2021年12月31日金曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーバードライブ』11

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  待ち合わせの場所は、ダウンタウンのギャラリー〈Burm/art〉だった。マハバンドゥーラ通りの東端にあるそのギャラリーは、現地に住むアメリカ人女性が運営していると聞いた。
 ギャラリーでは個展が開催中だった。磁器の立体作品がいくつかの台座の上に置かれていた。壁に取り付けられた作品もある。台座の上の作品群は、植物と女性像や人体パーツが融合した不思議なフォルムのものだった。ぱっくり開いた大きな傷口を持つトルソーには、内部から伸びた枝が複雑に交差し、葉を茂らせ、棘を尖らせ、花を咲かせていた。壁に取り付けられた蛇をモチーフにした作品群も胴部から触手のような突起が飛び出し、葉と花が絡みついた内臓を備えていた。
 面会の約束をしていたSoe Mayの作品だった。彼女はアメリカのアート誌に「注目すべき三〇歳未満の三〇人のアーティスト」の一人に選出されたこともある。日本でその記事を読んだ私は、今回の面会を申し込んでいた。アメリカとミャンマーを行き来している彼女は折良く私のミャンマー訪問時に一時帰国していた。
 ギャラリー内の壁で仕切られた事務スペースから二十代後半の中国系の女性が現れた。
「Soe Mayさん?」と私は声を掛けた。
「連絡してくれた日本の人?」と彼女は言った。
「そうです。お会いできて嬉しいです」
 背は高くないが恰幅が良い体型で、セミロングに伸ばされた髪は額で横分けされていた。化粧気はない。Vネックのシンプルな黒のワンピースを着ていた。
 彼女の促すままに傍のテーブルを挟んで向かい合わせてに腰掛けた。
初対面の挨拶を済ませると展示されている彼女の作品について尋ねた。「磁器の立体作品ばかりなのは何か理由はあるの?」
「私は中国系ミャンマー人の三世としてここで育ったの。私の実家は、ここの近所のチャイナタウンにある。家には先祖の代から伝わる花瓶や茶器があって、磁器は身近な素材だった」
「自分の民族的なアイデンティティを反映させるためにこの表現を選んだ?」
「最初はそんな深い理由はなかった。創作を始めたのも化学を学ぶつもりでシアトルに留学したんだけど、定員いっぱいで入れなくてファインアートの学科に入ったのがきっかけ。いろいろと試してみたけど、絵筆でカンヴァスをなぞるより、手で直接粘土を捏ねる方がしっくりきたの」
「人体のパーツと蛇が作品のモチーフになってるけどこれはなぜ?」
「人体パーツの作品はある種の自己像ね。伝統的なミャンマーの社会が求める女性性に対する違和感や自分の内側にある他者性が表れている。蛇はいろんな意味に表彰化されることに惹かれるの。邪悪さの象徴とも吉兆とも見られる。ミャンマーの神話では守護神のひとつでもある。そしてわたしの干支は蛇なの」
「二つとも君のアイデンティティに根ざしてるんだ。どちらのモチーフにも内部が露出してて中に植物のようなものが見えるね」
「自分の経験や精神性のいろんな要素が出てきたみたい。受けた傷と生命力、死と再生、儚さと永遠性、どうとでも解釈できるけど自然に湧き出てきたものなの。作ってるうちに自分のアイデンティティが自然に現れた感じ」黒めがちな瞳を真っ直ぐに向けて彼女は答えた。「故郷を離れて創作を始めたアメリカでの孤独感や疎外感、それ以前にも、ビルマ人がマジョリティであるミャンマー社会に、中国系ミャンマー人として完全に溶け込めなかったことも関係してるかもしれない」
 対立する多様な要素を含みながら、それらを一体化した彼女の作品は彼女の出自や経験も反映されているようだ。「君の作品にはミャンマー的な土着性と同時に世界に繋がる普遍性も感じさせる。閉じられた部分と開かれた部分が両立している。それは君が中国系ミャンマー人であることやアメリカでの経験が反映されたからなんだ」
「おそらくそうなんだろうけど、あまり自己分析はしないことにしてるの。それが足枷になって作品の幅が狭まるのを避けたいから」
「それもそうだね」と私は答えた。「ところで僕は日本の福岡というところに住んでる。あまり知られてないけどヤンゴンの姉妹都市でもある。ここに福岡南アジア美術館という南アジアの現代美術に特化した市営の美術館がある。ここに作品を収蔵することに興味がある?」
「その場所もその美術館のことも知らないけど、公営の美術館に私の作品が展示されるのは魅力的ね」
「それにASEAN各国からレジデンス・アーティストも招聘している。一定期間住んで、創作活動のためのアトリエが提供されるし、ワークショップを開催することもできる。よかったら向こうに、いま受け入れ枠があるかどうか確認してみるよ」アメリカのアート誌に取り上げられた実績のある新進アーティストなら美術館側も受け入れに積極的だろうと予想して提案してみた。
「制作拠点にしてるアメリカとASEANで最大の現代美術のマーケットのあるシンガポールでの活動で手一杯だから日本のことは考えたことがなかった」と彼女は戸惑いがちに答えた。「ミャンマーには条件に合う窯と粘土素材がないからシアトルの工房を借りて制作してるんだけど、そうした制作に必要な環境は用意してもらえるの?」
「大丈夫だと思う」
「考えてみるわ。アメリカよりも日本の方が近いから制作拠点としては便利だし」
「それに東京より福岡の方が南アジアに立地が近い分、文化的な親和性がある。日本で初めてアジアの現代美術展が開かれたのも福岡だし」さらにひと押ししてみた。彼女の創作するユニークな立体作品を東京よりも先に紹介したかった。「帰国したら担当の学芸員と相談してみる」 
「わかったわ。まだ、決めてたわけじゃないけど。日本に行くことは考えたことがなかったし」
「できるだけいい制作環境が準備できるよう交渉してみる」
「ありがとう。条件次第で考えてみるわ」

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2021年12月27日月曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーバードライブ』10

