2018年8月30日木曜日

[YANGON CALLING] スリット・スリーブのチュニックを再入荷しました

売り切れで欠品になっていた、スリット・スリーブのチュニックが再入荷しました。
ラカイン州で作られた、クオリティの高いメンズのロンジー生地を使用しています。
袖口をリボンで結ぶ作りになっています。単品で着てもいいし、スパッツとの組み合わせもできる、幅広い着こなしが楽しめるデザインです。
現在、S、M、Lの3サイズが揃っています。同じ地方の同色系の生地なのですが、すべて少しづつ色合いや模様が異なります。







サイズ・価格などの詳しい情報は、こちらのオンライン・ショップでご覧になれます。
購入もオンライン・ショップでできます。
サイトは英語表記ですが、お問い合わせや、ご注文を日本語で記入されても大丈夫です。
配達で受け取ってから、サイズが合わなかったり、商品がイメージと違った場合は、その場で返品ができますので、お気軽にご注文ください。

雨期もそろそろ終わりに近づいているし、
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2018年8月28日火曜日

サンチャウンにできていた、お洒落な理髪店兼美容院に行ってみた

Yangon Connectionにを見ていたら、近所の理髪店兼美容院の紹介がされていました
ちょうど髪を切る時期だったので、試しに行ってみました。
Google Mapを頼りに店にたどり着くと(と言っても、家から徒歩10分くらいの場所でしたが)、ミャンマーのサロンには珍しく、かなりお洒落な店構えでした。



1Fはメンズのバーバー、2Fはレディスのヘアサロンという作りです。
インテリアの方も、かなり作り込んでいます。ホテルやモール併設の高級店以外のローカル店で、こうした作りの店は珍しいです。調達できる建築資材の種類が限られるミャンマーでは、洗練された印象を与えるインテリアを作り上げるのは、かなり難易度が高いです。もちろんセンスの問題も小さくはないですが。
メンズとレディスを階毎に分けているのもありがたい。個人的な感覚ですが、女性と同じ空間で髪を切ってもらうのは、どうも居心地が悪いので。

1F Men's Floor

2F Lady's Floor


サロンのオーナーは、上海のヴィダル・サスーン・アカデミーで、ヘアカットの勉強をしたとのことです。
料金は、メンズの場合は、シャンプー5,000Kyat、カット10,000Kyatでした。
アシスタントによるシャンプーとマッサージは、仕事慣れしていないようで、かなり微妙でしたが、カットは非常に丁寧で、技術も高く、ミャンマーの理髪店ではトップレベルでしょう。
私は今週日曜日のYangon Connectionの投稿で知りましたが、オープンして四ヶ月ということでした。

ミャンマー在住外国人には、リーズナブルで、かつ一定レベル以上の技術力のあるヘアサロンがなかなか見つからないという共通の悩みがあるかと思いますが、そうしたヘアサロン難民の方は、お試しになってはいかがでしょうか。
もちろん、善し悪しの感覚は、人によるので保証はできませんが。
少なくとも私は、やっと行きつけの店ができて安堵しています。

お店のFacebook Pageは、以下のリンクでご覧になれます。
BN Hair 
No. 17, Paing Condo, Myaung Mya Road, Kyun Lal Quarter, Sanchaung Township, Yangon

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2018年8月23日木曜日

[YANGON CALLING] バック・タック・ドレス再入荷しました

売り切れで欠品になっていた、バック・タック・ドレスが再入荷しました。
前回同様に、シャン州にある工房で作られた同色の生地を使用していますが、毎回、微妙に色合いが異なります。手作業で染色しているので、まったく同じ色にはならないようです。




サイズ・価格などの詳しい情報は、こちらのオンライン・ショップでご覧になれます。
購入もオンライン・ショップでできます。配達で受け取ってから、サイズが合わなかったり、商品がイメージと違った場合は、その場で返品ができます。

せっかくミャンマーに住んでるんだから
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2018年8月17日金曜日

ミャンマーでアレサ・フランクリンについて考えた

昨夜、Facebookのタイムラインで、アレサ・フラクリンが亡くなったことを知りました。
私がブラック・ミュージックを聴くきっかけとなったミュージシャンの一人で、個人的な音楽体験の中でも大きな位置を占めていた人だったので、一時代が終わったような喪失感を感じています。

