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2021年8月7日土曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーヴァードライブ』1 2019年4月 福岡市浄水通り(1)

1 2019年4月 福岡市浄水通り(1) 

 私はタクシーに乗って、福岡市浄水通りの邸宅に向かっていた。浄水通りは、福岡市の緑に囲まれた閑静な高級住宅地で、大邸宅、高級分譲マンションが建ち並ぶ丘と、富裕層向けのレストラン、カフェ、ブティックなどが軒を連ねる麓を結ぶ約八〇〇メートルの並木道だ。一九八〇年代にジョルジオ・アルマーニが日本に本格的に参入する前に、テストマーケティングのため日本で最初のブティックを作ったのがこのエリアだと聞いたことがあるが真偽のほどは定かではない。
 目指す邸宅は丘の中腹にあった。タクシーから降りて、背の高い鉄扉の脇にある、風雨に晒されて年季の入ったインターフォンを押して、訪問を告げた。
「お約束していた小林天悟です」
インターフォンを通して返事があった。「ああ、いま行く」重野聡の声だった。
 内側から関が開けられ、鉄扉が開いた。「久しぶり。古い家だから電気解錠じゃないんだ」
 二年振りに会う重野は、ヒューゴ・ボスと思しきネイヴィーのピンストライプのスーツを着ていた。学生時代にラグビー部に所属していた胸板の厚い重野によく似合っていた。
 門から建物まで繋がる芝生に埋められた石畳を並んで歩いた。
「祖父さんが亡くなってから、誰も住んでない。生きていた頃は、祖母ちゃんと通いのヘルパーが二人いたが、今は家の両親が祖母ちゃんを引き取って、一緒に暮らしている」と重野が言った。
 
 邸宅のオーナーは、一か月程前に九十歳代で物故していた。彼は、地方銀行の頭取で、地場デベロッパーの創業者でもあった人物だ。現代美術のコレクターとしても知られていて、その嗜好は彼の経営するデベロッパー事業の開発物件にも反映されていた。一九九〇年代初頭には、先鋭的な現代建築家六人によるデザイナー・マンション群を福岡市郊外に建設したこともある。各棟に、レム・コールハース棟、スティーブン・ホール棟といった設計者の名前を冠したこの集合住宅群は、冒険的なプロジェクトとして、竣工当時、国内外の建築関係者の話題をさらった。
 二十メートルほど続く石畳の先にある建物は、ガラス張りの大きな窓が連なるル・コルビュジエ風のモダニズム建築だった。科学の進歩が人類の発展に貢献するとナイーヴに信じられた、地球温暖化の心配なんか誰もしなかった時代の建築様式だ。
 一階はギャラリーを兼ねたリビング・ルームとキッチンで、二階がベッドルームのようだ。一階は、二階へと繋がる螺旋階段以外はほぼ遮蔽物のない、広さ三〇〇平米メートル程度の段差のない平坦な空間だった。そこにオーナーの収集したコレクションが所々に展示されている。
 ジャクソン・ポロックの紙作品、ジャスパー・ジョーンズのマップ・シリーズ、プライス・マーデンのドローイング、ジョゼフ・コーネルの木箱を使った立体コラージュ、フランク・ステラの金属製オブジェ。一九五〇年年代から七〇年代にかけて制作された、抽象表現主義、ミニマリズムなどのアメリカ現代美術を中心に構成されたコレクションだった。日本が不動産景気に沸いた、一九八〇年代中頃から一九九〇年代前半にかけて蒐集されたようだ。その頃はデベロッパー事業が好調で、蒐集のための資金も豊富だったのだろう。アートが今ほど投資対象として一般的でなく、まだ1Tで成功した起業家が美術市場に参入する前の時代だったので、今よりずいぶん手頃な価格で購入できたはずだ。
 窓から見える庭は和洋折衷で、枯山水の様式に則っているが、小石や砂が敷き詰められるべき部分は芝生となっていた。ヘンリー・ムーアの彫刻作品が庭の中央にあった。
 オーナーのお気に入りだったと思しき作品の前には、ミース・ファン・デル・ローエがデザインしたバルセロナ・チェアが置かれている。ジャクソン・ポロックやプライス・マーデンなどがお気に入りだったらしい。
「相続税対策のため、この家も美術品も売り出す予定だ」重野が言った。

 重野が私をここに呼んでくれたのは、つい最近私がギャラリストとして独立したからだった。私が通っていた地元の国立大学の学生時代の友人だった重野は、好意で他の画商やオークションハウスに公開するより先にコレクションを見せてくれたのだ。重野は同じ大学の大学院へ進んだ後、経済学部の助教になっていた。彼の祖父が創業した地場デベロッパーの社外取締役も務めていた。
 私は大学を卒業してから、三年間電気通信会社に勤め、銀座の画廊に転職し五年働いた後、その職を辞したところだった。銀座の画廊では、比較的高齢の富裕層の人たちに、日本の作家の印象派風の絵画や美人画を販売していたが、やはり同時代的なアートの世界との接点が欲しくなり、独立することにした。

 私は両親が地方公務員という、ある意味典型的な地方の中流家庭に育った。公務員や教員といった浮き沈みのない堅実な職業を選択することが常識的な人生設計と考えている、いささか保守的な人生観と生活感覚を持ち合わせた親族や両親に囲まれた環境で育ちながら、決して安定的とは言えないアートの世界に職を求めることになったのは、母方の叔父の影響が大きかったのかもしれない。
 叔父は、大学を卒業してから、(彼の親族が考えるような)定職に就かず、組織に属することもなく、フリーのプログラマーと個人投資家として生計を立てていた。時間の自由がきくため、気が向くと一人でよく旅に出ていた。行き先は、美術館巡りのためヨーロッパだったり、ビーチでくつろぐために東南アジアの離島だったりと、その時々の興味や関心によって方々で、これといった一貫性や傾向はなかった。こうしたボヘミアン的な気質の叔父は、堅実さと安定性を良しとする保守的な価値観を信じて疑わない我が親族からは少なからず疎まれていた。私はこの二十歳近く年上の叔父が気に入っていて、小中学生の頃、福岡市の大濠公園近くの叔父のマンションへよく遊びに行った。それについて、母親があまりいい顔をしなかった。「小さな頃から協調性がなくて、一人で自分の好きなことばかりしていた、身勝手な人」というのが、母親の自らの弟に対する人物評だった。「あなたもあの人に似たところがあるので心配」という息子の私に対する懸念も、それほど間違っていなかったのかもしれない。
 一人暮らしの叔父は、自分の趣味に合わせてリノベーションしたマンションの一室で多くの時間を過ごしていた。プログラミングも金融取引も自宅のコンピューターを使って完結する作業なので、仕事のために外に出る必要がないのだ。叔父は、国内の株式市場の後場が閉じる午後三時以降は仕事をしないことにしていたので、小中学生時代は、週に二、三日は、放課後に叔父のマンションに寄った。天井近くまで達した壁全面を占める特注の本棚には、アナログ・ディスクと本が隙間なく埋められていた。二人でソファに並んで腰掛けて、叔父はビールを私はジュースを飲みながら、叔父が本棚から取り出してレコードプレーヤーに載せたLPを一緒に聴いた。レコードのコレクションは、ジャズ、ロック、リズム・アンド・ブルースが中心で、JBLの大型スピーカーから流れるのは、ドアーズの『ストレンジ・デイズ』だったり、スライ・アンド・ファミリー・ストーンの『暴動』だったり、マイルズ・デイヴィスの『ビッチェズ・ブリュー』だったり、ジョニ・ミチェルの『コート・アンド・スパーク』だったりだった。
 私が高校、大学へと進級すると、同年代の友人付き合いが忙しくなり、ひと頃よりは疎遠になっていった。社会に出てからは年に一、二回、東京から帰省した時に外で会って酒を飲む仲だった。最後に会ったのは、一年ほど前で、福岡市の大名にあるバーだった。勤め先から独立してギャラリストになることを考えていることを伝えると、「いいんじゃない。俺とかお前は、好きなことしか真剣になれないタイプなんだから」というのが叔父の意見だった。
 叔父が五十代の前半の年齢で、胃がんにより突然この世を去ったのは三ヶ月ほど前だった。身内の誰も彼ががんに罹っていたことを知らされていなかった。そして、叔父は生涯未婚だった。それほど多くない叔父の友人たちが葬式を取り仕切った。プログラミング言語の研究サークルの仲間やラテンアメリカ文学愛好会のメンバーが叔父の友人たちだった。何人かの身内が形式的に葬式に参列した。突然の死による葬式だったため、東京にいた私は参列できなかった。株式、債券などの金融資産は生前に現金化されて、死後は信託により、葬式の費用や手伝ってくれた友人たちへの心付けを差し引いた金額が途上国支援のNGOに寄付された。特別な贅沢をしなければ、人ひとりが十年くらいは余裕を持って暮らせる金額だ。法定相続人である母親はいくぶん不満そうだったが、信託は弁護士により滞りなく執行され、誰も口を挟む余地はなかった。遺言により、私は親族で唯一の相続人として、叔父が居住していた大濠公園のマンションの一室とそこに収められていた蔵書とレコードコレクションを受け継いだ。これについては、誰もさしたる不満はないようだった。みんなそれぞれ持ち家に住んでいたし、蔵書もレコード・コレクションも彼らにとっては処分が面倒なガラクタに過ぎないからだ。

