2021年12月31日金曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーバードライブ』11

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  待ち合わせの場所は、ダウンタウンのギャラリー〈Burm/art〉だった。マハバンドゥーラ通りの東端にあるそのギャラリーは、現地に住むアメリカ人女性が運営していると聞いた。
 ギャラリーでは個展が開催中だった。磁器の立体作品がいくつかの台座の上に置かれていた。壁に取り付けられた作品もある。台座の上の作品群は、植物と女性像や人体パーツが融合した不思議なフォルムのものだった。ぱっくり開いた大きな傷口を持つトルソーには、内部から伸びた枝が複雑に交差し、葉を茂らせ、棘を尖らせ、花を咲かせていた。壁に取り付けられた蛇をモチーフにした作品群も胴部から触手のような突起が飛び出し、葉と花が絡みついた内臓を備えていた。
 面会の約束をしていたSoe Mayの作品だった。彼女はアメリカのアート誌に「注目すべき三〇歳未満の三〇人のアーティスト」の一人に選出されたこともある。日本でその記事を読んだ私は、今回の面会を申し込んでいた。アメリカとミャンマーを行き来している彼女は折良く私のミャンマー訪問時に一時帰国していた。
 ギャラリー内の壁で仕切られた事務スペースから二十代後半の中国系の女性が現れた。
「Soe Mayさん?」と私は声を掛けた。
「連絡してくれた日本の人?」と彼女は言った。
「そうです。お会いできて嬉しいです」
 背は高くないが恰幅が良い体型で、セミロングに伸ばされた髪は額で横分けされていた。化粧気はない。Vネックのシンプルな黒のワンピースを着ていた。
 彼女の促すままに傍のテーブルを挟んで向かい合わせてに腰掛けた。
初対面の挨拶を済ませると展示されている彼女の作品について尋ねた。「磁器の立体作品ばかりなのは何か理由はあるの?」
「私は中国系ミャンマー人の三世としてここで育ったの。私の実家は、ここの近所のチャイナタウンにある。家には先祖の代から伝わる花瓶や茶器があって、磁器は身近な素材だった」
「自分の民族的なアイデンティティを反映させるためにこの表現を選んだ?」
「最初はそんな深い理由はなかった。創作を始めたのも化学を学ぶつもりでシアトルに留学したんだけど、定員いっぱいで入れなくてファインアートの学科に入ったのがきっかけ。いろいろと試してみたけど、絵筆でカンヴァスをなぞるより、手で直接粘土を捏ねる方がしっくりきたの」
「人体のパーツと蛇が作品のモチーフになってるけどこれはなぜ?」
「人体パーツの作品はある種の自己像ね。伝統的なミャンマーの社会が求める女性性に対する違和感や自分の内側にある他者性が表れている。蛇はいろんな意味に表彰化されることに惹かれるの。邪悪さの象徴とも吉兆とも見られる。ミャンマーの神話では守護神のひとつでもある。そしてわたしの干支は蛇なの」
「二つとも君のアイデンティティに根ざしてるんだ。どちらのモチーフにも内部が露出してて中に植物のようなものが見えるね」
「自分の経験や精神性のいろんな要素が出てきたみたい。受けた傷と生命力、死と再生、儚さと永遠性、どうとでも解釈できるけど自然に湧き出てきたものなの。作ってるうちに自分のアイデンティティが自然に現れた感じ」黒めがちな瞳を真っ直ぐに向けて彼女は答えた。「故郷を離れて創作を始めたアメリカでの孤独感や疎外感、それ以前にも、ビルマ人がマジョリティであるミャンマー社会に、中国系ミャンマー人として完全に溶け込めなかったことも関係してるかもしれない」
 対立する多様な要素を含みながら、それらを一体化した彼女の作品は彼女の出自や経験も反映されているようだ。「君の作品にはミャンマー的な土着性と同時に世界に繋がる普遍性も感じさせる。閉じられた部分と開かれた部分が両立している。それは君が中国系ミャンマー人であることやアメリカでの経験が反映されたからなんだ」
「おそらくそうなんだろうけど、あまり自己分析はしないことにしてるの。それが足枷になって作品の幅が狭まるのを避けたいから」
「それもそうだね」と私は答えた。「ところで僕は日本の福岡というところに住んでる。あまり知られてないけどヤンゴンの姉妹都市でもある。ここに福岡南アジア美術館という南アジアの現代美術に特化した市営の美術館がある。ここに作品を収蔵することに興味がある?」
「その場所もその美術館のことも知らないけど、公営の美術館に私の作品が展示されるのは魅力的ね」
「それにASEAN各国からレジデンス・アーティストも招聘している。一定期間住んで、創作活動のためのアトリエが提供されるし、ワークショップを開催することもできる。よかったら向こうに、いま受け入れ枠があるかどうか確認してみるよ」アメリカのアート誌に取り上げられた実績のある新進アーティストなら美術館側も受け入れに積極的だろうと予想して提案してみた。
「制作拠点にしてるアメリカとASEANで最大の現代美術のマーケットのあるシンガポールでの活動で手一杯だから日本のことは考えたことがなかった」と彼女は戸惑いがちに答えた。「ミャンマーには条件に合う窯と粘土素材がないからシアトルの工房を借りて制作してるんだけど、そうした制作に必要な環境は用意してもらえるの?」
「大丈夫だと思う」
「考えてみるわ。アメリカよりも日本の方が近いから制作拠点としては便利だし」
「それに東京より福岡の方が南アジアに立地が近い分、文化的な親和性がある。日本で初めてアジアの現代美術展が開かれたのも福岡だし」さらにひと押ししてみた。彼女の創作するユニークな立体作品を東京よりも先に紹介したかった。「帰国したら担当の学芸員と相談してみる」 
「わかったわ。まだ、決めてたわけじゃないけど。日本に行くことは考えたことがなかったし」
「できるだけいい制作環境が準備できるよう交渉してみる」
「ありがとう。条件次第で考えてみるわ」

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2021年12月27日月曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーバードライブ』10

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 翌朝、窓から差し込む日射しで目を覚ました。外を見ると燕脂色の僧衣に身を包んだ托鉢僧達が近隣の民家を回っていた。在家の住民達が僧が抱えた鉢の中に米を注いでいる。ミャンマーで毎朝繰り返されている光景だ。
 バスルームで洗顔して外を散策することにした。ホステルのある路地から大通りに出ると向かいにカンドージー湖が見える。通りを横切って、湖のある柵内の敷地に入った。敷地内には湖を囲んで公園やレストランが点在している。
 湖上に渡された木製の遊歩道を進むうちに、賑わっている場所があるのを見つけた。そちらを目指して歩くと〈Yangon Farmers Market〉と入口に垂れ幕が掛かった広場に行き着いた。入ってみると三十あまりのテントが設置され、テント毎に様々な野菜や果物が販売されていた。見たこともない南国の果物を並べられたテントもある。フレッシュジュース、ジャム、コーヒー豆などの加工した食品も売られている。この場所で定期的に開かれている朝市のようだ。看板やパッケージに、オーガニックであること、地場産であることを謳っているのが目立った。訪れている客は、外国人とミャンマー人が半々だった。民生移管後に外国人居住者が増えて、こうしたオーガニック食品の需要も生まれているのだろう。ひと通りテントを眺めて、来た道を引き返した。
 
 宿に戻ると、一階のカフェにビル・ブラックがいた。
「おはよう、どこかに行ってたの?」そう言って、テーブルの上のMacBookから顔を上げてこちらを見た。
「湖の周りを散歩してた。朝市をやってたよ」と言うと、「ああ、あれは毎週末やってるんだ」と彼は答えた。 
 私も彼の近くのテーブル席に座った。「オーガニックとかローカル・メイドとかを強調した店が多かったけど、そういうのがこちらでは盛んなの?」と訊いてみた。
「ここに住む外国人と一部の裕福なミャンマー人相手の商売だね。まあ、うちのカフェの客層もそうなんだけど」
「ここを始めてどれくらい経つの?」と私は尋ねた。
「一年半くらいだね。その前はここの1LOで働いてたんだけど」
「ミャンマーは住んで長いの?」
「八年くらいになるね。イギリスの大学でビルマ語を学んだから、ミャンマーに来るのは当然の成り行きだった。君は観光に来たの?」
「ミャンマーは三回目なんだ。東南アジアの現代美術のリサーチのために来た。日本でアート関係のビジネスをしている」近くにいたミャンマー人のスタッフにスムージー・ボウルとカプチーノを頼んだ。
「共同経営者のプーがギャラリーをやってるからよければ紹介するよ。彼女は今シンガポールに行ってるけど、今週戻ってくる。たしか君の滞在は一週間だったよね?」
「ここには一週間泊まる予定だ。それから瞑想センターに行くつもりなんだけど。ギャラリーをやっている君の共同経営者に会えると嬉しいな。いろんなツテがあった方がいいから」
「戻ってきたら教えるよ。彼女もミャンマーにいるときは、だいたいここにいるから」
 スムージー・ボウルとカプチーノが運ばれてきた。スムージーにはスライスしたマンゴーとバナナとキウイがトッピングされていた。スプーンですくって口に含むとココナッツ・ミルクと果物の甘い香りで口内が満たされた。「ありがとう。瞑想センターに行くのは君の共同経営者に会ってからにするよ」と私は答えた。

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2021年12月14日火曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーバードライブ』9

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 チェックアウト時間の十一時前に部屋を出て、レセプションにキーを返した。コンドを出ると、スーツケースを引いてコンドと同じブロックの裏手にあるカフェ〈ブルーダイ・カフェ〉に入った。ミャンマー行きの飛行機は夜の便なので、それまで時間を潰すつもりだった。
 トンローの住宅街の一画にあるそのカフェは、近隣の若いタイ人が主な客層だった。MacBookでグラフィック・デザインをしたり、動画を編集している独立系のクリエイターらしき若者も数人いた。梁の横木が剥き出しになった天井と寄木張りのフローリングのウディなインテリアの店で、四分の一程度が物販スペースになっていた。アメリカのヴィンテージ・ウェアの古着を吊るしたラックと地元の作家による陶器が並べられた棚が置かれている。木枠のガラス窓から前庭に植えられたパームツリーとシダ植物が見える。とりあえずパスタとカプチーノを頼んだ。昨日ビールを飲んだ〈ロイヤルオーク〉の隣にあった日系の古本屋で買ったフィリップ・K・ディックの小説を読んだ。
 カフェには二時間ほど滞在した。スーツケースを引いてスクンビット通りに出て、歩道脇のエレベーターで高架を登り、トンロー駅の改札に達するまで十分くらいだった。トンロー駅からBTSに三十分ほど乗車してモーチット駅に着くと、高架を降りてバス停へと向かった。ドンムアン空港行きのエアポートバスのバス停にはすでに十人くらいのバックパッカーが列をなしていた。行列の最後尾に並んでバスを待った。午後の日射しが容赦なく肌を刺した。たえず行き交うバスやタクシーが吐き出す排ガスが周囲に沈殿していた。熱気と息苦しさで意識が朦朧としてくると、いったい自分がどこに居て、どこに向かおうとしているのかも分からなくなってくる。空港行きのA1バスが来るまで二十分ほど待った。頭がぼうっとしたままバスに乗り込んだ。スーツケースを荷物置き場に置いて、なんとか空いていた座席に座る。タイ人二割、外国人が八割くらいの割合でバスは満席だ。女性の車掌が乗客一人ひとりを回って、個別に三〇バーツを徴収して、バス券を渡していく。高速道路を三十分ほど走った後、バスは空港への連結路に沿って旋回しながら国際線ターミナル前に到着した。
 ドンムアン空港国際線ターミナル1は搭乗手続きを待つ旅行客でごった返していた。L C Cの旅客数が世界最多であるこの空港は、ASEAN各国と中国各地との定期便が発着の大部分を占めている。スーツケースを持った旅行客の行列が、チェックイン・カウンター・エリアの外側に設けられた柵を幾重も取り巻いている。通路が人とスーツケースや手荷物カートで塞がれているため、空港内を歩くのもままならない。私の搭乗便の出発時刻は午後七時半で、空港に着いたのが 午後三時半頃なので時間の余裕はあるはずだが、この様子だと搭乗手続きのためチェックイン・カウンターにたどり着くのにどれだけ時間が掛かるのかも分からない。とりあえずチェックイン・カウンター・エリア入口の反対側まで達した列の最後尾に並んだ。私の搭乗便の受付はまだ始まってなかったが、列で待っているうちにその時間になるだろう。
 二時間あまり並んで、チェックイン・カウンター・エリアの内側に入った。カウンターで搭乗手続きを済ませ、スーツケースを預けた。搭乗時間まで一時間半程度あったので、空港内のフードコートでグリーンカレーを食べ、シンハービールを飲んだ。
 搭乗ゲート前のロビーの座席もほぼ満席で空いてるシートは少なかった。床に座り込んでスマートフォンを触っている乗客も多い。
 搭乗ゲートから離れた場所の空いている席を見つけて座った。搭乗時間まで一時間あまりあるので、カフェで読んでいたフィリップ・K・ディックの小説の続きを読んだ。荒廃した火星で日々の暮らしに苦闘する地球からの移住者や未来を幻視する自閉症の少年が登場するが、移動で疲れているせいかストーリーの展開が頭に入らない。
 読書に集中できなくなると周囲を見渡した。ミャンマー行きの複数の定期便のための搭乗ゲート並ぶ出発ロビーなのでここで待つ乗客はミャンマー人が多かった。ある程度裕福なミャンマー人にとってバンコクは手近な買い物エリアとなっている。特に若いミャンマー人にとっては、最新のファッションや風俗に触れられる先端エリアとして人気が高い。
 予定の出発時間を三十分ほど過ぎてから搭乗開始のアナウンスがあった。搭乗ゲートをくぐって、外に横付けされたランプバスに乗り込む。駐機場を横切って、タラップの付けられた機体前にバスが着くと、乗客はめいめいバスを降りて、タラップを登り、機内に入っていく。
 ノックエアDD4238便は定刻より三十分あまり遅れて離陸した。バンコクの高層ビル群と渋滞した車のヘッドランプの連なりが織りなす夜景が遠ざかると、窓の外は闇に包まれた。離陸して一時間ほどで機体はヤンゴン上空に達した。街の上空を飛んでいるはずだが眼下の光はまばらだった。ただ、ライトアップされて黄金色に輝く巨大な仏塔シュエダゴン・パゴダだけが闇の中で光を放っていた。
 ヤンゴン国際空港に到着したのは午後九時前だった。イミグレーションの列に並ぶ人間の数はそう多くなく、十五分ほどで入国できた。空港で手持ちの米ドルを現地通貨のチャットに両替し、スマートフォンを使うために五〇〇〇チャット分のプリペイドカードを買った。ミャンマーに来るのは三回目で、現地キャリアのS1Mカードはすでに持っているため、必要分をチャージをすればいい。
 スーツケースを引いて入国ロビーに出るとタクシーの運転手が次々と群がってくる。ミャンマーでは、タクシー運賃は料金交渉をして決める。空港発のタクシーは、相手側が強気になるため、運賃が割高になる。スマートフォンで配車アプリのGrabを起動してみたがディスプレイ上に車が現れない。空港からの利用客には相場より高い料金を請求できるため、システムが料金を自動計算するGrabを使わせないのが不文律となっているようだ。空港の敷地外の通りまで出てGrabを使うという方法もあったが、朝からの移動で疲れていたので気が進まなかった。何人かのドライバーと交渉して、宿まで一万チャットで折り合った。相場より二、三割割高だがしかたない。
 空港を出発した車はピーロードを南下して進んだ。まばらに並んだ蛍光灯の街灯が街路を仄暗く照らしている。インヤー湖に差し掛ると湖の尽きるところで左折してインヤロードに入った。前方に黄金色に輝くシュエダゴン・パゴダが見える。パゴダを覆うのは本物の黄金で、肉眼では見えないが尖頭部分の装飾にはダイヤモンドやルビーなどの宝石が七〇〇〇粒以上ちりばめられていると聞く。ASEAN最貧国であるこの国の富のすべてをこの仏塔が吸い込んでいるような気がしてくる。
 タクシーが予約していたホステル〈Bodhi Taru〉の前に停車した。通りの両側に四、五階建てのローカルアパートメントが並ぶ裏通りだった。僅かな街灯に照らされた薄暗い通りの先に、黄金色のシュエダゴン・パゴダが輝いている。
 ホステルは一階がカフェで、二階が宿泊施設となっている。一階部分は一面のガラス張りなので、天井から吊るされた暖色の白熱灯に照らされた内側が見渡せた。十席ほどの木製のテーブルとソファが三席、奥は右側がキッチンカウンター、左側に二階の宿泊施設に通じる階段が見える。カフェの営業時間は過ぎていりようで客はいなかったが、三十代半ばの白人男性が奥のテーブルでMacBookを開いていた。
 中に入って「今夜から宿泊予定なんだけど」と声を掛けると、立ち上がって「ああ、予約していた日本人だね。ようこそ。僕はオーナーのビル・ブラック」と言った。立つと身長が百八十センチ近くあるのがわかった。金髪の長髪を後ろで縛ってポニーテールにしていた。細面の顔にボストン型の眼鏡が載っていた。欧米人にしてはスリムな体型だった。どことなく三十代の頃のジョン・レノンを思わせる風貌だ。アクセントと雰囲気からおそらくイギリス人だろうとあたりをつけた。
「案内するよ」彼はそう言って、カウンター下からキーを取り出した。彼の後に付いて奥の階段を登った。ドミトリーが二室、個室が二室の小規模なホステルだ。宿泊サイトで予約したが、空いていた個室を予約していた。キングサイズのダブルベットが置かれたシンプルな内装の部屋だった。バスルームとトイレは共用のため部屋内にはない。テラスに面した窓からミントグリーンに塗られた向かいの民家が見えた。
「じゃあ。明日の朝も下のカフェにいるから何か用事があれば遠慮なく言って」そう言うと下に降りて行った。
 ビールが飲みたかったが周囲に買えそうな売店はなかった。朝からの移動で疲れていたので、共用のバスルームでシャワーを浴びて、歯を磨くとすぐに寝た。