余は如何にしてアレサ・フラクリン信徒となりし乎

1960年代生まれで洋楽を好んで聴いていた世代では、パンク/ニューウェーヴという同時代のポップ・ミュージックが変遷する影響の下で、リズム&ブルース、ソウル、ジャズなどのブラック・ミュージックの過去の音楽遺産に突き当たり、白人中心のロックから、ブラックミュージック全般にも音楽的嗜好が広がっていったのが、同世代における音楽遍歴の一つの典型でした。もちろん、ブラック・ミュージックに興味が向かわなかった人や、他の契機でブラック・ミュージックを聴き始めた人もたくさんいたとは思いますが。
これはパンク・ムーブメントの中から出発したバンドやミュージシャンが、音楽的な成長や進化を試みる中で、そのアイディアや音楽的発展の源泉を過去のブラックミュージックに求めたことに起因しています。

特にパンクは、アイディア勝負の一発芸的なところがある音楽ジャンルだったので、同じスタイルを続けるとどうしても一本調子になるし、マンネリ化が避けられないため、多くのパンク出身のバンド・ミュージシャンが、音楽性を広げ、賦活する源泉として、過去のブラック・ミュージックに着想を得て、新しいスタイルを確立することを模索していました。
代表的な例として、パンク・ムーブメントの中でデビューしたバンドJamのリーダーだったポール・ウェーラーが、ブラック・ミュージックからの直接的な影響を感じさせるユニットのStyle Councilを結成したことがあげられます。


Style Councilの2ndアルバム『Our Favorite Shop』の裏ジャケットには、レノン/マッカートニーのポートレイトと一緒に、Sly & Family Stoneのベスト・アルバムが写真に収まっています。この時代にはスライは、ほぼ忘れられた存在で、当時チャートを賑わせていたPrinceとの関連で音楽評論家から影響を指摘されるくらいでしか、名前を目にする機会はありませんでした。

パンク/ニューウェーヴ世代より一世代上の英国人デヴィッド・ボウイが、ディスコ・バンドのChicのベーシストだったアフリカ系アメリカ人ナイル・ロジャースをプロデューサーに迎えてアルバム『Let's Dance』を制作し、悲願だったアメリカでの商業的な成功をキャリア史上初めて収めたのもこの頃でした。

アレサ・フラクリンとの関連では、その頃、一世を風靡した英国のニューウェーヴ・バンドScritti Politti が、1985年に発表した曲「Wood Beeze」の歌詞に、彼女の名前が使われたのが話題になりました。この曲を通して彼女の名前を知ったという同世代の人も少なくありません。

Each time I go to bed I pray like Aretha Franklin
ベッドに入るといつもアレサ・フラクリンみたいに祈るんだ



この曲のプロデューサーは、アレサ・フラクリンのブロデュースも多数手がけた、アリフ・マーディンです。シーケンサーなどを多用した、当時最先端のサウンド・スケープと16ビートのブラック・ミュージック的リズムの融合が、その頃は非常に斬新で、ピーター・バラカン氏などのうるさ方の批評家からも高い評価を得ていました。

さらに遡ると、1980年に発表されたSteely Danのアルバム『Gaucho』収録曲の「Hey Nineteen」にもアレサの名前が出てきます。

Hey Nineteen 
That's Areetha Franklin 
She don't remember the Queen of Soul 
It's hard times befallen 
The sole survivors 
She thinks I'm crazy
But I'm just growing old

ねえ、19歳の君
アレサ・フラクリンだよ
ソウルの女王を知らないんだ
年寄りにはきついね
たった一人の魂の生存者さ
彼女は俺のことをバカだと思ってる
だけど俺は年を食ってるだけさ



すでに80年頃から、彼女は生ける伝説と化したのが確認できます。その分、同時代的なセールスでは苦戦していたようですが、話が逸れるので、ここでは言及しません。

Steely Danは別として(彼らは、キャリアの最初からブラック・ミュージック寄りだった米国人ユニット)、こうしたパンク/ニューウェーヴ出身のミュージシャンが、徐々にホワイト・ソウル/ブルーアイドソウルへと軸足を移していく時代風潮の中で、自分の音楽的な興味も、白人中心のロックからブラック・ミュージックへと推移していきました。
ただし、正確を期すと、この時代にもSmithとかCureとかEcho & the Bunnymen とかの思春期拗らし系のニューウェーヴ・バンドも健在でした。ただ、その辺りのバンドの音が、ブラック・ミュージックに触れた後の自分にとってリアルに響かなくなったので、以前のように英国ロックにハマることは少なくなりました。
しかしながら、2010年代の今になって、Blood Orange とか Weeknd とか The Intenet のような、おそらく上にあげた、思春期拗らし系のニューウェーヴ・バンドに影響を受けた可能性のあるブラック・ミュージックが現れたのはちょっと驚きです。

