ミャンマーの投資環境の問題点として、ニュースメディアで常にあげられるのは、貧弱なインフラ設備です。
たしかに電気の供給は不安定で乾期は毎日のように停電があります。道路もある程度整備されているのは、ヤンゴン市内のみです。排水設備が整った空きの工場用地もありません。
これらの問題は、在住者でなくとも簡単にわかるので取り上げられやすいのでしょう。
これに加えて、ある程度の期間をミャンマーで過ごしたことが人ならば、誰もがインフラの未整備に勝るとも劣らない問題があるのを知っています。
人的資本の問題です。
工業化・産業化を発展させるためには、一定の水準に達した均質な労働力を安定的に供給する労働市場が必要となりますが、ミャンマーにはそうした労働市場は存在しません。
ミャンマー投資の魅力を語る枕詞に、「仏教徒が大多数を占め真面目で勤勉」、「石油、天然ガス、鉱物を産出する、豊かな天然資源」、「6000万の人口を擁する豊富な労働市場」、日本のメディアだとこれに加えて「親日的」と続くわけですが、必ずしも正確な表現とは言えません。
「真面目」と「勤勉」がこの国では別の概念であることは、以前このブログに書きました。
「豊かな天然資源」はその通りとして、「親日的」も文化的には、韓国のエンターテイメントのソフトパワーの影響下にあり、日本に対するイメージは市場の95%以上を占める日本車くらいしかないと思いますが、ここでは関係ないので触れません。
特に再考の余地があるのが「豊富な労働市場」です。
労働市場については、求職人口は多いものの、工場やオフィスを稼働するのに必要な、一定レベルの問題解決能力や事務処理能力を持つ人材が極端に不足しています。
マッキンゼーの調査によると、「2030年までに、その時の経済規模を考えた場合、それなりのスキルを備えた人の不足分は1300万人」と試算しています。
数字をあげられても実感が湧かないと思いますので、日常的に私が体験していることを以下に列記します。
(1)ホッチキスで角を留めた資料のコピーを頼む--->返って来たのはホッチキスを外さないまま、無理矢理、コピー機に当てたため折り目だらけ原本
頼んだコピーも、当然ななめにズレていて、正常に読める状態とは言い難い。
仕事の完成度や精度といった概念を教わったことも、要求されたこともないので、注意しても何が問題になったのかが分らないようです。
(2)いつも空港でのお客様の送迎の手配を頼んでいるスタッフに、「今度来るお客様の予定ね」と旅程表を渡す--->渡したのは「いつものように、お客様を送迎する車両の手配をしてね」という意図だったのですが、まったく伝わっておらず。したがって、当日になっても何も用意がされていない。
気を回すとか、メッセージの意味を読み取るという習慣がないので、「何月・何日・何時に、○○空港行きの車を○台手配してね」と明示的に伝えないと、こちらの要求することが理解されない。
まだまだありますが、切りがないので止めときます。
彼らの名誉のために書き添えると、彼らはミャンマーの大学卒業者で、進学率の観点から見ても上位10%の教育を受けた選良です。
「廉価な労働力」を期待して、労働集約的な分野で、彼らのような高等教育を受けていない人々を雇用して工場等を稼働すれば、彼らをマネジメントする何倍もの労力が必要になるでしょう。
最近のミャンマーに関する報道で、人材の質と教育の必要性について言及されることが多くなったのは、実際にミャンマーに駐在所や支店を開設した外国人ビジネスパーソンが現地で採用活動をした結果、人的資本の脆弱さが多くの人々に知られることになったからでしょう。
もちろん、これはこの国に住む善男善女の皆さんの責任ではありません。
1962年以来、ほぼ鎖国状態を貫いていた上、1988年に学生を中心とする大規模な民主化運動が起こった際には、当時の軍事政権が反体制運動の再燃を防ぐため、教育レベルを意図的に下げ、学生が物事を考えないように教育制度を誘導してきました。
こうした、長きにわたる教育システムの結果として、今の人材不足は生じています。
今では、教育制度の改革は、この国への投資を考える外資系企業にとっても、この国自身の発展にとっても、最も大きな課題のひとつであるという共通認識に達しているようです。
今回は、ミャンマーの未来予測について、「教育」についての部分を抜粋しました。
その他、「政治」、「経済」、「環境」などのトピックについて論じられいますが、それらすべての根幹を成す、最も重要な問題が教育ではないかと思います。
『mizzima BUSINESS WEEKLY』25号 2013年6月20日号 より記事転載(原文は英文)
ミャンマーの未来予測
世界経済フォーラム東アジア会議(WEF:World Economic Forum on East Asia)が終わった今、ミャンマーが成すべきこと
Text by Theodore Cleph
教育環境について
明るい見通し
ミャンマーの学生たちにとって、80年代、90年代は学校が開いていたとしても困難な時期だった。この時代、学生たちは民主化運動の中でも大きな影響力のあるグループを形成した。国境付近まで逃走したグループは、反政府勢力とも手を組み、しばしば武装化した勢力の中心にもなった。権力側は、過去の歴史を繰り返すように、激しくこれを弾圧した。大学は閉鎖され、再開したときには、ヤンゴン市内のいくつかの大学は、反政府勢力の組織化を阻むため、郊外へと移転させられた。大規模な民主化運動があった1988年に先立つ数十年においてさえ、権力側が設定した慣行が支配的なルールであり、教育現場では当然のように政治的な教化がなされていた。政府への忠誠心を計るためのアンケートも実施されていた。
それも今は昔。今では、ミャンマーは、数世代にわたり続いた教育の空白をとりもどそうとしている。ミャンマー政府は教育改革を、人的資本の底上げを喫緊の課題としている大統領の強力な意思のもと、押し進めようとしている。アウン・サン・スーチー女史は、英国がミャンマーの大学教育の改革を支援するという提案に同意している。ミャンマーの教育予算は劇的に増え、専門知識を持った海外に在住しているミャンマー人も、祖国の復興のため帰国し始めている。
改革の課程において、個人の意識はより前向きになった。外国語を学ぼうとするミャンマー人にとって、職業選択の可能性が広がったからだ。語学学校が都市部では急増し、英語、中国語、日本語、韓国語、お望みならどんな言語でも学ぶことができる。Linux、サーバーネットワーク、MySQL、それともウェッブデザイン?お金と時間があれば、学ぶのは難しくない。そして、昨今では、都市部の家庭は教育資金も持ち合わせている。もっと豊かな家庭では、海外に留学するという方法もある。
先行き不透明
経済環境については、道路の補修、安定した電力供給といった物的なインフラ設備が整備される間だけ、大規模な資金が投下されそうだ。教育部門は、ローマが一日にしてならなかったように、短期間での立て直しは不可能だ。教育改革は時間がかかり、困難な課題であるだけではなく、人的資本への資金と投資が必要となる。単純な例として、教師の再教育も十分ではない。また、政策担当者は、学校側へこれまで以上に管理と運営について支援する必要がある。学校設備は、近年発達した情報技術が利用できるように更改される必要もある。教科書にいたっては、信じがたいほど時代遅れなものが使われている。
