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2021年9月20日月曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーヴァードライブ』4 (1)

 4(1)

 重野が帰った後、もう一杯ボウモアのソーダ割りを飲んだ。ターンテーブルの上の音盤は、ディアンジェロのライブ盤になっていた。「Brown Sugar」が店内に流れている。 
 店を出て、大名から大濠公園のマンションまで歩いて帰った。福岡城の城址を囲む堀に沿って植えられた桜は若葉を茂らせていた。堀の水面は睡蓮の葉に覆われている。睡蓮の花が咲く頃には、タイかミャンマーにいるはずだ。

 それからの十日間は、リサーチに時間を費やした。タイとミャンマーの現代美術の動向を調べた。
 東南アジアの国の中で、この二つの国を選んだのには理由がある。アジアの国々でアートマーケットが活況なのは、アートバーゼル香港が開催される香港と東南アジアで最も富裕層が居住するシンガポールだが、これらの国では、すでに有力ギャラリーが進出しているため新規参入は難しい。
 タイは一九九七年のアジア通貨危機でのタイバーツの下落を経た後、着実に成長を続け、一人当たりの実質GDPは二〇〇〇年代になってから八五パーセント近く伸びている。生活水準と可処分所得の向上に比例して文化的な関心も急激に高まっている。二〇〇八年には、現代美術を扱う大規模な美術館バンコク・アート&カルチャー・センターが開業している。また二十年にわたる経済成長の中で生まれたニューリッチの二代目や三代目が続々と首都バンコクにギャラリーを開設して、現地のアートマーケットは活況を呈している。街のDVDショップには、ジャン=リュック・ゴダール、ウォン・カーウァイ、ソフィア・コッポラらの作品が目立つ場所に置かれ、バブル経済が崩壊した後、一時的に文化的な爛熟が進んだ一九九〇年代後半の日本を思わせた。巨大なショッピングモールが次々と建設され、ヨーロッパやアメリカのラグジュアリーブランドのショップが中を埋めている。バンコクの商業都市としての規模は明らかに東京より大きい上、国際化もより進んでいる。外国人の居住者や観光客が多いため、ロンドンやニューヨークなどの先端文化や風俗が伝播する速度も東京よりも早い。
 ミャンマーはタイと対照的な国だ。長らく軍政で、経済停滞が続いたこの国では、ハイブランドで埋め尽くされたショッピングモールなど望むべくもない。二〇一一年に民政移管が実施され、二〇一五年の総選挙の結果、翌年、五十四年ぶりの文民政党による与党が誕生した。二〇一一年の民政移管後、海外からの投資が一気に拡大した。世界に残された数少ない経済フロンティアとしての注目を浴びたためだ。だが、その外国投資も二〇一五年をピークに減少傾向にある。電力や交通などのインフラが脆弱で、外国企業を保護する法律が未整備なことで、進出したものの事業が立ち行かずに撤退する企業が相次いだ。隣国のタイが一九八〇年代からODAを通じてインフラの整備を推進し、海外から企業の誘致に成功したことで、工業化と輸出の拡大が進み、目覚ましい経済発展を遂げたのとは異なる歴史を歩んでいた。少数の例外を除き、外国人や外資系企業がこの国で経済的な成功を収めるのは困難であることは明らかになりつつある。それでも、この国に惹かれる外国人はいた。未開拓で未整備な荒野のようなフロンティアの広がりを目にして、利得を超えた好奇心やある種の冒険心をくすぐられるのだろう。アート関係者からほぼ無視されているこの国に関心を持つ私もそうした人間の一人なのかもしれない。
 そしてこの対照的な両国は国境を接しており、首都バンコクと商都ヤンゴンは飛行機で一時間半足らずで移動できた。まず、福岡からバンコクへの直行便のあるタイに行って、それからミャンマーに移動することにした。最終目的地のミャンマーで、瞑想センターにしばらく滞在してみることにした。ネットの情報や上座部仏教の解説書を読むと、多くの瞑想センターがミャンマーに存在することがわかった。

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2021年9月2日木曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーヴァードライブ』1 2019年4月 福岡市大名(2)

3 二〇一九年四月 福岡市大名(2)