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2021年11月12日金曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーバードライブ』8

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 トンロー駅前で配車アプリのGrabを使ってタクシーを捕まえた。タイでは流しのタクシーを使った方が安くつくが、目的地が説明しにくい場所なのでGrabを使うことにした。東南アジアをサービスエリアとするGrabは、ライドシェアサービスのUberとは異なり登録されたタクシーを呼びだすことができる。走り出して三十分ほどで、車は仏教寺院ワット・マクット・カサッティリヤーラームを右に見ながら、ラマ八世橋を渡り、チャオプラヤー川を越えた。東南アジア特有の茶色く濁った川面を午前のやわらかな陽射しが鈍く光らせていた。タイで川向こうに出ることは滅多にない。チャオプラヤー川沿いは、川を見下ろす眺望を備えたラグジュアリー・ホテルが立ち並ぶエリアだ。市街地の対岸にもペニンシュラやミレニアム・ヒルトンといった富裕な観光客向けのホテルがあるが、もちろん私には無縁の場所だった。
 Kotchakorn Maleeと会うのは二回目だ。一年前にヤンゴンのカフェで会ったのが最初だった。そこで、ドイツ人の写真家が植民地時代から残るヤンゴンの歴史ある建造物を撮影した写真をスライドで写し、それについて解説すイベントが開催されていた。リサーチのためヤンゴンに滞在していた時に、Facebookの告知を見て、参加した。会場となったカフェも植民地時代の建物ををリノベーションしたものだった。高い天井に大型の扇風機が取り付けられたボールルームのような広いスペースが、コロアニアル・スタイルのインテリアで飾られていた。中にはチーク材で作られた大きなテーブルが十台ほど置かれていた。たまたま座った席の隣にいたのが彼女だった。
「あなたは日本人? わたしはタイから来たの」と向こうから話しかけられた。ショートカットの二十代の女の子だった。オーバーサイズ気味のレモンイエローのカットソーに、程良く色落ちした太めのストレート・ジーンズを合わせていた。こうしたこなれたカジュアル感は、ミャンマーの同世代の子にはない。
「そう日本から来た。君はどうしてここに来たの?」と私は尋ねた。
「昨日、このカフェに来た時に、イベントがあるのを知ったから。ヤンゴンへの移住を考えてるの。今住んでるのはバンコクなんだけど」と彼女は答えた。
「仕事を求めてヤンゴンからバンコクへ移住するミャンマー人は多いけど、その逆は聞いたことがないな。でもどうして?」
「ピカピカの大きなビルがどんどん建てられてるバンコクが好きじゃないから」軽く唇を歪めて、そう答えた。東南アジア人にしては彫りが浅い顔だった。ただ、黒目がちな大きな瞳は東南アジア的な特徴を備えている。おそらく中国系のハーフかクオーターだろう。「ここはバンコクよりのんびりした空気が流れてて、そこに惹かれるの」
 たいていのミャンマー人は–––特に事業活動をしているミャンマー人は–––ヤンゴンが
バンコクのようなビルが立ち並ぶ、資本の集積地になることを望んでるんだけどなと思ったが黙っておいた。何に幻想を抱くかは人それぞれだし、結局のところ人は今目の前にないものを求めるものなのだろう。
「あなたはどうしてヤンゴンに?」
「タイとミャンマーの現代美術についてリサーチしている。今は東京のギャラリーに勤めてるんだけど独立を考えているんだ。東南アジアの現代美術を日本に紹介できないかなと思ってる」
「わたしもバンコクに小さなアトリエを持ってるの。友達とグループ展を時々開いてるわ。もし、バンコクに来ることがあったら訪ねてみて」
「いつもヤンゴンに来る前にバンコクに滞在しているから今度お邪魔するよ」
 Facebookで繋がったので、バンコクに来る時はメッセンジャーで連絡すると言った。そのとき話した通り仕事を辞めて独立準備中の身となった私は、一年前の約束を果たそうとタクシーを走らせていた。
 チャオプラヤー川を渡ってから十分くらいで目的地に着いた。観光客がまず足を踏み入れることはない郊外の住宅街の路地裏だった。スクンビット通りに林立するコンビニエンス・ストアもここでは見かけない。門柱の前に立つと、スマートフォンで到着したことを告げた。
 横手の小さな鉄門の閂を開けて出てきた彼女は杢グレーのタンクトップとショートパンツ姿だった。午前十一時頃だったが、まだ寝起きの顔をしていた。シャワーを浴びたばかりなのか、まだ髪が湿っている。再会の挨拶をすると、内側に通された。外壁は煉瓦造りで、通りに面して小さな丸窓が付いた建物だった。建物前の駐車スペースには車がなかった。築三十年は経っている民家で、一階がアトリエとして使われていた。壁には制作途中の作品のカンヴァスがいくつか無造作に立て掛けられていた。パウル・クレー風の淡い色彩の抽象画だった。小さなテーブルに置かれたPCの画面には、ジャン=リュック・ゴダールの『中国女』の映像が流れていた。
「昨日遅くまで絵を描いてたから、さっきまで寝てたの」湿った髪をいじりながら彼女は言った。「もうすぐ友達と合同展示会をやるの」
「ここに展示するの?」ここを会場にするなら、展示できる作品数は限られそうだ。
「ここは狭いから、友達が働いてるホステルを借りるわ」と彼女は答えた。「あとで打ち合わせに行くから一緒に行く?」
 迷惑じゃなければと私は答えた。
「大丈夫。みんなフレンドリーだから。じゃあ、軽くランチを食べてから行きましょう」
 彼女に促されるまま、奥のキッチンのある小部屋に入った。小さなテーブルを差し向かいに座って、彼女が皿に盛ったカオマンガイ
を食べた。
「どう?」と彼女は訊いた。
「美味しい」と私は答えた。実際、鶏肉はジューシーだし、ご飯はナンプラーの風味が程よく効いていて、店で食べたのと遜色がなかった。
「ここに越してから毎日自炊してるから、腕が上がったわ」彼女は微笑んだ。
「ここに住んでどれくらいになるの?」と私は尋ねた。周囲に住居しかない郊外の鄙びたエリアに、二十代の女の子が一人で住んでいることが不思議だった。
「二年くらいね。その前は街中に住んでたんだけど、ビルが立ち並ぶ風景と騒がしいのが嫌で引っ越したの」
 去年、ヤンゴンで彼女と会った時に、バンコクの喧騒を逃れるためにヤンゴンに移住したいと言っていたのを思い出した。「そういえば、ヤンゴンに住むのはどうなったの?」
「長期滞在できるビジネス・ビザが取れなくて諦めた。アパートも探しもしてたんだけど」と彼女は答えた。ミャンマーでビジネス・ビザを取るには投資企業管理局(Directorate of Investment and Company Administration)に登録された企業の推薦状が必要となる。
「ミャンマーの会社で、わたしのために推薦状出してくれそうなところ知ってる?」と彼女は訊いた。
「残念ながら役に立てそうもない。今まで三回行ってるけど、アート関係者としか会ってなくて、ビジネスパーソンとは縁がないんだ」と私は答えた。ギャラリーや展示会巡りしかしていないので、現地の日本人駐在員や起業家とはまったくと言っていいほど接点がなかった。
「そうなの。ヤンゴンは諦めてもうしばらくバンコクに住むことにする」
 昼食を済ませると、彼女は着替えと化粧のため二階に上がり、私はコーヒーを飲みながらキッチンで待っていた。勝手口の先に小さな庭が見えた。草むらの上に、錆びた子供用のブランコが打ち捨てられたように置かれている。先住者が残していったのだろう。
 二階から降りて来た彼女は、ふんわりしたパステルブルーのワンピースを着ていた。淡いベージュのアイラインを引いて、ライトピンクのリップと同系色のチークを塗っていた。二人で家を出て、路地を抜け、大通りまで出てタクシーを拾った。彼女が運転手に行き先を告げると、今度はプラ・ポック・クラオ橋を渡り、チャオプラヤー川を越えた。十五分ほど走って着いた先は、彼女の家のちょうど対岸にあたるカオサン地区の外れにあるホステルだった。屋上庭園のある二階建ての鉄筋の建物で、ピロティとなったエントランス部分にはウッドデッキが敷かれていた。デッキの上には、ガーデンテーブル、チェアと数台の自転車が置かれている。中に入ると仕切りのない広いオープンスペースが広がっていた。入口正面の奥がレセプション、残りのスペースをギャラリーが併設されたカフェが占めている。高い天井から多数の電球が吊るされ、所々で星座のような模様を形作っていた。世界各地からやって来たバックパッカーたちが、カフェやテラスでスマートフォンやノートPCを操作していた。
 カフェ・スペースの席に着くと、彼女はバブルティー、私はマンゴージュースを頼んだ。
「友達を紹介するわ」彼女はカフェのスタッフに手を振った。二十代の長髪で背の高い青年だ。テーブルに近づいてきた男の子に向かって言った。「彼はテンゴ、日本からタイのアートをリサーチしに来たの」そして私に彼を紹介した。「こちらはヴァン。ここで働きながらアーティスト活動をしてるの。アート仲間の一人よ」
 私がヴァンと握手すると、彼はKotchakornの隣の席に座った。ネイヴィーの無地のTシャツと色落ちしたジーンズ姿に、履き古したエア・ジョーダンを履いていた。 
「これから、ここでやるグループ展の打ち合わせがから仲間が来るよ」と彼は言った。「僕の前の作品は、あそこのギャラリースペースに展示している。今は新しいシリーズに取りかかっている」そう言って、ギャラリースペースを指さした。
 席を立って、展示されている作品を見てみた。彼の名前が記された名札が付いた作品は、タイの神話をモチーフにしたらしいスピリチャルな画風の絵画だった。その他にも、絵画やオブジェが展示されていた。ギャラリー・スペースは三〇平米メートル程度で、そう広くない。アート作品の展示の他に、タイのクリエーターによるオリジナル雑貨が販売されている。アート作品については、美大生の習作の域を出ていないように感じられた。
 しばらくして、グループ展の仲間たちがカフェにやって来た。全部で、男の子が三人、女の子が二人の、二十代のグループだ。みんな中産階級の子らしいこなれたカジュアルなファッションだった。タイ語なので内容はわからないが、おそらく展示方法や各人の展示する作品数を話し合っているのだろう。新たな美術運動を目的としたグループというよりも、アマチュアの同好会的なサークルという雰囲気だ。アートへの関心が高まっているタイでは、こうした同好会的なサークルが数多く同時発生しているのだろう。これまでの急激な経済成長が踊り場に達したタイが、文化的な成熟期に入っていることを実感させる。
「この後みんなでご飯食べに行くけど、一緒に行かない?」Kotchakornが私に訊いた。
「ありがたいけど、明日はミャンマーに行かくから遠慮しとくよ」と私は答えた。みんな英語が達者なものの、ただ一人タイ語のできない私がいて気を使われるのが気詰まりだった。
「残念、またバンコクに来る時は教えて。今度日本に行く時は連絡する」とKotchakornが言った。
「また来ると思う。日本に来る時は教えて。今日は楽しかった、ありがとう」いくぶん多めにタイバーツ紙幣をテーブルに置いて、テーブルを離れた。
 外でタクシーを拾って、運転手にプロンポン行きを告げた。BTSの駅前で降りて〈ロイヤルオーク〉に向かった。夕方の早い時間にも関わらず、ハッピーアワーでビールの割引があるせいか、店内は外国人客で賑わっていた。外国人夫婦の客もいれば、タイ人のガールフレンドを連れた中年の外国人男性もいる。店の喧騒を眺めながらタイガービールをジョッキで三杯飲んだ。

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2021年11月2日火曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーバードライブ』7

 

第二章
7

 タイでのあと一件のアポイントメントは三日後だった。その間にバンコクの街を歩いて回った。
 プラ・スメン通りは、〈タイランド・ストレージ〉のKullaya Wongrugsaが言うとおり、新たなギャラリーの集積地となっていた。ギャラリーはカフェなどに併設された小規模なものが多い。カフェは中産階級と思しきタイの若者で賑わっていた。在学中の美大生や卒業して間もない若いアーティストの作品の展示が中心だ。経済成長が一段落して、踊り場を迎えたこの国の若者の関心がアートなどの文化的な方向に向かっているのが見て取れる。同じ通りのセレクト・ブック・ストアには、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェやジュノ・ディアスの英語版のペーパーバックと村上春樹のタイ語訳の著作が棚に並んでいた。同時代の世界文学の潮流を反映させた棚作りだ。こうしたオーナーの嗜好や関心が店の品揃えとして表現されている独立系書店は、ある程度、文化が成熟した世界各地の都市で見かける。隣国のミャンマーのような途上国ではこうした本屋はない。
 コンドのあるトンローから隣駅のエマカイにかけて、セレクトショップ、古着屋やサードウェーブカフェが点在している。セレクショップではエンジニアド・ガーメンツのシャツ、古着屋ではビームスやユナイテッド・アローズのワンピースを見つけた。バイヤーが日本にも買い付けに来ているようだ。トンローの路地にタイファンクや伝統音楽のモーラムやルクトゥーンを専門に扱う中古レコード屋があった。こうした音源はフィジカルでないと入手できないため、世界中からDJやコレクターが買い求めにやって来る。テキサスのサイケ・ファンク・バンド〈Khruangbin〉のように、こうしたタイの民族音楽に影響受けた国外のミュージシャンも二〇一〇年代に入ってから現れ始めている。
 バンコク郊外のシーナカリンのナイトマーケットの広大さには圧倒された。平安時代の日本の学僧が大唐西市の、あるいはヴェネツィア共和国の商人が元の大都宮城の市場の賑わいを見た時に同じ驚きを感じたかもしれない。
 鉄道駅の跡地で開かれているナイトマーケットは、あらゆる形と色のネオンや照明に照らされた無数の店が見渡す限り立ち並んでいる。市場は、屋台、レストラン、雑貨などのテーマ毎にエリア分けされていて、古い倉庫を店舗に改装したヴィンテージ・エリアでは、一九五〇年代のキャデラックやシボレーが展示・販売されていた。こんな車は映画でしか見たことがなかった。このエリア付近のレストランは、アメリカのダイナーを模した建物だった。これほど広くはないものの、バンコクには他にも大規模なナイトマーケットが少なくともあと五つはある。とても一週間の滞在では回りきれなかった。
 トンローの隣駅プロンポンのアイリッシュ・パブ〈ロイヤルオーク〉はいつも欧米人の客で賑わっていた。コンドのプールでひと泳ぎした後、昼はここのオープンテラス席でビールを飲んで、ハンバーガーを食べるのが日課になった。パブは日系のスーパーマーケットの側にあるため、日本人の駐在員の家族がよく目の前を通り過ぎるのが見えた。昼間からビールを飲んでいる自分が、彼らから遠く隔たった場所にいるのを感じた。

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2021年10月25日月曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーバードライブ』6(2)

第二章
6(2)

 約束の時間が近くなったので、二階から降りて一階の入り口に面した部屋まで戻った。大理石でできた丸テーブルの傍で、三十代前半の洗練された雰囲気のタイ人女性がスタッフらしき中年女性と話していた。
「Myria Aromdeeさんでいらっしゃいますか?」と私は話しかけた。
「Myriaです」と彼女は答えた。
 意志的な眼差しと、くっきりした眉が印象的だ。化粧気はない。長く伸ばされた黒髪は額の中央で分けられ後ろに束ねられている。中肉中背の引き締まった体は黒のプラダのナイロンドレスで包まれていた。ノースリーブのドレスから伸びる腕には無駄な贅肉がなく、適度な筋肉が付いていた。おそらくジムで鍛えているのだろう。靴はナイキの黒のスニーカーだった。
「メールで面談のお約束していた小林です」
と私は言った。近づくとウディ系のフレグランスの香りが漂ってきた。
「ああ、日本の方ね」と彼女は言った。「たしかタイの現代美術をリサーチしているとメールに書いてたわね」
「ええ、東南アジアの現代美術を日本のコレクターに紹介するつもりです。タイの有望な作家がいれば。南アジアの現代美術を専門とする日本の美術館へ購入や展示を仲介しますよ。逆に日本の作家の作品をタイのコレクターに販売することも考えています」
 彼女はフロア奥にあるチーク材でできた八人掛けのテーブル席を指し示した。私が椅子に座ると、テーブルを挟んだ向いの椅子に腰掛けた。「日本にタイの現代美術は知られているの?」
「残念ながらまだあまり知られていません。東南アジアの現代美術は未開拓な分野です。だからやり甲斐があるとも言えます」
「日本への進出は考えたことがなかったわ。来年、アートバーゼル香港に参加するのを検討してたけど。ここで売ってる陶器は日本で買い付けた物もあるの」
 地酒の容器が含まれているセレクションからしてしっかりした骨董品店で購入してはないだろう。おそらく買い付けは古道具屋などでされていると予想したが、もちろん口には出さなかった。日本にもヨーロッパの蚤の市で買い付けた日用雑貨を、ヴィンテージやアンティーク風に装って売りつける業者がいるのでとやかく言えない。
「日本の福岡という場所に住んでますが、ここには福岡南アジア美術館という南アジアの現代美術に特化した、世界で唯一の美術館があります。モンティエン・ブンマーの作品もここに収蔵されてますよ」
ふうんと彼女はあまり興味のなさそうな返事をした。「私は美術館で扱うような作品よりも、もっとコンテポラリーなものに関心があるの。ここで新しい作家を育てて、世界的に有名にするのが目標よ」
「なるほど。このスペースは作ってどれくらい経つのですか?」と私は話題を変えてとっかかりを探した。
「完成したのは去年ね。昔、祖父母が住んでた屋敷をリノベーションしたの。見ての通り敷地までの道が狭いから工事や物品の搬入は大変だった」
「お会いする前にひと巡りしましたが、個人宅としてはとても大きいですね」
「祖父は貿易商として成功していたわ。元あった家にも、世界中から集めた工芸品や雑貨で埋めつくされていた。小さい頃、両親に連れられてこの家に来ていた私はいつもそれを興味深く眺めてた。それが海外の大学に行った理由のひとつだったかもね」
「どこの国の大学に行きました?」と私は尋ねた。
「十年前にFⅠT(Fashion Institute of Technology)を卒業したわ。ニューヨークにある学校よ。知ってる?」
「名前くらいは」と私は答えた。
 話し方や態度から、私との会話に気乗りしないのが窺えた。おそらく彼女の早口のアメリカン・アクセントの英語を聞き取れずに何度も聞き直したのも関係しているだろう。東南アジアで英語が不自由な人間は、教育水準と社会階層が共に低い人間とみなされる。日本のような翻訳文化がないこれらの国では、英語力は受けた教育の程度を示す指標であり、文化資本にアクセスするための必要不可欠なツールだからだ。英語が堪能でないと、相対性理論もニーチェもダミアン・ハーストも知らない人間だと自動的にカテゴライズされる。
「FⅠTではヴィジュアル・プレゼンテーションと展示デザインの学科を選んだ。そこで学んだことはここを作るときに役立ったわ」
「卒業後はすぐにタイに戻ってきたんですか?」
「それから五年間、ロウワー・イースト・サイドのギャラリーで働いたわ。ニューヨークのギャラリーには行ったことがある?」
 ないと答えると、彼女の私に対する評価はさらに目減りしたようだった。
「現代美術の仕事をしてるなら行くべきね」と彼女は言った。
「経済的な余裕ができれば行きたいと考えてます。ニューヨークの滞在費は、私には高過ぎる」
「タイだとアート関係者は、ほぼお金持ちなんだけど日本ではそうじゃないみたいね」
「日本は別にお金がなくたって文化情報にアクセスできる国ですよ。公営の美術館がタイよりも充実してる。英語が得意じゃなくても、ガゴシアンやハイザー&ワースがニューヨークのトップギャラリーであることは知ってる」と私は答えた。
 彼女は相変わらず、私の言うことには関心がないようだった。これ以上ここに居ても進展が望めないので、面談に応じてくれた礼を言って、外へ出た。湿度の高い空気が体を包み、熱帯の日射しが肌を刺した。