プラスの面としては、教育改革の必要性を誰もが認識し、やるべきことに熱心に取組んでいることだ。質の高い教育システムという目的地へは道半ばだとしても、誰もがそれに関心を持ち、そちらに向かって進もうとしている。
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2013年6月25日火曜日
2013年6月19日水曜日
【Myanmar News】ポエトリーとアートに彩られたヤンゴンの夜
ミャンマー(ヤンゴン)に住んでて、何がツライかと言えば、外国人でも気軽に楽しめる娯楽や文化施設がないことです。公営の美術館も図書館もなければ、世界的なレベルのエンターテイメントが定期的に開催されるコンサートホールも、この国には存在しません。個人的には、まっとうな本屋とジャズクラブがないのが一番きつい。
ローカルの人々の主な娯楽は、みんなで集まって飲み食いすることですが、この国のコミュニティに属していない大部分の外国人には、そうした集まりとは縁がありません。 それ以前に、ミャンマー語ができるのか、ローカル向けのコアなミャンマー料理を食べれるのか、という問題がありますが。
そうした状況の中でも、国外から帰って来たミャンマー人や外国からの駐在員の増加にともない、少しづつ文化的なコミュニティが立ち上がりつつあるようです。公営の美術館がないのを補って、個人経営のギャラリーなどが、アートの振興や新しいアーティストの紹介などの文化支援の機能を担っています。
今回はそうした、おそらく一部のミャンマー人と外国人にしか知られていないミャンマーのギャラリーの活動についての記事をご紹介します。
『Myanmar Times』682号 2013年6月17~23日号 より記事転載(原文は英文)
ポエトリーとアートに彩られたヤンゴンの夜
Text By Manny Maung
Nawaday Art Galleryの地下に足を踏み入れた途端、会場内の激しい熱気に体を包まれる。最前列の客たちは、後からつめかけてきた客に押し込まれるのではないかと心配して、周囲を窺っている。オープンマイクの会場では、前方へ押し込まれたら最後、自分が出たい時に外へ出れなくなることがよくあるからだ。その夜が、会場の熱気に見合うだけの文化的な刺戟に満ちたものになるのか、あるいは混雑の中で、汗だくになりながら、退屈な詩の朗読を聴いて時間を浪費する羽目になるのかは、始まってみないとわからない。
その夜、つめかけた客たちは、どうやって会場の外へ出るかの心配はしなくとも済んだようだ。 ミャンマーのバイオリン奏者が最初にステージに上がり、2、3曲のニューオリンズ風のダンス音楽で会場を沸かせると、しばらくの間、拍手が鳴り止まなかった。続いて親子で結成されたバンドが、エリック・クラプトンとリチャード・マークスの曲をしっとりとしたアコースティックで演奏する。
夜を切り裂くようなポエトリー・リーディングでは、報われぬ愛について人に思いを巡らせ、マスータベーションと(報われた)愛についての奇妙だが機智に富んだ表現で、聴く者を魅了させた。その詩は、良識ある人の眉をしかめさせるタイプの表現かもしれないが、大胆かつクリエイティブで、自由であるという、その夜の雰囲気をよく表していた。
曲芸師がスーツケースの中から這い出て来るパフォーマンスは、私にとってこの夜のハイライトだった。
ほんの少し前まで、こんなイベントをミャンマーで開催するのは難しかったし、こうした変化に合わせて国外からミャンマーへ戻ってくる人もいる。創造的な表現がこの国から溢れ出してきたのは、本当に喜ばしいことだ。
Nawday Tharlarを運営するKo Pyay Wayは、人々が安全に、自分たちがやりたいことを表現する場を作りたくて、この夜のために場所を提供していると語った。
「ここは、みんなが自分の思いやアイディアや才能を分ち合う場所だ」と彼はe-mailに書いた。
彼は、アーティストたちの表現方法もずいぶん変わって来たと言う。
「いまでは、彼らは自分たちの思うように表現し、創作することができる」と彼は現状についての意見を述べる。「彼らは何の懸念もなく、詩を書き、絵を描き、写真が撮れるようになった。そうして、多くの作品が発表されるようになった。中には物議を醸すようなものもあるが、2、3年前は、とても発表できなかったものだ」。Ko Pyay Wayは、ミャンマーの文学についても、若い世代が自分たちが書くこと、話すことへ対する情熱を保ち続けていると考えている。「若い世代が、文学に関する関心を失っているとは考えていない」と彼は語った。「古典的な作品への関心ではないだろうが、文学そのものに対する関心は強いはずだ」。
熱気で汗まみれになった私は、夢中のあまり、いつ終ったのかも気がつかないほどだった。心から楽しめたという気持ちと、ミャンマーで起こり始めた新しい表現の波をおこしている人たちのレベルへの畏敬の念が後に残された。
次のオープンマイク・セッションの日程は、まだ決まっていないため、Nawday Tharlarで直接聞くか、www.nawadaytharlargallery.comでご確認ください。
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ローカルの人々の主な娯楽は、みんなで集まって飲み食いすることですが、この国のコミュニティに属していない大部分の外国人には、そうした集まりとは縁がありません。 それ以前に、ミャンマー語ができるのか、ローカル向けのコアなミャンマー料理を食べれるのか、という問題がありますが。
そうした状況の中でも、国外から帰って来たミャンマー人や外国からの駐在員の増加にともない、少しづつ文化的なコミュニティが立ち上がりつつあるようです。公営の美術館がないのを補って、個人経営のギャラリーなどが、アートの振興や新しいアーティストの紹介などの文化支援の機能を担っています。
今回はそうした、おそらく一部のミャンマー人と外国人にしか知られていないミャンマーのギャラリーの活動についての記事をご紹介します。
『Myanmar Times』682号 2013年6月17~23日号 より記事転載(原文は英文)
ポエトリーとアートに彩られたヤンゴンの夜
Text By Manny Maung
Nawaday Art Galleryの地下に足を踏み入れた途端、会場内の激しい熱気に体を包まれる。最前列の客たちは、後からつめかけてきた客に押し込まれるのではないかと心配して、周囲を窺っている。オープンマイクの会場では、前方へ押し込まれたら最後、自分が出たい時に外へ出れなくなることがよくあるからだ。その夜が、会場の熱気に見合うだけの文化的な刺戟に満ちたものになるのか、あるいは混雑の中で、汗だくになりながら、退屈な詩の朗読を聴いて時間を浪費する羽目になるのかは、始まってみないとわからない。
その夜、つめかけた客たちは、どうやって会場の外へ出るかの心配はしなくとも済んだようだ。 ミャンマーのバイオリン奏者が最初にステージに上がり、2、3曲のニューオリンズ風のダンス音楽で会場を沸かせると、しばらくの間、拍手が鳴り止まなかった。続いて親子で結成されたバンドが、エリック・クラプトンとリチャード・マークスの曲をしっとりとしたアコースティックで演奏する。
