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2015年6月9日火曜日

ミャンマーの映画祭がマニアック過ぎた

5月29日から6月7日まで、MEMORY! International Film Heritage Festival in Yangonという映画祭が開催されていました。
映画関係者のカンファレンスと、無料でフィルム映写による過去の名作が鑑賞できるというイベントです。主催はMemory Cinemaという映画フィルムの保護と映画文化の啓蒙を目的に設立されたNPOで、ミャンマーにあるフランス文化センターも開催にあたって協力したようです。
Memory Cinemaによる映画祭は3回目で、過去2回はカンボジアのプノンペンで開催されています。
さすがに無料とは言え、平日昼間から映画観れるほど優雅な身分でもないので、積極的に情報を追っていませんでした。先日、久しぶりに行ったヤンゴンの洋書屋Monument Booksに行ったら、パンフレットがあったので手に取ってみました。


中を開いてびっくりしました。
今回の映画祭のテーマは女性で、女性を中心にした映画50本あまりが選出されて、上映されているのですが、選ばれた映画がかなりマニアックです。
まるで、大学の映研とか美大生が選んだみたいなラインナップになっています。

ゴダール映画のシーンとミャンマー語の組み合わせがシュール

ゴダールの『女は女である』とか、フェリーニの『甘い生活』とか、ルイ・マルの『地下鉄のザジ』とか。『メトロポリス』や『裁かれるジャンヌ』 のような、映画史に残る無声映画も選ばれています。
日本映画も選出されていて、溝口健二『西鶴一代女』、今村昌平『人間蒸発』、宮崎駿『となりのトトロ』、加藤泰『緋牡丹博徒 花札勝負』の4本が上映されています。
おそらくフランス人が中心にキュレーションしてるので、ヌーヴェルバーグもしくはヌーヴェルバーグに影響を与えている、または影響を受けた作品が多く選出されているのでしょう。

よっ、お竜さん

しかし、選ばれている作品がミャンマー人にはマニアック過ぎます。たぶんミャンマー人が観て喜ぶのは『となりのトトロ』くらいです。

私の知る限り、ミャンマー人には、人間の心の綾を巧みに掬いとった心理劇のようなタイプの作品に対する需要はありません。
観て喜ぶのは、派手なアクション映画か、単純明快なラヴストーリーです。また、ミャンマーでも、ディズニーとジブリの映画は、分かりやすいので人気があります。こうした作品は、観客に小学生がいることを想定して製作されていますから。
実際、いまヤンゴンの映画館で上映されている外国映画は、ディズニーの『トゥモロウランド』と『マッドマックス』です。ウディ・アレンの新作などは、ミャンマーの劇場ではかかりません。

啓蒙的な意図と芸術的な価値から、映画史に残る名作が選ばれているのでしょうけど、これは無料とはいえ、ちゃんと観客が動員できたのか心配になりました。
世界各国から50本あまりの映画のフィルムを調達して、ヤンゴンで上映するのは、かなりの準備が必要なはずですし、開催に際して、情報省などの関係省庁との調整などの作業量も膨大だったと思われます。
それだけ大変なことを実行するのなら、映画祭を盛り上げるために、ミャンマー人の嗜好も、ある程度は考慮に入れた方が良かったのではないかと思います。

ともあれ、フェリーニの『甘い生活』はフィルムで観たかったなぁ。
30年程前に福岡市西新にあった名画座で観て以来だもの。
もし、来年もヤンゴンで開催するなら、是非、行きたいですね。

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2015年5月1日金曜日

ミャンマーと村上春樹

現在まで、ミャンマー語に翻訳されている村上春樹の著作は、『ノルウェーの森』、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』、『象の消滅』、『ねじまき鳥クロニクル』、『海辺のカフカ』(ミャンマーでの出版順、というより書店で見かけた順)の5作です。
これは書店で定点観測している範囲のデータで、版元や取次等でデータを調査したわけではありません(出版物に対する包括的なデータがないため、おそらくミャンマーでその種の調査はできません)。
いずれの訳書も正規に版権を取得して翻訳されたものではないと思われます(そのような版権ビジネスは、ミャンマーにまだ存在しないでしょうから)。ミャンマーでの性に対する保守性や検閲を意識して、いずれの訳書も原書のセックスに関する描写は削除されて翻訳されているはずです。そのせいもあってか、いずれの訳書も原書の2分の1以下のページ数です。




ミャンマー人が村上春樹の作品を読んで、どんな感想を持つのかに興味があり、事務所の20代の女の子にミャンマー語訳『ノルウェーの森』読ませてみましたが、あまりピンと来なかったようです。
ただ『象の消滅』については、「日本の小説じゃないみたい。アメリカ人が書いた文章みたい」といった意味の感想を話していました。初期の村上春樹の短編のバタ臭さというかアメリカ的な雰囲気が、ミャンマー語に翻訳されても読み手に伝わるのは面白いですね。



