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2021年4月28日水曜日

そろそろミャンマーの革命の話をしよう(2)

前稿の続きです。
前稿では、今回起きたミャンマー国軍によるクーデターは、ミャンマーの政治経済システムに内在する力学が剥き出しの形で露呈しただけで、偶発的・突発的なものではないことを指摘しました。
本稿では、こうした政治経済システムの不安定性を内在する民族的な気質について深堀りしてみたいと考えます。

ここで援用するのが、人類学者エマニュエル・トッドの仮説です。
トッドは、各地域の家族制度が、自由主義・共産主義・社会主義といった イデオロギー(宗教もそこに含まれる)を特徴づけると論じました。
つまり、下部構造(家族制度)が上部構造(イデオロギー)を規定するという分析です。
トッドは家族構造の類型を「権威主義的家族」、「平等主義核家族」、「絶対核家族」、「外婚制共同体家族」、「内婚性共同体家族」、「非対称共同体家族」、「アノミー 的家族」の7つに分類しました。

上の7つの分類から4つを選んで、以下に説明します。
分析は、主に家族制度が平等か不平等か、親子関係が権威主義か平等かの二つの軸によってなされます。

たとえば、日本がカテゴライズされる「権威主義的家族」は、 子どものうち一人が跡取りとなり、全ての遺産を相続する家族制度です。こうした家族形態は、親子関係が権威主義的であり、兄弟関係が不平等主義的といった特徴を持ちます。戦前日本のイエ制度や、江戸時代以来続く、暖簾を守るといった家業に基づく長期的・継続的な商人道のあり方は、こうした家族制度に由来している可能性があります。

イングランド,オランダ,デ ンマークなどの北ヨーロッパが属する「絶対核家族」の家族構造は,子どもたちは独立していきますが,遺産の相続は親の遺言・信託によって決定されます。親 子関係は自由主義的であり、兄弟関係は平等への無関心によって特徴付けられます。資本主義が誕生した国家が属するカテゴリーですが、株式や契約等の証書を根拠とした社会システムは、こうした家族制度のあり方を、家族の外部(社会)に敷衍した結果という見方もできます。

「外婚制共同体家族」は、ロシア、中 国、ヴェトナム、旧ユーゴ地域等の共産主義化した国に見られる家族制度です。子どもは成人・結婚後も親と同居し続けるため,家族を持つ兄弟同士が、家父長の下に暮らす大きな家族形態を取ります。遺産は平等に 分配され,権威主義的な親子関係と平等主義的な兄弟関係となります。
このような家族制度を持つ地域・国家が共産主義化したことは、イデオロギー・社会システム(上部構造)という擬制(フィクション)は、家族制度という民族・地域に自然発生した、本来的・根源的な制度(下部構造)の上に立脚するというトッドの仮説を強く補強する事実です。

さて、ミャンマーは、タイ・カンボジア・ラオス・マレーシア・フィリピ ンなどの東南アジア諸地域が属する「アノミー的家族」に分類されています。この形態は、親子関係と兄弟関係 が共に不安定なため、人々は共同体主義と個人主義の間の緊張状態の中で生きることを強いられます。これは政情不安にも繋がり、トッドは、ポル・ポト率いるクメール=ルージュによるジェノサイドは、こうした緊張状態が現象化した事例として指摘しています。カンボジアは、対立野党の解体などフンセンによる事実上の独裁が現在も続いており、いまなお混乱した政情です。そして、タイでは、周期的に軍事クーデターが起きています。
トッドの説に従うなら、現在、起きているミャンマー国軍による弾圧もこうした家族制度に起因していることになります。
個人的に不思議なのは、タイで軍事クーデターが起きても、経済活動や為替への影響が極めて軽微なのに対し、ミャンマーでは毎回災厄レベルのダメージを被ることです。
タイにあってミャンマーにないものー交通・上下水道・電気等の社会的インフラと教育・医療等の制度資本ーの差が、軍事クーデターの社会に与える深刻さの軽重に繋がっているのではないかと推測していますが、明快な結論はまだ出せていません。
世界の成長エンジンとして期待されてきた東南アジア諸国ですが、文化人類学的な見地では、この地域には、社会の不安定性が構造的にビルトインされていることに、投資を考える際には意識的になるべきでしょう。

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2021年4月26日月曜日

そろそろミャンマーの革命の話をしよう(1)

2月1日に起こったミャンマー国軍のクーデターから約3ヶ月が経とうとしています。
随時、TwitterやFacebookで現地の状況を追っていますが、現場にいるわけでもないので、速報性のある情報や一次情報は伝えられません。タイムラインには、国軍に拷問されたり、虐殺された犠牲者の目を覆いたくなるような映像が流れてきていますが、ここでは転載しません。

現在のミャンマーで起こっている事象を、現地速報との差別化のため、もう少し長い射程で考えてみることにします。
ここ3ヶ月間考えていたのは、今回のクーデターは偶発的・突発的に起こったものではなく、むしろミャンマーの社会システムに内在する既存の力学が、剥き出しの形で顕在化したということです。

ミャンマーの政治経済は、ビルマ族を主体とする国軍により支配されてきたのは、周知の事実です。
国会の4分の1の議席に軍人議員の割り当て枠があり、内務省、国防省、国境省の主要3省の大臣の任命権は国軍司令官にあります。
経済についても、国家の主要な収入源であるガス・木材等の天然資源の権益・利権を握っているのはMEHL (Myanmar Economic Holding Limited) やMEC (Myanmar Economic Corporation) といった国軍系の企業群です。
国会議員の議席の割り当ても、国軍系企業による透明性の低い収益も、一部の軍の高官が独占しています。既得権益の受益者である国軍の高官は、民族的マジョリティであるビルマ族によって占められています。
つまり、ミャンマーという国家の政治経済の構造は、国軍のビルマ人高官の政治権力・経済的利益を最大化するように設計されています。
約10年前に、「アジア最後のフロンティア」としてミャンマーへの投資熱が高まった時期がありましたが、その頃のミャンマーに多数居た日系コンサルタントたちが、こうした社会構造の不安定性を説明していたとは思えません。

