2016年3月15日火曜日

ミャンマー製トートバッグの新作できました

以前、ご紹介したトートバッグの在庫が無くなったので、新たに新色で製作しました。

今回も製作は、ミャンマーの障碍者の方の自立支援のために、縫製技術などの職業訓練を実施している日本のNPO AAR(Association for Aid and Relief)Japanさんにお願いしました。

今回は、カラーリングを変えてみました。
前回と同様、ミャンマーの伝統的なカラーリングの布を使用しています。
3パターンのカラー・バリエーションになります。




いま日本に一時帰国中で、宿泊先のTanga Tableのスタッフに持っていただきました。
持った感じを、イメージしていただけるのではないでしょうか?


私も一年間使っていますが、ミャンマーの厳しい自然環境下で使用して、今もちゃんと使えているので、耐久性はかなりあります。自宅が浸水した時は、泥まみれになって、洗濯機にかけたこともありますし。
 約一年使用した私物

ひとつ25USD(2,500円)でお譲りしますので、ご興味のある方はご連絡ください。
現状は、量産できる体制になく、少量生産となっているため、先にお申し込み頂いた方を優先して、お譲りします。

連絡先
takahal358 (at mark) gmail.com

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2016年3月9日水曜日

なぜミャンマー企業と外国企業との共同事業はトラブルになるのか?

なぜミャンマー企業と外国企業との共同事業はトラブルになるのか?
~ Pomeloで起こった紛争をケース・スタディとして考える


ミャンマーに住んでいるとミャンマー・ローカル企業と、ミャンマーに投資機会を求めてやって来た外国企業との紛争の話題に事欠きません。
よくある話では、外国企業が投資したお金が本来の目的に使用されず、JV相手のミャンマー人経営者の懐に入るとか、何の前触れもないまま、経営権を一方的にミャンマー企業に奪われとかというケースがあります。
日本食レストランや日系の自動車整備工場が、ミャンマー人経営者から投資資金を奪われたり、一方的に経営権を剥奪されたという話もかなりの頻度で仄聞します。
一般的にミャンマー人経営者は、契約の履行や、企業の公益性や、社会的な役割といった事象に関心がなく、即物的な損得勘定で行動するので、こういうケースが後を絶ちません。もちろん、そうでないミャンマー人経営者もいるのでしょうが、4年程のミャンマー在住暦で、そうした個人的な私利私欲を越えた、大きな経営的なヴィジョンを持ったミャンマー人経営者には、まだお目に掛かったことがありません。
今回、紹介する記事は、そうしたミャンマー・ローカル企業と、外国企業と生じる典型的な紛争例であり、地元メディアの『ミャンマー・タイムズ』によって、詳細な取材がされているため、図らずも恰好のケース・スタディとして、読み取ることができます。
しかも、事件の舞台がミャンマーで最も成功していると目されていた、ソーシャル・ビジネス企業のPomeloなので、なおさら資料的な価値があります。
Pomeloは、ミャンマーの少数民族や地方在住のローカルに雇用創出と、自活のための収入源を提供することを目的に、ミャンマー在住のヨーロッパ人女性を中心に創業されたソーシャル・ビジネス企業です。かつては、ノーベル平和賞を受賞した、バングラディシュのグラミン銀行創業者ムハマド・ユヌスが店舗を訪れたこともありました。
そうした輝かしい実績を持つミャンマーのスタートアップ企業が、ミャンマー人と外国人との間で、関係者を巻き込んだ諍いが起こったことに、ミャンマーで創業することの困難さが現れています。
記事は、欧米人によって書かれているため、いくぶん、欧米人側に対して同情的なスタンスで書かれていますが、基本的に関係者に対して中立的な態度でインタビューしているので、それぞれの関係者の立場を勘案し、行間を読みながら、事態を把握すれば、なかなか表に出てこないミャンマー・ビジネスの実態が窺い知れると思います。


ここ数ヶ月の肉体的な暴力、脅迫メール、公的な中傷が続いた後の帰結として、Pimeloの未来のヴィジョンを巡って、創業者の一部が放逐されることになった。『ミャンマー・タイムズ』の記者RJ Vogtはソーシャル・ビジネス企業としてヤンゴンで最も愛された会社に何が起こったのかを取材した。

両者とも商品を製造し、店舗での売上げにより生計を立てていた生産者の利益を守るため最善をつくしたと考えている。Photo: Supplied

ヤンゴンで最も人口に膾炙していたソーシャル・ビジネス企業のPomeloが、将来の戦略についての根本的な相違があったことで、経営権を巡る紛糾が起こった。

以前は創業者であり、ゼネラル・マネージャーで、主要デザイナーでもあった人物によれば、自分達は職場から追い出され、締め出され、揉め事がエスカレートする中で肉体的な暴力さえ受けたと語っている。

一方、ミャンマー人のパートナーによれば、Pomelo Company Limited (PCL)の会社登記とそれに続く経営体制の変更は、ローカル・パートナーを外国人による支配から守るために必要な措置だったと主張している。

『ミャンマー・タイムズ』によるインタビューで、Daw Thea Theaによれば、PCLはPomeloの本来の目的であった、生産者主導の市場という理念を守るために、会社登記を行ったと語った。

「企業統治の変更のプロセスで最もいただけなかったのは、彼らが外国企業として登記しようとしたことです。それは外国人が会社を乗っ取ろうとする行いに思えます。みんな、どうして外国人が経営権を握るのかを疑問に思っていました」。

だが、共同創業者のRachael Storaasは、Pomeloは経営権を外国人に受け渡そうと意図したわけではないと語る。彼女とそのチームは事業を成長させるためにジョイント・ベンチャーを立ち上げるつもりだった。それは、会社の成長にもつながる上に、増加している生産者にも学習と利益の機会を提供することになる。常に私達は非営利団体だったし、ミャンマー人のためになることを常に考えてきた、と彼女は主張する。

