2017年10月9日月曜日

ミャンマー人の世代の違いによる日本に対する認識の違いを考えた

ミャンマーで最も人気のあるフリーペーパー『Myanmore』に日本への留学経験のあるミャンマー人実業家の評伝が載っていました。1960年代にミャンマーから日本へ留学し、数年の滞在の後、1967年にミャンマーへ帰国し、紆余曲折を経て成功した人物です。
日本に渡航した年齢が19歳だったことから計算すると、現在70代の方だと思われます。
この方はミャンマー帰国後も日本への思い入れが強く、年に一度は訪日して友人達を訪ねているようです。そのため、二人のご子息も日本へ留学させたかったようですが、二人とも留学先は別の国を選んでいます。それなら孫を、と期待をかけたようですが、お孫さんはイギリスに留学してしまいました。ミャンマー人の中でも世代によって、日本への関心や評価が異なりますが、その分かりやすい実例なので、ご紹介します。


まずは、ミャンマーで成功したU Myint Waiさんの半生についの部分を引用します。
19歳の時に、Waiは日本行きの奨学金を勝ち取った。
そこで彼は、東京工業大学でエンジニアリングを勉強した。また、大阪外語大学で一年間日本語を学び、東芝に勤務した。

それでも、祖国での理想の実現の思いが、ミャンマーへの帰国に駆り立てた。

「私はその頃、ミャンマーのリーダー達の真似がしたかった。日本へ渡った30人の志士達、同じく日本へ渡った普通の留学生達もね。彼らは帰国後、ほとんどすべての分野でリーダーになった。軍隊、財界、政界、社交界、何人かは共産党のリーダーになったし、社会主義のリーダーになった人もいる。そんな彼らを見て、自分もこの国の未来のリーダーになりたいと思ったんだ」とWaiは過去を振り返った。

彼が1967年に帰国した時、ビルマは社会主義国家に変わっていた。
人生は、彼の思い通りには進まなかった。
生まれた子供のための服を見つけることさえ容易ではなかった。
ありがたいことに、工業省所轄の工場の責任者としての仕事を、友人の尽力で得ることができた。

1970年代の彼の成功への道のりは、創意とハードワークによってもたらされた。Waiは消火器に使われる化学薬品を発明したことで、工業省の賞を受賞した。
それから続く年月を彼は社会的地位を上り詰めた。彼の言い方を借りれば「周囲に押し上げられた」。
次に、彼のご子息とお孫さんについての記述です。

何度か彼の二人の息子を日本へ留学させようと試みたが、結局果たせなかった。長男は3ヶ月しか日本に滞在しなかった。そして次男は、シンガポールとオーストラリアを選んだ。

今では笑って彼は言う「それなら孫をと思ったんだがね。でも、彼が選んだのはイギリスの大学だったよ」
彼の長男が1970年代生まれだとすると、日本の景気が良かった1980年代後半を見ているはずですが、日本には三ヶ月しか滞在しなかったようです。日本との相性が良くなかったのかもしれませんが、何より父親のように日本への思い入れが無かったことが、理由として大きかったのかもしれません。
お父さんの世代には、日本帰りのリーダー達がロールモデルとしてミャンマーに存在していましたが、次の世代には、そうした人びとの存在感も薄れていたのでしょう。

写真を見ると次男はまだ30代のように見えるので、物心付いた時には、日本は経済的に停滞し始めていた時期です。孫になると、生まれたのが2000年前後なので、なおさら日本を選ぶ理由はないはずです。

気になったので、Wai氏がミャンマーに帰国した1967年から、10年毎の一人当たりGDPの日本の順位を調べてみました。ほぼ10年毎の統計値ですが、途中にバブル崩壊が始まった1992年を挟みました。2017年の統計値はまだないため、代わりに2016年を選んでいます。
1967年 25位
1977年 23位
1987年 10位
1992年 5位
1997年 23位
2007年 29位
2016年 24位
<出典>"Ranking of Countries with Highest Per Capita Income"

こちらは同期間のアメリカの一人当たりのGDP値との比較。90年代後半から、日本の伸び率の低さが目立ちます。


一人当たりのGDP値の減少は、人口減に原因を求めることは基本的にできません。この統計値は、国民一人当たりの付加価値(労働生産性)の推移と見るのが妥当です。
2000年以降になると、順位が50年前と同じくくらいになっているのは、感慨深いものがあります。

私は別に、今の日本人が昔の日本人と比べて、能力がなかったり、勤勉ではなかったから、この経済的な停滞が起きたとは思いません。現在の日本人も、過去の経済成長期に働いていた日本人と同じくらい、能力があり、勤勉で、努力していると思っています。
問題は、市場の環境も競争の条件も変わったのに、努力の方向性、つまり戦略が変わっていないことです。
Wai氏が勤務されていた頃の東芝は、日本のエクセレント・カンパニーでしたが、今や存亡の危機に立たされています。市場環境や競争条件の変化に対応した戦略が取れなかったのが、主な要因でしょう。
2000年代に入ってから、従業員に課題なノルマや長時間労働を課す、ブラック企業の問題が表面化していますが、多くのケースは、戦略の失敗(経営の判断ミス)を戦術、すなわち現場の努力で補わさせようとすることが原因で起こっているように見受けられます。

日露戦争時には有効であった銃剣による突撃、奇襲、白兵戦を、第一次世界大戦以降に起きた兵器のイノベーションを経て、戦争の戦略・方法論が変わった太平洋戦争時点においても頑なに実行し、多大な損害を出し、前線の失敗を現場になすりつけていた、旧大日本帝国陸軍の轍を踏んでいるような気がして仕方ありません。
この件について、ご興味のある方は、未読なら『失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)』をお読みください。
組織論・経営論の観点から、先の大戦の戦線での意思決定や戦略が分析されている名著です。


1980年代に出版されたこの本が、ロングセラーになっているにも関わらず、太平洋戦争時と同工異曲の問題が解決の目処が立たないまま、20年間以上続いているのは、同調圧力と組織内で空気を読む力が過剰に要求される日本型組織の業の深さを感じさせます。
もっとも、会社は軍隊と違って、同じ組織で戦死するまで働く必要はなく、自由意思で辞めることができるので、従軍を強いられた先人に比べればずいぶん恵まれています。

Wai氏のご子息とお孫さんが、留学先に日本を選ばなかったのは、日本型組織の閉鎖性や変化や異質な存在を嫌う同質性に気がついたからではなく(長男の場合は可能性がありますが)、日本の経済的な停滞とミャンマーでの文化的なプレゼンスのなさが理由でしょうけど。
この記事からも読み取れるように、ミャンマーでは、50代以上の年齢層の人びとは、日本へ対する関心、評価が高く、年齢層が若くなるにつれて、日本に対する関心が薄れていきます。特にインターナショナル・スクールに通う富裕層の子女などは、欧米の文化への関心が強くなる傾向があります。
日本発のサブカルチャーで、ミャンマーの若者にヒップに感じられるものがないのも理由でしょう。ヒップホップやスケートボードなどのストリートカルチャーは、ヤンゴンの街中でも普通に見かけます。
Wai氏の長男が40代、次男が30代、孫が20代と考えると、彼に続く世代が日本への留学を希望しないのも当然かもしれません。
そのうち、ミャンマーで広く受容されている海外のソフトコンテンツについての記事も書きます。
平和な時代に生きていて良かった。
トルストイの箴言「私は崇高な戦争より、卑劣な平和を愛す」
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