2019年10月27日日曜日

【長文】ミャンマーが経済的な意味で発展することはかなりむつかしいと思うけど、それは必ずしも悪いことではないかもしれない

私見ですが、ミャンマーが経済的に発展することは、これからもかなりむつかしいと感じています。
ここには、改善や計画性という概念がないからです。住んで7年ほど経ちますが、いつまでも同じ問題や過ちが繰り返される。
乾季になれば、発電能力の不足で毎年停電が頻発するし、雨期になれば毎月のように、豪雨で道路が冠水し、家屋への大規模な浸水が発生する。それに対して、抜本的な解決策が講じられることも、今後の計画や指針が明示的に示されることもありません。
行政や政策担当者だけではなく、民間レベルでも同じことが相変わらず起きています。
時間にルーズ、突然言うことが変わる、契約を守らない(というか最初から契約書を読んでいない)、品質管理のレベルがどの先進国からも許容できないほど低いなど。
最初に来た時にびっくりしたのは、多くの人が業務遂行能力が低いことを恬として恥じないことです。同じミスを犯しても、あまり恥ずかしいとか、改善すべきだとか思わないようです。
7年たっても、この辺りのマインドセットは変わっていないように見えます。
ここに住む上で、こうした傾向をネガティブな事象として捉えがちだったのですが、必ずしもそうでないかもという考えが浮かんだので、ここに記します。

きっかけは、内田樹『街場の読書論』を読んでいて、平川克美『株式会社という病』の書評の中で、同著の以下の引用文を読んだことです。
著者の平川氏の生家が営んでいた、町工場の1950年代の様子を描写した部分です。
当時、わが零細工場労働者たちは、自らの賃金を、大企業のそれと比較して、羨訴の感情に訴えるということはあまりなかったように思う。妙な言い方かもしれないが、ここには「安定した格差」があったのである。
 かれらにとって、あちらはあちらであった。こちらの世界(=零細企業)とあちらの世界(=大企業)は、別の原理で動いており、それらを繋ぐようなものはどこにも見出すことができなかった。
 町工場の工員たちは、働き場所を中心とした半径一キロメートルの世界の中で、家計を営み、映画を見、パチンコをして遊んでいるように見える。この頃、わが家の近隣の工場には、なぜかどこにも卓球台があった。工員たちは暇さえあればよく、ピンポンをして歓声を上げていた。確かに、生活は貧しいが、矩を越えずといった安定的な貧しさの中に、多くのひとたちが安住していたのである。
<中略>
かれらは、今日のような自己実現の夢を育もうとはしなかったかもしれないし、 格差社会を意識するといったことはなかったかもしれないが、それ以上にかれらの世界には安定した倫理観と、生活上の慰安があったというべきだろう。



ミャンマーでは、毎日夕方になると、建設現場の日雇い労働者や人力車の車夫が、5、6人の輪になって路上で、みんなで歓声をあげながらチンロン(ミャンマーの蹴鞠)に興じています。ここには、労働者が集い「歓声を上げる」場がまだ残っています。

経済発展の中で日本は、ここで活写されているような安定した貧しさの中で安住できる町工場のような場所を失い(製造業の多くは人件費の安い海外へ移転した。海外へ移転できない工場の多くは、非正規労働者や海外からの技能実習生などを雇用し、最低限の生活を維持するのも困難なレベルの賃金しか払っていない)、能力や才能の有無に関わらず、自己実現の夢に苛まれる人々が飽和した国になりました(意識高い系とかは、こうした状況が生んだ現代病ですね)。
これは、社会システムと価値観が、グローバル資本主義的なあり様に集約されて、それほど付加価値や生産性が高くない仕事に就いて「安定した格差」に安住し、「あちらはあちら」、「矩を越えず」といった態度で生活を営むことがむつかしくなったからでしょう。

ここでは資本主義を、貨幣を媒介として財・サービスなどと交換する制度を内包する社会システムと定義します。貨幣を媒介として交換される事物は、市場価値という尺度で、一元的に(あちらもこちらも同じく)貨幣の数値としてランク付けされます。市場で価値があるとされたものは高価(貨幣への換算値が高い)で、されないものは安価に(貨幣への換算値が低い)。ランク付けされるのは、人間個人の資質・能力・才能も含まれます。
個人の属性が貨幣へと換算される時、市場により高く評価される属性とそうでない属性が生じます。サッカーの一流選手は、ラグビーの一流選手よりも高い年棒を得ているし、ポップ音楽のヒットメーカーは、民謡の名人よりも多くの印税を稼ぎます。
この差異は、必ずしも才能や能力や成果物の質の高さによって生じるわけではなく、あくまで市場性の多寡や有無によって起こります(需要と供給の均衡点で価格は決定する)。
大学生の頃、『「いい人」というのは、決して褒め言葉ではない』という言説を聞いたことがありますが、あれは「いい人」には市場性がない(その資質によって高い貨幣価値を得ることができない)という意味合いだったのでしょう。
「いい人」であることは、人間にとって本質的な価値であるかもしれませんが、その資質が貨幣として換算され得るものでない限り、資本主義的なシステム内の価値観では高く評価されない。良くも悪くも、資本主義的なシステム内では、市場がその人に付けた値札の高低で、人はその価値を計られる。

