2020年7月11日土曜日

ただいま日本でバイト中~昭和の仕事はゆるかった?

6月に引き続き日本の某地方都市で、特別定額給付金のデータ入力のアルバイトをしています。
当初は、8月までこの仕事がある予定でしたが、入力作業が予想より早く終わって、7月末で業務がなくなりました。
大量のアルバイトを雇って、一日10時間投入作業に従事させて、さらに途中から追加の人員まで補充していたので、請負会社の予想より1ヶ月以上前倒しで、ほぼデータ入力が完了しました。当初の契約通りの日数を出勤していますが、先週から作業時間より待機時間の方が長くなりました。一か月前に、肩こりと眼痛と戦いながら、長時間ぶっ通しでPC入力作業に従事していたのが遠い過去のように思われます。

ひたすら入力作業をしていた時期につらつら考えていたのは、「そういえばこうした仕事も昔は正社員がやってたな」ということです。私が公社系の電話会社に新入社員として入った頃、アルバイト先の仮設オフィスで行われているデータ入力作業もコールセンター業務も正社員の仕事でした。
今では、派遣会社と契約したアルバイトが同じ作業をしています。
アルバイトを統括するグループリーダーもどうやらアルバイトです。バイト長みたいなものですね。

昔の会社員は、今ではアルバイトがしている作業に従事して、それほど豊かではないものの、家のローンや子供の教育費を何とか賄えるだけの賃金を貰ってたことを考えると隔世の感があります。
もちろん、コールセンターなどの部署を束ねる管理者も、正社員の課長でした。

これだけを見ると、昔はゆるい仕事で生計が楽に立てられたように見えます。
タイムリーに、以下のようなニュースがありました。

「昭和時代にサラリーマンをやりたかった」という投稿に反発相次ぐ 「普通に働いていればそれでよかった」というのは本当なのか

しかし、必ずしも「昔はゆるくて良かった」と言い切れるものでもありません。
上のニュースにもありましたが、全員正社員・終身雇用が前提だと、とにかく組織の同調圧力や村社会ぷりが激しく、風通しの悪いことこの上ないというのが、当時の実感です。
社内の飲み会は強制参加、結婚式の仲人は直属の上司、特に仲が良くなくても同じ部署の社員の結婚式には出席、管理職の引っ越し作業に休日返上で参加、長くその部署に居る人間が牢名主化していてうかつに逆らえない等々、もはや会社は仕事する場というより一種の村社会的な共同体でした。
仕事とは直接関係ないのに、これらの不文律を破ると、仕事や人事評価に影響するという極めて透明性の低い場所でもありました。
バイトでもできる作業の管理に正社員の課長を据えていたのも、昔は労働組合がやたらと強く、現場の管理職に解決不能な無理難題を要求したり、組合員による鬱憤晴らしの突き上げなどが頻繁していたからという面があります。
事務能力の有無よりも、理不尽な罵詈雑言に耐える我慢強さがのある中年男性が、こうした部署の中間管理職として選ばれ、上層部へ組合員の突き上げが波及する防波堤となっていました。
私が入社する前は、一部の組合員が調子に乗って、中間管理職に暴言を吐いたりすることもよくあったと聞きました。

90年代に入ってから、業務や作業の内容による賃金の国際標準化が進み、単なる作業従事者が非正規雇用者に取って代わられ、生計のための十分な賃金を得ることは難しい時代になりました。
地域コミュニティの破壊とか、環境負荷の増大とか、あくなき利潤追求のため安全性の棄損とか、いまや諸悪の根源とされるグローバル資本主義ですが、単なる作業しかしていない人間が夜郎自大に威張り散らすという状況がなくなったのは、グローバル資本主義の正の側面だと個人的には考えています。こうした国際標準化の圧力にさらされているのが、現業の従事者だけで、経営層に及んでないことは大きな問題ですが。

では、今の方が良いかというとこれも微妙です。
最近、ナイキの創業者フィル・ナイトの回顧録『SHOE DOG(シュードッグ) 』を読んだのですが、ナイキがアメリカの銀行から取引を中止されて、1975年に会社が潰れかけた時に、資金を提供して会社を救ったのは、日本の商社日商岩井の駐在員でした。

当時のナイキの取引銀行バンク・オブ・カリフォルニアに、日商岩井の駐在員 伊藤氏が、創業者フィル・ナイトと共に訪れた部分を引用します。
イトーはあごを撫でながら自分で切り出そうとした。彼は直ちに本題に入った。忌々しい本題に。彼はホランドしか相手にしていなかったが、「みなさん」と前置きした。「私の理解では、ブルーリボン(註:ナイキの前身)との取引を今後は中止とするようですが」
ホランドはうなずいた。「そのとおりです。ミスター・イトー」
「それならば、日商岩井がブルーリボンの借金を返済します。全額」
ホランドが目を凝らした。「全額……?」
イトーは低く、声にならない声で返事をした。私はホランドをにらみつけた。私は、これが日本人だと言ってやりたかった。言葉を詰まらせながらでも。(同書 P386-P387)

これは銀行の横暴を見かねた伊藤氏の義侠心(とナイキの将来性を信じた)から出た判断で、上層部の許可を得ていない独断でした。後日談として、伊藤氏はこの独断によって、本社から一度は解雇と帰国命令を発令されています。


ちなみにナイキのポートランド本社には、この故事を感謝して、日本庭園 日商岩井ガーデンが敷地の中心部に造園されています。
昭和の時代は伊藤氏のように、馘首されるリスク取ってまで挑戦するサラリーマンがいたのには驚かされます。今のサラリーマンは汲々として、自己利益と自己保身しか考えられない小役人タイプが跋扈しているので。
日本経済全体が右肩上がりだった時期と、人口が減って縮小しつつある現在との環境の違いもありますが。
ただ、日本からこうした義侠心に富んだり、リスクテイクできる人間が完全に払底されたわけではなく、職業選択の幅が広がって、そうしたタイプの人間はサラリーマンを職業として選ばなくなったという要因も大きいです。起業や独立自営業なども、ネットの発達で、昭和の時代に比べれば、格段に始めやすくなっていますし。

価値観や美意識は時代を経ると変わる事もあり、物事には正負の両面があるので、一概に比較はできません。ただ、真面目で従順なだけなのが取り柄の人でも食いっぱぐれなかった時代から、何らかの新しい価値観や美意識を提供できないと食い詰める可能性が高い時代に移行しつつあることは確かです。

