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2021年11月12日金曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーバードライブ』8

8 

 トンロー駅前で配車アプリのGrabを使ってタクシーを捕まえた。タイでは流しのタクシーを使った方が安くつくが、目的地が説明しにくい場所なのでGrabを使うことにした。東南アジアをサービスエリアとするGrabは、ライドシェアサービスのUberとは異なり登録されたタクシーを呼びだすことができる。走り出して三十分ほどで、車は仏教寺院ワット・マクット・カサッティリヤーラームを右に見ながら、ラマ八世橋を渡り、チャオプラヤー川を越えた。東南アジア特有の茶色く濁った川面を午前のやわらかな陽射しが鈍く光らせていた。タイで川向こうに出ることは滅多にない。チャオプラヤー川沿いは、川を見下ろす眺望を備えたラグジュアリー・ホテルが立ち並ぶエリアだ。市街地の対岸にもペニンシュラやミレニアム・ヒルトンといった富裕な観光客向けのホテルがあるが、もちろん私には無縁の場所だった。
 Kotchakorn Maleeと会うのは二回目だ。一年前にヤンゴンのカフェで会ったのが最初だった。そこで、ドイツ人の写真家が植民地時代から残るヤンゴンの歴史ある建造物を撮影した写真をスライドで写し、それについて解説すイベントが開催されていた。リサーチのためヤンゴンに滞在していた時に、Facebookの告知を見て、参加した。会場となったカフェも植民地時代の建物ををリノベーションしたものだった。高い天井に大型の扇風機が取り付けられたボールルームのような広いスペースが、コロアニアル・スタイルのインテリアで飾られていた。中にはチーク材で作られた大きなテーブルが十台ほど置かれていた。たまたま座った席の隣にいたのが彼女だった。
「あなたは日本人? わたしはタイから来たの」と向こうから話しかけられた。ショートカットの二十代の女の子だった。オーバーサイズ気味のレモンイエローのカットソーに、程良く色落ちした太めのストレート・ジーンズを合わせていた。こうしたこなれたカジュアル感は、ミャンマーの同世代の子にはない。
「そう日本から来た。君はどうしてここに来たの?」と私は尋ねた。
「昨日、このカフェに来た時に、イベントがあるのを知ったから。ヤンゴンへの移住を考えてるの。今住んでるのはバンコクなんだけど」と彼女は答えた。
「仕事を求めてヤンゴンからバンコクへ移住するミャンマー人は多いけど、その逆は聞いたことがないな。でもどうして?」
「ピカピカの大きなビルがどんどん建てられてるバンコクが好きじゃないから」軽く唇を歪めて、そう答えた。東南アジア人にしては彫りが浅い顔だった。ただ、黒目がちな大きな瞳は東南アジア的な特徴を備えている。おそらく中国系のハーフかクオーターだろう。「ここはバンコクよりのんびりした空気が流れてて、そこに惹かれるの」
 たいていのミャンマー人は–––特に事業活動をしているミャンマー人は–––ヤンゴンが
バンコクのようなビルが立ち並ぶ、資本の集積地になることを望んでるんだけどなと思ったが黙っておいた。何に幻想を抱くかは人それぞれだし、結局のところ人は今目の前にないものを求めるものなのだろう。
「あなたはどうしてヤンゴンに?」
「タイとミャンマーの現代美術についてリサーチしている。今は東京のギャラリーに勤めてるんだけど独立を考えているんだ。東南アジアの現代美術を日本に紹介できないかなと思ってる」
「わたしもバンコクに小さなアトリエを持ってるの。友達とグループ展を時々開いてるわ。もし、バンコクに来ることがあったら訪ねてみて」
「いつもヤンゴンに来る前にバンコクに滞在しているから今度お邪魔するよ」
 Facebookで繋がったので、バンコクに来る時はメッセンジャーで連絡すると言った。そのとき話した通り仕事を辞めて独立準備中の身となった私は、一年前の約束を果たそうとタクシーを走らせていた。
 チャオプラヤー川を渡ってから十分くらいで目的地に着いた。観光客がまず足を踏み入れることはない郊外の住宅街の路地裏だった。スクンビット通りに林立するコンビニエンス・ストアもここでは見かけない。門柱の前に立つと、スマートフォンで到着したことを告げた。
 横手の小さな鉄門の閂を開けて出てきた彼女は杢グレーのタンクトップとショートパンツ姿だった。午前十一時頃だったが、まだ寝起きの顔をしていた。シャワーを浴びたばかりなのか、まだ髪が湿っている。再会の挨拶をすると、内側に通された。外壁は煉瓦造りで、通りに面して小さな丸窓が付いた建物だった。建物前の駐車スペースには車がなかった。築三十年は経っている民家で、一階がアトリエとして使われていた。壁には制作途中の作品のカンヴァスがいくつか無造作に立て掛けられていた。パウル・クレー風の淡い色彩の抽象画だった。小さなテーブルに置かれたPCの画面には、ジャン=リュック・ゴダールの『中国女』の映像が流れていた。
「昨日遅くまで絵を描いてたから、さっきまで寝てたの」湿った髪をいじりながら彼女は言った。「もうすぐ友達と合同展示会をやるの」
「ここに展示するの?」ここを会場にするなら、展示できる作品数は限られそうだ。
「ここは狭いから、友達が働いてるホステルを借りるわ」と彼女は答えた。「あとで打ち合わせに行くから一緒に行く?」
 迷惑じゃなければと私は答えた。
「大丈夫。みんなフレンドリーだから。じゃあ、軽くランチを食べてから行きましょう」
 彼女に促されるまま、奥のキッチンのある小部屋に入った。小さなテーブルを差し向かいに座って、彼女が皿に盛ったカオマンガイ
を食べた。
「どう?」と彼女は訊いた。
「美味しい」と私は答えた。実際、鶏肉はジューシーだし、ご飯はナンプラーの風味が程よく効いていて、店で食べたのと遜色がなかった。
「ここに越してから毎日自炊してるから、腕が上がったわ」彼女は微笑んだ。
「ここに住んでどれくらいになるの?」と私は尋ねた。周囲に住居しかない郊外の鄙びたエリアに、二十代の女の子が一人で住んでいることが不思議だった。
「二年くらいね。その前は街中に住んでたんだけど、ビルが立ち並ぶ風景と騒がしいのが嫌で引っ越したの」
 去年、ヤンゴンで彼女と会った時に、バンコクの喧騒を逃れるためにヤンゴンに移住したいと言っていたのを思い出した。「そういえば、ヤンゴンに住むのはどうなったの?」
「長期滞在できるビジネス・ビザが取れなくて諦めた。アパートも探しもしてたんだけど」と彼女は答えた。ミャンマーでビジネス・ビザを取るには投資企業管理局(Directorate of Investment and Company Administration)に登録された企業の推薦状が必要となる。
「ミャンマーの会社で、わたしのために推薦状出してくれそうなところ知ってる?」と彼女は訊いた。
「残念ながら役に立てそうもない。今まで三回行ってるけど、アート関係者としか会ってなくて、ビジネスパーソンとは縁がないんだ」と私は答えた。ギャラリーや展示会巡りしかしていないので、現地の日本人駐在員や起業家とはまったくと言っていいほど接点がなかった。
「そうなの。ヤンゴンは諦めてもうしばらくバンコクに住むことにする」
 昼食を済ませると、彼女は着替えと化粧のため二階に上がり、私はコーヒーを飲みながらキッチンで待っていた。勝手口の先に小さな庭が見えた。草むらの上に、錆びた子供用のブランコが打ち捨てられたように置かれている。先住者が残していったのだろう。
 二階から降りて来た彼女は、ふんわりしたパステルブルーのワンピースを着ていた。淡いベージュのアイラインを引いて、ライトピンクのリップと同系色のチークを塗っていた。二人で家を出て、路地を抜け、大通りまで出てタクシーを拾った。彼女が運転手に行き先を告げると、今度はプラ・ポック・クラオ橋を渡り、チャオプラヤー川を越えた。十五分ほど走って着いた先は、彼女の家のちょうど対岸にあたるカオサン地区の外れにあるホステルだった。屋上庭園のある二階建ての鉄筋の建物で、ピロティとなったエントランス部分にはウッドデッキが敷かれていた。デッキの上には、ガーデンテーブル、チェアと数台の自転車が置かれている。中に入ると仕切りのない広いオープンスペースが広がっていた。入口正面の奥がレセプション、残りのスペースをギャラリーが併設されたカフェが占めている。高い天井から多数の電球が吊るされ、所々で星座のような模様を形作っていた。世界各地からやって来たバックパッカーたちが、カフェやテラスでスマートフォンやノートPCを操作していた。
 カフェ・スペースの席に着くと、彼女はバブルティー、私はマンゴージュースを頼んだ。
「友達を紹介するわ」彼女はカフェのスタッフに手を振った。二十代の長髪で背の高い青年だ。テーブルに近づいてきた男の子に向かって言った。「彼はテンゴ、日本からタイのアートをリサーチしに来たの」そして私に彼を紹介した。「こちらはヴァン。ここで働きながらアーティスト活動をしてるの。アート仲間の一人よ」
 私がヴァンと握手すると、彼はKotchakornの隣の席に座った。ネイヴィーの無地のTシャツと色落ちしたジーンズ姿に、履き古したエア・ジョーダンを履いていた。 
「これから、ここでやるグループ展の打ち合わせがから仲間が来るよ」と彼は言った。「僕の前の作品は、あそこのギャラリースペースに展示している。今は新しいシリーズに取りかかっている」そう言って、ギャラリースペースを指さした。
 席を立って、展示されている作品を見てみた。彼の名前が記された名札が付いた作品は、タイの神話をモチーフにしたらしいスピリチャルな画風の絵画だった。その他にも、絵画やオブジェが展示されていた。ギャラリー・スペースは三〇平米メートル程度で、そう広くない。アート作品の展示の他に、タイのクリエーターによるオリジナル雑貨が販売されている。アート作品については、美大生の習作の域を出ていないように感じられた。
 しばらくして、グループ展の仲間たちがカフェにやって来た。全部で、男の子が三人、女の子が二人の、二十代のグループだ。みんな中産階級の子らしいこなれたカジュアルなファッションだった。タイ語なので内容はわからないが、おそらく展示方法や各人の展示する作品数を話し合っているのだろう。新たな美術運動を目的としたグループというよりも、アマチュアの同好会的なサークルという雰囲気だ。アートへの関心が高まっているタイでは、こうした同好会的なサークルが数多く同時発生しているのだろう。これまでの急激な経済成長が踊り場に達したタイが、文化的な成熟期に入っていることを実感させる。
「この後みんなでご飯食べに行くけど、一緒に行かない?」Kotchakornが私に訊いた。
「ありがたいけど、明日はミャンマーに行かくから遠慮しとくよ」と私は答えた。みんな英語が達者なものの、ただ一人タイ語のできない私がいて気を使われるのが気詰まりだった。
「残念、またバンコクに来る時は教えて。今度日本に行く時は連絡する」とKotchakornが言った。
「また来ると思う。日本に来る時は教えて。今日は楽しかった、ありがとう」いくぶん多めにタイバーツ紙幣をテーブルに置いて、テーブルを離れた。
 外でタクシーを拾って、運転手にプロンポン行きを告げた。BTSの駅前で降りて〈ロイヤルオーク〉に向かった。夕方の早い時間にも関わらず、ハッピーアワーでビールの割引があるせいか、店内は外国人客で賑わっていた。外国人夫婦の客もいれば、タイ人のガールフレンドを連れた中年の外国人男性もいる。店の喧騒を眺めながらタイガービールをジョッキで三杯飲んだ。