こうした政治経済システムの下で、昨年11月の国軍系政党のUSDP(連邦団結発展党)の大敗を受けて、これまで享受してきた利権や権益を失うことを怖れた軍の高官たちが、今回の武力による実力行使に踏み切ったことは、それほど驚くべきことではないのかもしれません。
彼らにとっての関心事は、国家の安定や発展ではなく、あくまで自分たちの利権や権益の維持・拡大だからです。彼らのような既得権益の受益者にとって、国軍は、自らの地位や利権を保全のために存在するもので、国防や国民の安全を図ることはおそらく視野に入れていません。
こうしたミャンマー国軍に内在する力学や理念(と呼べるかはさておき)を鑑みると、日本政府が持つとされていた国軍との独自の外交ルート(パイプ)が、今回の国軍による市民の弾圧の抑制・中止に無力であったことは納得できます。自らの権益の拡大に繋がるODA等の海外からの投資については話を聞く気になっても、利権の縮小を招く、民主化や社会の透明性の向上などを聞き入れる余地は、彼らにはないからです。彼らにとって、一般国民の安全や生命よりも、自らの利権の方がはるかに重要なので、人権の遵守を求める他国からの勧告を聞く耳は持ちません。国軍がODA等の日本からの投資について対話に応じていたのは、それが彼らの権益の拡大に資するからです。外国資本による投資の多くは、国軍系の企業を通して、軍の高官の懐へ流れ込んでいることは容易に想像がつきます。

これまで、国軍は天然資源の利権(とおそらく麻薬の原料となるケシの権益)を巡って、国境周辺の少数民族武装戦力と戦闘を繰り広げていました。国軍による弾圧で、最も規模が大きくなったロヒンギャ族への武力行使では、2017年7月の死者は6,000人、2019年時点での難民は91万人に達したと伝えられています。
こうした国軍による弾圧は、国境地帯の少数民族へ向けられていたため、これまで可視化されにくく、また、都市部に住む多くのミャンマー人、特にマジョリティであるビルマ人にとっては、遠くの場所で起きていることとして、大きな関心を集めることはありませんでした。
軍のクーデター以降、民主主義の回復を主張するデモ隊の市民に、国軍兵士が銃口を向け、活動家を拉致し、拷問にかけ、惨殺する事態となって、都市部の市民の多くは、国軍が一部の高官の利益を保全するための暴力装置であることを強く認識しはじめました。
SNSでは、「国境地帯の少数民族が武装している理由が初めてわかった」とか「いままで少数民族の武装組織をテロリストと思ってたけど、テロリストはミャンマー国軍の方だったんだ」といった投稿が、国軍による弾圧が強まり、死傷者が増加しはじめた時期に目立ちました。いまでは、ミャンマー国軍は、SNS上でテロリストと呼ばれるのが慣例化しています。1988年、軍事独裁体制に対する大規模な民主化運動(8888民主化運動)が起こった時は、軍の弾圧で数千人の民衆が犠牲となったと言われていますが、現在の民主化運動とSNSでの情報発信の主体となっているZ世代にはリアリティが薄かったようです。

これまで国境周辺の周縁部に居住する少数民族に向かっていた国軍による暴力が、いまでは都市部のマジョリティであるビルマ族へも及ぶ事態となりました。周縁に発動されていた暴力が、中心へと向かうことは、発動される方向性が変わっただけで、暴力を支える力学は変わっていません。
ただし、ミャンマーという国家の政治経済システムが、軍の高官の権力と利益の維持・拡大を目的とし、国軍という暴力装置がそれを下支えしているという構図が、今回の弾圧で誰の目にも明らかになりました。都市部の住民、とりわけZ世代のような若い世代にとって、これは初めてのことかもしもしれません。

国軍による正当性のない暴政に対抗する組織として、4月16日にNUG, National Unity Government(国民統一政府)が結成されました。
NUGのスポークスマンとして積極的に情報発信しているのは、チン族のDr. Sasaであり、副大統領にカチン族、首相にカレン族が任命されています。また、Dr. Sasaは前政権では不法移民として扱われていたロヒンギャ族をミャンマーの仲間と呼びかけました。SNS上でも、ビルマ族により、これまでの弾圧を謝罪する声が上がりはじめています。
NUGによる連邦軍の創設の構想に伴い、KIA, Kachin Independence Army(カチン独立軍)やKNU, Karen National Union(武装民族カレン国民連合)などの少数民族武装戦力との共闘・合流も取り沙汰されはじめています。

少数民族の自治権を保障する連邦国家の創立は、1947年に2月のバンロン協定により同意されましたが、同年7月のアウンサン将軍の暗殺により、実現されませんでした。
現在起こっている軍事独裁に対する抗議運動は、Spring Revolution(春の革命)と呼ばれています。革命と呼ばれるのは、この運動の目指す先が、クーデター前の政体に戻ることではなく、少数民族の自治権を認める、多民族による連邦国家の創設という、これまでにない新しい国体を構想しているからです。
これから先、国軍とNUGの対立がどのように展開するのか予想もつきませんが、今回は過去の弾圧とは異なり、民衆側に妥協する意思が感じられません。これまで通り、一部のビルマ人国軍高官による政治経済の支配体制が続けば、彼らの利権が脅かされるたびに、現在起きているよう国民への弾圧が起こり得るからです。国軍の蜂起は、1962年、1988年、2007年に続いて今回で4回目なので、国民も学習しています。一部のビルマ人高官の利権を支えるために存在している、既存のミャンマー国軍を解体しない限り、大多数のミャンマー国民にとって希望の持てる未来はありません。それゆえ、国軍の国民への弾圧は、日を追うごとに苛烈さを増していますが、国民を服従させる効果は薄そうです。
良いニュースとしては、国軍から離反者が現れつつあり、内部告発も始まっていることです。