 ターンテーブルの音盤がまた切り替わった。今度は山下達郎のライヴ盤『IT'S A POPPIN' TIME』だった。
「話は変わるけど、山下達郎と村上春樹って似てないか?」と私は言った。
「なんだそれ? 少なくとも、顔は似てないぞ」
「そうじゃなくて、キャリアの進め方に共通するものを感じる」二杯目のギムレットを飲み終えた私は、ボウモアのソーダ割りに切り替えた。「達郎の初期のアルバムからは、カーティス・メイフィールドやアイズレー・ブラザーズの直接的な影響が聴き取れるし、春樹の初期の作品も、カート・ヴォネガットやリチャード・ブローディガンとの近似性を、発表当時は、批評家から指摘されていた。二人とも、リズム&ブルースやカウンターカルチャー小説といったアメリカの都市文化からの影響を出発点に、キャリアを重ねる中で、日本的な文脈を織り込んだオリジナリティを確立している。そうした意味で二人とも極めて日本的なクリエイターともいえる。この国の文化の基層は、外来の文化や文物をローカライズして、習合させることで成り立っているからね。漢字にしても、仏教にしても」
「なるほどな」重野が応えた。「経済学者のケースだと、宇沢弘文があてはまるかな」重野が二杯目のブラントンのオンザロックを頼んだ。「新古典派の理論経済学者として出発した宇沢は、シカゴ大学で頭角を現し学派を形成するまでになったが、ベトナム戦争が激化する中で右傾化するアメリカの政治経済に対する失望と反発からアメリカを去ることを決意する。日本への帰国後、今度は社会問題として先鋭化していた公害の問題に直面する。当時の高度成長期の日本では、水質汚染や大気汚染などの公害が引き起こす、健康被害や環境問題が深刻な社会問題となっていた。そうした被害が起こった現地に足を運び、被害者の支援グループや市民運動にコミットメントする過程を経て、宇沢は従来の経済学が無視していた外部不経済–––市場の取引外で生じる不利益–––をも包括する経済学の理論を構想した」
「主流の新古典派経済学では、私有されていない自然環境は、企業や個人が利潤追求のため制約なしに使ってよいとされていた?」
「そう、宇沢はその前提に疑問をもったはずだ。そこで市場経済の外にある環境や制度を経済学の対象に取り込もうとした。具体的には、海や山や大気などを自然資本、交通や電力などを社会的インフラストラクチャー、教育や医療などを制度資本と定義した。そしてこれらを市場原理が適用されるプライヴェート・セクターとは別の体系で運用されるべき社会的共通資本として概念化した。参照されたのは、人類のあらゆる文化や地域で観察されるコモンズの存在だ。たとえば、イランのボネー、スペインのエルタ、インドネシアのスバクなどの灌漑用水や、日本の入会制度、イタリアのヴァーリ、西アフリカのアカディアなどの沿岸漁業についての共有管理システムだ」
「『見えざる手』に導かれて、市場が調和的に均衡するという伝統的な経済学のもつ一神教的な価値観を、市場の外にあるものを取り込むことで多神教的なそれに展開させたともいえるな」
「面白い逸話が残っている。一九九一年に時のローマ法王ヨハネ・パウロ二世に経済学者として、この社会的共通資本を御進講した宇沢を、後に法王は、宇沢のことを『あの仏教徒』と呼んでいた」
「神の意思において市場が常に均衡するという一神教的な経済学に、市場以外の概念を導入したことに多神教の仏教的な世界観を感じたのかもな。仏教には、ユダヤ・キリスト教のような超越的な唯一神は存在しない。
 仏教的な世界観だと、お前が今飲んでいるバーボンも大麦や水などの原料だけに還元できない。太陽、大地、空気、木、雨、風などのウィスキーの原料以外の宇宙のすべてがそれに含まれている。仏教の縁起や因果という概念では、森羅万象のネットワークの中で、様々な要素や事象が交差し、切り結んだ結果として、我々の目の前の世界は構成されている」
「単純な要素還元主義では世界は説明できないということか。ケネス・アローとジュラール・ドブルーは、エレガントな数学的な手法を使って、世の中すべての生産と消費が一致する一般均衡のモデルを定式化したが、それは極めて限られた条件のもとでしか成立しない。そこでは人間は、経済的な利益を最大化すること以外の関心を持たない。言ってみれば、贈与もボランティアも恋愛も友情も存在しない世界だ。行動経済学の分野でも、そうした経済人の実在は疑われている。
 さらに完璧な市場の存在が前提とされている。つまり、すべての消費者は購入する製品やサービスについて完全な情報を持っていて合理的に行動するし、市場には寡占や独占は存在しない」
「完璧な市場などといったものは存在しない。 完璧な絶望が存在しないようにね」と私が返すと、重野が鼻で笑いながら応えた。
「ケインズは大恐慌の時代に、市場の不完全性を明らかにした。たしかにあの時に、新古典派の主張するような完璧な市場は存在しなかった。そうした状況で、政府支出などを通じて人為的に需要を作り、市場を安定させるというケインズの示した経済に対する処方箋は、当時は革命的とも言えた。ポール・サムエルソンは『南海島民の孤立した種族を最初に襲ってこれをほとんど全滅させた疫病』にたとえてるし、ポール・クルーグマンは『世界の見方をまるっきり変えてしまい、いったんその理論を知ったらすべてについて違った見方をするようになってしまう理論』と言っている。二人ともノーベル経済学賞の受賞者だ」
「『見えざる手』のような超越的な力に頼らず、自助努力で問題を解決すると言う点では、ケインズ革命は仏教と似ているかもしれない。もっとも仏陀の説いた仏教は、瞑想によって解脱して、欲望を消滅させることを目的にしているから、解脱者が増えたらその分確実に需要も供給も減る。解脱者は、労働も生殖もしないし、喜捨で施される以外の自発的な消費もしないからね」
「ケインズは『孫たちの経済可能性』という一九三〇年に発表したエッセイで、百年後の世界を予想している。ケインズの予想では、今から約十年後の二〇三〇年の世界では、技術革新によって物質的な要求は満たされ、日々の生活を保証するレベルの経済的な問題は解決されている。これは今の先進国には、ほぼ当てはまる状況だな。
 今のところ当たってないのが、そうした社会では一日三時間も働けば十分なため、人々は余暇をどう過ごすかに頭を悩ませるだろうという予想だ。『特別な才能もない一般人』が趣味や余暇を見つけるのは大変だろうと、彼は心配している。一世を風靡した経済学者で、有能な財務官僚で、やり手の投機家で、芸術家との親交が深かった、貴族的なエリートを自認していたケインズならではでのご心配だろうが。今後、そうした世界が訪れるなら、瞑想に没頭する人間が増えるのも悪くない。みんなたいして働く必要がないわけだからな」
「俺もタイとミャンマーにリサーチに行ったら、ついでにミャンマーの瞑想センターにしばらく滞在してみようかと思っている」
「お前は働く必要があるだろ」と重野がまた笑った。「そういえば、ジョン・スチュアート・ミルも、経済成長の時代が終わった後の人口や資本ストックが一定となる定常経済を予想している。十九世紀半ばのことだから、ケインズより一世紀近く前になる。
 ミルが予想した定常経済では、資本や人口が定常状態にあっても、技術革新の進歩や文化活動の停滞は起こらない。むしろ利潤の追求という成長経済の中で求められる目標から解放されることで、より高次の発展が期待できると考えた」
「経済成長そのものは普遍的な価値観ではありえないからね。いつの時代も考えられてきた真・善・美や幸福の追求とは位相が違う」
「そうかもしれないな。経済成長が政府目標となったのは、第二次世界大戦後のアメリカからだ」グラスのブラントンのオンザロックを飲み干して重野が言った。「そろそろ帰るよ。明日も朝から役員会だ。少なくとも、うちの古参の役員たちは、五十年前の日本の高度成長期を体験しているから、経済成長の神話をいまだに信じている。俺も社外取締役として残るためには、彼らの意向に沿う提案をしないといけない。それが現実的かどうかは別として」
「また連絡する。ミャンマーから帰ってきた後になるだろうけど」
「ああ、またな。次に会う時は、お前は解脱してるのかもな。涅槃の世界がどんなものか教えてもらえるとありがたいよ」

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2021年8月12日木曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーヴァードライブ』1 2019年4月 福岡市浄水通り(2)

1 2019年4月 福岡市浄水通り(2) 

 私が銀座の画廊を退職し、下北沢のアパートを引き払って福岡に移り住んだのは一ヶ月前だ。叔父が遺してくれたマンションにそのまま暮らすことにした。十階建マンションの五階にある2LDKのその部屋からは、すぐそばの大濠公園を見下ろせた。下北沢で借りていた1DKのアパートに比べればずいぶん広くて快適だ。大濠公園は、福岡市の中心部に立地する、美術館、能楽堂、日本庭園を内に備えた都市型の公園だ。二十二万六千平方メートルの大池を取り囲む約二キロメーターの周回歩道は、市民のジョギング・コースとして親しまれている。
 毎朝、起きると大濠公園でジョギングした後、部屋に戻ってコーヒーを淹れて飲んだ。ネットでニュースを読んで、協業の可能性のあるアートビジネス関係者に連絡を取った。夜は本棚から本とLPを取り出して、読書をしながら音楽を聴いた。テレヴィジョンの『マーキー・ムーン』やパティ・スミスの『ホーシズ』やルー・リードの『トランスフォーマー』を聴きながら、ロベルト・ポラーニョの『2666』やジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリの『千のプラトー』を読み、酒を飲んだ。おそらく叔父もこうして夜を過ごしていたのだろう。酒好きだった叔父は、小さなバーが開店できるくらいのボトルを残していてくれたので、幸い飲む酒に困ることはなかった。これも私のために残していてくれたのかもしれない。叔父の心遣いに感謝した。ボトルのコレクションは、スコッチ、バーボン、焼酎が中心で、日本酒やワインは少なかった。叔父の生前の私生活を連想させるような遺品は、部屋から注意深く取り除かれていた。

 重野にコンタクトを取ったのもこの頃だ。地場財界の重鎮であった彼の祖父の死は、この地で大きく報道された。
 一般に、価値のある美術作品がまとまって市場に出る機会は「3D」––- 死(Death)、離婚(Divorce)、負債(debt)–––と言われている。やはり私も、コレクターとして知られる彼の祖父の遺品が市場に出る可能性を考えた。
 
「家の遺族は、美術品を一括で買い取ってくれる業者を探している」と重野が言った。
「それは俺には手に余る仕事だな。二、三点なら買ってくれるコレクターを仲介できると思う。俺も自分のビジネス用の在庫として欲しいものがある。もちろんキャッシュの持ち合わせはないから、叔父から引き取ったマンションを売った金で買える作品になるけど」  
「遺産の処分の方針については、いま親族と税理士が話し合っている。それ次第だな。お前でも関われそうなら、また連絡するよ」 
「恩に着るよ」