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2020年6月20日土曜日

ただいま日本でバイト中、そして日本の行く末を案じた

4月下旬から日本へ一時帰国中ですが、ミャンマーに帰る目途は未だ立っていません。 6月末までヤンゴン国際空港は閉鎖ですし、入国条件も詳細不明です。 とりあえず、収入確保のため日本でアルバイトをしています。

現在、日本の某市で「新型コロナウイルス感染症緊急経済対策」の一環として実施されている、特別定額給付金のデータ入力の仕事にパートタイマーとして従事しています。 日本の自治体の住民基本台帳のデータは、銀行口座等の個人の金融情報とリンクしていないため、今回のように給付金を全国民へ一律配布するという状況になると、個別に配布先に口座情報等のデータを人力で入力する必要があります。 たとえマイナンバーで申請しても、オンラインで処理が完結するわけではなく、各自治体の住民基本台帳のデータベースに基づいて、個別に人力で振込データを入力しています。もっとも、郵送での申請が大多数なので、入力作業の中心となるのは、申請者の手書きのデータを、入力担当者が目視で確認しつつPCへ手入力する業務です。 本来なら、オンラインで自動化すべき業務なのですが、個人情報の保護に対する懸念や行政手続きのIT化の遅延によって、日本では実現していません。
Facebookで海外在住者のタイムライン見ると、住民基本台帳と個人の口座情報が紐づけされているドイツやアメリカでは、オンラインで申請して、3日程度で給付金の振込がされているようです。

人口の多い大都市だと途方もない手間と人手を要するため、一定以上の人口の自治体では、これに関する処理を外注しているはずです。国内の各自治体から、この業務のアウトソーシング企業や人材派遣会社への外注が、相当な特需になっているのではないかと推測しています。もちろん出所は税金なので、新市場を創出して国内経済のパイを大きくしているわけではありませんが。

5月下旬からほぼ連日、朝9時から夜8時まで、昼休みを挟んで10時間、一日ぶっ続けでデータをPCに入力しています。新入社員当時は、よくこの手の作業をやっていましたが、30年前に比べて当然体力も視力も衰えているので、5時を過ぎたあたりから目がしばしばして、意識が朦朧としてきます。ただ、体力的にはしんどいですが、単に黙々とデータ入力するだけで、他人と会話する必要も、煩わしい人間関係もないので、お気楽な仕事ではあります。コミュ障の私にうってつけの仕事が、一時帰国中に見つかって良かったと感謝しています。

それに、日本人だけの環境で仕事をするのも久しぶりなので新鮮です。
改めて思うのが、日本人はロボットの代替として優秀だということです。
勤務中ひたすら入力作業に没頭していて、周囲の人と会話をすることもないので、事情は知りませんが、他の人もネットで人材派遣会社の募集を見て、応募したのではないかと推測します。つまり、みんな情報をネットで見つけて、バラバラに集まった人々です。
にも関わらず、会ったこともない人材派遣会社の担当者からのメールによる指示で、毎日定刻通りに職場まで来て、簡単なマニュアル読んで理解して、みんな黙々と一日中PC入力作業に従事しています。
ミャンマーに住んで長いので、どうしてもミャンマー目線で物事を見るようになっていますが、これはミャンマーではあり得ない。
こんな簡単な説明では、作業内容を理解してもらえないし、そもそもこれだけの大人数をタイトな出退勤管理やタイムカードなしに、定刻通り毎日通勤させるのは至難の業です。 ミャンマーでネットで人材募集して同じ業務をすると、出退勤管理の煩雑さと、マニュアル無視して、みんな好き勝手にデータ入力しだして、収拾がつかなくなり、現場は阿鼻叫喚と化すのではないでしょうか(私が知る例では、過去に建物の電気工事で設計図面を無視して、施行業者が好き勝手に配線して、収拾がつかなくったことがありました)。

これだけ均質で、勤勉な労働者を、ネットを通じて一定数すぐに動員できる国は、そうないのではないかと思います。
 冷戦時代、アジア唯一の工業国だった時期、人件費が欧米諸国に比べて安かった日本が、工業製品などの規格品大量生産で一時代を画したことは納得できます。
工場の組立ラインに必要なのは、一定水準以上の知的レベルに達した、多数の均質かつ勤勉な労働者ですから。
ただし、21世紀に入って、工業製品のコモディティ化、モジュール化が進んだことで、日本の競争力は一気に失われたのはご存知の通りです。
グローバル化が進展により、中国・韓国や東南アジア諸国が製造業に参入したことで、工業製品のコモディティ化、モジュール化が顕著になりました。この結果、従来の欧米諸国の後追い戦略から脱し、創造性やオリジナリティ、あるいはブランド価値の創造等により、新規参入してきた国々の製品との差別化を図り、製品価格が主な選好条件となるレッドオーシャン市場のプレイヤーとは異なるポジショニングを取ることを、日系企業が迫られるようになって久しいです。

わかりやすい事例として、スマートフォンを例にあげます。
- 機能の中核を担うOSは、AppleのiOSとGoogleのAndroidが独占しており、ハード(スマートフォン端末)は汎用部品の組立産業と化している。
- 利益率が高いのは、アプリや音楽販売のエコシステムを築いているOS開発・供給元であり、ハードメーカーは薄利多売の過当競争に陥っている。
- カメラの性能などで多少の差別化はできるものの、OS(iOS搭載のハードはAppleの専売なので、ここではAndroid)は同じなので、各メーカーが製造するハードが提供できる基本的な機能は同じで、大きな差別化はできない(よって、ハードの市場は価格競争のレッドオーシャンと化す)。
- こうした過当競争下では、膨大な国内需要を背景にして、大規模な設備投資を行い、製造単価の低減化を実現し、その生産体制を足掛かりに、世界市場に打って出る中国メーカーが優位に立つ。実際、ミャンマーのスマートフォン販売店で見かけるメーカーの大部分が、Huawei・OPPO・Vivoなどの中国メーカーである。日系メーカーの存在感は薄い。
- 中国や東南アジア諸国に比べて人件費や地代が相対的に高い(それでもG7で最低賃金)日本は、イノベーティブで利益率の高い事業分野への進出が望まれるが(スマートフォンOSのプラットフォーマーとなっているAppleやGoogleのように)、残念ながら、そのような創造性・構想力・マーケティング力を備えた大企業は見当たらない。
- 現在、世界時価総額20位以内にランキングされている日系企業はゼロ。日系企業の最上位 は、トヨタ自動車の42位。しかし、テスラモーターズやGoogoleが電気自動車・自動運転のOS開発競争をしている現状で、自動車のコモディティ化・モジュール化(要するにパソコン化・スマホ化)がトヨタの製造技術をバイパスして実現すれば、その地位も危うい。