いがみ合いと混乱の2月を経て、両者は法的措置に踏み切った。『ミャンマー・タイムズ』はPCLのアドバイザーから、受取人は長期的な訴訟と、国外退去のリスクにさられるとの脅迫的なe-mailを受け取った。2月17日付の店舗の監視カメラはPCLのアドバイザーが主要デザイナーであったUlla Kroeberに対して口論の末、暴力的な行動を取った映像を記録している。

店舗は存続しているが、Webサイトは、現在の経営主体は、過去4年間の成長を導いた人々とは無縁だと注意を喚起している。

紛糾の最中で、50を越す生産者は蚊帳の外に置かれていた。ただ、自分達が作ったものを売れる機会が訪れるのを待つばかりだ。
シャン州の生産者の一人Pau Sonは、スタッフの変更についての知らせを受けたものの、他の生産者の多くは情報を得ていないと語る。

2月24日のインタビューで彼は語った。「本当にとんでもないことだし、悲しいことだ。これをミャンマー人のやり方だとは思って欲しくはない。がっかりしたのは、彼らが事前に何も知らせてくれないことだ」。

主張の食い違い

今回の紛争は、Pomeloが2013年に共同創業者のRachael StoraasとAnnie Bellにより、ミャンマー人生産者に対して、リサイクルのノートブックや装飾品などを生産委託する、持続可能性のある土産店として創業されたことに端を発している。しかしながら、ミャンマーはソーシャル・ビジネス企業が登記する法的なインフラが欠けているため ― そして現在もそのインフラは存在しない ― Daw Thea TheaとYangon City Development Committee(YCDC)へ登記するためチームを組んだ。

Pomeloは、外国人が土産物店として登記することができないため、Daw Thea Theaの名義で会社登記がなされた。

Daw Thea Theaは、彼女は2008年からPomeloの創業を考えていたと主張する。その後の会社登記につながる2012年の話し合いは、彼女が主導したと主張する。

「みんなでビジネスを始めることが、私たちの夢でした」。

たった2年間で委託生産者をひとつから50まで、拡大することができた。主要デザイナーとしてドイツ人建築家のUlla Kroeberが参加した。Paula Cambaは、ボランティア・スタッフとして関わる前は、ゼネラル・マネージャーとして貢献したが、その後、Natalie Ortizが後を継いだ。会社は、英語や他のスキルの傍ら、生産者へのプロダクト・デザインのトレーニングを課すことから始めた。店舗は観光客による客足が望めるモンスーン・レストランの上階(後に隣の建物に移転)に設けられた。店舗はすぐに『ニューヨーク・タイムズ』や『ロンリー・プラネット』や『トリップ・アドバイザー』に取り上げられるようになった。
もうすぐ、生産者達は、Pomeko Company Linitedか、放逐された外国人が作る新しい店舗のどちらを選ぶのかの選択を迫られる。

2015年まで、Pomeloはまさに破竹の勢いだった。アメリカからの大量注文があった際には、私企業が法人口座を銀行に作るのが事実上不可能なことが分かった。輸出のためには、輸出ライセンスが必要となるが、土産店はそれを申請できない。Pomeloは正式な役員会を持たずに、ただMs StoraasとMs BellとDaw Thea Theaとその他のボランティアによって各々運営されていた。それは、生産者への専属的な契約が、各々によって結ばれることにもなった。Ms Storaasは、懸念していたことは、土産店という業種上、適正な税金を払えなかったことを述べている。
Ms Storaasと彼女のチームは、会社組織の変革のために、国際的な法律事務所のBaker & McKenzieにコンサルティングを依頼した。

Ms Storaasが2月25日に語るところによると、「Pomeloを、Ulla Kroeber、Paula Camba、もちろんDaw Thea Theaの経営権の元、よりミャンマーの現状に則した組織として登記するため、法律事務所に相談しました」。

ブリティッシュ・カウンシルのアドバイザーDon MacDonaldによれば、Pomeloは、そもそもまったく見解の異なるグループによって始められていた、と語る。一方は、外国人によるジョイント・ベンチャー企業として、Pomeloのすべての商品開発や生産者の訓練、販路拡張を図っていた。他方は、小売店を商う、純粋な地元資本による地場企業だ。

「我々の業務は定款の文書を作成することだった。それはローカルの生産者を含むと同時に、マーケティング計画とローカルの生産者との利益の配分計画も含まれていた」とMacDonald氏は語る。

しかし、この提案はDaw Thea Theaと何人かのPomelo関係者には納得のいかないものだった。彼女の言うところによれば、彼女はこのプロセスとは関わっておらず ― Ms Storaasは否定していることだが ― 意思決定から外されていると感じた。彼女にとっては、Pomeloを外国人オーナーシップへ移行することは、創業以来のミャンマーの地方の人々へ奉仕するという目的から遠ざかることだった。彼女は生産者のグループ、ミャンマー人のオーナー達、外国人アドバイザーの三者に権力を分割することを主張した。彼女によれば、この時から、外国人達は彼女を締め出しにかかったと言う。

しかし、Ms Storaasによれば、提案した変更はローカルの生産者の利益を保護する重要な条項を含んでおり、会社はローカルの生産者のみへ利益を供与し、その利益は生産の開発に再分配されることについてであった。しかも今回の措置は、ミャンマーの法律がソーシャル・ビジネス企業をより良い方法で登記できるようになるまでの一時的な措置だった。