80年代中頃は、70年代のソウル系のレコードは、マーヴィン・ゲイやスティービー・ワンダーの代表作を除くと軒並み廃盤になっていて、中古盤屋で見つけても、プレミアム価格が付いていることが多く、なかなか手が出せませんでした。カーティス・メイフィールドなどの70年代ソウルの盤が手軽に入手できるようになったのは、渋谷系ブームでCDリイシューが進んだ90年代半ば以降だったと記憶しています。

一方、50年代、60年代のリズム&ブルースは、この頃でも比較的入手しやすく、輸入盤屋でそれなりに適正な価格で買うことができました。アレサの代表作に数えられる、67年のアトランティック・レーベルからのデビュー作『I Never Love S Man (The Way I Love you)』や2ndアルバム『Lady Soul』は、普通のレコード屋で国内盤も売っていました。

そうした事情もあり、二十歳前後の学生時代に一番良く聴いていたのは、ブラック・ミュージックから影響の強い同時代のニューウェーヴ・バンドと50年代、60年代のリズム&ブルースでした。巷で流行っていたのはユーミンでしたが、その頃から今に至るまで、ちゃんと聴いたことがありません。
若かったので、未知の音楽に対する好奇心が非常に強く、とりあえず片っ端からリズム&ブルースのレコードを聴き漁っていました。この盤に自分の知らないすごい音楽が詰まっているかもしれないと思うと、財布の事情を無視して購入して、急いで帰ってレコード・プレイヤーに載せていました。レコード屋の良い養分だったと思います。
いろいろと聴いた中でも、やはりサム・クック、アレサ・フラクリン、レイ・チャールズなどのビック・ネームは、表現力や歌の上手さや、バックのサウンド・プロダクションの完成度が別格だなぁと感じていました。
こうしたリスナーとしての遍歴から、音楽の善し悪しを判断する基準点の一つとして、1960年代後半にリリースされたアレサ・フラクリンのアルバムが、自分の中で機能しています。この時期に、自分の中でアレサを聴く以前と以後で、音楽の評価軸に断絶が出来てしまったようです。もちろん、それだけが原因だったわけではなく、複合的な要素があったと思いますが。

今日は彼女の追悼記事をずっと読んでいましたが、彼女のキャリアを要約した記事があったので、ご興味があればお読みください。
女性解放運動、波乱続きの私生活、アレサ・フランクリンの生涯を振り返る

本当はもっと射程を広く取った内容の文章を書くべきなのかもしれませんが、音楽・文化史的な側面からだと、他にふさわしい人がたくさんいるに違いないので、どうしてゴスペルともブラック・カルチャーとも無縁な極東の島国の住人が、彼女の歌を聴くようになったかの個人史に焦点を絞って書きました。

ネットの追悼記事を読んでいて誰かが指摘していたのですが、アレサの命日がエルヴィス・プレスリーと同日でした。生前からのプレスリーの呼び名が「King」で、アレサは「Queen of Soul」です。王国でない国のキングとクィーンが同日に亡くなったのは、不思議な機縁を感じます。
二人とも思想信条は保守的だったと言われていて(プレスリーは、徴兵に応じて、二年間兵役を勤めた。また、ベトナム反戦活動をアメリカで広げていたジョン・レノンに対して、批判的だったとも伝えられている)、表立って政治的な発言はしなかったにも関わらず、その存在感や彼らの歌唱の力によってのみ、時代の転換期のアイコンになったのも—前者はロックンロールという人種融合的な新たなユースカルチャーの勃興の、後者は人種差別撤廃に向けた公民権運動や女性の権利向上の—共通しています。彼らの歌声には、本人すら意識していない、豊かな多義性を聴いた人に呼び醒ます何かがあったからだと思います。この不思議な能力によって、彼らは仮象の王国のキングとクィーンとして、政治とは異なる次元で、人びとの心の中に君臨したのでしょう。

アレサの死をきっかけに、20歳前後の頃、お目当てのレコードを探して、外盤屋や中古盤屋巡りをしていたことを思い出しましたが、今もヤンゴンの生地屋を回って、ほぼ同じことをしているので、人間の気質は、結局死ぬまで変わらないのかもしれません。

最後に、もし、これから初めてアレサ・フラクリンを聴いてみようと思う人のために、お勧めの三枚を選びました。個人的には、これらのアルバムを聴いた方が、明らかに人生における感動の幅が広がると思っています。未聴の人で、少しでもご興味があればお試しください。