人材が均質で、現場の労働者が勤勉なことが、事業の強みになりにくい21世紀になってから、日系企業の凋落が目立ち始めたのは、決して偶然ではありません。 ここ20年間さんざん議論されてきた(そして解決していない)問題なので、いまさら私が書くまでもありませんが。日経新聞系のメディアとかは、日本にGAFAが生まれない理由について年中書いているような気がするし(そして、何ら解決しているように見えない)。

この問題については、下記の本に体系立てて、詳しく説明されていますので、ご興味のある方はお読みください。


なんでこうしたことを延々と書くかと言うと、日本の行く末を案じてるから、という部分もなくはないのですが、ほぼ毎日、無言で10時間ぶっ通しでPC入力作業していると、作業の単調さに倦んで、いろいろと余計なことを考え出すからです。
他にも入力しながら、考えていることがあるので、気が向いたら書くかもしれません。
とりあえず、ミャンマー帰国の目途が立つまで、日本でこのバイトを続けるつもりです。

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2020年5月15日金曜日

COVID-19騒動の中での日本への帰国体験記を書いた

4月24日から、日本に一時帰国中です。
帰国してから、3週間が経とうとしています。こんなに長く日本に滞在するのは、2012年にヤンゴンに住むようになってから初めてです。
帰国して2週間は、Airbnbで取った新宿御苑のアパートで待機していました。
東京に滞在するのも、8年振りでした。新宿の街は、紀伊國屋書店も伊勢丹新宿店も閉まっていて閑散としていました。
今は、福岡の大濠公園の近くに住んでいます。
福岡では、多くの人々が大濠公園でジョギングする姿も見られ、現在の東京ほどの閉塞感と圧迫感は感じません。こちらでも、飲食店の多くは、閉まっていたり、テイクアウトのみの営業だったりはしますが。
最近、ミャンマーの日本語フリーペーパーから、日本へ帰国した時の状況について書くように依頼されました。以下に書いた記事を転載します。このまま採用されるかどうかは不明です。
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COVID-19騒動の中での日本への帰国体験記

4月24日午後11時、私は、成田国際空港第一ターミナル到着ロビーにいました。周囲には、私も含めて5,6人がロビーのベンチで過ごしています。私と同じく、ヤンゴン発のANA NH814便で成田に到着した人たちです。海外からの帰国者は、公共交通機関の使用禁止を要請されているため、明日の迎えが来るまで、皆ここで一晩過ごすのでしょう。
一か月前まで、自分がこの時期に、この場所にいるとは思っていませんでした。

3月中旬時点での、私の4月の計画は、次の通りでした。
4月5日 The Makers Marketに出店
4月8日 ヤンゴン-->チェンマイ ティジャン(水祭り休暇)
4月19日 チェンマイ-->ヤンゴン ミャンマーに帰国

4月5日に開催予定だったThe Makers Marketは、毎月一回ヤンゴンで開催されている、ローカルメイドの工芸品や雑貨を集めたナイトマーケットです。タイのようにローカル・マーケットが充実していないミャンマーで、ここでしか手に入らないローカル・ブランドの商品が購入できるイベントとして、在緬外国人に人気のイベントです。毎回、3000人近い来場者を集客しています。


3月8日に開催されたThe Makers Marketの様子

しかし、3月末になって、コロナウィルスの感染拡大の影響により、状況が次々と変わり、当初の計画はすべて覆りました。
まず、タイ政府の発令により、3月26日から、すべての国境ルートから、外国人の入国禁止となります。続く3月31日には、ミャンマー政府により、国際空港への旅客航空便の着陸禁止が発令されます。さらに、ミャンマー政府が4月中のイベント自粛を要請したことで、4月5日開催予定だったThe Makers Marketは中止となります。

タイへの外国人の入国禁止となった時点で、予約していたヤンゴン、チェンマイ往復航空便は運航休止になりました。
前回のビザランで3月末にバンコクから戻って来た時、ミャンマーへはノービザで入国していました。いつもは滞在日数70日のビジネス・ビザで入国していますが、この時はティジャンの休暇が近く、2週間程度の短期滞在になるからです。
この安易な判断が、仇となります。
ノービザで入国すると、滞在延長の申請ができません。よって、滞在期限が切れるまでに、どこかへ出国する必要があります。しかし3月末時点で、周辺のASEAN諸国は、ほぼ封鎖中となっていました。
こうなると、日本人の私が入国できる国は、日本しかありません。
実家のある福岡行のチケットをネットで探しましたが、これが見事にない。ハノイや香港経由のメジャーなトランジット便は全便休航となっています。
では、日本への直行便しかないとANAのウェブサイトへ。
検索すると、滞在期限前の運航便の片道チケットの価格が15万円から20万円へと高騰しています。日本からミャンマーへの往路は全席空席なので、しかたないのでしょうけど。やむえず、オーバステイになっても、できるだけ安い価格のチケットを探して、約1か月先の4月24日ヤンゴン発の片道8万円のチケットを購入しました。

さて、今の環境下で、日本に帰国するとどういう状況になるかを、先にミャンマーから帰国した知り合いや周囲の友人へ聞いたところ、ものすごく面倒なことになっていました。

政府は、海外からの帰国者へ、以下の要請をしています。
- 海外からの帰国者は、もれなく2週間の待機を命じられる
- 日本帰国から2週間の待機期間中は、公共交通機関の使用禁止

そして、2週間待機の宿泊場所は、自己解決かつ自費で賄う必要があります。
この条件だと、関東近辺以外の居住者は、空港からアクセスできる場所に自費で宿を取り、しかも、その場所まで公共交通機関を使わずに行き着く必要があります。こうした条件を課すなら、政府が宿泊施設と移動手段を用意するのが筋ではないかと思いますが、残念ながら、個人での自己解決が求められています。
しかたなくAirbnbで、東京に2週間待機する宿を取りました。
問題は、宿泊地までの移動手段です。
先にミャンマーから帰国していた千葉の知人に頼んでみたところ、快く引き受けてもらえました。しかし、承諾から3日後に断りの連絡があります。家族に話したところ、猛反対に遭い、車のキーを取り上げられたとのことです。
となると、残る選択肢は、空港発の予約制リムジンバス・サービスくらいしかない。しかし、これが公共交通機関に入るのか、入らないのかの判断に苦しみます。小学生の頃、遠足のおやつはX円までという教師からの指示があった時、「先生、バナナはおやつに入るんですか?」とお約束のように聞く児童のような疑問です。
考えあぐねていたところ、4年くらい会っていない、以前ミャンマーに住んでいた友人から突然メールが入りました。私のブログを読んで、ミャンマーにスタックしていることを知り、メールをくれたようです。空港から宿泊地への移動手段に困っていると伝えたところ、ご親切にもレンタカーを借りて迎えに来てくれると言ってくれました。ありがとうHさん。あなたがいなければ、移動で詰んでいた。