ミャンマーがこうした不安定な社会にならざるを得ない社会学的な理由についての仮説も書くつもりでしたが、長くなったため、次稿にゆずります。

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2021年1月14日木曜日

50年前の世界から、これからの世界のあり方を考えた

おそらく今回は長い投稿になります。お時間ある時にお読みください。

年末年始に読んだ、今の日本でベストセラーになっている本を三冊読んで、これからの世界のありようを考えてみます。
ここにあげる三冊は、パンデミックが起きた現在でないとベストセラーになることはなかったでしょう。いやむしろ今の時期だからこそ、執筆されたというべきでしょうか。

まずは、佐久間由美子著『Weの市民革命』から。


本書は、「ギル・スコット・ヘロンの名曲『革命はテレビ中継されない』にかけて、『どうやら革命は中継されるらしい』書いたのは、ニューヨーク・タイムズ紙の黒人ジャーナリスト、チャールズ・ブロウだった」という一文から始まります。

The revolution will not be televised
The revolution will be no re-run, brothers
The revolution will be live. 
 
革命はテレビ中継されない
革命は再放送されないんだ、ブラザー
革命は目の前で起きている

この曲が収録されたアルバム、"Peaces of a man"がリリースされたのは1971年。ちょうど今から50年前です。当時と違い、個人のメディアを持つ現在の我々は、たとえテレビ中継されなくとも、SNSを使って情報発信ができます。

The revolution must be SNSnized


ニューヨーク在住の著者による現地を中心とする本書では、ミレニアム世代とそれに続くより「コラボレーションや団結に興味がある」Z世代の消費性向から、企業文化の変更を迫られている現状が報告されています。この二つの世代は、高い購買力と発信力を持つため、無視できない消費層だそうです。
従来の株主利益を最大化を目指すのが正しいという企業像から、「株主へ利益を還元することよりも、『社会全体の利益』を優先する企業形態が登場し、社会や地域全体を自分のコミュニティーとみなし、それを守るための経済活動にコミットする企業が増えてきた」と言います。興味深いのが、ジェントリフィケーションー「もともと荒れていたり裕福でなかったりする地域に白人を中心としたアーティストやクリエイティブ層が流入し、それがきっかけとなって商業が栄え、結果として家賃が上がり、それ以前から存続するコミュニティが圧迫される循環的現象」ーにより家賃を払って営業することが難しくなった地域で、ライブハウス、ラジオ局、ギャラリーやワークショップを開催する機能を兼ねた複合施設などが、非営利団体として運営されている事例です。政府や企業から独立した文化施設が地域の公共財として設立され、地域の人々により運営されるという現象が一般化するかどうかは分かりませんが、あり方として新しいと感じました。
コロナ禍によってサプライチェーンが分断されことで、現在のシステムの脆弱性と、我々の消費が、途上国の労働者と生産システムによって支えられていたことが露わになった今、エシカルであることサスティナブルであることの意味を、様々な個人や企業の実践例を通して考えさせられます。 

5年前、同じ著者による本『ヒップな生活革命』を手掛かりに、日本でミャンマーを考えた 〜「ヒップな生活革命」という記事を投稿したことがありました。

次は、斎藤幸平著『人新生の「資本論」』です。

本書では、かなり過激な主張がされています。
「SDGsは大衆のアヘンである!」と断じ、資本主義というシステムにビルトインされている富の増殖=成長そのものを手放さないと、もはや地球が生物が住める環境ではなくなることを様々なデータをあげて例証しています。
そして、資本主義の後を継ぐべき社会システムとして、「脱成長コミュニズム」が提唱されています。
コモンー「社会的に人々に共有され、管理されるべき富」、自然、電力・上下水道などのインフラ、教育・医療・法律などの社会システムーを市民の手に取り戻し、自主管理することで、すべてのモノが商品化される以前の世界に存在した「ラディカルな潤沢さ」を取り戻し、真の意味での自由な世界を構築する。たとえば、水はコモンを通じて無料で手に入るものでしたが、水源を資本に囲い込まれ、ミネラルウォーターという形で、貨幣を介して購入するモノへと商品化されました。こうした資本によりコモンが貨幣・商品関係に置き換えられた社会システムを、労働者が生産システムを取り戻し、放埒な消費を自制し、真の意味での精神的な自由な共同体を作り上げる。
実例として、自動車産業の衰退により荒廃したデトロイトが、都市型の有機農業により、地域コミュニティと緑が再生したこと、脱成長的なマニュフェストを掲げ、飛行機の近距離線を廃止し、市街地での自動車の速度制限を時速30キロに定め、水道や電力等のコモンの運営を市民参加型のシステムに変更したバルセロナなどがあげられています。
正直、実現可能性はどうだろう?と感じます。
自己増殖を内在化する資本主義が、無限の成長を目指すことで、富の偏在や環境問題を引き起こしていることは事実ですが、我々の生活が資本主義の果実を享受していることによって成立している事実も否定できません。
現に、今このブログ書くために使っているコンピュータは、元々、第二次世界大戦時に弾道計算のために開発された機械ですし、インターネットは核攻撃を受けた時に機能する分散型の通信システムとして冷戦時に開発された、いうなれば帝国主義的なシステムから産み出された産物です。
先進国に住む人間が、こうした技術に依って暮らしている原罪性から逃れることはできないし、その疚しさをどう引き受けるのかは、もっと論じられてもよいのではないかと感じます。
また、SDGsの欺瞞性を説きながら、紹介されている「脱成長コミュニズム」が実践されている場所の多くが、デトロイトやコペンハーゲンといった先進国の都市であるのも説得力にやや欠けます。
実際、ミャンマーには市場原理とは縁の薄い、村落共同体が数多く残っていますが、そこに「ラディカルな潤沢さ」が存在するかといえば、かなり疑問です。
最低限のインフラや教育といった社会共通資本が存在しなければ、「ラディカルな潤沢さ」は実現不能だからです。途上国へ最低限の社会共通資本を構築するためには、先進国から途上国への何らかの所得移転が必要になるかと思いますが、それについては詳しく論じられていません。
腑に落ちない部分もいろいろとありますが、資本主義の後に続く社会像を提示したという点で新しいし、こうした本が書店に平積みされて、数多くの読者を得ていることにも時代の変わり目であることを実感させます。