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2021年10月19日火曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーバードライブ』6(1)

第二章
6(1)

 スマートフォンでグーグルマップを見ながら目的地を探したが、それらしき建物が見当たらない。チャオプラヤー川沿いの、元は倉庫街だったエリアにあるギャラリーが目的地だった。昼過ぎの日射しを浴びながら、最寄り駅のサーバタクシンからここまで歩く間に汗まみれになった。
 辺りを何度か行きつ戻りつしていると、車一台がようやく通れる幅の小道があるのに気が付いた。道の両側は植えられたシダ類の熱帯植物が繁茂している。個人宅の引き込み道かもしれないので躊躇ったが中に入ることにした。五〇メートルくらい前に進むとガラス張りの大きな二階建ての木造建築が現れた。入り口の上に「Warehouse 54」という真鍮製の切り文字が取り付けられている。ここで間違いなかった。
 大きなガラスのドアを開けて中に入った。人影が奥のカウンターに見えたが、約束の時間には間があったので、建物内をひと巡りすることにした。元は広大な邸宅だった物件をリノベーションして展示スペースやギャラリーに転用したようだ。床はコンクリートの打ちっ放しで、入り口近くに直径が二メートル近い大理石の丸テーブル、その後ろに八人掛けのチーク材で作られたダイニングテーブルが置かれている。吹き抜け構造の建物の中庭は四面をガラスで囲まれていて、内側にガーデンテーブルとチェアが置かれている。奥の窓からは熱帯植物の生い茂った庭園が見渡せる。庭園内に木製の支柱に支えられた祠が見えた。
 動線に従い中庭を回り込んで反対側の部屋に出ると展示スペースが広がっていた。部屋の両側に天井まで達する棚が置かれ、色とりどりの陶器が展示・販売されている。床には様々なオブジェが置かれている。タイの神話を反映したのであろうトーテムポール、木造の立体作品、壁に吊るされた民族柄の織物の間をくぐって、中庭を見下ろしながら奥に見える木製の階段を登る。
 二階は、壁を白く塗ったギャラリースペースとなっていた。こちらの床は、古材を使ったフローリングだ、絵画、写真、インスタレーションなどジャンル毎にそれぞれ別の部屋に展示している。私の他に若いタイ人のカップルが二組いた。
 タイ人アーティストによる絵画作品の横には、タイ語と英語で作家の説明文が貼られいる。複数の作家の作品が数点づつ展示されている。名前を知らない作家ばかりだった。
 壁で仕切られた一画にはインスタレーション作品が展示されていた。扇風機の作る風で大きな布がはためいている。後ろの壁には、プロジェクターでモノクロームのタイの古い風景写真が映されている。河畔を行き交う渡し船、青果市場の賑わい、タイの伝統的な様式で建てられた邸宅などが数秒壁に映っては次の写真に切り替わる。
 個人所有のスペースとしては破格の規模だ。一階の棚で展示・販売されている陶器の中には、日本の地酒の古い容器などヴィンテージとしては首を傾げるものも含まれていたが、大した瑕疵ではない。建物、調度品、什器、展示のすべてが個人の美意識により貫かれている。いったいどんな人物がこの施設を作ったのだろう?

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2021年10月14日木曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーバードライブ』5 (2)

 第二章
5(2)

 〈タイランド・ストレージ〉のオーナー、Kullaya Wongrugsaと会うのは今回で二回目だった。裕福な中国系タイ人の家系に属する三十代半ばの女性だ。ギャラリーの他に自らがディレクションするファッションブランドも立ち上げている。今日は自ブランドの赤のゆったりとしたフレアドレスを着ていた。彼女のふくよかな体型を反映してか彼女のブランドの服はルーズなシルエットが特徴だ。ドレスの色に合わせて、真紅のリップを塗っていた。パンプスの色も同系色の赤だ。ただしセクシャルな雰囲気ではない。フレームの太い黒のスクエアタイプの眼鏡を掛けた丸顔のせいか、なにかのアニメーションのキャラクターめいた印象を与えていた。
 東南アジアの富裕層は中国系が多く、家業を継ぐのは男性の兄弟であることがほとんどだ。そのため、富裕層の家系の二代目、三代目の女性が、実業を離れて趣味のアートやファッションや音楽の世界に進むのはよくあるケースだ。彼女もそうした東南アジアの富裕層に属する女性の典型例だった。
 ギャラリーでは、タイ人のグラフィック・アーティストの個展が開かれていた。極彩色のシンメトリーな幾何学模様で描かれた植物や昆虫の図像の作品が壁一面に掛けられている。どことなく田名網敬一の作風を連想させた。再会の挨拶をして、最近のタイの現代美術のトレンドを尋ねた。
「相変わらず新しいギャラリーがあちこちでできてるわ。プラ・スメン通り辺りが若い人に人気ね。ただきちんとアートを学んでないオーナーが作ったギャラリーもあるから、全部がちゃんとしたところというわけでもないけど。まだタイでは体系的に美術を学んだ人は少ないの」そう言って、肩をすくめた。  
 たしかにタイは現代美術の展示が中心で、西洋の近代美術を収蔵・展示する美術館はない。日本で人気の高い印象派やピカソやマティスのような巨匠の作品の実物を目にする機会もない。
「私は今、日本の福岡というところに住んでますが、ここには福岡南アジア美術館という南アジアの現代美術に特化した美術館があります。南アジアの現代美術を専門に扱う世界で唯一の美術館です。もちろんタイのアーティストの作品も収蔵しています」
「そこにチェンマイのアーティスト、モンティエン・ブンマーの作品が購入されて、展示されたと聞いたことがあるわ。行ったことはないけど」
「チャーチャーイ・プイピアの作品も収蔵しています。映像作家として有名なアピチャッポン・ウィーラセタクンは、福岡アジア文化賞を二〇一三年に受賞しています。福岡は、日本でアジア美術や文化の紹介に最も熱心な地方ですよ」
「面白そうな所ね。日本は東京しか行ったことがないけど。東京には時々ショッピングに行くの。ヨウジヤマモトの古着を買ったりするため。タイにはヨウジの服を手頃な値段で買えるお店はないの」
「日本のネット通販業者は国外への配達に対応してない場合があるし、英語のページすらないことも多いですからね。もし、気に入った服があったら私が買って、こちらに来る時に届けますよ」と私は返した。彼女の属するタイ人の富裕層ネットワークには、このギャラリーの顧客以外の現代美術のコレクターも含まれているはずだ。日本人アーティストの作品をタイ人コレクターに販売できるコネクションを作れる可能性を考えれば、ここで恩を売っておくのも悪くない。
「それは助かるわ。年に何度も東京に行くわけにはいかないから」
「日本の服もいいけど、日本の現代美術の作品に興味がありそうなタイ人のコレクターはいませんか? 最近、タイ人が日本の現代美術を扱うギャラリーに来ることが増えています」と私は尋ねた。
「あたってみるわ。私のクライアントはタイ人アーティストの作品を買う人しかいないけど、彼らのコレクター仲間にそういう人もいるかもしれない」と彼女は応えた。「逆にタイ人アーティストに関心のある日本人コレクターいる?」
「東南アジアの現代美術は、日本ではまだ一般的ではありません。ただ一部でタイやシンガポールのアーティストの作品を扱うギャラリーも出てきています」
「どういうタイプのアーティストが日本では人気があるの?」
「タイだとアレックス・フェイスとか良さそうです。奈良美智なんかに通じるキャッチーさとポップさがあって、マルティプルしやすいから。そういう意味で、ウィスット・ポンニミットのイラストは、すでにキャラクター商品化されて日本でも人気ですよ」
「あの絵はアレックスが五年前に描いたの」と彼女はカウンター後ろのスペースに描かれた壁画を指さした。曲がりくねった松の木を描いた絵だった。日本の屏風絵によく描かれるモチーフだが、タイで見たのはここだけだ。色使いやフォルムがポップなのは伊藤若冲の影響かもしれない。「アレックスは今は活動の拠点をLAに移してバンコクにいないし、新作は、作品購入の順番を待っている専属ギャラリーのウェイティングリストに載っていなければ、いつ買えるかも分からないわ」
「今から買うには、もう遅過ぎるかもしれませんね。世界デビューから間もないから、セカンダリー市場に作品が出てくる段階でもないですし」
 彼女のコネクションを通してアレックス・フェイスの作品を購入できるなら、福岡南アジア美術館へ購入の提案をする腹づもりだったが、あてが外れた。他にマルティプルしやすいキャッチーさやポップさを持つ新進タイ人アーティストがいないか訊いてみた。
 しばらく考えてから、「いますぐ思いつく人はいないわね」と彼女は言った。福岡南アジア美術館へ購入を推薦する作品を探していると彼女に伝えた。念のため、美術館に収蔵されればアーティストのプレステージが上がることも付け加えた。考えておく、その美術館がタイのアーティストによく知られているかどうかはわからないけど、と彼女は応えた。
 一時間あまり話したところで、彼女は手首の腕時計で時間を確かめた。スクエアタイプのピンクフェイスのカルティエだった。 
「約束のディナーまで時間があるから、その前に一杯やりたくなったわ」と彼女は言った。「よかったらご一緒しない?」
 私でよろしければ、と私は応えた。彼女は一人いた女性スタッフに何かをタイ語で伝えると外に出た。私は後を追った。
 行き先は、BACCから高架歩道に出て、一〇分ほど歩いた先にある、こちらも高架歩道と直結した複合商業施設だった。クロームのルーバーで覆われたファサードが目立つ四階建ての建物は、高級腕時計、宝飾品、ハイブランドなどのショップなどで占められている。完全に富裕層に特化したコンセプトのモールだ。
 入ったのは二階にあるワインバーだった。二階といっても天井が高い構造なので、四、五階程度の高さがある。入って左の壁一面に背の高いワインセラー置かれている。棚は隙間なくボトルで埋められていた。彼女の顔馴染みらしいウエイターが我々を窓際のテーブル席に案内した。窓からはバンコクの悪名高い渋滞が見下ろせた。
 ワインのリストを渡された彼女は私に尋ねた。「ピノ・ノワールの赤でいい? それからちょっとサイドディッシュも」
 私は頷いた。ワインには不案内なので、何も言えることはない。彼女はタイ語でウェイターに注文した。
「ここにはよく来るのですか?」と私は尋ねた。
「時々ね。ディナーの約束までの時間潰しとかに使ってるわ。今日もシェラトンのレストランで会食なの」
 ウェイターが、ミートソースを絡めたフェットチーネとトマトとモッツァレラチーズにバジルを添えたサラダの皿を運んで来た。ソムリエがボトルのラベルを彼女に見せてから、ソムリエナイフで器用にキャップシールを剥がし、コルクを抜いた。ワインがそれぞれのグラスに注がれ、我々は乾杯した。ミディアムボディに属するであろうそのワインは、私が普段スーパーマーケットで買い求めるものに比べてずいぶんと重厚な味がした。
「いま友達が九州の温泉巡りを計画してて、私も誘われてるの。行くのは来月くらい。車をチャーターして湯布院、黒川、別府の旅館に泊まるつもり。もちろん私達は日本語が話せないから通訳も連れていくけど」
 日本は中流以上のタイ人にとって手頃な観光地だ。距離的に近く、移動が楽な上に、東南アジアとは異なる異国情緒も味わえる。旅行にかかる費用もアメリカやヨーロッパに比べればずいぶん安い。東京や京都といった定番の観光地をひと通り体験したタイ人は、日本の地方都市を訪れる傾向にある。 
「楽しそうだ。九州に来るなら福岡も案内したいけど、ただ来月だとミャンマーにいる可能性が高いですね」
「ミャンマーは一度行ったことがあるわ。二泊しただけだけど。知り合いの旅行会社にモニターを頼まれたの。広報用のレポートを書くのを条件に、ホテルも移動も面倒見てもらえたわ。費用も向こう持ちだった。泊まったのはヤンゴンのストランドホテル」
 ストランドホテルは、東南アジアで最もプレステージの高いホテルのひとつだ。イギリス植民地時代に建てられたヴィクトリア様式の建物は、かつての大英帝国の威光を偲ばせる。このホテルはジョージ・オーウェルやサマセット・モームが逗留したことでも知られている。もちろん予算的に私が泊まれるグレードのホテルではない。
 ワインのボトルが空になる頃、ⅰPhoneをBAOBAOのバックから取り出して操作した。誰かにメッセージを送っているようだった。
「約束の時間が近いから、そろそろ出るわ。あなたはどうする?」と彼女が訊いた。
 私も出ると答えると、彼女はウェイターを呼んで会計を告げた。ウェイターが勘定書を持ってくると、それを一瞥して彼女はカードを渡した。勘定は私の月々の生活費の半分程度ではないかと想像した。
 ご相伴に与った礼を言うと、「いいわ。今度、日本に行く時にいろいろと教えて欲しいこともあるし」と応えた。
 エスカレーターで一階まで降りて建物を出ると、目の前の通りにシルバーのBMW7シリーズが止まっていた。小型の潜水艦みたいな車だ。彼女は軽く手を振るとリアドアを開けて、後部座席に乗り込んだ。車がゆっくりと発進するのを見送って、私はBTSの改札口のある高架歩道に向かって歩いた。

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2021年10月8日金曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーバードライブ』5 (1)

 第二章

5(1)

 ゴールデンウィーク明けの五月晴れの朝、私はバンコク行きの飛行機に乗るため、福岡国際空港へ向かった。マンションを出てスーツケースを一〇分ほど引きずって地下鉄大濠公園駅へ行く。荷物があるため、通勤客のいる時間帯を避けて遅めに出発した。地下鉄線に乗って一五分で福岡空港に着く。空港内のシャトルバスで国際線ターミナルまで一〇分。市内の自宅から四〇、五〇分で空港に行けるのが福岡の都市として利点だ。東京に住んでいた時に成田空港を利用していたような移動のストレスはない。
 十時頃に家を出て、十一時三十五分発のタイ国際航空TG649便のチェックイン・カウンターで搭乗手続きを済ませたのは十一時前だった。
 機内の乗車率は見たところ六割程度だった。半分はスーツを着たビジネス客だ。連休明けのハイシーズン直後だからだろう。昨晩自宅で遅くまで酒を飲んでいた私は席につくとまもなく眠りに落ちた。
 機内でうとうとしているうちに窓からの景色が東南アジア独特の風景に変わっていた。点在する農村や田園を縫うようにメコン川が蛇行している。機体がバンコクに近づくと、眼下に高層ビル群が唐突に現れ、地上に道路や車やビルボードのような人工物の数がにわかに増えた。 