彼女によれば、Daw Thea Theaは12月11日のミーティングで明確に「すべての利益は会社へ再投資する」ことを約束したと言う。そして一週間後に、その考えを翻した。この提案をフォローするミーティングは開かれることはなかった。そして、1月中旬に新しいPomeloが、投資・企業設立委員会(Directorate of Investment and Company Administration)へ登記された。DICAのWebサイトによればPCLは、Ms Bell により運営されている生産者グループHelping Hands を住所に、Daw Thea TheaとAkhaya Women’s AssociationのDaw Htar Htarが役員として登記されている。

敵対的な関係に発展する

2週間後にDaw Thea Thea とDaw Htar Htarは、Ms Kroeber、Ms Camba、Ms Bell、Ms Storaasへこれまでの貢献を感謝すると共に、彼女達の専門性は、今となっては必要ないことを文書で通知した。

Ms Kroeberは、2月4日の店舗での彼女の解雇のやり方は「強引だった」と述べる。Daw Thea TheaとDaw Htar Htarは、Ms BellとNeil MacIntyre,を伴いやって来た。Neil MacIntyre,は、ネット上では子供向け栄養ドリンクの会社の創業者だが、それ以前にPomeloとの関わりはない。

Ms Kroeberの受け取った文書は、4時間以内に、パスワードや鍵等のすべての会社の情報を手渡すように告げていた。ヤンゴンでの仕事がある間は、Pomeloのオフィスに住んでいた彼女は、住む場所を追われた。
Pomelo唯一の給与を貰っていたフルタイム従業員のMs Ortizも似た内容の文書を受け取った。彼女は解雇されない替わりに、PCLの役員にすべての案件を直接リポートすることを義務付けられている。

Pomeloのアイコン的な存在であったビニール・バックは、Ulla Kroeberのデザイン力によるところが大きい。彼女も会社から放逐された外国人メンバーの一人だった。

今回の紛争が、最初に人に知られるようになったのは、Ms Storaasが2月7日に彼女の立場から、今回の紛争と店舗の将来の方向性について、「意見の相違」があると大量のeメールを送ってからだ。

このeメールは、PCLの新しい体制は、「今のPomeloは、元からあったものとは別物」であり、「今のチームは自分達とは関係ない上、生産者のコミュニティとも関係がない」と告げている。

「Pomeloは損なわれる大きなリスクを抱えている。今まで達成した成果が無に帰すリスクがある。増え続けていた、生産者のボランティア・グループによって生み出された収入に大きなリスクがある」と彼女は書いている。

それからしばらくして、脅迫がはじまったと彼女は語る。彼女は、名誉毀損や電子取引法への違反の法的措置が取られる可能性を告げる、Pomelo役員会署名のeメールを受け取った。

Mr MacIntyreは2月15日にノルウェー語で、Ms Storaasが語ったことへの対策についてのeメールを送った。

「我々は貴殿がこの国に留まることを求めることを決議した。貴殿は名誉毀損で訴えられる可能性があるためだ」と彼は書いた。「この措置には時間を要するため、貴殿がこの国から退去を望むなら、現時点でそれは可能である」とも。

Mr MacIntyreは、実際に名誉毀損の訴訟を起こしたかどうかについて、明言することを避けた。

『ミャンマー・タイムズ』は、Mr MacIntyreがMs Kroeberと彼女の夫Mr Hans ten Feldを押している、2月17日のPomelo店内での監視カメラの映像を確認した。

コメントを求められたMr MacIntyreは、eメールで「ミャンマーの刑法には、本人及びその他の人物に対する犯罪及び、資産もしくは人物に対する損失から守るための穏当な力の行使は認められている」と書いている。

紛争の申し立てから、2、3日後、地元警察がやって来て、ショップ・スタッフへ店舗の鍵をPCLの役員へ渡すように命じた。店舗の借主は、Daw Thea TheaでもPomeloでもなく、ミャンマー人従業員の名義になっている。2月20日に、この従業員はBotahtaung警察署へ出頭を求められ、彼女はMs KroeberとMs Storaasを伴い出頭した。彼女達はPCLが事務所を占拠する正当性に対する疑念から、警察の念書なしに鍵を渡すことを拒否した。
警察は文書の発行を断り、Daw Thea TheaとDaw Htar Htarは鍵を手にせずにその場を去った。
2月22日に、追放された外国人側によれば、ショップの鍵は取り替えられた。

これからPomeloはどうなる?

Pomelo Company Limitedは、昨日の午後には、通常通りの姿に見えた。旅行客は最近の紛争とは無関係に、紙製のキリン人形やお洒落なクッションを物色していた。ただWebサイトのみが、トップに“pomelopartnerships”から送られるeメールは、過去4年間に日々のオペレーションをしてきたグループから送られて来ていないことを告知しており、その変化を知らせている。

Daw Thea Theaは、過去の年月はまるで悪夢であり、今のような状態を望んだ訳ではないと語った。外国人達が以前の仕事から離れるのは残念だが、Pomeloの理念を守るためには仕方がないと感じている。

「誰が正しいわけでも、悪いわけでもありません。ただ、それが起きたということだけです」。

プレスに対する説明として、PCLの役員は「ミャンマーがもっとオープンで社会的になる変化の時が来た。Pomeloはミャンマーのソーシャル・ビジネス企業として力強い先行例として、その役割を果たすだろう」と語った。

「Pomeloは、正しい人物の手中にあります。そして、役員は素晴らしい仕事をして来た、スタッフや生産者達、いまも協力してくれているコミュニティに感謝しています」。

Ms Storaas,、Ms Ortiz、Ms Kroeberの三人は、Pomeloに対して、店舗内の在庫、これまで投資した金額についての法的な主張はしていない。

なぜなら、Daw Thea Theaの名義で登記された土産物店であり、法律関係者からもうPomeloは諦めて、別のビジネスをはじめることをアドバイスされているからだ。