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2021年7月27日火曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーヴァードライブ』プロローグ 2

プロローグ

2014年11月20日、サザビーズ・ニューヨークのオークション会場で「アメリカン・アート・セール」が開催された。
この日の出品作品で最も注目されていたのは、ジョージア・オキーフの「Jimson Weed/White Flower No. 1(チョウセンアサガオ/白い花No.1)」だ。ニューメキシコ州サンタフェのジョージア・オキーフ・ミュージアムからの出品だった。
48×40インチ(121.9 × 101.6 cm)のカンヴァスに描かれた1932年制作のこの油彩画は、オキーフの花をモチーフとした一連の作品の中でも、例外的に大きなサイズの作品であるため希少性が高い。
原寸6.5cmから9cmの花をカンヴァス全体を使って巨大に描いたこの絵の前に立つと、見る者は、自己が消失し、花と一体化したかのような感覚に入り込む。今の瞬間、この刹那に、花と同一化した自分が世界の内に存在していることを認識させられる。人工物に囲まれた生活の中で忘れがちな、かつて人間が自然の一部であったことをも思い出させる。

サザビーズの出した落札予想価格は、1000万ドルから1500万ドル。オキーフの作品のそれまでの最高落札額は、2001年5月クリスティーズ・ニューヨークでの620万ドル、当時の女性アーティストの最高落札額は、ジョーン・ミッチェルが2014年5月にクリスティーズ・ニューヨークのオークションで記録した1190万ドルだった。
競売(オークション)は、七人の入札者(ビッダー)で始まった。オークションでは、三人以上が入札に参加すると最低落札額を越えると言われているので上々の滑り出しだ。
入札額が2000万ドルを超えると、壇上の競売人(オークショニア)の宣言する価格が50万ドル刻みで上がっていく。
二人にまでふるい落とされたラリーを制したのは、電話で参加した匿名の入札者だった。落札者の代理人は、サザビーズの会長リサ・デニソンが勤めた。落札価格(ハンマー・プライス)は4440万5000ドル、落札予想価格の約三倍、女性アーティストとしては史上最高の落札額となった。競売の所要時間は、約8分間だった。
後に落札者は、ウォルマート創業者サム・ウォルトンの娘で、相続人でもあるアリス・ウォルトンが創立したアーカンソー州ベントンビルのクリスタル・ブリッジ・ミュージアムだったことが判明した。 

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2021年7月19日月曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーヴァードライブ』プロローグ 1

プロローグ

戦後間もない頃、草間彌生は、長野県松本市の古本屋で手にした画集の中に、ジョージア・オキーフの作品を見つけた。
カンヴァスの中央に牛の頭蓋骨が大きく描かれた、『牛の頭蓋骨: 赤、白、青』と名付けられた1931年に描かれた絵画だった。背景の左右両端は赤く塗られ、中央の白地からはグラデーションのかかった青が放射状に外へと伸びている。左右に拡がった牛の角は、人間の腕をも思わせ、それはキリストの磔刑図を連想させた。その絵は、現生を超越した宗教的なヴィジョンを帯びていて、草間の魂を激しく揺さぶった。それは、同じ画集の中の他の作品では感じることのできない感興だった。

その頃、草間が知っていたアメリカの画家は、オキーフだけだった。6時間かけて松本駅から新宿駅まで出て、それから赤坂にあるアメリカ大使館へと向かった。そこでMarquis社の発行する名士録『Who's Who in America』を借りて、オキーフの住所を調べ、彼女の住所を書き写した。松本へ帰ってから、一面識もないオキーフへ手紙を出した。アーティストとしての心のありようを尋ね、アメリカへ行きたいという気持ちを切々と訴えた。自分の描いた水彩画も何点か同封した。驚いたことに、オキーフから返信が来た。暖かい心遣いへの感謝の念を伝えると、またもや激励の手紙が届いた。

第二次世界大戦直後のその当時、ジャクソン・ポロックに代表される、アメリカの抽象表現主義がアートの新潮流として世界を席巻しはじめていた。美術の中心地は、パリからニューヨークへ移ろうとしていた。草間はどうしてもアメリカへ渡りたかった。
当時、アメリカに渡航するには現地の見受引受人が必要だった。なんとか身内の伝手をたどって、シアトルで成功した日系一世のビジネスマンの未亡人を紹介してもらった。ヴィザ取得のための渡航目的は、シアトルで個展開催のためとした。最初のアメリカの地、シアトルにたどり着いたのは、1957年11月18日、草間が28歳の時だった。
1957年12月、シアトルのズゥ・ドゥザンヌ・ギャラリーで開催した個展では、水彩画、パステル画を26点出品した。

翌年、草間は引き止める人たちを振り切って、ニューヨークへ転居した。
ニューヨークは、物価も高く、競争も熾烈だった。無名のアーティスト達は、誰もが生き延びるため、競争相手から抜きん出るために、現実と格闘していた。日々の食事も欠く中で、絵具代とキャンバス代を捻出しなければならなかった。魚屋が捨てた魚の頭を裏のゴミ箱から漁り、八百屋の捨てたキャベツの切れ端を拾い、屑屋から10セントで譲り受けた鍋でそれらを煮たスープで、毎日の飢えをしのいだ。
住居も兼ねたアトリエの窓は破れ放題で、凍てつく夜は寝ることさえままならなかった。空腹と寒さに耐えかねて、深夜に起き上がっては絵を描いた。

募る侘しさに押しつぶされそうになった夜は、一人でエンパイアステートビルに登った。
草間がそこに立つおよそ30年前に、スコット・フィッツジェラルドはニューヨークの街に別れを告げるため同じ場所に立った。フィッツジェラルドは、当時、建設されて間もないこの摩天楼からの眺望に驚愕した。街は無限に広がるビルの宇宙だと想像していたのに、現実には、大地の限られたエリアに人工物が立ち並ぶ、都市化された区画に過ぎなかった。
狂騒の1920年代に、都会の風俗を巧みに描き、時代の寵児となったかつての流行作家は、1929年に起こった大恐慌を境にすっかり世間から忘れ去られていた。零落した作家は、後に、街のちっぽけさを、かつて手にした自らの富と名声の儚さ、脆さと重ね合わせた。
しかし、野心以外何も持たない草間には、遠く下方で瞬く夜景は、自ら希望と可能性を燃え立たせ、成功へと誘う、街の甘美な目配せと映った。眺めている間は、常につきまとっていた空腹さえ忘れるほどだった。

1959年10月、草間は念願だったニューヨークでの最初の個展を「オブセッショナル・モノクローム展」をブラタ・ギャラリーで開催した。この時発表した作品「無限の網」は、草間のキャリアを通じた代表作のひとつとなる。
カンヴァスに描かれた、縦2m、横4mを少し超えるモノトーンのシリーズ5点は、大きな反響を呼び、小さなギャラリーは来場者で溢れた。ニューヨーク・アート界の大立者も訪れ、美術評論家によるレビューが『ニューヨーク・タイムズ』誌にも掲載された。
アイボリー色の下地に、それより少し濃い色の単色の斑点を無数に反復させた作品は、全体を律する中心がなく、図と地が同時に世界を表象していた。流動的に反復する色付いた斑点である図は律動する個体の集合であり、斑点の狭間で白い網目となった地はネットワーク化された全体として認識できる。生滅を無限に繰り返す無常の世界を、あたかもカンヴァスの上に投影したかのようだった。そこには、ミクロとマクロが等価であり、実体と無が同時に存立する世界が現出していた。
オキーフが超越的なヴィジョンをキリスト教の黙示録的な世界観で表出したのに対して、草間は縁起や空といった仏教的な世界観を通じて同じ事象を描き出したかのようだった。

ジョージア・オキーフが、ニューヨークの草間のアパートメントを訪れたのは1961年のことだった。ニューメキシコからのはるばるの訪問だった。手紙のやりとりはあったものの、草間がオキーフに会うのはそれが初めてだった。
後ろにひっつめた白髪、意志的な額、鋭角的で高い鼻筋。頬に刻まれた深い皺は、彼女が絵画のモチーフに用いる風化した動物の骨と似た印象を与えた。樹齢を重ねた巨木のようながっしり体躯はドレープのかかった、ゆったりとした黒のコットンドレスに包まれていた。胸元には友人の彫刻家アレクサンダー・カルダーから贈られたブロンズ色の幾何学形のブローチが付けられ、ウエストはネイティブ・アメリカンの銀細工で飾られた革ベルトで締められていた。フェラガモにオーダーしたスウェードの黒のモカシンは、甲の部分に葉脈のようなエンボス加工が施されていた。
オキーフの佇まいは、森の奥深い修道院で、厳格な戒律を守りながら暮らす修道女を思わせた。彼女は1949年にニューヨークを離れてから、ニューメキシコの荒野に立つ一軒家に住み、世間からは隠遁者として見做されていた。実際に会ってみると、彼女は厳格で気難しい一面はあったものの、率直で機知に富んだ人物だった。草間の身を案じて、ニューメキシコで一緒に暮らさないかとまで提案してくれた。
この街に魅せられ、ここでの成功を夢見ていた草間は、残念ながら断わざるを得なかった。


