2021年1月14日木曜日

50年前の世界から、これからの世界のあり方を考えた

おそらく今回は長い投稿になります。お時間ある時にお読みください。

年末年始に読んだ、今の日本でベストセラーになっている本を三冊読んで、これからの世界のありようを考えてみます。
ここにあげる三冊は、パンデミックが起きた現在でないとベストセラーになることはなかったでしょう。いやむしろ今の時期だからこそ、執筆されたというべきでしょうか。

まずは、佐久間由美子著『Weの市民革命』から。


本書は、「ギル・スコット・ヘロンの名曲『革命はテレビ中継されない』にかけて、『どうやら革命は中継されるらしい』書いたのは、ニューヨーク・タイムズ紙の黒人ジャーナリスト、チャールズ・ブロウだった」という一文から始まります。

The revolution will not be televised
The revolution will be no re-run, brothers
The revolution will be live. 
 
革命はテレビ中継されない
革命は再放送されないんだ、ブラザー
革命は目の前で起きている

この曲が収録されたアルバム、"Peaces of a man"がリリースされたのは1971年。ちょうど今から50年前です。当時と違い、個人のメディアを持つ現在の我々は、たとえテレビ中継されなくとも、SNSを使って情報発信ができます。

The revolution must be SNSnized


ニューヨーク在住の著者による現地を中心とする本書では、ミレニアム世代とそれに続くより「コラボレーションや団結に興味がある」Z世代の消費性向から、企業文化の変更を迫られている現状が報告されています。この二つの世代は、高い購買力と発信力を持つため、無視できない消費層だそうです。
従来の株主利益を最大化を目指すのが正しいという企業像から、「株主へ利益を還元することよりも、『社会全体の利益』を優先する企業形態が登場し、社会や地域全体を自分のコミュニティーとみなし、それを守るための経済活動にコミットする企業が増えてきた」と言います。興味深いのが、ジェントリフィケーションー「もともと荒れていたり裕福でなかったりする地域に白人を中心としたアーティストやクリエイティブ層が流入し、それがきっかけとなって商業が栄え、結果として家賃が上がり、それ以前から存続するコミュニティが圧迫される循環的現象」ーにより家賃を払って営業することが難しくなった地域で、ライブハウス、ラジオ局、ギャラリーやワークショップを開催する機能を兼ねた複合施設などが、非営利団体として運営されている事例です。政府や企業から独立した文化施設が地域の公共財として設立され、地域の人々により運営されるという現象が一般化するかどうかは分かりませんが、あり方として新しいと感じました。
コロナ禍によってサプライチェーンが分断されことで、現在のシステムの脆弱性と、我々の消費が、途上国の労働者と生産システムによって支えられていたことが露わになった今、エシカルであることサスティナブルであることの意味を、様々な個人や企業の実践例を通して考えさせられます。 