「Queen of Soul」と同様に彼女の呼び名であった「Lady Soul」をタイトルにした、コロンビアからアトランティックに移籍後の2ndアルバム。アトランティックでの1st『I Never Love S Man (The Way I Love you)』と共に名盤の誉れ高いアルバムですが、最後のトラックAin't No Wayが大好きなので、こちらを選びました。

彼女のキャリアのピークを記録したフィルモア・ウエストでのライブ・アルバム。
最初に聴くなら、このアルバムが良いかもしれません。 ソウル・ミュージックの最良のエッセンスが詰まったアルバム。バーナード・パーディーやコーネル・デュプリーなどの腕利きミュージシャンによるバッキングも最高です。

たしか倉庫から発見されたアウト・テイクで作られた編集盤。正式テイクとは異なる、ピアノの弾き語りなどの生の彼女の歌声が堪能できます。

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2018年8月10日金曜日

ヤンゴンであった不思議な話

昨日の朝、先月作ったショッピング・サイトに、オンライン経由で初めて注文がありました。販売した商品は、シャン州の生地を使ったチュニック・ドレスです。
新商品としてサイトに登録した10分後くらいに、この商品へ注文が入りました。
登録の前日に出来上がりを見て、ちょっとカラーを攻め過ぎたかな、これは客を選ぶかもと思っていたところでした。



自分で作っておいて言うのも何ですが、個人が立ち上げたこんなマイナーな自作サイトで、しかもオンラインショッピングが一般的ではないミャンマーで、誰が買うのだろう?、と不思議に感じました。注文者の名前からすると、ミャンマー人の方のようです。
ともかく注文情報の中にあったメールアドレスへ連絡して、配達先の住所と配達日時を聞きました。ミャンマーでは、Yangon Connectionなどの情報交換サイトで物品販売の情報を掲載して、買うという意思表示があっても、実際には連絡してきた買い主が現れなかったというケースをよく聞きます。そんな事情もあり、ちゃんと返事が来るのかな、と訝ってましたが、普通に回答が返ってきました。
注文当日の午後に配達に行くことにして、指定された場所に向かいました。
まず、その場所に着いて当惑しました。
そこには、高さ4mくらいの威圧的な鉄扉が聳え立つ、巨大な門がありました。門の内側の敷地は、幅10mくらいのドライブウェイが上へと続いており、ドライブウェイが大きく右にカーブして視界を遮っているため、その先に何があるのかまったく見えません。
しばらくその前に佇んでましたが、見る限り、人の気配もありません。
これどうやって中に入るんだ?、としばらく思案に暮れました。
門には鍵が掛かっていないようだったので、鉄柵の間から中に手を入れて閂を外して、開けることもできそうでしたが、そんな入り方をしたら、放し飼いにしている凶暴なドーベルマンが飛びかかってきそうな雰囲気です。あくまで想像で、中には犬の姿はありませんでしたが。少なくとも、断り無しに勝手に入ったら、使用人かガードマンが飛んで来て一悶着あるのは間違いなさそうです。
とりあえず、注文者情報にあった携帯に電話してみるも、繋がりません。
次に、メールで「いま、巨大な門の前にいますが、どうやって入ったらいいんですか?」と聞いてみる。 ありがたいことに返信がすぐあり、「門番がいるから開けてもらって」とのこと。門番は門の内側の小屋で横になっていたので、外から姿が見えませんでした。
外側から声を掛けて、ここに住んでいる人に配達に来たんだけど、と伝えるが英語が通じない。ちょっと待てと制されて、門番がドライブウェイを駆け上がり、メイドと思しき若い女の子を連れてくる。この子もやはり話が通じない。また、待ってと言われて、二人目のメイドがやって来て、事情を再度説明して、何とか門の中に入れてもらう。
メイド二人に案内されてドライブウェイを登ると、50mくらい先の丘の頂上に3、4階建ての一軒家がぽつんと建っている。家の敷地面積は400平米くらい。ガレージにはレンジローヴァが一台駐まっている。
頂上の家に着くと、入口にさらに二人のメイドが待機していました。
そこで配達に来たんだけど、再度説明するも、どうも家の中には入れないようです。
私は買い主に会って、試着した上で、買うかどうか決めてもらうつもりでしたが(オンラインショップにそう書いたから)、持って来た物をここで出せというジェスチャー。四人のメイドに囲まれながら、バックパックに詰めた商品を出して一人に手渡すと、別の一人のメイドが握っていた現金をこちらに渡しました。 どうやら買い主は、私に会う気はないようです。