最後に、山口周著『ビジネスの未来――エコノミーにヒューマニティを取り戻す』です。


本書の前提は、先進国において、「物質的な生活基盤の整備という、人類が長らく抱えてきた課題」が解消された現在、「不可避なゼロ成長への収斂の最中にある」という認識です。
著者は、この社会の状態を「高原社会」と呼んでいます。
物質的な生活基盤を整備して、成長の余地がなくなったことは、達成であり、低成長は成熟の証であり、こうした状態に達したことを我々は言祝ぐべきだという視点から本書は論を進めます。
高原社会においては、経済合理性限界曲線の内側の課題、すなわち解決して利益の上がる問題は、ほぼ残されていないという事実に突き当たります。
残されているのは、「問題解決のハードルが高過ぎて投資が回収できない」か「問題解決によって得られるリターンが小さ過ぎて投資を回収できない」問題のみです。市場とは「利益が出る限り何でも行うが、利益が出ない限り何も行わない」システムなので、市場原理的な価値観では、この問題は放置されたままとなります。
人が経済合理性限界曲線の外側にある問題を解決するためには、二つの前提が必要となります。
一つは経済的に困窮しないこと、何しろやっても儲からない問題に取り組むのですから、生活が破綻しない裏付けないとやっていけません。困窮しても、なおかつチャレンジする鉄の意思の持ち主もたまに見かけますが、希少性の高い人材のみに解決を頼るのは現実的ではありません。
もう一つは、活動が経済合理性を超えた「人間性に根ざした衝動」に基づいていること。活動それ自体が精神的な報酬になる、内発的な動機に基づいていることです。
前者の経済的な裏付けとして、著者はユニバーサル・ベーシックインカムを提唱しています。
高原社会での労働は、労働それ自体が「愉悦となって回収される社会」になると著者は予想しています。
それは、以下の二つの活動として、集約されます。

  1. 社会的問題の解決(ソーシャルイノベーション実現)
    :経済合理性限界曲線の外側にある問題を解く
  2. 文化的価値の創出(カルチュアルクリエーションの実践)
    :高原社会を「生きるに値する社会」にするモノ・コトを生み出す

これは、個人的に腹落ちする結論です。
ミャンマーにおいて解決すべきなのは、1の「問題解決によって得られるリターンが小さ過ぎて投資を回収できない」問題だからです。具体的には、電力・上下水道などのインフラ、医療・法律・教育などの制度資本の確立です。こうした社会共通資本の基盤がないと、利益を目的としたビジネスは行えません。そして、こうした問題は、経済合理性で推し測ることができない分野です。原理的に万人に遍く広く行き渡るべきコモン=公共財だからです。
今まで「お金儲けが目的なら、ミャンマーに来ない方がいい」と言って、さんざん在住者や視察に来た人々の座を白けさせてきましたが、ようやく自分の中で理論化できました。
著者は、「『システムをどのように変えるか』という問いではなく、『私たち自身の思考・行動の様式をどのように変えるのか』と問」うべきだと主張します。
その問いによって、「資本主義をハックする」という行先が示されています。
成長という神話の終焉を前提としているという点では共通するものの、社会システムの変更を主張する前掲書とは立場を異にしています。

冒頭に紹介したギル・スコット・ヘロンの"Peaces of a man"がリリースされた同年の1971年に、マーヴィン・ゲイは、ポップ史上最も重要で影響力のあるアルバム、"What's going on"をリリースしました。ベトナム戦争や環境問題を取り上げたメッセージ性の高い歌詞とコーラスとストリングスを重ねた多層的で洗練されたサウンド・デザインは、後のポップミュージックへ多大な影響を与えました。
【Wikipediaより引用:アルバムは『ローリング・ストーンの選ぶオールタイム・ベストアルバム500』(2020年版:大規模なアンケートによる選出)では1位にランクされている。また、2013年に『エンターテインメント・ウィークリー』誌が選出した『史上最も偉大なアルバム100』では13位となった。】



Picket lines and picket signs
Don't punish me with brutality
Talk to me, so you can see
What's going on

デモ行進そしてプラカード
荒っぽいやり方はごめんだよ
話しておくれよ、そうすれば分かり合えるよ
いったい何が起きてるんだ

また、本年1月4日付の日本経済新聞朝刊に、50年前の同日に同紙に掲載された、経済学者、宇沢弘文の寄稿についての記事が掲載されていました。

宇沢経済学のメッセージ 「社会の幸福」、再考の時

個人がそれぞれの利益を追い求める結果、市場を通じて資源の配分が最も効率的に行われる――。当時の主流経済学に対する懐疑だった。

経済学者は〈目的の正しさ=倫理〉を語る資格はないのか。公平や平等という価値をどのように経済分析に取り込めるのか。困難な道筋だが、避けて通ることはできない、と真摯に語った。

従来の主流派経済学(新古典派経済学)では、自然や第三世界を外部化しています。それゆえ、環境破壊や途上国の搾取といった問題が引き起こされる一因となりました。
ベトナム戦争の遂行に経済学の概念が利用されたことや企業の利潤追求の結果として水俣病などの公害が引き起こされたことが、宇沢先生の理論に大きな影響を与えたことは、2019年に出版された大部の評伝に詳しく書かれています。
そうした問題意識は、社会共通資本ー自然環境(大気、森林、河川、土壌など)、社会的インフラストラクチャー(道路、交通機関、上下水道、電力・ガスなど)、制度資本(教育、医療、司法、金融など)ーの概念として結実します。
宇沢先生は、社会共通資本を経済合理性の外側に置くべきであり、市場原理に委ねるべきではないと論じました。