夜を切り裂くようなポエトリー・リーディングでは、報われぬ愛について人に思いを巡らせ、マスータベーションと(報われた)愛についての奇妙だが機智に富んだ表現で、聴く者を魅了させた。その詩は、良識ある人の眉をしかめさせるタイプの表現かもしれないが、大胆かつクリエイティブで、自由であるという、その夜の雰囲気をよく表していた。
曲芸師がスーツケースの中から這い出て来るパフォーマンスは、私にとってこの夜のハイライトだった。
ほんの少し前まで、こんなイベントをミャンマーで開催するのは難しかったし、こうした変化に合わせて国外からミャンマーへ戻ってくる人もいる。創造的な表現がこの国から溢れ出してきたのは、本当に喜ばしいことだ。
Nawday Tharlarを運営するKo Pyay Wayは、人々が安全に、自分たちがやりたいことを表現する場を作りたくて、この夜のために場所を提供していると語った。
「ここは、みんなが自分の思いやアイディアや才能を分ち合う場所だ」と彼はe-mailに書いた。
彼は、アーティストたちの表現方法もずいぶん変わって来たと言う。
「いまでは、彼らは自分たちの思うように表現し、創作することができる」と彼は現状についての意見を述べる。「彼らは何の懸念もなく、詩を書き、絵を描き、写真が撮れるようになった。そうして、多くの作品が発表されるようになった。中には物議を醸すようなものもあるが、2、3年前は、とても発表できなかったものだ」。Ko Pyay Wayは、ミャンマーの文学についても、若い世代が自分たちが書くこと、話すことへ対する情熱を保ち続けていると考えている。「若い世代が、文学に関する関心を失っているとは考えていない」と彼は語った。「古典的な作品への関心ではないだろうが、文学そのものに対する関心は強いはずだ」。
熱気で汗まみれになった私は、夢中のあまり、いつ終ったのかも気がつかないほどだった。心から楽しめたという気持ちと、ミャンマーで起こり始めた新しい表現の波をおこしている人たちのレベルへの畏敬の念が後に残された。
次のオープンマイク・セッションの日程は、まだ決まっていないため、Nawday Tharlarで直接聞くか、www.nawadaytharlargallery.comでご確認ください。
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ミャンマーニュース
Yangon, Myanmar
ミャンマー ヤンゴン
2013年6月17日月曜日
【Myanmar News】裏通りの起業家たち
ミャンマーのローカル雑誌・ジャーナルから、海外にはなかなか伝わらないタイプのニュースを紹介します。
今回は、女性起業家によるレストラン開業に関する記事です。女性経営者そのものはミャンマーでも珍しくありませんが、ほぼ全員が富裕層の家系の人です。ミャンマーでは、今まで出自がその後の人生の収入や経済状況を決めていました。軍事政権時代の政商(クロニー)の子弟には、フェラーリーやランボルギーニーを乗り回し、自分と仲間が集まるための会員制のバーやレストランを所有している者もいます。
その一方、赤子を抱えた四、五歳くらいの年頃の子供が通りで物乞いをしたり、夜にはやはり同じ年頃の子供達が、籠を頭に載せて酔客相手にツマミを売る光景も当たり前のように見かけます。ローカル客相手の飲食店で働くウェイトレス・ウェーターは、概ね小学生・中学生くらいの年頃の子達です。当然、学校教育は受けていないでしょう。
もし学校へ行けたとしても、真っ当な教育を受けることは容易なことではありません。ミャンマーでは軍事政権時代に、反政府運動の芽を潰すことを目的に学校教育を意識的に弱体化したため、学校教育のレベルにも大きな問題があります。そのため、経済的に余裕のある富裕層は、国内で受けられるレベルの低い教育を嫌い、その多くが子女を国内のインターナショナルスクールから、アメリカ・カナダ・シンガポールなどの海外の大学へ進学させるケースが多いようです。
生まれた家系により、その後の教育機会や経済状況がほぼ決ってしまう超格差社会、というより前時代的な身分制・階級制が適用された社会だったわけですが、外国との国交の回復にともない変化の兆しもあらわれ始めているようです。
今回の記事は、そのモデルケースの一つと言えるでしょう。
『mizzima BUSINESS WEEKLY』681号 2013年6月13日号 より記事転載(原文は英文)
Back Street Entrepreneurs
紛争地域カチン州出身の二人の女性起業家が、新天地を求めてヤンゴンのレストランシーンへ登場
Text by Kasper Stengaard
ここが彼女達にとっての農園だ。汗ばんだ手がノコギリでベニヤ板を引き、塗り立てのペンキの匂いが鼻を突く。未開封の冷凍機器と、落ち着いてはいるものの隠し通せない興奮。 来るべき日は足早に近づいてきている。Sanchaung区(訳注:ヤンゴンの住宅地区。中産階級のミャンマー人が多く住み、スーパーマーケットなども他のエリアに比べて多い)に、新しいレストラン「Lady Finger」がもうすぐ開業する。二人のオーナー、Nue Nue 29歳とAh San 28歳は、店の掃除をし、メニューを考え、スタッフを雇用して来た。彼女達のレストランを、長期的なビジネスモデルを採用しながら、周囲から際立ったものにすることに、ずっと頭を絞っている。
最大の難題
ミャンマーでのビジネスは、エアコンが効いた、ベルベット敷きの部屋での豪華な会食では済まされない。笑顔が絶えないカチン出身(訳注:ミャンマー北部で最も少数民族紛争の激しい地方。イギリス統治時代の政策の影響で、キリスト教徒が多い)のコンビは、創意工夫をもってすれば、たとえ控えめな投資であっても、すぐれたサービスの料理店が、同業者の競争が激化しているヤンゴンで開業できることを証明すべく奮闘している。
「私たちにとって最大の難題は、適正な値段で立地の良い場所を見つけることでした」 Nue Nueは、3平方メーターの段ボールが「Lady Finger」の本社戦略室だった頃を振り返る。数週間の間、できるだけ早く足がかりを作ろうと、案を練り続けていた。不動産雑誌を読みあさり、数え切れない程の物件を見た末、劇場を建設中で、オーナーが観覧客への食事を提供する店子を欲しがっている物件に行き当たった。
地の利を生かす
高校時代からの友人である、共同経営者のAh Sanは、ビジネスにはーそれが、どんなビジネスであれー場所が大切だと語る。
「ここSanchaungは、私たちが提供する、手頃な値段の食事を気軽に楽しめる中産階級の人がたくさん住んでいて、しかも近所にカチン料理を出す競合店はない。そういった意味で、最高の場所だと思う」と彼女は言う。
ミャンマー最北部の州の郷土料理は、その美味しさの特徴として、ミャンマー人でも汗ばむほどの大量のトウガラシで味付けされている。
夢を叶える