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2021年9月20日月曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーヴァードライブ』4 (1)

 4(1)

 重野が帰った後、もう一杯ボウモアのソーダ割りを飲んだ。ターンテーブルの上の音盤は、ディアンジェロのライブ盤になっていた。「Brown Sugar」が店内に流れている。 
 店を出て、大名から大濠公園のマンションまで歩いて帰った。福岡城の城址を囲む堀に沿って植えられた桜は若葉を茂らせていた。堀の水面は睡蓮の葉に覆われている。睡蓮の花が咲く頃には、タイかミャンマーにいるはずだ。

 それからの十日間は、リサーチに時間を費やした。タイとミャンマーの現代美術の動向を調べた。
 東南アジアの国の中で、この二つの国を選んだのには理由がある。アジアの国々でアートマーケットが活況なのは、アートバーゼル香港が開催される香港と東南アジアで最も富裕層が居住するシンガポールだが、これらの国では、すでに有力ギャラリーが進出しているため新規参入は難しい。
 タイは一九九七年のアジア通貨危機でのタイバーツの下落を経た後、着実に成長を続け、一人当たりの実質GDPは二〇〇〇年代になってから八五パーセント近く伸びている。生活水準と可処分所得の向上に比例して文化的な関心も急激に高まっている。二〇〇八年には、現代美術を扱う大規模な美術館バンコク・アート&カルチャー・センターが開業している。また二十年にわたる経済成長の中で生まれたニューリッチの二代目や三代目が続々と首都バンコクにギャラリーを開設して、現地のアートマーケットは活況を呈している。街のDVDショップには、ジャン=リュック・ゴダール、ウォン・カーウァイ、ソフィア・コッポラらの作品が目立つ場所に置かれ、バブル経済が崩壊した後、一時的に文化的な爛熟が進んだ一九九〇年代後半の日本を思わせた。巨大なショッピングモールが次々と建設され、ヨーロッパやアメリカのラグジュアリーブランドのショップが中を埋めている。バンコクの商業都市としての規模は明らかに東京より大きい上、国際化もより進んでいる。外国人の居住者や観光客が多いため、ロンドンやニューヨークなどの先端文化や風俗が伝播する速度も東京よりも早い。
 ミャンマーはタイと対照的な国だ。長らく軍政で、経済停滞が続いたこの国では、ハイブランドで埋め尽くされたショッピングモールなど望むべくもない。二〇一一年に民政移管が実施され、二〇一五年の総選挙の結果、翌年、五十四年ぶりの文民政党による与党が誕生した。二〇一一年の民政移管後、海外からの投資が一気に拡大した。世界に残された数少ない経済フロンティアとしての注目を浴びたためだ。だが、その外国投資も二〇一五年をピークに減少傾向にある。電力や交通などのインフラが脆弱で、外国企業を保護する法律が未整備なことで、進出したものの事業が立ち行かずに撤退する企業が相次いだ。隣国のタイが一九八〇年代からODAを通じてインフラの整備を推進し、海外から企業の誘致に成功したことで、工業化と輸出の拡大が進み、目覚ましい経済発展を遂げたのとは異なる歴史を歩んでいた。少数の例外を除き、外国人や外資系企業がこの国で経済的な成功を収めるのは困難であることは明らかになりつつある。それでも、この国に惹かれる外国人はいた。未開拓で未整備な荒野のようなフロンティアの広がりを目にして、利得を超えた好奇心やある種の冒険心をくすぐられるのだろう。アート関係者からほぼ無視されているこの国に関心を持つ私もそうした人間の一人なのかもしれない。
 そしてこの対照的な両国は国境を接しており、首都バンコクと商都ヤンゴンは飛行機で一時間半足らずで移動できた。まず、福岡からバンコクへの直行便のあるタイに行って、それからミャンマーに移動することにした。最終目的地のミャンマーで、瞑想センターにしばらく滞在してみることにした。ネットの情報や上座部仏教の解説書を読むと、多くの瞑想センターがミャンマーに存在することがわかった。

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2020年8月3日月曜日

東南アジア的な視点から、北九州市の活性化について考えた(1)

6月、7月とここ2ヶ月の間、北九州市の小倉に滞在しています。
こんなに長く日本にいるのは、ミャンマーに住みだしたここ8年ではじめてです。北九州市にこんなに長くいるのも30年ぶりくらいです。実家は北九州にあるものの、これまで年に一度、一週間程度一時帰国した時は、国際空港の近い福岡市に滞在していました。見つかったバイトが北九州市だったので、ここに滞在しただけで、それ以上の理由はありませんでした。
今回の滞在で気がついたのは、30年前とは街の雰囲気が変わりつつあることです。
過去の衰退した工業地帯都市独特の荒廃した雰囲気がだいぶ薄らいでいる。
昔は、夜に女性の一人歩きができないような、暴力的で殺伐とした雰囲気の街でしたが、今はなんだかゆるくて、ほのぼのしています。

ほんの20年くらい前までこの地は、暴力団組合員のプレイを断ったゴルフ場のグリーンに重油を撒かれて、マネージャーが胸を刺されて死亡したり、入店を拒んだクラブのママが顔を刃物で切られたり、入店を拒まれた別の店では手榴弾を投げ込まれたりする事件が相次いでました。
2006年より福岡県警が本気で暴力団の摘発に取り組み、現在では、ほぼ暴力団の活動は根絶されたようです。


今では、自治体が過去のイメージを払拭して、移住者を増やすためのプロモーションビデオまで作られています。


そもそも北九州市の小倉は、先の大戦で空襲を免れたため、戦後復興が最も早かった都市でした。その後、工業都市として、1950年代の朝鮮戦争の特需で潤い(空襲を免れたため、軍需工場が残っていたらしい)、日本が西側の製造業を担うアジア唯一の工業国だった1960年代には隆盛を迎えました。日本で初めてアーケード商店街ができたのも、北九州の小倉です。このアーケードは、政府の補助金ではなく、商店街の店主達によってその建設費が賄われました。

ロバート・アルトマン監督の朝鮮戦争を舞台としたブラック・コメディ映画『MASH』では、不良アメリカ人軍医達が、息抜きに、戦場から近い日本の地方都市の小倉でゴルフや芸者遊びを楽しむシーンがあります。私がこの映画をビデオで観たのは1990年代でしたが、なぜ登場人物達が福岡に遊びに行かないのか不思議に思ったものです。映画を観た当時は知りませんでしたが、朝鮮戦争があった1950年代には、小倉の方が福岡よりも圧倒的に拓けた都会だったからです。


日本の経済成長に伴い人件費が上昇し、北九州の主力産業であった鉄鋼業などの製造業が競争力を失ない、産業構造が変化しはじめた1980年代から街の衰退がはじまります。近隣の地方都市・福岡市との人口が逆転したのが1979年です。
北九州のダウントレンドと福岡市のアップトレンドが交差したこの時から、現在に至るまでこのトレンドは継続し、今では商業施設の集積度や人口で大きな差がついています。街を歩いて、両市を見比べてみると、別に統計の数値に頼らなくても、街の活気や洗練度や多様性で大きな差があることが体感できます。

北九州市には、工場や製造業を中心とする企業が去った後も、工場労働者的あるいはブルーカラー的なエートスは残りました。企業の管理職はその場所での仕事がなくなれば転勤によってその地を去りますが、現業に従事する労働者の多くは、その地に残り続けるからです。

工場労働者を支えるエートスについては、イギリスの文化社会学者ポール・ウィリスによるエスノグラフィ『ハマータウンの野郎ども』がその嚆矢とされています。
実は読んでないので、ググった記述を以下に貼って、本書の概要を説明します。
ウィリスが行ったフィールドワークは,イギリス中部のある伝統的な工業都市を舞台にしている。『ハマータウンの野郎ども』のなかで〈野郎ども〉the lads と自称したのは、当該地域のセカンダリー・モダン・スクールに通う白人労働階級出身の若者たちである。彼らは,教師への反抗やからかい、飲酒、喫煙、逸脱的なファッション、笑いふざけなどを「反学校の文化」として実践する。
 『野郎ども』は学校で勉強をするのを忌避し馬鹿にしているが、自分たちはパブやケンカなどでの「社会勉強」のほうが重要と考えているのであって、むしろ学校の机での勉強しかしていない奴よりかはよっぽど社会のしくみに長け、人間としては上であると考えている。

 勉強とか、先生の言うことばっかり聞くことで、青春という人生の大切な時間が失われるなんて馬鹿げている。青春時代こそ自分のやりたいように生きるべき。 

彼らの「成人した男性労働者の世界=職場の文化」に対する憧れ,イメージは、次のようである。すなわち,「異性にかかわる欲望や『大酒喰らう』性癖や『ズラかろうぜ』という暗示や、その他さまざまな感情を、野放図にとまではゆかいないまでもほどほどに自由に表現できる場所、職場とはそういうところでなければならない。

日本のヤンキー的な価値観と極めて酷似しています。
統計はないでしょうが、かつての北九州市は、おそらく日本一ヤンキーの多い都市でした。
こうしたブルーカラー的な価値観が、世代を超えて継承されていくところも、日本のヤンキー文化と共通しています。

そして『ハマータウンの野郎ども』では、彼らが必ずしも反社会的な価値観の持っているわけではなく、むしろ社会を下支えする階層として、資本主義システム内に組み込まれている構造が明らかにされています。
野郎どもは学校の体制や教師に反発するけど、学校に行くこと自体は否定しない。いや、学校へは仲間に会えることや面白いネタがあることなどにより、むしろ喜んで通っている。

単純労務作業は、普通ならばだれでも嫌がる。仕事はキツイのに給料や社会的地位は低い。でも、それをこなせるやつだからこそ、『真の男』と認められるのだ。
つまり学校や職場といった場所や制度そのものには、異議申し立てはしない、むしろ伝統的・保守的な価値観を持った階層であり、それゆえ資本主義システムを構成する工場労働者として制度の中に組み込まれていた。これも北九州市の工場労働者の在り方と共通しています。
産業構造の変化により、イギリスから工場という職場が失われた1970年代後半に、労働者階級発のユースカルチャーとして、既存のシステムそのものを否定するパンク・ロックが登場したのは示唆的です。
奇しくも『ハマータウンの野郎ども』が出版された1977年に、パンク・ロックというジャンルを決定づけたセックス・ピストルズの1stアルバムがリリースされています。
ちなみにローリング・ストーンズのギタリスト、キース・リチャーズはインタビューでミュージシャンになった理由を聞かれて、「工場で働いて、上司に『イエス、サー』というだけの人生を送りたくなかったから」と答えています。