5年前、同じ著者による本『ヒップな生活革命』を手掛かりに、日本でミャンマーを考えた 〜「ヒップな生活革命」という記事を投稿したことがありました。

次は、斎藤幸平著『人新生の「資本論」』です。

本書では、かなり過激な主張がされています。
「SDGsは大衆のアヘンである!」と断じ、資本主義というシステムにビルトインされている富の増殖=成長そのものを手放さないと、もはや地球が生物が住める環境ではなくなることを様々なデータをあげて例証しています。
そして、資本主義の後を継ぐべき社会システムとして、「脱成長コミュニズム」が提唱されています。
コモンー「社会的に人々に共有され、管理されるべき富」、自然、電力・上下水道などのインフラ、教育・医療・法律などの社会システムーを市民の手に取り戻し、自主管理することで、すべてのモノが商品化される以前の世界に存在した「ラディカルな潤沢さ」を取り戻し、真の意味での自由な世界を構築する。たとえば、水はコモンを通じて無料で手に入るものでしたが、水源を資本に囲い込まれ、ミネラルウォーターという形で、貨幣を介して購入するモノへと商品化されました。こうした資本によりコモンが貨幣・商品関係に置き換えられた社会システムを、労働者が生産システムを取り戻し、放埒な消費を自制し、真の意味での精神的な自由な共同体を作り上げる。
実例として、自動車産業の衰退により荒廃したデトロイトが、都市型の有機農業により、地域コミュニティと緑が再生したこと、脱成長的なマニュフェストを掲げ、飛行機の近距離線を廃止し、市街地での自動車の速度制限を時速30キロに定め、水道や電力等のコモンの運営を市民参加型のシステムに変更したバルセロナなどがあげられています。
正直、実現可能性はどうだろう?と感じます。
自己増殖を内在化する資本主義が、無限の成長を目指すことで、富の偏在や環境問題を引き起こしていることは事実ですが、我々の生活が資本主義の果実を享受していることによって成立している事実も否定できません。
現に、今このブログ書くために使っているコンピュータは、元々、第二次世界大戦時に弾道計算のために開発された機械ですし、インターネットは核攻撃を受けた時に機能する分散型の通信システムとして冷戦時に開発された、いうなれば帝国主義的なシステムから産み出された産物です。
先進国に住む人間が、こうした技術に依って暮らしている原罪性から逃れることはできないし、その疚しさをどう引き受けるのかは、もっと論じられてもよいのではないかと感じます。
また、SDGsの欺瞞性を説きながら、紹介されている「脱成長コミュニズム」が実践されている場所の多くが、デトロイトやコペンハーゲンといった先進国の都市であるのも説得力にやや欠けます。
実際、ミャンマーには市場原理とは縁の薄い、村落共同体が数多く残っていますが、そこに「ラディカルな潤沢さ」が存在するかといえば、かなり疑問です。
最低限のインフラや教育といった社会共通資本が存在しなければ、「ラディカルな潤沢さ」は実現不能だからです。途上国へ最低限の社会共通資本を構築するためには、先進国から途上国への何らかの所得移転が必要になるかと思いますが、それについては詳しく論じられていません。
腑に落ちない部分もいろいろとありますが、資本主義の後に続く社会像を提示したという点で新しいし、こうした本が書店に平積みされて、数多くの読者を得ていることにも時代の変わり目であることを実感させます。

最後に、山口周著『ビジネスの未来――エコノミーにヒューマニティを取り戻す』です。


本書の前提は、先進国において、「物質的な生活基盤の整備という、人類が長らく抱えてきた課題」が解消された現在、「不可避なゼロ成長への収斂の最中にある」という認識です。
著者は、この社会の状態を「高原社会」と呼んでいます。
物質的な生活基盤を整備して、成長の余地がなくなったことは、達成であり、低成長は成熟の証であり、こうした状態に達したことを我々は言祝ぐべきだという視点から本書は論を進めます。
高原社会においては、経済合理性限界曲線の内側の課題、すなわち解決して利益の上がる問題は、ほぼ残されていないという事実に突き当たります。
残されているのは、「問題解決のハードルが高過ぎて投資が回収できない」か「問題解決によって得られるリターンが小さ過ぎて投資を回収できない」問題のみです。市場とは「利益が出る限り何でも行うが、利益が出ない限り何も行わない」システムなので、市場原理的な価値観では、この問題は放置されたままとなります。
人が経済合理性限界曲線の外側にある問題を解決するためには、二つの前提が必要となります。
一つは経済的に困窮しないこと、何しろやっても儲からない問題に取り組むのですから、生活が破綻しない裏付けないとやっていけません。困窮しても、なおかつチャレンジする鉄の意思の持ち主もたまに見かけますが、希少性の高い人材のみに解決を頼るのは現実的ではありません。
もう一つは、活動が経済合理性を超えた「人間性に根ざした衝動」に基づいていること。活動それ自体が精神的な報酬になる、内発的な動機に基づいていることです。
前者の経済的な裏付けとして、著者はユニバーサル・ベーシックインカムを提唱しています。
高原社会での労働は、労働それ自体が「愉悦となって回収される社会」になると著者は予想しています。
それは、以下の二つの活動として、集約されます。