ニンニクの束とプロパンガスのタンクの脇に立つ、二人のオーナーは料理人でもある。Ah Nanは、夢の実現のため、遠く離れたミッチーナー(訳注:カチン州の州都)からスカウトされてやって来た。二人のオーナーにとって、「Lady Finger」は単なるビジネスではない。「レストランか洋服屋を開くのが、ずっと夢でした」Nue Nueの声が、六つの真新しいテーブルと、客の到来を待つ二十四脚の椅子が並ぶ、まだ、がらんとした部屋に反響する。
誰もが夢を実現する手段を持っているわけではない。事務員の給与が、週80時間働いて、月100 USドル程度のミャンマーで、必要な資本金を工面するのは並大抵のことではない。
試練に耐える
鮮やかな色彩でレストランの壁が満たされている。二人のカチンのアーティストへ「Lady Finger」に相応しいトレードマーク作りが委ねられた。メッカのカアバ神殿と同じ役割を果たすように、カチンの祝祭のもと、ステージのような巨大なダイニングの周りを踊る人々が取り囲む。カチンについて人々が思い浮かぶものが、竹で作られた兵士のカムフラージュのための扮装から、居心地の良い、落ち着いたレストランへと変わりはじめている。
二人の女性は新しい旅立ちへの興奮を隠せない。だが、時には忍耐力を試される局面もあった。レストランの営業許可を取得するのは、本当にうんざりすることの連続だった。役所の担当者は約束を二回反故にした。雨期にレストランを開業するために、担当者の承認を取付けるのは不可能に思えた。その最中、カチンからの到着を待ちわびていたウェイトレス達は、直前になってヤンゴン行きの列車に乗るのを取りやめた。二三日して、彼女達はやっぱり行くことにしたと伝えて来た。もっとも、おそらく他の東南アジアの国に比較しても、ミャンマーでビジネスをするには、いろんな障害に出くわすことを覚悟しないといけない。
このような地域独特の予想外の出来事への挑戦は、起業家のダイナミクスとして、間違いなく世界共通のものだ。ビジネスを成功させるためへの挑戦は、ヤンゴンであろうがワシントンであろうが変わりない。Ah Sanは彼女達が、これからも大きな試練が待ち受けていることを認める。
「私達は、雨期の始まる時期に開業します。お客さんを集めるのは、正直大変だと思う。でも、この時期を私達のLady Fingerを知ってもらうために使わなければならない。そのために全力を尽くします」と彼女は言う。認知度の低いカチン料理の美味しさを知ってもらうために、パンフレットをスタッフに配ってもらうとも教えてくれた。
Nue Nueは、彼女もまた、自分のレストランを経営する夢の実現に向かっているところだと強調した。「もちろん、やるべきことは山ほどあるわ。でも、私達はきっとやりとげる」。
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今回は、女性起業家によるレストラン開業に関する記事です。女性経営者そのものはミャンマーでも珍しくありませんが、ほぼ全員が富裕層の家系の人です。ミャンマーでは、今まで出自がその後の人生の収入や経済状況を決めていました。軍事政権時代の政商(クロニー)の子弟には、フェラーリーやランボルギーニーを乗り回し、自分と仲間が集まるための会員制のバーやレストランを所有している者もいます。
その一方、赤子を抱えた四、五歳くらいの年頃の子供が通りで物乞いをしたり、夜にはやはり同じ年頃の子供達が、籠を頭に載せて酔客相手にツマミを売る光景も当たり前のように見かけます。ローカル客相手の飲食店で働くウェイトレス・ウェーターは、概ね小学生・中学生くらいの年頃の子達です。当然、学校教育は受けていないでしょう。
もし学校へ行けたとしても、真っ当な教育を受けることは容易なことではありません。ミャンマーでは軍事政権時代に、反政府運動の芽を潰すことを目的に学校教育を意識的に弱体化したため、学校教育のレベルにも大きな問題があります。そのため、経済的に余裕のある富裕層は、国内で受けられるレベルの低い教育を嫌い、その多くが子女を国内のインターナショナルスクールから、アメリカ・カナダ・シンガポールなどの海外の大学へ進学させるケースが多いようです。
生まれた家系により、その後の教育機会や経済状況がほぼ決ってしまう超格差社会、というより前時代的な身分制・階級制が適用された社会だったわけですが、外国との国交の回復にともない変化の兆しもあらわれ始めているようです。
今回の記事は、そのモデルケースの一つと言えるでしょう。
『mizzima BUSINESS WEEKLY』681号 2013年6月13日号 より記事転載(原文は英文)
Back Street Entrepreneurs
紛争地域カチン州出身の二人の女性起業家が、新天地を求めてヤンゴンのレストランシーンへ登場
Text by Kasper Stengaard
ここが彼女達にとっての農園だ。汗ばんだ手がノコギリでベニヤ板を引き、塗り立てのペンキの匂いが鼻を突く。未開封の冷凍機器と、落ち着いてはいるものの隠し通せない興奮。 来るべき日は足早に近づいてきている。Sanchaung区(訳注:ヤンゴンの住宅地区。中産階級のミャンマー人が多く住み、スーパーマーケットなども他のエリアに比べて多い)に、新しいレストラン「Lady Finger」がもうすぐ開業する。二人のオーナー、Nue Nue 29歳とAh San 28歳は、店の掃除をし、メニューを考え、スタッフを雇用して来た。彼女達のレストランを、長期的なビジネスモデルを採用しながら、周囲から際立ったものにすることに、ずっと頭を絞っている。
最大の難題
ミャンマーでのビジネスは、エアコンが効いた、ベルベット敷きの部屋での豪華な会食では済まされない。笑顔が絶えないカチン出身(訳注:ミャンマー北部で最も少数民族紛争の激しい地方。イギリス統治時代の政策の影響で、キリスト教徒が多い)のコンビは、創意工夫をもってすれば、たとえ控えめな投資であっても、すぐれたサービスの料理店が、同業者の競争が激化しているヤンゴンで開業できることを証明すべく奮闘している。
「私たちにとって最大の難題は、適正な値段で立地の良い場所を見つけることでした」 Nue Nueは、3平方メーターの段ボールが「Lady Finger」の本社戦略室だった頃を振り返る。数週間の間、できるだけ早く足がかりを作ろうと、案を練り続けていた。不動産雑誌を読みあさり、数え切れない程の物件を見た末、劇場を建設中で、オーナーが観覧客への食事を提供する店子を欲しがっている物件に行き当たった。
地の利を生かす
高校時代からの友人である、共同経営者のAh Sanは、ビジネスにはーそれが、どんなビジネスであれー場所が大切だと語る。
「ここSanchaungは、私たちが提供する、手頃な値段の食事を気軽に楽しめる中産階級の人がたくさん住んでいて、しかも近所にカチン料理を出す競合店はない。そういった意味で、最高の場所だと思う」と彼女は言う。
ミャンマー最北部の州の郷土料理は、その美味しさの特徴として、ミャンマー人でも汗ばむほどの大量のトウガラシで味付けされている。
夢を叶える
ニンニクの束とプロパンガスのタンクの脇に立つ、二人のオーナーは料理人でもある。Ah Nanは、夢の実現のため、遠く離れたミッチーナー(訳注:カチン州の州都)からスカウトされてやって来た。二人のオーナーにとって、「Lady Finger」は単なるビジネスではない。「レストランか洋服屋を開くのが、ずっと夢でした」Nue Nueの声が、六つの真新しいテーブルと、客の到来を待つ二十四脚の椅子が並ぶ、まだ、がらんとした部屋に反響する。