Ms StoraasはPomeloから給与は貰ったことはないし、最初に投資した6,000US$も取り戻していないが、1億1千9 百万チャット (95,967US$)が今PCLの管理下にあると語った。

しかし、彼女はPomeloのチームによって提供されたサービス、アイデア、デザイン、サポート、トレーニングは、もう店舗によってではなく、PCLによって運営されていると指摘した。

このPomeloのチームは、新しいソーシャル・ビジネスの計画を練っており、サポートしてくれる新しいパートナーを探している。サポートは生産者によるものもあるが、24の業者は2月22日に、ビジネスの変更について抗議する文書を発行した。

「私達はPomeloにいる外国人の専門家に新商品の開発を頼っていました。それは、Pomeloを成功させる要因であったし、この成功をローカルの生産者だけに任せて台無ししたくはありません。私達は、店舗が2月4日以前と同じように再び運営されることを望んでいます」と、そこでは述べられている。

Pau Sonは2月24日の『ミャンマー・タイムズ』のインタビューで、このサポートについて繰り返し語った。
「今のビルマ人の連中とは絶対組みたくないね」と彼は言う。「Ulla [Kroeber]は我々にとって母親みたいな人だった。彼女は優しかったし、魅力的な人だった。連中が彼女にしたことは、到底受け入れることができない。どうせならUllaと一緒に働くことを選ぶよ」と彼は語った。   

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2016年2月29日月曜日

At Last I Am Free

関係各位

2月29日を持ちまして、約3年間在職していたミャンマーのローカル企業を退職することになりました。
在職中は、皆様にひとかたならぬお世話になりました。

今後については未定ですが、退職後もミャンマーに留まるつもりです。
再就職も視野に入れますが、現実的には、パートタイム的な仕事をしながら、自分の事業の立ち上げの準備をすることになるかもしれません。

今回のことで、ミャンマーらしいなと思ったのは、同じ会社に所属して、アパートに同居しているミャンマー人の青年に、こういうことで僕は2月一杯で今の会社から去るからと夜に伝えたら、翌朝、事務所に行ったら全員に知れ渡っていたこと。さすが、ミャンマー人連絡網遺漏がない。

とりあえず、今脳内で鳴っているのは、ロバート・ワイアットのこの曲 "At Last I Am Free"



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2016年2月24日水曜日

Yangon Fashion Market on 20 Feb 2016

先日、ヤンゴンで、ミャンマー・ローカル・ブランドのファッション展示会Yangon Fashion Marketが開催されていたので、ご紹介します。

会場は、ヤンゴンの高級コンド ゴールデン・ヒルの敷地内のレストラン・エリアです。ヤンゴン屈指のクオリティとお値段を誇るレストランが軒を連ねる、私が滅多に足を踏み入れないエリアです。


敷地内にテントを張って、ポップ・アップ・ショップの展示・販売会が催されていました。




洋服以外にも、ミャンマーのアクセサリー・ブランドも、展示・販売していました。


作りが良くて、クオリティが高いなと思ったのが、このブランドCharlotte Barjou、ミャンマー在住のフランス人女性により、最近創立されたブランドです。


デザイナーの女性とちょっとお話ししましたが、近々アトリエを構える予定とのこと。ミャンマー発の本格的なファッション・ブランドとして立ち上げるようです。

ミャンマーのファッション産業にも、オリジナルのブランドが生まれるようになったことを目の当たりにして刺激を受けたので、自分もミンガラーゼイに生地を探しに行ってみました。
人づてに聞いたところ、ミンガラーゼイは複数の同じ生地を買える市場ということ。街の生地屋だとほぼ一点物なので、気に入った柄の生地があっても同じ物を複数枚作れません。


ミャンマーのローカル市場らしい、カオス状態です。


同じ生地が複数枚売っている店もあるようですが、商品により在庫がバラバラで、自分の欲しい柄が複数枚買えるとは限りません。ミャンマーの小売事情では、同じ物を必要なロット分購入するのは難しいようです。
製造元に問い合わせしないといけないのかな?、と考えました。

今回ご紹介した、Yangon Fashion Marketも反響があれば、3ヶ月毎の開催も検討しているようです。最近は、化粧するミャンマー人女性も増えてきたし、ファッションやそれに付随する産業も、ミャンマーで成長することでしょう。

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2016年1月20日水曜日

ミャンマーでデヴィッド・ボウイについて考えた

デヴィッド・ボウイが1月10日に亡くなりました。
先週は、Facebookのタイムラインが、ボウイ関連の話題で埋め尽くされていました。
ただ、ミャンマー在住日本人やミャンマー人は、まったくと言っていいほど無反応だったので、一人くらいこの件について書いても良いかと思い、この投稿をします。

1. デヴィッド・ボウイと私

私が初めてボウイを聴いたのは、15歳位だったと思います。
『ロック名盤百選』みたいなガイド・ブックを読んで、当時、すでに名盤として評価されていた『ジギー・スターダスト』を知り、有名なアルバムらしいから聴いてみようと思ったのがきっかけです。
当時、厨二病真っ盛りの私は、当然のようにハマりまくりました。
思春期の自我の目覚めや、ロックリスナーの感じるマイノリティとしての疎外感といった当時の心情に、ボウイの楽曲がピッタリと寄り添うに感じられたのですね。今、思い出すと、気恥ずかしいですけど(笑)。
それから、『アラジン・セイン』、『ロウ』とアルバムを聴き進み、すっかり私の思春期時代のアイドルの一人となりました。
地方の中途半端な進学校で、抑圧的で鬱屈した青春を過ごしていたため、ボウイは、そうした状況から精神的に解放されたいという願望を仮託する対象であると同時に、その存在のあり方が権威的なものからの解放の象徴として感じられた訳ですね。
ティーンエイジ・アイドルとしてのボウイ受容の典型的な例だったと思います。