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 翌朝、窓から差し込む日射しで目を覚ました。外を見ると燕脂色の僧衣に身を包んだ托鉢僧達が近隣の民家を回っていた。在家の住民達が僧が抱えた鉢の中に米を注いでいる。ミャンマーで毎朝繰り返されている光景だ。
 バスルームで洗顔して外を散策することにした。ホステルのある路地から大通りに出ると向かいにカンドージー湖が見える。通りを横切って、湖のある柵内の敷地に入った。敷地内には湖を囲んで公園やレストランが点在している。
 湖上に渡された木製の遊歩道を進むうちに、賑わっている場所があるのを見つけた。そちらを目指して歩くと〈Yangon Farmers Market〉と入口に垂れ幕が掛かった広場に行き着いた。入ってみると三十あまりのテントが設置され、テント毎に様々な野菜や果物が販売されていた。見たこともない南国の果物を並べられたテントもある。フレッシュジュース、ジャム、コーヒー豆などの加工した食品も売られている。この場所で定期的に開かれている朝市のようだ。看板やパッケージに、オーガニックであること、地場産であることを謳っているのが目立った。訪れている客は、外国人とミャンマー人が半々だった。民生移管後に外国人居住者が増えて、こうしたオーガニック食品の需要も生まれているのだろう。ひと通りテントを眺めて、来た道を引き返した。
 
 宿に戻ると、一階のカフェにビル・ブラックがいた。
「おはよう、どこかに行ってたの?」そう言って、テーブルの上のMacBookから顔を上げてこちらを見た。
「湖の周りを散歩してた。朝市をやってたよ」と言うと、「ああ、あれは毎週末やってるんだ」と彼は答えた。 
 私も彼の近くのテーブル席に座った。「オーガニックとかローカル・メイドとかを強調した店が多かったけど、そういうのがこちらでは盛んなの?」と訊いてみた。
「ここに住む外国人と一部の裕福なミャンマー人相手の商売だね。まあ、うちのカフェの客層もそうなんだけど」
「ここを始めてどれくらい経つの?」と私は尋ねた。
「一年半くらいだね。その前はここの1LOで働いてたんだけど」
「ミャンマーは住んで長いの?」
「八年くらいになるね。イギリスの大学でビルマ語を学んだから、ミャンマーに来るのは当然の成り行きだった。君は観光に来たの?」
「ミャンマーは三回目なんだ。東南アジアの現代美術のリサーチのために来た。日本でアート関係のビジネスをしている」近くにいたミャンマー人のスタッフにスムージー・ボウルとカプチーノを頼んだ。
「共同経営者のプーがギャラリーをやってるからよければ紹介するよ。彼女は今シンガポールに行ってるけど、今週戻ってくる。たしか君の滞在は一週間だったよね?」
「ここには一週間泊まる予定だ。それから瞑想センターに行くつもりなんだけど。ギャラリーをやっている君の共同経営者に会えると嬉しいな。いろんなツテがあった方がいいから」
「戻ってきたら教えるよ。彼女もミャンマーにいるときは、だいたいここにいるから」
 スムージー・ボウルとカプチーノが運ばれてきた。スムージーにはスライスしたマンゴーとバナナとキウイがトッピングされていた。スプーンですくって口に含むとココナッツ・ミルクと果物の甘い香りで口内が満たされた。「ありがとう。瞑想センターに行くのは君の共同経営者に会ってからにするよ」と私は答えた。

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2021年12月14日火曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーバードライブ』9