誰もが夢を実現する手段を持っているわけではない。事務員の給与が、週80時間働いて、月100 USドル程度のミャンマーで、必要な資本金を工面するのは並大抵のことではない。
試練に耐える
鮮やかな色彩でレストランの壁が満たされている。二人のカチンのアーティストへ「Lady Finger」に相応しいトレードマーク作りが委ねられた。メッカのカアバ神殿と同じ役割を果たすように、カチンの祝祭のもと、ステージのような巨大なダイニングの周りを踊る人々が取り囲む。カチンについて人々が思い浮かぶものが、竹で作られた兵士のカムフラージュのための扮装から、居心地の良い、落ち着いたレストランへと変わりはじめている。
二人の女性は新しい旅立ちへの興奮を隠せない。だが、時には忍耐力を試される局面もあった。レストランの営業許可を取得するのは、本当にうんざりすることの連続だった。役所の担当者は約束を二回反故にした。雨期にレストランを開業するために、担当者の承認を取付けるのは不可能に思えた。その最中、カチンからの到着を待ちわびていたウェイトレス達は、直前になってヤンゴン行きの列車に乗るのを取りやめた。二三日して、彼女達はやっぱり行くことにしたと伝えて来た。もっとも、おそらく他の東南アジアの国に比較しても、ミャンマーでビジネスをするには、いろんな障害に出くわすことを覚悟しないといけない。
このような地域独特の予想外の出来事への挑戦は、起業家のダイナミクスとして、間違いなく世界共通のものだ。ビジネスを成功させるためへの挑戦は、ヤンゴンであろうがワシントンであろうが変わりない。Ah Sanは彼女達が、これからも大きな試練が待ち受けていることを認める。
「私達は、雨期の始まる時期に開業します。お客さんを集めるのは、正直大変だと思う。でも、この時期を私達のLady Fingerを知ってもらうために使わなければならない。そのために全力を尽くします」と彼女は言う。認知度の低いカチン料理の美味しさを知ってもらうために、パンフレットをスタッフに配ってもらうとも教えてくれた。
Nue Nueは、彼女もまた、自分のレストランを経営する夢の実現に向かっているところだと強調した。「もちろん、やるべきことは山ほどあるわ。でも、私達はきっとやりとげる」。
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ミャンマーニュース
Yangon, Myanmar
ミャンマー ヤンゴン
2013年6月13日木曜日
【Myanmar News】ミャンマー人女性のファッションへの関心
ミャンマーのローカル雑誌・ジャーナルから、海外にはなかなか伝わらないタイプのニュースを紹介します。今のところ、海外のメディアで報道されるミャンマー関連のニュースは、少数民族との紛争やODAなどの政治問題、あるいはグローバル企業のミャンマー投資案件などの経済関連のニュースが主です。もちろん、それはそれで重要なのですが、市井に暮らすミャンマーの人々のニュースも、この国の実感のある手触りを感じるために必要かと思います。
『Myanmar Times』681号 2013年6月10日~16日 より記事転載(原文は英文)
ミャンマー人女性のファッションへの関心
みんな心配?それとも歓迎?ミャンマー人のファッションスタイルの変化について
Text by Aung Kyaw Nyunt, Translated by Thiri Min Htun
ミャンマーでは人々から賞賛を集めるのは、男性の場合は腕っ節の強さ、女性の場合は艶やかな黒髪を固く結んだ大きな結い髪、と言われている。
だが、今では、多くのミャンマー人女性の髪は、小さな結い髪も作れないほどの長さだ。仮にそんな髪が長い女性がいても、他の国の流行に影響されて茶髪に染めているかもしれない。
もっとも、どんな格好をするかについては、ミャンマーの最近のファッションの中で、いまも変化のただ中にある。
かつてはミャンマー人女性はとてもシャイで、くるぶしさえ見せるのをためらっていたと聞く。彼女達はロングスカートかロンジー(訳注:ミャンマー式巻きスカート)をはき、自分達の身体を隠していた。いまでは、韓国人女優や欧米に影響されて、丈の短い服を着て、肌を露出させる女性もいる。
といっても、いまだに多くの女性は、そんな服装はやり過ぎだと感じ、従来の服装規範を守っている。
18歳の大学生Ma Chu Chuさんは、ロンジーの代わりにズボンをはいていると言うが、丈の短いものは着ない。自分の足を晒すのは抵抗があると言う。
「身の安全のためにも、着るものは選ばないと」と彼女は語る。「丈の短い服は、カッコいいかもしれないけど、危い気がする。自分としては、ミャンマー人女性は肌を露出するべきじゃないと思う」 。
自分の子供達が、流行のファッションに身を包むことには、彼らの親達にも抵抗がある。
35歳の母親、Daw Thae Thaeさんは、ミャンマーの伝統的な服装が一番だと考えている。それが若い女性の「品格」を守るのだ。
「女の子を綺麗に見せるには、着る物へのちゃんとした節度が必要よ」とDaw Thae Thaeさんは言う。
「もし、丈が短過ぎたり、襟ぐりが深過ぎたりする服を着ているのは、彼女の親御さんのお家の格式に関わることです。だから、若いお嬢さんのいる親御さんは、そんな格好をさせるべきじゃないわ」 。
「露出度の高い服を着るのは、バスに乗って通学している私には合ってない」22歳のMa Ei Thiri Thuさんの意見だ。「たまにショーツや丈の短い服を着ることもあるけど、短過ぎるのは着ない」。Ei Thiri Thuさんはその日の状況によって、伝統的な服装と、今風の服を着る時を状況によって切り替えている。「ミャンマーの民族衣装は好きよ。それに、国立のいまの学校へ行く時は、規則でみんな民族衣装を着なきゃいけないし」。
ミャンマー人女性の多くは、アウン・サン・スーチー女史のスタイルに倣っている。自宅でも、海外での公式の場でも、彼女はミャンマーの伝統的な衣装に身を包み、エレガントで気品を漂わせている。
ミャンマーのデモクラシーのアイコンである彼女は、ファッション・アイコンでもある。
それでも女史は時には装いを変える。最近のモンゴル訪問時のブルージーンズ姿の写真は、
ミャンマーのいくつかのウェッブサイトで、激しい批難にさらされた。
女史のモンゴルでの服装は、無分別とは言えないかもしれないが、年配の女性が海外の服装に影響されていると思われたことが、不興を買ったのは事実である。
ヤンゴン開発委員会で働くWin Kyiさんは、「年配の女性は、若い人のお手本であるべき」と言う。 Win Kyiさんは職場の同僚達が、海外の服装スタイルを選んでいることを残念に感じている。
「いまは、ミャンマー人主婦の多くがミャンマーのテレビ番組で、韓国映画を観ている。彼女達とって韓国ファッションが主流になってるけど、自分達のミャンマーにも素敵なスタイルがあることを忘れてはいけない。私はファッションが、私たちの文化の中から無くなって欲しくない」と Win Kyiさんは語る。