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2021年5月23日日曜日

とりあえず小説を書くことにした

去年の4月末に日本に帰国した時は、2、3ヶ月したらミャンマーに戻るつもりでした。
ところが、コロナは収まらないわ、さらにはクーデターは起こるのわで、戻る目処がまったく立っていません。
日本でバイト生活を始めて一年が経とうとしています。
バイト先では、ひたすらPCに顧客データを入力していますが、創造性のない作業をずっと続けるのもさすがに倦んできたので、小説を書くことにします。

日本に戻る直前に、ミャンマーで見た明晰夢をベースにプロットを組み立てます。
夢の中で、現代美術のコレクターの自宅のコレクションを眺めていた時に、不思議な体験をしたことが構想のベースです。

資本主義と仏教と現代美術の交差する部分に、ポスト資本主義や上座部仏教の修行者が目指す涅槃(ニルヴァーナ)に近しい世界があるのではないかという直感があるので、それについての世界観を描き出してみたい。


小説の手掛かりになっているモチーフをいくつか以下に列挙します。

マルクスは価格は、価値と使用価値とよって決定されると論じました。
しかし、アートは使用価値=実用性がないにも関わらず、実用品よりも遥かに高額で取引されることがあります。マルクスの言う価値は、その商品を製造するのに要した時間を指す概念ですが、アートの市場においては、これも作品の値付けとは関係がない。評価の高い作家が短時間で創った作品は、無名の作家が長い時間をかけて創った作品よりも高額で取引される。キャリアを時間として想定してみても、例えばピカソの初期の作品は、晩年のそれよりも二十倍程度高額の市場価値があるので、価値=製造に要した時間という概念が当てはまらない。

十九世紀、産業革命の初期に現れた、ジョン・ラスキンのユートピア思想、それを具体化したウィリアム・モリスのアーツ&クラフツ運動。

華厳経の世界観を示す重々帝網と二〇〇二年ワシントンのナショナルギャラリーが百万ドルで購入した草間彌生の作品「Infinity Nets Yellow」(一九六〇年)の類似性。

経済学、現代美術、仏教の関連資料を読み込んでますが、いま住んでるゲストハウスがかなり立地が良いため助かってます。


同じビルにブックオフがあり、通りを挟んだ向かいは北九州で一番大きな書店、その200メータ先は図書館なので、あまりAmazon頼る必要がない。

問題は、テーマが壮大過ぎて、ちゃんと書き切れるかどうかなんですが、あまり完成度に拘らずにやってみることにします。悪い時のフィリップ・K・ディックみたに、異様な世界観だけ提示されて、ストーリーが破綻しているみたいな出来上がりになるかもしれませんが。

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2021年1月14日木曜日

50年前の世界から、これからの世界のあり方を考えた

おそらく今回は長い投稿になります。お時間ある時にお読みください。

年末年始に読んだ、今の日本でベストセラーになっている本を三冊読んで、これからの世界のありようを考えてみます。
ここにあげる三冊は、パンデミックが起きた現在でないとベストセラーになることはなかったでしょう。いやむしろ今の時期だからこそ、執筆されたというべきでしょうか。

まずは、佐久間由美子著『Weの市民革命』から。


本書は、「ギル・スコット・ヘロンの名曲『革命はテレビ中継されない』にかけて、『どうやら革命は中継されるらしい』書いたのは、ニューヨーク・タイムズ紙の黒人ジャーナリスト、チャールズ・ブロウだった」という一文から始まります。

The revolution will not be televised
The revolution will be no re-run, brothers
The revolution will be live. 
 
革命はテレビ中継されない
革命は再放送されないんだ、ブラザー
革命は目の前で起きている

この曲が収録されたアルバム、"Peaces of a man"がリリースされたのは1971年。ちょうど今から50年前です。当時と違い、個人のメディアを持つ現在の我々は、たとえテレビ中継されなくとも、SNSを使って情報発信ができます。

The revolution must be SNSnized


ニューヨーク在住の著者による現地を中心とする本書では、ミレニアム世代とそれに続くより「コラボレーションや団結に興味がある」Z世代の消費性向から、企業文化の変更を迫られている現状が報告されています。この二つの世代は、高い購買力と発信力を持つため、無視できない消費層だそうです。
従来の株主利益を最大化を目指すのが正しいという企業像から、「株主へ利益を還元することよりも、『社会全体の利益』を優先する企業形態が登場し、社会や地域全体を自分のコミュニティーとみなし、それを守るための経済活動にコミットする企業が増えてきた」と言います。興味深いのが、ジェントリフィケーションー「もともと荒れていたり裕福でなかったりする地域に白人を中心としたアーティストやクリエイティブ層が流入し、それがきっかけとなって商業が栄え、結果として家賃が上がり、それ以前から存続するコミュニティが圧迫される循環的現象」ーにより家賃を払って営業することが難しくなった地域で、ライブハウス、ラジオ局、ギャラリーやワークショップを開催する機能を兼ねた複合施設などが、非営利団体として運営されている事例です。政府や企業から独立した文化施設が地域の公共財として設立され、地域の人々により運営されるという現象が一般化するかどうかは分かりませんが、あり方として新しいと感じました。
コロナ禍によってサプライチェーンが分断されことで、現在のシステムの脆弱性と、我々の消費が、途上国の労働者と生産システムによって支えられていたことが露わになった今、エシカルであることサスティナブルであることの意味を、様々な個人や企業の実践例を通して考えさせられます。 

5年前、同じ著者による本『ヒップな生活革命』を手掛かりに、日本でミャンマーを考えた 〜「ヒップな生活革命」という記事を投稿したことがありました。

次は、斎藤幸平著『人新生の「資本論」』です。

本書では、かなり過激な主張がされています。
「SDGsは大衆のアヘンである!」と断じ、資本主義というシステムにビルトインされている富の増殖=成長そのものを手放さないと、もはや地球が生物が住める環境ではなくなることを様々なデータをあげて例証しています。
そして、資本主義の後を継ぐべき社会システムとして、「脱成長コミュニズム」が提唱されています。
コモンー「社会的に人々に共有され、管理されるべき富」、自然、電力・上下水道などのインフラ、教育・医療・法律などの社会システムーを市民の手に取り戻し、自主管理することで、すべてのモノが商品化される以前の世界に存在した「ラディカルな潤沢さ」を取り戻し、真の意味での自由な世界を構築する。たとえば、水はコモンを通じて無料で手に入るものでしたが、水源を資本に囲い込まれ、ミネラルウォーターという形で、貨幣を介して購入するモノへと商品化されました。こうした資本によりコモンが貨幣・商品関係に置き換えられた社会システムを、労働者が生産システムを取り戻し、放埒な消費を自制し、真の意味での精神的な自由な共同体を作り上げる。
実例として、自動車産業の衰退により荒廃したデトロイトが、都市型の有機農業により、地域コミュニティと緑が再生したこと、脱成長的なマニュフェストを掲げ、飛行機の近距離線を廃止し、市街地での自動車の速度制限を時速30キロに定め、水道や電力等のコモンの運営を市民参加型のシステムに変更したバルセロナなどがあげられています。
正直、実現可能性はどうだろう?と感じます。
自己増殖を内在化する資本主義が、無限の成長を目指すことで、富の偏在や環境問題を引き起こしていることは事実ですが、我々の生活が資本主義の果実を享受していることによって成立している事実も否定できません。
現に、今このブログ書くために使っているコンピュータは、元々、第二次世界大戦時に弾道計算のために開発された機械ですし、インターネットは核攻撃を受けた時に機能する分散型の通信システムとして冷戦時に開発された、いうなれば帝国主義的なシステムから産み出された産物です。
先進国に住む人間が、こうした技術に依って暮らしている原罪性から逃れることはできないし、その疚しさをどう引き受けるのかは、もっと論じられてもよいのではないかと感じます。
また、SDGsの欺瞞性を説きながら、紹介されている「脱成長コミュニズム」が実践されている場所の多くが、デトロイトやコペンハーゲンといった先進国の都市であるのも説得力にやや欠けます。
実際、ミャンマーには市場原理とは縁の薄い、村落共同体が数多く残っていますが、そこに「ラディカルな潤沢さ」が存在するかといえば、かなり疑問です。
最低限のインフラや教育といった社会共通資本が存在しなければ、「ラディカルな潤沢さ」は実現不能だからです。途上国へ最低限の社会共通資本を構築するためには、先進国から途上国への何らかの所得移転が必要になるかと思いますが、それについては詳しく論じられていません。
腑に落ちない部分もいろいろとありますが、資本主義の後に続く社会像を提示したという点で新しいし、こうした本が書店に平積みされて、数多くの読者を得ていることにも時代の変わり目であることを実感させます。