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 チェックアウト時間の十一時前に部屋を出て、レセプションにキーを返した。コンドを出ると、スーツケースを引いてコンドと同じブロックの裏手にあるカフェ〈ブルーダイ・カフェ〉に入った。ミャンマー行きの飛行機は夜の便なので、それまで時間を潰すつもりだった。
 トンローの住宅街の一画にあるそのカフェは、近隣の若いタイ人が主な客層だった。MacBookでグラフィック・デザインをしたり、動画を編集している独立系のクリエイターらしき若者も数人いた。梁の横木が剥き出しになった天井と寄木張りのフローリングのウディなインテリアの店で、四分の一程度が物販スペースになっていた。アメリカのヴィンテージ・ウェアの古着を吊るしたラックと地元の作家による陶器が並べられた棚が置かれている。木枠のガラス窓から前庭に植えられたパームツリーとシダ植物が見える。とりあえずパスタとカプチーノを頼んだ。昨日ビールを飲んだ〈ロイヤルオーク〉の隣にあった日系の古本屋で買ったフィリップ・K・ディックの小説を読んだ。
 カフェには二時間ほど滞在した。スーツケースを引いてスクンビット通りに出て、歩道脇のエレベーターで高架を登り、トンロー駅の改札に達するまで十分くらいだった。トンロー駅からBTSに三十分ほど乗車してモーチット駅に着くと、高架を降りてバス停へと向かった。ドンムアン空港行きのエアポートバスのバス停にはすでに十人くらいのバックパッカーが列をなしていた。行列の最後尾に並んでバスを待った。午後の日射しが容赦なく肌を刺した。たえず行き交うバスやタクシーが吐き出す排ガスが周囲に沈殿していた。熱気と息苦しさで意識が朦朧としてくると、いったい自分がどこに居て、どこに向かおうとしているのかも分からなくなってくる。空港行きのA1バスが来るまで二十分ほど待った。頭がぼうっとしたままバスに乗り込んだ。スーツケースを荷物置き場に置いて、なんとか空いていた座席に座る。タイ人二割、外国人が八割くらいの割合でバスは満席だ。女性の車掌が乗客一人ひとりを回って、個別に三〇バーツを徴収して、バス券を渡していく。高速道路を三十分ほど走った後、バスは空港への連結路に沿って旋回しながら国際線ターミナル前に到着した。
 ドンムアン空港国際線ターミナル1は搭乗手続きを待つ旅行客でごった返していた。L C Cの旅客数が世界最多であるこの空港は、ASEAN各国と中国各地との定期便が発着の大部分を占めている。スーツケースを持った旅行客の行列が、チェックイン・カウンター・エリアの外側に設けられた柵を幾重も取り巻いている。通路が人とスーツケースや手荷物カートで塞がれているため、空港内を歩くのもままならない。私の搭乗便の出発時刻は午後七時半で、空港に着いたのが 午後三時半頃なので時間の余裕はあるはずだが、この様子だと搭乗手続きのためチェックイン・カウンターにたどり着くのにどれだけ時間が掛かるのかも分からない。とりあえずチェックイン・カウンター・エリア入口の反対側まで達した列の最後尾に並んだ。私の搭乗便の受付はまだ始まってなかったが、列で待っているうちにその時間になるだろう。
 二時間あまり並んで、チェックイン・カウンター・エリアの内側に入った。カウンターで搭乗手続きを済ませ、スーツケースを預けた。搭乗時間まで一時間半程度あったので、空港内のフードコートでグリーンカレーを食べ、シンハービールを飲んだ。
 搭乗ゲート前のロビーの座席もほぼ満席で空いてるシートは少なかった。床に座り込んでスマートフォンを触っている乗客も多い。
 搭乗ゲートから離れた場所の空いている席を見つけて座った。搭乗時間まで一時間あまりあるので、カフェで読んでいたフィリップ・K・ディックの小説の続きを読んだ。荒廃した火星で日々の暮らしに苦闘する地球からの移住者や未来を幻視する自閉症の少年が登場するが、移動で疲れているせいかストーリーの展開が頭に入らない。
 読書に集中できなくなると周囲を見渡した。ミャンマー行きの複数の定期便のための搭乗ゲート並ぶ出発ロビーなのでここで待つ乗客はミャンマー人が多かった。ある程度裕福なミャンマー人にとってバンコクは手近な買い物エリアとなっている。特に若いミャンマー人にとっては、最新のファッションや風俗に触れられる先端エリアとして人気が高い。
 予定の出発時間を三十分ほど過ぎてから搭乗開始のアナウンスがあった。搭乗ゲートをくぐって、外に横付けされたランプバスに乗り込む。駐機場を横切って、タラップの付けられた機体前にバスが着くと、乗客はめいめいバスを降りて、タラップを登り、機内に入っていく。
 ノックエアDD4238便は定刻より三十分あまり遅れて離陸した。バンコクの高層ビル群と渋滞した車のヘッドランプの連なりが織りなす夜景が遠ざかると、窓の外は闇に包まれた。離陸して一時間ほどで機体はヤンゴン上空に達した。街の上空を飛んでいるはずだが眼下の光はまばらだった。ただ、ライトアップされて黄金色に輝く巨大な仏塔シュエダゴン・パゴダだけが闇の中で光を放っていた。
 ヤンゴン国際空港に到着したのは午後九時前だった。イミグレーションの列に並ぶ人間の数はそう多くなく、十五分ほどで入国できた。空港で手持ちの米ドルを現地通貨のチャットに両替し、スマートフォンを使うために五〇〇〇チャット分のプリペイドカードを買った。ミャンマーに来るのは三回目で、現地キャリアのS1Mカードはすでに持っているため、必要分をチャージをすればいい。
 スーツケースを引いて入国ロビーに出るとタクシーの運転手が次々と群がってくる。ミャンマーでは、タクシー運賃は料金交渉をして決める。空港発のタクシーは、相手側が強気になるため、運賃が割高になる。スマートフォンで配車アプリのGrabを起動してみたがディスプレイ上に車が現れない。空港からの利用客には相場より高い料金を請求できるため、システムが料金を自動計算するGrabを使わせないのが不文律となっているようだ。空港の敷地外の通りまで出てGrabを使うという方法もあったが、朝からの移動で疲れていたので気が進まなかった。何人かのドライバーと交渉して、宿まで一万チャットで折り合った。相場より二、三割割高だがしかたない。
 空港を出発した車はピーロードを南下して進んだ。まばらに並んだ蛍光灯の街灯が街路を仄暗く照らしている。インヤー湖に差し掛ると湖の尽きるところで左折してインヤロードに入った。前方に黄金色に輝くシュエダゴン・パゴダが見える。パゴダを覆うのは本物の黄金で、肉眼では見えないが尖頭部分の装飾にはダイヤモンドやルビーなどの宝石が七〇〇〇粒以上ちりばめられていると聞く。ASEAN最貧国であるこの国の富のすべてをこの仏塔が吸い込んでいるような気がしてくる。
 タクシーが予約していたホステル〈Bodhi Taru〉の前に停車した。通りの両側に四、五階建てのローカルアパートメントが並ぶ裏通りだった。僅かな街灯に照らされた薄暗い通りの先に、黄金色のシュエダゴン・パゴダが輝いている。
 ホステルは一階がカフェで、二階が宿泊施設となっている。一階部分は一面のガラス張りなので、天井から吊るされた暖色の白熱灯に照らされた内側が見渡せた。十席ほどの木製のテーブルとソファが三席、奥は右側がキッチンカウンター、左側に二階の宿泊施設に通じる階段が見える。カフェの営業時間は過ぎていりようで客はいなかったが、三十代半ばの白人男性が奥のテーブルでMacBookを開いていた。
 中に入って「今夜から宿泊予定なんだけど」と声を掛けると、立ち上がって「ああ、予約していた日本人だね。ようこそ。僕はオーナーのビル・ブラック」と言った。立つと身長が百八十センチ近くあるのがわかった。金髪の長髪を後ろで縛ってポニーテールにしていた。細面の顔にボストン型の眼鏡が載っていた。欧米人にしてはスリムな体型だった。どことなく三十代の頃のジョン・レノンを思わせる風貌だ。アクセントと雰囲気からおそらくイギリス人だろうとあたりをつけた。
「案内するよ」彼はそう言って、カウンター下からキーを取り出した。彼の後に付いて奥の階段を登った。ドミトリーが二室、個室が二室の小規模なホステルだ。宿泊サイトで予約したが、空いていた個室を予約していた。キングサイズのダブルベットが置かれたシンプルな内装の部屋だった。バスルームとトイレは共用のため部屋内にはない。テラスに面した窓からミントグリーンに塗られた向かいの民家が見えた。
「じゃあ。明日の朝も下のカフェにいるから何か用事があれば遠慮なく言って」そう言うと下に降りて行った。
 ビールが飲みたかったが周囲に買えそうな売店はなかった。朝からの移動で疲れていたので、共用のバスルームでシャワーを浴びて、歯を磨くとすぐに寝た。

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2021年11月12日金曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーバードライブ』8