 ジョージ・ネルソンがデザインしたテーブルの上に、PCに繋がれたVRゴーグルがあった。ゴーグルは横二十センチ、縦と奥行きが十センチ程度の大きさだった。
「これは何だ?」と私は尋ねた。
「機能的磁気共鳴断層撮影でスキャンした祖父さんの脳の活動を、プログラマーが作ったアルゴリズムで変換して映像化したものが見れる」
「何だってそんなことをしたんだ?」
「祖父さんは、三十年以上臨済宗の禅をやっていた。熟練の瞑想者の脳の活動は、普通の人間それとはけっこう違うらしい。祖父さんは現代美術のコレクターだったが、自分で作品を作ることはなかった。これを作ったのは亡くなる半年くらい前だ。これをインスタレーションと呼べるなら、祖父さんが作った生前唯一の作品と言えるかもしれない。自分でも何か作品を残したかったかもな」
「見てみてもいいかい?」
「ああ、ちょっと刺激的かもしれないが、お前なら大丈夫だろう」
 私はVRゴーグルを手に取って、自分の顔に取り付けた。
「じゃあ、PCをオンにして、これから流すぞ」後ろから重野の声がした。
 しばらくして、眼前に映像が浮き上がってきた。無数の発光する不定形なアメーバ状の物体が視界全体に迫ってくる。それぞれの物体はひも状に突起を伸ばしながら、相互に複数の物体と繋がっている。個々の物体から複数の突起が現れ、細長くそれを伸ばしながら、軟体動物の触手が何かを掴むように次々と他の物体に繋がっていく。まるで脳の神経細胞から軸索が伸びて、シナプスが他の神経細胞の樹状突起の受容体へシグナルを送っているのを見ているようだ。
 個々の物体は新しく現れては消え、それにつれて互いの接続点が変わることで、ネットワーク全体も不断に流動している。
 こうした現象を概念化したモデルがいくつかあったのを思い出した。
 ひとつは、空海の唱えた重々帝網だ。仏法の守護神である帝釈天の宮殿を飾る光り輝く網を例に取って説明された世界像だ。網の結び目ひとつひとつは、鏡球(宝珠)で、互いに鏡像を映し合っている。それぞれの鏡球に、全方位の他の鏡球が映り込むことで、鏡球のひとつひとつがネットワーク全体を包摂している。鏡球が互いに鏡映し合い、個であると同時に相互に連結したネットワークの全体である世界像。個々が相互に結びつき、映し合うことで、関係性が生じ、あらゆる事象が起きていく。空海は、世界を律する縁起の法則を、このモデルによって説明した。
 あるいは、ドゥルーズ=ガタリが提唱したリゾームの概念。ドゥルーズ=ガタリは、超越的な一者から他のものが派生していく固定的、不活的なツリー型の思考形式に対峙する、流動的で生命力を孕んだモデルとしてリゾームの概念を提唱した。多方に線が飛び交い、異質な結節点が互いに影響を与え合いながら、ネットワーク全体が生成変化して形成される、脱中心的で、始まりも終わりもない、個と全体の境界が不可分なエネルギーの力場だ。
 そして、現代美術の分野でも眼前の映像と同様の世界観を感じさせる作品があったのを思い出した。
 草間彌生の一九六〇年制作の作品『Infinity Nets Yellow(無限の網 黄)』だ。草間のスタジオを訪ねたフランク・ステラが個人的に買い取り、美術界で草間の再評価の機運が高まる中、二〇〇二年にワシントンのナショナルギャラリーにより百万ドルで購入された作品だ。個々のドットが相互に複雑に絡み合いネットワークを構成し、個と全体の境界が消失し、図と地が等しく存在する図像は、まるで空海やドゥルーズ=ガタリがモデル化した世界像をカンヴァス上に具現化したようだ。
 
 そして私の遍歴はここから始まった。行き先は、ダンテがくぐった地獄の門でも、ロバート・プラントが歌った天国への階段でもなく、ブッダの説いた涅槃の入り口だった。

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2021年8月7日土曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーヴァードライブ』1 2019年4月 福岡市浄水通り(1)

1 2019年4月 福岡市浄水通り(1) 

 私はタクシーに乗って、福岡市浄水通りの邸宅に向かっていた。浄水通りは、福岡市の緑に囲まれた閑静な高級住宅地で、大邸宅、高級分譲マンションが建ち並ぶ丘と、富裕層向けのレストラン、カフェ、ブティックなどが軒を連ねる麓を結ぶ約八〇〇メートルの並木道だ。一九八〇年代にジョルジオ・アルマーニが日本に本格的に参入する前に、テストマーケティングのため日本で最初のブティックを作ったのがこのエリアだと聞いたことがあるが真偽のほどは定かではない。
 目指す邸宅は丘の中腹にあった。タクシーから降りて、背の高い鉄扉の脇にある、風雨に晒されて年季の入ったインターフォンを押して、訪問を告げた。
「お約束していた小林天悟です」
インターフォンを通して返事があった。「ああ、いま行く」重野聡の声だった。
 内側から関が開けられ、鉄扉が開いた。「久しぶり。古い家だから電気解錠じゃないんだ」
 二年振りに会う重野は、ヒューゴ・ボスと思しきネイヴィーのピンストライプのスーツを着ていた。学生時代にラグビー部に所属していた胸板の厚い重野によく似合っていた。
 門から建物まで繋がる芝生に埋められた石畳を並んで歩いた。
「祖父さんが亡くなってから、誰も住んでない。生きていた頃は、祖母ちゃんと通いのヘルパーが二人いたが、今は家の両親が祖母ちゃんを引き取って、一緒に暮らしている」と重野が言った。
 
 邸宅のオーナーは、一か月程前に九十歳代で物故していた。彼は、地方銀行の頭取で、地場デベロッパーの創業者でもあった人物だ。現代美術のコレクターとしても知られていて、その嗜好は彼の経営するデベロッパー事業の開発物件にも反映されていた。一九九〇年代初頭には、先鋭的な現代建築家六人によるデザイナー・マンション群を福岡市郊外に建設したこともある。各棟に、レム・コールハース棟、スティーブン・ホール棟といった設計者の名前を冠したこの集合住宅群は、冒険的なプロジェクトとして、竣工当時、国内外の建築関係者の話題をさらった。
 二十メートルほど続く石畳の先にある建物は、ガラス張りの大きな窓が連なるル・コルビュジエ風のモダニズム建築だった。科学の進歩が人類の発展に貢献するとナイーヴに信じられた、地球温暖化の心配なんか誰もしなかった時代の建築様式だ。
 一階はギャラリーを兼ねたリビング・ルームとキッチンで、二階がベッドルームのようだ。一階は、二階へと繋がる螺旋階段以外はほぼ遮蔽物のない、広さ三〇〇平米メートル程度の段差のない平坦な空間だった。そこにオーナーの収集したコレクションが所々に展示されている。
 ジャクソン・ポロックの紙作品、ジャスパー・ジョーンズのマップ・シリーズ、プライス・マーデンのドローイング、ジョゼフ・コーネルの木箱を使った立体コラージュ、フランク・ステラの金属製オブジェ。一九五〇年年代から七〇年代にかけて制作された、抽象表現主義、ミニマリズムなどのアメリカ現代美術を中心に構成されたコレクションだった。日本が不動産景気に沸いた、一九八〇年代中頃から一九九〇年代前半にかけて蒐集されたようだ。その頃はデベロッパー事業が好調で、蒐集のための資金も豊富だったのだろう。アートが今ほど投資対象として一般的でなく、まだ1Tで成功した起業家が美術市場に参入する前の時代だったので、今よりずいぶん手頃な価格で購入できたはずだ。
 窓から見える庭は和洋折衷で、枯山水の様式に則っているが、小石や砂が敷き詰められるべき部分は芝生となっていた。ヘンリー・ムーアの彫刻作品が庭の中央にあった。
 オーナーのお気に入りだったと思しき作品の前には、ミース・ファン・デル・ローエがデザインしたバルセロナ・チェアが置かれている。ジャクソン・ポロックやプライス・マーデンなどがお気に入りだったらしい。
「相続税対策のため、この家も美術品も売り出す予定だ」重野が言った。

 重野が私をここに呼んでくれたのは、つい最近私がギャラリストとして独立したからだった。私が通っていた地元の国立大学の学生時代の友人だった重野は、好意で他の画商やオークションハウスに公開するより先にコレクションを見せてくれたのだ。重野は同じ大学の大学院へ進んだ後、経済学部の助教になっていた。彼の祖父が創業した地場デベロッパーの社外取締役も務めていた。
 私は大学を卒業してから、三年間電気通信会社に勤め、銀座の画廊に転職し五年働いた後、その職を辞したところだった。銀座の画廊では、比較的高齢の富裕層の人たちに、日本の作家の印象派風の絵画や美人画を販売していたが、やはり同時代的なアートの世界との接点が欲しくなり、独立することにした。