今から50年前にマーヴィン ・ゲイが問いかけ、宇沢弘文が提起した問題に我々は答えるべき時期に差し掛かっています。

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2020年12月2日水曜日

ミャンマーのゴスガールにワンピースを着てもらった

おそらく一年くらい前に、インフルエンサーになってもらいたいミャンマー人の女の子に商品を渡していました。
彼女はメイクアップ・アーティストで、ミャンマーではメジャーな映画やCMの仕事を手がけています。ミャンマー人では珍しいゴス系の子で、視覚的なインパクトも強いので、商品を着てもらったらどうかなと思い、イベントで会った時に似合いそうなワンピースを選んで渡していました。




鼻ピアスをして、バリバリにタトゥーが入った、一見威圧的な見かけの子ですが、中の人はミャンマー人らしい朗らかな子でした。
時間が経って、そろそろ忘れかけていたのですが、昨日になって着用写真を送ってくれました。


 

遠景過ぎて、服のディテールが分かりにくいですが、着用商品はこれです。
チェックのメンズ用のロンジー生地で作りました。




日本でバイト生活をはじめて半年以上経つと、ミャンマーで自分が何をやっていたのか、そもそもミャンマーに住んでいたことさえ定かでなくなってきましたが、久しぶりに思い出しました。
現状、いつになったらミャンマーに戻れるのか、戻ったところで経済活動ができるのかもわかりません。
とりあえず、バイト生活しながら気長に様子見するつもりです。
ブランドのコンセプトを変えようと思っていたところなので、リセットするのに良い機会だったと思うことにしています。

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2020年8月8日土曜日

東南アジア的な視点から、北九州市の活性化について考えた(3)

ここで近隣の九州では最大の都市、福岡市と北九州市の関係について考えたいと思います。
日本が工業国であった1960年代までは、北九州市の方が圧倒的に大都市でした。
最初の投稿でも書いたように、1950年代の朝鮮戦争の時、アメリカ人将校が遊びに来る街は博多ではなく小倉でした。
その後、平地や河川に乏しいため工業地帯になれなかった福岡市が、1970年以降に起こった日本の産業構造の変化に対応して、サービス業と商業施設の集積に特化したことが功を奏し、両者の地位が逆転します。 両市の人口推移を比較すると、1979年に人口が逆転して以来、清々しいくらいくらいの差が開いています。しかも40年前に始まった、北九州のダウントレンドと福岡市のアップトレンドは、今をもって継続中です。


日本全体で11年連続人口が減少し、ほとんどの自治体の人口減が続く中で、人口が増加し続けている数少ない地方都市として、近年、福岡市は注目を集めています。日本における数少ない成長都市として、福岡に関する書籍も増えてきています。





世界的にも認知度が高まり、イギリスのライフスタイル・マガジン『MONOCLE』では、定点観測する日本の都市として、東京、京都と並び福岡が選ばれています。同誌では2008年に、福岡が世界で最も買い物がしやすい街として選出されています。
ちなみに、2019年福岡市における外国人入国者数は269.5万人に対して北九州市は69.1万人でした。

北九州市と福岡市の関係は、ミャンマーのヤンゴンとタイのバンコクとの関係に似てなくともないです。
ヤンゴンも1980年くらいまでは、バンコクを凌ぐ都会だったと言われています。バンコクの駐在員が、休日はヤンゴンまで日常品の買い出しに訪れていたという、今となっては信じられない話も伝えられています。バンコクが商業施設の集積の集積によって都市としての魅力を高め、多くの観光客や居住者を海外から引き付けているところも福岡と似ています。
雑誌『BRUTUS』がバンコクや福岡の特集を組むのは、両市にグルメやショッピングといった消費の楽しみが都市の中にあるからでしょう。



北九州も福岡に劣らず、食べ物は美味しい(しかも福岡よりも1、2割安い)ですが、ショッピングはちょと厳しい。北九州の若者は高校生くらいになると、高速バスの回数券(JRより運賃が安い)で、福岡までショッピングに出かけるようです。 この辺りも、お金を持ったヤンゴンの若者は、バンコクで買い物するところに似ています。北九州もヤンゴンも消費する都市としての煌びやかさに欠けるところも共通しています。北九州の大型の商業施設では、テナントが埋っていないため閑散とした印象を与えます。
これだけ差が開いた今では、商業施設の集積で福岡市と競争する意味はないため、北部九州の都市として棲み分けを図るべきでしょう。
そもそも、地勢上工業地帯が作れなかったため、サービス産業を中心とする商業地域として発展したきた福岡市と、重工業を中心とする製造業で過去に繁栄した北九州市では歴史的な経緯が異なります。北九州市は、生産地であったことが都市の成り立ちに大きな影響を与えています。
そこで基本に立ち戻り、北九州市を生産者にとって魅力的な街として再生してはどうかという提案です。
といっても大きな工場を誘致しようとか、そういう話ではありません(そういう活動は、すでにやっているでしょうし)。
シェアアトリエpopolato3comichiかわらぐちといった遊休不動産をリノベーションして、地場のクリエイターや独立自営業者に提供する試みを拡大して、東南アジア地域からもテナントを誘致してはどうかという提案です。

前の投稿にも書きましたが、生産年齢人口が減少が続く地方で、個性的で魅力的なテナント候補となるクリエイターや個人事業主を次々と見つけるのは、簡単なことではないと推測します。そしてプレイヤーの層が薄いため、魅力的なテナントが去った後に、同じレベルのテナントで埋めるのは難しい。ならば、生産年齢人口が日本に比べて多く、経済成長が続く東南アジアから人材を呼び込めれば、魅力的な場作りを通じて、街の再生へと繋がるのではないでしょうか。

たとえば、タイのバンコクには、チャトチャック・ウィークエンドマーケットのような、テント形式のテナントが1万5000店舗を超える巨大な市場があります。出店者のすべてが自社ブランドの商品を販売しているわけではありませんが(おそらく10%弱がオリジナル・ブランド)、ここを出発点として、成長ステージ毎に売り場をグレードの高い商業施設へと出店・移転してゆくブランドも散見します。創業時は、チャトチャック・ウィークエンドマーケットのみの出店だったのが、認知度が上がりと売り上げが伸びると、ターミナル21やサイアム・センターなどの中心街のショッピングモールにも出店する。プレイヤーの層が厚いため、仮に成長したブランドが去った後も、別のブランドが後を埋めて、売り場の新鮮さを保っています。外国人旅行者のみならずタイ人の買い物客も多いのは、商品やブランドの入れ替わりが適時あるからでしょう。