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 トンロー駅前で配車アプリのGrabを使ってタクシーを捕まえた。タイでは流しのタクシーを使った方が安くつくが、目的地が説明しにくい場所なのでGrabを使うことにした。東南アジアをサービスエリアとするGrabは、ライドシェアサービスのUberとは異なり登録されたタクシーを呼びだすことができる。走り出して三十分ほどで、車は仏教寺院ワット・マクット・カサッティリヤーラームを右に見ながら、ラマ八世橋を渡り、チャオプラヤー川を越えた。東南アジア特有の茶色く濁った川面を午前のやわらかな陽射しが鈍く光らせていた。タイで川向こうに出ることは滅多にない。チャオプラヤー川沿いは、川を見下ろす眺望を備えたラグジュアリー・ホテルが立ち並ぶエリアだ。市街地の対岸にもペニンシュラやミレニアム・ヒルトンといった富裕な観光客向けのホテルがあるが、もちろん私には無縁の場所だった。
 Kotchakorn Maleeと会うのは二回目だ。一年前にヤンゴンのカフェで会ったのが最初だった。そこで、ドイツ人の写真家が植民地時代から残るヤンゴンの歴史ある建造物を撮影した写真をスライドで写し、それについて解説すイベントが開催されていた。リサーチのためヤンゴンに滞在していた時に、Facebookの告知を見て、参加した。会場となったカフェも植民地時代の建物ををリノベーションしたものだった。高い天井に大型の扇風機が取り付けられたボールルームのような広いスペースが、コロアニアル・スタイルのインテリアで飾られていた。中にはチーク材で作られた大きなテーブルが十台ほど置かれていた。たまたま座った席の隣にいたのが彼女だった。
「あなたは日本人? わたしはタイから来たの」と向こうから話しかけられた。ショートカットの二十代の女の子だった。オーバーサイズ気味のレモンイエローのカットソーに、程良く色落ちした太めのストレート・ジーンズを合わせていた。こうしたこなれたカジュアル感は、ミャンマーの同世代の子にはない。
「そう日本から来た。君はどうしてここに来たの?」と私は尋ねた。
「昨日、このカフェに来た時に、イベントがあるのを知ったから。ヤンゴンへの移住を考えてるの。今住んでるのはバンコクなんだけど」と彼女は答えた。
「仕事を求めてヤンゴンからバンコクへ移住するミャンマー人は多いけど、その逆は聞いたことがないな。でもどうして?」
「ピカピカの大きなビルがどんどん建てられてるバンコクが好きじゃないから」軽く唇を歪めて、そう答えた。東南アジア人にしては彫りが浅い顔だった。ただ、黒目がちな大きな瞳は東南アジア的な特徴を備えている。おそらく中国系のハーフかクオーターだろう。「ここはバンコクよりのんびりした空気が流れてて、そこに惹かれるの」
 たいていのミャンマー人は–––特に事業活動をしているミャンマー人は–––ヤンゴンが
バンコクのようなビルが立ち並ぶ、資本の集積地になることを望んでるんだけどなと思ったが黙っておいた。何に幻想を抱くかは人それぞれだし、結局のところ人は今目の前にないものを求めるものなのだろう。
「あなたはどうしてヤンゴンに?」
「タイとミャンマーの現代美術についてリサーチしている。今は東京のギャラリーに勤めてるんだけど独立を考えているんだ。東南アジアの現代美術を日本に紹介できないかなと思ってる」
「わたしもバンコクに小さなアトリエを持ってるの。友達とグループ展を時々開いてるわ。もし、バンコクに来ることがあったら訪ねてみて」
「いつもヤンゴンに来る前にバンコクに滞在しているから今度お邪魔するよ」
 Facebookで繋がったので、バンコクに来る時はメッセンジャーで連絡すると言った。そのとき話した通り仕事を辞めて独立準備中の身となった私は、一年前の約束を果たそうとタクシーを走らせていた。
 チャオプラヤー川を渡ってから十分くらいで目的地に着いた。観光客がまず足を踏み入れることはない郊外の住宅街の路地裏だった。スクンビット通りに林立するコンビニエンス・ストアもここでは見かけない。門柱の前に立つと、スマートフォンで到着したことを告げた。
 横手の小さな鉄門の閂を開けて出てきた彼女は杢グレーのタンクトップとショートパンツ姿だった。午前十一時頃だったが、まだ寝起きの顔をしていた。シャワーを浴びたばかりなのか、まだ髪が湿っている。再会の挨拶をすると、内側に通された。外壁は煉瓦造りで、通りに面して小さな丸窓が付いた建物だった。建物前の駐車スペースには車がなかった。築三十年は経っている民家で、一階がアトリエとして使われていた。壁には制作途中の作品のカンヴァスがいくつか無造作に立て掛けられていた。パウル・クレー風の淡い色彩の抽象画だった。小さなテーブルに置かれたPCの画面には、ジャン=リュック・ゴダールの『中国女』の映像が流れていた。
「昨日遅くまで絵を描いてたから、さっきまで寝てたの」湿った髪をいじりながら彼女は言った。「もうすぐ友達と合同展示会をやるの」
「ここに展示するの?」ここを会場にするなら、展示できる作品数は限られそうだ。
「ここは狭いから、友達が働いてるホステルを借りるわ」と彼女は答えた。「あとで打ち合わせに行くから一緒に行く?」
 迷惑じゃなければと私は答えた。
「大丈夫。みんなフレンドリーだから。じゃあ、軽くランチを食べてから行きましょう」
 彼女に促されるまま、奥のキッチンのある小部屋に入った。小さなテーブルを差し向かいに座って、彼女が皿に盛ったカオマンガイ
を食べた。
「どう?」と彼女は訊いた。
「美味しい」と私は答えた。実際、鶏肉はジューシーだし、ご飯はナンプラーの風味が程よく効いていて、店で食べたのと遜色がなかった。
「ここに越してから毎日自炊してるから、腕が上がったわ」彼女は微笑んだ。
「ここに住んでどれくらいになるの?」と私は尋ねた。周囲に住居しかない郊外の鄙びたエリアに、二十代の女の子が一人で住んでいることが不思議だった。
「二年くらいね。その前は街中に住んでたんだけど、ビルが立ち並ぶ風景と騒がしいのが嫌で引っ越したの」
 去年、ヤンゴンで彼女と会った時に、バンコクの喧騒を逃れるためにヤンゴンに移住したいと言っていたのを思い出した。「そういえば、ヤンゴンに住むのはどうなったの?」
「長期滞在できるビジネス・ビザが取れなくて諦めた。アパートも探しもしてたんだけど」と彼女は答えた。ミャンマーでビジネス・ビザを取るには投資企業管理局(Directorate of Investment and Company Administration)に登録された企業の推薦状が必要となる。
「ミャンマーの会社で、わたしのために推薦状出してくれそうなところ知ってる?」と彼女は訊いた。
「残念ながら役に立てそうもない。今まで三回行ってるけど、アート関係者としか会ってなくて、ビジネスパーソンとは縁がないんだ」と私は答えた。ギャラリーや展示会巡りしかしていないので、現地の日本人駐在員や起業家とはまったくと言っていいほど接点がなかった。
「そうなの。ヤンゴンは諦めてもうしばらくバンコクに住むことにする」
 昼食を済ませると、彼女は着替えと化粧のため二階に上がり、私はコーヒーを飲みながらキッチンで待っていた。勝手口の先に小さな庭が見えた。草むらの上に、錆びた子供用のブランコが打ち捨てられたように置かれている。先住者が残していったのだろう。
 二階から降りて来た彼女は、ふんわりしたパステルブルーのワンピースを着ていた。淡いベージュのアイラインを引いて、ライトピンクのリップと同系色のチークを塗っていた。二人で家を出て、路地を抜け、大通りまで出てタクシーを拾った。彼女が運転手に行き先を告げると、今度はプラ・ポック・クラオ橋を渡り、チャオプラヤー川を越えた。十五分ほど走って着いた先は、彼女の家のちょうど対岸にあたるカオサン地区の外れにあるホステルだった。屋上庭園のある二階建ての鉄筋の建物で、ピロティとなったエントランス部分にはウッドデッキが敷かれていた。デッキの上には、ガーデンテーブル、チェアと数台の自転車が置かれている。中に入ると仕切りのない広いオープンスペースが広がっていた。入口正面の奥がレセプション、残りのスペースをギャラリーが併設されたカフェが占めている。高い天井から多数の電球が吊るされ、所々で星座のような模様を形作っていた。世界各地からやって来たバックパッカーたちが、カフェやテラスでスマートフォンやノートPCを操作していた。
 カフェ・スペースの席に着くと、彼女はバブルティー、私はマンゴージュースを頼んだ。
「友達を紹介するわ」彼女はカフェのスタッフに手を振った。二十代の長髪で背の高い青年だ。テーブルに近づいてきた男の子に向かって言った。「彼はテンゴ、日本からタイのアートをリサーチしに来たの」そして私に彼を紹介した。「こちらはヴァン。ここで働きながらアーティスト活動をしてるの。アート仲間の一人よ」
 私がヴァンと握手すると、彼はKotchakornの隣の席に座った。ネイヴィーの無地のTシャツと色落ちしたジーンズ姿に、履き古したエア・ジョーダンを履いていた。 
「これから、ここでやるグループ展の打ち合わせがから仲間が来るよ」と彼は言った。「僕の前の作品は、あそこのギャラリースペースに展示している。今は新しいシリーズに取りかかっている」そう言って、ギャラリースペースを指さした。
 席を立って、展示されている作品を見てみた。彼の名前が記された名札が付いた作品は、タイの神話をモチーフにしたらしいスピリチャルな画風の絵画だった。その他にも、絵画やオブジェが展示されていた。ギャラリー・スペースは三〇平米メートル程度で、そう広くない。アート作品の展示の他に、タイのクリエーターによるオリジナル雑貨が販売されている。アート作品については、美大生の習作の域を出ていないように感じられた。
 しばらくして、グループ展の仲間たちがカフェにやって来た。全部で、男の子が三人、女の子が二人の、二十代のグループだ。みんな中産階級の子らしいこなれたカジュアルなファッションだった。タイ語なので内容はわからないが、おそらく展示方法や各人の展示する作品数を話し合っているのだろう。新たな美術運動を目的としたグループというよりも、アマチュアの同好会的なサークルという雰囲気だ。アートへの関心が高まっているタイでは、こうした同好会的なサークルが数多く同時発生しているのだろう。これまでの急激な経済成長が踊り場に達したタイが、文化的な成熟期に入っていることを実感させる。
「この後みんなでご飯食べに行くけど、一緒に行かない?」Kotchakornが私に訊いた。
「ありがたいけど、明日はミャンマーに行かくから遠慮しとくよ」と私は答えた。みんな英語が達者なものの、ただ一人タイ語のできない私がいて気を使われるのが気詰まりだった。
「残念、またバンコクに来る時は教えて。今度日本に行く時は連絡する」とKotchakornが言った。
「また来ると思う。日本に来る時は教えて。今日は楽しかった、ありがとう」いくぶん多めにタイバーツ紙幣をテーブルに置いて、テーブルを離れた。
 外でタクシーを拾って、運転手にプロンポン行きを告げた。BTSの駅前で降りて〈ロイヤルオーク〉に向かった。夕方の早い時間にも関わらず、ハッピーアワーでビールの割引があるせいか、店内は外国人客で賑わっていた。外国人夫婦の客もいれば、タイ人のガールフレンドを連れた中年の外国人男性もいる。店の喧騒を眺めながらタイガービールをジョッキで三杯飲んだ。