未見ですが、『ジョーカー』という映画が話題になっています。
この映画を観てないのに書きますが、『大ヒット問題作「ジョーカー」共感と酷評がまっぷたつのワケ』という記事を読んで、だいたいどんな映画が想像がつきました。
市場性のある才能や、高い貨幣価値を生み出す才覚のない、単なる「いい人」が社会的・経済的に疎外された結果、極悪人に変貌する映画なのでしょう。
この映画はミャンマーでも公開されていますが、この地ではほとんど話題になっていません。アメリカとかイギリスの大学卒業してミャンマーに帰ってきた超富裕層の子女が、ちらほらFacebookに感想を投稿しているくらいで、それ以外の普通のミャンマーの若者は感情が揺さぶられることも、主人公の心情に共感することもないようです。
その理由について、考えてみました。

記事を以下に引用します。
貧困、格差、社会保障の打ち切り、雇用環境の悪化、行政サービスの劣化・縮小、虐待・ネグレクト、介護、障害への無理解、差別──アーサーは現代社会が抱える様々な「負の側面」に苦しみながら生きる男だ。それらのうちのどれかが、とくに彼をとりわけ責めさいなんでいるわけでもなく、すべてが等しく彼をじりじりと閉塞して孤立した世界へと追い込んでいった。
この映画の舞台となっているのは、アメリカの架空の都市ゴッサムシティですが、ミャンマーの状況と比較してみましょう。
  • 貧困 --> 物凄くある。おそらくゴッサムシティよりもある
  • 格差 --> 物凄くある。おそらくゴッサムシティよりもある
  • 社会保障の打ち切り --> そもそも社会保障が、はじめからない
  • 雇用環境の悪化 --> 教育システムが劣悪なので、それなりの職につけるのは労働人口の約5%程度
  • 行政サービスの劣化・縮小 --> まともな行政サービスは、最初からほぼ存在しない
  • 虐待・ネグレクト --> あまりない。少なくとも自分の家の子供は大切にする。ただし、メイドとか使用人の扱いが酷い場合はかなりある
  • 介護、障害への無理解、差別 --> 社会的なサポートはほぼない。障害については、前世の行いが影響していると考えられているので、こうした人々をサポートすることにもあまり関心を持たれない
比べてみると、ゴッサムシティに負けず劣らずというか、ミャンマーの富裕層を除く大多数の人々は、ゴッサムシティよりもハードな社会環境に生きています。
にもかかわらず、『「ただしく」ふるまえない人びとは、社会的・経済的に窮地に追い込まれていくばかりか、社会が「価値がある」とみなす能力に恵まれた「ただしい」人びとによって、「ただしくない」と烙印を押されて疎外・排除され、不可視化されて、関心や慈しみさえも得られなくなっていく』物語に共感できないのはなぜでしょう。
それは、ここに暮らす大多数の人々が、ゴッサムシティの市民(及び資本主義国家に住む人々)が「価値がある」とみなす能力、すなわち市場性及び換金性のある能力に恵まれた人間を「ただしい」はと思っていないからでしょう。つまり、彼ら彼女らのコミュニティでは、市場がその人に付けた値札で、一元的に人間の価値が計られることがない。
私がミャンマーに来た当初、不思議に思った「多くの人が業務遂行能力が低いことを恬として恥じない」のは、彼ら彼女らのコミュニティ内では、仕事の能力が人間の価値評価と繋がっていないからだと思います。仕事なんてできなくても、それはまったく自分の社会的な評価や価値とは関係ないと思っていれば、特に反省する気にも改善する気にもなりません。

そもそも、ミャンマー社会で一般的に最も尊敬されているのは、解脱して涅槃(ニルヴァーナ)に達した上座部仏教の僧侶です。解脱した人は、この世の事象に無関心(自分の生老病死にすら)で、周りの空気を読まない、無為の人です。むろん経済的な達成や立志出世とも無関係で、労働は一切しません。
こうした究極の無為の人が尊敬され、善男善女からの托鉢・寄進により、衣食を保証されているのがミャンマーを含む南アジアの上座部仏教のありようです。
資本主義的な価値基準とは違う文化・価値体系の中で、大多数のここの人々は暮らしています。

