粛を発令したため、4月のMakers Marketは中止。
タイ政府も、3月26日に海外からの旅行者の入国禁止を発令したため、4月8日のチェンマイ行きは不可能になりました。
滞在期限が切れる前にどこか一時出国できる国を探しましたが、周辺のASEAN諸国はほぼ封鎖。
カタール航空がこの時期もヤンゴン線を就航していることをネット広告でアピールしていますが、カタールは物価が高そうだし、そもそも入国できるかどうかも不明(調べてません)。
最後の選択肢として、ヤンゴン-->福岡のチケットをネットで探しましたが、これが見事にない。ハノイや香港経由のメジャーなトランジット便は全便休航の模様。
見つかるのは、中華系航空会社とLCC二つ乗り継いで、移動時間が20時間以上かかる便のみ。
移動時間はともかく、この時期に複数の国でトランジットするのは、かなりリスキーです。
九歳の子供を連れたロシア人の女性が、Air Asiaで、ロシアからマレーシア経由でタイに着いたものの、コロナの陰性証明書か罹患時に10万USD以上をカバーする保険証を持っていないかで、マレーシアに戻されて、どこにも出国できずに、クアラルンプールの空港内に閉じ込められて、進退窮まったケースもFacebookで話題になっています。

こうなると割高でも、ミャンマー-->日本の直行便しかないかとANAのウェブサイトへ。
検索したら、滞在期限4月16日までの運航便の片道チケットの価格が15万円とか20万円とかの鬼価格。
ないわ。
もう何年も新しいMacbook Pro買うの我慢しているのに、そんな金は払えん。
仕方ないので、オーバステイになってもそれより安い価格のチケットを探して、4月24日発の片道8万円のチケットを購入。
通常時ならベトナム航空で往復4万円代なので、片道で2倍の値段になるのも納得いかんが、他に選択肢がないので仕方ない。
とりあえず、このチケットを押さえておいて、4月16日までに出国できる航空券を直前まで探してみます。

不幸中の幸いだったのは、Airbnbで予約したチェンマイの宿は、この期間中の特別措置として全額返還されたことと、Trip.comで予約したヤンゴン<-->チェンマイ便も、運航中止となったため、返金されたことです。

トランジット便を利用する場合は、コロナの陰性証明書が必要となるので、よくドレス買ってくれるミャンマー人のお客さんが医師だったのを思い出して、証明書発行できるかどうか聞いてみましたが、彼女の関わる医療機関では発行できないとのことでした。
ミャンマーでも 陰性証明書を取得して、タイのトランジットを経て、他国へ帰国している外国人の報告もネットにあるので、発行してくれるミャンマーの医療機関はあるはずです。
こちらが聞いたついでに、彼女がこぼしていたのは、彼女もこの時期にペンシルベニア州に住む身内を訪ねるつもりで、ヤンゴン<-->NYCの往復航空券を買っていたのが、キャンセルとなり、しかも返金されるかどうかが不明だということです。
NYCの旅行代理店からチケットを購入したので、その代理店に問い合わせ中ですが、気の毒なことに、先方からの返信はないそうです。

今回の混乱で、こうしたケースも多発しているはずです。
ミャンマーを含む東南アジア諸国の水祭りの時期は、この地域最大のバケーション・シーズンで、海外旅行を計画していた人が多いはずですから。

しかし今回気づいたのは、ミャンマーに住んでると、タイへの依存度が高いなということです。タイへビザランができないとなると、いきなり社会生活が破綻する。
ミャンマーから見て、安近短、かつ都市的な娯楽や消費が楽しめる場所は、今のところタイ以外にありません。

それから、今回の報道で覚えた英単語が、 quarantine(隔離)です。英文のニュース読んでると毎回出てくるので。
Wikipediaでペストの項を見ていたら、語源が載ってました。イタリア語が語源だそうです。
14世紀の大流行は中国大陸で発生し、中国の人口を半分に減少させる猛威を振るった。当時ユーラシアの一大勢力を築いていたモンゴル帝国ではチンギス・ハーン末裔の諸家どうしの権力抗争が続いていたところへ流行が襲い、諸家の断絶を招いて帝国を衰亡させる要因となった。ペストは1347年10月に(1346年とも)、中央アジアからイタリアのシチリア島のメッシーナに上陸した。ヨーロッパに運ばれた毛皮についていたノミが媒介したとされる。流行の中心地だったイタリア北部では住民がほとんど全滅した[6]。疫病の原因が「神の怒り」と信じたキリスト教会では、ユダヤ人が雑居しているからとして1万人以上のユダヤ人を虐殺した。1348年にはアルプス以北のヨーロッパにも伝わり、14世紀末まで3回の大流行と多くの小流行を繰り返し、猛威を振るった。ヨーロッパの社会、特に農奴不足が続いていた荘園制に大きな影響を及ぼした。 1377年にヴェネツィアで海上検疫が始まった。当初30日間だったが、後に40日に変更された。イタリア語の「40」を表す語「quaranta」から、「quarantine(検疫)」という言葉ができた。
今回は、650年前のペスト禍に比べれば、ずいぶん被害が小さいはずです(なにしろペストは、当時の致死率が60%から90%だった)。
先人の経験した壊滅的な災厄に比すれば、乗り切れないわけがないと心安んじるしかありません。