航空チケットは取った、2週間宿泊する待機場所も予約した、空港から宿泊場所までの移動手段も確保した。でも、これで一安心とはいきません。
ビザの問題が残っています。
この頃、突然国境を閉鎖されたため、私同様にオーバーステイを余儀なくされた在緬外国人のトラブルが続発していました。地元の英字フリーペーパーでは、外国人が移民局へ延長申請のために赴いても、役所をたらい回しにされて、結局延長ができないケースが多発していることが記事になっていました。ビザの滞在期限が切れると、法律上、賃貸住宅へ居住することはできず、かと言ってホテルにも宿泊することもできません。住処を失ったある在緬外国人男性が、ミャンマー人女性のガールフレンドのアパートに転がりこんだところ、借主である女性の勤務先からクレームがついて追い出され、文字通りホームレスになってしまったケースも報告されています。
ミャンマーは異性間のモラルが厳格なため、周囲の住人や関係者は、未婚のミャンマー人女性と外国人男性が同居することを快く思いません。幸いにして(と言うべきか)私は、女性と縁がなく、アパートへの女性の出入りもないので、近隣の住人の反感を買い、密告されて住居を追い出される可能性は低そうです。しかし、そうは言っても、安心はできません。

その後、今回の特例で、ビジネス・ビザ以外でも、移民局で延長申請が可能になったとの情報を得ました。4月上旬に、パソーダン通りの移民局に着くと、建物前から優に100メーターは続く長蛇の列ができていました。どうやら、みんなビザの延長申請に来ているようです。私も一時間以上列に並んで、担当官に必要書類を提出しました。手続きが完了したら、電話するということでしたが、結局、連絡はありませんでした。

4月上旬、移民局前にできていた行列

移民局からの連絡を待つうちに、夜間外出の禁止令が発令され、外出に対する規制がさらに強まっていきました。こうした中で、処理されているかどうかもわからない申請を、再度一時間以上列に並んで、移民局で確認する気にもならなかったので、ビザの延長申請は立ち消えになりました。こうした状況で多くの外国人が、ビザの延長を果たせず、運の悪かった人が路上に放り出される事態に陥ったのでしょう。
タイ政府は、ビザの種類に関わらず、手続きなしで滞在期限を自動延長する救済措置を発表しましたが、残念ながらミャンマーは、そこまで外国人に対して配慮がされる国ではありません。

こうなると、オーバーステイの延長料金を空港で払うしか方法はありません。
夜間の外出禁止など、規制が日に日に増していく中で、宙ぶらりんな立場で過ごすのは、あまり気分の良いものではありませんでした。
まいったのは、夜間外出禁止令の発表により、ANA NH814便の運行時間が突然変更されたことです。ANAに確認したところ、その時点では、フライトが半日後ろ倒しになる予定だとの回答でした。それでは、移動をお願いしているHさんの都合がつかない日時に到着するので、やはり移動で詰む。繰り返しますが、公共交通機関の使用はできません。
果たして、フライト3日前になってANAから届いたメールを開くと、半日前倒しのスケジュールへと変更となっていました。このスケジュールなら、早く着くぶん待ち時間は長くなりますが、Hさんが迎えに来れる時間には成田空港に着いています。迎えが無理となった場合、レンタカーのキャンセルも発生するので、直前までHさんとやりとりをしていました。

4月24日、出発の日のヤンゴン国際空港は未だ封鎖中で、閑散としていました。どうやら運航しているのは、ANAの臨時便だけのようです。搭乗手続きを終え、スーツケースを預けて、イミグレーションのフロアに移動します。気になっていた、オーバーステイの手続きは、イミグレーション前の窓口で、一日当たり3USDのオーバーステイ料金を払うことで、難なく終わりました。以前も同じ手続きをしたことがありますが、ミャンマーでは、唐突にシステムが変更することがよくあるので、実際やってみるまで気が抜けませんでした。
ANA NH814便の搭乗率は、10%程度でした。帰る必要のある邦人はすでに帰国していて、これから帰国する在緬邦人はあまり多くないのでしょう。午後1時半に、ヤンゴン国際離陸した飛行機は、定刻通り。夜10時半に成田国際空港へ着陸しました。
機内で4、5枚の書類を渡され、それぞれに2週間の待機期間中の宿泊地の住所や、日本での連絡先を記入します。宿泊地の管轄保健所からの連絡方法について、Lineのスマートフォン・アプリを使うか、保健所からの電話を受けるかの選択項目もありました。とりあえず、アプリでの報告へチェックを入れておきましたが、ミャンマーは入国制限対象地域の国ではないため、保健所からの確認はないようでした。
飛行機から降りると、イミグレ前に待機していた検疫官に記入した書類を渡し、簡単な問診を受けた後、入国審査カウンターへと進みます。搭乗客が少なかったこともあり、飛行機を降りてから、検疫、入国審査を経て、到着ロビーに出るまで要した時間は30分程度でした。

そして、到着ロビーのベンチで、翌日午後2時に迎えが来るまで、13時間待機します。成田空港の到着ロビーも閑散としていました、ロビーにいるのは、私と同便で到着して、翌日まで迎えを待つ5、6人の人たちと空港のスタッフのみです。ちなみに到着ロビーに着いてから、移動の規制はありませんでした。迎えを頼める親族・友人が見つからず、他に方法がなければ、やむえず公共交通機関を使う人がいてもおかしくはありません(私もそうした可能性がある)。そのような事態を招かないためにも、政府が何らかの移動手段を用意すべきではないか、と到着後も改めて思いました。

4月24日、成田空港第一ターミナル到着ロビー

出国と到着の経緯を書いたところで、指定の字数をとうに過ぎました。
私がミャンマーで取り組んでいるプロジェクトについても、少しお伝えしたかったのですが。
私のミャンマーでのミッションは、「ミャンマーの素材を使って、世界で通用するブランドを、ミャンマーで作る」ことです。世界のどの都市でも通用するクオリティを持った、ミャンマー発のブランドを作ることを目標としています。
お時間があれば、私のブランドYANGON CALLINGのWebサイトとFacebookページを見ていただけると嬉しいです。
Webサイト:
https://www.ygncalling.com/
Facebookページ:
https://www.facebook.com/ygncalling/