高校を卒業して大学生になると、環境が変わり、すっかり能天気になったため、いつしかボウイを聴く機会も少なくなってしまいました。『レッツ・ダンス』以降のアルバムは、ほとんど聴いていないので、忠実なファンとはとても言えませんね。

ボウイについて詳しく知りたい方は、NHKサウンドストリートの放送の書き起こし「渋谷陽一、デヴィッド・ボウイ(David Bowie)を語る」をどうぞ。私のボウイ観は、大部分、渋谷陽一氏に影響されています。この放送もリアルタイムで聴いていたはずです。







2. デヴィッド・ボウイと仏教

ボウイのキャリアの特徴として、アルバム毎にコンセプトを明確に設定して、楽曲もヴィジュアル・イメージもキャラクターも次々と変化させていったことがあげられます。
中性的な衣装に身を包んだ地球に落ちてきた異星人(グラム期)--> カルロス・アルマーやルーサ・バンドラスといったアメリカのソウル/R&B畑のミュージシャンを起用したブルー・アイド・ソウルマン(プラスチック・ソウル期)--> ブライアン・イーノとベルリン三部作を製作した耽美的なアーティスト(退廃的ヨーロッパ人期)--> シックのナイル・ロジャースをプロデューサーとして抜擢したポップスター(MTVポップスター期)と時代や本人の興味の変遷につれて、サウンドやイメージやキャラクターが目まぐるしく変化して行きます。

現在、原始仏教について、理論・実践の両面から、明晰かつ簡略な解説・説明がなされていると評価の高い『仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か』という本を読んでいますが、読んでいて分かり辛かった部分が、ボウイのキャリアをイメージしたことで理解が進みました。
この本で説明されている、「我・無我」についての部分です。
ブッタは、「常一主宰」の「実体我」を否定しています。
それでは、ブッタの「自らを島とし、自らをよりどことして、他をよりどころとせず」という発言の「自ら」とは何?、という疑問が生じます。加えて、仏教の謂う輪廻転生があるなら、「実体我」のない世界での輪廻の主体は何か?、という疑問も生じてきます。 
本書では、ブッタは「常一主宰の実体我ではない経験我については、必ずしも否定していない」、仏教で言及される自己とは、「縁起の法則にしたがって生成消滅を繰り返す諸要素の一時的な(仮の)和合によって形成され、そこで感官からの情報が認知されることによって経験が成立する、ある流動し続ける場のことである」と述べられています。
これを読んでも、いまいちピンと来なかったのですが、ボウイについて、それぞれの特定の活動期(ex.グラム期)の中に実体を探すのではなく、変化・流動し続ける運動体として捉えることで、アーティストとしての全体像を結ぶことをアナロジーとして考えたことで、腑に落ちた気がします。

仏教の理解にも役立つとは、ボウイの偉大さを改めて認識します。



3. デヴィッド・ボウイとミャンマー

冒頭にも述べた通り、ミャンマー国内ではボウイの訃報に関してのリアクションはほとんどありませんでした。試しに、事務所の子にボウイを知っているかどうか聞いてみたのですが、やはり知らないとのことでした。1962年から2011年までのボウイのキャリアを占める大部分の期間を、事実上の鎖国をしていたので当たり前と言えば、当たり前ですが。
ただ、ミャンマーのジャーナル『Myanmar Times』には、ボウイについての記事が掲載されていました。英『Guardian』誌からの転載記事ですが。



そう言えば、半年くらい前にバンコクで買ったボウイTシャツをミャンマーで着ていても、突っ込まれたことがありません。先週、イギリス人が経営する近所のカフェ&バーRough Cutで、これを着ていたら軽くプッとされたのが、唯一の反応らしい反応です。


まだまだ、ミャンマーに来る外国人のタイプもビジネス一辺倒の人が多く、アートとか音楽とかファッションとか文学とか、つまりボウイが一人で総合化して、体現したような分野に興味がある人が少ないようです。
私も話し相手が欲しいので、そういう人が増えてくれたら嬉しいです。
ゴルフと買春の話題には、まったく興味がないので。 

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2016年1月2日土曜日

サンチャウンに完全ブルックリン仕様のカフェ&バーが出来ていた

新年明けましておめでとうございます。
ミャンマーで過ごす、元日も5回目となりました。
ミャンマー人にとっての新年は、4月の水祭の時期なので、ヤンゴンの街では、特別な年末感や新年感はありません。
ミャンマーの暦では、この時期は休日ではないので、いつも通りに過ごしています。

さて、新年早々驚いたことがあったので、ブログを投稿します。
ミャンマーで難儀なのは、行くお店の選択肢が非常に少ないことです。
休日に読みかけの本を持って、座り心地の良いソファでくつろぎながら読書に没頭できるようなカフェは、非常に少ないです。とりわけ私が住んでいる地域のサンチャウンには、今まで、まったくと言っていい程ありませんでした。
そんなカフェ不毛の地サンチャウンに、もの凄く居心地の良いカフェ&バーがいつの間にか出来ていました。



Facebookページで偶然見て、存在を知ったのですが、サンチャウンの裏通りにこんなブルックリンぽい空間が作られていたことに驚きました。




ラフだけど趣味の良いインテリアや、店主の趣味が反映されたブラック・ミュージック中心のBGMなど、従来のミャンマーのカフェには無かった卓越したセンスです。壁のレンガを剥き出しにした内装は、いま流行のブルックリン風カフェに通じるさりげない格好良さを感じさせます。