 私は両親が地方公務員という、ある意味典型的な地方の中流家庭に育った。公務員や教員といった浮き沈みのない堅実な職業を選択することが常識的な人生設計と考えている、いささか保守的な人生観と生活感覚を持ち合わせた親族や両親に囲まれた環境で育ちながら、決して安定的とは言えないアートの世界に職を求めることになったのは、母方の叔父の影響が大きかったのかもしれない。
 叔父は、大学を卒業してから、(彼の親族が考えるような)定職に就かず、組織に属することもなく、フリーのプログラマーと個人投資家として生計を立てていた。時間の自由がきくため、気が向くと一人でよく旅に出ていた。行き先は、美術館巡りのためヨーロッパだったり、ビーチでくつろぐために東南アジアの離島だったりと、その時々の興味や関心によって方々で、これといった一貫性や傾向はなかった。こうしたボヘミアン的な気質の叔父は、堅実さと安定性を良しとする保守的な価値観を信じて疑わない我が親族からは少なからず疎まれていた。私はこの二十歳近く年上の叔父が気に入っていて、小中学生の頃、福岡市の大濠公園近くの叔父のマンションへよく遊びに行った。それについて、母親があまりいい顔をしなかった。「小さな頃から協調性がなくて、一人で自分の好きなことばかりしていた、身勝手な人」というのが、母親の自らの弟に対する人物評だった。「あなたもあの人に似たところがあるので心配」という息子の私に対する懸念も、それほど間違っていなかったのかもしれない。
 一人暮らしの叔父は、自分の趣味に合わせてリノベーションしたマンションの一室で多くの時間を過ごしていた。プログラミングも金融取引も自宅のコンピューターを使って完結する作業なので、仕事のために外に出る必要がないのだ。叔父は、国内の株式市場の後場が閉じる午後三時以降は仕事をしないことにしていたので、小中学生時代は、週に二、三日は、放課後に叔父のマンションに寄った。天井近くまで達した壁全面を占める特注の本棚には、アナログ・ディスクと本が隙間なく埋められていた。二人でソファに並んで腰掛けて、叔父はビールを私はジュースを飲みながら、叔父が本棚から取り出してレコードプレーヤーに載せたLPを一緒に聴いた。レコードのコレクションは、ジャズ、ロック、リズム・アンド・ブルースが中心で、JBLの大型スピーカーから流れるのは、ドアーズの『ストレンジ・デイズ』だったり、スライ・アンド・ファミリー・ストーンの『暴動』だったり、マイルズ・デイヴィスの『ビッチェズ・ブリュー』だったり、ジョニ・ミチェルの『コート・アンド・スパーク』だったりだった。
 私が高校、大学へと進級すると、同年代の友人付き合いが忙しくなり、ひと頃よりは疎遠になっていった。社会に出てからは年に一、二回、東京から帰省した時に外で会って酒を飲む仲だった。最後に会ったのは、一年ほど前で、福岡市の大名にあるバーだった。勤め先から独立してギャラリストになることを考えていることを伝えると、「いいんじゃない。俺とかお前は、好きなことしか真剣になれないタイプなんだから」というのが叔父の意見だった。
 叔父が五十代の前半の年齢で、胃がんにより突然この世を去ったのは三ヶ月ほど前だった。身内の誰も彼ががんに罹っていたことを知らされていなかった。そして、叔父は生涯未婚だった。それほど多くない叔父の友人たちが葬式を取り仕切った。プログラミング言語の研究サークルの仲間やラテンアメリカ文学愛好会のメンバーが叔父の友人たちだった。何人かの身内が形式的に葬式に参列した。突然の死による葬式だったため、東京にいた私は参列できなかった。株式、債券などの金融資産は生前に現金化されて、死後は信託により、葬式の費用や手伝ってくれた友人たちへの心付けを差し引いた金額が途上国支援のNGOに寄付された。特別な贅沢をしなければ、人ひとりが十年くらいは余裕を持って暮らせる金額だ。法定相続人である母親はいくぶん不満そうだったが、信託は弁護士により滞りなく執行され、誰も口を挟む余地はなかった。遺言により、私は親族で唯一の相続人として、叔父が居住していた大濠公園のマンションの一室とそこに収められていた蔵書とレコードコレクションを受け継いだ。これについては、誰もさしたる不満はないようだった。みんなそれぞれ持ち家に住んでいたし、蔵書もレコード・コレクションも彼らにとっては処分が面倒なガラクタに過ぎないからだ。

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2021年1月14日木曜日

50年前の世界から、これからの世界のあり方を考えた

おそらく今回は長い投稿になります。お時間ある時にお読みください。

年末年始に読んだ、今の日本でベストセラーになっている本を三冊読んで、これからの世界のありようを考えてみます。
ここにあげる三冊は、パンデミックが起きた現在でないとベストセラーになることはなかったでしょう。いやむしろ今の時期だからこそ、執筆されたというべきでしょうか。

まずは、佐久間由美子著『Weの市民革命』から。


本書は、「ギル・スコット・ヘロンの名曲『革命はテレビ中継されない』にかけて、『どうやら革命は中継されるらしい』書いたのは、ニューヨーク・タイムズ紙の黒人ジャーナリスト、チャールズ・ブロウだった」という一文から始まります。

The revolution will not be televised
The revolution will be no re-run, brothers
The revolution will be live. 
 
革命はテレビ中継されない
革命は再放送されないんだ、ブラザー
革命は目の前で起きている

この曲が収録されたアルバム、"Peaces of a man"がリリースされたのは1971年。ちょうど今から50年前です。当時と違い、個人のメディアを持つ現在の我々は、たとえテレビ中継されなくとも、SNSを使って情報発信ができます。

The revolution must be SNSnized


ニューヨーク在住の著者による現地を中心とする本書では、ミレニアム世代とそれに続くより「コラボレーションや団結に興味がある」Z世代の消費性向から、企業文化の変更を迫られている現状が報告されています。この二つの世代は、高い購買力と発信力を持つため、無視できない消費層だそうです。
従来の株主利益を最大化を目指すのが正しいという企業像から、「株主へ利益を還元することよりも、『社会全体の利益』を優先する企業形態が登場し、社会や地域全体を自分のコミュニティーとみなし、それを守るための経済活動にコミットする企業が増えてきた」と言います。興味深いのが、ジェントリフィケーションー「もともと荒れていたり裕福でなかったりする地域に白人を中心としたアーティストやクリエイティブ層が流入し、それがきっかけとなって商業が栄え、結果として家賃が上がり、それ以前から存続するコミュニティが圧迫される循環的現象」ーにより家賃を払って営業することが難しくなった地域で、ライブハウス、ラジオ局、ギャラリーやワークショップを開催する機能を兼ねた複合施設などが、非営利団体として運営されている事例です。政府や企業から独立した文化施設が地域の公共財として設立され、地域の人々により運営されるという現象が一般化するかどうかは分かりませんが、あり方として新しいと感じました。
コロナ禍によってサプライチェーンが分断されことで、現在のシステムの脆弱性と、我々の消費が、途上国の労働者と生産システムによって支えられていたことが露わになった今、エシカルであることサスティナブルであることの意味を、様々な個人や企業の実践例を通して考えさせられます。 