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2021年11月2日火曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーバードライブ』7

 

第二章
7

 タイでのあと一件のアポイントメントは三日後だった。その間にバンコクの街を歩いて回った。
 プラ・スメン通りは、〈タイランド・ストレージ〉のKullaya Wongrugsaが言うとおり、新たなギャラリーの集積地となっていた。ギャラリーはカフェなどに併設された小規模なものが多い。カフェは中産階級と思しきタイの若者で賑わっていた。在学中の美大生や卒業して間もない若いアーティストの作品の展示が中心だ。経済成長が一段落して、踊り場を迎えたこの国の若者の関心がアートなどの文化的な方向に向かっているのが見て取れる。同じ通りのセレクト・ブック・ストアには、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェやジュノ・ディアスの英語版のペーパーバックと村上春樹のタイ語訳の著作が棚に並んでいた。同時代の世界文学の潮流を反映させた棚作りだ。こうしたオーナーの嗜好や関心が店の品揃えとして表現されている独立系書店は、ある程度、文化が成熟した世界各地の都市で見かける。隣国のミャンマーのような途上国ではこうした本屋はない。
 コンドのあるトンローから隣駅のエマカイにかけて、セレクトショップ、古着屋やサードウェーブカフェが点在している。セレクショップではエンジニアド・ガーメンツのシャツ、古着屋ではビームスやユナイテッド・アローズのワンピースを見つけた。バイヤーが日本にも買い付けに来ているようだ。トンローの路地にタイファンクや伝統音楽のモーラムやルクトゥーンを専門に扱う中古レコード屋があった。こうした音源はフィジカルでないと入手できないため、世界中からDJやコレクターが買い求めにやって来る。テキサスのサイケ・ファンク・バンド〈Khruangbin〉のように、こうしたタイの民族音楽に影響受けた国外のミュージシャンも二〇一〇年代に入ってから現れ始めている。
 バンコク郊外のシーナカリンのナイトマーケットの広大さには圧倒された。平安時代の日本の学僧が大唐西市の、あるいはヴェネツィア共和国の商人が元の大都宮城の市場の賑わいを見た時に同じ驚きを感じたかもしれない。
 鉄道駅の跡地で開かれているナイトマーケットは、あらゆる形と色のネオンや照明に照らされた無数の店が見渡す限り立ち並んでいる。市場は、屋台、レストラン、雑貨などのテーマ毎にエリア分けされていて、古い倉庫を店舗に改装したヴィンテージ・エリアでは、一九五〇年代のキャデラックやシボレーが展示・販売されていた。こんな車は映画でしか見たことがなかった。このエリア付近のレストランは、アメリカのダイナーを模した建物だった。これほど広くはないものの、バンコクには他にも大規模なナイトマーケットが少なくともあと五つはある。とても一週間の滞在では回りきれなかった。
 トンローの隣駅プロンポンのアイリッシュ・パブ〈ロイヤルオーク〉はいつも欧米人の客で賑わっていた。コンドのプールでひと泳ぎした後、昼はここのオープンテラス席でビールを飲んで、ハンバーガーを食べるのが日課になった。パブは日系のスーパーマーケットの側にあるため、日本人の駐在員の家族がよく目の前を通り過ぎるのが見えた。昼間からビールを飲んでいる自分が、彼らから遠く隔たった場所にいるのを感じた。