いま日本でベストセラーになっている在英日本人ブレディみかこさんの『ワイルドサイドをほっつき歩け --ハマータウンのおっさんたち』は、「野郎ども」の50年後の現在が描かれてたエッセイです。
今では元「野郎ども」現「おっさん」は、自分の子供や年少者に「いま俺のやっている仕事は、これからAIに代替されてなくなるから、お前は大学行け」と過去の労働者階級のイギリス人なら絶対に言わなかったであろうことを言うようになっているそうです。


こうしたヤンキー的・「ハマータウンの野郎ども」的なエートスが街に漲り、加えて暴力団などの実際に反社会的な組織が幅を利かせる地域であったため、北九州市は「修羅の国」というありがたくない名称をネット内で拝命することになってしまいました。ちなみに2012年に実施された、同市の若者アンケートでは、北九州市のイメージについての回答で最も多かったのは、「暴力・犯罪」が一位で、62.5%をマークしています。

でも、2ヶ月ほど滞在していみると、30年前とはずいぶんと様相が違うことに気がついてきます。

北九州市のたどった経緯をざっと振り返るだけで、かなり紙(モニター)幅を費やしたので、今はどんな風に変わってきているのかについては次回に書くことにします。

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2020年3月4日水曜日

ミャンマーでジャン=リュック・ゴダールがこんなにわかっていいのかしら!?

ジャン=リュック・ゴダールの映画は、私にとって長いあいだ鬼門でした。
何しろ、見始めて30分くらいで寝落ちする。
学生時代に、ずいぶんレンタルビデオ店で借りたものですが、すぐに寝落ちして、目が覚めてから続きを観るため、どの作品も、ほぼ冒頭の30分と後半の30分しか観れていませんでした。
『勝手にしやがれ』『女と男のいる舗道』『軽蔑』『アルファヴィル』『気狂いピエロ』、ゴダールの主要な作品を観ようとしたものの、すべて同じ結果になりました。
映画史に残る重要な作品は、一般教養として観ておかねば、という義務感に駆られて何度か挑戦しましたが、集中して最後まで観ることは、この時は叶いませんでした。

ゴダールの映画の見方がわかった(と思った)のはミャンマーに来てからです。
近所のDVD屋にゴダールの作品がけっこう揃っていたので、久しぶりに観てみるかと、5、6年前に試しに観たところ、なんだかスルスルと内容が入ってくる。
20代の頃に、いくら目を凝らして観ていても、いつの間にか寝ていたのが嘘のようです。

わかったのは、ゴダールの映画は、映画作品による映画批評ということです。
その意味では、ポストモダン文学と似ている。
架空の詩人の詩についての注釈書という体裁を取ったウラジーミル・ナボコフの『淡い焔』、「あなたはイタロ・カルヴィーノの新作『冬の夜ひとりの旅人が』を読み始めようとしている」という書き出しから始まるイタロ・カルヴィーノの『冬の夜ひとりの旅人が』、スタニスワフ・レムによる実在しない書物の書評集『完全なる真空』。
いずれの作品も、作家自身が小説というジャンルに対して自己言及的かつ批評的で、メタ視点を作品に導入することにより、フィクションというジャンルの枠を乗り越えようとする創作的な冒険が試されています。
自らが属するジャンルの自明性を越境しようとする意思が、明瞭に作品内へ込められています。

  

白状すると、この三冊とも途中で読むのを挫折して、十年以上積読中ですが、そのうち完読します。
ゴダールの映画も観れるようになったことだし(言い訳)。

ミャンマーに来てから最初に観たゴダールの作品は、『気狂いピエロ』です。
若い頃、この作品が理解できなかったのは、ストーリーの整合性や前後の繋がりを追って観ていたからです。
あくまで私の解釈ですが、ゴダールにとって、作品内での整合性や連続性は重要ではなかった。
むしろ、映画的なモチーフを次々とたたみかけることで、映画の構造やジャンル的な特性を明らかにすることに力点が置かれている。

冒頭近くのシーンで、主人公に「映画とは何か?」とパーティーで訊かれたアメリカ人の映画監督はこう答えます。

映画は戦場のようなものだ。『愛』『憎しみ』『暴力』、そして『死』、つまり感動だ

そして彼の言う通りに、それ以降の場面が展開していきます。
豊かだが退屈な生活に倦んだ男が、ファム・ファタール(宿命の女)に導かれるように、社会から逸脱していく。殺人、事件、逃避行、女の裏切り、そして死。
そうした場面が、大した脈絡もなく断片的に示される。
筋を追って観ていくと何がなんだかわからないのですが、ゴダールの「ねえ、映画ってこういうもんだよね?」という目配せに気づけば、昔は単に難解としか思えなかった映画が、ポップで茶目っ気に満ちていることに気がつきます。
パーティーのシーンに出てくる映画監督が、アメリカ人であるのも理由があります。第二次世界大戦中にハリウッドで製作されたフィルム・ノワール(犯罪映画)は、ゴダールらが属したフランスの映画運動ヌーヴェル・ヴァーグに強い影響を与えているからです。
昔はこの場面を観て、なんでフランス人ばかりのパーティーに、アメリカ人が入ってるんだと違和感を覚えていましたが、これはフィルム・ノワールからヌーヴェル・ヴァーグへの架橋を詳らかにする意図だと読み取れます。
実は、これについては、今この投稿を書いていて気づきました。
このアメリカ人の映画監督が語るように、その後の場面が展開する(「愛」「憎しみ」「暴力」、そして「死」)ところも含めて、映画作品によって映画の構造や歴史が明かされるという、この作品の持つ自己言及性と批評性が明快に示されています。




遅まきながら、ゴダールの映画の持つ自己言及性と批評性に気がついたのは、最初に観た時とは異なり、その後にクエンティン・タランティーノの映画を観ていたからです。
タランティーノは、私の学生時代には、まだ映画監督としてデビューしていませんでした。
その頃のタランティーノは、ビデオショップ「マンハッタン・ビーチ・ビデオ・アーカイブ」で店員をしていたはずです。ちなみに私も同じ時期に、岡山のレンタルビデオ店でバイトをしていました。
場所は違えど、同時期にビデオ店で働いていた二人が、片やハリウッドで最も評価の高い映画監督の一人で、片やミャンマーで食うや食わずの生活を強いられている、この差はどこから生まれたのでしょう?
慢心?、環境の違い?
答えはわかりません。

話を戻すと、ゴダール同様に、タランティーノの作品も、自己言及性と批評性に特徴があります。
去年公開されたタランティーノの最新作『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』では、ハリウッド映画によってハリウッド映画史が語られるという、極めて自己言及的かつ批評的な構造になっています。

このように、ゴダールとタランティーノは映画製作における姿勢(と愛)が近いのですが、ポピュラリティについてはかなり差があります。
これは、タランティーノの作品が、あくまで娯楽として成立するラインに踏みとどまっているのに対し、ゴダールはそれに頓着しないからです。両者の作品内では多くの文化的ガジェットが引用されていますが、タランティーノの引用元がキッチュなB級映画やサブカルチャーが多いのに対し、ゴダールの場合は高踏的で衒学的なアートや文学や哲学が多い。
そして、タランティーノが娯楽としての映画の自明性に対して異を唱えないのに対して、ゴダールの場合、それをも大胆に逸脱するという破壊性を孕んでいます。
こうした創作態度からして、商業的な意味での成功を収めているのはタランティーノなのですが、ゴダールがタランティーノに与えた影響は大きいはずです。
タランティーノの映画で、いきなり爆音と共に場面展開したり、手持ちカメラを振ってパンしたり、突然脈絡のなさそうなシーンが挿入されたりするのは、おそらくゴダールの影響です。
ミャンマーに来てからゴダールの作品にすんなり入り込めたのは、それまでにタランティーノがゴダールから影響されて使い回していた映画技法に、いつの間にか慣れ親しんでいたからでしょう。
つまりタランティーノという補助線を引くことで、はじめてゴダールの映画が持つ世界像を浮かび上がらせることができた。

なんでこんなことを延々と考えているかと言うと(ミャンマーでジャン=リュック・ゴダールについて深く思い巡らすのは、あまり一般的な行為ではありません)、『気狂いピエロ』にヒロインとして登場するアンナ・カリーナが着ているワンピースをミャンマーのラカイン産の生地で作ったからです。


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2019年10月27日日曜日

【長文】ミャンマーが経済的な意味で発展することはかなりむつかしいと思うけど、それは必ずしも悪いことではないかもしれない

私見ですが、ミャンマーが経済的に発展することは、これからもかなりむつかしいと感じています。
ここには、改善や計画性という概念がないからです。住んで7年ほど経ちますが、いつまでも同じ問題や過ちが繰り返される。
乾季になれば、発電能力の不足で毎年停電が頻発するし、雨期になれば毎月のように、豪雨で道路が冠水し、家屋への大規模な浸水が発生する。それに対して、抜本的な解決策が講じられることも、今後の計画や指針が明示的に示されることもありません。
行政や政策担当者だけではなく、民間レベルでも同じことが相変わらず起きています。
時間にルーズ、突然言うことが変わる、契約を守らない(というか最初から契約書を読んでいない)、品質管理のレベルがどの先進国からも許容できないほど低いなど。
最初に来た時にびっくりしたのは、多くの人が業務遂行能力が低いことを恬として恥じないことです。同じミスを犯しても、あまり恥ずかしいとか、改善すべきだとか思わないようです。
7年たっても、この辺りのマインドセットは変わっていないように見えます。
ここに住む上で、こうした傾向をネガティブな事象として捉えがちだったのですが、必ずしもそうでないかもという考えが浮かんだので、ここに記します。

きっかけは、内田樹『街場の読書論』を読んでいて、平川克美『株式会社という病』の書評の中で、同著の以下の引用文を読んだことです。
著者の平川氏の生家が営んでいた、町工場の1950年代の様子を描写した部分です。
当時、わが零細工場労働者たちは、自らの賃金を、大企業のそれと比較して、羨訴の感情に訴えるということはあまりなかったように思う。妙な言い方かもしれないが、ここには「安定した格差」があったのである。
 かれらにとって、あちらはあちらであった。こちらの世界(=零細企業)とあちらの世界(=大企業)は、別の原理で動いており、それらを繋ぐようなものはどこにも見出すことができなかった。
 町工場の工員たちは、働き場所を中心とした半径一キロメートルの世界の中で、家計を営み、映画を見、パチンコをして遊んでいるように見える。この頃、わが家の近隣の工場には、なぜかどこにも卓球台があった。工員たちは暇さえあればよく、ピンポンをして歓声を上げていた。確かに、生活は貧しいが、矩を越えずといった安定的な貧しさの中に、多くのひとたちが安住していたのである。
<中略>
かれらは、今日のような自己実現の夢を育もうとはしなかったかもしれないし、 格差社会を意識するといったことはなかったかもしれないが、それ以上にかれらの世界には安定した倫理観と、生活上の慰安があったというべきだろう。