 飛行機はスワンナプーム空港にほぼ定刻に到着した。福岡を発ってから約五時間半が経っていた。二時間の時差があるので、現地時間は十五時あたりだ。イミグレーションの前には世界各国からやってきた旅行客が列をなしている。タイが東南アジアで最も観光客の多い国であることを実感させる。イミグレーションのカウンターにたどり着くまで三〇分ほど並んで待った。パスポートを出して、係員にスタンプを押してもらい、スーツケースを拾うためターンテーブルへ向かう。スーツケースを受け取ると、同じフロアで旅行者用S1Mカードを買った。今回の滞在予定は一週間のため、七日間有効のカードを選んだ。 
 空港直結の高速鉄道エアポート・レール・リンクに乗り、パヤータイで高架鉄道BTSスカイトレインのスクンビット線に乗り換え、トンローで降りた。電車からホームに出ると湿気を帯びた熱気が一気に体を包んだ。タイの季節が本格的な雨季に入る前で、雨は降っていないものの湿度は高い。
 宿泊場所はAⅰrbnbで予約したトンロー駅のコンコースに直結したコンドミニアムだ。駅に近く移動しやすい立地なので、これまでバンコクに来た時に何度か利用している。コンドミニアムは三十三階建て、五〇〇室あまりの部屋数の建物だ。建物内にある共有施設のプールとフィットネスジムも無料で使える。バンコクによくあるタイプの富裕層向けの分譲コンドだ。一階のレセプションで部屋番号を告げて、カード式のキーを受け取る。エレベーターに乗り十七階の部屋に着いたのは、スワンナプーム空港を出て一時間あまり、福岡の家を出てから約八時間後だった。
 部屋の広さは五〇平方メートル程度で、洗濯機やキッチンも付属しているので、一週間の滞在で不便はなさそうだ。バルコニーに続く、天井まで達する大きな掃き出し窓からは、バンコクの高層ビル群が望める。一泊四〇ドル以下でこうした場所に泊まれるのは悪くない。
 部屋に入るとシャワー浴びて汗を流してから、MacBookをWⅰ–Fⅰに接続し、メールやメッセンジャーでアポイントメントを取ったアート関係者に、予定通り到着したことを知らせ、面会日時を再確認した。夕刻になると近所のフードコートでガパオライスを食べて、ビールを飲んだ。一五あまりの屋台が半露天の敷地を取り囲み、内側にテーブル席が一〇席程度置かれている。客は近隣に住むタイ人と欧米人の半々くらいだった。その日は移動で疲れていたので、コンドに戻るとすぐに寝た。

 翌朝、BTS高架下に連なる屋台でザクロのフレッシュジュースとカオマンガイ買って、部屋で朝食を摂った。コンドのプールで一時間程度泳いでから、ランチに外へ出た。リーズナブルでありながら小綺麗なインテリアで外国人に人気のトンローのタイ料理店〈シット・アンド・ワンダー〉でグリーンカレーを食べた。店を出るとBTSスクンビット線に乗り、面談の場所のあるサイアムで下車した。約束の時間は午後四時なので、二時間ほど先だ。しばらく街を歩いて時間を潰すことにした。
 サイアムの街の賑わいは渋谷を思わせる。ただしショッピングモールの規模はこちらの方が格段に大きい。サイアム駅に直結したモールの一つ、サイアムセンターに入った。このモールは、タイのローカル・ファッションブランドをテナントの主体としているところに特色がある。他のモールが欧米のハイブランドやファーストファッション中心なのとは一線を画している。ディスプレイもそれぞれのショップが趣向を凝らしている。中には、名和晃平の作品を思わせる、動物を形取った大きなオブジェが置かれたショップもあった。床面積当たりの売り上げをシビアに問われる日本では、こんな贅沢な空間の使い方はなかなかできない。日本ではコム・デ・ギャルソンのオンリーショップでくらいでしか見たことがない。
 足の向くままショップを巡って、タイのトレンドやタイ・ブランドのオリジナリティについてリサーチした。数年前までは、デザインの詰めや縫製の作りが甘かったが、ここ二、三年で大幅に改善されている。新たに開業された商業施設の多くにハイブランドのショップが店を構え、日常的にそうした商品を目にする機会が増えたからかもしれない。バンコクに来る度に巨大なショッピングモールが新たに建設されているのにいつも驚かされる。

 約束の時間が近くなったので、サイアムセンターに直結した高架歩道に出て、バンコク・アート&カルチャー・センター(BACC)に向かう。BACCの建物も同じ高架歩道と繋がっていて、サイアムセンターから徒歩で一〇分以内で行ける。BACCは、ニューヨクのグッゲンハイム美術館を思わせる螺旋構造を持つ九階建ての現代美術館だ。行先は、この建物にテナントとして入居しているギャラリーだった。BACCはバンコク都庁の所有物件で、運営資金の六割は都庁からの補助金で賄われている。残りの四割は運営組織が独自で調達する必要があるため、公営の美術館でありながら、民間のギャラリー、物販店、飲食店などがテナントとして数多く入居している。テナントからの賃料収入は、美術館運営のための収益源の柱となっている。各フロアに、五〇平米メートル程度のテナント用スペースが四、五箇所設けられている。私がこれから訪れるのも、この建物の三階に店を構える個人経営のギャラリーの一つだ。

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2021年9月24日金曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーヴァードライブ』4 (2)

 4(2)

 調べてみると、瞑想センターによってメソッドや指導法にかなり違いがあることがわかった。瞑想のメソッドはサマタとヴィパッサナーの二つに大きく分けられる。サマタは呼吸などの対象へ一点集中することによって禅定の状態に達することを目指している。ヴィパッサナーは集中力を使わずに、心身の観察によって気づきを得る瞑想法だ。ただし、ヴィパッサナーから枝分かれして、サマタのような集中没頭型の瞑想法を開発した比較的新しい分派もある。伝統的な指導法として、サマタ瞑想によって禅定の状態に達し、意識にニミッタと呼ばれる光が現れるようになった後に、次の段階としてヴィパッサナー瞑想に入るメソッドを採る瞑想センターもある。このメソッドでは、光が現れるようになるまで次の段階に進めないため、何年も先の見えない修業を続ける瞑想者もいるようだ。
 いずれの瞑想法も最終的な目標は解脱して涅槃に達することを目的としている。
 解脱とは、条件付けられた欲望や本能から超出した、認知の転換を意味する。人間も生物として、他の生物と共通する欲望や本能を備えている。自己保存を図るため快を求め不快を避ける欲求や、自らの遺伝子のコピーを増やす衝動に基づく生殖本能は他の生物と変わりない。進化の自然選択によって獲得されたこうした形質は、個体の自己保存と遺伝子の拡散を目的とするもので、それは必ずしも個人の幸福とは結びつかない。

 最初期の仏教は、通常の世間の人々の考える、欲望により形作られた世界を解体し、そこから超出するラディカルな理論と実践の体系として出発した。これは仏教が、古代インド北部の王国の王子として生まれ、容姿にも才能にも恵まれ、物質的には何不自由ない環境で暮らしていた青年、ゴータマ・シッダールタによって開かれたことに由来している。世俗のレイヤーでは悩みようのないこの青年ですら逃れられなかった「苦」–––パーリ語の「ドゥッカ」の翻訳に漢字のこの文字が当てられた。単なる苦痛というよりもより射程の広い意味を持つ。英語では「不満足(unsatisfactoriness)」と訳されいる–––から解放されるため、六年に及ぶ思索と修行の果てに証得したのは、「世の流れに逆らう」智慧だった。ゴータマが達したのは、生物的な本能に根ざした、快適な状態を望み、いとおしいものを愛で、危険や不快から遠ざかる感覚を「苦」を形作る煩悩として滅尽し、世俗のレイヤーの価値観が織りなす世界から別の次元、涅槃へと超出することで、真の自由を獲得できるという結論だった。
 「覚者」仏陀となったゴータマが完成させた、欲望や本能による条件付けから解放された領域、涅槃に到達するための理論と実践の体系である仏教の、実践の分野を担う修行が瞑想だ。
 こうしたオリジナルの仏教が持つ、反直感性やラディカルさは、五百年から千年あまりの歳月をかけて伝播し、それぞれの地域の固着の習俗や宗教と習合した東アジアでは薄められたり、変質したりしているが、南アジアの上座部仏教では、その原初の特質を色濃く残している。私が南アジアの仏教に興味を持ち、瞑想センターへの滞在を決めたのもそうした部分に惹かれたからだ。

 どの瞑想センターに滞在するかについては、ずいぶんと考えた。
 対象を一点に絞って集中するサマタ瞑想や、観察の対象を瞑想時の足の痛みに集中するヴィパッサナー瞑想の分派である集中没頭型のメソッドを採用する瞑想センターは、指導者が攻撃的なことがよくあるようだ。一つの対象に集中没頭して、力づくで思考や感情を無効化するこのメソッドは、精神的な消耗度が高いため、それに耐えられるのは偏執的な性向の人物である場合が多い。そして外部の環境や内的な思考・感情を無視して一点に集中する修行を続けた結果として、ある種の不寛容さや独善性を招きやすいようだ。ミャンマーで、第二次世界大戦後に開発されたヴィパッサナー瞑想の分派である集中没頭型のメソッドは、短期間の修行で解脱者を続出させたことで、一躍注目を浴び、一時はミャンマーの仏教界で瞑想法の主流をなすまでになった。しかし、独善的な傾向をもつ指導者を多数輩出し、異なるメソッドを採用する瞑想センターを激しく批判したため、ミャンマーの仏教界を混乱させる弊害も生んだ。そして、このメソッドを採用する瞑想センターには、外国人の修行者に評判が良くないところが少なからずある。勝手がわからずまごつく初心者の外国人が、指導者から怒鳴られることも珍しくないからだ。
 一方、伝統的なヴィパッサナー瞑想のメソッドを採用する瞑想センターは、穏やかな雰囲気で、指導者も温厚なようだ。ヴィパッサナーとはパーリ語で明確に観ることを意味している。ヴィパッサナー瞑想は、集中力を使わずに、心身の状態をニュートラルに観察する瞑想法だ。この瞑想法は集中没頭型のように短期の瞑想修行で解脱することはない代わりに、人格的な成熟を促す副次的な効果も期待できるという。仏陀は、瞑想法についての経典『大念住経(マハーサティパッターナ・スッタ)』を残しているが、この経典に最も忠実と言われているシェ・ウ・ウィン瞑想センターを選ぶことにした。この瞑想センターの創設者のシェ・ウ・ウィン師は、もともと集中没頭型の瞑想法を学んだ人物だった。しかし、このメソッドで解脱した指導者の多くが攻撃的で、その排他性から他の瞑想法を批判したことで、ミャンマーの仏教界の混乱と民衆の困惑を招いたことを深く憂慮した。ミャンマーは、人口の八割以上が仏教徒であり、敬虔な上座部仏教の信徒が多いため、僧侶とりわけ解脱者である指導者の社会的な影響力が強い。こうした状況を省みて、シェ・ウ・ウィン師は、戦後に主流となった集中没頭型の瞑想法を封じ、伝統的なヴィパッサナー瞑想を伝える自らの名を冠した瞑想センターを創立した。
 ヴィパッサナー瞑想は、観察による気づきの実践を主眼としているが、この「気づき」はマインドフルネスと英訳されている。二十一世紀になって西洋社会で注目されているマインドフルネス瞑想もヴィパッサナー瞑想がベースとなっている。ただしシリコンバレーの1T企業の経営者などが推薦している世俗的なマインドフルネス瞑想は、判断力の向上などの現世的な実利を目的としているため、瞑想の基盤となる仏教経典の教えとの結びつきは弱い。オリジナルの仏教では、ヴィパッサナー瞑想により得られた気づきにより、瞑想者は三相–––無常、条件付けられた苦、無我–––といった世界の真理を認識する智慧へと到達するとされているが、西洋で流行しているマインドフルネス瞑想の多くは、こうした現実をメタ認知するという視座の獲得は目指していない。このような測定可能な効果を求める世俗的なマインドフルネスは、仏教的マインドフルネスにあった真理との関係を切り離し、世俗的な価値基準へと矮小化しているとの仏教界からの指摘もある。そもそも解脱つまり涅槃への到達を目標とする瞑想の実践は、「役に立つ」とか「人格がよくなる」のような世俗の世界が織りなす物語の中で上手に機能することを求める文脈から超出することを本質としている。修行により解脱の最終段階に達した阿羅漢は、欲望により形作られた世界から完全に逸脱した存在となる。そのため、世俗の生活を営むことはもはや不可能となり、選択肢は出家して残りの一生を瞑想寺院・瞑想センターで送るか死ぬかしかない。それを肯定するのが仏陀の説いた仏教と、そのエッセンス受け継ぐ南アジアの上座部仏教のラディカルなところだ。

 五月の上旬の福岡発––バンコク着とその一週間後のバンコク発––ヤンゴン着の航空券をネットで検索して購入した。シェ・ウ・ウィン瞑想センターに五月中旬からの滞在は可能かどうか尋ねるため、Webサイトで連絡先やeメールを調べたが、センターでは予約の受付はしていなかった。直接現地へ行って滞在できるかどうか尋ねるしかないようだ。
タイもミャンマーも三十日以内ならビザ無しで滞在できる。
 福岡南アジア美術館の学芸員、山本良恵からeメールで返信があった。送ったレポートについての礼に将来性のありそうなアーティストやギャラリーがあれば繋いで欲しいと書き添えてあった。こちらの情報収集力も少しは認められたようだ。

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2021年9月20日月曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーヴァードライブ』4 (1)

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 重野が帰った後、もう一杯ボウモアのソーダ割りを飲んだ。ターンテーブルの上の音盤は、ディアンジェロのライブ盤になっていた。「Brown Sugar」が店内に流れている。 
 店を出て、大名から大濠公園のマンションまで歩いて帰った。福岡城の城址を囲む堀に沿って植えられた桜は若葉を茂らせていた。堀の水面は睡蓮の葉に覆われている。睡蓮の花が咲く頃には、タイかミャンマーにいるはずだ。

 それからの十日間は、リサーチに時間を費やした。タイとミャンマーの現代美術の動向を調べた。
 東南アジアの国の中で、この二つの国を選んだのには理由がある。アジアの国々でアートマーケットが活況なのは、アートバーゼル香港が開催される香港と東南アジアで最も富裕層が居住するシンガポールだが、これらの国では、すでに有力ギャラリーが進出しているため新規参入は難しい。
 タイは一九九七年のアジア通貨危機でのタイバーツの下落を経た後、着実に成長を続け、一人当たりの実質GDPは二〇〇〇年代になってから八五パーセント近く伸びている。生活水準と可処分所得の向上に比例して文化的な関心も急激に高まっている。二〇〇八年には、現代美術を扱う大規模な美術館バンコク・アート&カルチャー・センターが開業している。また二十年にわたる経済成長の中で生まれたニューリッチの二代目や三代目が続々と首都バンコクにギャラリーを開設して、現地のアートマーケットは活況を呈している。街のDVDショップには、ジャン=リュック・ゴダール、ウォン・カーウァイ、ソフィア・コッポラらの作品が目立つ場所に置かれ、バブル経済が崩壊した後、一時的に文化的な爛熟が進んだ一九九〇年代後半の日本を思わせた。巨大なショッピングモールが次々と建設され、ヨーロッパやアメリカのラグジュアリーブランドのショップが中を埋めている。バンコクの商業都市としての規模は明らかに東京より大きい上、国際化もより進んでいる。外国人の居住者や観光客が多いため、ロンドンやニューヨークなどの先端文化や風俗が伝播する速度も東京よりも早い。
 ミャンマーはタイと対照的な国だ。長らく軍政で、経済停滞が続いたこの国では、ハイブランドで埋め尽くされたショッピングモールなど望むべくもない。二〇一一年に民政移管が実施され、二〇一五年の総選挙の結果、翌年、五十四年ぶりの文民政党による与党が誕生した。二〇一一年の民政移管後、海外からの投資が一気に拡大した。世界に残された数少ない経済フロンティアとしての注目を浴びたためだ。だが、その外国投資も二〇一五年をピークに減少傾向にある。電力や交通などのインフラが脆弱で、外国企業を保護する法律が未整備なことで、進出したものの事業が立ち行かずに撤退する企業が相次いだ。隣国のタイが一九八〇年代からODAを通じてインフラの整備を推進し、海外から企業の誘致に成功したことで、工業化と輸出の拡大が進み、目覚ましい経済発展を遂げたのとは異なる歴史を歩んでいた。少数の例外を除き、外国人や外資系企業がこの国で経済的な成功を収めるのは困難であることは明らかになりつつある。それでも、この国に惹かれる外国人はいた。未開拓で未整備な荒野のようなフロンティアの広がりを目にして、利得を超えた好奇心やある種の冒険心をくすぐられるのだろう。アート関係者からほぼ無視されているこの国に関心を持つ私もそうした人間の一人なのかもしれない。
 そしてこの対照的な両国は国境を接しており、首都バンコクと商都ヤンゴンは飛行機で一時間半足らずで移動できた。まず、福岡からバンコクへの直行便のあるタイに行って、それからミャンマーに移動することにした。最終目的地のミャンマーで、瞑想センターにしばらく滞在してみることにした。ネットの情報や上座部仏教の解説書を読むと、多くの瞑想センターがミャンマーに存在することがわかった。

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2021年9月2日木曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーヴァードライブ』1 2019年4月 福岡市大名(2)

3 二〇一九年四月 福岡市大名(2)