何か狐に包まれたような気持ちで、お屋敷を後にして、ドライブウェイを下りました。
いったん門の外へ出て、「いま手渡しました。代金も受け取りました。何か商品に問題があったら教えてください」 とメールすると、速攻で「ありがとう!」と返信がありました。買い主の人物は、実在するようです。

でも、あのお屋敷に住んでいるどんな人物が、どうやってサイトを探し出して、何の目的で商品を購入したのかが謎です。
まるでカフカの『城』の様で、いつまでたっても目的地に達したり、会うつもりの人物に会えない、不可思議で、不条理な感覚が残る経験でした。私の場合は最終的に、商品を渡して、お代はいただきましたが。


可能性として考えられるのは、先月、今月とミャンマー人の富裕層が住むゴールデンヴァレーのシティマートにポップアップ・ショップを出したので、購入者は、その時のリピーターか、その時の購入者から富裕層のネットワークを通して知った誰かということです。

帰り道で、ローカルのカフェで一休みしながら、あのお屋敷の住人はこういう場所に、まず来ることはないのだろうな、と考えると改めて不思議な気分になりました。



ミャンマーのような極端な階級社会だと、社会階層が異なる人間同士が交流することは、主従関係を除くとほぼありません。私のような外国人だと、その辺りの社会規範を無視して、色んな階層の人達と比較的対等に接することができますが。
昨日の件は、改めてミャンマーの階級社会の不可思議さの一端を垣間見たような気がしました。

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2018年8月5日日曜日

ミャンマーでベストセラーになっている自己啓発本を読んでみた

以前の投稿で、ミャンマーでここ2ヶ月程の間、ベストセラー1位になっていて、書店に入荷とするとすぐに売切れになる自己啓発本『The Subtle Art of Not Giving a F*ck: A Counterintuitive Approach to Living a Good Life』を紹介しました。
私はだいたい、ミニゴンのシティマート内の書店でミャンマーで売れ筋の本を定点観測しているのですが、先週、ゴールデンヴァレーのシティマートでチェックしたところ、こちらでは同書がレビュー付きで平置きされていました。ずいぶんと息の長いベストセラーです。アメリカ人の著者は、自著がミャンマーで長らくベストセラーになっていることをおそらく知らないでしょう。



街の書店では、原著のペーパーバックのコピー版が販売されているのを見かけました。4,000チャット(約300円)で売られています。この値段なら、国外の版元から輸入したものではないでしょう。売れ筋の本なので、商魂逞しい国内の出版業者が、原著のコピー本の売り出しをはじめた模様です。


私はミャンマー語が読めないので、 英語版を購入して、いま読んでいます。
冒頭部分を読んだ内容から、日本語のタイトルを付けると、『どうでもいい努力をしないための方法:より良い人生のための反直感的なアプローチ』とでもなるのでしょうか。
この本の冒頭部分で登場するのが、「酔いどれ詩人」のチャールズ・ブコフスキーです。自堕落で放埒の限りを尽くした、日本で言えば無頼派にあたる、アメリカの作家・詩人です。『七つの習慣』なんかに代表される、一般的な自己啓発本の薦める自己規律的な生き方の真逆の人生を送った人です。

ブコウスキーの詩集のミャンマー語訳を書店で見かけたことがあります(左側)
ちなみに右側は、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』のミャンマー語訳

ブコフスキーは90年代に日本でもブームになったことがあるので、私も小説を二、三冊読んだことがあります。だいたい、アルコールやドラックで酩酊状態の男が、狼藉の限りを尽くして、オチも救いもないという内容だったように記憶しています。
『町でいちばんの美女』は、発見された美女の死体を、酩酊状態で正気を失っている町の男たちがみんなで屍姦するという、とんでもない話でした。



The Subtle Art of Not Giving a F*ck: A Counterintuitive Approach to Living a Good Life』で、ブコウスキーについて書かれた、冒頭の3ページを日本語に訳してみました。

