2013年8月20日火曜日

変わらない東南アジア観


20年程前に手に取って、途中で放り出した金子光晴の『マレー蘭印紀行』を最近読み終りました。最初に読んだ時は、あまりに文章が格調高い美文過ぎてリーダブルでないので挫折したのですが、今は年食ったせいか、舞台となっている東南アジアの一地域に住んでせいかは分りませんが、最後まで楽しんで読み通せました。
詩人の金子が、1928年から1932年の間に訪れたシンガポール、マレー半島、インドネシアでの見聞を書き留めた紀行文です。東南アジアの亜熱帯の倦怠と、繁茂する植物の暴力的なまでの生命力、そこに暮らす現地の人々の悲しさと楽観が、詩人の巧みな筆致で精緻に表現されています。
約80年前のことを記録した紀行文ですが、現在とほとんど変わっていない事象も多いです。
無聊に嘆くゴム園や鉄鉱山で働く日本人達。どんな辺境でも逞しく商売を営む華僑達。仕事で訪れた外国人達の東南アジア人観。これらは、往時とあまり相違がありません。

たとえば、こんな一節

馬来(注:マレー)人をかたるものは、かれらを、蓄積心のない、遊惰な民だという。
短智で、享楽的で、鼻っぱしらが強く、怒りっぽいくせに、潔癖をもっていない。概して天寿が短く、衛生的観念が少い。たかい精神生活への希求がない。銭使いが荒く、あすはあすまかせの、無成算である。食欲が多くて、信用できない。システムのある大きい仕事ができない。道徳観念が荒廃している等、等である。それに対してかれらを弁護するものはいう。馬来人は、いっぽん気で、はらがうつくしく、金銭利害に恬淡としている。同宗旨の人間は、一家とみなしているので、一飯の饗応は誰にでも惜しまない。かれらほど、生をたのしんでくらしている人間はない。仕事は午前中で、あとはたいていは昼寝をしたり、よりあつまって楽器を鳴らしたり、おどりの稽古をしてあそびくらしている。そのほか、愛情がこまやかで、気がさくい。

さすがに東南アジア諸国も、当時よりは近代化・資本主義化しているので、今では先進国とここまで極端な差はありませんが、ミャンマーでも地方の農村とかに行くとこんな感じですね。

第一次世界大戦が終結後、各国がブロック経済政策を採るまでの数年間は、近代史の中でもでグローバル化が進んだ時代だったので、ゴム農園等を経営する外国資本が現地に進出している状況は、現在と通じる部分も多いですね。
そして東南アジアの圧倒的な自然と、そこで暮らす外国人が不定形な生活に対して感じるよるべなさは、当時も今も変わりありません。
東南アジアで暮らす外国人の気分を追体験するには格好の本です。

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