5年前、同じ著者による本『ヒップな生活革命』を手掛かりに、日本でミャンマーを考えた 〜「ヒップな生活革命」という記事を投稿したことがありました。

次は、斎藤幸平著『人新生の「資本論」』です。

本書では、かなり過激な主張がされています。
「SDGsは大衆のアヘンである!」と断じ、資本主義というシステムにビルトインされている富の増殖=成長そのものを手放さないと、もはや地球が生物が住める環境ではなくなることを様々なデータをあげて例証しています。
そして、資本主義の後を継ぐべき社会システムとして、「脱成長コミュニズム」が提唱されています。
コモンー「社会的に人々に共有され、管理されるべき富」、自然、電力・上下水道などのインフラ、教育・医療・法律などの社会システムーを市民の手に取り戻し、自主管理することで、すべてのモノが商品化される以前の世界に存在した「ラディカルな潤沢さ」を取り戻し、真の意味での自由な世界を構築する。たとえば、水はコモンを通じて無料で手に入るものでしたが、水源を資本に囲い込まれ、ミネラルウォーターという形で、貨幣を介して購入するモノへと商品化されました。こうした資本によりコモンが貨幣・商品関係に置き換えられた社会システムを、労働者が生産システムを取り戻し、放埒な消費を自制し、真の意味での精神的な自由な共同体を作り上げる。
実例として、自動車産業の衰退により荒廃したデトロイトが、都市型の有機農業により、地域コミュニティと緑が再生したこと、脱成長的なマニュフェストを掲げ、飛行機の近距離線を廃止し、市街地での自動車の速度制限を時速30キロに定め、水道や電力等のコモンの運営を市民参加型のシステムに変更したバルセロナなどがあげられています。
正直、実現可能性はどうだろう?と感じます。
自己増殖を内在化する資本主義が、無限の成長を目指すことで、富の偏在や環境問題を引き起こしていることは事実ですが、我々の生活が資本主義の果実を享受していることによって成立している事実も否定できません。
現に、今このブログ書くために使っているコンピュータは、元々、第二次世界大戦時に弾道計算のために開発された機械ですし、インターネットは核攻撃を受けた時に機能する分散型の通信システムとして冷戦時に開発された、いうなれば帝国主義的なシステムから産み出された産物です。
先進国に住む人間が、こうした技術に依って暮らしている原罪性から逃れることはできないし、その疚しさをどう引き受けるのかは、もっと論じられてもよいのではないかと感じます。
また、SDGsの欺瞞性を説きながら、紹介されている「脱成長コミュニズム」が実践されている場所の多くが、デトロイトやコペンハーゲンといった先進国の都市であるのも説得力にやや欠けます。
実際、ミャンマーには市場原理とは縁の薄い、村落共同体が数多く残っていますが、そこに「ラディカルな潤沢さ」が存在するかといえば、かなり疑問です。
最低限のインフラや教育といった社会共通資本が存在しなければ、「ラディカルな潤沢さ」は実現不能だからです。途上国へ最低限の社会共通資本を構築するためには、先進国から途上国への何らかの所得移転が必要になるかと思いますが、それについては詳しく論じられていません。
腑に落ちない部分もいろいろとありますが、資本主義の後に続く社会像を提示したという点で新しいし、こうした本が書店に平積みされて、数多くの読者を得ていることにも時代の変わり目であることを実感させます。

最後に、山口周著『ビジネスの未来――エコノミーにヒューマニティを取り戻す』です。


本書の前提は、先進国において、「物質的な生活基盤の整備という、人類が長らく抱えてきた課題」が解消された現在、「不可避なゼロ成長への収斂の最中にある」という認識です。
著者は、この社会の状態を「高原社会」と呼んでいます。
物質的な生活基盤を整備して、成長の余地がなくなったことは、達成であり、低成長は成熟の証であり、こうした状態に達したことを我々は言祝ぐべきだという視点から本書は論を進めます。
高原社会においては、経済合理性限界曲線の内側の課題、すなわち解決して利益の上がる問題は、ほぼ残されていないという事実に突き当たります。
残されているのは、「問題解決のハードルが高過ぎて投資が回収できない」か「問題解決によって得られるリターンが小さ過ぎて投資を回収できない」問題のみです。市場とは「利益が出る限り何でも行うが、利益が出ない限り何も行わない」システムなので、市場原理的な価値観では、この問題は放置されたままとなります。
人が経済合理性限界曲線の外側にある問題を解決するためには、二つの前提が必要となります。
一つは経済的に困窮しないこと、何しろやっても儲からない問題に取り組むのですから、生活が破綻しない裏付けないとやっていけません。困窮しても、なおかつチャレンジする鉄の意思の持ち主もたまに見かけますが、希少性の高い人材のみに解決を頼るのは現実的ではありません。
もう一つは、活動が経済合理性を超えた「人間性に根ざした衝動」に基づいていること。活動それ自体が精神的な報酬になる、内発的な動機に基づいていることです。
前者の経済的な裏付けとして、著者はユニバーサル・ベーシックインカムを提唱しています。
高原社会での労働は、労働それ自体が「愉悦となって回収される社会」になると著者は予想しています。
それは、以下の二つの活動として、集約されます。

  1. 社会的問題の解決(ソーシャルイノベーション実現)
    :経済合理性限界曲線の外側にある問題を解く
  2. 文化的価値の創出(カルチュアルクリエーションの実践)
    :高原社会を「生きるに値する社会」にするモノ・コトを生み出す

これは、個人的に腹落ちする結論です。
ミャンマーにおいて解決すべきなのは、1の「問題解決によって得られるリターンが小さ過ぎて投資を回収できない」問題だからです。具体的には、電力・上下水道などのインフラ、医療・法律・教育などの制度資本の確立です。こうした社会共通資本の基盤がないと、利益を目的としたビジネスは行えません。そして、こうした問題は、経済合理性で推し測ることができない分野です。原理的に万人に遍く広く行き渡るべきコモン=公共財だからです。
今まで「お金儲けが目的なら、ミャンマーに来ない方がいい」と言って、さんざん在住者や視察に来た人々の座を白けさせてきましたが、ようやく自分の中で理論化できました。
著者は、「『システムをどのように変えるか』という問いではなく、『私たち自身の思考・行動の様式をどのように変えるのか』と問」うべきだと主張します。
その問いによって、「資本主義をハックする」という行先が示されています。
成長という神話の終焉を前提としているという点では共通するものの、社会システムの変更を主張する前掲書とは立場を異にしています。

冒頭に紹介したギル・スコット・ヘロンの"Peaces of a man"がリリースされた同年の1971年に、マーヴィン・ゲイは、ポップ史上最も重要で影響力のあるアルバム、"What's going on"をリリースしました。ベトナム戦争や環境問題を取り上げたメッセージ性の高い歌詞とコーラスとストリングスを重ねた多層的で洗練されたサウンド・デザインは、後のポップミュージックへ多大な影響を与えました。
【Wikipediaより引用:アルバムは『ローリング・ストーンの選ぶオールタイム・ベストアルバム500』(2020年版:大規模なアンケートによる選出)では1位にランクされている。また、2013年に『エンターテインメント・ウィークリー』誌が選出した『史上最も偉大なアルバム100』では13位となった。】



Picket lines and picket signs
Don't punish me with brutality
Talk to me, so you can see
What's going on

デモ行進そしてプラカード
荒っぽいやり方はごめんだよ
話しておくれよ、そうすれば分かり合えるよ
いったい何が起きてるんだ

また、本年1月4日付の日本経済新聞朝刊に、50年前の同日に同紙に掲載された、経済学者、宇沢弘文の寄稿についての記事が掲載されていました。

宇沢経済学のメッセージ 「社会の幸福」、再考の時

個人がそれぞれの利益を追い求める結果、市場を通じて資源の配分が最も効率的に行われる――。当時の主流経済学に対する懐疑だった。

経済学者は〈目的の正しさ=倫理〉を語る資格はないのか。公平や平等という価値をどのように経済分析に取り込めるのか。困難な道筋だが、避けて通ることはできない、と真摯に語った。

従来の主流派経済学(新古典派経済学)では、自然や第三世界を外部化しています。それゆえ、環境破壊や途上国の搾取といった問題が引き起こされる一因となりました。
ベトナム戦争の遂行に経済学の概念が利用されたことや企業の利潤追求の結果として水俣病などの公害が引き起こされたことが、宇沢先生の理論に大きな影響を与えたことは、2019年に出版された大部の評伝に詳しく書かれています。
そうした問題意識は、社会共通資本ー自然環境(大気、森林、河川、土壌など)、社会的インフラストラクチャー(道路、交通機関、上下水道、電力・ガスなど)、制度資本(教育、医療、司法、金融など)ーの概念として結実します。
宇沢先生は、社会共通資本を経済合理性の外側に置くべきであり、市場原理に委ねるべきではないと論じました。

今から50年前にマーヴィン ・ゲイが問いかけ、宇沢弘文が提起した問題に我々は答えるべき時期に差し掛かっています。

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2020年12月30日水曜日

9年振りに日本で過ごす年末で、2020年を振り返ってみる

今年も残すところ一日となりました。
本当に思いもよらない一年となりました。
4月末に一時帰国して、せいぜい2、3ヶ月でミャンマーに戻るつもりでしたが、12月の末の現在になっても日本に留まっています。
航空便の運行状況も不安定で、いつになったらミャンマーに戻れるのかの目処も立っていません。当分日本でのバイト生活が続きそうです。
2011年にミャンマーに渡って以来、日本で年末年始を過ごすのは初めてです。