 ターンテーブルの音盤がまた切り替わった。今度は山下達郎のライヴ盤『IT'S A POPPIN' TIME』だった。
「話は変わるけど、山下達郎と村上春樹って似てないか?」と私は言った。
「なんだそれ? 少なくとも、顔は似てないぞ」
「そうじゃなくて、キャリアの進め方に共通するものを感じる」二杯目のギムレットを飲み終えた私は、ボウモアのソーダ割りに切り替えた。「達郎の初期のアルバムからは、カーティス・メイフィールドやアイズレー・ブラザーズの直接的な影響が聴き取れるし、春樹の初期の作品も、カート・ヴォネガットやリチャード・ブローディガンとの近似性を、発表当時は、批評家から指摘されていた。二人とも、リズム&ブルースやカウンターカルチャー小説といったアメリカの都市文化からの影響を出発点に、キャリアを重ねる中で、日本的な文脈を織り込んだオリジナリティを確立している。そうした意味で二人とも極めて日本的なクリエイターともいえる。この国の文化の基層は、外来の文化や文物をローカライズして、習合させることで成り立っているからね。漢字にしても、仏教にしても」
「なるほどな」重野が応えた。「経済学者のケースだと、宇沢弘文があてはまるかな」重野が二杯目のブラントンのオンザロックを頼んだ。「新古典派の理論経済学者として出発した宇沢は、シカゴ大学で頭角を現し学派を形成するまでになったが、ベトナム戦争が激化する中で右傾化するアメリカの政治経済に対する失望と反発からアメリカを去ることを決意する。日本への帰国後、今度は社会問題として先鋭化していた公害の問題に直面する。当時の高度成長期の日本では、水質汚染や大気汚染などの公害が引き起こす、健康被害や環境問題が深刻な社会問題となっていた。そうした被害が起こった現地に足を運び、被害者の支援グループや市民運動にコミットメントする過程を経て、宇沢は従来の経済学が無視していた外部不経済–––市場の取引外で生じる不利益–––をも包括する経済学の理論を構想した」
「主流の新古典派経済学では、私有されていない自然環境は、企業や個人が利潤追求のため制約なしに使ってよいとされていた?」
「そう、宇沢はその前提に疑問をもったはずだ。そこで市場経済の外にある環境や制度を経済学の対象に取り込もうとした。具体的には、海や山や大気などを自然資本、交通や電力などを社会的インフラストラクチャー、教育や医療などを制度資本と定義した。そしてこれらを市場原理が適用されるプライヴェート・セクターとは別の体系で運用されるべき社会的共通資本として概念化した。参照されたのは、人類のあらゆる文化や地域で観察されるコモンズの存在だ。たとえば、イランのボネー、スペインのエルタ、インドネシアのスバクなどの灌漑用水や、日本の入会制度、イタリアのヴァーリ、西アフリカのアカディアなどの沿岸漁業についての共有管理システムだ」
「『見えざる手』に導かれて、市場が調和的に均衡するという伝統的な経済学のもつ一神教的な価値観を、市場の外にあるものを取り込むことで多神教的なそれに展開させたともいえるな」
「面白い逸話が残っている。一九九一年に時のローマ法王ヨハネ・パウロ二世に経済学者として、この社会的共通資本を御進講した宇沢を、後に法王は、宇沢のことを『あの仏教徒』と呼んでいた」
「神の意思において市場が常に均衡するという一神教的な経済学に、市場以外の概念を導入したことに多神教の仏教的な世界観を感じたのかもな。仏教には、ユダヤ・キリスト教のような超越的な唯一神は存在しない。
 仏教的な世界観だと、お前が今飲んでいるバーボンも大麦や水などの原料だけに還元できない。太陽、大地、空気、木、雨、風などのウィスキーの原料以外の宇宙のすべてがそれに含まれている。仏教の縁起や因果という概念では、森羅万象のネットワークの中で、様々な要素や事象が交差し、切り結んだ結果として、我々の目の前の世界は構成されている」
「単純な要素還元主義では世界は説明できないということか。ケネス・アローとジュラール・ドブルーは、エレガントな数学的な手法を使って、世の中すべての生産と消費が一致する一般均衡のモデルを定式化したが、それは極めて限られた条件のもとでしか成立しない。そこでは人間は、経済的な利益を最大化すること以外の関心を持たない。言ってみれば、贈与もボランティアも恋愛も友情も存在しない世界だ。行動経済学の分野でも、そうした経済人の実在は疑われている。
 さらに完璧な市場の存在が前提とされている。つまり、すべての消費者は購入する製品やサービスについて完全な情報を持っていて合理的に行動するし、市場には寡占や独占は存在しない」
「完璧な市場などといったものは存在しない。 完璧な絶望が存在しないようにね」と私が返すと、重野が鼻で笑いながら応えた。
「ケインズは大恐慌の時代に、市場の不完全性を明らかにした。たしかにあの時に、新古典派の主張するような完璧な市場は存在しなかった。そうした状況で、政府支出などを通じて人為的に需要を作り、市場を安定させるというケインズの示した経済に対する処方箋は、当時は革命的とも言えた。ポール・サムエルソンは『南海島民の孤立した種族を最初に襲ってこれをほとんど全滅させた疫病』にたとえてるし、ポール・クルーグマンは『世界の見方をまるっきり変えてしまい、いったんその理論を知ったらすべてについて違った見方をするようになってしまう理論』と言っている。二人ともノーベル経済学賞の受賞者だ」
「『見えざる手』のような超越的な力に頼らず、自助努力で問題を解決すると言う点では、ケインズ革命は仏教と似ているかもしれない。もっとも仏陀の説いた仏教は、瞑想によって解脱して、欲望を消滅させることを目的にしているから、解脱者が増えたらその分確実に需要も供給も減る。解脱者は、労働も生殖もしないし、喜捨で施される以外の自発的な消費もしないからね」
「ケインズは『孫たちの経済可能性』という一九三〇年に発表したエッセイで、百年後の世界を予想している。ケインズの予想では、今から約十年後の二〇三〇年の世界では、技術革新によって物質的な要求は満たされ、日々の生活を保証するレベルの経済的な問題は解決されている。これは今の先進国には、ほぼ当てはまる状況だな。
 今のところ当たってないのが、そうした社会では一日三時間も働けば十分なため、人々は余暇をどう過ごすかに頭を悩ませるだろうという予想だ。『特別な才能もない一般人』が趣味や余暇を見つけるのは大変だろうと、彼は心配している。一世を風靡した経済学者で、有能な財務官僚で、やり手の投機家で、芸術家との親交が深かった、貴族的なエリートを自認していたケインズならではでのご心配だろうが。今後、そうした世界が訪れるなら、瞑想に没頭する人間が増えるのも悪くない。みんなたいして働く必要がないわけだからな」
「俺もタイとミャンマーにリサーチに行ったら、ついでにミャンマーの瞑想センターにしばらく滞在してみようかと思っている」
「お前は働く必要があるだろ」と重野がまた笑った。「そういえば、ジョン・スチュアート・ミルも、経済成長の時代が終わった後の人口や資本ストックが一定となる定常経済を予想している。十九世紀半ばのことだから、ケインズより一世紀近く前になる。
 ミルが予想した定常経済では、資本や人口が定常状態にあっても、技術革新の進歩や文化活動の停滞は起こらない。むしろ利潤の追求という成長経済の中で求められる目標から解放されることで、より高次の発展が期待できると考えた」
「経済成長そのものは普遍的な価値観ではありえないからね。いつの時代も考えられてきた真・善・美や幸福の追求とは位相が違う」
「そうかもしれないな。経済成長が政府目標となったのは、第二次世界大戦後のアメリカからだ」グラスのブラントンのオンザロックを飲み干して重野が言った。「そろそろ帰るよ。明日も朝から役員会だ。少なくとも、うちの古参の役員たちは、五十年前の日本の高度成長期を体験しているから、経済成長の神話をいまだに信じている。俺も社外取締役として残るためには、彼らの意向に沿う提案をしないといけない。それが現実的かどうかは別として」
「また連絡する。ミャンマーから帰ってきた後になるだろうけど」
「ああ、またな。次に会う時は、お前は解脱してるのかもな。涅槃の世界がどんなものか教えてもらえるとありがたいよ」

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2021年8月31日火曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーヴァードライブ』1 2019年4月 福岡市大名(1)

3 二〇一九年四月 福岡市大名(1)

 福岡市の大名の雑居ビル内にあるバー「スモール・タウン・トーク」には、私以外の客はまだいなかった。バーテンダーの背後のスピーカーからダニー・ハサウェイの『L1VE』が流れている。午後七時の店内の空気はまだ酔客に掻き回される前で澄んでいた。  
 今夜、重野聡とここで待ち合わせをしていた。浄水通りの彼の祖父の邸宅で会ってから二週間あまりが過ぎていた。福岡南アジア美術館で学芸員との面談をセッティングしてくれた礼も直接会って言いたかったが、重野が多忙で、なかなか彼の時間が取れなかった。
 私がその間にしたことといえば、せいぜいタイとミャンマーの現代美術についてのレポートをまとめて、福岡南アジア美術館の学芸員、山本良恵へメールを送ったくらいだった。
 ギムレットを一杯飲み終わる頃に、重野がやって来た。私の隣のカウンター席に腰掛けて、ブラントンのオンザロックを頼んだ。いつの間にか、ターンテーブルの上の音盤がカーティス・メイフィールドのライヴ盤に変わっていた。今夜の選曲ははライヴ盤を中心に組み立てるらしい。 
「遅れて悪い。いろいろと立て込んでてね。大学は新学期が始まったばかりで、いろいろと行事がある。会社は、祖父さんが亡くなってから、新体制になったので、役員会が頻繁に開かれてる」
 仕事帰りの重野はヒューゴ・ボスのグレーのスーツで、茶色のコードバンのウィングチップを履いていた。私はデニムジャケットとチノパンツにスニーカーという普段着だった。
 「この前は、福岡南アジア美術館への口利きありがとう。おかげで学芸員に会えたよ」
「どうだった?」
「何とも言えないね。こちらは何の実績も肩書きもないわけだし」
「しかし、お前はなんで経済学部を卒業して、アートの仕事なんか始めたんだ?」重野が尋ねた。 
「いろいろと理由はあるけど、経済学的な観点からだと価格形成の面白さに惹かれたということになるかな。
 たとえば、アダム・スミスやカール・マルクスの唱えた労働価値説、つまり商品に投入された労働量によって価格が決まるという理論はあてはまらない。ピカソは九十一年の生涯でおよそ一万三五〇〇点という大量の絵画を描いているが、一枚当たりに要した時間は非常に短いと言われている。知ってのとおり、ピカソは美術市場で最も高い値段のつく画家の一人だ」
「キャリアの長さを考えれば、生涯を通じて投入された労働量は多いだろ」
「ところがそうとはいえないんだ。ピカソの評価は、キャリアの前半の方が圧倒的に高い。美術愛好家でもある経済学者デイヴィッド・ギャレソンが調査したところ、ピカソの二十代半ばに描いた絵は平均して一点につき、六十代に描いた絵の四倍の値がついている。つまりアートのマーケットでは労働価値説はあてはまらない」
「新古典派の限界効用説は適用できるだろう。供給量の限られた希少品だから、作品を一つ購入することによって得られる満足度が高い」
「必ずしもそうともいえないんだ。特に現代美術については。作り過ぎてもだめだが、寡作すぎるとマーケットで市場が形成されない。いまの傾向だと、マルティプルしやすい–––平たく言うとグッズ化しやすい–––アーティストの作品の価格が上がりやすかったりする。草間彌生も村上隆もルイ・ヴィトンとコラボレーションしているけど、そうした傾向とは無関係ではないだろうね」
「家の祖父さんはオリジナルのコレクターだったけどな。複製品の人気がオリジナルの評価に逆流してるってことか」
「そうとも言える。さっきの質問にもう一度答えると、古典派や新古典派経済学の枠に収まらない人間の欲望について関心があるからということになるかな」
「ずいぶんご大層な理由だな」重野が笑いながらまぜっ返した。「で、それで食えそうなのか?」
「正直まだわからない。競合が少ない東南アジアの現代美術に専門化するつもりだ。もうすぐリーサーチのため、タイとミャンマーに行く」

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2021年8月25日水曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーヴァードライブ』1 2019年4月 福岡市中洲(2)

2 二〇一九年四月 福岡市中洲(2)

 席に着いた彼女がウェイトレスにコーヒーを注文して、話し始めた。「すみません。突然上司に言われてここに来たので、事情がわかってないんです」
「こちらこそ貴重なお時間をいただいて、恐れ入ります。友人の親族のコネクションを通じて、東南アジアの現代美術を担当する学芸員さんを紹介していただくようお願いしました」
「それで本日はどういう御用件なんでしょうか?」
「銀座の画廊に勤めてましたが、一か月ほど前に退職しました。こちらで東南アジアの現代美術専門のギャラリストとして独立することを考えています。フリーのギャラリストとして何かお手伝いできることはないかと思い、お訪ねいたしました」
「ご存知かもしれませんが、まずは当館についてご説明させてください。当館は、南アジアの現代美術を収集、保存、展示する、世界唯一の美術館として一九九九年に開館しました。約三四〇〇点の作品を所蔵し、随時、展覧会などで展示しています。福岡市のアジアの美術関係者との交流は長い歴史があります。日本で最初のアジアの現代美術展『アジア美術展』が、福岡市美術館により開催されたのが一九七九年です。その頃から福岡市美術館によるアジアの現代美術の収集は始まっています。南アジアの現代美術の作品の多くは、西欧美術とは文脈が異なり、既存の美術館ではコレクションの展示がなじまなかったため、福岡市美術館から枝分かれする形で、当館『福岡南アジア美術館』が開館されました。開館を記念して、開館と同年の一九九九年に『第一回アジア美術トリエンナーレ』が開催され、その後、原則三年に一度、トリエンナーレはこれまで計五回開催されています。残念ながら諸事情で、二〇一四年を最後にトリエンナーレの開催は休止していますが、少なくとも、南アジアの現代美術に、世界で最も早く注目して、最初に取り上げたのは福岡の美術関係者であったことは確かです。早くから福岡市の学芸員が現地を訪れ、調査の上、アーティストを選抜、招聘し、展覧会を開催して、時には作品を購入したことで、南アジアのアーティストや学芸員には当館はよく知られた存在です」
 おそらくあちこちで何度も説明して慣れているのだろう。よどみなく流れるように一気に話し切った。 
「もちろん、公的な美術関係者には広く認知されているし、これまでの活動も高く評価されてるでしょうね。でも最近バンコクなどの東南アジアの大都市に増えている独立系のギャラリーの活動はご存知ですか?」
 彼女は、少し悪戯っぽく微笑んだ。「私どもが公務員だからといって、時流に疎いとは限りませんよ。美術の専門家としていつも現地の情報はフォローしています」
「失礼しました。ただ、東南アジアの新進のアーティストは、独立系のギャラリーが主な発表の場で、現地の公的な美術機関や美術関係者とは交流がないケースの方が多いです。私はそうした中からめぼしいアーティストやギャラリーを見つけて、関係を築いている最中です」
「もちろん存じています。そうした場所も海外出張した時の調査対象に入れています」
 彼女と話していると、東京のアートマーケットに属する人々と接していた時に感じていたのと同じ印象を受けた。社交的で、にこやかで、万事そつない。弾力性のある透明な繭のような膜に覆われていて、それより先に近づくとやんわりと押し戻される。
 地元出身者でないことは、言葉遣いや立ち振る舞いでわかる。美術館の学芸員は、オーケストラの楽団員と同様、極端な買い手市場だ。一定以上の規模の都市で、組織に欠員が出て、補充の求人を出すと、全国から応募者が殺到する。美大や音大からは、毎年確実に卒業生が送り出されるが、彼らが学んだことに関連する職種の求人は、同じ割合で増えていないからだ。彼女も相当な競争率を勝ち抜いて今の職を得ているはずだ。
「もしかしたら、私が知っている東南アジアのアーティストやギャラリー、現地の美術運動で、こちらの学芸員さん達がまだご存知ないものもあるかもしれません。よろしければ無償で現地の情報をご提供させていただけませんか?」もう少し粘ってみることにした。美術館の展示や購入を仲介する立場になれば、現地のアーティストやギャラリーから得られる信用や協力もずいぶん違ってくる。直接の収入にはならなくとも、やってみる価値はある。
「アジアの美術関係者の中では、当館のプレステージは、こちらで想像するよりずいぶんと高いです。東南アジアの現代美術家の中には、当館での展覧会の開催や、当館が中心となってキュレーションするアジア美術トリエンナーレへの参加を、自国外での認知を広める最初のステップと考えているアーティストも一定数います。そのため、先方から展示や購入のオファーも少なくありませんが、こちらで集客を望めるアーティストの作品でない限りお断りせざるを得ないのが現状です。もちろん無料で情報をご提供くださることはお断りしませんが」
「では後ほど、メールでレポートをお送りします。もしご興味のあるアーティストやギャラリーがあればお知らせください。来月、タイとミャンマーに行く予定です。ご紹介したアーティストの作品の展示や購入をご検討されるなら、私が彼らに美術館の意向をお伝えしますし、簡単な交渉なら代理としてお引き受けします」
「あまり期待されないでくださいね。ご存知の通り、当館は市営で予算も限られています。現代美術を扱う公立の美術館でも東京現代美術館なんかと比べれば、使える予算の桁が違います。正直言って、ここでは現代美術に関心のある人々の数は限られていますし、その中でも扱っているのが南アジアの現代美術ですから。東京やアジアの美術関係者には、世界で唯一の南アジアの現代美術に特化した美術館であることを評価されていますが、市民の皆さんの関心が高いとは言えません。西欧絵画、たとえば印象派やキュビズムのように、鑑賞のしかたが広く知られた分野でもないですし。どうしたら市民の皆さんに南アジアの現代美術をもっとご理解していただけるかについては、私たち学芸員もいまだ手探りです」
「いまのお仕事を始めてどれくらいなのですか?」
「二年になります。東京の美大を卒業して、しばらくフリーのキュレーターをやっていました。今の仕事が決まって、福岡に引っ越しました。まだ、こちらのことは知らないことばかりで」
「私も戻ってきたばかりですが、よろしければご案内しますよ。いちおう地元なので土地勘はあります」
 もう一度、彼女が微笑んだ。今度は、相手から何の感情も読み取ることができなかった。「ご親切にどうもありがとうございます。でも、職場の皆さんが気にかけてくださっているので、ご心配には及びません」
 彼女を覆う透明の膜が、再びやんわりと私を押し戻すのを感じた。

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2021年8月19日木曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーヴァードライブ』1 2019年4月 福岡市中洲(1)

 2 二〇一九年四月 福岡市中洲(1)

 重野に会った約一週間後、私は福岡市の中洲にある福岡南アジア美術館で人を待っていた。福岡南アジア美術館は、南アジアの現代美術に特化した世界で唯一の美術館だ。美術館は、福岡市の歓楽街、中洲の商業ビルの中にある。建物の上層フロアの二階(正確には高さを維持するため三階分のフロアを使用している)がこの美術館に割り当てられている。一〇〇〇平方メートルを少し超えるギャラリー二つと約四〇〇平メートルにシアターホール、図書室、カフェなどを備えた文化施設だ。
 