最後に、山口周著『ビジネスの未来――エコノミーにヒューマニティを取り戻す』です。


本書の前提は、先進国において、「物質的な生活基盤の整備という、人類が長らく抱えてきた課題」が解消された現在、「不可避なゼロ成長への収斂の最中にある」という認識です。
著者は、この社会の状態を「高原社会」と呼んでいます。
物質的な生活基盤を整備して、成長の余地がなくなったことは、達成であり、低成長は成熟の証であり、こうした状態に達したことを我々は言祝ぐべきだという視点から本書は論を進めます。
高原社会においては、経済合理性限界曲線の内側の課題、すなわち解決して利益の上がる問題は、ほぼ残されていないという事実に突き当たります。
残されているのは、「問題解決のハードルが高過ぎて投資が回収できない」か「問題解決によって得られるリターンが小さ過ぎて投資を回収できない」問題のみです。市場とは「利益が出る限り何でも行うが、利益が出ない限り何も行わない」システムなので、市場原理的な価値観では、この問題は放置されたままとなります。
人が経済合理性限界曲線の外側にある問題を解決するためには、二つの前提が必要となります。
一つは経済的に困窮しないこと、何しろやっても儲からない問題に取り組むのですから、生活が破綻しない裏付けないとやっていけません。困窮しても、なおかつチャレンジする鉄の意思の持ち主もたまに見かけますが、希少性の高い人材のみに解決を頼るのは現実的ではありません。
もう一つは、活動が経済合理性を超えた「人間性に根ざした衝動」に基づいていること。活動それ自体が精神的な報酬になる、内発的な動機に基づいていることです。
前者の経済的な裏付けとして、著者はユニバーサル・ベーシックインカムを提唱しています。
高原社会での労働は、労働それ自体が「愉悦となって回収される社会」になると著者は予想しています。
それは、以下の二つの活動として、集約されます。

  1. 社会的問題の解決(ソーシャルイノベーション実現)
    :経済合理性限界曲線の外側にある問題を解く
  2. 文化的価値の創出(カルチュアルクリエーションの実践)
    :高原社会を「生きるに値する社会」にするモノ・コトを生み出す

これは、個人的に腹落ちする結論です。
ミャンマーにおいて解決すべきなのは、1の「問題解決によって得られるリターンが小さ過ぎて投資を回収できない」問題だからです。具体的には、電力・上下水道などのインフラ、医療・法律・教育などの制度資本の確立です。こうした社会共通資本の基盤がないと、利益を目的としたビジネスは行えません。そして、こうした問題は、経済合理性で推し測ることができない分野です。原理的に万人に遍く広く行き渡るべきコモン=公共財だからです。
今まで「お金儲けが目的なら、ミャンマーに来ない方がいい」と言って、さんざん在住者や視察に来た人々の座を白けさせてきましたが、ようやく自分の中で理論化できました。
著者は、「『システムをどのように変えるか』という問いではなく、『私たち自身の思考・行動の様式をどのように変えるのか』と問」うべきだと主張します。
その問いによって、「資本主義をハックする」という行先が示されています。
成長という神話の終焉を前提としているという点では共通するものの、社会システムの変更を主張する前掲書とは立場を異にしています。

冒頭に紹介したギル・スコット・ヘロンの"Peaces of a man"がリリースされた同年の1971年に、マーヴィン・ゲイは、ポップ史上最も重要で影響力のあるアルバム、"What's going on"をリリースしました。ベトナム戦争や環境問題を取り上げたメッセージ性の高い歌詞とコーラスとストリングスを重ねた多層的で洗練されたサウンド・デザインは、後のポップミュージックへ多大な影響を与えました。
【Wikipediaより引用:アルバムは『ローリング・ストーンの選ぶオールタイム・ベストアルバム500』(2020年版:大規模なアンケートによる選出)では1位にランクされている。また、2013年に『エンターテインメント・ウィークリー』誌が選出した『史上最も偉大なアルバム100』では13位となった。】



Picket lines and picket signs
Don't punish me with brutality
Talk to me, so you can see
What's going on

デモ行進そしてプラカード
荒っぽいやり方はごめんだよ
話しておくれよ、そうすれば分かり合えるよ
いったい何が起きてるんだ

また、本年1月4日付の日本経済新聞朝刊に、50年前の同日に同紙に掲載された、経済学者、宇沢弘文の寄稿についての記事が掲載されていました。

宇沢経済学のメッセージ 「社会の幸福」、再考の時

個人がそれぞれの利益を追い求める結果、市場を通じて資源の配分が最も効率的に行われる――。当時の主流経済学に対する懐疑だった。

経済学者は〈目的の正しさ=倫理〉を語る資格はないのか。公平や平等という価値をどのように経済分析に取り込めるのか。困難な道筋だが、避けて通ることはできない、と真摯に語った。

従来の主流派経済学(新古典派経済学)では、自然や第三世界を外部化しています。それゆえ、環境破壊や途上国の搾取といった問題が引き起こされる一因となりました。
ベトナム戦争の遂行に経済学の概念が利用されたことや企業の利潤追求の結果として水俣病などの公害が引き起こされたことが、宇沢先生の理論に大きな影響を与えたことは、2019年に出版された大部の評伝に詳しく書かれています。
そうした問題意識は、社会共通資本ー自然環境(大気、森林、河川、土壌など)、社会的インフラストラクチャー(道路、交通機関、上下水道、電力・ガスなど)、制度資本(教育、医療、司法、金融など)ーの概念として結実します。
宇沢先生は、社会共通資本を経済合理性の外側に置くべきであり、市場原理に委ねるべきではないと論じました。

今から50年前にマーヴィン ・ゲイが問いかけ、宇沢弘文が提起した問題に我々は答えるべき時期に差し掛かっています。

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2020年12月30日水曜日

9年振りに日本で過ごす年末で、2020年を振り返ってみる

今年も残すところ一日となりました。
本当に思いもよらない一年となりました。
4月末に一時帰国して、せいぜい2、3ヶ月でミャンマーに戻るつもりでしたが、12月の末の現在になっても日本に留まっています。
航空便の運行状況も不安定で、いつになったらミャンマーに戻れるのかの目処も立っていません。当分日本でのバイト生活が続きそうです。
2011年にミャンマーに渡って以来、日本で年末年始を過ごすのは初めてです。

自分のブログを見直したら、3月8日にMakers Marketに出店したのが、ミャンマーで仕事らしい仕事をした最後の日でした。

今回のパンデミックで世界の様相が一変しました。突風で船の進路が大きく変わったり、新しいOSへの更新のためにコンピュータが強制的にリブートされたような感があります。
何らかの形で、今後、社会のあり方やシステムの変更を余儀なくされるでしょう。

書店に平積みされている本やAmazonのベストセラーをチェックしていても、そうした時代の気分がひしひしと伝わってきます。

   

いずれの著作も、グローバル資本主義あるいは新自由主義といった、今まで世界を駆動していたシステムの終焉、地球環境の保全、マルクス経済学の読み直し、コモンの再生、定常経済の試行といったテーマがそれぞれの切り口から論じられています。

そういえば私自身も4年前のちょうど今頃に、同様のテーマでブログに投稿しましたが、まさかこんな形で世界がリセットされるとは想像すらしませんでした。

おそらく経済的な意味でのフロンティアではないミャンマーが、フロンティアである理由 (3)

ざっと自分の書いた物を読み直しましたが、経験値や見識の差、文章の巧拙を別とすれば、問題意識の在り方は、上にあげた三冊とほぼ同じです。
なんらかの形で社会システムの変更を迫られていることは、かなり前から肌感覚で感じてましたが、今回のような形で無理矢理リセットされるとは予想もしていませんでした。

ニーチェが約100年前に「神は死んだ」と宣言したのは、産業革命以降、工業文明に移行した社会や経済のシステムの中で、中世の農耕社会の中で機能していたキリスト教は、最早ヨーロッパ人にとって生の意味を与える有効性を失ったためです。
ニーチェは、耐用年数を過ぎたキリスト教を棄てた後に人々が陥るニヒリズムを、鷲の勇気と蛇の知恵を備えた「超人」となって乗り越えろ主張しましたが、これは新古典派経済学が想定する合理的経済人、すなわち人は「自己の経済的効用の最大化」する独立した存在であるという人間観と通じるものがあります。
個人は野放図に自己利益を追求していいし、それは市場の「神の見えざる手」によって解決されるという世界観は、環境問題や格差の拡大を生み出し、見直しを迫られています。
個人の自由より世界全体の人権を重んじ、過去に抑圧されてきた人たちの真の社会的平等追求することが自分たちの『共同責任』」という意識が若い世代を中心に共有されつつあります。
そして、一周回って、現在の言論人や識者の共通のテーマとなっているのが「コモンの再生」です。

ここで参照したいのが、日本が生み出した宇沢弘文という「知の巨人」です。
環境問題、社会共通資本としのコモン、定常経済への移行、現在俎上にあがっている問題は、すべて宇沢先生によって30年前に論じられています。最近、きっかけがあって、宇沢先生の本を立て続けに読んでいます。