自分のブログを見直したら、3月8日にMakers Marketに出店したのが、ミャンマーで仕事らしい仕事をした最後の日でした。

今回のパンデミックで世界の様相が一変しました。突風で船の進路が大きく変わったり、新しいOSへの更新のためにコンピュータが強制的にリブートされたような感があります。
何らかの形で、今後、社会のあり方やシステムの変更を余儀なくされるでしょう。

書店に平積みされている本やAmazonのベストセラーをチェックしていても、そうした時代の気分がひしひしと伝わってきます。

   

いずれの著作も、グローバル資本主義あるいは新自由主義といった、今まで世界を駆動していたシステムの終焉、地球環境の保全、マルクス経済学の読み直し、コモンの再生、定常経済の試行といったテーマがそれぞれの切り口から論じられています。

そういえば私自身も4年前のちょうど今頃に、同様のテーマでブログに投稿しましたが、まさかこんな形で世界がリセットされるとは想像すらしませんでした。

おそらく経済的な意味でのフロンティアではないミャンマーが、フロンティアである理由 (3)

ざっと自分の書いた物を読み直しましたが、経験値や見識の差、文章の巧拙を別とすれば、問題意識の在り方は、上にあげた三冊とほぼ同じです。
なんらかの形で社会システムの変更を迫られていることは、かなり前から肌感覚で感じてましたが、今回のような形で無理矢理リセットされるとは予想もしていませんでした。

ニーチェが約100年前に「神は死んだ」と宣言したのは、産業革命以降、工業文明に移行した社会や経済のシステムの中で、中世の農耕社会の中で機能していたキリスト教は、最早ヨーロッパ人にとって生の意味を与える有効性を失ったためです。
ニーチェは、耐用年数を過ぎたキリスト教を棄てた後に人々が陥るニヒリズムを、鷲の勇気と蛇の知恵を備えた「超人」となって乗り越えろ主張しましたが、これは新古典派経済学が想定する合理的経済人、すなわち人は「自己の経済的効用の最大化」する独立した存在であるという人間観と通じるものがあります。
個人は野放図に自己利益を追求していいし、それは市場の「神の見えざる手」によって解決されるという世界観は、環境問題や格差の拡大を生み出し、見直しを迫られています。
個人の自由より世界全体の人権を重んじ、過去に抑圧されてきた人たちの真の社会的平等追求することが自分たちの『共同責任』」という意識が若い世代を中心に共有されつつあります。
そして、一周回って、現在の言論人や識者の共通のテーマとなっているのが「コモンの再生」です。

ここで参照したいのが、日本が生み出した宇沢弘文という「知の巨人」です。
環境問題、社会共通資本としのコモン、定常経済への移行、現在俎上にあがっている問題は、すべて宇沢先生によって30年前に論じられています。最近、きっかけがあって、宇沢先生の本を立て続けに読んでいます。

最初ににあげた三冊はベストセラーになっていますが、こうしたテーマに興味がある」人は、ぜひ本書も読んで欲しいです。
今になって急速に前景化している問題は、すべて宇沢先生によって30年前に予見されていたし、それぞれに何らかの処方箋が示されていることに驚かされます。

社会共通資本としてのコモンについては、本書をお勧めします。
自然資源(山、川、海など)、社会的インフラストラクチャー(交通、道路、水道、電気など)、制度資本(法律、教育、医療など)は、安易に競争原理を導入するのではなく、専門家と関係者により最適かつ平等に人々に行き渡るべきだと明快に論じられています。

今暇なので、つらつらと昔のことを思い出す機会が多くなりました。
そういえば、大学3、4年時のゼミの担当教授が宇沢先生の教え子だったと言ってたような記憶があります。当時は、学校でやってることにまったく関心がなかったので、ふーんと聞き流していました。何で俺あんなに勉強しなかったんだろう?、と今になって不思議に思います。
社会に出たことがないので、人間が織りなす世界の成り立ちとか、経済問題に興味がなかったからでしょうけど。

固い話になったので、今年になってよく聴いた音楽のことを書きます。
最近、イギリスのジャズが面白い。
西インド諸島にルーツをもつ移民のプレイヤーが多くて、レゲエやカリプソなど、アメリカのジャズにはあまりない要素が入っていて新鮮です。


今年にファーストアルバムをリリースした、Nubya Garcia。 いろんなメディアで、2020年の
ジャズのベストアルバムに選ばれています。

これはイギリスのジャズ・シンガー、Zara McFarlane。アメリカのジャズ・シンガーとは趣が異なります。 


そんなわけで、2020年も残すところあと一日となりました。
私は明日の大晦日はバイトです。
皆さん良いお年をお過ごしください。

【追記】(2021年1月4日)
2021年1月4日の日経新聞朝刊に、宇沢先生の再評価ムーブメントについての記事が掲載されていました。

昨年から今年にかけ、各界の第一人者が、それぞれの立場から宇沢が問題提起した「社会的共通資本」の今日的な意義を読み解く連続セミナーが開催されている。

宇沢経済学のメッセージ 「社会の幸福」、再考の時

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2019年9月21日土曜日

ヤンゴンで、福岡の野外音楽フェスについて考えた

今回の日本への一時帰国中に、福岡県のビーチ、芥屋海岸で開催された野外音楽フェス、サンセットライブに行ってきました。日本に帰国するのは、約2年振りで、サンセットライブに行ったのは15年振りくらいです。
行ってみて、いろいろと考えるところがあったので、今回はそれについて記します。
今回の帰国時は、イベントの開催日とタイミングが合ったため、サンセットライブに行くことを思いつきました。ミャンマーの雨期の湿度と連日の雨にうんざりしていたので、晩夏の乾燥した気候のビーチでくつろぎたかったのが主な理由です。
会場の芥屋海岸は、福岡市中心から車で一時間くらいの福岡県と佐賀県の県境にあるビーチです。街の中心部からアクセスが良く、関東の湘南なんかに比べれば、砂浜も海も圧倒的に美しい場所です。

まず、Webで前売りを購入する時に、日本語のサイトしかないことに驚きました。これだと、日本語が読めないとチケットも買えないし、会場へのアクセス方法もわかりません。
例えば、タイのパタヤ郊外で開催されている野外音楽フェスのWonderfruitは、サイトもFacebook Pageもすべて英語表記です(タイ語表記はなし)。
サイトで確認すると、サンセットライブは今年が27回目で、1990年が初開催です。Wonderfruitは、2014年が初開催で、2019年の12月開催が6回目となります。両者とも、イベント全日の総動員数から推測すると、一日あたりの動員数が約5,000人程度で[2019年のサンセットライブの開催日数は2日(9月7日ー8日)。Wonderfruitは4日(12月12日ー16日)]、イベントの規模はおそらく同じくらいか、開催日数が多い分、Wonderfruitの方がやや大規模です。Wonderfruitに行ったことがないので、かなり憶測が入りますが。

私が行ったのは、イベント最終日の9月8日でした。
会場に着くと、観客の99%が日本人です。別に日本だから当たり前だろうと言われればそれまでですが、ミャンマーやタイといった、有料の野外音楽イベントなどが外国人客がいないと興行的に成立しない、東南アジア諸国で普段過ごしている身からすると、不思議な気がします。もちろん自国民だけでやっていける経済圏で生きていけるのは、幸せなことではありますが。

前述したとおり、観客はほぼ日本人ばかりなのですが、客層はけっこう多様で、家族連れのサラリーマン一家から、タトゥーばりばりの兄ちゃん、女性はOL風からギャルまで様々です。
フードコーナーのテーブルで、カレー食べながらビール飲んでると、隣の席のギャルぽい20代後半と思しき女性が、相当アルコール入っていて(私も、相当入ってましたが)出来上がっているようで、大声で話すので、話が聞くともなしに聞こえてきます。
久しぶりに聞く、バリバリの博多弁です。
女A「いろんな人がいるっちゃねぇ」
女B「タトゥー入れた人がすごい多いちゃね。Aちゃんは、どげん男の人が好きなん?」
女A「うーん、ちょっと悪そうで、でもオシャレな男の人」
女B「あの人とか?(フードコーナーの屋台に並んでいる男性を指さす)」
女A「あれは、タトゥー入れすぎやね。もうちょっと少なかったら、アリやけど」
この後、延々、それぞれの男の好みの話が続いていましたが、こちらも相当に酔っぱらっていたので、覚えていません。