ミャンマーに在住して三年以上経ちましたが、今まで村上春樹の作品が好きというミャンマー人は一人しか会ったことがありません。もっとも、「村上春樹は好きか?」とミャンマー人に聞いたことはありませんが。

そのミャンマーでは貴重な村上春樹のファンは、20代のミャンマー人男性で技能実習生として日本に三年滞在したことがあり、(ミャンマー語訳の)ベケットやカフカが愛読書で、自費出版で詩集を出しているという、ミャンマー人としてはかなり変わった男の子だったので、ミャンマーで村上春樹のファンといのは、かなり特殊なことだと想像できます。

愛読書のミャンマー語訳『ノルウェーの森』と撮影

東アジアで村上春樹の作品が急速に読まれるようになったのは、高度経済成長が一段落し、都市に記号的な消費形態が現れた後だと言われています。

こうした状況を中国人のコラムニストが、鮮やかに切り取っている文章があるので、以下に引用します。
02年にネットで流れた「小資指南(プチプルになる方法)」にはこう書いてあった。
「君が『小資』になりたいのなら、村上春樹とマルグリット・デュラス、ホルヘ・ルイス・ボルヘスを必ず読んで、スターバックスへ行ってカプチーノを飲み、ジャズかエニグマを聞き、ハーゲンダッツのアイスクリームを食べ、『ニューヨーカー』を読まなきゃいけない(実際に読んで分からなくてもいい)。映画はもちろんウォン・カーウァイだ」。
村上春樹は当時、まさに中国「小資」の父だった。
<中略>
北京や上海、広州、南京、杭州といった大都市に住む若者は、突然スターバックスのコーヒーやハーゲンダッツのアイスが買えるようになった。「村上式生活」を送るための物質的基盤だ。
安替『Newsweek日本版』(2013年5月21日号・阪急コミュニケーションズ)
余談ですが、香港の映画監督ウォン・カーウァイの作品『恋する惑星』(1994年)は、村上春樹からの影響がよく指摘されています。たしかに、「その時、彼女との距離は0.1ミリ。57時間後、僕は彼女に恋をした」といった(ちょっとキザな)台詞に、初期の村上作品にある詳細な時間や数量の記述に通じるものを感じます。
この映画は、ミャンマーでもDVD屋で入手できるので、最近観直してみました。今観るとかなりくすぐったくなる部分も多いですが、やっぱりキュートで良い映画でした。何よりこの時期のフェイ・ウォンが奇跡的に可愛い(笑)。



今のところ、欧米や東アジアと異なり、ミャンマーで村上作品が幅広い層の読者を獲得していないのは、「村上式生活」を送るための経済基盤や文化的インフラが整備されていないのもひとつの理由だと考えられます。セロニアス・モンクとかビーチボーイズのこと書かれても、ミャンマーでは何のことか分からないでしょうし。もちろん村上作品の魅力は、そうした文化的ガジェットの記述の面白さに依るだけではありません。

村上文学の普遍性や世界性はどこにあるのかを内田樹氏の考察に依拠すると(自分では考えつけなかったから)、伝統的な権威が失墜し、従来型の成長・成熟モデルが説得力を持ち得なくなった時代に、個人が手探りで自分なりの世界像と自己認識を確立する物語が語られているからと説明できます。
 作中に頻出する文化的ガジェットは、登場人物の輪郭をクリアに切り取って見せるためのツールであり、作品の根源的な核は別のところにあるのでしょう。

今のミャンマーには、消費の嗜好・選択がある種のステートメントとなるような記号的な消費文化は存在しません。
そのうえ、伝統的な村落共同体や宗教的価値観が(中世並みに)ばりばりに機能しているので、村上作品が今のミャンマーで広く読まれていないのも当然のような気がします。

そういえば、先に書いた村上ファンのミャンマー人は、ヤンゴン生まれ、ヤンゴン育ちの都会っ子で、ミャンマー人には珍しくパゴダにも行きませんでした。周囲がしょっちゅうパゴダに行ったり、仏教行事がやたらと多いのを、前近代性の現れとして嫌っていたふしがあります。こうしたメンタリティーの持ち主でないと、主体的な個人が世界に対峙する中で新たな自己像を作りあげるという、村上春樹に特徴的な物語へすんなりと入り込めないのかもしれません。

ミャンマー以外のASEAN諸国で、村上作品はどの程度受容されているのかも気になります。
比較文化論の題材として、欧米や東アジア、スペイン語圏での村上作品の読まれ方は研究対象になっており、時々その研究成果を雑誌等で読むことがありますが、東南アジア地域が研究対象として取り上げられているのは、寡聞にして読んだことがありません。
東南アジアの中では経済的に成熟している国のシンガポールやタイで人気が出ても良いような気がしますが、実際のところどうなんでしょう?
ミャンマー語の翻訳があるくらいなので、(版権を正式に取得したかどうかはさておき)タイ語、マレー語、ベトナム語訳もきっと出版されているはずです。