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2021年10月25日月曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーバードライブ』6(2)

第二章
6(2)

 約束の時間が近くなったので、二階から降りて一階の入り口に面した部屋まで戻った。大理石でできた丸テーブルの傍で、三十代前半の洗練された雰囲気のタイ人女性がスタッフらしき中年女性と話していた。
「Myria Aromdeeさんでいらっしゃいますか?」と私は話しかけた。
「Myriaです」と彼女は答えた。
 意志的な眼差しと、くっきりした眉が印象的だ。化粧気はない。長く伸ばされた黒髪は額の中央で分けられ後ろに束ねられている。中肉中背の引き締まった体は黒のプラダのナイロンドレスで包まれていた。ノースリーブのドレスから伸びる腕には無駄な贅肉がなく、適度な筋肉が付いていた。おそらくジムで鍛えているのだろう。靴はナイキの黒のスニーカーだった。
「メールで面談のお約束していた小林です」
と私は言った。近づくとウディ系のフレグランスの香りが漂ってきた。
「ああ、日本の方ね」と彼女は言った。「たしかタイの現代美術をリサーチしているとメールに書いてたわね」
「ええ、東南アジアの現代美術を日本のコレクターに紹介するつもりです。タイの有望な作家がいれば。南アジアの現代美術を専門とする日本の美術館へ購入や展示を仲介しますよ。逆に日本の作家の作品をタイのコレクターに販売することも考えています」
 彼女はフロア奥にあるチーク材でできた八人掛けのテーブル席を指し示した。私が椅子に座ると、テーブルを挟んだ向いの椅子に腰掛けた。「日本にタイの現代美術は知られているの?」
「残念ながらまだあまり知られていません。東南アジアの現代美術は未開拓な分野です。だからやり甲斐があるとも言えます」
「日本への進出は考えたことがなかったわ。来年、アートバーゼル香港に参加するのを検討してたけど。ここで売ってる陶器は日本で買い付けた物もあるの」
 地酒の容器が含まれているセレクションからしてしっかりした骨董品店で購入してはないだろう。おそらく買い付けは古道具屋などでされていると予想したが、もちろん口には出さなかった。日本にもヨーロッパの蚤の市で買い付けた日用雑貨を、ヴィンテージやアンティーク風に装って売りつける業者がいるのでとやかく言えない。
「日本の福岡という場所に住んでますが、ここには福岡南アジア美術館という南アジアの現代美術に特化した、世界で唯一の美術館があります。モンティエン・ブンマーの作品もここに収蔵されてますよ」
ふうんと彼女はあまり興味のなさそうな返事をした。「私は美術館で扱うような作品よりも、もっとコンテポラリーなものに関心があるの。ここで新しい作家を育てて、世界的に有名にするのが目標よ」
「なるほど。このスペースは作ってどれくらい経つのですか?」と私は話題を変えてとっかかりを探した。
「完成したのは去年ね。昔、祖父母が住んでた屋敷をリノベーションしたの。見ての通り敷地までの道が狭いから工事や物品の搬入は大変だった」
「お会いする前にひと巡りしましたが、個人宅としてはとても大きいですね」
「祖父は貿易商として成功していたわ。元あった家にも、世界中から集めた工芸品や雑貨で埋めつくされていた。小さい頃、両親に連れられてこの家に来ていた私はいつもそれを興味深く眺めてた。それが海外の大学に行った理由のひとつだったかもね」
「どこの国の大学に行きました?」と私は尋ねた。
「十年前にFⅠT(Fashion Institute of Technology)を卒業したわ。ニューヨークにある学校よ。知ってる?」
「名前くらいは」と私は答えた。
 話し方や態度から、私との会話に気乗りしないのが窺えた。おそらく彼女の早口のアメリカン・アクセントの英語を聞き取れずに何度も聞き直したのも関係しているだろう。東南アジアで英語が不自由な人間は、教育水準と社会階層が共に低い人間とみなされる。日本のような翻訳文化がないこれらの国では、英語力は受けた教育の程度を示す指標であり、文化資本にアクセスするための必要不可欠なツールだからだ。英語が堪能でないと、相対性理論もニーチェもダミアン・ハーストも知らない人間だと自動的にカテゴライズされる。
「FⅠTではヴィジュアル・プレゼンテーションと展示デザインの学科を選んだ。そこで学んだことはここを作るときに役立ったわ」
「卒業後はすぐにタイに戻ってきたんですか?」
「それから五年間、ロウワー・イースト・サイドのギャラリーで働いたわ。ニューヨークのギャラリーには行ったことがある?」
 ないと答えると、彼女の私に対する評価はさらに目減りしたようだった。
「現代美術の仕事をしてるなら行くべきね」と彼女は言った。
「経済的な余裕ができれば行きたいと考えてます。ニューヨークの滞在費は、私には高過ぎる」
「タイだとアート関係者は、ほぼお金持ちなんだけど日本ではそうじゃないみたいね」
「日本は別にお金がなくたって文化情報にアクセスできる国ですよ。公営の美術館がタイよりも充実してる。英語が得意じゃなくても、ガゴシアンやハイザー&ワースがニューヨークのトップギャラリーであることは知ってる」と私は答えた。
 彼女は相変わらず、私の言うことには関心がないようだった。これ以上ここに居ても進展が望めないので、面談に応じてくれた礼を言って、外へ出た。湿度の高い空気が体を包み、熱帯の日射しが肌を刺した。

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2021年10月19日火曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーバードライブ』6(1)

第二章
6(1)

