2015年7月19日日曜日

ミャンマー縫い子物語

現地の新聞にミャンマーの縫製工の女性のインタビューが掲載されていました。
こうした工場労働者となる階層に属する人々は、海外メディアからは、外資系企業がミャンマーに進出する大きな要因である「低廉な労働者」 としてひとくくりにされています。
また、ミャンマー国内でもこうした階層の人々には、社会的な発言の機会がほとんどありません。
いわば顔も声も持たない、集合的な存在として扱われている人々なのですが、当然、こうした人たちも個別の人生を歩み、それぞれの喜びや悲しみをそれぞれの人生の中で経験しているはずです。
こういった人々のライフストーリーは、外国人にはなかなか知る機会のないので、ご紹介いたします。

読んでて意外だったのが、記事中の女性が同じ職場で9年も働いていたことです。
ミャンマーでは、長くても2、3年で仕事を辞めることが一般的です。
やはり事情があって家族を背負っている人は、ミャンマーでもそう簡単に職場を去らないのが分かりました。

少し記事を補足します。
記事中の女性は、生地屋を開業したいと語っていますが、ミャンマーの婦人服はオーダーメイドが主流で、生地屋で布を購入し、仕立て屋に持ち込んで服を作るのが一般的なため、生地屋はミャンマーの女性にとってポピュラーな小売店です。

ミャンマーの生地屋兼仕立て屋

ちなみに、少数民族が作る貴重な手織りの布を外国人向けに販売しているショップもあります。


Textile House Myanma
No.86/B 1st, Shinsawpu Street, Sanchaung Township, Yangon

ミャンマーの少数民族が作る布を紹介した本が、日本でも出版されています。



それでは記事をどうぞ。

『Myanmar Times』ISSUE 17 | JULY 10 - 16, 2015 より記事転載(原文は英文)
  Made to measure 縫い子物語 Text by Nyein Ei Ei Htwe

 


朝早くから彼女は大忙しだ。一番年下の妹の弁当を用意し、シャワーを浴びるよう急き立て、教科書を準備したかを大声で尋ねる。Wai Wai Tunは、二人の妹とヤンゴンのThingangyu地区の村で暮らす23歳だ。彼女と二番目の妹Kalayamiは、通勤に15分程かかる場所にあるThuwunna地区の縫製工場で働いている。

お世辞にも、仕事は創造的な関心が満たされるものとは言えないが、Wai Wai Tunは、多くの人が職を見つけられない中で、自分が働けていることを幸運だと感じている。
他界した両親は、ともにヒンズー教徒で、その血統はWai Wai Tunの漆黒の肌と目の色に現れている。下の妹二人はヒンズー風の名前つけられているものの、彼女は自分のミャンマー風の名前を気に入っている。

「私は9年前にこの仕事を始めました。私の友達が、年齢を偽って仕事を見つけるのを助けてくれました。私はその頃には背が高かったので、うまくいきました。それ以来、ずっとここで働いています」と彼女は語る。
彼女の父親U Mu Tuは彼女が12歳の時に亡くなり、母親が2年後に後を追ったため、彼女は一家の大黒柱となることを余儀なくされた。彼女は、一番下の妹Endaraniの学費を賄うため、二番目の妹Kalayamiも自分が働く縫製工場の仕事につけた。
彼女たちは、両親が暮らし世を去った家に住むため、ひと月に20,000チャットを家賃として払っている。
「だいたい朝の5時に起きて、お弁当を準備しなければなりません。そして家に帰ったら、夕飯の準備です」。
彼女のシフトは朝の7時15分から夕方4時までだが、残業して7時まで働いている。彼女の手取りは120,000チャットだ。80人から90人からなる縫製工のグループが16組あり、9年働いた彼女は、みんなの名前を覚えている。

「最初の5ヶ月はヘルパーから始めて、熟練工が縫製するところを見て、昼休みの間に練習します」。彼女は自分が熟練した縫製工として認められていることに、誇りを感じていると語った。
就業時間中に事故が合った場合に備えて、工場には小さな診察室がある。生産的な縫製工にはボーナスが与えられ、誕生日のお祝いもある。
新聞記事によく載っている、工場で働く労働者が疎外されているような雰囲気はあまり感じられない。

「お給料にも満足しています。Endaraniが学校へ通うお金も作れましたから。彼女は今6年生です。私たちは、彼女には良い教育を受けて欲しいと思ってます。私は学校を13歳で止めなければならなかったし、Kalayamiは私より早く4年生の時に止めました。だから私たちは、Endaraniには出来るだけ長く学校へ通わせたいと考えています」。

Kalayamiは今20歳で、背丈もWai Wai Tunと同じくらいになり、Wai Wai Tunへ時々口答えするくらい成長した。
「私は妹たちに優しく接しようと思ってますが、時々Kalayamiが大声で口答えするので喧嘩になります」とWai Wai Tun。「でも、私たちはお互いのことをよく理解しています」。

両親の死後、3人の少女はSouth Dagon区の親戚を頼って移り住んだが、これは上手くいかなかった。
「親戚の人たちは、私たちよりさらに貧しく、私たちにお金を要求しました。さんざん言い合った後、故郷の郊外へ引っ越しました」とWai Wai Tun。
Nga Moe Yeik川のほとりの掘建て小屋に2ヶ月住むことになった時は、雨期の満月と新月の夜に川の氾濫が2回あった。そのときは祖母のように慕っていた、大家の女性の家に泊めてもらった。

Wai Wai TunとKalayamiは、飲食、喫煙、喧嘩、窃盗を禁じている、工場の規則を遵守している。そうした行為は、解雇につながるからだ。休みの日は、土曜の午後からと日曜の終日だ。Wai Wai Tunは今の職場に満足しているものの、独立するために十分なお金を稼ぐことを夢見ている。
彼女の夢は、将来、生地店を開くことだ。 時々、彼女は9年間もの間、毎日同じ縫製作業を繰り返していることにうんざりする。「デザインがとても奇妙だと感じるときもあります。韓国へ輸出するジャケットは、羽飾りがついていました。それと同じ物を韓国の昼メロで見たことがあります」。

彼女は今の職場を去れば、同僚を失うので辛いとも言う。疲れている時に両親のことを思い出し、彼らが生きていたら、自分ももっと良い教育が受けられて、妹たちの面倒を見る責任からも解放されたのに、と考えることもある。
「でも、私は今の環境を受け入れています。私は働かなければならないし、働かないのは無用だと言うことですから」。
去年、彼女はボーイフレンドと別れた。でも、彼女と妹たちのことを考えてくれる男性が見つかれば、いつかは結婚することも考えている。

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