最初ににあげた三冊はベストセラーになっていますが、こうしたテーマに興味がある」人は、ぜひ本書も読んで欲しいです。
今になって急速に前景化している問題は、すべて宇沢先生によって30年前に予見されていたし、それぞれに何らかの処方箋が示されていることに驚かされます。

社会共通資本としてのコモンについては、本書をお勧めします。
自然資源(山、川、海など)、社会的インフラストラクチャー(交通、道路、水道、電気など)、制度資本(法律、教育、医療など)は、安易に競争原理を導入するのではなく、専門家と関係者により最適かつ平等に人々に行き渡るべきだと明快に論じられています。

今暇なので、つらつらと昔のことを思い出す機会が多くなりました。
そういえば、大学3、4年時のゼミの担当教授が宇沢先生の教え子だったと言ってたような記憶があります。当時は、学校でやってることにまったく関心がなかったので、ふーんと聞き流していました。何で俺あんなに勉強しなかったんだろう?、と今になって不思議に思います。
社会に出たことがないので、人間が織りなす世界の成り立ちとか、経済問題に興味がなかったからでしょうけど。

固い話になったので、今年になってよく聴いた音楽のことを書きます。
最近、イギリスのジャズが面白い。
西インド諸島にルーツをもつ移民のプレイヤーが多くて、レゲエやカリプソなど、アメリカのジャズにはあまりない要素が入っていて新鮮です。


今年にファーストアルバムをリリースした、Nubya Garcia。 いろんなメディアで、2020年の
ジャズのベストアルバムに選ばれています。

これはイギリスのジャズ・シンガー、Zara McFarlane。アメリカのジャズ・シンガーとは趣が異なります。 


そんなわけで、2020年も残すところあと一日となりました。
私は明日の大晦日はバイトです。
皆さん良いお年をお過ごしください。

【追記】(2021年1月4日)
2021年1月4日の日経新聞朝刊に、宇沢先生の再評価ムーブメントについての記事が掲載されていました。

昨年から今年にかけ、各界の第一人者が、それぞれの立場から宇沢が問題提起した「社会的共通資本」の今日的な意義を読み解く連続セミナーが開催されている。

宇沢経済学のメッセージ 「社会の幸福」、再考の時

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2020年8月8日土曜日

東南アジア的な視点から、北九州市の活性化について考えた(3)

ここで近隣の九州では最大の都市、福岡市と北九州市の関係について考えたいと思います。
日本が工業国であった1960年代までは、北九州市の方が圧倒的に大都市でした。
最初の投稿でも書いたように、1950年代の朝鮮戦争の時、アメリカ人将校が遊びに来る街は博多ではなく小倉でした。
その後、平地や河川に乏しいため工業地帯になれなかった福岡市が、1970年以降に起こった日本の産業構造の変化に対応して、サービス業と商業施設の集積に特化したことが功を奏し、両者の地位が逆転します。 両市の人口推移を比較すると、1979年に人口が逆転して以来、清々しいくらいくらいの差が開いています。しかも40年前に始まった、北九州のダウントレンドと福岡市のアップトレンドは、今をもって継続中です。


日本全体で11年連続人口が減少し、ほとんどの自治体の人口減が続く中で、人口が増加し続けている数少ない地方都市として、近年、福岡市は注目を集めています。日本における数少ない成長都市として、福岡に関する書籍も増えてきています。





世界的にも認知度が高まり、イギリスのライフスタイル・マガジン『MONOCLE』では、定点観測する日本の都市として、東京、京都と並び福岡が選ばれています。同誌では2008年に、福岡が世界で最も買い物がしやすい街として選出されています。
ちなみに、2019年福岡市における外国人入国者数は269.5万人に対して北九州市は69.1万人でした。

北九州市と福岡市の関係は、ミャンマーのヤンゴンとタイのバンコクとの関係に似てなくともないです。
ヤンゴンも1980年くらいまでは、バンコクを凌ぐ都会だったと言われています。バンコクの駐在員が、休日はヤンゴンまで日常品の買い出しに訪れていたという、今となっては信じられない話も伝えられています。バンコクが商業施設の集積の集積によって都市としての魅力を高め、多くの観光客や居住者を海外から引き付けているところも福岡と似ています。
雑誌『BRUTUS』がバンコクや福岡の特集を組むのは、両市にグルメやショッピングといった消費の楽しみが都市の中にあるからでしょう。



北九州も福岡に劣らず、食べ物は美味しい(しかも福岡よりも1、2割安い)ですが、ショッピングはちょと厳しい。北九州の若者は高校生くらいになると、高速バスの回数券(JRより運賃が安い)で、福岡までショッピングに出かけるようです。 この辺りも、お金を持ったヤンゴンの若者は、バンコクで買い物するところに似ています。北九州もヤンゴンも消費する都市としての煌びやかさに欠けるところも共通しています。北九州の大型の商業施設では、テナントが埋っていないため閑散とした印象を与えます。
これだけ差が開いた今では、商業施設の集積で福岡市と競争する意味はないため、北部九州の都市として棲み分けを図るべきでしょう。
そもそも、地勢上工業地帯が作れなかったため、サービス産業を中心とする商業地域として発展したきた福岡市と、重工業を中心とする製造業で過去に繁栄した北九州市では歴史的な経緯が異なります。北九州市は、生産地であったことが都市の成り立ちに大きな影響を与えています。
そこで基本に立ち戻り、北九州市を生産者にとって魅力的な街として再生してはどうかという提案です。
といっても大きな工場を誘致しようとか、そういう話ではありません(そういう活動は、すでにやっているでしょうし)。
シェアアトリエpopolato3comichiかわらぐちといった遊休不動産をリノベーションして、地場のクリエイターや独立自営業者に提供する試みを拡大して、東南アジア地域からもテナントを誘致してはどうかという提案です。

前の投稿にも書きましたが、生産年齢人口が減少が続く地方で、個性的で魅力的なテナント候補となるクリエイターや個人事業主を次々と見つけるのは、簡単なことではないと推測します。そしてプレイヤーの層が薄いため、魅力的なテナントが去った後に、同じレベルのテナントで埋めるのは難しい。ならば、生産年齢人口が日本に比べて多く、経済成長が続く東南アジアから人材を呼び込めれば、魅力的な場作りを通じて、街の再生へと繋がるのではないでしょうか。

たとえば、タイのバンコクには、チャトチャック・ウィークエンドマーケットのような、テント形式のテナントが1万5000店舗を超える巨大な市場があります。出店者のすべてが自社ブランドの商品を販売しているわけではありませんが(おそらく10%弱がオリジナル・ブランド)、ここを出発点として、成長ステージ毎に売り場をグレードの高い商業施設へと出店・移転してゆくブランドも散見します。創業時は、チャトチャック・ウィークエンドマーケットのみの出店だったのが、認知度が上がりと売り上げが伸びると、ターミナル21やサイアム・センターなどの中心街のショッピングモールにも出店する。プレイヤーの層が厚いため、仮に成長したブランドが去った後も、別のブランドが後を埋めて、売り場の新鮮さを保っています。外国人旅行者のみならずタイ人の買い物客も多いのは、商品やブランドの入れ替わりが適時あるからでしょう。


 チャトチャック・ウィークエンドマーケットの独立系ブランドが並ぶ一角

インキュベーションを目的として作られたわけではない雑多な商業施設が、独立自営業者やスモールビジネスの登竜門として機能しているのは興味深いです。
たしかに東南アジアらしい怪しげなコピー商品も多いのですが、独立系ブランドの商品のクオリティは、日本の地方物産展などで展示されている商品よりもデザインが洗練されていたりします。
普段はミャンマー在住で、約2ヶ月毎にビザランでバンコクへ行くため、5年以上定点観測していますが、ここ4、5年の間に、クオリティの高い独立系ブランドが増えているのを実感します。
バンコクには他にも同規模の巨大なナイトマーケットが5つくらいあります。これは外国人旅行者を含めた巨大な消費者層がいることはもちろん、売り場を埋めるだけのプレイヤーが存在するから成立しています。
規模はずっと小さくなりますが、ミャンマーにもThe Makers Marketという地場の素材を使用した独立系ブランドの展示即売会が月に一度開催されています。


 ミャンマーのローカルメイドの物産展のThe Makers Market

現在、北九州では、遊休不動産をリノベーションして、地場のクリエイターや独立自営業者に提供する地域活性化策が地元の有志によってなされていますが、これを地理的に近く、プレイヤーの層が厚い東南アジアからクオリティの高い独立系ブランドにも開放すれば、より魅力的で集客力のある空間になりそうです。
福岡市の福岡アジア美術館内にロンファという東南アジアのグッズを販売しているセレクトショップがありますが、こちらが平場でそれぞれの国の物産を販売しているに対して、ブランド毎にブースを区切って、ブランドの世界観を見せる施設とすれば差別化できるのではないでしょうか。

実現させるには、通関や検疫などの問題をクリアする必要もあるし、仮に外国人が居住してビジネスをするとなると在留資格をどうするかなどの問題も生じるでしょうけど。経済特区として例外措置を認めるなどの、行政の協力も必要になるかもしれません。