 スマートフォンでグーグルマップを見ながら目的地を探したが、それらしき建物が見当たらない。チャオプラヤー川沿いの、元は倉庫街だったエリアにあるギャラリーが目的地だった。昼過ぎの日射しを浴びながら、最寄り駅のサーバタクシンからここまで歩く間に汗まみれになった。
 辺りを何度か行きつ戻りつしていると、車一台がようやく通れる幅の小道があるのに気が付いた。道の両側は植えられたシダ類の熱帯植物が繁茂している。個人宅の引き込み道かもしれないので躊躇ったが中に入ることにした。五〇メートルくらい前に進むとガラス張りの大きな二階建ての木造建築が現れた。入り口の上に「Warehouse 54」という真鍮製の切り文字が取り付けられている。ここで間違いなかった。
 大きなガラスのドアを開けて中に入った。人影が奥のカウンターに見えたが、約束の時間には間があったので、建物内をひと巡りすることにした。元は広大な邸宅だった物件をリノベーションして展示スペースやギャラリーに転用したようだ。床はコンクリートの打ちっ放しで、入り口近くに直径が二メートル近い大理石の丸テーブル、その後ろに八人掛けのチーク材で作られたダイニングテーブルが置かれている。吹き抜け構造の建物の中庭は四面をガラスで囲まれていて、内側にガーデンテーブルとチェアが置かれている。奥の窓からは熱帯植物の生い茂った庭園が見渡せる。庭園内に木製の支柱に支えられた祠が見えた。
 動線に従い中庭を回り込んで反対側の部屋に出ると展示スペースが広がっていた。部屋の両側に天井まで達する棚が置かれ、色とりどりの陶器が展示・販売されている。床には様々なオブジェが置かれている。タイの神話を反映したのであろうトーテムポール、木造の立体作品、壁に吊るされた民族柄の織物の間をくぐって、中庭を見下ろしながら奥に見える木製の階段を登る。
 二階は、壁を白く塗ったギャラリースペースとなっていた。こちらの床は、古材を使ったフローリングだ、絵画、写真、インスタレーションなどジャンル毎にそれぞれ別の部屋に展示している。私の他に若いタイ人のカップルが二組いた。
 タイ人アーティストによる絵画作品の横には、タイ語と英語で作家の説明文が貼られいる。複数の作家の作品が数点づつ展示されている。名前を知らない作家ばかりだった。
 壁で仕切られた一画にはインスタレーション作品が展示されていた。扇風機の作る風で大きな布がはためいている。後ろの壁には、プロジェクターでモノクロームのタイの古い風景写真が映されている。河畔を行き交う渡し船、青果市場の賑わい、タイの伝統的な様式で建てられた邸宅などが数秒壁に映っては次の写真に切り替わる。
 個人所有のスペースとしては破格の規模だ。一階の棚で展示・販売されている陶器の中には、日本の地酒の古い容器などヴィンテージとしては首を傾げるものも含まれていたが、大した瑕疵ではない。建物、調度品、什器、展示のすべてが個人の美意識により貫かれている。いったいどんな人物がこの施設を作ったのだろう?

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2021年10月14日木曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーバードライブ』5 (2)

 第二章
5(2)