35歳のMa Nyein Nyeiさんは、ミャンマーの女の子達がミニスカートを抵抗なしに着ていると語る。
「時によって、ファッションは着る人の気分と関係している。どんな服を着るか毎日考えるけど、自分にぴったりと思う服を着ると、その日一日ずっと満たされた気分になる」。
みんないつもそんな風にやっている訳ではない。
「どこに行くかによるわね。ミニスカートをはいて大丈夫な場所なら、そうすればいい。でも、だらしないのはダメ。自分なりの規範が必要ね」とMa Nyein Nyeiさんは言う。
もし、ファッショナブルな格好がしたいなら、その場に相応しいことが必要だ、とは30歳の主婦Ma Thinzarさんの意見だ。
「若い世代が、今風の格好ができる時代に生きてることは悪くないと思う」 Ma Thinzarさんは言う。「だけど、その格好がその場に相応しいかどうかを考えないと。公共交通機関(訳注:現在のところ、都市部の公共交通手段はバスに限られる。色んな意味で安全とは言いがたい)を使うのか、それとも自分の家の車なのか。自分達が、今やってることに相応しい服を着るべきね。それに、もし流行のファッションをしたいなら、ヘアスタイルも含めて、トータルでコーディネートしないと」。
ベトナム、タイなどの他の東南アジア諸国と比べて、この国の民族衣装を着ている女性の比率は極めて高い。これから先、これも変わって行くのだろうか?
もし、そうならミャンマー人女性が、自分達の民族衣装に美を見出せなくなっていることになる。
たしかに、他国から取り入れるファッションスタイルには事欠かない。
しかし、ただ単に他国のスタイルを真似するだけでは、いただけない。
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『Myanmar Times』681号 2013年6月10日~16日 より記事転載(原文は英文)
ミャンマー人女性のファッションへの関心
みんな心配?それとも歓迎?ミャンマー人のファッションスタイルの変化について
Text by Aung Kyaw Nyunt, Translated by Thiri Min Htun
ミャンマーでは人々から賞賛を集めるのは、男性の場合は腕っ節の強さ、女性の場合は艶やかな黒髪を固く結んだ大きな結い髪、と言われている。
だが、今では、多くのミャンマー人女性の髪は、小さな結い髪も作れないほどの長さだ。仮にそんな髪が長い女性がいても、他の国の流行に影響されて茶髪に染めているかもしれない。
もっとも、どんな格好をするかについては、ミャンマーの最近のファッションの中で、いまも変化のただ中にある。
かつてはミャンマー人女性はとてもシャイで、くるぶしさえ見せるのをためらっていたと聞く。彼女達はロングスカートかロンジー(訳注:ミャンマー式巻きスカート)をはき、自分達の身体を隠していた。いまでは、韓国人女優や欧米に影響されて、丈の短い服を着て、肌を露出させる女性もいる。
といっても、いまだに多くの女性は、そんな服装はやり過ぎだと感じ、従来の服装規範を守っている。
18歳の大学生Ma Chu Chuさんは、ロンジーの代わりにズボンをはいていると言うが、丈の短いものは着ない。自分の足を晒すのは抵抗があると言う。
「身の安全のためにも、着るものは選ばないと」と彼女は語る。「丈の短い服は、カッコいいかもしれないけど、危い気がする。自分としては、ミャンマー人女性は肌を露出するべきじゃないと思う」 。
自分の子供達が、流行のファッションに身を包むことには、彼らの親達にも抵抗がある。
35歳の母親、Daw Thae Thaeさんは、ミャンマーの伝統的な服装が一番だと考えている。それが若い女性の「品格」を守るのだ。
「女の子を綺麗に見せるには、着る物へのちゃんとした節度が必要よ」とDaw Thae Thaeさんは言う。
「もし、丈が短過ぎたり、襟ぐりが深過ぎたりする服を着ているのは、彼女の親御さんのお家の格式に関わることです。だから、若いお嬢さんのいる親御さんは、そんな格好をさせるべきじゃないわ」 。
「露出度の高い服を着るのは、バスに乗って通学している私には合ってない」22歳のMa Ei Thiri Thuさんの意見だ。「たまにショーツや丈の短い服を着ることもあるけど、短過ぎるのは着ない」。Ei Thiri Thuさんはその日の状況によって、伝統的な服装と、今風の服を着る時を状況によって切り替えている。「ミャンマーの民族衣装は好きよ。それに、国立のいまの学校へ行く時は、規則でみんな民族衣装を着なきゃいけないし」。
ミャンマー人女性の多くは、アウン・サン・スーチー女史のスタイルに倣っている。自宅でも、海外での公式の場でも、彼女はミャンマーの伝統的な衣装に身を包み、エレガントで気品を漂わせている。
ミャンマーのデモクラシーのアイコンである彼女は、ファッション・アイコンでもある。
それでも女史は時には装いを変える。最近のモンゴル訪問時のブルージーンズ姿の写真は、
ミャンマーのいくつかのウェッブサイトで、激しい批難にさらされた。
女史のモンゴルでの服装は、無分別とは言えないかもしれないが、年配の女性が海外の服装に影響されていると思われたことが、不興を買ったのは事実である。
ヤンゴン開発委員会で働くWin Kyiさんは、「年配の女性は、若い人のお手本であるべき」と言う。 Win Kyiさんは職場の同僚達が、海外の服装スタイルを選んでいることを残念に感じている。
「いまは、ミャンマー人主婦の多くがミャンマーのテレビ番組で、韓国映画を観ている。彼女達とって韓国ファッションが主流になってるけど、自分達のミャンマーにも素敵なスタイルがあることを忘れてはいけない。私はファッションが、私たちの文化の中から無くなって欲しくない」と Win Kyiさんは語る。
35歳のMa Nyein Nyeiさんは、ミャンマーの女の子達がミニスカートを抵抗なしに着ていると語る。
「時によって、ファッションは着る人の気分と関係している。どんな服を着るか毎日考えるけど、自分にぴったりと思う服を着ると、その日一日ずっと満たされた気分になる」。
みんないつもそんな風にやっている訳ではない。
「どこに行くかによるわね。ミニスカートをはいて大丈夫な場所なら、そうすればいい。でも、だらしないのはダメ。自分なりの規範が必要ね」とMa Nyein Nyeiさんは言う。
もし、ファッショナブルな格好がしたいなら、その場に相応しいことが必要だ、とは30歳の主婦Ma Thinzarさんの意見だ。
「若い世代が、今風の格好ができる時代に生きてることは悪くないと思う」 Ma Thinzarさんは言う。「だけど、その格好がその場に相応しいかどうかを考えないと。公共交通機関(訳注:現在のところ、都市部の公共交通手段はバスに限られる。色んな意味で安全とは言いがたい)を使うのか、それとも自分の家の車なのか。自分達が、今やってることに相応しい服を着るべきね。それに、もし流行のファッションをしたいなら、ヘアスタイルも含めて、トータルでコーディネートしないと」。
ベトナム、タイなどの他の東南アジア諸国と比べて、この国の民族衣装を着ている女性の比率は極めて高い。これから先、これも変わって行くのだろうか?