ミャンマーでは、毎日夕方になると、建設現場の日雇い労働者や人力車の車夫が、5、6人の輪になって路上で、みんなで歓声をあげながらチンロン(ミャンマーの蹴鞠)に興じています。ここには、労働者が集い「歓声を上げる」場がまだ残っています。

経済発展の中で日本は、ここで活写されているような安定した貧しさの中で安住できる町工場のような場所を失い(製造業の多くは人件費の安い海外へ移転した。海外へ移転できない工場の多くは、非正規労働者や海外からの技能実習生などを雇用し、最低限の生活を維持するのも困難なレベルの賃金しか払っていない)、能力や才能の有無に関わらず、自己実現の夢に苛まれる人々が飽和した国になりました(意識高い系とかは、こうした状況が生んだ現代病ですね)。
これは、社会システムと価値観が、グローバル資本主義的なあり様に集約されて、それほど付加価値や生産性が高くない仕事に就いて「安定した格差」に安住し、「あちらはあちら」、「矩を越えず」といった態度で生活を営むことがむつかしくなったからでしょう。

ここでは資本主義を、貨幣を媒介として財・サービスなどと交換する制度を内包する社会システムと定義します。貨幣を媒介として交換される事物は、市場価値という尺度で、一元的に(あちらもこちらも同じく)貨幣の数値としてランク付けされます。市場で価値があるとされたものは高価(貨幣への換算値が高い)で、されないものは安価に(貨幣への換算値が低い)。ランク付けされるのは、人間個人の資質・能力・才能も含まれます。
個人の属性が貨幣へと換算される時、市場により高く評価される属性とそうでない属性が生じます。サッカーの一流選手は、ラグビーの一流選手よりも高い年棒を得ているし、ポップ音楽のヒットメーカーは、民謡の名人よりも多くの印税を稼ぎます。
この差異は、必ずしも才能や能力や成果物の質の高さによって生じるわけではなく、あくまで市場性の多寡や有無によって起こります(需要と供給の均衡点で価格は決定する)。
大学生の頃、『「いい人」というのは、決して褒め言葉ではない』という言説を聞いたことがありますが、あれは「いい人」には市場性がない(その資質によって高い貨幣価値を得ることができない)という意味合いだったのでしょう。
「いい人」であることは、人間にとって本質的な価値であるかもしれませんが、その資質が貨幣として換算され得るものでない限り、資本主義的なシステム内の価値観では高く評価されない。良くも悪くも、資本主義的なシステム内では、市場がその人に付けた値札の高低で、人はその価値を計られる。

未見ですが、『ジョーカー』という映画が話題になっています。
この映画を観てないのに書きますが、『大ヒット問題作「ジョーカー」共感と酷評がまっぷたつのワケ』という記事を読んで、だいたいどんな映画が想像がつきました。
市場性のある才能や、高い貨幣価値を生み出す才覚のない、単なる「いい人」が社会的・経済的に疎外された結果、極悪人に変貌する映画なのでしょう。
この映画はミャンマーでも公開されていますが、この地ではほとんど話題になっていません。アメリカとかイギリスの大学卒業してミャンマーに帰ってきた超富裕層の子女が、ちらほらFacebookに感想を投稿しているくらいで、それ以外の普通のミャンマーの若者は感情が揺さぶられることも、主人公の心情に共感することもないようです。
その理由について、考えてみました。

記事を以下に引用します。
貧困、格差、社会保障の打ち切り、雇用環境の悪化、行政サービスの劣化・縮小、虐待・ネグレクト、介護、障害への無理解、差別──アーサーは現代社会が抱える様々な「負の側面」に苦しみながら生きる男だ。それらのうちのどれかが、とくに彼をとりわけ責めさいなんでいるわけでもなく、すべてが等しく彼をじりじりと閉塞して孤立した世界へと追い込んでいった。
この映画の舞台となっているのは、アメリカの架空の都市ゴッサムシティですが、ミャンマーの状況と比較してみましょう。
  • 貧困 --> 物凄くある。おそらくゴッサムシティよりもある
  • 格差 --> 物凄くある。おそらくゴッサムシティよりもある
  • 社会保障の打ち切り --> そもそも社会保障が、はじめからない
  • 雇用環境の悪化 --> 教育システムが劣悪なので、それなりの職につけるのは労働人口の約5%程度
  • 行政サービスの劣化・縮小 --> まともな行政サービスは、最初からほぼ存在しない
  • 虐待・ネグレクト --> あまりない。少なくとも自分の家の子供は大切にする。ただし、メイドとか使用人の扱いが酷い場合はかなりある
  • 介護、障害への無理解、差別 --> 社会的なサポートはほぼない。障害については、前世の行いが影響していると考えられているので、こうした人々をサポートすることにもあまり関心を持たれない
比べてみると、ゴッサムシティに負けず劣らずというか、ミャンマーの富裕層を除く大多数の人々は、ゴッサムシティよりもハードな社会環境に生きています。
にもかかわらず、『「ただしく」ふるまえない人びとは、社会的・経済的に窮地に追い込まれていくばかりか、社会が「価値がある」とみなす能力に恵まれた「ただしい」人びとによって、「ただしくない」と烙印を押されて疎外・排除され、不可視化されて、関心や慈しみさえも得られなくなっていく』物語に共感できないのはなぜでしょう。
それは、ここに暮らす大多数の人々が、ゴッサムシティの市民(及び資本主義国家に住む人々)が「価値がある」とみなす能力、すなわち市場性及び換金性のある能力に恵まれた人間を「ただしい」はと思っていないからでしょう。つまり、彼ら彼女らのコミュニティでは、市場がその人に付けた値札で、一元的に人間の価値が計られることがない。
私がミャンマーに来た当初、不思議に思った「多くの人が業務遂行能力が低いことを恬として恥じない」のは、彼ら彼女らのコミュニティ内では、仕事の能力が人間の価値評価と繋がっていないからだと思います。仕事なんてできなくても、それはまったく自分の社会的な評価や価値とは関係ないと思っていれば、特に反省する気にも改善する気にもなりません。

そもそも、ミャンマー社会で一般的に最も尊敬されているのは、解脱して涅槃(ニルヴァーナ)に達した上座部仏教の僧侶です。解脱した人は、この世の事象に無関心(自分の生老病死にすら)で、周りの空気を読まない、無為の人です。むろん経済的な達成や立志出世とも無関係で、労働は一切しません。
こうした究極の無為の人が尊敬され、善男善女からの托鉢・寄進により、衣食を保証されているのがミャンマーを含む南アジアの上座部仏教のありようです。
資本主義的な価値基準とは違う文化・価値体系の中で、大多数のここの人々は暮らしています。

最近、グローバル資本主義の権化ともいえる企業Amazoの倉庫の労働環境が問題となっています。
参考:「日本人はなぜアマゾンに怒らない」潜入ジャーナリストが暴く現場の絶望

「6時間45分の労働時間で歩行距離は20キロを超え」、「10時間働いている人は30キロ以上になる」という過酷な労働環境で、常にセンサーで業務のパフォーマンスを監視され、時間当たりのピッキング数が会社の基準とする数値に達しないと、リアルタイムで警告が入るようです。精神的にも肉体的にも過酷な業務で、神奈川のAmazonの倉庫では、わかっているだけで5人の方が勤務中に亡くなっているそうです。


ミャンマーは、インドと中国の中間に国土があり、タイとも国境を接しているため、東南アジアの物流拠点として適した立地であるといわれています。
仮にAmazonが東南アジアに進出して、物流センターをミャンマーに置いて、同じ労働環境で人を雇用したら、何が起こるでしょう。
かなり確信を持って答えられますが、初日の半日でほぼ全員が辞めます。少なくとも3日以内に全員が辞めます。
常に時間あたりの作業量をセンサーで監視されながら、会社の求める基準に達しないとアラームが鳴って急き立てられるような非人間的な労働環境に、ミャンマー人は耐えられないし、耐える気が端からありません。
イギリス、アメリカ、フランスのアマゾンの物流センターも、同様の労働環境らしいですが、あちらは移民がこうした過酷な業務を担っているのでないかと推測します。ミャンマーは移民を出す方の国で、受け入れる国ではないですから、過酷で非人間的な労働環境を我慢する労働者層は存在しません。

ある程度、経済が発展して、国民がグローバル資本主義的な価値観に一元化されると、賃金を得るために、自分の感情や気分に蓋をして、仕事のために自我を抑えるという働き方が一般的となります。しかし、ミャンマーでは、基本的にそうではありません。自分の気分や情動を制約されるくらいなら、仕事をしない方を選びます(物凄く給与が高いとかなら別ですが)。
そもそも、ミャンマーがグローバル資本主義の一員として組み入れられることを望んでいるのは、政府高官と地場財閥企業の経営層とその親族を合わせた約1%とグローバル企業でオフィスワークに就ける可能性のある大卒者の約5%くらいで、残りの94%の人たちには関心のない事柄です。むしろ、残り94%の人々にとっては、グローバル資本主義の流入により、交換可能な廉価な労働者として扱われ、過酷な労働環境が到来する(Amazonの物流センターのような)デメリットの方が大きい可能性すらあります。
こうして考えてみると、大多数のミャンマー人のマインドセット(改善しない、無計画)が変化しないのは、もしかしたら無意識のうちに、グローバル資本主義的な価値観や労働環境の流入を阻んでいるのではないかという気がしてきます。

高野 秀行, 清水 克行『辺境の怪書、歴史の驚書、ハードボイルド読書合戦』という対談本を読んで知ったのですが、以前は人類の文明の進歩から取り残されていたと思われていた狩猟採集で暮らしている辺境の「未開な」少数民族は、現在の文化人類学の見地では、いったんは農耕などの新しい文明に移行したものの、意図的に原始的な文明・社会に戻ったと考えられています。
彼らは、国家による租税や兵役・労役などを避けるため、敢えて原始的な生活に立ち戻った。そのプロセスの中で、拓かれた農地から未開の森へ移り住み、以前はあった文化を失い、文字を捨て、場合によれば神話すら忘れた。戦略的に、国家機構にとってまったく交信不能の異形の辺境民になることで、国家による収奪や搾取が不可能な存在となった。
実は、今のミャンマーの変わらなさも、グローバル資本主義からの辺境であり続けることで、先進国のグローバル資本からの収奪や搾取を避けるために、無意識のうちに選択されている戦略ではないかという気がしてきます。
グローバル企業が大量に進出して、アマゾンの物流センターのような労働環境の職場ができたり、市場性及び換金性のある能力に恵まれた人間を「ただしい」と一元的に評価する価値観が広がり、疎外された人間が増えた結果、ジョーカーのような犯罪者が出現する社会になることを大多数のミャンマー人は望んでいないでしょうから(経済的なメリットの大きい政府高官や地場財閥企業の経営者などを除いて)。