 チャトチャック・ウィークエンドマーケットの独立系ブランドが並ぶ一角

インキュベーションを目的として作られたわけではない雑多な商業施設が、独立自営業者やスモールビジネスの登竜門として機能しているのは興味深いです。
たしかに東南アジアらしい怪しげなコピー商品も多いのですが、独立系ブランドの商品のクオリティは、日本の地方物産展などで展示されている商品よりもデザインが洗練されていたりします。
普段はミャンマー在住で、約2ヶ月毎にビザランでバンコクへ行くため、5年以上定点観測していますが、ここ4、5年の間に、クオリティの高い独立系ブランドが増えているのを実感します。
バンコクには他にも同規模の巨大なナイトマーケットが5つくらいあります。これは外国人旅行者を含めた巨大な消費者層がいることはもちろん、売り場を埋めるだけのプレイヤーが存在するから成立しています。
規模はずっと小さくなりますが、ミャンマーにもThe Makers Marketという地場の素材を使用した独立系ブランドの展示即売会が月に一度開催されています。


 ミャンマーのローカルメイドの物産展のThe Makers Market

現在、北九州では、遊休不動産をリノベーションして、地場のクリエイターや独立自営業者に提供する地域活性化策が地元の有志によってなされていますが、これを地理的に近く、プレイヤーの層が厚い東南アジアからクオリティの高い独立系ブランドにも開放すれば、より魅力的で集客力のある空間になりそうです。
福岡市の福岡アジア美術館内にロンファという東南アジアのグッズを販売しているセレクトショップがありますが、こちらが平場でそれぞれの国の物産を販売しているに対して、ブランド毎にブースを区切って、ブランドの世界観を見せる施設とすれば差別化できるのではないでしょうか。

実現させるには、通関や検疫などの問題をクリアする必要もあるし、仮に外国人が居住してビジネスをするとなると在留資格をどうするかなどの問題も生じるでしょうけど。経済特区として例外措置を認めるなどの、行政の協力も必要になるかもしれません。

それ以前に、頼んでも来てくれるかどうか不明です。タイのイベント・オーガナイザーや独立系ブランドのオーナーは、富裕層が趣味でやっている場合も多いです。タイ人富裕層は、大方の日本人よりも遥かにゴージャスで洗練されたライフスタイルを送っています。ヨーロッパの高級ホテルを泊まり歩いたり、東京に来た時はヨウジヤマモトとコムデギャルソンをまとめ買いしたり、九州で温泉巡りする時は車をチャーターして各地の高級旅館に泊まりながら九州を横断したりと、今の日本人の多くができないような(私を含む)ラグジュアリーなライフスタイルを謳歌しています。地味な日本の地方都市に、彼らが進出する魅力を感じるかどうかは分かりません。とりあえず人が来るかどうかは別として、商品だけを置かせてもらえるように交渉するのが現実的かもしれません。

望みがあるとすれば、タイではビームスやユナイテッドアローズなどのセレクトショップが若者に人気なことです。海外のスタイルを日本的にアレンジする、日本人の編集力が評価されています。逆に言うと、ビームスやユナイテッドアローズも知らないようだと相手にされません。タイに住んで長い日本人の方が、昔は自分が日本人ということで、日本の情報を聞いていてくれたが、今の若いタイ人からまったく相手にされないとこぼしていたのはこうした事情によります。


タイで出版された九州のガイドブック
西新の裏道にあるパン屋から大名のマンションの一室に構えたセレクトショップなど内容が異様にマニアック
おそらく福岡在住タイ人による取材

北九州エリアは、人口が減少し続けているため、中心地にも遊休不動産があるという福岡にはない環境を強みに変えてはどうでしょうか。
現在の北九州で起こっているリノベーションによる街の再生プロジェクトのテナントとして、東南アジアから広義の生産者(独立系ブランドのオーナー)加われば、多様性の広がりとクオリティの向上によって、より魅力的で集客力のある空間になりそうです。
検疫、通関、在留資格等の法律的な問題と共に、こうしたプロジェクトに理解のある物件オーナーを見つけるのもそう簡単ではないかもしれませんが。

タイとミャンマーなら日本に持って来ても競争力のある独立系ブランドをいくつか知ってますので、ご関心のある方はお声がけください。おそらくベトナムにもありそうですが、ベトナムの事情は知りません。
東南アジアからから生産者が集まる集積地となれば、もしかしたら今の北九州に広がる広大な工場跡地の使い道も見つかるかもしれません。東南アジア諸国の独立系ブランドの小規模な工場が、製鉄所の工場跡地に並んでいる未来の光景を想像したら楽しくなりませんか。

東南アジアと北九州市が連携したら、面白そうだなと思ったらクリック!
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2020年7月11日土曜日

ただいま日本でバイト中~昭和の仕事はゆるかった?

6月に引き続き日本の某地方都市で、特別定額給付金のデータ入力のアルバイトをしています。
当初は、8月までこの仕事がある予定でしたが、入力作業が予想より早く終わって、7月末で業務がなくなりました。
大量のアルバイトを雇って、一日10時間投入作業に従事させて、さらに途中から追加の人員まで補充していたので、請負会社の予想より1ヶ月以上前倒しで、ほぼデータ入力が完了しました。当初の契約通りの日数を出勤していますが、先週から作業時間より待機時間の方が長くなりました。一か月前に、肩こりと眼痛と戦いながら、長時間ぶっ通しでPC入力作業に従事していたのが遠い過去のように思われます。

ひたすら入力作業をしていた時期につらつら考えていたのは、「そういえばこうした仕事も昔は正社員がやってたな」ということです。私が公社系の電話会社に新入社員として入った頃、アルバイト先の仮設オフィスで行われているデータ入力作業もコールセンター業務も正社員の仕事でした。
今では、派遣会社と契約したアルバイトが同じ作業をしています。
アルバイトを統括するグループリーダーもどうやらアルバイトです。バイト長みたいなものですね。

