2021年10月14日木曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーバードライブ』5 (2)

 第二章
5(2)

 〈タイランド・ストレージ〉のオーナー、Kullaya Wongrugsaと会うのは今回で二回目だった。裕福な中国系タイ人の家系に属する三十代半ばの女性だ。ギャラリーの他に自らがディレクションするファッションブランドも立ち上げている。今日は自ブランドの赤のゆったりとしたフレアドレスを着ていた。彼女のふくよかな体型を反映してか彼女のブランドの服はルーズなシルエットが特徴だ。ドレスの色に合わせて、真紅のリップを塗っていた。パンプスの色も同系色の赤だ。ただしセクシャルな雰囲気ではない。フレームの太い黒のスクエアタイプの眼鏡を掛けた丸顔のせいか、なにかのアニメーションのキャラクターめいた印象を与えていた。
 東南アジアの富裕層は中国系が多く、家業を継ぐのは男性の兄弟であることがほとんどだ。そのため、富裕層の家系の二代目、三代目の女性が、実業を離れて趣味のアートやファッションや音楽の世界に進むのはよくあるケースだ。彼女もそうした東南アジアの富裕層に属する女性の典型例だった。
 ギャラリーでは、タイ人のグラフィック・アーティストの個展が開かれていた。極彩色のシンメトリーな幾何学模様で描かれた植物や昆虫の図像の作品が壁一面に掛けられている。どことなく田名網敬一の作風を連想させた。再会の挨拶をして、最近のタイの現代美術のトレンドを尋ねた。
「相変わらず新しいギャラリーがあちこちでできてるわ。プラ・スメン通り辺りが若い人に人気ね。ただきちんとアートを学んでないオーナーが作ったギャラリーもあるから、全部がちゃんとしたところというわけでもないけど。まだタイでは体系的に美術を学んだ人は少ないの」そう言って、肩をすくめた。  
 たしかにタイは現代美術の展示が中心で、西洋の近代美術を収蔵・展示する美術館はない。日本で人気の高い印象派やピカソやマティスのような巨匠の作品の実物を目にする機会もない。
「私は今、日本の福岡というところに住んでますが、ここには福岡南アジア美術館という南アジアの現代美術に特化した美術館があります。南アジアの現代美術を専門に扱う世界で唯一の美術館です。もちろんタイのアーティストの作品も収蔵しています」
「そこにチェンマイのアーティスト、モンティエン・ブンマーの作品が購入されて、展示されたと聞いたことがあるわ。行ったことはないけど」
「チャーチャーイ・プイピアの作品も収蔵しています。映像作家として有名なアピチャッポン・ウィーラセタクンは、福岡アジア文化賞を二〇一三年に受賞しています。福岡は、日本でアジア美術や文化の紹介に最も熱心な地方ですよ」
「面白そうな所ね。日本は東京しか行ったことがないけど。東京には時々ショッピングに行くの。ヨウジヤマモトの古着を買ったりするため。タイにはヨウジの服を手頃な値段で買えるお店はないの」
「日本のネット通販業者は国外への配達に対応してない場合があるし、英語のページすらないことも多いですからね。もし、気に入った服があったら私が買って、こちらに来る時に届けますよ」と私は返した。彼女の属するタイ人の富裕層ネットワークには、このギャラリーの顧客以外の現代美術のコレクターも含まれているはずだ。日本人アーティストの作品をタイ人コレクターに販売できるコネクションを作れる可能性を考えれば、ここで恩を売っておくのも悪くない。
「それは助かるわ。年に何度も東京に行くわけにはいかないから」
「日本の服もいいけど、日本の現代美術の作品に興味がありそうなタイ人のコレクターはいませんか? 最近、タイ人が日本の現代美術を扱うギャラリーに来ることが増えています」と私は尋ねた。
「あたってみるわ。私のクライアントはタイ人アーティストの作品を買う人しかいないけど、彼らのコレクター仲間にそういう人もいるかもしれない」と彼女は応えた。「逆にタイ人アーティストに関心のある日本人コレクターいる?」
「東南アジアの現代美術は、日本ではまだ一般的ではありません。ただ一部でタイやシンガポールのアーティストの作品を扱うギャラリーも出てきています」
「どういうタイプのアーティストが日本では人気があるの?」
「タイだとアレックス・フェイスとか良さそうです。奈良美智なんかに通じるキャッチーさとポップさがあって、マルティプルしやすいから。そういう意味で、ウィスット・ポンニミットのイラストは、すでにキャラクター商品化されて日本でも人気ですよ」
「あの絵はアレックスが五年前に描いたの」と彼女はカウンター後ろのスペースに描かれた壁画を指さした。曲がりくねった松の木を描いた絵だった。日本の屏風絵によく描かれるモチーフだが、タイで見たのはここだけだ。色使いやフォルムがポップなのは伊藤若冲の影響かもしれない。「アレックスは今は活動の拠点をLAに移してバンコクにいないし、新作は、作品購入の順番を待っている専属ギャラリーのウェイティングリストに載っていなければ、いつ買えるかも分からないわ」
「今から買うには、もう遅過ぎるかもしれませんね。世界デビューから間もないから、セカンダリー市場に作品が出てくる段階でもないですし」