店主は、ミャンマー滞在歴5年のイギリス人です。自分の行きたい店が、ミャンマーには無かったので、自ら作ったとのこと。内装もほぼ自分一人で仕上げたようで、この完成度に持って行くには、ずいぶん手が掛かっただろうと思います。
オープンして3ヶ月あまりとのことですが、近所にも関わらず、今まで気が付きませんでした。サンチャウンの居住者でも、あまり行くことがない裏通りの奥まった場所にあるので。
とりあえず、これからのサンチャウンで時間を過ごす時は、このお店に行くことに決めました。今まで、ミャンマーにこんなお店があったらいいなと思っていた理想のカフェが、こんな近所に出来ていたとは、嬉しい驚きです。

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2015年11月28日土曜日

ミャンマー・ドリームの終焉

先日、INSTITUT FRANÇAIS de BIRMANIE(ミャンマーのフランス文化センターみたいな所)で、昨年に引き続き2回目のWorld Music Festivalが開催されました。

2014年11月
2015年11月

欧米人の観客がメインのイベントなのですが、去年に較べて外国人の数が減っているような気がしました。
在ミャンマー外国人の情報交換のためのFacebookページYangon Connectionでも今年に入ってから、ミャンマーから出て行く外国人が家具や電化製品を売るためのガレージセールの告知が目立つようになっています。
統計データがないので、あくまで体感なのですが、ミャンマー在住外国人口は絶対数が減っているのではないかと推測します。この一年は、ミャンマーからの外国人の転出数の方が、転出数より多いのではないでしょうか。

ミャンマーの軍事政権が民主化へと舵を切った時には、ミャンマーは「アジアのラストフロンティア」とさかん喧伝されました。たしかに、先進国では当然あるような商品やサービスの多くはこの国には存在しないため、最初にこの国を見た時には、競合の存在しない手付かずの広大な市場が拡がっているように思えます。
ただし、 実際にビジネスを始めるとなると、難易度は相当に高いと言わざるを得ません。
電気・ガス・上下水道等のインフラが未整備な上、事業に関する法規制も運用が曖昧な場合が多く、行政手続き等が必要な場合は、申請方法が不透明で、非常に時間を要することも良くあります。
特に問題が頻発するのが、人の問題です。
合弁等で現地企業と事業する場合、現地パートナーが契約を守らない、適切な会計を実施しない等のトラブルが起こり得ます。そもそもミャンマーでは、従来、文書よりも口約束で仕事を進めることが多かったため、契約書や財務資料の重要性を認識していないことが多々あります。たとえば、契約を締結しても内容を読んでいないため、当然のように契約を守らないといったケースもあり得ます。
また、現地で従業員で雇用する場合も、先進国企業の要求水準に達した能力を持つ人材を探すのは極めて困難です。ミャンマーの教育制度に問題がある上、就業経験を通じて一定水準のスキルに達した人材は極めて稀です。よくある例をあげると、飲食店だと器の中に指を入れて配膳しないように注意しないといけないし、デスクワークだとエクセルのシートを作る時は、電卓で計算した値をセルに打ち込むのではなく、計算式を入れて自動計算させることを教える必要があります。
日本からミャンマーへ進出する業種として、飲食業が多いことが目立ちます。製造業等と比較して設備投資の金額が少ないため、個人経営者でも参入が比較的容易であることや、インフラの脆弱さから受ける影響が小さい等の理由からでしょう。
ただし、経営を継続するだけの売上を確保することは難しいようで、一年足らずで撤退するケースが相次でいます。
ミャンマー進出の際にはさかんにプレスリリースを発表したものの、ひっそりと撤退した居酒屋チェーンハンバーガーチェーンもあることから、個人経営に較べて資金・人材等のリソースが豊富な企業体にとってさえ経営が難しいことが伺えます。

最近では、途上国を先進国の市場化することは原理上不可能という説も出始めているようなので、「アジアのラストフロンティア」という認識は、元々無理があったのかもしれません。
以下にそうした議論のひとつをWebから引用します。
そこで先進国によってかつて徹底的に“低開発化”された途上国が先進国のかわりに成長して、先進国を下から押し上げてくれるんじゃないかという都合のよい期待が出てきました。“周辺”が“中核”になっていくという、世界システム論の視点からすればありえない矛盾したストーリーが21世紀になってもてはやされるようになったのです。
<中略>
最初は鳴物入りだったこの議論も、最近は思ったような成長発展が見られず、ずいぶんと旗色が悪くなってきています。結局、“低開発化”された“周辺”は“中核”とは異なる道を歩んでいるので、同じような成長をすることはできないのです

1年足らずで閉店したサンチャウン通りのトリンプ。日本資本であったかどうかは不明


ミャンマーへの製造業進出の切り札と見られていたティラワ工業団地も、工場建設のコストがベトナムと比較して四割程度割高で、経済合理性の観点から大規模な工場の建設に踏み切れないと伝え聞いたこともあります。

近所の友人から話を聞いたところ、最近では企業体力のない中小企業はミャンマーを去り、代わって中堅企業・大企業が長期的な展望のもとに進出を始めたとのことです。
現在のミャンマーのビジネス環境では、短期的に利益を上げるのは非常に難しいので、企業体力のある中堅企業・大企業の進出が中心となってきているのは、必然かもしれません。
ゴールドラッシュ的な射幸心に誘われてミャンマーにやって来た外国人が経済的に報われたケースは、私の知る限り見受けられません。 「アジアのラストフロンティア」としての、ミャンマー・ドリームはもう終わったのかもしれません。今や、ユーフォリア的な夢から目覚め、現実のミャンマーと向き合う時期に来ています。

