2016年9月27日火曜日

村上春樹的ミャンマー生活、あるいはサンチャウン管区のフォークロア

「でも、どうしてあなたはミャンマーにいるのかしら?」と彼女は訊ねた。
僕たちは、ヤンゴンのサンチャウンにあるローカル・カフェでラペイエを飲んでいた。


 「よくわからないな」と僕は答えた。「確かなのは、ここには進むべき方向があり、進むべき道がある、と思う。でも、なぜか道は塞がっている。まるで気前の良いサンタクロースがプレゼントした、たっぷり積もった雪が行く手を阻むように。だから僕は勤勉な炭坑夫のように、せっせと雪を掬いあげて道を拓く。僕がここにいるのは、言うなれば、文化的雪かきのためかもしれない」
「文化的雪かき」と彼女。
「そう、文化的雪かき」と僕。
彼女はラペイエの入ったカップをスプーンで掻き回した。
それは僕に『マクベス』に出てくる魔女たちが大釜を掻き回していたのを思い出させた。
魔女たちは、得体のしれない液体を掻き回しながら呪文を唱えていた。
「きれいはきたない、きたないはきれい」

「あなたがそう思うのは自由だけど、私は世界はもっと多義的だと思うの」と彼女は言った。
僕は、彼女の言う多義的な世界を想像した。
そこには、多義的な太陽が中天に輝き、多義的な月が冷たい夜空を青色の光で照らし、多義的な海が太古から変わらぬ潮の満ち引きを繰り返すのだ。その世界に住む人々は、多義的な歓びや哀しみや愛や憎悪に包まれ、そこにはもちろん多義的な達成や挫折があるのだ。
「そうかもしれない」と僕は言った。

「ねえ、混沌という王様のお話を知っている?」と彼女は訊ねた。
知らないと僕は答えた。
「昔々、混沌という王様がいたの。彼は世界の中心を治める徳の高い王様だった。そして、彼は目、耳、鼻、口の七つの穴を持っていなかったの。彼のほかにも、世界には南海と北海に王様がいた。王様たちはみんな仲良しで、ある日、混沌が二人の王様をパーティへ招待したの」
僕は混沌について考えた。それはコンデンス・ミルクの入ったラペイエとどれくらい似ているのだろう?
「南海と北海の王様は、パーティに招待されたお礼に、混沌に七つの穴を掘ってあげた。一日にひとつづつ。だけど、混沌は最後の穴を掘った七日目に死んでしまった。あなたはどう思う?」
僕は首を横に振った。そんな難しい質問にはとても答えられなかった。

「私は思うのだけれど、世界は本質的に不完全で、それは不完全なままにしておいたほうが良いこともあるかもしれない」
「それは政府開発援助とか、非営利組織についてのこと?」
「ある意味ではそうね」
「宿命的に?」僕は訊ねた。
「そう宿命的に」
「ニコがヴェルヴェッド・アンダーグラウンドの演奏をバックに歌ったみたいに?」
「そう、あるいは『突然炎のごとく』でジャンヌ・モローが演じたみたいに」
僕はカフェの片隅で塊まっている、生まれたての子犬たちを眺めた。


それは木枯らしに吹かれた秋の落葉が、世界の果ての吹き溜まりに掃き寄せられたように見えた。
やれやれ、何も変わっちゃいない、と僕は思った。
ボブ・ディランが歌った半世紀前から、世界は常に混沌に満ちていて、いつも答えは風の中に吹かれているのだ。
ピース。



結局のところ、ライフスタイルとはある種のステートメントでありマニュフェストなのだ、と僕は思う。
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