2018年3月24日土曜日

ミャンマーで、いま村上春樹ブームが起きている!?

友人のNさんから『Myanmar Times』の最新号に村上春樹の翻訳者のインタビューが載っていると聞いて、読んでみました。

最初は、 村上春樹の最初の翻訳者で、初期の作品を英訳した、アルフレッド・バーンバウムのことかと思いました。彼がミャンマー人の女性と結婚して、ミャンマーに住んでいると何か読んだことがあるからです。村上は、彼について「バーンバウムは一種のボヘミアンなんです。特に定職もなく、大学に属しているわけでもなくて、タイに行ったりミャンマーに行ったりフラフラして暮らしている」と語っています。
彼は今もミャンマーに住んでいると思っていましたが、ネットで見つけた2年前のインタビューの場所は東京でした。掲載写真から、下北沢のBio Cafeだと分かります。なぜ分かるかというと、ミャンマーに来る前に、ここから50メーターくらい先のアパートに住んでいたからです。

さて実際に記事を読んでみると、インタビューされていたのは、ミャンマー人の翻訳者の Ye Mya Lwin氏でした。
以前の投稿で、再新作の『騎士団長殺し』が英訳より先にミャンマー語訳出ていることを書きましたが、この方が訳していたんですね。
『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』などは、英訳が出版された直後のタイミングでミャンマー語訳が出てました。おそらく村上春樹のミャンマー語訳の本は、日本語から直接翻訳された本と、英訳からの重訳の二つのヴァージョンが存在します。Ye Mya Lwin氏がインタビューで、重訳ではニュアンスが伝わらないといった意味合いのことを言っていますが、おそらくこの辺の事情について言及しているのだと思われます。

ミャンマーは英語を読める人も多いので、英訳のペーパーバックを格安で販売している業者もいます。長編が一冊300円から500円くらいなので、ミャンマーの洋書の相場からして、不自然に安過ぎますが、Facebookで堂々と広告が打たれているのは、さすがミャンマーです。



なかなか興味深い記事だったので、私も翻訳してみました。
2001年に『風の歌を聴け』がミャンマー語に訳されて、これがミャンマーで最初に紹介された作品だったことは知りませんでした。ミャンマーの書籍はあまり重版をかけないので、売り切れて書店から消えると、どんな本が出版されていたのか分かりません。私は、『風の歌を聴け』のミャンマー語訳の本を書店で見たことがありません。


業界よりもファンの動きの方が速いとき、そこには新しい何かが起きている。
村上春樹の新作『騎士団長殺し』は、英訳より先にミャンマー語訳が出版された。ミャンマーのファンは大喜びだ。彼らは翻訳者のYe Mya Lwinに感謝すべきであろう。
村上は作家として、『ノルウェーの森』や『スプートニクの恋人』といった作品で、世界的な評価を受けている。彼のミャンマーにおける名声は、Ye Mya Lwinが村上の処女作『風の歌を聴け』を翻訳した2001年にはじまった。
その時、彼はヤンゴンの日本大使館の図書館に勤務していた。ある日そこで、『風の歌を聴け』の薄い原著と衝撃的な出会いをはたした。彼はすっかりその本に引き込まれてしまい、空いた時間を充ててミャンマー語に翻訳した。
訳し終えると、彼はそれを月刊誌に分けて掲載した。後にそれは書籍として一冊にまとめられた。
その本が翻訳書として世に出ると、瞬く間に読者を獲得したとYe Mya Lwinは言う。この成功に促された彼は、四か月をかけて『ノルウェーの森』と『海辺のカフカ』の翻訳を完成させた。どの翻訳書も約1,000部が売れた。
「村上の作品は、他の著者の書く、愛や憎しみ、結婚や離婚とは違っている。彼の書き方は独創的で、個人的なんだ」とYe Mya Lwinは言う。
彼にとって、村上の本は何度も再読を促す力を持っている。 ある種の人びとは、作品の重層性や登場人物のキャラクターを理解したくて、何度も読み返すのだ。
あるファンもこの意見に同意する。
「たいていの作家は、キャラクターを現実のそれよりもはっきりと描く。村上は違う。村上の小説の登場人物は、普通の人たちだ。僕は普通の人間だから、彼の本が好きだ」とMyo Tayzar Maungは言う。
熱心な村上の読者の彼は、『海辺のカフカ』がお気に入りだ。最初は英訳で読んで、次にMoe That Hanによるミャンマー語訳を読んだ。
 Nyi Nyi Shatは、友人が熱心に薦めてきたのがきっかけで読んだ村上の短編集にすっかり夢中になった。
「村上の短編は他とは違うんだ。彼はシンプルな言葉で精巧な作品を作り上げる」とNyi Nyi Shatは説明する。
村上の翻訳書の成功により、翻訳者たちは良質な本を世に出すため、著作の全訳化に取りかかった。村上の作品の著作の大半は、今やミャンマー語訳で読むことができる。
『スプートニクの恋人』、『めくらやなぎと眠る女』、『走ることについて語るときに僕の語ること 』、『ノルウェーの森』、『海辺のカフカ』、『1973年のピンボール』、『国境の南、太陽の西』等々。