それ以前に、頼んでも来てくれるかどうか不明です。タイのイベント・オーガナイザーや独立系ブランドのオーナーは、富裕層が趣味でやっている場合も多いです。タイ人富裕層は、大方の日本人よりも遥かにゴージャスで洗練されたライフスタイルを送っています。ヨーロッパの高級ホテルを泊まり歩いたり、東京に来た時はヨウジヤマモトとコムデギャルソンをまとめ買いしたり、九州で温泉巡りする時は車をチャーターして各地の高級旅館に泊まりながら九州を横断したりと、今の日本人の多くができないような(私を含む)ラグジュアリーなライフスタイルを謳歌しています。地味な日本の地方都市に、彼らが進出する魅力を感じるかどうかは分かりません。とりあえず人が来るかどうかは別として、商品だけを置かせてもらえるように交渉するのが現実的かもしれません。

望みがあるとすれば、タイではビームスやユナイテッドアローズなどのセレクトショップが若者に人気なことです。海外のスタイルを日本的にアレンジする、日本人の編集力が評価されています。逆に言うと、ビームスやユナイテッドアローズも知らないようだと相手にされません。タイに住んで長い日本人の方が、昔は自分が日本人ということで、日本の情報を聞いていてくれたが、今の若いタイ人からまったく相手にされないとこぼしていたのはこうした事情によります。


タイで出版された九州のガイドブック
西新の裏道にあるパン屋から大名のマンションの一室に構えたセレクトショップなど内容が異様にマニアック
おそらく福岡在住タイ人による取材

北九州エリアは、人口が減少し続けているため、中心地にも遊休不動産があるという福岡にはない環境を強みに変えてはどうでしょうか。
現在の北九州で起こっているリノベーションによる街の再生プロジェクトのテナントとして、東南アジアから広義の生産者(独立系ブランドのオーナー)加われば、多様性の広がりとクオリティの向上によって、より魅力的で集客力のある空間になりそうです。
検疫、通関、在留資格等の法律的な問題と共に、こうしたプロジェクトに理解のある物件オーナーを見つけるのもそう簡単ではないかもしれませんが。

タイとミャンマーなら日本に持って来ても競争力のある独立系ブランドをいくつか知ってますので、ご関心のある方はお声がけください。おそらくベトナムにもありそうですが、ベトナムの事情は知りません。
東南アジアからから生産者が集まる集積地となれば、もしかしたら今の北九州に広がる広大な工場跡地の使い道も見つかるかもしれません。東南アジア諸国の独立系ブランドの小規模な工場が、製鉄所の工場跡地に並んでいる未来の光景を想像したら楽しくなりませんか。

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2020年8月3日月曜日

東南アジア的な視点から、北九州市の活性化について考えた(1)

6月、7月とここ2ヶ月の間、北九州市の小倉に滞在しています。
こんなに長く日本にいるのは、ミャンマーに住みだしたここ8年ではじめてです。北九州市にこんなに長くいるのも30年ぶりくらいです。実家は北九州にあるものの、これまで年に一度、一週間程度一時帰国した時は、国際空港の近い福岡市に滞在していました。見つかったバイトが北九州市だったので、ここに滞在しただけで、それ以上の理由はありませんでした。
今回の滞在で気がついたのは、30年前とは街の雰囲気が変わりつつあることです。
過去の衰退した工業地帯都市独特の荒廃した雰囲気がだいぶ薄らいでいる。
昔は、夜に女性の一人歩きができないような、暴力的で殺伐とした雰囲気の街でしたが、今はなんだかゆるくて、ほのぼのしています。

ほんの20年くらい前までこの地は、暴力団組合員のプレイを断ったゴルフ場のグリーンに重油を撒かれて、マネージャーが胸を刺されて死亡したり、入店を拒んだクラブのママが顔を刃物で切られたり、入店を拒まれた別の店では手榴弾を投げ込まれたりする事件が相次いでました。
2006年より福岡県警が本気で暴力団の摘発に取り組み、現在では、ほぼ暴力団の活動は根絶されたようです。


今では、自治体が過去のイメージを払拭して、移住者を増やすためのプロモーションビデオまで作られています。


そもそも北九州市の小倉は、先の大戦で空襲を免れたため、戦後復興が最も早かった都市でした。その後、工業都市として、1950年代の朝鮮戦争の特需で潤い(空襲を免れたため、軍需工場が残っていたらしい)、日本が西側の製造業を担うアジア唯一の工業国だった1960年代には隆盛を迎えました。日本で初めてアーケード商店街ができたのも、北九州の小倉です。このアーケードは、政府の補助金ではなく、商店街の店主達によってその建設費が賄われました。

ロバート・アルトマン監督の朝鮮戦争を舞台としたブラック・コメディ映画『MASH』では、不良アメリカ人軍医達が、息抜きに、戦場から近い日本の地方都市の小倉でゴルフや芸者遊びを楽しむシーンがあります。私がこの映画をビデオで観たのは1990年代でしたが、なぜ登場人物達が福岡に遊びに行かないのか不思議に思ったものです。映画を観た当時は知りませんでしたが、朝鮮戦争があった1950年代には、小倉の方が福岡よりも圧倒的に拓けた都会だったからです。


日本の経済成長に伴い人件費が上昇し、北九州の主力産業であった鉄鋼業などの製造業が競争力を失ない、産業構造が変化しはじめた1980年代から街の衰退がはじまります。近隣の地方都市・福岡市との人口が逆転したのが1979年です。
北九州のダウントレンドと福岡市のアップトレンドが交差したこの時から、現在に至るまでこのトレンドは継続し、今では商業施設の集積度や人口で大きな差がついています。街を歩いて、両市を見比べてみると、別に統計の数値に頼らなくても、街の活気や洗練度や多様性で大きな差があることが体感できます。

北九州市には、工場や製造業を中心とする企業が去った後も、工場労働者的あるいはブルーカラー的なエートスは残りました。企業の管理職はその場所での仕事がなくなれば転勤によってその地を去りますが、現業に従事する労働者の多くは、その地に残り続けるからです。

工場労働者を支えるエートスについては、イギリスの文化社会学者ポール・ウィリスによるエスノグラフィ『ハマータウンの野郎ども』がその嚆矢とされています。
実は読んでないので、ググった記述を以下に貼って、本書の概要を説明します。
ウィリスが行ったフィールドワークは,イギリス中部のある伝統的な工業都市を舞台にしている。『ハマータウンの野郎ども』のなかで〈野郎ども〉the lads と自称したのは、当該地域のセカンダリー・モダン・スクールに通う白人労働階級出身の若者たちである。彼らは,教師への反抗やからかい、飲酒、喫煙、逸脱的なファッション、笑いふざけなどを「反学校の文化」として実践する。
 『野郎ども』は学校で勉強をするのを忌避し馬鹿にしているが、自分たちはパブやケンカなどでの「社会勉強」のほうが重要と考えているのであって、むしろ学校の机での勉強しかしていない奴よりかはよっぽど社会のしくみに長け、人間としては上であると考えている。

 勉強とか、先生の言うことばっかり聞くことで、青春という人生の大切な時間が失われるなんて馬鹿げている。青春時代こそ自分のやりたいように生きるべき。 

彼らの「成人した男性労働者の世界=職場の文化」に対する憧れ,イメージは、次のようである。すなわち,「異性にかかわる欲望や『大酒喰らう』性癖や『ズラかろうぜ』という暗示や、その他さまざまな感情を、野放図にとまではゆかいないまでもほどほどに自由に表現できる場所、職場とはそういうところでなければならない。

日本のヤンキー的な価値観と極めて酷似しています。
統計はないでしょうが、かつての北九州市は、おそらく日本一ヤンキーの多い都市でした。
こうしたブルーカラー的な価値観が、世代を超えて継承されていくところも、日本のヤンキー文化と共通しています。

そして『ハマータウンの野郎ども』では、彼らが必ずしも反社会的な価値観の持っているわけではなく、むしろ社会を下支えする階層として、資本主義システム内に組み込まれている構造が明らかにされています。
野郎どもは学校の体制や教師に反発するけど、学校に行くこと自体は否定しない。いや、学校へは仲間に会えることや面白いネタがあることなどにより、むしろ喜んで通っている。

単純労務作業は、普通ならばだれでも嫌がる。仕事はキツイのに給料や社会的地位は低い。でも、それをこなせるやつだからこそ、『真の男』と認められるのだ。
つまり学校や職場といった場所や制度そのものには、異議申し立てはしない、むしろ伝統的・保守的な価値観を持った階層であり、それゆえ資本主義システムを構成する工場労働者として制度の中に組み込まれていた。これも北九州市の工場労働者の在り方と共通しています。
産業構造の変化により、イギリスから工場という職場が失われた1970年代後半に、労働者階級発のユースカルチャーとして、既存のシステムそのものを否定するパンク・ロックが登場したのは示唆的です。
奇しくも『ハマータウンの野郎ども』が出版された1977年に、パンク・ロックというジャンルを決定づけたセックス・ピストルズの1stアルバムがリリースされています。
ちなみにローリング・ストーンズのギタリスト、キース・リチャーズはインタビューでミュージシャンになった理由を聞かれて、「工場で働いて、上司に『イエス、サー』というだけの人生を送りたくなかったから」と答えています。

いま日本でベストセラーになっている在英日本人ブレディみかこさんの『ワイルドサイドをほっつき歩け --ハマータウンのおっさんたち』は、「野郎ども」の50年後の現在が描かれてたエッセイです。
今では元「野郎ども」現「おっさん」は、自分の子供や年少者に「いま俺のやっている仕事は、これからAIに代替されてなくなるから、お前は大学行け」と過去の労働者階級のイギリス人なら絶対に言わなかったであろうことを言うようになっているそうです。


こうしたヤンキー的・「ハマータウンの野郎ども」的なエートスが街に漲り、加えて暴力団などの実際に反社会的な組織が幅を利かせる地域であったため、北九州市は「修羅の国」というありがたくない名称をネット内で拝命することになってしまいました。ちなみに2012年に実施された、同市の若者アンケートでは、北九州市のイメージについての回答で最も多かったのは、「暴力・犯罪」が一位で、62.5%をマークしています。

でも、2ヶ月ほど滞在していみると、30年前とはずいぶんと様相が違うことに気がついてきます。

北九州市のたどった経緯をざっと振り返るだけで、かなり紙(モニター)幅を費やしたので、今はどんな風に変わってきているのかについては次回に書くことにします。

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2020年7月11日土曜日

ただいま日本でバイト中~昭和の仕事はゆるかった?