5月中旬の現時点で、ミャンマーへいつ戻れるか状況は不透明ですが、ミャンマーへ入国できる環境が整いしだい、帰る予定です。また、The Makers Marketなどのイベントで、皆さんとお会いできる日が訪れることを心待ちにしております。
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2020年4月4日土曜日

コロナ対策で自宅勤務中のミャンマー女子に写真を撮らせてもらった

現在、ヤンゴン市内では、飲食店の営業も店内での飲食は禁止されて、数少ない営業中のお店も持ち帰りのみとなっています。
街は閑散として、普段は賑わっている場所でも人通りはまばらです。
さっき聞いた話によると、4月10日から4月21日まで、外出禁止令が発令されそうです。
人聞きなので、真偽の程はわかりませんが、この国では、空港閉鎖も飲食店の営業禁止も突然発令されて即施行されたので、可能性はあります
(4月5日追記:どうやら、政府が「ティンジャン(ミャンマー正月)で休日となる10~19日の外出を、食品や医薬品の購入目的を除いて自粛するよう通達した」事実に尾ひれが付いて、一律の外出禁止令が布告されるとの噂に転じたようです。公共のニュースに対する信頼度が低いミャンマーでは、確度の低い噂がSNSを通じて拡散しやすいです)。

そんな不穏な空気が漂う中ですが、ミャンマーのメディア企業で働く近所のミャンマー人女子に商品着用写真を撮らせてもらいました。
今、彼女の勤務先でも従業員の出勤を自粛して、ビデオ会議などのリモートワークで業務対応しているようです。
そうした状況なので、平日の昼間にアパートにお邪魔して、写真を撮らせてもらえました。
彼女のアパートの狭いバルコニーで撮影したので、アングルを選べませんでしたが、着用イメージはある程度伝わるかと思います。

















上記商品のサイズ・価格などの詳細は、こちらのページでご覧になれます。
https://www.ygncalling.com/shop

この時期、多くの人が自宅に籠ることを強いられるはずなので、これを機会に、手持ちの服でできるコーディネートを試したり、積読中の本を読んだり、みなさん自宅でできることを楽しめるよう気持ちを切り替えられたらいいなと思います。

ちなみに彼女とは、読書SNS Goodreads で知り合いになりました。
読了リストに、洋書ファンクラブで紹介されていた、 Daisy Jones & The Sixが上がっていたので、興味を持ってこちらからコンタクトしました。
この本の邦訳が出るのを待つか、原著で読むかちょうど迷っている時だったので。


本書は、70年代の架空のロックバンドについての手記・回想録というスタイルで描かれたフィクションです。
レビュー読むと、主人公のモデルとして、フリートウッド・マックのスティービー・ニックスが想起されるようです。
ちなみに、彼女にこの本の感想を聞いたら、イマイチだったということでした。
主人公のDaisyのキャラクター造形が、ミャンマーの文化的価値観と離れすぎていてなじめなかったようです。
それに加えて、60年代末から70年代初期にかけてロック音楽が表象していた時代の空気感など、時代背景や前提となる知識がないと楽しめないのかもしれません。タランティーノの映画『ワンスアポンアタイムインハリウッド』同様に。
あの映画について、公開当時に話題にしていたミャンマー人は、アメリカとかヨーロッパの大学を卒業して戻ってきた富裕層の子女のみでした。
彼女はヤンゴン外語大学のフランス語科卒で、フランス語と英語ができますが、自分をWorking Class Womanと自己紹介していました。ミャンマーの上流階級・富裕層は、キャリアの最初から親族経営の会社の役員になるか、親の資金で起業するかが一般的なので、身内でもない他人に指図されて働くこと自体がWorking Classと定義されるのかもしれません。ミャンマー国外から出たこともないみたいな様子でした。
そうした子が、こうしたタイプの小説を原著で読むことはミャンマーではかなりレアケースです。
少しずつですが、ミャンマーの文化的価値観や文化の受容性も多様化しつつある気配を感じます。

とりあえず、ちょうどいい休みができたと思って、今まで読めなかった本でも読んで、ゆっくりこの時期をやり過ごそう、と思ったらクリック!
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2020年3月28日土曜日

【悲報】僕、コロナのせいで4月の計画がむちゃくちゃに

世界各地で多くの問題を生み出しているコロナウイルスにまつわる騒動ですが、この影響で予定が狂った人も多いはずです。
ご多分に漏れず、私も巻き込まれました。
2月末時点での3月、4月の私の計画は、以下の通りでした。
  • 3月17日 ビザランから帰国 バンコク-->ヤンゴン
  • 4月5日 イベント The Makers Market出店
  • 4月8日 ビザラン ヤンゴン-->チェンマイ
例年、4月上旬から中旬にかけて水祭りで、一週間以上の休業に入るローカルの店舗・企業が大多数のため、この時期は水祭りの喧噪を避けて、ミャンマー国外へ出る外国人が多いです。
私もミャンマーに来て最初の3年は水祭りの時期も、ミャンマーに残っていましたが、他の機会・場所では存在価値を示せないような連中が、ここぞとばかり街場でイキってるのを見るのが不快、かつ毎日五月蠅くてうんざりするので、ここ5年はミャンマー国外へ出るようにしています。

通常eVISAで70日滞在可能のビジネスビザを使ってミャンマーに入国していますが、3月17日の入国時は、どうせ一か月以内に出国するからと、70USDケチってビザなしで入国しました。ビザなしだと、滞在可能日数は30日です。
見通しが甘かった。
ミャンマー政府が4月中のイベント自粛を発令したため、4月のMakers Marketは中止。
タイ政府も、3月26日に海外からの旅行者の入国禁止を発令したため、4月8日のチェンマイ行きは不可能になりました。
滞在期限が切れる前にどこか一時出国できる国を探しましたが、周辺のASEAN諸国はほぼ封鎖。
カタール航空がこの時期もヤンゴン線を就航していることをネット広告でアピールしていますが、カタールは物価が高そうだし、そもそも入国できるかどうかも不明(調べてません)。
最後の選択肢として、ヤンゴン-->福岡のチケットをネットで探しましたが、これが見事にない。ハノイや香港経由のメジャーなトランジット便は全便休航の模様。
見つかるのは、中華系航空会社とLCC二つ乗り継いで、移動時間が20時間以上かかる便のみ。
移動時間はともかく、この時期に複数の国でトランジットするのは、かなりリスキーです。
九歳の子供を連れたロシア人の女性が、Air Asiaで、ロシアからマレーシア経由でタイに着いたものの、コロナの陰性証明書か罹患時に10万USD以上をカバーする保険証を持っていないかで、マレーシアに戻されて、どこにも出国できずに、クアラルンプールの空港内に閉じ込められて、進退窮まったケースもFacebookで話題になっています。