 私が福岡に移住した理由の一つに、東京よりも立地がアジアに近いことがあった。東南アジアのアーティストを専門にするギャラリストとして活動すれば、他の同業者との差別化ができるのではないかと考えたのだ。
 東京のアート・マーケットは、買い手も売り手も、ほぼ富裕層のネットワークに属していた。東京の中で連綿と資産や文化資本を受け継いできた人々だ。彼らの多くは、学費の嵩むリベラルな校風の私立高校の卒業生で、同じような服を着て、同じような話し方をし、(概ね誰とでも社交的であるものの)親しく付き合うのは同じ階層に属する人々とだった。直接の交流がない業界内の人物でも、仕事上の必要性が生じれば、知人や親族を通じて、比較的容易にコンタクトをとることができた。こうした地縁、血縁で結びついたネットワークの外にいる地方出身者で、名を知られた現代美術のアーティストとも特別なコネクションを持たない私が、東京で独立してアート・ビジネスを営むのは難しいと考えた。
 そこで、市場での評価がまだ完全に定まっていない東南アジアの現代美術に特化して、既存のアートディーラーとの差別化することを考えた。福岡は、アジアの現代美術を専門に扱う福岡南アジア美術館があるほか、アジアの二十数カ国の現代美術が一同に会する福岡アジア美術トリエンナーレを開催していた。アジアの現代美術がほぼ無視されていた時代から、市営美術館がアジアのアーティストの作品を購入していた歴史もある。

 今日この美術館へ来たのは、南アジアの美術を担当している学芸員にヒアリングするためだった。市の関連部署に電話をしても、メールを送っても思うような反応が得られなかったので(こちらに何の実績もないので当然ともいえるが)、重野の祖父の生前の美術関係者との伝手を頼って面談にこぎつけた。
 美術館併設のカフェでコーヒーを飲みながら待っていると、約束の午後一時半ぴったりに学芸員が現れた。
「お約束していた、小林天悟さんでいらっしゃいますか?」声の主は、三十代前半の女性だった。「はじめまして、山本良恵と申します」
「はじめまして、小林です」互いに名刺を差し出して、交換した。
 市営の美術館の職員だが、地方公務員にありがちな、個人の特性がまったく見えてこないタイプではなかった。むしろ正反対だ。sacaⅰのミリタリージャケットに同系色のカーキのタイトスカートを合わせている。髪はミディアムショートで、首筋のあたりで綺麗に切り揃えられていた。よく手入れされた爪には、ナチュラルカラーのマニキュアが塗られていた。ブラウンのミディアムカラーのアイシャドウに縁取られた二重の大きな目がくるくると動き、知的好奇心をもって外の世界を観察している。
 この日、私が着ていたのは、ジュンヤワタナベのグレンチェックのジャケットとチノパンツで、靴はグレーのニューバランスのスニーカーだった。スーツだと硬い印象を与えるのではと思い、それ以外で所有する数少ない比較的フォーマルな服をワードローブから選んでいた。この相手なら、今日の衣服の選択はそうは外していないはずだ。もちろん私のワードローブの極めて限られた選択肢の中での話だが。 

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2021年8月12日木曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーヴァードライブ』1 2019年4月 福岡市浄水通り(2)

1 2019年4月 福岡市浄水通り(2) 

 私が銀座の画廊を退職し、下北沢のアパートを引き払って福岡に移り住んだのは一ヶ月前だ。叔父が遺してくれたマンションにそのまま暮らすことにした。十階建マンションの五階にある2LDKのその部屋からは、すぐそばの大濠公園を見下ろせた。下北沢で借りていた1DKのアパートに比べればずいぶん広くて快適だ。大濠公園は、福岡市の中心部に立地する、美術館、能楽堂、日本庭園を内に備えた都市型の公園だ。二十二万六千平方メートルの大池を取り囲む約二キロメーターの周回歩道は、市民のジョギング・コースとして親しまれている。
 毎朝、起きると大濠公園でジョギングした後、部屋に戻ってコーヒーを淹れて飲んだ。ネットでニュースを読んで、協業の可能性のあるアートビジネス関係者に連絡を取った。夜は本棚から本とLPを取り出して、読書をしながら音楽を聴いた。テレヴィジョンの『マーキー・ムーン』やパティ・スミスの『ホーシズ』やルー・リードの『トランスフォーマー』を聴きながら、ロベルト・ポラーニョの『2666』やジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリの『千のプラトー』を読み、酒を飲んだ。おそらく叔父もこうして夜を過ごしていたのだろう。酒好きだった叔父は、小さなバーが開店できるくらいのボトルを残していてくれたので、幸い飲む酒に困ることはなかった。これも私のために残していてくれたのかもしれない。叔父の心遣いに感謝した。ボトルのコレクションは、スコッチ、バーボン、焼酎が中心で、日本酒やワインは少なかった。叔父の生前の私生活を連想させるような遺品は、部屋から注意深く取り除かれていた。

 重野にコンタクトを取ったのもこの頃だ。地場財界の重鎮であった彼の祖父の死は、この地で大きく報道された。
 一般に、価値のある美術作品がまとまって市場に出る機会は「3D」––- 死(Death)、離婚(Divorce)、負債(debt)–––と言われている。やはり私も、コレクターとして知られる彼の祖父の遺品が市場に出る可能性を考えた。
 
「家の遺族は、美術品を一括で買い取ってくれる業者を探している」と重野が言った。
「それは俺には手に余る仕事だな。二、三点なら買ってくれるコレクターを仲介できると思う。俺も自分のビジネス用の在庫として欲しいものがある。もちろんキャッシュの持ち合わせはないから、叔父から引き取ったマンションを売った金で買える作品になるけど」  
「遺産の処分の方針については、いま親族と税理士が話し合っている。それ次第だな。お前でも関われそうなら、また連絡するよ」 
「恩に着るよ」

 ジョージ・ネルソンがデザインしたテーブルの上に、PCに繋がれたVRゴーグルがあった。ゴーグルは横二十センチ、縦と奥行きが十センチ程度の大きさだった。
「これは何だ?」と私は尋ねた。
「機能的磁気共鳴断層撮影でスキャンした祖父さんの脳の活動を、プログラマーが作ったアルゴリズムで変換して映像化したものが見れる」
「何だってそんなことをしたんだ?」
「祖父さんは、三十年以上臨済宗の禅をやっていた。熟練の瞑想者の脳の活動は、普通の人間それとはけっこう違うらしい。祖父さんは現代美術のコレクターだったが、自分で作品を作ることはなかった。これを作ったのは亡くなる半年くらい前だ。これをインスタレーションと呼べるなら、祖父さんが作った生前唯一の作品と言えるかもしれない。自分でも何か作品を残したかったかもな」
「見てみてもいいかい?」
「ああ、ちょっと刺激的かもしれないが、お前なら大丈夫だろう」
 私はVRゴーグルを手に取って、自分の顔に取り付けた。
「じゃあ、PCをオンにして、これから流すぞ」後ろから重野の声がした。
 しばらくして、眼前に映像が浮き上がってきた。無数の発光する不定形なアメーバ状の物体が視界全体に迫ってくる。それぞれの物体はひも状に突起を伸ばしながら、相互に複数の物体と繋がっている。個々の物体から複数の突起が現れ、細長くそれを伸ばしながら、軟体動物の触手が何かを掴むように次々と他の物体に繋がっていく。まるで脳の神経細胞から軸索が伸びて、シナプスが他の神経細胞の樹状突起の受容体へシグナルを送っているのを見ているようだ。
 個々の物体は新しく現れては消え、それにつれて互いの接続点が変わることで、ネットワーク全体も不断に流動している。
 こうした現象を概念化したモデルがいくつかあったのを思い出した。
 ひとつは、空海の唱えた重々帝網だ。仏法の守護神である帝釈天の宮殿を飾る光り輝く網を例に取って説明された世界像だ。網の結び目ひとつひとつは、鏡球(宝珠)で、互いに鏡像を映し合っている。それぞれの鏡球に、全方位の他の鏡球が映り込むことで、鏡球のひとつひとつがネットワーク全体を包摂している。鏡球が互いに鏡映し合い、個であると同時に相互に連結したネットワークの全体である世界像。個々が相互に結びつき、映し合うことで、関係性が生じ、あらゆる事象が起きていく。空海は、世界を律する縁起の法則を、このモデルによって説明した。
 あるいは、ドゥルーズ=ガタリが提唱したリゾームの概念。ドゥルーズ=ガタリは、超越的な一者から他のものが派生していく固定的、不活的なツリー型の思考形式に対峙する、流動的で生命力を孕んだモデルとしてリゾームの概念を提唱した。多方に線が飛び交い、異質な結節点が互いに影響を与え合いながら、ネットワーク全体が生成変化して形成される、脱中心的で、始まりも終わりもない、個と全体の境界が不可分なエネルギーの力場だ。
 そして、現代美術の分野でも眼前の映像と同様の世界観を感じさせる作品があったのを思い出した。
 草間彌生の一九六〇年制作の作品『Infinity Nets Yellow(無限の網 黄)』だ。草間のスタジオを訪ねたフランク・ステラが個人的に買い取り、美術界で草間の再評価の機運が高まる中、二〇〇二年にワシントンのナショナルギャラリーにより百万ドルで購入された作品だ。個々のドットが相互に複雑に絡み合いネットワークを構成し、個と全体の境界が消失し、図と地が等しく存在する図像は、まるで空海やドゥルーズ=ガタリがモデル化した世界像をカンヴァス上に具現化したようだ。
 
 そして私の遍歴はここから始まった。行き先は、ダンテがくぐった地獄の門でも、ロバート・プラントが歌った天国への階段でもなく、ブッダの説いた涅槃の入り口だった。

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2021年8月7日土曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーヴァードライブ』1 2019年4月 福岡市浄水通り(1)

1 2019年4月 福岡市浄水通り(1) 

 私はタクシーに乗って、福岡市浄水通りの邸宅に向かっていた。浄水通りは、福岡市の緑に囲まれた閑静な高級住宅地で、大邸宅、高級分譲マンションが建ち並ぶ丘と、富裕層向けのレストラン、カフェ、ブティックなどが軒を連ねる麓を結ぶ約八〇〇メートルの並木道だ。一九八〇年代にジョルジオ・アルマーニが日本に本格的に参入する前に、テストマーケティングのため日本で最初のブティックを作ったのがこのエリアだと聞いたことがあるが真偽のほどは定かではない。
 目指す邸宅は丘の中腹にあった。タクシーから降りて、背の高い鉄扉の脇にある、風雨に晒されて年季の入ったインターフォンを押して、訪問を告げた。
「お約束していた小林天悟です」
インターフォンを通して返事があった。「ああ、いま行く」重野聡の声だった。
 内側から関が開けられ、鉄扉が開いた。「久しぶり。古い家だから電気解錠じゃないんだ」
 二年振りに会う重野は、ヒューゴ・ボスと思しきネイヴィーのピンストライプのスーツを着ていた。学生時代にラグビー部に所属していた胸板の厚い重野によく似合っていた。
 門から建物まで繋がる芝生に埋められた石畳を並んで歩いた。
「祖父さんが亡くなってから、誰も住んでない。生きていた頃は、祖母ちゃんと通いのヘルパーが二人いたが、今は家の両親が祖母ちゃんを引き取って、一緒に暮らしている」と重野が言った。
 
 邸宅のオーナーは、一か月程前に九十歳代で物故していた。彼は、地方銀行の頭取で、地場デベロッパーの創業者でもあった人物だ。現代美術のコレクターとしても知られていて、その嗜好は彼の経営するデベロッパー事業の開発物件にも反映されていた。一九九〇年代初頭には、先鋭的な現代建築家六人によるデザイナー・マンション群を福岡市郊外に建設したこともある。各棟に、レム・コールハース棟、スティーブン・ホール棟といった設計者の名前を冠したこの集合住宅群は、冒険的なプロジェクトとして、竣工当時、国内外の建築関係者の話題をさらった。
 二十メートルほど続く石畳の先にある建物は、ガラス張りの大きな窓が連なるル・コルビュジエ風のモダニズム建築だった。科学の進歩が人類の発展に貢献するとナイーヴに信じられた、地球温暖化の心配なんか誰もしなかった時代の建築様式だ。
 一階はギャラリーを兼ねたリビング・ルームとキッチンで、二階がベッドルームのようだ。一階は、二階へと繋がる螺旋階段以外はほぼ遮蔽物のない、広さ三〇〇平米メートル程度の段差のない平坦な空間だった。そこにオーナーの収集したコレクションが所々に展示されている。
 ジャクソン・ポロックの紙作品、ジャスパー・ジョーンズのマップ・シリーズ、プライス・マーデンのドローイング、ジョゼフ・コーネルの木箱を使った立体コラージュ、フランク・ステラの金属製オブジェ。一九五〇年年代から七〇年代にかけて制作された、抽象表現主義、ミニマリズムなどのアメリカ現代美術を中心に構成されたコレクションだった。日本が不動産景気に沸いた、一九八〇年代中頃から一九九〇年代前半にかけて蒐集されたようだ。その頃はデベロッパー事業が好調で、蒐集のための資金も豊富だったのだろう。アートが今ほど投資対象として一般的でなく、まだ1Tで成功した起業家が美術市場に参入する前の時代だったので、今よりずいぶん手頃な価格で購入できたはずだ。
 窓から見える庭は和洋折衷で、枯山水の様式に則っているが、小石や砂が敷き詰められるべき部分は芝生となっていた。ヘンリー・ムーアの彫刻作品が庭の中央にあった。
 オーナーのお気に入りだったと思しき作品の前には、ミース・ファン・デル・ローエがデザインしたバルセロナ・チェアが置かれている。ジャクソン・ポロックやプライス・マーデンなどがお気に入りだったらしい。
「相続税対策のため、この家も美術品も売り出す予定だ」重野が言った。

 重野が私をここに呼んでくれたのは、つい最近私がギャラリストとして独立したからだった。私が通っていた地元の国立大学の学生時代の友人だった重野は、好意で他の画商やオークションハウスに公開するより先にコレクションを見せてくれたのだ。重野は同じ大学の大学院へ進んだ後、経済学部の助教になっていた。彼の祖父が創業した地場デベロッパーの社外取締役も務めていた。
 私は大学を卒業してから、三年間電気通信会社に勤め、銀座の画廊に転職し五年働いた後、その職を辞したところだった。銀座の画廊では、比較的高齢の富裕層の人たちに、日本の作家の印象派風の絵画や美人画を販売していたが、やはり同時代的なアートの世界との接点が欲しくなり、独立することにした。

 私は両親が地方公務員という、ある意味典型的な地方の中流家庭に育った。公務員や教員といった浮き沈みのない堅実な職業を選択することが常識的な人生設計と考えている、いささか保守的な人生観と生活感覚を持ち合わせた親族や両親に囲まれた環境で育ちながら、決して安定的とは言えないアートの世界に職を求めることになったのは、母方の叔父の影響が大きかったのかもしれない。
 叔父は、大学を卒業してから、(彼の親族が考えるような)定職に就かず、組織に属することもなく、フリーのプログラマーと個人投資家として生計を立てていた。時間の自由がきくため、気が向くと一人でよく旅に出ていた。行き先は、美術館巡りのためヨーロッパだったり、ビーチでくつろぐために東南アジアの離島だったりと、その時々の興味や関心によって方々で、これといった一貫性や傾向はなかった。こうしたボヘミアン的な気質の叔父は、堅実さと安定性を良しとする保守的な価値観を信じて疑わない我が親族からは少なからず疎まれていた。私はこの二十歳近く年上の叔父が気に入っていて、小中学生の頃、福岡市の大濠公園近くの叔父のマンションへよく遊びに行った。それについて、母親があまりいい顔をしなかった。「小さな頃から協調性がなくて、一人で自分の好きなことばかりしていた、身勝手な人」というのが、母親の自らの弟に対する人物評だった。「あなたもあの人に似たところがあるので心配」という息子の私に対する懸念も、それほど間違っていなかったのかもしれない。
 一人暮らしの叔父は、自分の趣味に合わせてリノベーションしたマンションの一室で多くの時間を過ごしていた。プログラミングも金融取引も自宅のコンピューターを使って完結する作業なので、仕事のために外に出る必要がないのだ。叔父は、国内の株式市場の後場が閉じる午後三時以降は仕事をしないことにしていたので、小中学生時代は、週に二、三日は、放課後に叔父のマンションに寄った。天井近くまで達した壁全面を占める特注の本棚には、アナログ・ディスクと本が隙間なく埋められていた。二人でソファに並んで腰掛けて、叔父はビールを私はジュースを飲みながら、叔父が本棚から取り出してレコードプレーヤーに載せたLPを一緒に聴いた。レコードのコレクションは、ジャズ、ロック、リズム・アンド・ブルースが中心で、JBLの大型スピーカーから流れるのは、ドアーズの『ストレンジ・デイズ』だったり、スライ・アンド・ファミリー・ストーンの『暴動』だったり、マイルズ・デイヴィスの『ビッチェズ・ブリュー』だったり、ジョニ・ミチェルの『コート・アンド・スパーク』だったりだった。
 私が高校、大学へと進級すると、同年代の友人付き合いが忙しくなり、ひと頃よりは疎遠になっていった。社会に出てからは年に一、二回、東京から帰省した時に外で会って酒を飲む仲だった。最後に会ったのは、一年ほど前で、福岡市の大名にあるバーだった。勤め先から独立してギャラリストになることを考えていることを伝えると、「いいんじゃない。俺とかお前は、好きなことしか真剣になれないタイプなんだから」というのが叔父の意見だった。
 叔父が五十代の前半の年齢で、胃がんにより突然この世を去ったのは三ヶ月ほど前だった。身内の誰も彼ががんに罹っていたことを知らされていなかった。そして、叔父は生涯未婚だった。それほど多くない叔父の友人たちが葬式を取り仕切った。プログラミング言語の研究サークルの仲間やラテンアメリカ文学愛好会のメンバーが叔父の友人たちだった。何人かの身内が形式的に葬式に参列した。突然の死による葬式だったため、東京にいた私は参列できなかった。株式、債券などの金融資産は生前に現金化されて、死後は信託により、葬式の費用や手伝ってくれた友人たちへの心付けを差し引いた金額が途上国支援のNGOに寄付された。特別な贅沢をしなければ、人ひとりが十年くらいは余裕を持って暮らせる金額だ。法定相続人である母親はいくぶん不満そうだったが、信託は弁護士により滞りなく執行され、誰も口を挟む余地はなかった。遺言により、私は親族で唯一の相続人として、叔父が居住していた大濠公園のマンションの一室とそこに収められていた蔵書とレコードコレクションを受け継いだ。これについては、誰もさしたる不満はないようだった。みんなそれぞれ持ち家に住んでいたし、蔵書もレコード・コレクションも彼らにとっては処分が面倒なガラクタに過ぎないからだ。