 〈タイランド・ストレージ〉のオーナー、Kullaya Wongrugsaと会うのは今回で二回目だった。裕福な中国系タイ人の家系に属する三十代半ばの女性だ。ギャラリーの他に自らがディレクションするファッションブランドも立ち上げている。今日は自ブランドの赤のゆったりとしたフレアドレスを着ていた。彼女のふくよかな体型を反映してか彼女のブランドの服はルーズなシルエットが特徴だ。ドレスの色に合わせて、真紅のリップを塗っていた。パンプスの色も同系色の赤だ。ただしセクシャルな雰囲気ではない。フレームの太い黒のスクエアタイプの眼鏡を掛けた丸顔のせいか、なにかのアニメーションのキャラクターめいた印象を与えていた。
 東南アジアの富裕層は中国系が多く、家業を継ぐのは男性の兄弟であることがほとんどだ。そのため、富裕層の家系の二代目、三代目の女性が、実業を離れて趣味のアートやファッションや音楽の世界に進むのはよくあるケースだ。彼女もそうした東南アジアの富裕層に属する女性の典型例だった。
 ギャラリーでは、タイ人のグラフィック・アーティストの個展が開かれていた。極彩色のシンメトリーな幾何学模様で描かれた植物や昆虫の図像の作品が壁一面に掛けられている。どことなく田名網敬一の作風を連想させた。再会の挨拶をして、最近のタイの現代美術のトレンドを尋ねた。
「相変わらず新しいギャラリーがあちこちでできてるわ。プラ・スメン通り辺りが若い人に人気ね。ただきちんとアートを学んでないオーナーが作ったギャラリーもあるから、全部がちゃんとしたところというわけでもないけど。まだタイでは体系的に美術を学んだ人は少ないの」そう言って、肩をすくめた。  
 たしかにタイは現代美術の展示が中心で、西洋の近代美術を収蔵・展示する美術館はない。日本で人気の高い印象派やピカソやマティスのような巨匠の作品の実物を目にする機会もない。
「私は今、日本の福岡というところに住んでますが、ここには福岡南アジア美術館という南アジアの現代美術に特化した美術館があります。南アジアの現代美術を専門に扱う世界で唯一の美術館です。もちろんタイのアーティストの作品も収蔵しています」
「そこにチェンマイのアーティスト、モンティエン・ブンマーの作品が購入されて、展示されたと聞いたことがあるわ。行ったことはないけど」
「チャーチャーイ・プイピアの作品も収蔵しています。映像作家として有名なアピチャッポン・ウィーラセタクンは、福岡アジア文化賞を二〇一三年に受賞しています。福岡は、日本でアジア美術や文化の紹介に最も熱心な地方ですよ」
「面白そうな所ね。日本は東京しか行ったことがないけど。東京には時々ショッピングに行くの。ヨウジヤマモトの古着を買ったりするため。タイにはヨウジの服を手頃な値段で買えるお店はないの」
「日本のネット通販業者は国外への配達に対応してない場合があるし、英語のページすらないことも多いですからね。もし、気に入った服があったら私が買って、こちらに来る時に届けますよ」と私は返した。彼女の属するタイ人の富裕層ネットワークには、このギャラリーの顧客以外の現代美術のコレクターも含まれているはずだ。日本人アーティストの作品をタイ人コレクターに販売できるコネクションを作れる可能性を考えれば、ここで恩を売っておくのも悪くない。
「それは助かるわ。年に何度も東京に行くわけにはいかないから」
「日本の服もいいけど、日本の現代美術の作品に興味がありそうなタイ人のコレクターはいませんか? 最近、タイ人が日本の現代美術を扱うギャラリーに来ることが増えています」と私は尋ねた。
「あたってみるわ。私のクライアントはタイ人アーティストの作品を買う人しかいないけど、彼らのコレクター仲間にそういう人もいるかもしれない」と彼女は応えた。「逆にタイ人アーティストに関心のある日本人コレクターいる?」
「東南アジアの現代美術は、日本ではまだ一般的ではありません。ただ一部でタイやシンガポールのアーティストの作品を扱うギャラリーも出てきています」
「どういうタイプのアーティストが日本では人気があるの?」
「タイだとアレックス・フェイスとか良さそうです。奈良美智なんかに通じるキャッチーさとポップさがあって、マルティプルしやすいから。そういう意味で、ウィスット・ポンニミットのイラストは、すでにキャラクター商品化されて日本でも人気ですよ」
「あの絵はアレックスが五年前に描いたの」と彼女はカウンター後ろのスペースに描かれた壁画を指さした。曲がりくねった松の木を描いた絵だった。日本の屏風絵によく描かれるモチーフだが、タイで見たのはここだけだ。色使いやフォルムがポップなのは伊藤若冲の影響かもしれない。「アレックスは今は活動の拠点をLAに移してバンコクにいないし、新作は、作品購入の順番を待っている専属ギャラリーのウェイティングリストに載っていなければ、いつ買えるかも分からないわ」
「今から買うには、もう遅過ぎるかもしれませんね。世界デビューから間もないから、セカンダリー市場に作品が出てくる段階でもないですし」
 彼女のコネクションを通してアレックス・フェイスの作品を購入できるなら、福岡南アジア美術館へ購入の提案をする腹づもりだったが、あてが外れた。他にマルティプルしやすいキャッチーさやポップさを持つ新進タイ人アーティストがいないか訊いてみた。
 しばらく考えてから、「いますぐ思いつく人はいないわね」と彼女は言った。福岡南アジア美術館へ購入を推薦する作品を探していると彼女に伝えた。念のため、美術館に収蔵されればアーティストのプレステージが上がることも付け加えた。考えておく、その美術館がタイのアーティストによく知られているかどうかはわからないけど、と彼女は応えた。
 一時間あまり話したところで、彼女は手首の腕時計で時間を確かめた。スクエアタイプのピンクフェイスのカルティエだった。 
「約束のディナーまで時間があるから、その前に一杯やりたくなったわ」と彼女は言った。「よかったらご一緒しない?」
 私でよろしければ、と私は応えた。彼女は一人いた女性スタッフに何かをタイ語で伝えると外に出た。私は後を追った。
 行き先は、BACCから高架歩道に出て、一〇分ほど歩いた先にある、こちらも高架歩道と直結した複合商業施設だった。クロームのルーバーで覆われたファサードが目立つ四階建ての建物は、高級腕時計、宝飾品、ハイブランドなどのショップなどで占められている。完全に富裕層に特化したコンセプトのモールだ。
 入ったのは二階にあるワインバーだった。二階といっても天井が高い構造なので、四、五階程度の高さがある。入って左の壁一面に背の高いワインセラー置かれている。棚は隙間なくボトルで埋められていた。彼女の顔馴染みらしいウエイターが我々を窓際のテーブル席に案内した。窓からはバンコクの悪名高い渋滞が見下ろせた。
 ワインのリストを渡された彼女は私に尋ねた。「ピノ・ノワールの赤でいい? それからちょっとサイドディッシュも」
 私は頷いた。ワインには不案内なので、何も言えることはない。彼女はタイ語でウェイターに注文した。
「ここにはよく来るのですか?」と私は尋ねた。
「時々ね。ディナーの約束までの時間潰しとかに使ってるわ。今日もシェラトンのレストランで会食なの」
 ウェイターが、ミートソースを絡めたフェットチーネとトマトとモッツァレラチーズにバジルを添えたサラダの皿を運んで来た。ソムリエがボトルのラベルを彼女に見せてから、ソムリエナイフで器用にキャップシールを剥がし、コルクを抜いた。ワインがそれぞれのグラスに注がれ、我々は乾杯した。ミディアムボディに属するであろうそのワインは、私が普段スーパーマーケットで買い求めるものに比べてずいぶんと重厚な味がした。
「いま友達が九州の温泉巡りを計画してて、私も誘われてるの。行くのは来月くらい。車をチャーターして湯布院、黒川、別府の旅館に泊まるつもり。もちろん私達は日本語が話せないから通訳も連れていくけど」
 日本は中流以上のタイ人にとって手頃な観光地だ。距離的に近く、移動が楽な上に、東南アジアとは異なる異国情緒も味わえる。旅行にかかる費用もアメリカやヨーロッパに比べればずいぶん安い。東京や京都といった定番の観光地をひと通り体験したタイ人は、日本の地方都市を訪れる傾向にある。 
「楽しそうだ。九州に来るなら福岡も案内したいけど、ただ来月だとミャンマーにいる可能性が高いですね」
「ミャンマーは一度行ったことがあるわ。二泊しただけだけど。知り合いの旅行会社にモニターを頼まれたの。広報用のレポートを書くのを条件に、ホテルも移動も面倒見てもらえたわ。費用も向こう持ちだった。泊まったのはヤンゴンのストランドホテル」
 ストランドホテルは、東南アジアで最もプレステージの高いホテルのひとつだ。イギリス植民地時代に建てられたヴィクトリア様式の建物は、かつての大英帝国の威光を偲ばせる。このホテルはジョージ・オーウェルやサマセット・モームが逗留したことでも知られている。もちろん予算的に私が泊まれるグレードのホテルではない。
 ワインのボトルが空になる頃、ⅰPhoneをBAOBAOのバックから取り出して操作した。誰かにメッセージを送っているようだった。
「約束の時間が近いから、そろそろ出るわ。あなたはどうする?」と彼女が訊いた。
 私も出ると答えると、彼女はウェイターを呼んで会計を告げた。ウェイターが勘定書を持ってくると、それを一瞥して彼女はカードを渡した。勘定は私の月々の生活費の半分程度ではないかと想像した。
 ご相伴に与った礼を言うと、「いいわ。今度、日本に行く時にいろいろと教えて欲しいこともあるし」と応えた。
 エスカレーターで一階まで降りて建物を出ると、目の前の通りにシルバーのBMW7シリーズが止まっていた。小型の潜水艦みたいな車だ。彼女は軽く手を振るとリアドアを開けて、後部座席に乗り込んだ。車がゆっくりと発進するのを見送って、私はBTSの改札口のある高架歩道に向かって歩いた。

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