昔の会社員は、今ではアルバイトがしている作業に従事して、それほど豊かではないものの、家のローンや子供の教育費を何とか賄えるだけの賃金を貰ってたことを考えると隔世の感があります。
もちろん、コールセンターなどの部署を束ねる管理者も、正社員の課長でした。

これだけを見ると、昔はゆるい仕事で生計が楽に立てられたように見えます。
タイムリーに、以下のようなニュースがありました。

「昭和時代にサラリーマンをやりたかった」という投稿に反発相次ぐ 「普通に働いていればそれでよかった」というのは本当なのか

しかし、必ずしも「昔はゆるくて良かった」と言い切れるものでもありません。
上のニュースにもありましたが、全員正社員・終身雇用が前提だと、とにかく組織の同調圧力や村社会ぷりが激しく、風通しの悪いことこの上ないというのが、当時の実感です。
社内の飲み会は強制参加、結婚式の仲人は直属の上司、特に仲が良くなくても同じ部署の社員の結婚式には出席、管理職の引っ越し作業に休日返上で参加、長くその部署に居る人間が牢名主化していてうかつに逆らえない等々、もはや会社は仕事する場というより一種の村社会的な共同体でした。
仕事とは直接関係ないのに、これらの不文律を破ると、仕事や人事評価に影響するという極めて透明性の低い場所でもありました。
バイトでもできる作業の管理に正社員の課長を据えていたのも、昔は労働組合がやたらと強く、現場の管理職に解決不能な無理難題を要求したり、組合員による鬱憤晴らしの突き上げなどが頻繁していたからという面があります。
事務能力の有無よりも、理不尽な罵詈雑言に耐える我慢強さがのある中年男性が、こうした部署の中間管理職として選ばれ、上層部へ組合員の突き上げが波及する防波堤となっていました。
私が入社する前は、一部の組合員が調子に乗って、中間管理職に暴言を吐いたりすることもよくあったと聞きました。

90年代に入ってから、業務や作業の内容による賃金の国際標準化が進み、単なる作業従事者が非正規雇用者に取って代わられ、生計のための十分な賃金を得ることは難しい時代になりました。
地域コミュニティの破壊とか、環境負荷の増大とか、あくなき利潤追求のため安全性の棄損とか、いまや諸悪の根源とされるグローバル資本主義ですが、単なる作業しかしていない人間が夜郎自大に威張り散らすという状況がなくなったのは、グローバル資本主義の正の側面だと個人的には考えています。こうした国際標準化の圧力にさらされているのが、現業の従事者だけで、経営層に及んでないことは大きな問題ですが。

では、今の方が良いかというとこれも微妙です。
最近、ナイキの創業者フィル・ナイトの回顧録『SHOE DOG(シュードッグ) 』を読んだのですが、ナイキがアメリカの銀行から取引を中止されて、1975年に会社が潰れかけた時に、資金を提供して会社を救ったのは、日本の商社日商岩井の駐在員でした。

当時のナイキの取引銀行バンク・オブ・カリフォルニアに、日商岩井の駐在員 伊藤氏が、創業者フィル・ナイトと共に訪れた部分を引用します。
イトーはあごを撫でながら自分で切り出そうとした。彼は直ちに本題に入った。忌々しい本題に。彼はホランドしか相手にしていなかったが、「みなさん」と前置きした。「私の理解では、ブルーリボン(註:ナイキの前身)との取引を今後は中止とするようですが」
ホランドはうなずいた。「そのとおりです。ミスター・イトー」
「それならば、日商岩井がブルーリボンの借金を返済します。全額」
ホランドが目を凝らした。「全額……?」
イトーは低く、声にならない声で返事をした。私はホランドをにらみつけた。私は、これが日本人だと言ってやりたかった。言葉を詰まらせながらでも。(同書 P386-P387)

これは銀行の横暴を見かねた伊藤氏の義侠心(とナイキの将来性を信じた)から出た判断で、上層部の許可を得ていない独断でした。後日談として、伊藤氏はこの独断によって、本社から一度は解雇と帰国命令を発令されています。


ちなみにナイキのポートランド本社には、この故事を感謝して、日本庭園 日商岩井ガーデンが敷地の中心部に造園されています。
昭和の時代は伊藤氏のように、馘首されるリスク取ってまで挑戦するサラリーマンがいたのには驚かされます。今のサラリーマンは汲々として、自己利益と自己保身しか考えられない小役人タイプが跋扈しているので。
日本経済全体が右肩上がりだった時期と、人口が減って縮小しつつある現在との環境の違いもありますが。
ただ、日本からこうした義侠心に富んだり、リスクテイクできる人間が完全に払底されたわけではなく、職業選択の幅が広がって、そうしたタイプの人間はサラリーマンを職業として選ばなくなったという要因も大きいです。起業や独立自営業なども、ネットの発達で、昭和の時代に比べれば、格段に始めやすくなっていますし。

価値観や美意識は時代を経ると変わる事もあり、物事には正負の両面があるので、一概に比較はできません。ただ、真面目で従順なだけなのが取り柄の人でも食いっぱぐれなかった時代から、何らかの新しい価値観や美意識を提供できないと食い詰める可能性が高い時代に移行しつつあることは確かです。

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2020年6月20日土曜日

ただいま日本でバイト中、そして日本の行く末を案じた

4月下旬から日本へ一時帰国中ですが、ミャンマーに帰る目途は未だ立っていません。 6月末までヤンゴン国際空港は閉鎖ですし、入国条件も詳細不明です。 とりあえず、収入確保のため日本でアルバイトをしています。