これからは、企業体力のある中堅企業・大企業がミャンマー進出の主流になるのでしょうが、それだけでは寂しいので、個人起業家にも奮起してもらいたいものです。
エコツーリズムや少数民族の製造する民芸品の企画・販売等は、市場規模が小さく大手の参入する余地が少ないので、ミャンマーでは個人のビジネスチャンスのある業種ではないかと思います。開発途上国のミャンマーには、手付かずの自然や、古来からの文化や伝統を受け継ぐ少数民族が数多く残っています。
エコツーリズムの分野では、面識はありませんがこの人に注目しています。異様な行動力があるし、男気(女性だけど)もあるし。
人のことばっかり言ってないで、自分でもやらなきゃとも思いますが、現実のミャンマーを見続けているとなかなか踏み切れないのが辛いところです。

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2015年11月16日月曜日

ミャンマーでキラキラ女子について考えた

グーグルのキーワード検索数ランキングを眺めていたら、1位が「ミャンマー」だった。選挙が終わって、日本でもずいぶん注目されているんだなあと実感。
でも、2位の「ばびろんまつこ」って誰?

 Google先生に聞いてみた。
ばびろんまつこは、そのキラキラしたツイートで知られた人物。
ブランド品や海外旅行、高級マンションに高級料亭などを誇示し、わかりやすいセレブツイートを連発しては多くの人からの支持を集め、キラキラ系には憧れの存在となっていた。
こういうツイートをしていた人物らしい。 ずいぶん強気だ。
 「正直な話年収が1500万超えたあたりから自分より年収が低いであろう異性は自然と身近にいなくなる。いてもコンビニの店員さんとか宅急便の配達員さんくらい」
「若かりし頃に一度だけエコノミーでヨーロッパに行ったんだけど、まるで奴隷船のようでわくわくぎゅうぎゅうな感じが楽しかったな」
「秋冬物のお買い物は、アイテム一つに余裕でOL1ヶ月分のお給料か飛んでいく」
偽ブランド品をネットオークションに出品し、京都府警に逮捕された無職の女(26)は、セレブ生活を自慢する「キラキラ女子」としてネット上で話題になっていたらしい。
そして、 偽ブランド品をネットオークションに出品したことが発覚して、逮捕されたことで、Twitterフォロワー以外にも知られることになり、 グーグルのキーワード検索数ランキングでミャンマーに次ぐ2位になっていた模様。

いつもなら、ふーんで終わるトピックなのだが、今回は引っ掛かるところがあった。この人の教育的バックグラウンドが私と非常に近いのだ。
卒業した大学は同じ(学部は違うけど)、高校も自分と同じく九州の地方公立校。しかし彼女は、そうした教育的バックグラウンドを持つタイプの一般的な人物像から、言動とか行動形態が、ずいぶんとかけ離れている。
私の学生時代の友人・知人の八割くらいは、自分も含めて地方公立高校-->地方国立大学という進学コースだったので、こうしたコースを歩むタイプの人達の行動様式とか思考パターンはかなり知っているつもりだ。
良く言えば質実剛健で堅実、悪く言えば地味でいささか退屈な行動様式や思考パターンの人が多い。学生時代から堅実で、あまり冒険や無茶をしない。卒業してからの就職先も、地方公務員や地銀や地元の公立校の教員などの堅実なところを選ぶ傾向が強い。ベンチャー企業や外資系企業などの華やかそうではあるが、浮き沈みが激しい会社を希望することはほぼない(希望しても、入れるかどうかはさておき)。生活様式も地味で堅実で、民間よりも政府機関、株式投資よりも郵貯、メガバンクよりも信用金庫、外車よりも国産車、紀伊国屋よりも生協、みたいな選好をする傾向が強い。
要するに、ばびろんまつこさんがさかんにツイートしていたような、ラグジュアリー・ブランドのバックをたくさん持ったり、ハイエンドなリゾートホテルに宿泊したりするライフスタイルから、かなり遠い場所に位置するセグメントである。

どうして、彼女は地方公立高校-->地方国立大学という出自が必然的に導く、地味で地道なジミジミした価値観・ライフスタイルから、キラキラしたラグジュアリーな世界へと転向を試みたのだろう?
テレビのワイドショーでもこの事件が取り上げられたようなので、識者やコメンテーターがテレビでコメントしたり、コラムニストが週刊誌に論評を書いているだろうが、おそらく、彼女の心理の深層には踏み込めてはいないと思う。
そうしたマスメディア内で情報発信する職業や立場にある人の中に、地方公立高校-->地方国立大学という出自を持つ人はほぼいないから。
地方公立高校-->地方国立大学の進学者に共通した心象風景を持たない人々が、この事件について語ってもリアリティがないように思う。
サイレントマジョリティという言葉は元々、知識人層が持つような属するクラスを代表するスポークスマン・語り部を持たない、アメリカの物言わぬブルーカラー・労働者階級を指していたようなのだが、 地方公立高校-->地方国立大学といった出自を持つ人々も同様に、その数は多いものの語り部を持たない階層だと思う。
あなたの周囲や親戚の中にも、地元の国立大学出て、地方公務員や地銀に勤める人はきっといるだろうが、そういった人々は大抵SNSもブログも熱心にやってないないはずだ。所属組織や地域社会が居場所である彼らにとって、不特定多数に情報発信する必要性もインセンティブもないから。
でも、彼女の置かれた環境や文化的背景を理解できる当事者が一人くらい、この件について書いた方が良いだろうと思ったのが、この投稿のきっかけだ。
同じ出自を持つ一人として、なぜ彼女がキラキラした世界を目指したのかを考えてみた。
おそらく、彼女は地方の日常に潜む継続性や予測可能性を、退屈さや凡庸さとして嫌っていたか、もしかしたら憎んでいたのではないかと推測する。昨日の生活が今日も繰り返し、そして明日にも繰り返される。代わり映えのしない日常は未来永劫繰り返し、それは自分が地域の共同墓地に親族と共に葬られるまで続く。地に足が着いた人間としては当然の与件として受け入れるべき条件だが — 地方公立高校-->地方国立大学の人間の多くにとっては社会生活の前提条件 — 彼女には耐えがたかったのではないか。