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2021年7月27日火曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーヴァードライブ』プロローグ 2

プロローグ

2014年11月20日、サザビーズ・ニューヨークのオークション会場で「アメリカン・アート・セール」が開催された。
この日の出品作品で最も注目されていたのは、ジョージア・オキーフの「Jimson Weed/White Flower No. 1(チョウセンアサガオ/白い花No.1)」だ。ニューメキシコ州サンタフェのジョージア・オキーフ・ミュージアムからの出品だった。
48×40インチ(121.9 × 101.6 cm)のカンヴァスに描かれた1932年制作のこの油彩画は、オキーフの花をモチーフとした一連の作品の中でも、例外的に大きなサイズの作品であるため希少性が高い。
原寸6.5cmから9cmの花をカンヴァス全体を使って巨大に描いたこの絵の前に立つと、見る者は、自己が消失し、花と一体化したかのような感覚に入り込む。今の瞬間、この刹那に、花と同一化した自分が世界の内に存在していることを認識させられる。人工物に囲まれた生活の中で忘れがちな、かつて人間が自然の一部であったことをも思い出させる。

サザビーズの出した落札予想価格は、1000万ドルから1500万ドル。オキーフの作品のそれまでの最高落札額は、2001年5月クリスティーズ・ニューヨークでの620万ドル、当時の女性アーティストの最高落札額は、ジョーン・ミッチェルが2014年5月にクリスティーズ・ニューヨークのオークションで記録した1190万ドルだった。
競売(オークション)は、七人の入札者(ビッダー)で始まった。オークションでは、三人以上が入札に参加すると最低落札額を越えると言われているので上々の滑り出しだ。
入札額が2000万ドルを超えると、壇上の競売人(オークショニア)の宣言する価格が50万ドル刻みで上がっていく。
二人にまでふるい落とされたラリーを制したのは、電話で参加した匿名の入札者だった。落札者の代理人は、サザビーズの会長リサ・デニソンが勤めた。落札価格(ハンマー・プライス)は4440万5000ドル、落札予想価格の約三倍、女性アーティストとしては史上最高の落札額となった。競売の所要時間は、約8分間だった。
後に落札者は、ウォルマート創業者サム・ウォルトンの娘で、相続人でもあるアリス・ウォルトンが創立したアーカンソー州ベントンビルのクリスタル・ブリッジ・ミュージアムだったことが判明した。 

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2021年7月19日月曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーヴァードライブ』プロローグ 1

プロローグ

戦後間もない頃、草間彌生は、長野県松本市の古本屋で手にした画集の中に、ジョージア・オキーフの作品を見つけた。
カンヴァスの中央に牛の頭蓋骨が大きく描かれた、『牛の頭蓋骨: 赤、白、青』と名付けられた1931年に描かれた絵画だった。背景の左右両端は赤く塗られ、中央の白地からはグラデーションのかかった青が放射状に外へと伸びている。左右に拡がった牛の角は、人間の腕をも思わせ、それはキリストの磔刑図を連想させた。その絵は、現生を超越した宗教的なヴィジョンを帯びていて、草間の魂を激しく揺さぶった。それは、同じ画集の中の他の作品では感じることのできない感興だった。

その頃、草間が知っていたアメリカの画家は、オキーフだけだった。6時間かけて松本駅から新宿駅まで出て、それから赤坂にあるアメリカ大使館へと向かった。そこでMarquis社の発行する名士録『Who's Who in America』を借りて、オキーフの住所を調べ、彼女の住所を書き写した。松本へ帰ってから、一面識もないオキーフへ手紙を出した。アーティストとしての心のありようを尋ね、アメリカへ行きたいという気持ちを切々と訴えた。自分の描いた水彩画も何点か同封した。驚いたことに、オキーフから返信が来た。暖かい心遣いへの感謝の念を伝えると、またもや激励の手紙が届いた。

第二次世界大戦直後のその当時、ジャクソン・ポロックに代表される、アメリカの抽象表現主義がアートの新潮流として世界を席巻しはじめていた。美術の中心地は、パリからニューヨークへ移ろうとしていた。草間はどうしてもアメリカへ渡りたかった。
当時、アメリカに渡航するには現地の見受引受人が必要だった。なんとか身内の伝手をたどって、シアトルで成功した日系一世のビジネスマンの未亡人を紹介してもらった。ヴィザ取得のための渡航目的は、シアトルで個展開催のためとした。最初のアメリカの地、シアトルにたどり着いたのは、1957年11月18日、草間が28歳の時だった。
1957年12月、シアトルのズゥ・ドゥザンヌ・ギャラリーで開催した個展では、水彩画、パステル画を26点出品した。

翌年、草間は引き止める人たちを振り切って、ニューヨークへ転居した。
ニューヨークは、物価も高く、競争も熾烈だった。無名のアーティスト達は、誰もが生き延びるため、競争相手から抜きん出るために、現実と格闘していた。日々の食事も欠く中で、絵具代とキャンバス代を捻出しなければならなかった。魚屋が捨てた魚の頭を裏のゴミ箱から漁り、八百屋の捨てたキャベツの切れ端を拾い、屑屋から10セントで譲り受けた鍋でそれらを煮たスープで、毎日の飢えをしのいだ。
住居も兼ねたアトリエの窓は破れ放題で、凍てつく夜は寝ることさえままならなかった。空腹と寒さに耐えかねて、深夜に起き上がっては絵を描いた。

募る侘しさに押しつぶされそうになった夜は、一人でエンパイアステートビルに登った。
草間がそこに立つおよそ30年前に、スコット・フィッツジェラルドはニューヨークの街に別れを告げるため同じ場所に立った。フィッツジェラルドは、当時、建設されて間もないこの摩天楼からの眺望に驚愕した。街は無限に広がるビルの宇宙だと想像していたのに、現実には、大地の限られたエリアに人工物が立ち並ぶ、都市化された区画に過ぎなかった。
狂騒の1920年代に、都会の風俗を巧みに描き、時代の寵児となったかつての流行作家は、1929年に起こった大恐慌を境にすっかり世間から忘れ去られていた。零落した作家は、後に、街のちっぽけさを、かつて手にした自らの富と名声の儚さ、脆さと重ね合わせた。
しかし、野心以外何も持たない草間には、遠く下方で瞬く夜景は、自ら希望と可能性を燃え立たせ、成功へと誘う、街の甘美な目配せと映った。眺めている間は、常につきまとっていた空腹さえ忘れるほどだった。

1959年10月、草間は念願だったニューヨークでの最初の個展を「オブセッショナル・モノクローム展」をブラタ・ギャラリーで開催した。この時発表した作品「無限の網」は、草間のキャリアを通じた代表作のひとつとなる。
カンヴァスに描かれた、縦2m、横4mを少し超えるモノトーンのシリーズ5点は、大きな反響を呼び、小さなギャラリーは来場者で溢れた。ニューヨーク・アート界の大立者も訪れ、美術評論家によるレビューが『ニューヨーク・タイムズ』誌にも掲載された。
アイボリー色の下地に、それより少し濃い色の単色の斑点を無数に反復させた作品は、全体を律する中心がなく、図と地が同時に世界を表象していた。流動的に反復する色付いた斑点である図は律動する個体の集合であり、斑点の狭間で白い網目となった地はネットワーク化された全体として認識できる。生滅を無限に繰り返す無常の世界を、あたかもカンヴァスの上に投影したかのようだった。そこには、ミクロとマクロが等価であり、実体と無が同時に存立する世界が現出していた。
オキーフが超越的なヴィジョンをキリスト教の黙示録的な世界観で表出したのに対して、草間は縁起や空といった仏教的な世界観を通じて同じ事象を描き出したかのようだった。

ジョージア・オキーフが、ニューヨークの草間のアパートメントを訪れたのは1961年のことだった。ニューメキシコからのはるばるの訪問だった。手紙のやりとりはあったものの、草間がオキーフに会うのはそれが初めてだった。
後ろにひっつめた白髪、意志的な額、鋭角的で高い鼻筋。頬に刻まれた深い皺は、彼女が絵画のモチーフに用いる風化した動物の骨と似た印象を与えた。樹齢を重ねた巨木のようながっしり体躯はドレープのかかった、ゆったりとした黒のコットンドレスに包まれていた。胸元には友人の彫刻家アレクサンダー・カルダーから贈られたブロンズ色の幾何学形のブローチが付けられ、ウエストはネイティブ・アメリカンの銀細工で飾られた革ベルトで締められていた。フェラガモにオーダーしたスウェードの黒のモカシンは、甲の部分に葉脈のようなエンボス加工が施されていた。
オキーフの佇まいは、森の奥深い修道院で、厳格な戒律を守りながら暮らす修道女を思わせた。彼女は1949年にニューヨークを離れてから、ニューメキシコの荒野に立つ一軒家に住み、世間からは隠遁者として見做されていた。実際に会ってみると、彼女は厳格で気難しい一面はあったものの、率直で機知に富んだ人物だった。草間の身を案じて、ニューメキシコで一緒に暮らさないかとまで提案してくれた。
この街に魅せられ、ここでの成功を夢見ていた草間は、残念ながら断わざるを得なかった。


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2021年5月23日日曜日

とりあえず小説を書くことにした

去年の4月末に日本に帰国した時は、2、3ヶ月したらミャンマーに戻るつもりでした。
ところが、コロナは収まらないわ、さらにはクーデターは起こるのわで、戻る目処がまったく立っていません。
日本でバイト生活を始めて一年が経とうとしています。
バイト先では、ひたすらPCに顧客データを入力していますが、創造性のない作業をずっと続けるのもさすがに倦んできたので、小説を書くことにします。

日本に戻る直前に、ミャンマーで見た明晰夢をベースにプロットを組み立てます。
夢の中で、現代美術のコレクターの自宅のコレクションを眺めていた時に、不思議な体験をしたことが構想のベースです。

資本主義と仏教と現代美術の交差する部分に、ポスト資本主義や上座部仏教の修行者が目指す涅槃(ニルヴァーナ)に近しい世界があるのではないかという直感があるので、それについての世界観を描き出してみたい。


小説の手掛かりになっているモチーフをいくつか以下に列挙します。

マルクスは価格は、価値と使用価値とよって決定されると論じました。
しかし、アートは使用価値=実用性がないにも関わらず、実用品よりも遥かに高額で取引されることがあります。マルクスの言う価値は、その商品を製造するのに要した時間を指す概念ですが、アートの市場においては、これも作品の値付けとは関係がない。評価の高い作家が短時間で創った作品は、無名の作家が長い時間をかけて創った作品よりも高額で取引される。キャリアを時間として想定してみても、例えばピカソの初期の作品は、晩年のそれよりも二十倍程度高額の市場価値があるので、価値=製造に要した時間という概念が当てはまらない。

十九世紀、産業革命の初期に現れた、ジョン・ラスキンのユートピア思想、それを具体化したウィリアム・モリスのアーツ&クラフツ運動。

華厳経の世界観を示す重々帝網と二〇〇二年ワシントンのナショナルギャラリーが百万ドルで購入した草間彌生の作品「Infinity Nets Yellow」(一九六〇年)の類似性。

経済学、現代美術、仏教の関連資料を読み込んでますが、いま住んでるゲストハウスがかなり立地が良いため助かってます。


同じビルにブックオフがあり、通りを挟んだ向かいは北九州で一番大きな書店、その200メータ先は図書館なので、あまりAmazon頼る必要がない。

問題は、テーマが壮大過ぎて、ちゃんと書き切れるかどうかなんですが、あまり完成度に拘らずにやってみることにします。悪い時のフィリップ・K・ディックみたに、異様な世界観だけ提示されて、ストーリーが破綻しているみたいな出来上がりになるかもしれませんが。

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2021年4月28日水曜日

そろそろミャンマーの革命の話をしよう(2)

前稿の続きです。
前稿では、今回起きたミャンマー国軍によるクーデターは、ミャンマーの政治経済システムに内在する力学が剥き出しの形で露呈しただけで、偶発的・突発的なものではないことを指摘しました。
本稿では、こうした政治経済システムの不安定性を内在する民族的な気質について深堀りしてみたいと考えます。

ここで援用するのが、人類学者エマニュエル・トッドの仮説です。
トッドは、各地域の家族制度が、自由主義・共産主義・社会主義といった イデオロギー(宗教もそこに含まれる)を特徴づけると論じました。
つまり、下部構造(家族制度)が上部構造(イデオロギー)を規定するという分析です。
トッドは家族構造の類型を「権威主義的家族」、「平等主義核家族」、「絶対核家族」、「外婚制共同体家族」、「内婚性共同体家族」、「非対称共同体家族」、「アノミー 的家族」の7つに分類しました。

上の7つの分類から4つを選んで、以下に説明します。
分析は、主に家族制度が平等か不平等か、親子関係が権威主義か平等かの二つの軸によってなされます。

たとえば、日本がカテゴライズされる「権威主義的家族」は、 子どものうち一人が跡取りとなり、全ての遺産を相続する家族制度です。こうした家族形態は、親子関係が権威主義的であり、兄弟関係が不平等主義的といった特徴を持ちます。戦前日本のイエ制度や、江戸時代以来続く、暖簾を守るといった家業に基づく長期的・継続的な商人道のあり方は、こうした家族制度に由来している可能性があります。

イングランド,オランダ,デ ンマークなどの北ヨーロッパが属する「絶対核家族」の家族構造は,子どもたちは独立していきますが,遺産の相続は親の遺言・信託によって決定されます。親 子関係は自由主義的であり、兄弟関係は平等への無関心によって特徴付けられます。資本主義が誕生した国家が属するカテゴリーですが、株式や契約等の証書を根拠とした社会システムは、こうした家族制度のあり方を、家族の外部(社会)に敷衍した結果という見方もできます。

「外婚制共同体家族」は、ロシア、中 国、ヴェトナム、旧ユーゴ地域等の共産主義化した国に見られる家族制度です。子どもは成人・結婚後も親と同居し続けるため,家族を持つ兄弟同士が、家父長の下に暮らす大きな家族形態を取ります。遺産は平等に 分配され,権威主義的な親子関係と平等主義的な兄弟関係となります。
このような家族制度を持つ地域・国家が共産主義化したことは、イデオロギー・社会システム(上部構造)という擬制(フィクション)は、家族制度という民族・地域に自然発生した、本来的・根源的な制度(下部構造)の上に立脚するというトッドの仮説を強く補強する事実です。

さて、ミャンマーは、タイ・カンボジア・ラオス・マレーシア・フィリピ ンなどの東南アジア諸地域が属する「アノミー的家族」に分類されています。この形態は、親子関係と兄弟関係 が共に不安定なため、人々は共同体主義と個人主義の間の緊張状態の中で生きることを強いられます。これは政情不安にも繋がり、トッドは、ポル・ポト率いるクメール=ルージュによるジェノサイドは、こうした緊張状態が現象化した事例として指摘しています。カンボジアは、対立野党の解体などフンセンによる事実上の独裁が現在も続いており、いまなお混乱した政情です。そして、タイでは、周期的に軍事クーデターが起きています。
トッドの説に従うなら、現在、起きているミャンマー国軍による弾圧もこうした家族制度に起因していることになります。
個人的に不思議なのは、タイで軍事クーデターが起きても、経済活動や為替への影響が極めて軽微なのに対し、ミャンマーでは毎回災厄レベルのダメージを被ることです。
タイにあってミャンマーにないものー交通・上下水道・電気等の社会的インフラと教育・医療等の制度資本ーの差が、軍事クーデターの社会に与える深刻さの軽重に繋がっているのではないかと推測していますが、明快な結論はまだ出せていません。
世界の成長エンジンとして期待されてきた東南アジア諸国ですが、文化人類学的な見地では、この地域には、社会の不安定性が構造的にビルトインされていることに、投資を考える際には意識的になるべきでしょう。

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2021年4月26日月曜日

そろそろミャンマーの革命の話をしよう(1)

2月1日に起こったミャンマー国軍のクーデターから約3ヶ月が経とうとしています。
随時、TwitterやFacebookで現地の状況を追っていますが、現場にいるわけでもないので、速報性のある情報や一次情報は伝えられません。タイムラインには、国軍に拷問されたり、虐殺された犠牲者の目を覆いたくなるような映像が流れてきていますが、ここでは転載しません。

現在のミャンマーで起こっている事象を、現地速報との差別化のため、もう少し長い射程で考えてみることにします。
ここ3ヶ月間考えていたのは、今回のクーデターは偶発的・突発的に起こったものではなく、むしろミャンマーの社会システムに内在する既存の力学が、剥き出しの形で顕在化したということです。

ミャンマーの政治経済は、ビルマ族を主体とする国軍により支配されてきたのは、周知の事実です。
国会の4分の1の議席に軍人議員の割り当て枠があり、内務省、国防省、国境省の主要3省の大臣の任命権は国軍司令官にあります。
経済についても、国家の主要な収入源であるガス・木材等の天然資源の権益・利権を握っているのはMEHL (Myanmar Economic Holding Limited) やMEC (Myanmar Economic Corporation) といった国軍系の企業群です。
国会議員の議席の割り当ても、国軍系企業による透明性の低い収益も、一部の軍の高官が独占しています。既得権益の受益者である国軍の高官は、民族的マジョリティであるビルマ族によって占められています。
つまり、ミャンマーという国家の政治経済の構造は、国軍のビルマ人高官の政治権力・経済的利益を最大化するように設計されています。
約10年前に、「アジア最後のフロンティア」としてミャンマーへの投資熱が高まった時期がありましたが、その頃のミャンマーに多数居た日系コンサルタントたちが、こうした社会構造の不安定性を説明していたとは思えません。