こうなると割高でも、ミャンマー-->日本の直行便しかないかとANAのウェブサイトへ。
検索したら、滞在期限4月16日までの運航便の片道チケットの価格が15万円とか20万円とかの鬼価格。
ないわ。
もう何年も新しいMacbook Pro買うの我慢しているのに、そんな金は払えん。
仕方ないので、オーバステイになってもそれより安い価格のチケットを探して、4月24日発の片道8万円のチケットを購入。
通常時ならベトナム航空で往復4万円代なので、片道で2倍の値段になるのも納得いかんが、他に選択肢がないので仕方ない。
とりあえず、このチケットを押さえておいて、4月16日までに出国できる航空券を直前まで探してみます。

不幸中の幸いだったのは、Airbnbで予約したチェンマイの宿は、この期間中の特別措置として全額返還されたことと、Trip.comで予約したヤンゴン<-->チェンマイ便も、運航中止となったため、返金されたことです。

トランジット便を利用する場合は、コロナの陰性証明書が必要となるので、よくドレス買ってくれるミャンマー人のお客さんが医師だったのを思い出して、証明書発行できるかどうか聞いてみましたが、彼女の関わる医療機関では発行できないとのことでした。
ミャンマーでも 陰性証明書を取得して、タイのトランジットを経て、他国へ帰国している外国人の報告もネットにあるので、発行してくれるミャンマーの医療機関はあるはずです。
こちらが聞いたついでに、彼女がこぼしていたのは、彼女もこの時期にペンシルベニア州に住む身内を訪ねるつもりで、ヤンゴン<-->NYCの往復航空券を買っていたのが、キャンセルとなり、しかも返金されるかどうかが不明だということです。
NYCの旅行代理店からチケットを購入したので、その代理店に問い合わせ中ですが、気の毒なことに、先方からの返信はないそうです。

今回の混乱で、こうしたケースも多発しているはずです。
ミャンマーを含む東南アジア諸国の水祭りの時期は、この地域最大のバケーション・シーズンで、海外旅行を計画していた人が多いはずですから。

しかし今回気づいたのは、ミャンマーに住んでると、タイへの依存度が高いなということです。タイへビザランができないとなると、いきなり社会生活が破綻する。
ミャンマーから見て、安近短、かつ都市的な娯楽や消費が楽しめる場所は、今のところタイ以外にありません。

それから、今回の報道で覚えた英単語が、 quarantine(隔離)です。英文のニュース読んでると毎回出てくるので。
Wikipediaでペストの項を見ていたら、語源が載ってました。イタリア語が語源だそうです。
14世紀の大流行は中国大陸で発生し、中国の人口を半分に減少させる猛威を振るった。当時ユーラシアの一大勢力を築いていたモンゴル帝国ではチンギス・ハーン末裔の諸家どうしの権力抗争が続いていたところへ流行が襲い、諸家の断絶を招いて帝国を衰亡させる要因となった。ペストは1347年10月に(1346年とも)、中央アジアからイタリアのシチリア島のメッシーナに上陸した。ヨーロッパに運ばれた毛皮についていたノミが媒介したとされる。流行の中心地だったイタリア北部では住民がほとんど全滅した[6]。疫病の原因が「神の怒り」と信じたキリスト教会では、ユダヤ人が雑居しているからとして1万人以上のユダヤ人を虐殺した。1348年にはアルプス以北のヨーロッパにも伝わり、14世紀末まで3回の大流行と多くの小流行を繰り返し、猛威を振るった。ヨーロッパの社会、特に農奴不足が続いていた荘園制に大きな影響を及ぼした。 1377年にヴェネツィアで海上検疫が始まった。当初30日間だったが、後に40日に変更された。イタリア語の「40」を表す語「quaranta」から、「quarantine(検疫)」という言葉ができた。
今回は、650年前のペスト禍に比べれば、ずいぶん被害が小さいはずです(なにしろペストは、当時の致死率が60%から90%だった)。
先人の経験した壊滅的な災厄に比すれば、乗り切れないわけがないと心安んじるしかありません。

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2020年3月10日火曜日

The Makers Market #11へ出店しました

今週の日曜日に、今回で11回目の開催となるThe Makers Marketへ出店しました。今のところ全回参加していますが、もう11回目になるのかと考えると感慨深いものがあります。
今回は同じ敷地内であるものの、3日前にいきなり場所の変更の周知がありました。これについては、出店者へのメールやFBグループでの通知はなく、公式のFacebookページで一回告知があっただけでした。
変更について、事情の説明もないので、理由は不明です。
同日に、いつも開催している広場で、別のイベントが開催されていたので、会場側がダブルブッキングしたのかもしれません。



今回の会場は、カラウェイクガーデン入口近くのデッキでした。
デッキの板がところどころ剥がれいたり、外れていたりで、足場が悪く、設営にいつもより手間取りました。




いつもより狭い敷地へテントを押し込んでいるため、通路幅が狭く、動線が悪い場所だとお客さんの入りが悪そうでした。私が割り当てられた場所も、ちょっと来場者の回遊性が低そうな位置でした。
そのため、今回は厳しいかな、と設営しながら感じていました。設営終了直後に最初に来店した、アフリカ系アメリカ人の男性に、サイズ設定の説明を正確にできなかったため、販売機会を逸しました。
これは幸先が悪い。今日は出店料や移動費を考えると赤字かも、と嫌な予感がよぎります。
結果的には以前お買い上げいただいた日本人のお客様や、ミャンマー人の知り合い、撤収直前になって駆け込み的に買っていただいたお客様がいたため、なんとか黒字は確保できました。
ここへ来る労力と無店舗で運営していることを勘案すると、もう二倍くらいの売り上げが欲しいところですが、マーケティングが相変わらず課題です。商品力は他のブランドに対して優位だと思いますが(あくまで当社比)、マーケットでのブランド認知度が他のヨーロッパ人運営のブランドに比べて、相当に低い。だいたいいつもこのイベントに来てるけど、今回初めて見たというフランス人のご婦人がいたくらいですから。