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2020年3月10日火曜日

The Makers Market #11へ出店しました

今週の日曜日に、今回で11回目の開催となるThe Makers Marketへ出店しました。今のところ全回参加していますが、もう11回目になるのかと考えると感慨深いものがあります。
今回は同じ敷地内であるものの、3日前にいきなり場所の変更の周知がありました。これについては、出店者へのメールやFBグループでの通知はなく、公式のFacebookページで一回告知があっただけでした。
変更について、事情の説明もないので、理由は不明です。
同日に、いつも開催している広場で、別のイベントが開催されていたので、会場側がダブルブッキングしたのかもしれません。



今回の会場は、カラウェイクガーデン入口近くのデッキでした。
デッキの板がところどころ剥がれいたり、外れていたりで、足場が悪く、設営にいつもより手間取りました。




いつもより狭い敷地へテントを押し込んでいるため、通路幅が狭く、動線が悪い場所だとお客さんの入りが悪そうでした。私が割り当てられた場所も、ちょっと来場者の回遊性が低そうな位置でした。
そのため、今回は厳しいかな、と設営しながら感じていました。設営終了直後に最初に来店した、アフリカ系アメリカ人の男性に、サイズ設定の説明を正確にできなかったため、販売機会を逸しました。
これは幸先が悪い。今日は出店料や移動費を考えると赤字かも、と嫌な予感がよぎります。
結果的には以前お買い上げいただいた日本人のお客様や、ミャンマー人の知り合い、撤収直前になって駆け込み的に買っていただいたお客様がいたため、なんとか黒字は確保できました。
ここへ来る労力と無店舗で運営していることを勘案すると、もう二倍くらいの売り上げが欲しいところですが、マーケティングが相変わらず課題です。商品力は他のブランドに対して優位だと思いますが(あくまで当社比)、マーケットでのブランド認知度が他のヨーロッパ人運営のブランドに比べて、相当に低い。だいたいいつもこのイベントに来てるけど、今回初めて見たというフランス人のご婦人がいたくらいですから。


デッキスペースは、カンドジー湖を挟んで、シェゴダンパゴダを臨める眺望のため、飲食スペースのロケーションは、いつもより良かったかもしれません。

急な場所の変更とか、出店者の選考結果発表日と出店料の振込締め切り日が同日とか、いろいろと運営上ではありますが、The Makers Marketがいまのところミャンマーで唯一成功しているナイトマーケットであることは確かです。
ミャンマーの屋内型ナイトマーケットとして始まったUrban 86は、運営のまずさと集客力のある質の高いテナントが集まらなかったことで、一年を待たずに閉鎖しました。
Strand Streetのナイトマーケットのテントは出店者もまばらです。
去年の雨期に始まったPansodan Streetのナイトマーケットは、その後どうなっているか話を聞きませんが、今も継続しているのかどうか不明です。 私の知る限り、特に話題になっていないようです。
上にあげたナイトマーケットの盛り上がらなさ加減に比すれば、11回目を数えるまで継続し、しかも毎回着実に集客しているThe Makers Marketの成功は、ミャンマーでは例外的と言っても良いかもしれません。

個人や中小企業が、ミャンマーでBtoCビジネスを場合、市場構造や特性を観測する絶好の機会でもあるので、ミャンマーでこうした業態にご興味があれば、ご来場をお勧めします。
このイベントでの日本人の来場者数の比率が、ミャンマーの外国人マーケット全体における消費者の比率と見ても、そう大きな誤差はないはずです。
また、ミャンマーの外国人消費者層に加えて、ミャンマーの国産品に関心を持つ0.1%のミャンマー人富裕層も観測することができます。
それを除く、ミャンマーの99.9%の消費層はミャンマーの国産品に対する消費選好はありません。
ファッションに例を取ると、ミャンマーの99.9%の消費層は、国産品よりも、H&MやZARAやユニクロなどのファーストファッションの方に関心があります。ちょっと無理をすればバンコクへ行ける程度に裕福な中産階級の若者は、H&MやZARAやユニクロを現地のショッピングモールへ買い出しへ行きます。
ミャンマーの伝統的な服飾文化をエッセンスに加えたローカルファッションに興味を持つミャンマーの消費者層は、日常的に海外へ渡航しているため、世界の主要都市のどこにでも売っているファーストファッションに、あまり有難味を感じない0.1%の富裕層のみです。

次回12回目の開催は、4月5日(日)ではないかと予想しています。

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