ミャンマーに来るようになって、早一年あまり。多くの外国人が感じているであろう、この国の人への入力(もっぱら仕事関係のオーダー)に対して、予想外の出力が返ってくる謎、「いったいこの人達の脳内OSは、どうなってるんだ?」という点について、ある程度納得のいく説明が自分に対してできたので、ここに記します。
ひとことで言うと、この国の人達の大部分が「近世人」であること。
日本の時代区分だと、江戸時代にあたりますね。
教科書が謂うところの直線的な進歩史観だと、中世・近世・近代・現代の順で、歴史が進んで来たと教えられます。
近世は、産業革命・市民革命の以前の中央集権国家があった時代。中世ほどではないが経済的合理性や個人の選択の自由より、宗教的な価値観や共同体への帰属の方が重じられた時代と言えるでしょう。
この国では「真面目」と「勤勉」は必ずしも一致する概念ではないことが、これで説明できます。
物を盗む、嘘をつく等の行為を抑止する仏陀の教えの実践と、勤勉に働いて社会活動の一翼を担うという義務感は同一ではありません。この感覚はおそらく、生産活動を行わない出家者が社会階層の頂点に存在する、上座部仏教から派生していると思われます。中国経由で伝わった大乗仏教がベースとなっている我々日本人には、なかなか理解しづらい感覚です。私もしばらくの間、真面目な人が必ずしも勤勉ではないことに戸惑いました。
この国の人達の純粋さや邪気のなさに惹かれて住んだものの、当初予想していなかった様々な人的なトラブルに
見舞われた、長くこの国に住んでいる日本人が持つ、愛憎入り交じった思いも、それなりに理解できます。
個人の経験則では、現地の高学歴の人(=社会階層の高い人達)を雇用している、または高学歴の人達とのコミュニケーションが多いと思われる官公庁・大企業の日本人の方は、ミャンマーに対する評価はすこぶる高く、高卒未満の未就学者を直接雇用している日本人の自営業者の方はそうでもないです。この評価の違いは、個々人がミャンマーで経験した事象から導かれた結果でしょう。
進歩史観謂うところ「現代」は、大衆消費社会が成立した、第二次世界大戦以降を指します。
だから、外国から来た「現代人」であるビジネスパーソンが、この国へ来て自らの常識に依って行動し、同じ価値観に基づいた相手側の出力を期待すると、予想外の結果に戸惑うことになります。契約・約束の履行、時間の正確性といった社会通念、規格品大量生産を可能にする均質な労働市場といった社会基盤は、2013年現在のミャンマーには存在しません。
ミャンマーの総人口における「近世人」の割合は、教育・就業などで国外へ出たことがある約一割を除く、九割にのぼると推計されます。国外での経験を持つ一割の人々は、いまも国外在住か、海外で高等教育を受けた富裕層の子弟なので、ミャンマーへ進出する多くのグローバル企業が期待する「安価な労働力」にはあたりません。この国に進出し、現地の人達を雇用するには、「近世人」から「現代人」へのOSのヴァージョンアップが必要になります。
ただし、識字率が約95%と高いのは強みです。
初等教育の就学率はけっして高くはないのですが、僧院での教育が功を奏しているようです。
このへんも寺子屋教育が、人材教育の底上げを担っていた日本の近世、江戸時代と重なりますね。
構造主義的な観点では文化・習慣・社会の違いは、あくまで恣意的な差異の体系であり、直線的な発達史観から導きだされるような優劣は存在しないことになりますが、ここではその点については述べません。
そんな難しいことは分らないからです。
名著の誉れ高い『
悲しき熱帯』は途中で読むの挫折したし、この分野に関する私の知見は内田先生の『
寝ながら学べる構造主義』だけです。
人口が約6000万人と多く、ほとんどグローバル企業が進出していないため、買手市場の労働市場があるとは経済誌の報道でよく見かける表現ですが、実体はもう少し複雑です。
現地の人達を雇用して、通常の期待値まで労働力としてのパフォーマンスを上げるには、再教育のコストと時間をかなり要します。それには、それ相応の企業体力とかなりの熱意が必要です。この国で成功を収めている外国人の人達は、やはり当地への思い入れが人並み外れて強かったり、不退転の決意で臨んで来た人ばかりなのも頷けます。
一方で、どんなにこちらから見て不合理な目に遭っても、相手に悪意や邪気がない、ただ常識や社会通念の在処が違うから、というケースがほとんどです。
この種のスレてなさ、ピュアネスというのは、いまや他の国ではなかなか経験できないので、そういう意味ではミャンマーにいらっしゃるのはお勧めします。観光で訪れた外国人がミャンマーを絶賛することが多いのも頷けます。ビジネス目的だと、それ相応の覚悟は必要ですが。
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