2018年4月16日月曜日

ミャンマーで現代美術について考えた〜Chuu Wai Nyeinの個展での所感

水祭り前にダウンタウンのギャラリー、Gallery 65で開かれていた現代美術の女性アーティストChuu Wai Nyeinの個展に行ってきました。
普段はそれほどミャンマーの現代美術には食指が動かないのですが、今回はMyanmr Timesの文化欄の記事を読んで行くことにしました。
ミャンマーの現代美術にこれまであまり関心が持てなかった理由は、今まで見た数少ない作品の大半があまりに類型的だったからです。私見ですが、だいたい印象派風の風景画、カンディンスキー風の抽象画、ジャスパー・ジョーンズとかアンディ・ウォホール風のアメリカの60年代的ポップアートの三種類に分類できて、あまりオリジナリティが感じられませんでした。
今回はMyanmr Timesの記事に掲載されていた作品の写真を見て、何だか引っ掛かるものを感じて、ギャラリーまで足を運びました。

会場で配布されていたパンフレットとMyanmar Timesの記事を合わて説明すると、「マンダレー王朝黄金時代(筆者註:19世紀後半、イギリスの植民地になる前の最後のビルマ王朝)の女官のようでありなさい」という社会的な要請や抑圧、つまり出来合いの理想的な女性像を押し付けられ、ありのままの女性でいることが困難なミャンマー現代女性の置かれた状況を、伝統的なロンジー(ミャンマーの民族衣装である巻きスカート)柄の背景に、現代的なポーズを取るマンダレー朝時代の民族衣装を纏う女性像を描くことで、過去から現代までに繋がる女性に対する抑圧的な状況から解放されることを企図して表現している、と言ったコンセプトの作品群です。
これだけ読むと、「あぁ、あれね(棒」といった感想になります。
女性に対して抑圧的な社会環境が望ましくないのは当然ですが、こうしたテーマやコンセプトは、女性アーティストの主題として珍しいものではないからです。


現代美術の門外漢の私でも知っている例だと、シンディ・シャーマンの「Untitled Films Stills」が有名です。架空のハリウッド映画のスティル写真の中の女優をシンディ・シャーマン自身が演じることで、社会が認知する画一的な女性像をアイロニカルに表出した作品です。




日本だと、女性アーティストのやなぎみわが、エレベーター・ガールなど職業婦人に求められる同質性を、男性原理が支配する資本主義的な価値観に基づく都合の良い女性像として表現しています。





考えてみれば、同時代に生きていれば、問題意識の在処が似てくるのは当然かもしれません。重要なのは、同じテーマ、コンセプトから出発していても、そこからオリジナリティや作品としての強度がどれだけ導き出されていることでしょう。

Chuu Wai Nyeinの作品は、私にはオリジナリティと作品としての強度が備わっていると感じられました。社会や外部が要請する理想的な女性像の淵源を19世紀のマンダレー王朝に求めるのはミャンマー人にしかできない発想です。そのコンセプトを伝統的なミャンマーの絵画技法で描くことで、作品としても高い完成度を達成しています。

同じコンセプトを扱っても、アメリカだとハリウッド映画の女優、日本だと高度成長期の職業婦人、 ミャンマーだとマンダレー王朝の女官とモチーフが変わるところも、それぞれの国柄や環境の相違が反映されているようで興味深いです。
ハリウッドの主演女優、匿名的な職業婦人、近世王朝の女官というそれぞれの表現者による表象の差異は、深堀りすれば比較文化論としても機能しそうです。






ちなみにギャラリー行った時には、作家本人がパンフレットを配っていて、ちょとだけ話しました。
いきなりだったので、何も気の利いたことが言えずに、
「これ君が描いたの?」(その時は作家本人とは気がつかなかった)
「そう」
「へー」
みたいな間抜けな会話しかできなかったのが残念です。
思ったより若い女の子だったので、この人が作家だとは最初は思いませんでした。

今年は海外での個展も予定されているようなので、 今後は海外のアート・マーケットでも評価されるアーティストになるかもしれません。

Chuu Wai Nyeiの作品いいなと思ったらクリック!
  ↓   ↓   ↓   ↓   ↓   ↓  
にほんブログ村 海外生活ブログ ミャンマー情報へ
にほんブログ村

0 件のコメント:

コメントを投稿