6月に引き続き日本の某地方都市で、特別定額給付金のデータ入力のアルバイトをしています。
当初は、8月までこの仕事がある予定でしたが、入力作業が予想より早く終わって、7月末で業務がなくなりました。
大量のアルバイトを雇って、一日10時間投入作業に従事させて、さらに途中から追加の人員まで補充していたので、請負会社の予想より1ヶ月以上前倒しで、ほぼデータ入力が完了しました。当初の契約通りの日数を出勤していますが、先週から作業時間より待機時間の方が長くなりました。一か月前に、肩こりと眼痛と戦いながら、長時間ぶっ通しでPC入力作業に従事していたのが遠い過去のように思われます。

ひたすら入力作業をしていた時期につらつら考えていたのは、「そういえばこうした仕事も昔は正社員がやってたな」ということです。私が公社系の電話会社に新入社員として入った頃、アルバイト先の仮設オフィスで行われているデータ入力作業もコールセンター業務も正社員の仕事でした。
今では、派遣会社と契約したアルバイトが同じ作業をしています。
アルバイトを統括するグループリーダーもどうやらアルバイトです。バイト長みたいなものですね。

昔の会社員は、今ではアルバイトがしている作業に従事して、それほど豊かではないものの、家のローンや子供の教育費を何とか賄えるだけの賃金を貰ってたことを考えると隔世の感があります。
もちろん、コールセンターなどの部署を束ねる管理者も、正社員の課長でした。

これだけを見ると、昔はゆるい仕事で生計が楽に立てられたように見えます。
タイムリーに、以下のようなニュースがありました。

「昭和時代にサラリーマンをやりたかった」という投稿に反発相次ぐ 「普通に働いていればそれでよかった」というのは本当なのか

しかし、必ずしも「昔はゆるくて良かった」と言い切れるものでもありません。
上のニュースにもありましたが、全員正社員・終身雇用が前提だと、とにかく組織の同調圧力や村社会ぷりが激しく、風通しの悪いことこの上ないというのが、当時の実感です。
社内の飲み会は強制参加、結婚式の仲人は直属の上司、特に仲が良くなくても同じ部署の社員の結婚式には出席、管理職の引っ越し作業に休日返上で参加、長くその部署に居る人間が牢名主化していてうかつに逆らえない等々、もはや会社は仕事する場というより一種の村社会的な共同体でした。
仕事とは直接関係ないのに、これらの不文律を破ると、仕事や人事評価に影響するという極めて透明性の低い場所でもありました。
バイトでもできる作業の管理に正社員の課長を据えていたのも、昔は労働組合がやたらと強く、現場の管理職に解決不能な無理難題を要求したり、組合員による鬱憤晴らしの突き上げなどが頻繁していたからという面があります。
事務能力の有無よりも、理不尽な罵詈雑言に耐える我慢強さがのある中年男性が、こうした部署の中間管理職として選ばれ、上層部へ組合員の突き上げが波及する防波堤となっていました。
私が入社する前は、一部の組合員が調子に乗って、中間管理職に暴言を吐いたりすることもよくあったと聞きました。

90年代に入ってから、業務や作業の内容による賃金の国際標準化が進み、単なる作業従事者が非正規雇用者に取って代わられ、生計のための十分な賃金を得ることは難しい時代になりました。
地域コミュニティの破壊とか、環境負荷の増大とか、あくなき利潤追求のため安全性の棄損とか、いまや諸悪の根源とされるグローバル資本主義ですが、単なる作業しかしていない人間が夜郎自大に威張り散らすという状況がなくなったのは、グローバル資本主義の正の側面だと個人的には考えています。こうした国際標準化の圧力にさらされているのが、現業の従事者だけで、経営層に及んでないことは大きな問題ですが。

では、今の方が良いかというとこれも微妙です。
最近、ナイキの創業者フィル・ナイトの回顧録『SHOE DOG(シュードッグ) 』を読んだのですが、ナイキがアメリカの銀行から取引を中止されて、1975年に会社が潰れかけた時に、資金を提供して会社を救ったのは、日本の商社日商岩井の駐在員でした。

当時のナイキの取引銀行バンク・オブ・カリフォルニアに、日商岩井の駐在員 伊藤氏が、創業者フィル・ナイトと共に訪れた部分を引用します。
イトーはあごを撫でながら自分で切り出そうとした。彼は直ちに本題に入った。忌々しい本題に。彼はホランドしか相手にしていなかったが、「みなさん」と前置きした。「私の理解では、ブルーリボン(註:ナイキの前身)との取引を今後は中止とするようですが」
ホランドはうなずいた。「そのとおりです。ミスター・イトー」
「それならば、日商岩井がブルーリボンの借金を返済します。全額」
ホランドが目を凝らした。「全額……?」
イトーは低く、声にならない声で返事をした。私はホランドをにらみつけた。私は、これが日本人だと言ってやりたかった。言葉を詰まらせながらでも。(同書 P386-P387)

これは銀行の横暴を見かねた伊藤氏の義侠心(とナイキの将来性を信じた)から出た判断で、上層部の許可を得ていない独断でした。後日談として、伊藤氏はこの独断によって、本社から一度は解雇と帰国命令を発令されています。


ちなみにナイキのポートランド本社には、この故事を感謝して、日本庭園 日商岩井ガーデンが敷地の中心部に造園されています。
昭和の時代は伊藤氏のように、馘首されるリスク取ってまで挑戦するサラリーマンがいたのには驚かされます。今のサラリーマンは汲々として、自己利益と自己保身しか考えられない小役人タイプが跋扈しているので。
日本経済全体が右肩上がりだった時期と、人口が減って縮小しつつある現在との環境の違いもありますが。
ただ、日本からこうした義侠心に富んだり、リスクテイクできる人間が完全に払底されたわけではなく、職業選択の幅が広がって、そうしたタイプの人間はサラリーマンを職業として選ばなくなったという要因も大きいです。起業や独立自営業なども、ネットの発達で、昭和の時代に比べれば、格段に始めやすくなっていますし。

価値観や美意識は時代を経ると変わる事もあり、物事には正負の両面があるので、一概に比較はできません。ただ、真面目で従順なだけなのが取り柄の人でも食いっぱぐれなかった時代から、何らかの新しい価値観や美意識を提供できないと食い詰める可能性が高い時代に移行しつつあることは確かです。

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2020年4月4日土曜日

コロナ対策で自宅勤務中のミャンマー女子に写真を撮らせてもらった

現在、ヤンゴン市内では、飲食店の営業も店内での飲食は禁止されて、数少ない営業中のお店も持ち帰りのみとなっています。
街は閑散として、普段は賑わっている場所でも人通りはまばらです。
さっき聞いた話によると、4月10日から4月21日まで、外出禁止令が発令されそうです。
人聞きなので、真偽の程はわかりませんが、この国では、空港閉鎖も飲食店の営業禁止も突然発令されて即施行されたので、可能性はあります
(4月5日追記:どうやら、政府が「ティンジャン(ミャンマー正月)で休日となる10~19日の外出を、食品や医薬品の購入目的を除いて自粛するよう通達した」事実に尾ひれが付いて、一律の外出禁止令が布告されるとの噂に転じたようです。公共のニュースに対する信頼度が低いミャンマーでは、確度の低い噂がSNSを通じて拡散しやすいです)。

そんな不穏な空気が漂う中ですが、ミャンマーのメディア企業で働く近所のミャンマー人女子に商品着用写真を撮らせてもらいました。
今、彼女の勤務先でも従業員の出勤を自粛して、ビデオ会議などのリモートワークで業務対応しているようです。
そうした状況なので、平日の昼間にアパートにお邪魔して、写真を撮らせてもらえました。
彼女のアパートの狭いバルコニーで撮影したので、アングルを選べませんでしたが、着用イメージはある程度伝わるかと思います。

