デッキスペースは、カンドジー湖を挟んで、シェゴダンパゴダを臨める眺望のため、飲食スペースのロケーションは、いつもより良かったかもしれません。

急な場所の変更とか、出店者の選考結果発表日と出店料の振込締め切り日が同日とか、いろいろと運営上ではありますが、The Makers Marketがいまのところミャンマーで唯一成功しているナイトマーケットであることは確かです。
ミャンマーの屋内型ナイトマーケットとして始まったUrban 86は、運営のまずさと集客力のある質の高いテナントが集まらなかったことで、一年を待たずに閉鎖しました。
Strand Streetのナイトマーケットのテントは出店者もまばらです。
去年の雨期に始まったPansodan Streetのナイトマーケットは、その後どうなっているか話を聞きませんが、今も継続しているのかどうか不明です。 私の知る限り、特に話題になっていないようです。
上にあげたナイトマーケットの盛り上がらなさ加減に比すれば、11回目を数えるまで継続し、しかも毎回着実に集客しているThe Makers Marketの成功は、ミャンマーでは例外的と言っても良いかもしれません。

個人や中小企業が、ミャンマーでBtoCビジネスを場合、市場構造や特性を観測する絶好の機会でもあるので、ミャンマーでこうした業態にご興味があれば、ご来場をお勧めします。
このイベントでの日本人の来場者数の比率が、ミャンマーの外国人マーケット全体における消費者の比率と見ても、そう大きな誤差はないはずです。
また、ミャンマーの外国人消費者層に加えて、ミャンマーの国産品に関心を持つ0.1%のミャンマー人富裕層も観測することができます。
それを除く、ミャンマーの99.9%の消費層はミャンマーの国産品に対する消費選好はありません。
ファッションに例を取ると、ミャンマーの99.9%の消費層は、国産品よりも、H&MやZARAやユニクロなどのファーストファッションの方に関心があります。ちょっと無理をすればバンコクへ行ける程度に裕福な中産階級の若者は、H&MやZARAやユニクロを現地のショッピングモールへ買い出しへ行きます。
ミャンマーの伝統的な服飾文化をエッセンスに加えたローカルファッションに興味を持つミャンマーの消費者層は、日常的に海外へ渡航しているため、世界の主要都市のどこにでも売っているファーストファッションに、あまり有難味を感じない0.1%の富裕層のみです。

次回12回目の開催は、4月5日(日)ではないかと予想しています。

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2020年3月6日金曜日

3月8日(日)Makers Marketの開催場所の変更と打ち上げ開催のお知らせ

今度の日曜日3月8日に開催のThe Makers Market #11の場所が変更となりました。
Karaweik Garden敷地内での開催は変わりませんが、敷地中ほどの広場から、入口近くのデッキへと移りました。


出店者側への事前の通知はなく、いきなり昨日Facebook Pageで告知されたので、変更の理由は不明です。
通常なら出店者側へ通知してから、一般の来場者への周知という順番なのですが、ミャンマーにはそうした常識がないので、突然、Facebookで情報が発表されます。
これまでも、出店者への選考結果の通知前に、Facebook Pageで出店者の紹介を始めたり、プレスリリース掲載用の出店者情報を募集したりするので、自分は選考から落ちたのかか?とか、選考結果の発表は終わったのか?とかの問い合わせが、特に外国人の出店者から入るケースが何度もありました。
こうした場合、問い合わせても、ほとんどの場合スルーされるのが、ミャンマー流の運営です。
ミャンマー人出店者は、こうした時にあまり慌てません。ミャンマーでは、こうしたことは珍しくないからです。
今回の場所の変更も、それに類する、ミャンマーでよくあるケースの一つです。
しかも今回は、出店料の振込締め切り日が、出店者への選考結果の通知日と同日だったので、慌てて銀行振り込みに行く必要がありました。
選考結果の通知が2月25日の午前1時23分で、振込締め切りが同日だったので、ビザランなどでその日にミャンマーを離れていたら、振込の締め切りに間に合いませんでした。


おそらく、これは日付表記のミスでしょうけど。
今回で11回目の開催なので、いい加減運営がこなれてきてもいいのではと思いますが、ここにはストック(=ノウハウの蓄積)の概念が少ないので、手変え品替え同様の問題が発生します。
こうした問題が、どのようなロジックから発生するかについてご興味があれば、以下の投稿をご覧ください。


そんなこんだで、いろいろとミャンマーらしいことがありますが、ミャンマーの消費市場を観察する絶好の機会なので、ミャンマーでしか手に入らない工芸品・ローカル物産、あるいはミャンマーの消費者市場にご関心のある方にはご来場をお勧めします。

以前の投稿「ミャンマー・ビジネスの難しさについて、近所のカフェ閉店から考えた」で、個人や中小企業が参入できるミャンマーのBtoC市場は、二つしかないと書きました。
ひとつは、ミャンマー総人口およそ0.1%の割合の主に欧米で高等教育を受けて帰国した富裕層の子女に在ミャンマー外国人所得上位10%を加えた層です。
もう一つは、ミャンマー人全体のおそらく20%程度の中産階級の層です。
The Makers Marketは、前者のセグメントの消費者が一度に集まる、今のところミャンマー唯一のイベントです。

いつもThe Makers Marketのイベント終了後に、サンチャウンのビアガーデンWin Starで打ち上げを開催しています。
3月8日(日)の午後8時半にYANGON CALLINGのテントに来ていただければ、そこからタクシーに荷物を積んで、サンチャウンに移動して9時過ぎから打ち上げを始めます。
ビールが飲みたかったり、ミャンマーのBtoC市場の話が聞きたかったり、アートや文学や音楽の話がしたい人は、3月8日(日)午後8時半に、Karaweik GardenのYANGON CALLINGのテントまでお越しください。

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2020年3月4日水曜日

ミャンマーでジャン=リュック・ゴダールがこんなにわかっていいのかしら!?

