2017年8月9日水曜日

ミャンマーで村上春樹の最新作『騎士団長殺し』を読んだ

昨晩、今年2月に発刊された村上春樹の最新作『騎士団長殺し』を読了しました。
私にとっては、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』に次ぐ、ミャンマーで読む村上春樹の新作長編です。


私が最初に読んだ村上春樹の小説は『羊をめぐる冒険』で、十九歳の時でした。
当時、本屋で雑誌『POPEYE』を立ち読みしていたのが、その本を手に取ったきっかけです。
その号に掲載されていた大貫妙子のインタビューで、彼女が「最近読んだ本で面白かったのは『羊をめぐる冒険』。いままで自分が言葉にできなかったことが、的確に文章として書かれていて共感した」みたいなことを言っていたので、ふうんと思い雑誌をラックに戻して、書店でその本を探して買って帰りました。本が発売されてから一月ほど経った頃だったと記憶しています。その頃はまだカルト的な作家だったので、新刊が書店で平積みされているということもありませんでした。


買った日の夕方に帰宅してすぐ読みはじめたのですが、あまりの面白さに夢中になって、一晩で読み終えました。たしか読み終えたのは深夜か明け方です。あの頃は読書体力もあったので、そういうこともできました。
それ以来、長編でも短編集でも、新刊が出るたびに三日以内に読み終えてきました。今ネットで調べたら『羊をめぐる冒険』の発刊は1982年なので、30年近く続けてきた習慣になります。もしかしたら30年間続けてきた唯一の習慣かもしれません。
ミャンマーに来てからは、リアルタイムで本を入手できないため果たせなくなりましたが。

『騎士団長殺し』を読み終えた直後の今の感想は、村上春樹的な登場人物とか、ガジェットとか、筋立てがてんこ盛りだなというものです。
主人公に突然別れを告げる妻、コミュ障の美少女、人妻のガールフレンド、異界から現れる異形の者、異世界に通じる深い穴、人に危害を及ぼす邪悪な地下生物、日中戦争におけるトラウマ的な体験、夢の中での実在的なリアリティのあるセックス等、過去の作品にあった事物・事象がふんだんに出てきます。
読んでいて奇妙な既視感に捉われました。これ本当に新作かな?、みたいな。

今思い出す限りにおいても、以下の過去の作品が連想されます。

主人公に突然別れを告げる妻 --> 『ねじまき鳥クロニクル』
コミュ障の美少女 --> 『1Q84』
人妻のガールフレンド -->『スプートニクの恋人』 
異界から現れる異形の者 -->『海辺のカフカ』
異世界に通じる深い穴 -->『ねじまき鳥クロニクル』
人に危害を及ぼす邪悪な地下生物 -->『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』
日中戦争におけるトラウマ的な体験 -->『ねじまき鳥クロニクル』
夢の中での実在的なリアリティのあるセックス-->『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』

しかも作中の重要な人物として、特殊な目的を隠し持つ謎めいた富豪の隣人が出てきます。いやでも村上春樹が最も影響を受けた小説のひとつであり(残りの2つはチャンドラーの『ロング・グッバイ』とドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』)、自ら翻訳した『グレート・ギャツビー』を思い起こさせます。


これを作品世界の深化とみるか、焼き直しとみるかは、一度読んだだけなので分かりかねます。ウィリアム・フォークナーも米国南部の架空の場所ヨクナパトーファ郡ジェファソンにまつわる物語を延々と書き続けましたが、後世の評価から判断すると、同工異曲の物語を書き続けることが一概にマンネリとは言えないでしょう。