ミャンマーは外資系企業が進出するのに厳しい環境だと言われて久しいですが、その要因のひとつである大多数のミャンマー人に共通するマインドセットは、グローバル資本主義というウィルスがミャンマーに感染するのを防ぐ抗体として機能しているのかもしれません。

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2019年5月31日金曜日

ミャンマーでミッドセンチュリー風のワンピースを作ってみたら、歴史について思いを馳せてしまった

男性用ロンジー生地で、ミッドセンチュリーを代表するデザイナー アレキサンダー・ジラード風のテキスタイル・デザインを見つけたので、半年前くらいから、市場で見かけるたびにコツコツと買い集めていました。

アレキサンダー・ジラードは、イームズ夫妻やジョージ・ネルソンと並ぶ、ミッドセンチュリーのデザインを決定付けた、影響力と世評の高いデザイナーです。チャールズ・イームズとは、ハーマン・ミラー社で同僚でした。
ジラードの他の二者との違いは、テキスタイル・デザインに積極的に取り組んだこと、現代的・未来的なものだけではなく、フォークロア的なものにも目を向けたことがあげられます。



アレキサンダー・ジラードがハーマン・ミラー社のためにデザインしたテキスタイル


アートディテクションを手がけたブラニフ航空の機内用毛布

とりわけ評価が高いのは、1965年にブラニフ航空のリブランディングのためのアートディレクターを勤めた仕事です。彼はチケットのデザインから、空港の什器・家具、飛行機のカラーリングまで航空会社に関わるすべてを監修し、徹底したコーポレート・アイデンティティを創りあげました。
家具はイームズ、乗組員の制服はエミリオ・ブッチが採用されました。






この未来感は、スタンリー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』と相通じるものがあります。調べてみたら『2001年宇宙の旅』は、1968年初公開なので、ブラニフ航空の方が3年早いです。1960年代中頃にこうした先鋭的なCIが実現していたのは、今となっては驚くべきことです。



ジラードやキューブリック(そしてイームズやネルソン)らの1960年代のデザインに見られる未来感(映画『2001年』は製作当時からすると未来が舞台でしたが)は、この時代の彼らにあるべき、あるいは期待されるべき未来像が確固として存在したからではないからではないでしょうか。
1970年代に入ると、環境問題や資源の枯渇等が前景化して、こうしたピカピカで希望に充ちた未来像は思い描きにくくなります。

70年代に科学技術による副作用が認知された後、長らくの間、酸性雨の降りしきる中で、都市に蝟集する人びとが陰気な顔で、ハイテクなガジェットを操作している(あるいは、うどんを啜っている)『ブレード・ランナー』的な未来像の方がリアリティを持ちえていました。

ただし、最近になって潮目が変わりつつあるのを感じます。
今年の5月15日に開業した、JFK空港に併設する話題のホテル TWAのデザインには、過去のブラニフ航空や『2001年』を参照していることが伺えます。







このホテルのデザインを見ると、かつて構想された、あるべき「輝かしい未来像」を丹念にトレースしているような印象を持ちます。
考えてみれば、人類の歴史は、過去の事績を足がかりにして、新たな価値を創造してきた、過去と未来を繋ぐ過程と言えるので、彼らが 1960年代に構想された「輝かしい未来像」を参照点にしたのは、自然なことかもしれません。

 たとえば、孔子は自分の同時代から500年遡る古代王朝 周の徳治をロールモデルとして、自らの思想体系を構築しました。

内田樹先生のブログに投稿した『時間感覚と知性』を以下に引用します。
仁者も預言者も、創造の現場には立ち会っていない。彼らは自らを「起源に遅れたもの」「世界の創造に遅れたもの」と措定する。そして、祖述者・預言者とし ておのれに先んじて存在した「かつて一度も現実になったことのない過去」を遡及的に基礎づけようとしたのである。白川静はこう書いている。
「孔子においては、作るという意識、創作者という意識はなかったのかも知れない。しかし創造という意識がはたらくとき、そこにはかえって真の創造がないと いう、逆説的な見方もありうる。(・・・)伝統は追体験によって個に内在するものとなるとき、はじめて伝統となる。そしてそれは、個のはたらきによって人 格化され、具体化され、『述べ』られる。述べられるものは、すでに創造なのである。しかし自らを創作者としなかった孔子は、すべてこれを周公に帰した。周 公は孔子自身によって作られた、その理想像である。」(『孔子伝』)
孔子における周公は預言者における「造物主」と構造的には同じものである。重要なのは「私は遅れて世界に到着した」という名乗りを通じて「遅れ」という概念を人々のうちに刻み付け、それを内面化させることだったからである。
14世紀のヨーロッパで興ったルネッサンスは、ヨーロッパ文化の起源として、ギリシヤ・ヘレニズム文明を掲げていましたが、こうした文明の成果は、中世のカソリック教会の価値観が支配する中で、ほぼロスト・テクノロジーと化していました。
ユークリッド幾何学、ヒポクラテスの医学、アリストテレスの哲学などギリシア・ヘレニズム文明が、再びヨーロッパにもたらされたのは、11世紀の十字軍のイスラム文化国家への遠征(正確を期して書くとほぼ略奪)により、アラビア語に翻訳されていたギリシア・ヘレニズム時代の文献が流入した結果です。

いずれも、想像上の過去の理想郷を起点に、新たな思想や文化の体系を立ち上げたことが共通しています。

TWAの1960年代の先取りされた理想の未来像を引用しながら現在に召還する、過去に構想された輝かしい未来を現実化する、「遅れてきた未来」を現在に立ち上げるという作業は、歴史の経緯を眺めてみると、極めて人間的な行為に思えてきます。

長らく現実感に乏しかった、1960年代中頃に構想された、明るく、輝かしい未来像が、今になって召還されているのはなぜでしょう。
個人的には、インターネットから派生した技術や事業によって、楽観的な未来を思い描くことが可能になったからではないかと推測しています。
自動運転が普及して、ネットで車をシェアリングできれば、車を所有する必要がなく、その分、浮いたお金を余暇や趣味に費やせる。定型的な(でも、面倒な)作業は、クラウドのシステムに任せて、コアな業務に集中できる(会計業務とか、すでにそうなってますね)。AIの発達によって、人間にとって魅力的ではない、単純作業から解放されて、そうした分野の人手不足も解消する。ブロックチェーン技術の普及により、属人性や個性を反映した商取引が可能になる(地獄の沙汰も金次第という時代が終わる)。
他にもたくさんあるでしょうが、先端技術が人間を幸せにする存在として信じられる時代が、再び巡ってきた感があります。もちろん、いつの時代もあったように、新しい技術の副作用もあるでしょうけど。

話がずいぶん逸れました。アレキサンダー・ジラード風の生地を見つけたので、それで作ったワンピースを紹介するつもりだったんですが。
ただ、半年前から、ジラード風の生地をヤンゴンの市場でコツコツ集めていたのは、こうした時代の気分と共振していたからかもしれません。 

今回は初回なので、ジラードがキーカラーとしてよく使っていたオレンジ色を基調とした生地を使いました。




未来感を出すために、コクーン形のシルエットになるデザインを採用しています。
価格・サイズなどの詳しい情報は、YANGON CALLINGのサイトでご覧になれます。
https://www.ygncalling.com/shop

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2018年10月4日木曜日

【長文】ミャンマーで50年前に起こった革命と今起こっている革命について考えた

私はミャンマーの素材を使用して、ミャンマーで製造した服を、ミャンマーで販売しています。
縫製産業はミャンマーの製造業において、最大にして、唯一といってもよい輸出部門です。
ただし、多くはファースト・ファッション・ブランド向けの縫製請負業で、海外(主に中国)から輸入した素材を縫製して、完成した商品を消費地の欧米や日本に輸出するというビジネスモデルを取っています。
ミャンマーは、現地の低廉な労働力を提供しているに過ぎず、商品にミャンマー独自の布文化や、制作者の美意識などが反映される余地はありません。そもそも、それらの商品を製造しているミャンマーの地で消費されることすら想定されていません。
こうした地域文化と乖離した大量生産システムや経済活動への違和感が、ミャンマーの素材を使って、 ミャンマーで製造して、ミャンマーで販売するアパレル事業をはじめる契機のひとつとなっています。
私はデザイナーでもなく、デザインに関して独創的なビジョンがあるわけではないので、自分の足で市場を回って、魅力的な現地の素材を見つけたら、その素材に合いそうなデザインを当て嵌めることで商品を企画しています。
ここのところ、イメージのソースを得るため、ファッション史や文化史を調べていたところ、1960年代中頃から後半にかけての文化的な影響力の強さと、それが今なお継続していることに改めて気付かされました。

第二次世界大戦後、世界のファッションに大きな影響力を与えたのは、1960年代中頃から後半にかけて起こった、スィンギング・ロンドンあるいはスィンギング・シックスティーズと呼ばれた英国発のムーブメントでした。
この戦後ベビーブーマーを担い手とした文化革命は、その後、文化的なスタンダードとなる新たなアート・音楽・ファッションを生み出しました。特に音楽はこの文化運動において大きな位置を占め、ビートルズ、ローリング・ストーンズ、フー、キンクスといったバンドによる、今となっては準古典となったポップ音楽は、この時代に産み落とされました。
戦後生まれのベビーブーマー世代が消費を担う年齢に達したこと、戦後復興期であったための好景気、男性の兵役が免除されたことにより、若い世代が自由で享楽的なライフスタイルを謳歌することが可能となったことなどが重なり、この時代のロンドンは、ポップ音楽とファッションの発信地として世界に名を轟かせました。
ネットのない時代の極東の地日本にさえ、数年遅れで、このムーブメントに影響を受けたグループサウンズという音楽形態が現れています。

この時代に登場したファッションの特徴として、カラフルでポップな色使い、ミニスカート、タイトなAライン・ドレスがあげられます。
ムーブメントを代表するデザイナーの一人マリー・クワントのデザインした服を着たTwiggyJean Shrimptonが、当時のファッション界における文化的なイコンでした。
このムーブメントから派生した、モッド呼ばれたサブカルチャー・グループの音楽やファッションは、今なお周期的にリバイバル・ブームが英国でも日本でも起きています。
ムーブメントが起きてから、50年以上経った今でも、復元性と今日性を維持しているのは、われわれが現在日常的に触れている文化的創造物のフォーマットが、この時代に生み出された証左でしょう。