  1. 社会的問題の解決(ソーシャルイノベーション実現)
    :経済合理性限界曲線の外側にある問題を解く
  2. 文化的価値の創出(カルチュアルクリエーションの実践)
    :高原社会を「生きるに値する社会」にするモノ・コトを生み出す

これは、個人的に腹落ちする結論です。
ミャンマーにおいて解決すべきなのは、1の「問題解決によって得られるリターンが小さ過ぎて投資を回収できない」問題だからです。具体的には、電力・上下水道などのインフラ、医療・法律・教育などの制度資本の確立です。こうした社会共通資本の基盤がないと、利益を目的としたビジネスは行えません。そして、こうした問題は、経済合理性で推し測ることができない分野です。原理的に万人に遍く広く行き渡るべきコモン=公共財だからです。
今まで「お金儲けが目的なら、ミャンマーに来ない方がいい」と言って、さんざん在住者や視察に来た人々の座を白けさせてきましたが、ようやく自分の中で理論化できました。
著者は、「『システムをどのように変えるか』という問いではなく、『私たち自身の思考・行動の様式をどのように変えるのか』と問」うべきだと主張します。
その問いによって、「資本主義をハックする」という行先が示されています。
成長という神話の終焉を前提としているという点では共通するものの、社会システムの変更を主張する前掲書とは立場を異にしています。

冒頭に紹介したギル・スコット・ヘロンの"Peaces of a man"がリリースされた同年の1971年に、マーヴィン・ゲイは、ポップ史上最も重要で影響力のあるアルバム、"What's going on"をリリースしました。ベトナム戦争や環境問題を取り上げたメッセージ性の高い歌詞とコーラスとストリングスを重ねた多層的で洗練されたサウンド・デザインは、後のポップミュージックへ多大な影響を与えました。
【Wikipediaより引用:アルバムは『ローリング・ストーンの選ぶオールタイム・ベストアルバム500』(2020年版:大規模なアンケートによる選出)では1位にランクされている。また、2013年に『エンターテインメント・ウィークリー』誌が選出した『史上最も偉大なアルバム100』では13位となった。】



Picket lines and picket signs
Don't punish me with brutality
Talk to me, so you can see
What's going on

デモ行進そしてプラカード
荒っぽいやり方はごめんだよ
話しておくれよ、そうすれば分かり合えるよ
いったい何が起きてるんだ

また、本年1月4日付の日本経済新聞朝刊に、50年前の同日に同紙に掲載された、経済学者、宇沢弘文の寄稿についての記事が掲載されていました。

宇沢経済学のメッセージ 「社会の幸福」、再考の時

個人がそれぞれの利益を追い求める結果、市場を通じて資源の配分が最も効率的に行われる――。当時の主流経済学に対する懐疑だった。

経済学者は〈目的の正しさ=倫理〉を語る資格はないのか。公平や平等という価値をどのように経済分析に取り込めるのか。困難な道筋だが、避けて通ることはできない、と真摯に語った。

従来の主流派経済学(新古典派経済学)では、自然や第三世界を外部化しています。それゆえ、環境破壊や途上国の搾取といった問題が引き起こされる一因となりました。
ベトナム戦争の遂行に経済学の概念が利用されたことや企業の利潤追求の結果として水俣病などの公害が引き起こされたことが、宇沢先生の理論に大きな影響を与えたことは、2019年に出版された大部の評伝に詳しく書かれています。
そうした問題意識は、社会共通資本ー自然環境(大気、森林、河川、土壌など)、社会的インフラストラクチャー(道路、交通機関、上下水道、電力・ガスなど)、制度資本(教育、医療、司法、金融など)ーの概念として結実します。
宇沢先生は、社会共通資本を経済合理性の外側に置くべきであり、市場原理に委ねるべきではないと論じました。

今から50年前にマーヴィン ・ゲイが問いかけ、宇沢弘文が提起した問題に我々は答えるべき時期に差し掛かっています。

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