もし、そうならミャンマー人女性が、自分達の民族衣装に美を見出せなくなっていることになる。
たしかに、他国から取り入れるファッションスタイルには事欠かない。
しかし、ただ単に他国のスタイルを真似するだけでは、いただけない。
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ミャンマーニュース
Yangon, Myanmar
ミャンマー ヤンゴン
2013年6月8日土曜日
ミャンマーに来てわかった(と思った)こと
ミャンマーに来るようになって、早一年あまり。多くの外国人が感じているであろう、この国の人への入力(もっぱら仕事関係のオーダー)に対して、予想外の出力が返ってくる謎、「いったいこの人達の脳内OSは、どうなってるんだ?」という点について、ある程度納得のいく説明が自分に対してできたので、ここに記します。
ひとことで言うと、この国の人達の大部分が「近世人」であること。
日本の時代区分だと、江戸時代にあたりますね。
教科書が謂うところの直線的な進歩史観だと、中世・近世・近代・現代の順で、歴史が進んで来たと教えられます。
近世は、産業革命・市民革命の以前の中央集権国家があった時代。中世ほどではないが経済的合理性や個人の選択の自由より、宗教的な価値観や共同体への帰属の方が重じられた時代と言えるでしょう。
この国では「真面目」と「勤勉」は必ずしも一致する概念ではないことが、これで説明できます。
物を盗む、嘘をつく等の行為を抑止する仏陀の教えの実践と、勤勉に働いて社会活動の一翼を担うという義務感は同一ではありません。この感覚はおそらく、生産活動を行わない出家者が社会階層の頂点に存在する、上座部仏教から派生していると思われます。中国経由で伝わった大乗仏教がベースとなっている我々日本人には、なかなか理解しづらい感覚です。私もしばらくの間、真面目な人が必ずしも勤勉ではないことに戸惑いました。
この国の人達の純粋さや邪気のなさに惹かれて住んだものの、当初予想していなかった様々な人的なトラブルに見舞われた、長くこの国に住んでいる日本人が持つ、愛憎入り交じった思いも、それなりに理解できます。
個人の経験則では、現地の高学歴の人(=社会階層の高い人達)を雇用している、または高学歴の人達とのコミュニケーションが多いと思われる官公庁・大企業の日本人の方は、ミャンマーに対する評価はすこぶる高く、高卒未満の未就学者を直接雇用している日本人の自営業者の方はそうでもないです。この評価の違いは、個々人がミャンマーで経験した事象から導かれた結果でしょう。
進歩史観謂うところ「現代」は、大衆消費社会が成立した、第二次世界大戦以降を指します。
だから、外国から来た「現代人」であるビジネスパーソンが、この国へ来て自らの常識に依って行動し、同じ価値観に基づいた相手側の出力を期待すると、予想外の結果に戸惑うことになります。契約・約束の履行、時間の正確性といった社会通念、規格品大量生産を可能にする均質な労働市場といった社会基盤は、2013年現在のミャンマーには存在しません。
ミャンマーの総人口における「近世人」の割合は、教育・就業などで国外へ出たことがある約一割を除く、九割にのぼると推計されます。国外での経験を持つ一割の人々は、いまも国外在住か、海外で高等教育を受けた富裕層の子弟なので、ミャンマーへ進出する多くのグローバル企業が期待する「安価な労働力」にはあたりません。この国に進出し、現地の人達を雇用するには、「近世人」から「現代人」へのOSのヴァージョンアップが必要になります。
ただし、識字率が約95%と高いのは強みです。初等教育の就学率はけっして高くはないのですが、僧院での教育が功を奏しているようです。
このへんも寺子屋教育が、人材教育の底上げを担っていた日本の近世、江戸時代と重なりますね。
構造主義的な観点では文化・習慣・社会の違いは、あくまで恣意的な差異の体系であり、直線的な発達史観から導きだされるような優劣は存在しないことになりますが、ここではその点については述べません。
そんな難しいことは分らないからです。
名著の誉れ高い『悲しき熱帯』は途中で読むの挫折したし、この分野に関する私の知見は内田先生の『寝ながら学べる構造主義』だけです。
人口が約6000万人と多く、ほとんどグローバル企業が進出していないため、買手市場の労働市場があるとは経済誌の報道でよく見かける表現ですが、実体はもう少し複雑です。
現地の人達を雇用して、通常の期待値まで労働力としてのパフォーマンスを上げるには、再教育のコストと時間をかなり要します。それには、それ相応の企業体力とかなりの熱意が必要です。この国で成功を収めている外国人の人達は、やはり当地への思い入れが人並み外れて強かったり、不退転の決意で臨んで来た人ばかりなのも頷けます。
一方で、どんなにこちらから見て不合理な目に遭っても、相手に悪意や邪気がない、ただ常識や社会通念の在処が違うから、というケースがほとんどです。
この種のスレてなさ、ピュアネスというのは、いまや他の国ではなかなか経験できないので、そういう意味ではミャンマーにいらっしゃるのはお勧めします。観光で訪れた外国人がミャンマーを絶賛することが多いのも頷けます。ビジネス目的だと、それ相応の覚悟は必要ですが。
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ひとことで言うと、この国の人達の大部分が「近世人」であること。
日本の時代区分だと、江戸時代にあたりますね。
教科書が謂うところの直線的な進歩史観だと、中世・近世・近代・現代の順で、歴史が進んで来たと教えられます。
近世は、産業革命・市民革命の以前の中央集権国家があった時代。中世ほどではないが経済的合理性や個人の選択の自由より、宗教的な価値観や共同体への帰属の方が重じられた時代と言えるでしょう。
この国では「真面目」と「勤勉」は必ずしも一致する概念ではないことが、これで説明できます。
物を盗む、嘘をつく等の行為を抑止する仏陀の教えの実践と、勤勉に働いて社会活動の一翼を担うという義務感は同一ではありません。この感覚はおそらく、生産活動を行わない出家者が社会階層の頂点に存在する、上座部仏教から派生していると思われます。中国経由で伝わった大乗仏教がベースとなっている我々日本人には、なかなか理解しづらい感覚です。私もしばらくの間、真面目な人が必ずしも勤勉ではないことに戸惑いました。
この国の人達の純粋さや邪気のなさに惹かれて住んだものの、当初予想していなかった様々な人的なトラブルに見舞われた、長くこの国に住んでいる日本人が持つ、愛憎入り交じった思いも、それなりに理解できます。