なんとなくわかってきたのは、地元志向のマイルドヤンキー層のお客さんが多いことです。15年くらい前は、このイベントで演奏されていた音楽ジャンルは、レゲエやスカが多く、その種の音楽はUKロック聴くリスナー層と被っているので、洋楽オタクぽい客もそれなりにいましたが、今は客層や雰囲気が昔とはかなり変わっているようです。
オラついた若い衆もけっこういて、イキって気勢を上げているのを見ると、私のような陰キャラがこの場にいていいもんだろうかと感じるときもありました。
会場で演奏されている音楽も、以前のようにレゲエとかスカとかのジャマイカ関連の音楽が特に多いわけではなく、むしろJ-POP寄りの出演者の方が多かったように感じました。

運営はしっかりしてるし、ビーチは綺麗だし、屋台で売っている食べ物も美味しいものがけっこうあるしで、それはそれで言うことはないんですが、もう少し人種的な多様性とか、音楽的な幅があっても良いかなとも感じました。
アクセスの良い都市郊外で、これだけ綺麗なビーチで開催される野外音楽フェスは、世界的にも多くないはずなので、もっと海外にアピールした方が良いのではと、大きなお世話ながら感じました。ビーチ系の野外フェスだと、スペインのイビサ島が有名ですが、アジアからだと遠すぎるし、渡航費や滞在費が高すぎて、富裕層でない限り、参加へのハードルが高そうです。東南アジアの富裕層にアピールすれば、それなりのポピュラリティが得られるポテンシャルがあるので、もったいない気がします。このままだと、サンセットライブよりも歴史の浅いタイのフェスWonderfruitに、世界的な知名度と集客力で、相当に水をあけられることが予想されます。
現福岡市長が、アメリカのシアトル訪問時に触発されて、アジアの玄関口としての世界都市を目指しているという事情もあるので(このフェスの会場は、隣の市の糸島市ですが)、福岡の都市と自然環境の近さや、文化的な成熟度を示すショーケースとしても最適ではないかと思います。
下記の著書を読むと、行政レベルでは、外国人起業家の誘致などにも積極的なようですし。


いや、これは地域のフェスだから、そんなことはどうでもいいんだ、地元民で盛り上がればいんだから、と言われれば、それはそれで一つの見識なので、返す言葉はありませんが。
だいたい福岡の人は地元愛が強いため、共同体外部の人から問題提起されると、内容の是非を問わず「ちょっと外にいたくらいで何偉そうにしとうとや」的なリアクションがありがちなので、こういうこと書くのもなかなか憚られます(たぶん福岡の人は、このブログ読んでないから大丈夫だろうけど)。
今回の一時帰国中に感じたのは、日本は安全で、システムが整備されていて居心地が良いけど(特に日本人にとっては)、多様性に関する許容度とか、共同体外部のメンバーにも開かれた風通しの良さなどが相変わらずの課題だなということでした。










































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2018年10月4日木曜日

【長文】ミャンマーで50年前に起こった革命と今起こっている革命について考えた

私はミャンマーの素材を使用して、ミャンマーで製造した服を、ミャンマーで販売しています。
縫製産業はミャンマーの製造業において、最大にして、唯一といってもよい輸出部門です。
ただし、多くはファースト・ファッション・ブランド向けの縫製請負業で、海外(主に中国)から輸入した素材を縫製して、完成した商品を消費地の欧米や日本に輸出するというビジネスモデルを取っています。
ミャンマーは、現地の低廉な労働力を提供しているに過ぎず、商品にミャンマー独自の布文化や、制作者の美意識などが反映される余地はありません。そもそも、それらの商品を製造しているミャンマーの地で消費されることすら想定されていません。
こうした地域文化と乖離した大量生産システムや経済活動への違和感が、ミャンマーの素材を使って、 ミャンマーで製造して、ミャンマーで販売するアパレル事業をはじめる契機のひとつとなっています。
私はデザイナーでもなく、デザインに関して独創的なビジョンがあるわけではないので、自分の足で市場を回って、魅力的な現地の素材を見つけたら、その素材に合いそうなデザインを当て嵌めることで商品を企画しています。
ここのところ、イメージのソースを得るため、ファッション史や文化史を調べていたところ、1960年代中頃から後半にかけての文化的な影響力の強さと、それが今なお継続していることに改めて気付かされました。

第二次世界大戦後、世界のファッションに大きな影響力を与えたのは、1960年代中頃から後半にかけて起こった、スィンギング・ロンドンあるいはスィンギング・シックスティーズと呼ばれた英国発のムーブメントでした。
この戦後ベビーブーマーを担い手とした文化革命は、その後、文化的なスタンダードとなる新たなアート・音楽・ファッションを生み出しました。特に音楽はこの文化運動において大きな位置を占め、ビートルズ、ローリング・ストーンズ、フー、キンクスといったバンドによる、今となっては準古典となったポップ音楽は、この時代に産み落とされました。
戦後生まれのベビーブーマー世代が消費を担う年齢に達したこと、戦後復興期であったための好景気、男性の兵役が免除されたことにより、若い世代が自由で享楽的なライフスタイルを謳歌することが可能となったことなどが重なり、この時代のロンドンは、ポップ音楽とファッションの発信地として世界に名を轟かせました。
ネットのない時代の極東の地日本にさえ、数年遅れで、このムーブメントに影響を受けたグループサウンズという音楽形態が現れています。

この時代に登場したファッションの特徴として、カラフルでポップな色使い、ミニスカート、タイトなAライン・ドレスがあげられます。
ムーブメントを代表するデザイナーの一人マリー・クワントのデザインした服を着たTwiggyJean Shrimptonが、当時のファッション界における文化的なイコンでした。
このムーブメントから派生した、モッド呼ばれたサブカルチャー・グループの音楽やファッションは、今なお周期的にリバイバル・ブームが英国でも日本でも起きています。
ムーブメントが起きてから、50年以上経った今でも、復元性と今日性を維持しているのは、われわれが現在日常的に触れている文化的創造物のフォーマットが、この時代に生み出された証左でしょう。

映画『ナック』や『さらば青春の光』で、この時代のファッション、音楽、雰囲気を映像として確認できます。



こうした文化背景を顧みて、マリー・クワントのロゴに似たミャンマーのロンジー生地を見つけたので、モッド的なタイトなAライン・ドレスを制作しました。





さて、流行の輸出基地となったロンドンから、ビートルズを先兵として多くのバンドが、大西洋を渡ってアメリカ市場のヒット・チャートを席巻することになりました。この現象は、「ブリティッシュ・インヴェーション(英国からの侵略)」と呼ばれました。

ビートルズが1964年にアメリカ上陸して以来、アメリカのポップ音楽の市場はビートルズと後に続く、ローリング・ストーンズ、キンクス、アニマルズといった英国のバンドに占領され、音楽的にも強い影響を受けました。

潮目が変わったのは「サマー・オブ・ラブ」と呼ばれた、1967年にサンフランシスコで起きた文化革命からです。
同年に、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョップリン、そしてドアーズのデビュー・アルバムが、それぞれリリースされています。後年から見ると、途方もないロックの当たり年だったことがわかります。
北米各地、ヨーロッパなどから10万人もの若者がヘイトアシュベリーを中心としたサンフランシスコに押し寄せ、ヒッピー・カルチャーを形成した1967年の運動は、「サマー・オブ・ラブ」と呼ばれました。
この現象は、1964年以来ユースカルチャーの分野で、イギリスから押されぱなしだったアメリカからの回答とも、反攻とも取れます。
このあたりを境に、ユースカルチャーの震源地は、ロンドンのキングス・ロードやカーナビ・ストリートから、サンフランシスコのヘイトアシュベリーに移行しはじめます。
単純に言い切ってしまうと、流行の主役がロンドンのモッドから、アメリカ西海岸のヒッピーへと移った時代とも言えます。日本で喩えると、アイヴィー・ファッションに身を固めた銀座のみゆき族から、新宿の風月堂にたむろするフーテンへの移行期と相似をなしています。