過去の作品に出てくる事物・事象が頻出するといいつつも、新基軸もいくつかあります。
一つは、主人公に親密な関係の妹がいた過去が重要なモチーフになっていること(村上春樹のこれまでの小説の主人公は一人っ子、あるいは親兄弟とは疎遠な関係の人物だった)。
次に、父親(と言っても友人の父親)の過去の記憶が、過去の歴史とそれに連なる現在の世界への認識と対峙において物語上の大きなポイントであること。
これも一つ目の新機軸に通じる部分でもありますが、過去の村上作品では、父親の不在もしくは父性的な権威からの離脱という方向性にその特色がありました。これは日本の文壇的な価値観【オッサン(父性)的な権威】とは距離をおきつつ、徒手空拳でアメリカ市場を開拓し、世界的に評価される作家になった本人の世界像の投影だと思いますが、今作では歴史の見直し・継承という点で、友人の父親の過去が物語上で大きな役割を果たしています。
最後に、受胎が何らかの赦しや救いに通じる営為として描かれていること。
従来の村上作品では、主人公には子供がいませんでしたが、今作は最後の方で登場します。
レイモンド・チャンドラーなどが書くハードボイルド小説の主人公の在り方を論じた文章で読んだ覚えがありますが、フィリップ・マーロウなどのハードボイルド小説の主人公は、孤独な独身者であることが約束事になっています(そして謎の美女が近寄って来ることで、ストーリーが展開するのもお約束)。 ハードボイルド小説のフォーマットを踏襲してきた、あるいは矢作俊彦と並ぶ日本におけるチャンドラーの正統的な継承者である村上春樹の小説の主人公が独身者(または、結婚していても別居中)であることは蓋然性がありますが、今作においては作家の関心が、その領域(約束事)の外側へと意識的に向かっているように感じられました。本格的な長編としては、今作の前作にあたる『1Q84』にも受胎というモチーフが出てきていたので、近年の作品に共通の傾向と言えるかもしれません。


従来の作品にはなかった家族、(友人の)父親、子供(受胎)といった要素が、作品内で大きなピースを占めていることを考えると一概に過去の作品の焼き直しとも言い切れません。
家族や子供、そして2011年3月11日の東北での震災が作品に織り込まれていることは、作者のテーマ・関心が、父性的な権威から離脱し、自立した個人として世界に対峙するという従来のものから、それを踏まえつつ(主人公が社会の周縁的な立場にあることは変わっていない)、共同体の再生へと向かっている証左のような気がします。

上にあげたように、今作は『ねじまき鳥クロニクル』との共通点が多いのですが、『ねじまき鳥』が主人公の元を去った妻を、主人公がもう一度探すことを決意したところで終わっているのに対し、今作ではいささか変則的な形で家族を再生・再構築したところで終わっています。ご存知のように村上春樹の小説は、寓話的な作品が多く、いろんな解釈が可能なのですが、今作は共同体の最小ユニットである家族の再生・再構築という物語を通して、作家の問題意識やテーマが、かつてない程浮き彫りにされているように読めました。
1994年〜1995年の阪神大震災を挟んで完成した『ねじまき鳥クロニクル』と、2011年の震災を経て、熟考の元に執筆された今作との差異は、作家の関心とテーマの変容の現れではないでしょうか。

というか村上作品には今まで十分に楽しませてもらったので、仮にマンネリになっていても責める気にはなりません。むしろ村上春樹に代わる国民的作家、世界中でその作品が読まれる次世代の作家が日本から出て来ないことの方が問題です。

村上作品は、日本発のソフトとして世界的に流通していて、高く評価されている数少ない(唯一といってもいいかもしれない)現代のコンテンツなので、海外に住む日本人としては貴重です。外国人と話していて、互いの文化的コンテンツ・コンテキストを交換する際、例証として持ち出せる数少ないコンテンツです。ローリング・ストーンズやマイルズ・デイヴィスの全アルバムを聴いていたとしてもしても、それが自国の文化の文脈から生み出されたコンテンツでない以上、他国の人に向かって、俺の方がお前より知ってるとなかなか主張できません。
他に世界的に評価が高い日本産びコンテンツとしては、ジブリのアニメやコム・デ・ギャルソンがありますが、前者は小学生向けの作品ですし、後者はファッション・コンシャスな人々にしか話が通じないですから。

そんなわけで、日本のソフト・コンテンツも世界性を持った作品や制作者がもっと多くなると、海外に住む日本人としても住みやすくなると切実に感じます。
日本人が工業製品やインフラ産業を輸出するだけの蟻や蜂やロボットみたいな人種ではなく、血の通った、文化的な独自性を持つ人種としてアイデンティティを主張できる論拠になるからです。

改めて自分のブログを掘ってみると、けっこう村上春樹ネタで書いていたことに気がつきました。もしお時間あれば、以下の投稿もお読みください。

ミャンマーと村上春樹

村上春樹的ミャンマー生活、あるいはサンチャウン管区のフォークロア

ある晴れた朝に、ヤンゴンで100%の女の子に出会うために

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