ジャン=リュック・ゴダールの映画は、私にとって長いあいだ鬼門でした。
何しろ、見始めて30分くらいで寝落ちする。
学生時代に、ずいぶんレンタルビデオ店で借りたものですが、すぐに寝落ちして、目が覚めてから続きを観るため、どの作品も、ほぼ冒頭の30分と後半の30分しか観れていませんでした。
『勝手にしやがれ』『女と男のいる舗道』『軽蔑』『アルファヴィル』『気狂いピエロ』、ゴダールの主要な作品を観ようとしたものの、すべて同じ結果になりました。
映画史に残る重要な作品は、一般教養として観ておかねば、という義務感に駆られて何度か挑戦しましたが、集中して最後まで観ることは、この時は叶いませんでした。

ゴダールの映画の見方がわかった(と思った)のはミャンマーに来てからです。
近所のDVD屋にゴダールの作品がけっこう揃っていたので、久しぶりに観てみるかと、5、6年前に試しに観たところ、なんだかスルスルと内容が入ってくる。
20代の頃に、いくら目を凝らして観ていても、いつの間にか寝ていたのが嘘のようです。

わかったのは、ゴダールの映画は、映画作品による映画批評ということです。
その意味では、ポストモダン文学と似ている。
架空の詩人の詩についての注釈書という体裁を取ったウラジーミル・ナボコフの『淡い焔』、「あなたはイタロ・カルヴィーノの新作『冬の夜ひとりの旅人が』を読み始めようとしている」という書き出しから始まるイタロ・カルヴィーノの『冬の夜ひとりの旅人が』、スタニスワフ・レムによる実在しない書物の書評集『完全なる真空』。
いずれの作品も、作家自身が小説というジャンルに対して自己言及的かつ批評的で、メタ視点を作品に導入することにより、フィクションというジャンルの枠を乗り越えようとする創作的な冒険が試されています。
自らが属するジャンルの自明性を越境しようとする意思が、明瞭に作品内へ込められています。

  

白状すると、この三冊とも途中で読むのを挫折して、十年以上積読中ですが、そのうち完読します。
ゴダールの映画も観れるようになったことだし(言い訳)。

ミャンマーに来てから最初に観たゴダールの作品は、『気狂いピエロ』です。
若い頃、この作品が理解できなかったのは、ストーリーの整合性や前後の繋がりを追って観ていたからです。
あくまで私の解釈ですが、ゴダールにとって、作品内での整合性や連続性は重要ではなかった。
むしろ、映画的なモチーフを次々とたたみかけることで、映画の構造やジャンル的な特性を明らかにすることに力点が置かれている。

冒頭近くのシーンで、主人公に「映画とは何か?」とパーティーで訊かれたアメリカ人の映画監督はこう答えます。

映画は戦場のようなものだ。『愛』『憎しみ』『暴力』、そして『死』、つまり感動だ

そして彼の言う通りに、それ以降の場面が展開していきます。
豊かだが退屈な生活に倦んだ男が、ファム・ファタール(宿命の女)に導かれるように、社会から逸脱していく。殺人、事件、逃避行、女の裏切り、そして死。
そうした場面が、大した脈絡もなく断片的に示される。
筋を追って観ていくと何がなんだかわからないのですが、ゴダールの「ねえ、映画ってこういうもんだよね?」という目配せに気づけば、昔は単に難解としか思えなかった映画が、ポップで茶目っ気に満ちていることに気がつきます。
パーティーのシーンに出てくる映画監督が、アメリカ人であるのも理由があります。第二次世界大戦中にハリウッドで製作されたフィルム・ノワール(犯罪映画)は、ゴダールらが属したフランスの映画運動ヌーヴェル・ヴァーグに強い影響を与えているからです。
昔はこの場面を観て、なんでフランス人ばかりのパーティーに、アメリカ人が入ってるんだと違和感を覚えていましたが、これはフィルム・ノワールからヌーヴェル・ヴァーグへの架橋を詳らかにする意図だと読み取れます。
実は、これについては、今この投稿を書いていて気づきました。
このアメリカ人の映画監督が語るように、その後の場面が展開する(「愛」「憎しみ」「暴力」、そして「死」)ところも含めて、映画作品によって映画の構造や歴史が明かされるという、この作品の持つ自己言及性と批評性が明快に示されています。




遅まきながら、ゴダールの映画の持つ自己言及性と批評性に気がついたのは、最初に観た時とは異なり、その後にクエンティン・タランティーノの映画を観ていたからです。
タランティーノは、私の学生時代には、まだ映画監督としてデビューしていませんでした。
その頃のタランティーノは、ビデオショップ「マンハッタン・ビーチ・ビデオ・アーカイブ」で店員をしていたはずです。ちなみに私も同じ時期に、岡山のレンタルビデオ店でバイトをしていました。
場所は違えど、同時期にビデオ店で働いていた二人が、片やハリウッドで最も評価の高い映画監督の一人で、片やミャンマーで食うや食わずの生活を強いられている、この差はどこから生まれたのでしょう?
慢心?、環境の違い?
答えはわかりません。

話を戻すと、ゴダール同様に、タランティーノの作品も、自己言及性と批評性に特徴があります。
去年公開されたタランティーノの最新作『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』では、ハリウッド映画によってハリウッド映画史が語られるという、極めて自己言及的かつ批評的な構造になっています。

このように、ゴダールとタランティーノは映画製作における姿勢(と愛)が近いのですが、ポピュラリティについてはかなり差があります。
これは、タランティーノの作品が、あくまで娯楽として成立するラインに踏みとどまっているのに対し、ゴダールはそれに頓着しないからです。両者の作品内では多くの文化的ガジェットが引用されていますが、タランティーノの引用元がキッチュなB級映画やサブカルチャーが多いのに対し、ゴダールの場合は高踏的で衒学的なアートや文学や哲学が多い。
そして、タランティーノが娯楽としての映画の自明性に対して異を唱えないのに対して、ゴダールの場合、それをも大胆に逸脱するという破壊性を孕んでいます。
こうした創作態度からして、商業的な意味での成功を収めているのはタランティーノなのですが、ゴダールがタランティーノに与えた影響は大きいはずです。
タランティーノの映画で、いきなり爆音と共に場面展開したり、手持ちカメラを振ってパンしたり、突然脈絡のなさそうなシーンが挿入されたりするのは、おそらくゴダールの影響です。
ミャンマーに来てからゴダールの作品にすんなり入り込めたのは、それまでにタランティーノがゴダールから影響されて使い回していた映画技法に、いつの間にか慣れ親しんでいたからでしょう。
つまりタランティーノという補助線を引くことで、はじめてゴダールの映画が持つ世界像を浮かび上がらせることができた。

なんでこんなことを延々と考えているかと言うと(ミャンマーでジャン=リュック・ゴダールについて深く思い巡らすのは、あまり一般的な行為ではありません)、『気狂いピエロ』にヒロインとして登場するアンナ・カリーナが着ているワンピースをミャンマーのラカイン産の生地で作ったからです。


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