 彼女のコネクションを通してアレックス・フェイスの作品を購入できるなら、福岡南アジア美術館へ購入の提案をする腹づもりだったが、あてが外れた。他にマルティプルしやすいキャッチーさやポップさを持つ新進タイ人アーティストがいないか訊いてみた。
 しばらく考えてから、「いますぐ思いつく人はいないわね」と彼女は言った。福岡南アジア美術館へ購入を推薦する作品を探していると彼女に伝えた。念のため、美術館に収蔵されればアーティストのプレステージが上がることも付け加えた。考えておく、その美術館がタイのアーティストによく知られているかどうかはわからないけど、と彼女は応えた。
 一時間あまり話したところで、彼女は手首の腕時計で時間を確かめた。スクエアタイプのピンクフェイスのカルティエだった。 
「約束のディナーまで時間があるから、その前に一杯やりたくなったわ」と彼女は言った。「よかったらご一緒しない?」
 私でよろしければ、と私は応えた。彼女は一人いた女性スタッフに何かをタイ語で伝えると外に出た。私は後を追った。
 行き先は、BACCから高架歩道に出て、一〇分ほど歩いた先にある、こちらも高架歩道と直結した複合商業施設だった。クロームのルーバーで覆われたファサードが目立つ四階建ての建物は、高級腕時計、宝飾品、ハイブランドなどのショップなどで占められている。完全に富裕層に特化したコンセプトのモールだ。
 入ったのは二階にあるワインバーだった。二階といっても天井が高い構造なので、四、五階程度の高さがある。入って左の壁一面に背の高いワインセラー置かれている。棚は隙間なくボトルで埋められていた。彼女の顔馴染みらしいウエイターが我々を窓際のテーブル席に案内した。窓からはバンコクの悪名高い渋滞が見下ろせた。
 ワインのリストを渡された彼女は私に尋ねた。「ピノ・ノワールの赤でいい? それからちょっとサイドディッシュも」
 私は頷いた。ワインには不案内なので、何も言えることはない。彼女はタイ語でウェイターに注文した。
「ここにはよく来るのですか?」と私は尋ねた。
「時々ね。ディナーの約束までの時間潰しとかに使ってるわ。今日もシェラトンのレストランで会食なの」
 ウェイターが、ミートソースを絡めたフェットチーネとトマトとモッツァレラチーズにバジルを添えたサラダの皿を運んで来た。ソムリエがボトルのラベルを彼女に見せてから、ソムリエナイフで器用にキャップシールを剥がし、コルクを抜いた。ワインがそれぞれのグラスに注がれ、我々は乾杯した。ミディアムボディに属するであろうそのワインは、私が普段スーパーマーケットで買い求めるものに比べてずいぶんと重厚な味がした。
「いま友達が九州の温泉巡りを計画してて、私も誘われてるの。行くのは来月くらい。車をチャーターして湯布院、黒川、別府の旅館に泊まるつもり。もちろん私達は日本語が話せないから通訳も連れていくけど」
 日本は中流以上のタイ人にとって手頃な観光地だ。距離的に近く、移動が楽な上に、東南アジアとは異なる異国情緒も味わえる。旅行にかかる費用もアメリカやヨーロッパに比べればずいぶん安い。東京や京都といった定番の観光地をひと通り体験したタイ人は、日本の地方都市を訪れる傾向にある。 
「楽しそうだ。九州に来るなら福岡も案内したいけど、ただ来月だとミャンマーにいる可能性が高いですね」
「ミャンマーは一度行ったことがあるわ。二泊しただけだけど。知り合いの旅行会社にモニターを頼まれたの。広報用のレポートを書くのを条件に、ホテルも移動も面倒見てもらえたわ。費用も向こう持ちだった。泊まったのはヤンゴンのストランドホテル」
 ストランドホテルは、東南アジアで最もプレステージの高いホテルのひとつだ。イギリス植民地時代に建てられたヴィクトリア様式の建物は、かつての大英帝国の威光を偲ばせる。このホテルはジョージ・オーウェルやサマセット・モームが逗留したことでも知られている。もちろん予算的に私が泊まれるグレードのホテルではない。
 ワインのボトルが空になる頃、ⅰPhoneをBAOBAOのバックから取り出して操作した。誰かにメッセージを送っているようだった。
「約束の時間が近いから、そろそろ出るわ。あなたはどうする?」と彼女が訊いた。
 私も出ると答えると、彼女はウェイターを呼んで会計を告げた。ウェイターが勘定書を持ってくると、それを一瞥して彼女はカードを渡した。勘定は私の月々の生活費の半分程度ではないかと想像した。
 ご相伴に与った礼を言うと、「いいわ。今度、日本に行く時にいろいろと教えて欲しいこともあるし」と応えた。
 エスカレーターで一階まで降りて建物を出ると、目の前の通りにシルバーのBMW7シリーズが止まっていた。小型の潜水艦みたいな車だ。彼女は軽く手を振るとリアドアを開けて、後部座席に乗り込んだ。車がゆっくりと発進するのを見送って、私はBTSの改札口のある高架歩道に向かって歩いた。

続きが気になったらクリック!
↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
にほんブログ村 海外生活ブログ ミャンマー情報へ

 

0 件のコメント:

コメントを投稿