このムーブメントの支持した、ドアーズなどの米国のロックバンドの音楽は、先行する英国のバンドに比べて、よりヘヴィーで、ドラック・カルチャーの影響の強いものでした(そもそもドアーズのバンド名自体、オルダス・ハクスレーによる、幻覚剤によるサイケデリック体験の手記と考察の書『知覚の扉』(The doors of perception)から取られている)。
これらの音源を現在聴くと、時代的には数年古いはずのイギリスのビート・バンドより時代性を感じさせます。両者ともアメリカのブルースやリズム&ブルースなどの黒人音楽を母体としていたのは共通していますが、イギリスのバンドがそれらをポップとして解釈したことで、結果的に時代を越えた普遍性を獲得したのに対して、アメリカの場合、多くはLSDなどの薬物による幻覚体験などの、同時代の特定地域で共有された文化と経験を色濃く反映した表現だったからではないでしょうか。

この時代のファッションは、当時のヒッピー・カルチャーの影響を受けて、ゆったりとしたフォークロア調のものが目立ちます。
ヤンゴンのダウンタウンのマーケットで、フォークロア調のカラフルなテープを見つけたので、これとシャン州産のコットン合わせて、当時のヒッピーが着ていたフォークロア調のドレスを再現してみました。



FacebookグループのYangon Connectionに、このドレスを投稿したところ、コスプレ魂を刺戟されたのか、複数のヤンゴン在住外国人からの問い合わせが入りました。
問い合わせをしてきたのは、トルコ人やスウェーデン人のご婦人で、北米以外の人々にもこの時代のファッションや風俗が、文化的記憶として共有されていることは興味深いです。

当時は、ベトナム反戦運動が最も激しかった時期でもあり、音楽による革命で、愛と平和に満ちた未来が到来するという幻想が流布した時代でもありました。

こうした幻想は、肥大化したムーブメントが、ドラッグの過剰摂取による事故の多発や、カルト化したコミューンが極端に反社会化するなどの弊害を生みだしたことで、急速に剥がれ落ちていく結果となりました。
幻想を終焉させた象徴的な事件として、チャールズ・マンソンの主催するコミューン”ファミリー”を実行犯として起きた1969年8月9日、映画監督ロマン・ポランスキーの妻で当時妊娠8ヶ月だった女優のシャロン・テートら5人の無差別殺害や、1969年11月7日カリフォルニア州オルタモントの、ローリング・ストーンズ主催のフリーコンサートで黒人青年が会場警備をまかされていたヘルス・エンジェルスのメンバーにより殺害された事件『オルタモントの悲劇』が有名です。
2019年には、マンソン・ファミリーによる事件をモチーフとした映画『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』が公開予定になっています。この事件が、愛と平和による理想郷の実現という幻想の果ての悪夢として、事件から50年を経た現在も生々しい記憶として刻印されていることが窺えます。

60年代後半のサンフランシスコを拠点に活動した、黒人・白人の混成ファンクバンドで、愛と平和と人種統合の理想を高らかに歌い上げて、時代の寵児となったスライ&ザ・ファミリー・ストーンは、1971年に、潰えた理想を鎮魂するかのようなダウナーなアルバム『暴動(There's a Riot Goin' On)』をリリースします。


このアルバムは鬱ファンクの名盤として、ダウナーなブラック・ミュージックのマスタピースとなり、時代を経る毎にその評価を高めています。
80年代のプリンスの一連のアルバムも、2000年代以降のR&Bの方向性を決定付けたディアンジェロの『Voodoo』もこのアルバムなくして誕生しませんでした。


スライの"There's a Riot Goin' On(暴動は続いている)"のRiot(暴動)"を"Revolution(革命)"と置き換えると、その後の時代を予見したいのではないかと思わせます。
サマー・オブ・ラブやヒッピーカルチャーの終焉の後、元の学校や職場や故郷に戻ったことで、反権威的な精神や、魂の自由の探求という精神的な種子は、様々な地域、分野に蒔かれることになりました。

あなたが今このブログを読むために使っているパーソナル・コンピュータやスマートフォンも、この時代の精神が生んだ産物です。

パーソナル・コンピュータは、もともとIBMやAT&Tのような巨大企業が独占する情報を人民へ奪還するという、極めてカウンター・カルチャー的、反権威的な思想の元に生まれました。

こうした思想をベースに1975年にシリコンバレーで結成された初期のコンピュータを趣味とする人々の団体(ユーザーグループ)ホームブリュー・コンピュータ・クラブ(Homebrew Computer Club)には、元ヒッピーの青年スティーブ・ジョブズと、後にジョブズと共にアップルコンピュータを創業するスティーブ・ウォズニアックが参加していました。
アップルは、ジョブズ在籍時においては、"Power to the people"というスローガンや、クリエイティブで自由な精神を持つ個人のためのツールといった、ロック的な哲学、ヒッピー的な理想の実現を目指した企業です。これから先はどうなるかはわかりませんが。

"There's a Revolution Goin' On(革命は続いている)"の結果として、われわれはテクノロジーの恩恵を受けているわけですね。
話が長くなるので割愛しますが、インターネットもGNUやLinuxなどに代表される、アイディアやコードの共有という、ある意味ヒッピー的な共産的文化に基づいて発展した技術的産物です。そういえば、一時「IT革命」というフレーズがよく使われていました(20年くらい前?)。

革命は続いているものの、現在進行中の革命と約50年前に起きたサマー・オブ・ラブとは、革命の質が異なっていることを近年実感しています。
革命の質の変化に意識的になったのは、3年前に『ヒップな生活革命』を読んだときからです。


50年前の革命のテーマは、反戦、反資本主義、反帝国主義などの、既存の秩序やシステムへの反対運動でした。
現在起こっている革命は、 もっとソフトで洗練された形で進行しています。
『ヒップな生活革命』で紹介されている、ブルックリンやポートランドの新たな地産地消的な地域経済の担い手は、ことさら反グローバリゼーション的なスローガンを打ち出すのではなく、地域の文化や特性に根差した上で、グローバル企業が提供するそれよりも、より洗練され、質の高いサービスや商品を提供することで、顧客の支持を集めています。
あくなき効率性と収益性の追求の帰結として、環境や地域文化や地域経済を破壊するグローバル企業を、教条主義的に糾弾するのではなく、それとは別種の経済活動を自ら実践して、しかも提供するサービスや商品が、より魅力的であるため顧客に選択され、結果的に環境保護や地域経済、あるいは地域文化の保全に寄与するというあり様です。
地元で採れた食材で調理した人気の自然食レストランは、グローバル・チェーン店の出す料理より安全で美味しく、しかもインテリアが洗練されていて、居心地が良いから選ばれているわけで、必ずしも経営理念に共感しているからではありません(少しはそれもあるでしょうけど)。
つまり革命の質が、50年前のアンチ(既存のシステムへの反対)から、オルタナティブ(別の選択肢を提案する)へと変化しています。
近年、メディアで伝えられるようになった若者の地方回帰や帰農などに見られる、脱資本主義的な運動も同様のエートスに根差しているのでしょう。


私も成り行きで、ミャンマーで、現地の素材を使用して、現地で製造した服を、現地で販売していますが、微力ながら世界で同時多発的に興っているこうした運動の一員となれればと願っています。

最後に、もういちどスライに話を戻します。
今年の8月に、FM放送の特別番組として、作家の村上春樹氏がラジオでDJをした時に、スライの言葉が引用されていました。
「最後に僕の好きな言葉を。スライ・ストーンの言葉なんですけどね。『僕は音楽を作りたい。誰にでもわかる、バカにでもわかる音楽を。そうすればみんなバカじゃなくなるから』良い言葉ですよね」

これを自分のやっていることに当てはめると、こうなるのかな?
 「僕は服を作りたい。誰にでも着れる、ダサくても着れる服を。そうすればみんなダサくなくなるから」

うーん、ちょっと違うかも。
地域に根差したローカル・ビジネスをやりたいだけで、みんなが着れるようになるほど規模を拡大する気はないから。
ただ、「ダサい」の言葉の定義を、狭義の「ファッション・センスがない」ではなく、「自分の消費のあり方に無意識で、無関心」と広義に解釈すれば、成り立つかもしれません。

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