2021年10月25日月曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーバードライブ』6(2)

第二章
6(2)

 約束の時間が近くなったので、二階から降りて一階の入り口に面した部屋まで戻った。大理石でできた丸テーブルの傍で、三十代前半の洗練された雰囲気のタイ人女性がスタッフらしき中年女性と話していた。
「Myria Aromdeeさんでいらっしゃいますか?」と私は話しかけた。
「Myriaです」と彼女は答えた。
 意志的な眼差しと、くっきりした眉が印象的だ。化粧気はない。長く伸ばされた黒髪は額の中央で分けられ後ろに束ねられている。中肉中背の引き締まった体は黒のプラダのナイロンドレスで包まれていた。ノースリーブのドレスから伸びる腕には無駄な贅肉がなく、適度な筋肉が付いていた。おそらくジムで鍛えているのだろう。靴はナイキの黒のスニーカーだった。
「メールで面談のお約束していた小林です」
と私は言った。近づくとウディ系のフレグランスの香りが漂ってきた。
「ああ、日本の方ね」と彼女は言った。「たしかタイの現代美術をリサーチしているとメールに書いてたわね」
「ええ、東南アジアの現代美術を日本のコレクターに紹介するつもりです。タイの有望な作家がいれば。南アジアの現代美術を専門とする日本の美術館へ購入や展示を仲介しますよ。逆に日本の作家の作品をタイのコレクターに販売することも考えています」
 彼女はフロア奥にあるチーク材でできた八人掛けのテーブル席を指し示した。私が椅子に座ると、テーブルを挟んだ向いの椅子に腰掛けた。「日本にタイの現代美術は知られているの?」
「残念ながらまだあまり知られていません。東南アジアの現代美術は未開拓な分野です。だからやり甲斐があるとも言えます」
「日本への進出は考えたことがなかったわ。来年、アートバーゼル香港に参加するのを検討してたけど。ここで売ってる陶器は日本で買い付けた物もあるの」
 地酒の容器が含まれているセレクションからしてしっかりした骨董品店で購入してはないだろう。おそらく買い付けは古道具屋などでされていると予想したが、もちろん口には出さなかった。日本にもヨーロッパの蚤の市で買い付けた日用雑貨を、ヴィンテージやアンティーク風に装って売りつける業者がいるのでとやかく言えない。
「日本の福岡という場所に住んでますが、ここには福岡南アジア美術館という南アジアの現代美術に特化した、世界で唯一の美術館があります。モンティエン・ブンマーの作品もここに収蔵されてますよ」
ふうんと彼女はあまり興味のなさそうな返事をした。「私は美術館で扱うような作品よりも、もっとコンテポラリーなものに関心があるの。ここで新しい作家を育てて、世界的に有名にするのが目標よ」
「なるほど。このスペースは作ってどれくらい経つのですか?」と私は話題を変えてとっかかりを探した。
「完成したのは去年ね。昔、祖父母が住んでた屋敷をリノベーションしたの。見ての通り敷地までの道が狭いから工事や物品の搬入は大変だった」
「お会いする前にひと巡りしましたが、個人宅としてはとても大きいですね」
「祖父は貿易商として成功していたわ。元あった家にも、世界中から集めた工芸品や雑貨で埋めつくされていた。小さい頃、両親に連れられてこの家に来ていた私はいつもそれを興味深く眺めてた。それが海外の大学に行った理由のひとつだったかもね」
「どこの国の大学に行きました?」と私は尋ねた。
「十年前にFⅠT(Fashion Institute of Technology)を卒業したわ。ニューヨークにある学校よ。知ってる?」
「名前くらいは」と私は答えた。
 話し方や態度から、私との会話に気乗りしないのが窺えた。おそらく彼女の早口のアメリカン・アクセントの英語を聞き取れずに何度も聞き直したのも関係しているだろう。東南アジアで英語が不自由な人間は、教育水準と社会階層が共に低い人間とみなされる。日本のような翻訳文化がないこれらの国では、英語力は受けた教育の程度を示す指標であり、文化資本にアクセスするための必要不可欠なツールだからだ。英語が堪能でないと、相対性理論もニーチェもダミアン・ハーストも知らない人間だと自動的にカテゴライズされる。
「FⅠTではヴィジュアル・プレゼンテーションと展示デザインの学科を選んだ。そこで学んだことはここを作るときに役立ったわ」
「卒業後はすぐにタイに戻ってきたんですか?」
「それから五年間、ロウワー・イースト・サイドのギャラリーで働いたわ。ニューヨークのギャラリーには行ったことがある?」
 ないと答えると、彼女の私に対する評価はさらに目減りしたようだった。
「現代美術の仕事をしてるなら行くべきね」と彼女は言った。
「経済的な余裕ができれば行きたいと考えてます。ニューヨークの滞在費は、私には高過ぎる」
「タイだとアート関係者は、ほぼお金持ちなんだけど日本ではそうじゃないみたいね」
「日本は別にお金がなくたって文化情報にアクセスできる国ですよ。公営の美術館がタイよりも充実してる。英語が得意じゃなくても、ガゴシアンやハイザー&ワースがニューヨークのトップギャラリーであることは知ってる」と私は答えた。
 彼女は相変わらず、私の言うことには関心がないようだった。これ以上ここに居ても進展が望めないので、面談に応じてくれた礼を言って、外へ出た。湿度の高い空気が体を包み、熱帯の日射しが肌を刺した。

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