第一章 頑張るな

チャールズ・ブコウスキーは、アル中で、好色で、ギャンブル中毒で、粗暴で、金に困っていて、借金漬けの最悪の日々を過ごしていた、詩人だった。彼はおそらく、これまで人生指南で目にする、あるいは、あらゆる種類の自己啓発本に登場することが絶対にないタイプの男だ。
なぜ、彼のことからはじめるのが最適なのか?、話を続けよう。
ブコウスキーは作家になりたかった。だが、数十年の間、彼の投稿した作品は、ほとんど全ての雑誌、新聞、ジャーナル、エージェント、出版社から拒絶されてきた。彼の作品はひどい代物だと、みんなが言った。卑猥で、内容に乏しく、品性に欠けると。そして、掲載を拒否された紙束は積み上がり、その失敗の重みは、彼をアルコール漬けの失意に押しやり、そうやって彼は人生の大半を過ごした。
ブコウスキーは、食うために、郵便局の仕分け人として働いていた。
彼は僅かな金を受け取り、その大方を大酒を飲んで費やした。残りは、競馬場で使い果たした。夜は一人で飲み、ときおり、くたびれた古いタイプライターに詩を叩きつけた。しばしば、彼は夜更けに床の上で目を覚ました。
30年がこんな風に過ぎ去り、そのほとんどをアルコールによる酩酊とドラッグとギャンブルと売春婦の中で無為に過ごした。そうして、ブコウスキーが、失意と堕落の日々の中で50歳を迎えた時、小さな独立系出版社の編集者が、なぜか彼に関心を持った。編集者は、ブコウスキーに多額の金の提示することも、売れ行きの保証もしなかった。しかし、彼はアル中の負け犬に、奇妙な好感を抱き、ともかく彼にチャンスを与えることにした。それは、これまでの彼にとって、最初のチャンスだったし、おそらく、これが最後であることもわかっていた。ブコウスキーは、編集者に手紙を書き綴った。「俺には選択肢が二つある。郵便局に留まり発狂するか、そこを飛び出して作家になって、飢えるかのどちらかだ。俺は飢える方を選ぶことにした」。
契約を済まして、ブコウスキーは最初の小説を三週間で書き上げた。タイトルはシンプルに『郵便局』にした。献辞には、「誰にも捧げない」と書いた。
こうしてブコウスキーは、小説家兼詩人となった。彼は創作と発刊を続けて、六つの小説と数百の詩を書き、二百万部以上の本を売った。彼の人気は、世間の人たちにとって予想外のことだったし、とりわけ彼自身にとってそうだった。
ブコウスキーのような逸話は、我々の文化の物語として精神的な糧である。ブコウスキーの生涯は、人が自分の望むもののために戦い、決して諦めずに、最後に途方もない夢を実現するというアメリカン・ドリームを体現している。実際、映画を観てるときは、みんなそれが起こるのを待っている。我々は、ブコウスキーのような物語を見て、こう言う。「見たか? 奴は諦めなかった。奴は決して、挑戦を止めなかった。常に自分を信じていたんだ。困難に立ち向かい続け、そうやって成し遂げたんだ」。
でもそれでは、ブコウスキーの墓石に刻まれた墓碑銘が「頑張るな(Don't try)」というのは、不思議だ。
本の売上や名声に関わらず、ブコウスキーは負け犬だったのを見ればいい。彼は知っていた。彼の成功が、勝者であろうとする決意から生じたものではなく、自分が負け犬という事実を認め、それを受け入れて、それについて率直に書いたことからもたらされた。彼は自分以外の者になろうとはしなかった。ブコウスキーの作品の美点は、信じ難い困難を乗り越えたり、文学的な光輝を追い求めたりしたことにはない。むしろ、その逆だ。彼の徹底的で、断固とした率直さというシンプルな能力によるものだ。特に、彼の最悪な部分においてそうだったし、自分の失敗を晒すのに、ためらいも隠しもしなかった。
これが、ブコウスキーについての本当の成功の物語だ。自分が負け犬であることに居心地の良さを感じていたし、成功するために無用な努力もしなかった。名声を得てからですら、彼は詩の朗読会で聴衆を罵り、場をぶち壊しにして見せた。自分の真の姿を公衆の面前に晒し続け、手当たり次第、目につく女と寝ようとした。名声も成功も、彼をまともな人間にしなかった。まともな人間になっていたら、彼は有名にならなかったし、成功もしなかった。

いままで、ミャンマー人の文化的な嗜好については、単純なサクセスストーリーが好きだと言われていました。実際、「引き寄せの法則」とか「こうやってリッチになる」的なアメリカの自己啓発本を書店で見かけることが、今まで多かったのですが、現在、こうしたリアリズムに則した、少なからず露悪的な内容の本が長らくベストセラーになっているのは、ミャンマー人の感性も変わりつつある証左かもしれません。
それにしても、ミャンマーで、チャールズ・ブコウスキーのことを思い出すとは思いませんでした。


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