知人のミャンマー人のお姉さんが書いた短編がこのアンソロジーに収められているとのことで、本を貸してもらったのが読むきっかけでした。
読んだのがミャンマー来て日の浅い時期だったこともあり、作中の登場人物たちが、口さがない隣人たちの噂話の対象になって厄介な思いをしていたり、貧富の格差に直面しながらなんとか生活をやりくりしていたり、教育機会さらには利権を持った人間に取り入る要領の良さによって、社会的上昇に大きな差がつくことに複雑な感情を抱いていたりするのを読んで、この国の人たちも、みんな一見ニコニコして満足しているように見えて、それなりに屈託を抱えて日々暮らしているのだなと思ったものです。
ほぼ同時期に、ナイジェリアの女性作家チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの邦訳された短編集を読んで、テーマやモチーフがミャンマーの女流作家の作品と酷似していることに気がつきました。
彼女の作品では、ナイジェリアの人々が日々直面する格差や、国内の異民族同士の複雑な関係、欧米的な価値観とナイジェリアの伝統的・土着的な価値観による世代間の衝突や個人的な逡巡などが巧みに描写されています。
率直に言って、ミャンマー人作家の小説作法はかなり素朴で、技法的には百年くらい前の日本の自然主義文学を思わせる作品が多く、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの洗練された作品に比べると古ぼけて見えます。
アメリカ留学時にクリエイティブ・ライティングで修士号を取得し、2007年に最初の長編小説が新人小説家の登竜門であるオレンジ賞を史上最年少で受賞し、2010年には雑誌『ニューヨーカー』の「40歳以下の作家20人」に選出され、さらに2013年には二作目の長編が権威ある全米批評家協会賞を受賞した当代切っての才女と、50年近く検閲制度が続き、表現の自由が制約されていた上に、文学関係の情報の少ないミャンマーの作家をテクニックで比較するのは当然フェアではありませんが。
ただし、そうした技法的な巧拙を越えた、本質的な主題や問題意識のありように非常に近しいものを感じました。
チママンダ・ンゴズィ・アディーチェを知ったのは、都甲幸治著『21世紀の世界文学30冊を読む』(新潮社)の中で、彼女のために一章が割かれていたからです。こちらもブックガイドとして、非常に面白い本なので、現代の世界文学に興味のある方にオススメです。
両者の近似性を実感していただくために、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ著、くぼたのぞみ訳『明日は遠すぎて』(河出書房新社)から、以下引用します。引用文はふたつとも会話文なのですが、この会話中の「ナイジェリア」を「ミャンマー」に置き換えてもほとんど違和感がないことにミャンマー在住の方なら同意いただけるはずです。
富裕層の奥様方のパーティで、彼女らの子息をどこの学校にやるかを話し合っている場面。
「もし生半可なナイジェリア人教師のいるあんな学校へやって、自分の子供をだめにするつもりなら……」とミセス・アキン=コールは肩をすくめた。彼女は例の。英国とアメリカともろもろを混ぜた、場所の特定できない外国なまりでしゃべっていた。自分がどれだけ世故に長けているかかを世間から忘れられたくない裕福なナイジェリア人のなまりだ、ブリティッシュ・エアウェイズのエグゼクティブクラス専用カードにマイルをあふれんばかりに溜めた者のなまりだ。「シーリング」<『明日は遠過ぎて』収録>
地域の有力者が、イギリスから強制送還された金のない若者を、自分の利権ネットワークに入れてやると持ちかけている場面。
「おまえの最初の仕事は俺が金をもうけるのを手伝うことだが、その次は自分の金をもうけるんだな。必ず資産を過小評価して見積もり、必ずわれわれ全員が適正な手続きに従ってやっているように見せること。難しいことはない。不動産を入手する、購入代金をまかなうためにその半分を売却する、そうすればおまえはいっぱしの企業家だ! レッキに家を建てて、車を何台か買い、故郷の街からちょっとした肩書きをもらい、おまえの友だちに新聞にお祝いのメッセージを載せてもらい、となればもう知らないうちに、銀行に行くとすぐさま融資を持ちかけられるぞ、理由は、おまえがもう金を必要としていないのを彼らが知っているからだ。ああ、ナイジェリア! 明日のことはだれにもわからない!」<引用元同上>
この近似性は、ミャンマーもナイジェリアもイギリスの植民地だったことも起因しているのかもしれません。類似した近代以降の歴史を持つ国が、遠く離れた文化的なつながりのない場所で、現代では階級意識や社会・経済的な環境が似ているというのも不思議なものです。
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