ファースト風土が土地を覆い、ヤンキー・ギャル的な価値観・美意識が幅を利かす地方に馴染めず、東京へと脱出を図るものの、突出した才能や能力が無ければ、やはり東京に居ても何者にもなれない。そうした、地方と東京とに引き裂かれた地方出身者の状況や心理を、地方に住む10代から30代の女性の日常を通して鮮やかに描いた連作短編集が数年前に話題になった。
本のタイトルが『ここは退屈迎えに来て』なのは象徴的だし、本当に秀逸なタイトルだと思う。



でも、地方で待っていても都合良く、誰かが迎えに来てくれるわけはないので、彼女も自分から出て行くしかなかった。地方での職を捨て、東京に出た彼女は、キラキラ生活を支えるパトロンを探していたようだが、生活全般に渡って面倒を見てくれる太客はどうも見つからなかったようだ。
デヴィ夫人や叶姉妹ほど大胆不敵になれないところが、地方国立大的な中途半端さと振り切れなさを感じさせて、愛おしさすら感じる。そういえば、ガブリエル・ココ・シャネルも貧しい出自から、愛人家業で得た資金で自らのブランドを立ち上げ、モードの帝国を築き上げたのだった。

この人のツイートをちょっと見てみたが、シャネルやデヴィ夫人や叶姉妹のような底辺から成り上がった人物特有の底の見えない怪物性は感じられなかった。良くも悪くも普通の女の子が、ネットで別人格を演じているうちに、気がついたら戻れない場所まで来てしまったという印象。もちろん犯罪はいけないことだけど、詐欺が発覚したため、事態がさらにエスカレートする前に中断して良かったのではないかと感じる。
中には諧謔味や自虐性を感じるツイートもあり、設定したキャラクターが時々ブレているのも微笑ましい。



私は、自分と共通する彼女の教育的バックグラウンドから、彼女の言動について考えてみたが、もちろん違った観点からの見方もある。

某掲示板の鬼女板で、いかにも盛り上がりそうなトピックだなと思って、見てみるとやはりそうだった。なるほどと思った書き込みを抜粋。
地方の進学校から国立行くような子は「ウブ」なのよ。女のヒエラルキーとかに無知なの。
がんばって勉強したら、その努力に見合った成果を受けられるとか信じてるの。

そういう子が都会に出て、
「女はどれだけいい男を捕まえるかが勝負」
「女を売って世渡りした要領いいゲスが勝つ」
「女はしょせん男社会の売春婦」
こういう現実を初めて理解して、実家の財力と育ちで最初から格差が決まってるということもわかって
22過ぎてから慌てて軌道修正して女磨きすると、アサッテの売春路線にすっ飛んでいくわけよ。

というか、地方出の貧乏娘が都会で勝負しようとしたら売春するしか道がないから、ほとんどみんなそうなる。「女の勝ち」を目指す子は。

「女の勝ち」を求めず、「自分なりの勝ち」を目指す真面目な子ももちろん大勢いるし、そっちが多いわけだが「女の勝ち」に行く子もいると。
なるほど「女の勝ち」ね。 こういう見方もあるんだ。

でも、彼女はずいぶん善戦したと思う。事件前から、Twitterのフォロワー数も1万を越えていたようだし(事件発覚後の11月16日現在では、約3万フォロワー!)、外資系金融機関のエリートが出席するプライベートなパーティーにも出入りしていたようだし(東京に10年住んでいたが、そんなものがあるとは知らなかった)。勝負する土俵の選択の正否はさておき、何の人的コネクションも地縁もない場所に、一人で徒手空拳で乗り込んでの成果だから、相当の達成だと思う。私にはできない。

最後にいちOBとして、ばびろんまつこさんの今後の身の振り方について提案いたします。
出所後は、ミャンマーにいらっしゃるのは如何でしょうか?
物欲や他人からの賞賛に飢えるのは、仏教でいうところの我執・執着です。
ミャンマーは、我執・執着を捨てるのに、うってつけの国です。
ヴァンクリーフ&アーペルもカルティエも売ってないので、物欲に身を焦がすことがありません。ラグジュアリーブランドはおろか、店に行っても欲しい物がほとんど見つからないので、物への執着は明らかに減ります。
ツイートを読むと、ばびろんまつこさん自身も、うすうすご自分がなさっていることが、無間地獄の中でもがいていることに過ぎないと自覚されてますね。


思い切って、ミャンマーで出家するのも、我執を捨てるひとつの方法です。
上座部仏教では、出家・還俗のハードルが低いため、一週間のプチ出家も可能です。
出所後は、僧院でしばらく修行して、我執を捨ててみては如何しょうか?



それから、お勧めはしませんが、ばびろんまつこさんが東京で培ったオヤジ転がしの手練手管は、ここではもの凄く効くのではないでしょうか。バビロンシティ・トーキョーでは、強力な競合がひしめいていて、あまり上手く行かなかったようですが、ミャンマーでは(ry
うーん、ここでやっても高いワインとか飲めないし、ラグジュアリーな生活もできないから、意味がないですね。もし、ミャンマーにいらっしゃったら、やっぱり我執・執着を捨てて、地道に地味に生きられるのがよろしいかと。
人間、地道にコツコツと生きるのが一番だと思います。
あまり面白い結論ではありませんが、事実です。

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