また、東南アジア諸国の国民に読まれいるかどうかはともかく、バンコクのカオサンやシュムリアップのパブストリートなどのバックパッカーが集まるエリアの古本屋には、ジャック・ケルアックやハンター・トンプソンなどと共に村上春樹の本が並んでいることがよくあります。自分探し中の旅人の心情にぴったっりハマるのかもしれません。

カオサンの古本屋の棚

シュムリアップの古本屋の棚

ところで、ファン交流サイト「村上さんのところ」にこんな記述を見つけました。
ヴェトナムはさぞや暑いでしょう。僕は一度冬場のミャンマーで走って、暑さにめげました。ぼおっとして走っていて、間違えて大統領官邸に入りそうになって、武装した衛兵に睨まれました。
どうして、村上さんはミャンマーでジョギングしていたのでしょう?
推測するに、現在ミャンマー在住の村上作品の初期の英訳者アルフレッド・バーンバウム氏を訪ねたのではないでしょうか。いつ頃の話なのかも分かりませんが。

せっかくなので、この投稿を機に、ASEAM (Association of Southeast Asia Murakamians:東南アジア村上主義者連合)を結成したいと思います。
入会資格は、(1) ASEAN加入国在住者であること(国籍は問いません)、(2) 村上春樹の著作を三作品以上読んだことがあること(作品単位でカウントします。ex.『ねじまき鳥クロニクル』なら一〜三巻読んでひとつ、『海辺のカフカ』なら上下巻読んでひとつ。どの言語で読んだのかは問いません)の二つのみです。
今のところ、入会金や運営費も徴収する気はないので、入会希望者の方はお気軽にお知らせください。三ヶ国以上代表が集まったら、第一回ASEAM会議をヤンゴンで開催します。
活動内容はまだ考えていません。

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2013年7月24日水曜日

ミャンマー的映画生活

娯楽の少ないミャンマーで、夜を過ごすのに欠かせない娯楽が映画鑑賞です。
近所にDVD屋があり、ブルーレイディスク1枚が2,500チャット(約250円)とレンタル・ビデオ屋感覚で買えるので、時々利用しています。
そのDVD屋の様子が、最近非常に怪しい。
夜になっても、店先の電灯を点けず、入口は南京錠で施錠してます。


前もってここがDVD屋だと知らないと、何の店だか分りません。


そもそも営業しているかどうかも分らないのですが、内側から仄かに明かりが漏れているので、開いているのだろうと踏んで店の前に行くと、見張り(?)をしている女の子が鍵を開けて入れてくれました。


外の怪しさとは裏腹に、店内はそれなりに賑わってました。
著作権絡みで、当局から注意でもされたのでしょうか?
ミャンマーには、著作権法があるにはあるけど、まったく機能してないので、そういう懸念はなさそうなのですが。遊園地行くと、ミッキーマウスとミニーの着ぐるみとか、ガンダムのオブジェとかあるし(笑)。

せっかくなので、ここ最近観た映画の紹介をします。

寺山修司が激賞したというのも納得のシュールなキング・オブ・カルトムービー。
感情や情緒を排した、乾いた暴力と死が延々と続く。
メキシコ映画ですが、作家のロベルト・ポラーニョが長編『2666』で実際にあったメキシコでの連続女性殺人を、作中で一章を割いて描写していたのと同質の荒涼とした映像です。
ポラーニョの作風は、この映画に影響されている可能性が高いですね。
登場人物が無意味に鬼畜なのは、タランティーノへの影響も大ではないかと。

売っているDVDは中国製なのですが、中国では岩井俊二が人気があるのか、彼の監督作品をよくDVD屋で見かけます。
日本の国内に移民や流民で構成されるインナーシティがあって、治外法権の解放区になっているというアイディアとイメージの原型は、村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』に端を発すると思います。それを最初に映像化したのは石井聰亙の映画『爆裂都市』ですが、この映画もその系列に連なる作品です。
ところどころ魅力的な映像はあるのだけど、何か足りない。荒涼としたエリアでサバイブしている登場人物にあってしかるべきの、漲るような生命力とか圧倒的な暴力性が画面から伝わってこない。言い換えれば、エルトポ度が低い。
考えてみれば日本人のエルトポ度が低いから、メキシコのような残虐で無慈悲な大量殺人事件が起こらないわけで、それは喜ぶべきことですね。というわけで、日本人の幸福さと、文化的な限界を示す作品だと感じました。
『エルトポ』観た後に、この映画観たから、たまたまそう感じただけかもしれませんが(笑)。

素晴しい。ビキニ --> おっぱい --> お尻 --> ビキニ -->と映像がサブリミナルのように無限ループする眼福映画。ソフィア・コッポラを暴力的にしたようなガーリーな映像も最高。蛍光色を強調した人工的な色彩が美しい。映像はガーリーなんだけど、ストーリーはエルトポ度高し。言ってみれば、『ヴァージンスーサイズ』と『スカーフェイス』を足して割ったような映画。私は両方とも好きななので、この映画も当然好きです。

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