個人の経験則では、現地の高学歴の人(=社会階層の高い人達)を雇用している、または高学歴の人達とのコミュニケーションが多いと思われる官公庁・大企業の日本人の方は、ミャンマーに対する評価はすこぶる高く、高卒未満の未就学者を直接雇用している日本人の自営業者の方はそうでもないです。この評価の違いは、個々人がミャンマーで経験した事象から導かれた結果でしょう。
進歩史観謂うところ「現代」は、大衆消費社会が成立した、第二次世界大戦以降を指します。
だから、外国から来た「現代人」であるビジネスパーソンが、この国へ来て自らの常識に依って行動し、同じ価値観に基づいた相手側の出力を期待すると、予想外の結果に戸惑うことになります。契約・約束の履行、時間の正確性といった社会通念、規格品大量生産を可能にする均質な労働市場といった社会基盤は、2013年現在のミャンマーには存在しません。
ミャンマーの総人口における「近世人」の割合は、教育・就業などで国外へ出たことがある約一割を除く、九割にのぼると推計されます。国外での経験を持つ一割の人々は、いまも国外在住か、海外で高等教育を受けた富裕層の子弟なので、ミャンマーへ進出する多くのグローバル企業が期待する「安価な労働力」にはあたりません。この国に進出し、現地の人達を雇用するには、「近世人」から「現代人」へのOSのヴァージョンアップが必要になります。
ただし、識字率が約95%と高いのは強みです。初等教育の就学率はけっして高くはないのですが、僧院での教育が功を奏しているようです。
このへんも寺子屋教育が、人材教育の底上げを担っていた日本の近世、江戸時代と重なりますね。
構造主義的な観点では文化・習慣・社会の違いは、あくまで恣意的な差異の体系であり、直線的な発達史観から導きだされるような優劣は存在しないことになりますが、ここではその点については述べません。
そんな難しいことは分らないからです。
名著の誉れ高い『悲しき熱帯』は途中で読むの挫折したし、この分野に関する私の知見は内田先生の『寝ながら学べる構造主義』だけです。
人口が約6000万人と多く、ほとんどグローバル企業が進出していないため、買手市場の労働市場があるとは経済誌の報道でよく見かける表現ですが、実体はもう少し複雑です。
現地の人達を雇用して、通常の期待値まで労働力としてのパフォーマンスを上げるには、再教育のコストと時間をかなり要します。それには、それ相応の企業体力とかなりの熱意が必要です。この国で成功を収めている外国人の人達は、やはり当地への思い入れが人並み外れて強かったり、不退転の決意で臨んで来た人ばかりなのも頷けます。
一方で、どんなにこちらから見て不合理な目に遭っても、相手に悪意や邪気がない、ただ常識や社会通念の在処が違うから、というケースがほとんどです。
この種のスレてなさ、ピュアネスというのは、いまや他の国ではなかなか経験できないので、そういう意味ではミャンマーにいらっしゃるのはお勧めします。観光で訪れた外国人がミャンマーを絶賛することが多いのも頷けます。ビジネス目的だと、それ相応の覚悟は必要ですが。
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ミャンマーでのビジネス
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ミャンマー ヤンゴン
2012年12月24日月曜日
縁日のアトラクション
日本の街はクリスマスのイルミネーションに彩られているでしょうが、常夏の国ミャンマーでは、季節感まったくありません。ホテルやスーパーマーケットで、ツリーは見るんですけどね。
昨日は、近所のパゴダの年に一度のお祭りだったらしく、夕方から沿道に屋台がびっしり並んでいました。
屋台は普段から見慣れているので、特に驚きはありませんが、ついに噂のアレを発見しました。そう公道に、いつの間にか忽然とそそり立つ、人力観覧車。
50cm長の杭を四隅の支柱に打ち込んだだけの簡素な設営方法で、心配性の日本人からすると、「これぶっ倒れたらどうするだろう」と見ているだけで不安になります。
何よりも凄いのが、これを回転させる方法。
5人の男の子が、するすると異様な速度で、観覧車のスポークをかけ登って行きます。
で、全員頂点に着いたとこで、観覧車や輪の外棒に、体操選手が鉄棒にぶら下がるようにグイグイ体重をかけて、観覧車を回転させます。回転し始めたら、ハツカネズミやハムスターが回し車を回転させるように、外輪を駆け登りながら加速させる。早い。遊園地のメリーゴーランドと同じくらいの速度か、それより早いかも。
少年たちのアクロバッティブな動作は、ヘタなサーカスなんかよりよっぽどスリリングです。
乗ってる人たち、みんなキャーキャー言って喜んでますが、怖くないのでしょうか。
きっと遊具の安全基準を定めた法規とかないと思います。労災もないし、事故が起きても補償なんかもたぶん無い。
ミャンマーにお越しの方は、お試しになってはいかがでしょうか。
私は無理です。
昨日は、近所のパゴダの年に一度のお祭りだったらしく、夕方から沿道に屋台がびっしり並んでいました。
屋台は普段から見慣れているので、特に驚きはありませんが、ついに噂のアレを発見しました。そう公道に、いつの間にか忽然とそそり立つ、人力観覧車。
50cm長の杭を四隅の支柱に打ち込んだだけの簡素な設営方法で、心配性の日本人からすると、「これぶっ倒れたらどうするだろう」と見ているだけで不安になります。
何よりも凄いのが、これを回転させる方法。
5人の男の子が、するすると異様な速度で、観覧車のスポークをかけ登って行きます。
で、全員頂点に着いたとこで、観覧車や輪の外棒に、体操選手が鉄棒にぶら下がるようにグイグイ体重をかけて、観覧車を回転させます。回転し始めたら、ハツカネズミやハムスターが回し車を回転させるように、外輪を駆け登りながら加速させる。早い。遊園地のメリーゴーランドと同じくらいの速度か、それより早いかも。
少年たちのアクロバッティブな動作は、ヘタなサーカスなんかよりよっぽどスリリングです。
乗ってる人たち、みんなキャーキャー言って喜んでますが、怖くないのでしょうか。
きっと遊具の安全基準を定めた法規とかないと思います。労災もないし、事故が起きても補償なんかもたぶん無い。
ミャンマーにお越しの方は、お試しになってはいかがでしょうか。
私は無理です。
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