翻訳者に会う
Ye Mya Lwinは、政府が彼に科学を学ばせるために岡山大学に留学させた際に日本語を学習した。その頃、彼は学校教師で、国費留学生として選抜された。
クラスでは、日本語が不自由なため、気恥ずかしい思いをしていた。タイから来た国費留学生の女性は、日本語をよく習得していた。彼女に日本語を教えてくれるよう頼んだが、断られた。
「彼女は、私に教える時間がないと言った。とくにミャンマー人の私には。タイ人の彼女にとって、ミャンマー人の私は敵だと言ったよ」
この出来事は、彼女より日本語が上手くなるように、彼を発奮させることになった。今の彼のように、彼女が村上の著作を翻訳できたかどうかはわからない。
 Ye Mya Lwinは、ミャンマーにおける日本文学の紹介者として知られている。
1981年に日本に留学していた時、日本の偉大な作家、夏目漱石の『坊ちゃん』をたまたま手に取った。
1983年にモン州のモーラミャインの家に戻ると、彼は翻訳に取りかかった。
「日本から本を持ち帰ったのは、いつも雨が降っていたからだよ。酒を飲むか、何か書くかしかやることがない。だから、私は翻訳をはじめたんだ」
 Ye Mya Lwinはヤンゴンに行き、『坊ちゃん』を書籍化してくれる出版社を探した。だが、どこも文学の世界で実績のない彼の原稿を書籍化することに乗り気ではなかった。結局、彼は妻の金の鎖を売った金で、1985年に自費出版した。この本はその年の"National Literary Award"を受賞した。
表紙の擦り切れた『坊ちゃん』の翻訳書は、ノースダゴンにある彼の自宅のガラス製のキャビネットに恭しく収められている。
彼は自分の翻訳にはアドバンテージがあると考えている。
「アジアの作家によって書かれた本は、西洋の翻訳者には完全に訳すことはできない。アジアの文化は、本質的に西洋とは異なるからだ」
「日本語からミャンマー語のように、直接翻訳するのは、木に生った新鮮な果物を食べるのに似ているが、英語に訳された本をさらに翻訳するのは、リスが地面に落とした果物を食べるようなものだ。もっとも、本物の果物の香りは原語でしか味あえないと言う人もいるかもしれないがね。彼らに言わせれば、翻訳者は嘘つきということになる」
Ye Mya Lwinは、これまで70冊を越える日本の本を翻訳した。その中には、ノーベル文学賞を受賞した川端康成の本や『ビルマの竪琴』がある。『ビルマの竪琴』の翻訳によって、彼はミャンマーで広く知られるようになった。
村上の言葉と戯れることは、明らかに彼を刺戟したようだ。 Ye Mya Lwinは、翻訳の困難さに向き合った先に、自分自身で小説を書くことを考えている。彼は書くことの困難さに向き合い、乗り越えることを成功よりも楽しんでいる。これからの氏の活動に期待しよう。

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