2021年10月8日金曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーバードライブ』5 (1)

 第二章

5(1)

 ゴールデンウィーク明けの五月晴れの朝、私はバンコク行きの飛行機に乗るため、福岡国際空港へ向かった。マンションを出てスーツケースを一〇分ほど引きずって地下鉄大濠公園駅へ行く。荷物があるため、通勤客のいる時間帯を避けて遅めに出発した。地下鉄線に乗って一五分で福岡空港に着く。空港内のシャトルバスで国際線ターミナルまで一〇分。市内の自宅から四〇、五〇分で空港に行けるのが福岡の都市として利点だ。東京に住んでいた時に成田空港を利用していたような移動のストレスはない。
 十時頃に家を出て、十一時三十五分発のタイ国際航空TG649便のチェックイン・カウンターで搭乗手続きを済ませたのは十一時前だった。
 機内の乗車率は見たところ六割程度だった。半分はスーツを着たビジネス客だ。連休明けのハイシーズン直後だからだろう。昨晩自宅で遅くまで酒を飲んでいた私は席につくとまもなく眠りに落ちた。
 機内でうとうとしているうちに窓からの景色が東南アジア独特の風景に変わっていた。点在する農村や田園を縫うようにメコン川が蛇行している。機体がバンコクに近づくと、眼下に高層ビル群が唐突に現れ、地上に道路や車やビルボードのような人工物の数がにわかに増えた。 

 飛行機はスワンナプーム空港にほぼ定刻に到着した。福岡を発ってから約五時間半が経っていた。二時間の時差があるので、現地時間は十五時あたりだ。イミグレーションの前には世界各国からやってきた旅行客が列をなしている。タイが東南アジアで最も観光客の多い国であることを実感させる。イミグレーションのカウンターにたどり着くまで三〇分ほど並んで待った。パスポートを出して、係員にスタンプを押してもらい、スーツケースを拾うためターンテーブルへ向かう。スーツケースを受け取ると、同じフロアで旅行者用S1Mカードを買った。今回の滞在予定は一週間のため、七日間有効のカードを選んだ。 
 空港直結の高速鉄道エアポート・レール・リンクに乗り、パヤータイで高架鉄道BTSスカイトレインのスクンビット線に乗り換え、トンローで降りた。電車からホームに出ると湿気を帯びた熱気が一気に体を包んだ。タイの季節が本格的な雨季に入る前で、雨は降っていないものの湿度は高い。
 宿泊場所はAⅰrbnbで予約したトンロー駅のコンコースに直結したコンドミニアムだ。駅に近く移動しやすい立地なので、これまでバンコクに来た時に何度か利用している。コンドミニアムは三十三階建て、五〇〇室あまりの部屋数の建物だ。建物内にある共有施設のプールとフィットネスジムも無料で使える。バンコクによくあるタイプの富裕層向けの分譲コンドだ。一階のレセプションで部屋番号を告げて、カード式のキーを受け取る。エレベーターに乗り十七階の部屋に着いたのは、スワンナプーム空港を出て一時間あまり、福岡の家を出てから約八時間後だった。
 部屋の広さは五〇平方メートル程度で、洗濯機やキッチンも付属しているので、一週間の滞在で不便はなさそうだ。バルコニーに続く、天井まで達する大きな掃き出し窓からは、バンコクの高層ビル群が望める。一泊四〇ドル以下でこうした場所に泊まれるのは悪くない。
 部屋に入るとシャワー浴びて汗を流してから、MacBookをWⅰ–Fⅰに接続し、メールやメッセンジャーでアポイントメントを取ったアート関係者に、予定通り到着したことを知らせ、面会日時を再確認した。夕刻になると近所のフードコートでガパオライスを食べて、ビールを飲んだ。一五あまりの屋台が半露天の敷地を取り囲み、内側にテーブル席が一〇席程度置かれている。客は近隣に住むタイ人と欧米人の半々くらいだった。その日は移動で疲れていたので、コンドに戻るとすぐに寝た。

 翌朝、BTS高架下に連なる屋台でザクロのフレッシュジュースとカオマンガイ買って、部屋で朝食を摂った。コンドのプールで一時間程度泳いでから、ランチに外へ出た。リーズナブルでありながら小綺麗なインテリアで外国人に人気のトンローのタイ料理店〈シット・アンド・ワンダー〉でグリーンカレーを食べた。店を出るとBTSスクンビット線に乗り、面談の場所のあるサイアムで下車した。約束の時間は午後四時なので、二時間ほど先だ。しばらく街を歩いて時間を潰すことにした。
 サイアムの街の賑わいは渋谷を思わせる。ただしショッピングモールの規模はこちらの方が格段に大きい。サイアム駅に直結したモールの一つ、サイアムセンターに入った。このモールは、タイのローカル・ファッションブランドをテナントの主体としているところに特色がある。他のモールが欧米のハイブランドやファーストファッション中心なのとは一線を画している。ディスプレイもそれぞれのショップが趣向を凝らしている。中には、名和晃平の作品を思わせる、動物を形取った大きなオブジェが置かれたショップもあった。床面積当たりの売り上げをシビアに問われる日本では、こんな贅沢な空間の使い方はなかなかできない。日本ではコム・デ・ギャルソンのオンリーショップでくらいでしか見たことがない。
 足の向くままショップを巡って、タイのトレンドやタイ・ブランドのオリジナリティについてリサーチした。数年前までは、デザインの詰めや縫製の作りが甘かったが、ここ二、三年で大幅に改善されている。新たに開業された商業施設の多くにハイブランドのショップが店を構え、日常的にそうした商品を目にする機会が増えたからかもしれない。バンコクに来る度に巨大なショッピングモールが新たに建設されているのにいつも驚かされる。

 約束の時間が近くなったので、サイアムセンターに直結した高架歩道に出て、バンコク・アート&カルチャー・センター(BACC)に向かう。BACCの建物も同じ高架歩道と繋がっていて、サイアムセンターから徒歩で一〇分以内で行ける。BACCは、ニューヨクのグッゲンハイム美術館を思わせる螺旋構造を持つ九階建ての現代美術館だ。行先は、この建物にテナントとして入居しているギャラリーだった。BACCはバンコク都庁の所有物件で、運営資金の六割は都庁からの補助金で賄われている。残りの四割は運営組織が独自で調達する必要があるため、公営の美術館でありながら、民間のギャラリー、物販店、飲食店などがテナントとして数多く入居している。テナントからの賃料収入は、美術館運営のための収益源の柱となっている。各フロアに、五〇平米メートル程度のテナント用スペースが四、五箇所設けられている。私がこれから訪れるのも、この建物の三階に店を構える個人経営のギャラリーの一つだ。

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