最近、グローバル資本主義の権化ともいえる企業Amazoの倉庫の労働環境が問題となっています。
参考:「日本人はなぜアマゾンに怒らない」潜入ジャーナリストが暴く現場の絶望

「6時間45分の労働時間で歩行距離は20キロを超え」、「10時間働いている人は30キロ以上になる」という過酷な労働環境で、常にセンサーで業務のパフォーマンスを監視され、時間当たりのピッキング数が会社の基準とする数値に達しないと、リアルタイムで警告が入るようです。精神的にも肉体的にも過酷な業務で、神奈川のAmazonの倉庫では、わかっているだけで5人の方が勤務中に亡くなっているそうです。


ミャンマーは、インドと中国の中間に国土があり、タイとも国境を接しているため、東南アジアの物流拠点として適した立地であるといわれています。
仮にAmazonが東南アジアに進出して、物流センターをミャンマーに置いて、同じ労働環境で人を雇用したら、何が起こるでしょう。
かなり確信を持って答えられますが、初日の半日でほぼ全員が辞めます。少なくとも3日以内に全員が辞めます。
常に時間あたりの作業量をセンサーで監視されながら、会社の求める基準に達しないとアラームが鳴って急き立てられるような非人間的な労働環境に、ミャンマー人は耐えられないし、耐える気が端からありません。
イギリス、アメリカ、フランスのアマゾンの物流センターも、同様の労働環境らしいですが、あちらは移民がこうした過酷な業務を担っているのでないかと推測します。ミャンマーは移民を出す方の国で、受け入れる国ではないですから、過酷で非人間的な労働環境を我慢する労働者層は存在しません。

ある程度、経済が発展して、国民がグローバル資本主義的な価値観に一元化されると、賃金を得るために、自分の感情や気分に蓋をして、仕事のために自我を抑えるという働き方が一般的となります。しかし、ミャンマーでは、基本的にそうではありません。自分の気分や情動を制約されるくらいなら、仕事をしない方を選びます(物凄く給与が高いとかなら別ですが)。
そもそも、ミャンマーがグローバル資本主義の一員として組み入れられることを望んでいるのは、政府高官と地場財閥企業の経営層とその親族を合わせた約1%とグローバル企業でオフィスワークに就ける可能性のある大卒者の約5%くらいで、残りの94%の人たちには関心のない事柄です。むしろ、残り94%の人々にとっては、グローバル資本主義の流入により、交換可能な廉価な労働者として扱われ、過酷な労働環境が到来する(Amazonの物流センターのような)デメリットの方が大きい可能性すらあります。
こうして考えてみると、大多数のミャンマー人のマインドセット(改善しない、無計画)が変化しないのは、もしかしたら無意識のうちに、グローバル資本主義的な価値観や労働環境の流入を阻んでいるのではないかという気がしてきます。

高野 秀行, 清水 克行『辺境の怪書、歴史の驚書、ハードボイルド読書合戦』という対談本を読んで知ったのですが、以前は人類の文明の進歩から取り残されていたと思われていた狩猟採集で暮らしている辺境の「未開な」少数民族は、現在の文化人類学の見地では、いったんは農耕などの新しい文明に移行したものの、意図的に原始的な文明・社会に戻ったと考えられています。
彼らは、国家による租税や兵役・労役などを避けるため、敢えて原始的な生活に立ち戻った。そのプロセスの中で、拓かれた農地から未開の森へ移り住み、以前はあった文化を失い、文字を捨て、場合によれば神話すら忘れた。戦略的に、国家機構にとってまったく交信不能の異形の辺境民になることで、国家による収奪や搾取が不可能な存在となった。
実は、今のミャンマーの変わらなさも、グローバル資本主義からの辺境であり続けることで、先進国のグローバル資本からの収奪や搾取を避けるために、無意識のうちに選択されている戦略ではないかという気がしてきます。
グローバル企業が大量に進出して、アマゾンの物流センターのような労働環境の職場ができたり、市場性及び換金性のある能力に恵まれた人間を「ただしい」と一元的に評価する価値観が広がり、疎外された人間が増えた結果、ジョーカーのような犯罪者が出現する社会になることを大多数のミャンマー人は望んでいないでしょうから(経済的なメリットの大きい政府高官や地場財閥企業の経営者などを除いて)。



ミャンマーは外資系企業が進出するのに厳しい環境だと言われて久しいですが、その要因のひとつである大多数のミャンマー人に共通するマインドセットは、グローバル資本主義というウィルスがミャンマーに感染するのを防ぐ抗体として機能しているのかもしれません。

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