映画『ナック』や『さらば青春の光』で、この時代のファッション、音楽、雰囲気を映像として確認できます。



こうした文化背景を顧みて、マリー・クワントのロゴに似たミャンマーのロンジー生地を見つけたので、モッド的なタイトなAライン・ドレスを制作しました。





さて、流行の輸出基地となったロンドンから、ビートルズを先兵として多くのバンドが、大西洋を渡ってアメリカ市場のヒット・チャートを席巻することになりました。この現象は、「ブリティッシュ・インヴェーション(英国からの侵略)」と呼ばれました。

ビートルズが1964年にアメリカ上陸して以来、アメリカのポップ音楽の市場はビートルズと後に続く、ローリング・ストーンズ、キンクス、アニマルズといった英国のバンドに占領され、音楽的にも強い影響を受けました。

潮目が変わったのは「サマー・オブ・ラブ」と呼ばれた、1967年にサンフランシスコで起きた文化革命からです。
同年に、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョップリン、そしてドアーズのデビュー・アルバムが、それぞれリリースされています。後年から見ると、途方もないロックの当たり年だったことがわかります。
北米各地、ヨーロッパなどから10万人もの若者がヘイトアシュベリーを中心としたサンフランシスコに押し寄せ、ヒッピー・カルチャーを形成した1967年の運動は、「サマー・オブ・ラブ」と呼ばれました。
この現象は、1964年以来ユースカルチャーの分野で、イギリスから押されぱなしだったアメリカからの回答とも、反攻とも取れます。
このあたりを境に、ユースカルチャーの震源地は、ロンドンのキングス・ロードやカーナビ・ストリートから、サンフランシスコのヘイトアシュベリーに移行しはじめます。
単純に言い切ってしまうと、流行の主役がロンドンのモッドから、アメリカ西海岸のヒッピーへと移った時代とも言えます。日本で喩えると、アイヴィー・ファッションに身を固めた銀座のみゆき族から、新宿の風月堂にたむろするフーテンへの移行期と相似をなしています。

このムーブメントの支持した、ドアーズなどの米国のロックバンドの音楽は、先行する英国のバンドに比べて、よりヘヴィーで、ドラック・カルチャーの影響の強いものでした(そもそもドアーズのバンド名自体、オルダス・ハクスレーによる、幻覚剤によるサイケデリック体験の手記と考察の書『知覚の扉』(The doors of perception)から取られている)。
これらの音源を現在聴くと、時代的には数年古いはずのイギリスのビート・バンドより時代性を感じさせます。両者ともアメリカのブルースやリズム&ブルースなどの黒人音楽を母体としていたのは共通していますが、イギリスのバンドがそれらをポップとして解釈したことで、結果的に時代を越えた普遍性を獲得したのに対して、アメリカの場合、多くはLSDなどの薬物による幻覚体験などの、同時代の特定地域で共有された文化と経験を色濃く反映した表現だったからではないでしょうか。

この時代のファッションは、当時のヒッピー・カルチャーの影響を受けて、ゆったりとしたフォークロア調のものが目立ちます。
ヤンゴンのダウンタウンのマーケットで、フォークロア調のカラフルなテープを見つけたので、これとシャン州産のコットン合わせて、当時のヒッピーが着ていたフォークロア調のドレスを再現してみました。



FacebookグループのYangon Connectionに、このドレスを投稿したところ、コスプレ魂を刺戟されたのか、複数のヤンゴン在住外国人からの問い合わせが入りました。
問い合わせをしてきたのは、トルコ人やスウェーデン人のご婦人で、北米以外の人々にもこの時代のファッションや風俗が、文化的記憶として共有されていることは興味深いです。

当時は、ベトナム反戦運動が最も激しかった時期でもあり、音楽による革命で、愛と平和に満ちた未来が到来するという幻想が流布した時代でもありました。

こうした幻想は、肥大化したムーブメントが、ドラッグの過剰摂取による事故の多発や、カルト化したコミューンが極端に反社会化するなどの弊害を生みだしたことで、急速に剥がれ落ちていく結果となりました。
幻想を終焉させた象徴的な事件として、チャールズ・マンソンの主催するコミューン”ファミリー”を実行犯として起きた1969年8月9日、映画監督ロマン・ポランスキーの妻で当時妊娠8ヶ月だった女優のシャロン・テートら5人の無差別殺害や、1969年11月7日カリフォルニア州オルタモントの、ローリング・ストーンズ主催のフリーコンサートで黒人青年が会場警備をまかされていたヘルス・エンジェルスのメンバーにより殺害された事件『オルタモントの悲劇』が有名です。
2019年には、マンソン・ファミリーによる事件をモチーフとした映画『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』が公開予定になっています。この事件が、愛と平和による理想郷の実現という幻想の果ての悪夢として、事件から50年を経た現在も生々しい記憶として刻印されていることが窺えます。

60年代後半のサンフランシスコを拠点に活動した、黒人・白人の混成ファンクバンドで、愛と平和と人種統合の理想を高らかに歌い上げて、時代の寵児となったスライ&ザ・ファミリー・ストーンは、1971年に、潰えた理想を鎮魂するかのようなダウナーなアルバム『暴動(There's a Riot Goin' On)』をリリースします。


このアルバムは鬱ファンクの名盤として、ダウナーなブラック・ミュージックのマスタピースとなり、時代を経る毎にその評価を高めています。
80年代のプリンスの一連のアルバムも、2000年代以降のR&Bの方向性を決定付けたディアンジェロの『Voodoo』もこのアルバムなくして誕生しませんでした。


スライの"There's a Riot Goin' On(暴動は続いている)"のRiot(暴動)"を"Revolution(革命)"と置き換えると、その後の時代を予見したいのではないかと思わせます。
サマー・オブ・ラブやヒッピーカルチャーの終焉の後、元の学校や職場や故郷に戻ったことで、反権威的な精神や、魂の自由の探求という精神的な種子は、様々な地域、分野に蒔かれることになりました。

あなたが今このブログを読むために使っているパーソナル・コンピュータやスマートフォンも、この時代の精神が生んだ産物です。

パーソナル・コンピュータは、もともとIBMやAT&Tのような巨大企業が独占する情報を人民へ奪還するという、極めてカウンター・カルチャー的、反権威的な思想の元に生まれました。

こうした思想をベースに1975年にシリコンバレーで結成された初期のコンピュータを趣味とする人々の団体(ユーザーグループ)ホームブリュー・コンピュータ・クラブ(Homebrew Computer Club)には、元ヒッピーの青年スティーブ・ジョブズと、後にジョブズと共にアップルコンピュータを創業するスティーブ・ウォズニアックが参加していました。
アップルは、ジョブズ在籍時においては、"Power to the people"というスローガンや、クリエイティブで自由な精神を持つ個人のためのツールといった、ロック的な哲学、ヒッピー的な理想の実現を目指した企業です。これから先はどうなるかはわかりませんが。

"There's a Revolution Goin' On(革命は続いている)"の結果として、われわれはテクノロジーの恩恵を受けているわけですね。
話が長くなるので割愛しますが、インターネットもGNUやLinuxなどに代表される、アイディアやコードの共有という、ある意味ヒッピー的な共産的文化に基づいて発展した技術的産物です。そういえば、一時「IT革命」というフレーズがよく使われていました(20年くらい前?)。

革命は続いているものの、現在進行中の革命と約50年前に起きたサマー・オブ・ラブとは、革命の質が異なっていることを近年実感しています。
革命の質の変化に意識的になったのは、3年前に『ヒップな生活革命』を読んだときからです。


50年前の革命のテーマは、反戦、反資本主義、反帝国主義などの、既存の秩序やシステムへの反対運動でした。
現在起こっている革命は、 もっとソフトで洗練された形で進行しています。
『ヒップな生活革命』で紹介されている、ブルックリンやポートランドの新たな地産地消的な地域経済の担い手は、ことさら反グローバリゼーション的なスローガンを打ち出すのではなく、地域の文化や特性に根差した上で、グローバル企業が提供するそれよりも、より洗練され、質の高いサービスや商品を提供することで、顧客の支持を集めています。
あくなき効率性と収益性の追求の帰結として、環境や地域文化や地域経済を破壊するグローバル企業を、教条主義的に糾弾するのではなく、それとは別種の経済活動を自ら実践して、しかも提供するサービスや商品が、より魅力的であるため顧客に選択され、結果的に環境保護や地域経済、あるいは地域文化の保全に寄与するというあり様です。
地元で採れた食材で調理した人気の自然食レストランは、グローバル・チェーン店の出す料理より安全で美味しく、しかもインテリアが洗練されていて、居心地が良いから選ばれているわけで、必ずしも経営理念に共感しているからではありません(少しはそれもあるでしょうけど)。
つまり革命の質が、50年前のアンチ(既存のシステムへの反対)から、オルタナティブ(別の選択肢を提案する)へと変化しています。
近年、メディアで伝えられるようになった若者の地方回帰や帰農などに見られる、脱資本主義的な運動も同様のエートスに根差しているのでしょう。


私も成り行きで、ミャンマーで、現地の素材を使用して、現地で製造した服を、現地で販売していますが、微力ながら世界で同時多発的に興っているこうした運動の一員となれればと願っています。

最後に、もういちどスライに話を戻します。
今年の8月に、FM放送の特別番組として、作家の村上春樹氏がラジオでDJをした時に、スライの言葉が引用されていました。
「最後に僕の好きな言葉を。スライ・ストーンの言葉なんですけどね。『僕は音楽を作りたい。誰にでもわかる、バカにでもわかる音楽を。そうすればみんなバカじゃなくなるから』良い言葉ですよね」

これを自分のやっていることに当てはめると、こうなるのかな?
 「僕は服を作りたい。誰にでも着れる、ダサくても着れる服を。そうすればみんなダサくなくなるから」

うーん、ちょっと違うかも。
地域に根差したローカル・ビジネスをやりたいだけで、みんなが着れるようになるほど規模を拡大する気はないから。
ただ、「ダサい」の言葉の定義を、狭義の「ファッション・センスがない」ではなく、「自分の消費のあり方に無意識で、無関心」と広義に解釈すれば、成り立つかもしれません。

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2018年6月3日日曜日

ミャンマーの音楽シーンが雑誌『ポパイ』に紹介されていた

先日、日本に一時帰国した近所の友人に頼んで日本語の本を何冊か買ってきてもらいました。その中の一冊に雑誌『ポパイ』がありました。
最新号の特集が「ぼくの好きな音楽」で、どんな音楽が紹介されているか興味があったのでお願いした次第です。
『ポパイ』は5年くらい前に誌面をリニューアルしてから、特集号の情報密度が圧倒的に高くなったので、気になるトピックの特集であれば、出来るだけ読むようにしています。