上記商品のサイズ・価格などの詳細は、こちらのページでご覧になれます。
https://www.ygncalling.com/shop

この時期、多くの人が自宅に籠ることを強いられるはずなので、これを機会に、手持ちの服でできるコーディネートを試したり、積読中の本を読んだり、みなさん自宅でできることを楽しめるよう気持ちを切り替えられたらいいなと思います。

ちなみに彼女とは、読書SNS Goodreads で知り合いになりました。
読了リストに、洋書ファンクラブで紹介されていた、 Daisy Jones & The Sixが上がっていたので、興味を持ってこちらからコンタクトしました。
この本の邦訳が出るのを待つか、原著で読むかちょうど迷っている時だったので。


本書は、70年代の架空のロックバンドについての手記・回想録というスタイルで描かれたフィクションです。
レビュー読むと、主人公のモデルとして、フリートウッド・マックのスティービー・ニックスが想起されるようです。
ちなみに、彼女にこの本の感想を聞いたら、イマイチだったということでした。
主人公のDaisyのキャラクター造形が、ミャンマーの文化的価値観と離れすぎていてなじめなかったようです。
それに加えて、60年代末から70年代初期にかけてロック音楽が表象していた時代の空気感など、時代背景や前提となる知識がないと楽しめないのかもしれません。タランティーノの映画『ワンスアポンアタイムインハリウッド』同様に。
あの映画について、公開当時に話題にしていたミャンマー人は、アメリカとかヨーロッパの大学を卒業して戻ってきた富裕層の子女のみでした。
彼女はヤンゴン外語大学のフランス語科卒で、フランス語と英語ができますが、自分をWorking Class Womanと自己紹介していました。ミャンマーの上流階級・富裕層は、キャリアの最初から親族経営の会社の役員になるか、親の資金で起業するかが一般的なので、身内でもない他人に指図されて働くこと自体がWorking Classと定義されるのかもしれません。ミャンマー国外から出たこともないみたいな様子でした。
そうした子が、こうしたタイプの小説を原著で読むことはミャンマーではかなりレアケースです。
少しずつですが、ミャンマーの文化的価値観や文化の受容性も多様化しつつある気配を感じます。

とりあえず、ちょうどいい休みができたと思って、今まで読めなかった本でも読んで、ゆっくりこの時期をやり過ごそう、と思ったらクリック!
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2020年1月11日土曜日

ヤンゴンの本好きにはたまらない季節がやってきました

今年の一月も去年に引き続き、ヤンゴンで世界最大の本の展示即売会のBig Bad Wolf Book Saleが開催されています。
東南アジア各地を巡業しているイベントで、開催元はマレーシアの企業のようです。
自分のブログで確認すると、去年は1月18日~1月29日に開催されていました。
今年の開催日は、1月10日から1月20日の間です。
今年は去年とは場所が変わって、Fortune Plaza内のMyanmar Expo Hallで開催されています(場所の詳細は後述)。

ヤンゴンには、国際空港内の紀伊國屋書店しか海外の書籍が買える大きな本屋がないので、ここに住んでいる活字中毒者は、だいたい本に飢えています。
なので、活字中毒の在住者にとっては、干天の慈雨のようなイベントです。
去年は開催中日に2、3回行った記憶がありますが、今年は気合を入れて、初日の朝から行ってきました。


価格帯は、ペーパーバックで5,500MMK、ハードカバーが7,000~9,000MMK、ビジュアル・ブックは値段にばらつきがあって15,000~25,000MMKくらいです。
市価の半額以下なので、バンコクへ一時出国した時に買うよりも安い。








今年の傾向として、ビジネス書はあまり目ぼしいものがありませんでした。
そのかわり、文芸書が充実していました。
おそらくここで販売されているのは、出版社や取次から余剰在庫を低価格で大量に買い取った本です。
フィクションでは、村上春樹とかポール・オースターとか、ノンフィクションでは、マルコム・グラッドウェルとかユヴァル・ノア・ハラリのような、普通の本屋に平積みしているような売れ筋の本はありませんが、ある程度の目利き力があれば、面白そうな本を手頃な値段で入手できます。

ウィリアム・バロウズの『ソフトマシーン』も5,500MMK。
ミャンマーでバロウズ読む人間がいるのか?

今年の戦果をいくつかご紹介します。

ガブリエル・ココ・シャネルの伝記。
日本のビジネス書の分野では、ベストセラー作家の出口治明氏が、よくシャネルの言葉を引いて、教養の必要性を説いています。
「私のような大学も出ていない年をとった無知な女でも、まだ道端に咲いている花の名前を一日に一つぐらいは覚えることができる。一つ名前を知れば、世界の謎が一つ解けたことになる。その分だけ人生と世界は単純になっていく。だからこそ、人生は楽しく、生きることは素晴らしい」

出口氏はシャネルを敬愛していて、彼女の伝記本はすべて読んでいるとどこかに書いていました。それを知った時に、ビジネスマンがシャネルの生き様に興味を持つのは意外な気がしました。

日系アメリカ人作家による長編デビュー作。
21世紀に入ってから、アメリカ文学界で活躍するアジア系・アフリカ系の作家が増えていますが、アジア勢はインド系・中国系が中心で、日系人は影が薄い気がするので、どうなんだろうと思って。

イタリアの作家イタロ・カルヴィーノの『見えない都市』とドイツのカフカの『城』。今回は、フィクションのコーナーに、カルヴィーノの小説がたくさんありました。いま東南アジアでカルヴィーノ・ブームが起きているのか?


カルヴィーノの『見えない都市』は、フビライハンに仕えたマルコ・ポーロが、主君に、これまで訪れた奇妙で不思議な都市を語るという断章で綴られた短編集です。私の知る限り、世界で最も美しい、宝石箱のような小説です。東京大学の米文学の元教授で、現在は翻訳家の柴田元幸氏も、翻訳小説のヘヴィー級チャンピオンはガルシア・マルケスの『百年の孤独』で、ミドル級チャンピオンがこのカルヴィーノの『見えない都市』だと、東大駒場祭で開催された講演会で語っていました。

フィリップ・K・ディックの『パーマエルドリッチの三つの聖痕』と『火星のタイムスリップ』。


私が中学生の時、最もハマっていた作家は、筒井康隆とフィリップ・K・ディックでした。久しぶりに読んだらどんな感想になるのか、興味があったので。

ジェニファー・イーガンの『マンハッタンビーチ』。


前作の『ならずものがやってくる』から7年ぶりの新作。未読ですが、『ならずものがやってくる』は、よくカオサンの古本屋で見かけるので、どんなものか興味があったので。しかし英語圏の作家は、本当に創作ペースがゆっくりです。カズオイシグロなんかも、新作出るの5年おきくらいだし。英語で書かれた本は読者数が多いため(英語が母語でない国でも読まれるので)、頻繁に新作を発表しなくても食えるので、じっくり時間をかけて書けるんでしょうけど。

今回の目玉はこの本。見つけたら絶対買うべき本です。
ジュノ・ディアスの『オスカー・ワオの短く凄まじい人生 』。


ドミニカ系アメリカ人作家による、ドミニカ系アメリカ人の日本オタクの青年が登場する長編小説。ウルトラマンとか小松左京原作『復活の日』の角川映画が作中に出てくるのは、この作品だけでしょう。日本語訳を読んだとき、ガルシア・マルケス ミーツ カート・ヴォネガットという感想を持ちました。
ピュリツァー賞、全米批評家協会賞をダブル受賞、英米で100万部のベストセラーとなった話題作なので、ヤンゴンに住む外国人もこの小説のことを知っている人が結構います。
昨日Facebookで、イベント会場にチェックインして、この本の表紙をアップしたら、「この本いいよね!」とヤンゴン在住のケニア人からレスが入りました。
21世紀になってから発表された私が読んだ小説の中で、今のところ、これがベストの作品です。
この作家は、親日家で、下北沢のサブカルチャー事情にも詳しいです。福岡のラーメン店事情を世界の知るところになったのは、この人が雑誌に寄稿したコラムによるところが大きいです。関心のある方は、Junot Diaz Ramen Fukuokaでググってみてください。

それでは、会場への行き方をご案内します。


上記地図の通り、会場はFortune Plaza内のMyanmar Expo Hallです。
ヤンゴン郊外の場所なので、市内中心部からタクシーを使うと往復10,000MMKはかかります。
そんな交通費使うより一冊でも多くの本を買いたいという人(私です)のために、バスでの行き方をご案内します。
バスだと片道200MMK、往復400MMKなので、25分の一の交通費で行けます。

ダウンタウンから行く場合は、マハバンドゥーラ公園前のバス停から、 4、5、9、33、81、85、89のいずれかの番号のバスに乗って、タカタ橋を渡ってから二つ目か三つ目のバス停 Wet Su 下車です。バス停から会場までは100メーターくらいです。
大型バスは4番と81番で、あとはマイクロバスになります。本数の多い、4番で行くのが一番無難でしょう(私は行き帰りとも4番を使いました)。



20日までの開催で、まだ間があります。本が好きな方にはご来場をおススメします。

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