こうした政治経済システムの下で、昨年11月の国軍系政党のUSDP(連邦団結発展党)の大敗を受けて、これまで享受してきた利権や権益を失うことを怖れた軍の高官たちが、今回の武力による実力行使に踏み切ったことは、それほど驚くべきことではないのかもしれません。
彼らにとっての関心事は、国家の安定や発展ではなく、あくまで自分たちの利権や権益の維持・拡大だからです。彼らのような既得権益の受益者にとって、国軍は、自らの地位や利権を保全のために存在するもので、国防や国民の安全を図ることはおそらく視野に入れていません。
こうしたミャンマー国軍に内在する力学や理念(と呼べるかはさておき)を鑑みると、日本政府が持つとされていた国軍との独自の外交ルート(パイプ)が、今回の国軍による市民の弾圧の抑制・中止に無力であったことは納得できます。自らの権益の拡大に繋がるODA等の海外からの投資については話を聞く気になっても、利権の縮小を招く、民主化や社会の透明性の向上などを聞き入れる余地は、彼らにはないからです。彼らにとって、一般国民の安全や生命よりも、自らの利権の方がはるかに重要なので、人権の遵守を求める他国からの勧告を聞く耳は持ちません。国軍がODA等の日本からの投資について対話に応じていたのは、それが彼らの権益の拡大に資するからです。外国資本による投資の多くは、国軍系の企業を通して、軍の高官の懐へ流れ込んでいることは容易に想像がつきます。

これまで、国軍は天然資源の利権(とおそらく麻薬の原料となるケシの権益)を巡って、国境周辺の少数民族武装戦力と戦闘を繰り広げていました。国軍による弾圧で、最も規模が大きくなったロヒンギャ族への武力行使では、2017年7月の死者は6,000人、2019年時点での難民は91万人に達したと伝えられています。
こうした国軍による弾圧は、国境地帯の少数民族へ向けられていたため、これまで可視化されにくく、また、都市部に住む多くのミャンマー人、特にマジョリティであるビルマ人にとっては、遠くの場所で起きていることとして、大きな関心を集めることはありませんでした。
軍のクーデター以降、民主主義の回復を主張するデモ隊の市民に、国軍兵士が銃口を向け、活動家を拉致し、拷問にかけ、惨殺する事態となって、都市部の市民の多くは、国軍が一部の高官の利益を保全するための暴力装置であることを強く認識しはじめました。
SNSでは、「国境地帯の少数民族が武装している理由が初めてわかった」とか「いままで少数民族の武装組織をテロリストと思ってたけど、テロリストはミャンマー国軍の方だったんだ」といった投稿が、国軍による弾圧が強まり、死傷者が増加しはじめた時期に目立ちました。いまでは、ミャンマー国軍は、SNS上でテロリストと呼ばれるのが慣例化しています。1988年、軍事独裁体制に対する大規模な民主化運動(8888民主化運動)が起こった時は、軍の弾圧で数千人の民衆が犠牲となったと言われていますが、現在の民主化運動とSNSでの情報発信の主体となっているZ世代にはリアリティが薄かったようです。

これまで国境周辺の周縁部に居住する少数民族に向かっていた国軍による暴力が、いまでは都市部のマジョリティであるビルマ族へも及ぶ事態となりました。周縁に発動されていた暴力が、中心へと向かうことは、発動される方向性が変わっただけで、暴力を支える力学は変わっていません。
ただし、ミャンマーという国家の政治経済システムが、軍の高官の権力と利益の維持・拡大を目的とし、国軍という暴力装置がそれを下支えしているという構図が、今回の弾圧で誰の目にも明らかになりました。都市部の住民、とりわけZ世代のような若い世代にとって、これは初めてのことかもしもしれません。

国軍による正当性のない暴政に対抗する組織として、4月16日にNUG, National Unity Government(国民統一政府)が結成されました。
NUGのスポークスマンとして積極的に情報発信しているのは、チン族のDr. Sasaであり、副大統領にカチン族、首相にカレン族が任命されています。また、Dr. Sasaは前政権では不法移民として扱われていたロヒンギャ族をミャンマーの仲間と呼びかけました。SNS上でも、ビルマ族により、これまでの弾圧を謝罪する声が上がりはじめています。
NUGによる連邦軍の創設の構想に伴い、KIA, Kachin Independence Army(カチン独立軍)やKNU, Karen National Union(武装民族カレン国民連合)などの少数民族武装戦力との共闘・合流も取り沙汰されはじめています。

少数民族の自治権を保障する連邦国家の創立は、1947年に2月のバンロン協定により同意されましたが、同年7月のアウンサン将軍の暗殺により、実現されませんでした。
現在起こっている軍事独裁に対する抗議運動は、Spring Revolution(春の革命)と呼ばれています。革命と呼ばれるのは、この運動の目指す先が、クーデター前の政体に戻ることではなく、少数民族の自治権を認める、多民族による連邦国家の創設という、これまでにない新しい国体を構想しているからです。
これから先、国軍とNUGの対立がどのように展開するのか予想もつきませんが、今回は過去の弾圧とは異なり、民衆側に妥協する意思が感じられません。これまで通り、一部のビルマ人国軍高官による政治経済の支配体制が続けば、彼らの利権が脅かされるたびに、現在起きているよう国民への弾圧が起こり得るからです。国軍の蜂起は、1962年、1988年、2007年に続いて今回で4回目なので、国民も学習しています。一部のビルマ人高官の利権を支えるために存在している、既存のミャンマー国軍を解体しない限り、大多数のミャンマー国民にとって希望の持てる未来はありません。それゆえ、国軍の国民への弾圧は、日を追うごとに苛烈さを増していますが、国民を服従させる効果は薄そうです。
良いニュースとしては、国軍から離反者が現れつつあり、内部告発も始まっていることです。

ミャンマーがこうした不安定な社会にならざるを得ない社会学的な理由についての仮説も書くつもりでしたが、長くなったため、次稿にゆずります。

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2021年1月14日木曜日

50年前の世界から、これからの世界のあり方を考えた

おそらく今回は長い投稿になります。お時間ある時にお読みください。

年末年始に読んだ、今の日本でベストセラーになっている本を三冊読んで、これからの世界のありようを考えてみます。
ここにあげる三冊は、パンデミックが起きた現在でないとベストセラーになることはなかったでしょう。いやむしろ今の時期だからこそ、執筆されたというべきでしょうか。

まずは、佐久間由美子著『Weの市民革命』から。


本書は、「ギル・スコット・ヘロンの名曲『革命はテレビ中継されない』にかけて、『どうやら革命は中継されるらしい』書いたのは、ニューヨーク・タイムズ紙の黒人ジャーナリスト、チャールズ・ブロウだった」という一文から始まります。

The revolution will not be televised
The revolution will be no re-run, brothers
The revolution will be live. 
 
革命はテレビ中継されない
革命は再放送されないんだ、ブラザー
革命は目の前で起きている

この曲が収録されたアルバム、"Peaces of a man"がリリースされたのは1971年。ちょうど今から50年前です。当時と違い、個人のメディアを持つ現在の我々は、たとえテレビ中継されなくとも、SNSを使って情報発信ができます。

The revolution must be SNSnized


ニューヨーク在住の著者による現地を中心とする本書では、ミレニアム世代とそれに続くより「コラボレーションや団結に興味がある」Z世代の消費性向から、企業文化の変更を迫られている現状が報告されています。この二つの世代は、高い購買力と発信力を持つため、無視できない消費層だそうです。
従来の株主利益を最大化を目指すのが正しいという企業像から、「株主へ利益を還元することよりも、『社会全体の利益』を優先する企業形態が登場し、社会や地域全体を自分のコミュニティーとみなし、それを守るための経済活動にコミットする企業が増えてきた」と言います。興味深いのが、ジェントリフィケーションー「もともと荒れていたり裕福でなかったりする地域に白人を中心としたアーティストやクリエイティブ層が流入し、それがきっかけとなって商業が栄え、結果として家賃が上がり、それ以前から存続するコミュニティが圧迫される循環的現象」ーにより家賃を払って営業することが難しくなった地域で、ライブハウス、ラジオ局、ギャラリーやワークショップを開催する機能を兼ねた複合施設などが、非営利団体として運営されている事例です。政府や企業から独立した文化施設が地域の公共財として設立され、地域の人々により運営されるという現象が一般化するかどうかは分かりませんが、あり方として新しいと感じました。
コロナ禍によってサプライチェーンが分断されことで、現在のシステムの脆弱性と、我々の消費が、途上国の労働者と生産システムによって支えられていたことが露わになった今、エシカルであることサスティナブルであることの意味を、様々な個人や企業の実践例を通して考えさせられます。 

5年前、同じ著者による本『ヒップな生活革命』を手掛かりに、日本でミャンマーを考えた 〜「ヒップな生活革命」という記事を投稿したことがありました。

次は、斎藤幸平著『人新生の「資本論」』です。

本書では、かなり過激な主張がされています。
「SDGsは大衆のアヘンである!」と断じ、資本主義というシステムにビルトインされている富の増殖=成長そのものを手放さないと、もはや地球が生物が住める環境ではなくなることを様々なデータをあげて例証しています。
そして、資本主義の後を継ぐべき社会システムとして、「脱成長コミュニズム」が提唱されています。
コモンー「社会的に人々に共有され、管理されるべき富」、自然、電力・上下水道などのインフラ、教育・医療・法律などの社会システムーを市民の手に取り戻し、自主管理することで、すべてのモノが商品化される以前の世界に存在した「ラディカルな潤沢さ」を取り戻し、真の意味での自由な世界を構築する。たとえば、水はコモンを通じて無料で手に入るものでしたが、水源を資本に囲い込まれ、ミネラルウォーターという形で、貨幣を介して購入するモノへと商品化されました。こうした資本によりコモンが貨幣・商品関係に置き換えられた社会システムを、労働者が生産システムを取り戻し、放埒な消費を自制し、真の意味での精神的な自由な共同体を作り上げる。
実例として、自動車産業の衰退により荒廃したデトロイトが、都市型の有機農業により、地域コミュニティと緑が再生したこと、脱成長的なマニュフェストを掲げ、飛行機の近距離線を廃止し、市街地での自動車の速度制限を時速30キロに定め、水道や電力等のコモンの運営を市民参加型のシステムに変更したバルセロナなどがあげられています。
正直、実現可能性はどうだろう?と感じます。
自己増殖を内在化する資本主義が、無限の成長を目指すことで、富の偏在や環境問題を引き起こしていることは事実ですが、我々の生活が資本主義の果実を享受していることによって成立している事実も否定できません。
現に、今このブログ書くために使っているコンピュータは、元々、第二次世界大戦時に弾道計算のために開発された機械ですし、インターネットは核攻撃を受けた時に機能する分散型の通信システムとして冷戦時に開発された、いうなれば帝国主義的なシステムから産み出された産物です。
先進国に住む人間が、こうした技術に依って暮らしている原罪性から逃れることはできないし、その疚しさをどう引き受けるのかは、もっと論じられてもよいのではないかと感じます。
また、SDGsの欺瞞性を説きながら、紹介されている「脱成長コミュニズム」が実践されている場所の多くが、デトロイトやコペンハーゲンといった先進国の都市であるのも説得力にやや欠けます。
実際、ミャンマーには市場原理とは縁の薄い、村落共同体が数多く残っていますが、そこに「ラディカルな潤沢さ」が存在するかといえば、かなり疑問です。
最低限のインフラや教育といった社会共通資本が存在しなければ、「ラディカルな潤沢さ」は実現不能だからです。途上国へ最低限の社会共通資本を構築するためには、先進国から途上国への何らかの所得移転が必要になるかと思いますが、それについては詳しく論じられていません。
腑に落ちない部分もいろいろとありますが、資本主義の後に続く社会像を提示したという点で新しいし、こうした本が書店に平積みされて、数多くの読者を得ていることにも時代の変わり目であることを実感させます。

最後に、山口周著『ビジネスの未来――エコノミーにヒューマニティを取り戻す』です。


本書の前提は、先進国において、「物質的な生活基盤の整備という、人類が長らく抱えてきた課題」が解消された現在、「不可避なゼロ成長への収斂の最中にある」という認識です。
著者は、この社会の状態を「高原社会」と呼んでいます。
物質的な生活基盤を整備して、成長の余地がなくなったことは、達成であり、低成長は成熟の証であり、こうした状態に達したことを我々は言祝ぐべきだという視点から本書は論を進めます。
高原社会においては、経済合理性限界曲線の内側の課題、すなわち解決して利益の上がる問題は、ほぼ残されていないという事実に突き当たります。
残されているのは、「問題解決のハードルが高過ぎて投資が回収できない」か「問題解決によって得られるリターンが小さ過ぎて投資を回収できない」問題のみです。市場とは「利益が出る限り何でも行うが、利益が出ない限り何も行わない」システムなので、市場原理的な価値観では、この問題は放置されたままとなります。
人が経済合理性限界曲線の外側にある問題を解決するためには、二つの前提が必要となります。
一つは経済的に困窮しないこと、何しろやっても儲からない問題に取り組むのですから、生活が破綻しない裏付けないとやっていけません。困窮しても、なおかつチャレンジする鉄の意思の持ち主もたまに見かけますが、希少性の高い人材のみに解決を頼るのは現実的ではありません。
もう一つは、活動が経済合理性を超えた「人間性に根ざした衝動」に基づいていること。活動それ自体が精神的な報酬になる、内発的な動機に基づいていることです。
前者の経済的な裏付けとして、著者はユニバーサル・ベーシックインカムを提唱しています。
高原社会での労働は、労働それ自体が「愉悦となって回収される社会」になると著者は予想しています。
それは、以下の二つの活動として、集約されます。

  1. 社会的問題の解決(ソーシャルイノベーション実現)
    :経済合理性限界曲線の外側にある問題を解く
  2. 文化的価値の創出(カルチュアルクリエーションの実践)
    :高原社会を「生きるに値する社会」にするモノ・コトを生み出す

これは、個人的に腹落ちする結論です。
ミャンマーにおいて解決すべきなのは、1の「問題解決によって得られるリターンが小さ過ぎて投資を回収できない」問題だからです。具体的には、電力・上下水道などのインフラ、医療・法律・教育などの制度資本の確立です。こうした社会共通資本の基盤がないと、利益を目的としたビジネスは行えません。そして、こうした問題は、経済合理性で推し測ることができない分野です。原理的に万人に遍く広く行き渡るべきコモン=公共財だからです。
今まで「お金儲けが目的なら、ミャンマーに来ない方がいい」と言って、さんざん在住者や視察に来た人々の座を白けさせてきましたが、ようやく自分の中で理論化できました。
著者は、「『システムをどのように変えるか』という問いではなく、『私たち自身の思考・行動の様式をどのように変えるのか』と問」うべきだと主張します。
その問いによって、「資本主義をハックする」という行先が示されています。
成長という神話の終焉を前提としているという点では共通するものの、社会システムの変更を主張する前掲書とは立場を異にしています。

冒頭に紹介したギル・スコット・ヘロンの"Peaces of a man"がリリースされた同年の1971年に、マーヴィン・ゲイは、ポップ史上最も重要で影響力のあるアルバム、"What's going on"をリリースしました。ベトナム戦争や環境問題を取り上げたメッセージ性の高い歌詞とコーラスとストリングスを重ねた多層的で洗練されたサウンド・デザインは、後のポップミュージックへ多大な影響を与えました。
【Wikipediaより引用:アルバムは『ローリング・ストーンの選ぶオールタイム・ベストアルバム500』(2020年版:大規模なアンケートによる選出)では1位にランクされている。また、2013年に『エンターテインメント・ウィークリー』誌が選出した『史上最も偉大なアルバム100』では13位となった。】



Picket lines and picket signs
Don't punish me with brutality
Talk to me, so you can see
What's going on

デモ行進そしてプラカード
荒っぽいやり方はごめんだよ
話しておくれよ、そうすれば分かり合えるよ
いったい何が起きてるんだ

また、本年1月4日付の日本経済新聞朝刊に、50年前の同日に同紙に掲載された、経済学者、宇沢弘文の寄稿についての記事が掲載されていました。

宇沢経済学のメッセージ 「社会の幸福」、再考の時

個人がそれぞれの利益を追い求める結果、市場を通じて資源の配分が最も効率的に行われる――。当時の主流経済学に対する懐疑だった。

経済学者は〈目的の正しさ=倫理〉を語る資格はないのか。公平や平等という価値をどのように経済分析に取り込めるのか。困難な道筋だが、避けて通ることはできない、と真摯に語った。

従来の主流派経済学(新古典派経済学)では、自然や第三世界を外部化しています。それゆえ、環境破壊や途上国の搾取といった問題が引き起こされる一因となりました。
ベトナム戦争の遂行に経済学の概念が利用されたことや企業の利潤追求の結果として水俣病などの公害が引き起こされたことが、宇沢先生の理論に大きな影響を与えたことは、2019年に出版された大部の評伝に詳しく書かれています。
そうした問題意識は、社会共通資本ー自然環境(大気、森林、河川、土壌など)、社会的インフラストラクチャー(道路、交通機関、上下水道、電力・ガスなど)、制度資本(教育、医療、司法、金融など)ーの概念として結実します。
宇沢先生は、社会共通資本を経済合理性の外側に置くべきであり、市場原理に委ねるべきではないと論じました。

今から50年前にマーヴィン ・ゲイが問いかけ、宇沢弘文が提起した問題に我々は答えるべき時期に差し掛かっています。

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