この特集号では、世界各地のポップミュージックを取り巻く状況が紹介されています。たとえば隣国のタイでは、東北部のイーサン地方のモーラムという伝統音楽が、クラブ・ミュージックとして世界中のDJから注目を集めているそうです。世界各地のコレクターや研究者から音源が掘り尽くされたため、バンコクではめぼしい盤が入手できなくなり、地方の骨董屋などでデッドストックを探す状況になっているとか。

そういえば、去年バンコクへ一時出国した時も、70年代のタイ・ファンクを扱った中古レコード屋をトンローの裏通りで見つけました。90年代の日本のポップミュージックの傾向のひとつとして、渋谷系と呼ばれる一群のバンドやグループが勃興し、「ハッピーエンド」などの先駆的な和物のロックを再評価する運動がおきましたが、タイの文化状況も、この時期の日本と同様のポストモダン的な段階に入っているのではないかと推測します。




バンコク・トンローの中古レコード屋

ミャンマーでは未だ近代化の途上にあるので、自国の文化を土着性からいったん切り離し、世界各地の文化状況を俯瞰しつつ、自国の文化的エスニシティやオリジナリティを再定義するというポスモダン的な文化運動はまだ興っていません。
分かりやすい例をあげると、タイでは地場資本によるサードウェーヴ・コーヒー・ショップが定着しつつありますが、ミャンマーでは今年スターバックスの一号店ができるのが話題になっています。こうした文化環境は、在緬外国人からすると、いささか刺戟に欠けるのは否めません。

そんなわけで、サブカル的な文脈でミャンマーがメディアで紹介されることは、これまで皆無と言っていいほどなかったのですが、何とこの特集号ではミャンマーのパンクロックについて言及したコラムがありました。クラッシュの代表曲「ロンドン・コーリング」が、ミャンマーでは替え歌「ヤンゴン・コーリング」となって演奏されていることが紹介されています。
このブログのタイトルも元ネタが「ロンドン・コーリング」なので、誰でも考えそうなアイディアではありますが。4、5年前にドイツ人が撮ったミャンマーのパンクロック・カルチャーを追ったドキュメンタリー映画も『YANGON CALLING』というタイトルです。




ファッションやサブカルを扱う雑誌にミャンマーが登場したのは、おそらくこれが初めてであることを考えると、けっこう歴史的なことかもしれません。
ちなみにヤンゴンでは、「Side Effect」というクラッシュそっくりの音像のパンクロックバンドが活動しています。ヤンゴンのフランス文化センターでライブを観たことがあります。

ミャンマーで発行している日本語フリーペーパーも、日系企業の動向や日本食レストランの開店情報を追うばかりではなく、こうした草の根的に活動するユース・カルチャーもフォローすればいいのにと思います。 パンクロックやヒップホップなどのムーブメントが、ヤンゴンのアンダーグラウンドな場所を舞台に、現在進行形で盛り上がっています。
音楽に限らず、ミャンマーの現代文学や現代アートなどもカヴァーしている日本語メディアがないので、現地の同時代カルチャーの分野は狙い目ではないでしょうか?
ミャンマーにおける村上春樹の受容のされ方などは、きちんと調査すれば比較文化論として興味深いものになると思います。例えば村上春樹の作品に影響を受けたアメリカの若手作家は少なくありませんが、ミャンマーでも同様の文学的な傾向が生じているのかなどを知りたいです。

ミャンマー在住の日本人が、もっと現地の同時代カルチャー
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2016年11月7日月曜日

なぜ自分探しの若者はミャンマーを目指すのか?

最近、ミャンマーに海外から来る若い人が増えたなあと思います。サンチャウンでの定点観測に過ぎませんが、サンチャウン通りで若い外国人を見かけることが多くなりました。
そうした人たちの一人であるアジア系アメリカ人のティファニー・テンさんが、ミャンマーに来た経緯をブログに書いていたのを見つけました。彼女の人種的バックグラウンドについての記述も含めて、ミャンマーに来るに至った経験を面白く読んだのでご紹介します。
ミャンマーに来る日本人の若い人も増えているはずですが、今のところ日本人の若者が書いた、論旨が一貫した考察をまとめた文章を読んだことがありません。
彼女のように幼い頃から人種的な問題に遭遇して、自分のアイデンティティに自覚的にならざる得なかったケースと、学校や会社などの所属する組織でどういう種類の人間かをカテゴライズされることが多く、個人として自分が何者かを意識する機会が少ない日本人との違いかもしれません。

ミャンマーでアジア系アメリカ人でいること ティファニー・テン
中華鍋に当たった杓子がカチャカチャと音を立てて、脂っこい揚げ物が街角で作られている。サイドカーの付いた自転車が道を譲るようにベルを鳴らす。私はキュービクルの中の蛍光灯に囲まれたオフィス・スペースから飛び出して、野良犬とモンスーンが吹き荒れる土地へとやって来た。

ヤンゴンでは、私はだいたい欧米から来た外国人として見なされた。ヨーミンジー通りをWifiの使えるカフェに向かって歩いていると、別の外国人がEasy Cafeにやって来てアイスラテを頼んで、8時間も店に居座る。私はアメリカ、それともカナダ、フランス、中国から来たように見えるみたいだ。

ヤンゴンに住む外国人たちはみんな「どこから来たの?、どうしてここにいるの?、どれだけここにいるの?」と知りたがる。聞いてくる相手によって私の答えは変わってくる。「アメリカから」「ニューヨークから」もっと具体的に「ニュージャージーから」。そこは私が生まれた場所だし、本籍地には違いない。だけど、ここ数年の間そこを「故郷」だと感じたことがない。
「どうしてここにいるの?」
ミャンマーに住むことへの疑念は、私が一ヶ月前にヤンゴンに着いた途端に吹き飛んでしまった。三年間海外に移り住むことについて自問自答した末に、私はとうとう実行に移した。飛行機が着地した時に、胸が高鳴り、喜びがこみ上げて来た。とうとうミャンマーにやって来た。香港でも、上海でも、東京でもない。これは観光旅行ではない。私にとってのコンフォート・ゾーンの外で暮らすことなのだ。

そう、これがヤンゴンっ子に対する私のいつもの回答だ。
「ニューヨークから来たの! 会社で三年間働いたわ。それで、何か別の経験がしたくなった。大学院とフェローシップに応募した。コロンビア・ジャーナリスト・スクールとスクール・オブ・ヴィジュアルアートのイノベーション・プログラムに合格した。でも、ミャンマーに来たかった。それでここにいるの。フェローシップを得て、インヤー・レイクの職業訓練校で教えるの。最低一年間はいるつもりよ」

うわっ、何か恥ずかしい。野心満々で、自分の実績を並べ立てて、他人と違うところを見せようとしてる、典型的な自分探し中の20代半ばのゆとり世代みたい。7つもの「プロジェクト」を抱えているけど、本当の意味での目的も方向性も持ってない。でも、私は私のビジネスのバックグラウンドと、社会的インパクト(それと執筆や他の創作活動)に対する熱意を組み合わせて、最終的に漠然とそう呼んでいる「キャリア」として形成することを考えている。

ヤンゴンは暖かく私を迎え入れてくれた。それは私が心を開いて近づいていったからだろう。
自分への覚え書き:「ポジティブなマインドは、ポジティブな結果を生む」
私の好奇心は、今までで一番刺激的で、ファニーで、情熱的で、共感できる人たちに会わせてくれた。みんな何らかの理由を持って、ミャンマーに住んでいる。

パアンやバゴーのようなヤンゴンの外に出ると、アジア系アメリカ人は好奇心と同じくらい困惑に遭遇する。私はそれには馴れているはずだが、私のような外見の外国人に、いかに多くの人が馴れていないかに驚いてしまう。一見ミャンマー人かもしれない。でもすぐにいくつかのフレーズをつっかえて、「バーマ ザカ ネー ピョウ ダー(私は少しミャンマー語がしゃべれます)」と言うと、人種当てゲームが始まる。「日本?、韓国?」。私は中国人の血も少し入っているので、そう答えるのが一番正確かもしれない。ベトナム人?、フィリピン人?、それは私の特徴的な肌の色からの類推。彼らは私がどこから来たのか訊ねる。「ア・メ・リ・カ!」と私。その答えは、しばしば笑顔と握手を呼び起こす。別の機会では、答えてもまだよくわかってもらえずに、私がアジアの国から来たと思っていると言いたいけど、英語で言えないようだった。私が去った後も、謎はその場に残っていた。

私はこれまでの人生で、人種に関する問題とずっと付き合ってきた。一番最初の思い出は、幼稚園でクラスメイトが「何人?」と聞いたことだ。「アメリカ人」と私は答えた。小さい時に、ママがこれが正しい答えと教えてくれたからだ。目をくるくる回して、ため息の後に、次の質問が必然的に続く。「わかる。でもお父さんとお母さんはどこから来たの?」。知らなかった。両親はアジアの二つの違う国からやって来て、ニュージャージーで出会ったと、五歳のときにはどう説明していいのか知らなかった。パパはビルマで生まれたけど、ビルマ人ではない。私はこれをどう説明していいのか長い間わからなかった。

時は流れて大学時代。私は詩の入門クラスにいる唯一のアジア系の学生だった。Juda Bennett教授は私が授業に積極的に参加して、「大胆な選択」をすることで、私を可愛がってくれた。彼は中西部のヒッピー・コミューンで暮らしていた時代のことを話してくれた。ピース・コープに応募するよう私を励ましてくれた。彼は自分がそうしなかったことを後悔していた。「今となっては、私にはもう遅すぎるからね」
ニュージャージーみたいな保守的な州立大学にいても、私が外の世界に対する関心を失っていないとも言ってくれた。
オーケー、クール。でも、他人の人生を自分のものとして生きることはできない(こんな風に私はすぐに目の前の冒険を避けてしまう)。

私はニューヨークのロレアルで働きはじめた。楽しい時もあったけど、だいたいにおいてルーティンとやりがいの無さが辛かった。マダガスカルとペナンでのピース・コープへの応募に失敗した後、ウエストコーストとアジアに照準を据えた。私はアジア人の、あるいはアジア系アメリカ人の作家にハマった。Peter Hessler、Eddie Huang,、村上春樹、 Celese Ng。もしかして作家になれる?

アジアに来るまでずいぶん時間がかかった。ロレアルで働いた後、中国と日本とミャンマーをバックパッカーとして回った。帰国して、また働いた。アメリカで最も由緒あるブランドのブルックス・ブラザーズに入社した。ロレアルで働くよりもさらに嫌だった。たくさんのアジア地区のフェローシップ(フルブライトとか、シュワルツマンとか)とカリフォルニアでの仕事に応募した。両親は、私がニューヨークとニュージャージー近隣から離れることを認めなかった。私を子供のままにしておくため、より選択を困難にするため。でも、私の決心は変わらなかった。

そして今、私はここにいる。そして信じられないくらいハッピー。人種とジェンダーの問題には日常的に出くわす。そしてミャンマー人がこの問題にどう対処するかを目撃する。アメリカではこの問題にどう対処しているのかニュース記事を読む。私は変化を起こそうとしている。時間が自分にとって意味のある存在であるよう挑戦している。なんて時間は早く過ぎ去ってしまうのだろう。それは変化のめまぐるしいヤンゴンにふさわしいことかもしれない。そう私はここにいる。汚れた街路とやたらと蚊に刺される場所に。教えることと学ぶこと。ミャンマー語では、教えることも学ぶことも、同じひとつの言葉で表現する。そう、私は学んでいる。それだけは確かなことだ。

いかがでしたか?
私が彼女の投稿に興味を持ったのは、近年の文学への関心の世界的な潮流が、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェやジュノ・ディアスのような移住者や移民によるアメリカ文学に向かっていることに関連しています。チママンダ・ンゴズィ・アディーチェについては、ミャンマー文学との近接性をネタに以前ブログに書きました
ジュノ・ディアスの『オスカー・ワオの短く凄まじい人生 (新潮クレスト・ブックス)』は、ここ5、6年で読んだ中で一番面白い小説です。ガルシア・マルケスとカート・ヴォネガット.Jrが合体したような作風で、しかも重要なモチーフとして日本のオタクカルチャーまで登場します(主人公が日本のアニメや特撮のオタク)。



チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの作品ではアメリカ国内のナイジェリア人コミュニティの場面が出てきますし、ジュノ・ディアスの作品にもカリブ系移民のコミュニティがルーツのアイデンティティ確認の場として機能していることが読み取れます。彼女の場合、自分の民族的なバックグラウンドを共有するそうしたコミュニティを持たないので、アイデンティティの在処を見つけるのが、より困難なのではないかと想像しました。
さらっとしか書いてませんが、WASP的価値観や美学の総本山であるブルックス・ブラザーズでの仕事は楽しめなかったようです。何があったのかちょっと興味があります。
将来、過去の経験を相対化できるようになった時に、その時の経験を書いたのを読んでみたいです。今は、まだその時期ではないのでしょう。

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2015年8月27日木曜日

ミャンマーで『マッドマックス 怒りのデスロード』について考えた

先週末に近所のDVD屋で買った『マッドマックス 怒りのデス・ロード』を観て以来、毎晩のように、この映画を見返しています。
また、この映画についての感想や評価について検索してみると、夥しい数のWebに行き当ります。視点や評価のポイントも多種多様です。
趣味性の高いアート系映画の場合、世間ではマイノリティの見巧者(もしくは自らを見巧者と任ずる人)が書く衒学的な批評が、ネットに出回ることがありますが、この映画はそうしたタイプの映画ではありません。ビックバジェットのハリウッドの娯楽作品です。映画の構造はシンプルで、小難しいところは何もありません。
なぜ、この映画が趣味嗜好を越えた、多様かつ多くの人(自分も含めて)たちの心を揺さぶり、多義的な論議を起こしているのかを考えてみました。

自分が気がついたポイントを以下に列挙します。

ネタバレになりますので、ご了承ください。というか、あらすじの説明はしていないので、観ていないと、書いてることが分かりません。


1. 神話の変奏としての『マッドマックス 怒りのデスロード』

まず、『マッドマックス 怒りのロード』がこれだけ多くの人たちを引き付けて離さないのか、何が人をこの映画について語ることへと駆り立てるのかについて触れます。
それは、この映画が古典的な神話の変奏であり、人間の意識の奥底に沈んでいる記憶の古層を刺戟するからではないでしょうか。

映画のストーリーは、父王殺し、放逐された貴種の故郷への帰還、英雄の遠征からの凱旋といった、神話のフォーマットを忠実に踏襲しています。
また、主人公のマックスが前半の気狂いのような状態から、放浪を重ねる中で正気と人間性を取り戻していく過程は、『アーサー王と円卓の騎士 (福音館古典童話シリーズ (8)) 』に出てくる騎士のエピソードを思い出しました(読んだのが小学生の時だったので、記憶が定かでありません)。

実際に監督自身も、インタビューでストーリーが神話と通奏していることを認めています
皆が共鳴したのは、ジョゼフ・キャンベルの著作「千の顔を持つ英雄」に見られる古典的な英雄神話と通じるものがあったからだろう。

2. エクストリーム・アクション映画としての『マッドマックス 怒りのデスロード』

とてつもなく凶悪な面構えの改造車とか、お手製の原始的な武器とかのデザイン・造形が緻密かつリアルで、作中の世界観が見事に統一されています。
また、そうした精巧な大道具・小道具を惜しげもなく横転、炎上、爆発させます。
スタントで驚いたのは、車の後部に立てた、左右にしなるマスト状の棒の先端にぶら下がった敵の戦闘員が逆さまになって襲いかかって来るシーンです。
よくこのアイディアが実現できたな、スタントマン怖かったろうな、と思いました。
とにかくエクストリームで、一画面あたりの情報量の密度が異常と言えるほど高い。




3. 文明批評としての『マッドマックス 怒りのデスロード』

荒廃した世界の中で、貴重な水を独占することで、独裁者として君臨している王イモータン・ジョーが支配する砦は、様々なメタファーとして深読みすることが可能です。
たとえば、男性原理が支配し成員に過剰な束縛を強いる家父長制、または、少数の利権参加者のみが富を独占するグローバル資本主義、あるいは役職に代表される権威によって不合理が罷り通るヒエラルキー的なシステムの企業や役所など、人は砦に対して様々なメタファーを投影することができます。
実際、原始的な社会集団では、イモータン・ジョーの砦のシステムのように、王や酋長が女や財産を独占している形態も珍しくないので、社会的生物としての人間の存在そのものを問うているとも言えます。
アマゾンの熱帯雨林で暮らすインディオの探査旅行の体験を綴った文化人類学者レヴィ=ストロースの名著『悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス) 』でも、多くの部族が酋長が女や財産を独占するシステムを作り上げていることが記述されています。


4. フェミニズム映画、もしくはガーリー映画としての『マッドマックス 怒りのデスロード』

今回のマッドマックスが、普段はアクション映画に興味を示さないタイプ(私もそうです)の人々、とりわけ女性から、数多く語られているのは、この点が大きいと考えます。
砦の中で、産む機械として扱われている女性達(劇中ではワイヴス)が 、稀少財であるが故に享受できている特権的で、ある意味居心地の良い状態から逃れ、自由を求めて荒野の中に飛び込んで行きます。
監督はこのプロットが必然的に、フェミニズム的な視点を映画が内包することになったとインタビューで語っています

ただ、『「マッドマックス 怒りのデスロード」には中年のオバチャンが出てこない 』というブログを読んでから気になっているのは、女戦士フュリオサが救済を試みるのは、若く美しい女たち(ワイヴス)だけです。


そう言えば、冒頭で乳牛扱いされている中年女性のグループが出てきます。
飲料となる母乳を搾乳機で絞りとられている彼女たちも、十分に抑圧され、搾取されているだろうに、救済対象になっていない。


いろいろと理由を考えてみたのですが、 ワイヴスが逃亡した後の部屋のシーンで、積み上げた本やグランドピアノが映ります。劇中で書物が登場するのは、この場面だけです。
ワイヴスは、稀少財として特権的なポジションにいたため、自由意志を育む教育機会と教養を持ち合わせていたので、隷属的な状態から逃れることを選んだのではないかと。


ワイヴスたちの森ガール的(いまでも、この単語使われているのか?)なヒラヒラしたガーリーな存在感は、ソフィア・コッポラの『ヴァージン・スーサイド』を彷彿とさせます。『マッドマックス』と『ヴァージン・スーサイド』って、いままで内容も客層も対照的な映画だったはずですが、この『マッドマックス』最新作では、ヒャッハー!なテイストとガーリーな感性が、奇跡的なマリアージュを成就しています。
ワイヴスに、蒼井優や二階堂ふみとか入ってても違和感ないくらいに。


5. ミャンマー在住外国人としての『マッドマックス 怒りのデスロード』

上述の論点は、おそらく全部誰かが言ったり書いたりしていることでしょうから、ミャンマー在住者としての視点を加えてみます。
在ミャンマー日本人にとって、イモータン・ジョーの砦は何を指すのでしょう?
政府高官とクロニーが利益を独占する歪な経済体制?、出自による貧富の差が固定化した閉鎖的な社会システム?、客が日本人だけの日本食レストランで群れるミャンマー社会から隔絶した微温的な日本人村社会?
考えていますが、答えは出ていません。

独裁者を倒したフュリオサたちは、砦の麓に住み、イモータン・ジョーが時折、自分の権威を示すために水を与えていた襤褸を着た下層民を何人か砦に引き上げています。



こんなことして大丈夫なのでしょうか?
前例ができると、他の人々も砦に上がる権利があると考えるのではないでしょうか?
冒頭のシーンで見ると、下層民の群衆は数万人単位ですが、これだけの人口を養うだけの食料生産力や水の供給量が砦にあるのかは疑問です。

不合理な独占状態からの解放や貧困からの自由は、基本的に豊富な資源や生産力を背景として成立します。平等に分配するリソースが不足している場合、国家や権力者が強権的にリソースを分配しないと、混乱と紛争が多発する状態に陥いる可能性が高いです。そして多くの場合、イモータン・ジョーの組織や、かつてのミャンマーのように、権力者がリソースを独占する専制的なシステムが採用されます。
独裁制からの解放による民衆の祝祭的な気分が去った後、フュリオサは砦とそれを取り巻く下層民に対して、現実的な資源配分を実現できるのでしょうか?
フュリオサの姿が、アウンサンスーチ女史の姿に重なりました。

最後にマックスは、仲間と共に砦に入らずに、一人荒野の中に歩み出て行きます。
魅力的で優れた作品は、「これは私(俺)だけに宛てて作られた作品だ!」という誤解を受け手に与えます。
若きウェルテルの悩み (新潮文庫) 』を読んで、「ウェルテルは俺だ」と思った、当時のドイツの若者が、作中のウェルテルを真似て黄色のチョッキ着て、相次いで自殺したように。『風と共に去りぬ 第1巻 (新潮文庫) 』を読んで「スカーレットは私よ」と感じ、因習に縛られた南部の白人社会から出奔する南部女性が後を絶たなかったように(想像)。『ノルウェイの森 上 (講談社文庫) 』が、日本でベストセラーになった時は、ワタナベ君気取りのナルシスティックな男子が大量発生したように(事実)。
「マックスは俺だ」と映画から宛てられた啓示に(ちなみに主演のトム・ハーディーとは1ミクロンも似てません)、 どう応えれば良いのでしょう?
再び荒野の中に彷徨い出たマックスに、安住の地はあるのでしょうか?
まだ、答えは見つかっていません。
もしかすると、それを求めて毎晩DVDを観ているのかもしれません。

おまけ

この視点は自分にはなかった。マドッマックスは深い。
水耕栽培農家の視点から見る「マッドマックス 怒りのデス・ロード」


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