現在、日本の某市で「新型コロナウイルス感染症緊急経済対策」の一環として実施されている、特別定額給付金のデータ入力の仕事にパートタイマーとして従事しています。 日本の自治体の住民基本台帳のデータは、銀行口座等の個人の金融情報とリンクしていないため、今回のように給付金を全国民へ一律配布するという状況になると、個別に配布先に口座情報等のデータを人力で入力する必要があります。 たとえマイナンバーで申請しても、オンラインで処理が完結するわけではなく、各自治体の住民基本台帳のデータベースに基づいて、個別に人力で振込データを入力しています。もっとも、郵送での申請が大多数なので、入力作業の中心となるのは、申請者の手書きのデータを、入力担当者が目視で確認しつつPCへ手入力する業務です。 本来なら、オンラインで自動化すべき業務なのですが、個人情報の保護に対する懸念や行政手続きのIT化の遅延によって、日本では実現していません。
Facebookで海外在住者のタイムライン見ると、住民基本台帳と個人の口座情報が紐づけされているドイツやアメリカでは、オンラインで申請して、3日程度で給付金の振込がされているようです。

人口の多い大都市だと途方もない手間と人手を要するため、一定以上の人口の自治体では、これに関する処理を外注しているはずです。国内の各自治体から、この業務のアウトソーシング企業や人材派遣会社への外注が、相当な特需になっているのではないかと推測しています。もちろん出所は税金なので、新市場を創出して国内経済のパイを大きくしているわけではありませんが。

5月下旬からほぼ連日、朝9時から夜8時まで、昼休みを挟んで10時間、一日ぶっ続けでデータをPCに入力しています。新入社員当時は、よくこの手の作業をやっていましたが、30年前に比べて当然体力も視力も衰えているので、5時を過ぎたあたりから目がしばしばして、意識が朦朧としてきます。ただ、体力的にはしんどいですが、単に黙々とデータ入力するだけで、他人と会話する必要も、煩わしい人間関係もないので、お気楽な仕事ではあります。コミュ障の私にうってつけの仕事が、一時帰国中に見つかって良かったと感謝しています。

それに、日本人だけの環境で仕事をするのも久しぶりなので新鮮です。
改めて思うのが、日本人はロボットの代替として優秀だということです。
勤務中ひたすら入力作業に没頭していて、周囲の人と会話をすることもないので、事情は知りませんが、他の人もネットで人材派遣会社の募集を見て、応募したのではないかと推測します。つまり、みんな情報をネットで見つけて、バラバラに集まった人々です。
にも関わらず、会ったこともない人材派遣会社の担当者からのメールによる指示で、毎日定刻通りに職場まで来て、簡単なマニュアル読んで理解して、みんな黙々と一日中PC入力作業に従事しています。
ミャンマーに住んで長いので、どうしてもミャンマー目線で物事を見るようになっていますが、これはミャンマーではあり得ない。
こんな簡単な説明では、作業内容を理解してもらえないし、そもそもこれだけの大人数をタイトな出退勤管理やタイムカードなしに、定刻通り毎日通勤させるのは至難の業です。 ミャンマーでネットで人材募集して同じ業務をすると、出退勤管理の煩雑さと、マニュアル無視して、みんな好き勝手にデータ入力しだして、収拾がつかなくなり、現場は阿鼻叫喚と化すのではないでしょうか(私が知る例では、過去に建物の電気工事で設計図面を無視して、施行業者が好き勝手に配線して、収拾がつかなくったことがありました)。

これだけ均質で、勤勉な労働者を、ネットを通じて一定数すぐに動員できる国は、そうないのではないかと思います。
 冷戦時代、アジア唯一の工業国だった時期、人件費が欧米諸国に比べて安かった日本が、工業製品などの規格品大量生産で一時代を画したことは納得できます。
工場の組立ラインに必要なのは、一定水準以上の知的レベルに達した、多数の均質かつ勤勉な労働者ですから。
ただし、21世紀に入って、工業製品のコモディティ化、モジュール化が進んだことで、日本の競争力は一気に失われたのはご存知の通りです。
グローバル化が進展により、中国・韓国や東南アジア諸国が製造業に参入したことで、工業製品のコモディティ化、モジュール化が顕著になりました。この結果、従来の欧米諸国の後追い戦略から脱し、創造性やオリジナリティ、あるいはブランド価値の創造等により、新規参入してきた国々の製品との差別化を図り、製品価格が主な選好条件となるレッドオーシャン市場のプレイヤーとは異なるポジショニングを取ることを、日系企業が迫られるようになって久しいです。

わかりやすい事例として、スマートフォンを例にあげます。
- 機能の中核を担うOSは、AppleのiOSとGoogleのAndroidが独占しており、ハード(スマートフォン端末)は汎用部品の組立産業と化している。
- 利益率が高いのは、アプリや音楽販売のエコシステムを築いているOS開発・供給元であり、ハードメーカーは薄利多売の過当競争に陥っている。
- カメラの性能などで多少の差別化はできるものの、OS(iOS搭載のハードはAppleの専売なので、ここではAndroid)は同じなので、各メーカーが製造するハードが提供できる基本的な機能は同じで、大きな差別化はできない(よって、ハードの市場は価格競争のレッドオーシャンと化す)。
- こうした過当競争下では、膨大な国内需要を背景にして、大規模な設備投資を行い、製造単価の低減化を実現し、その生産体制を足掛かりに、世界市場に打って出る中国メーカーが優位に立つ。実際、ミャンマーのスマートフォン販売店で見かけるメーカーの大部分が、Huawei・OPPO・Vivoなどの中国メーカーである。日系メーカーの存在感は薄い。
- 中国や東南アジア諸国に比べて人件費や地代が相対的に高い(それでもG7で最低賃金)日本は、イノベーティブで利益率の高い事業分野への進出が望まれるが(スマートフォンOSのプラットフォーマーとなっているAppleやGoogleのように)、残念ながら、そのような創造性・構想力・マーケティング力を備えた大企業は見当たらない。
- 現在、世界時価総額20位以内にランキングされている日系企業はゼロ。日系企業の最上位 は、トヨタ自動車の42位。しかし、テスラモーターズやGoogoleが電気自動車・自動運転のOS開発競争をしている現状で、自動車のコモディティ化・モジュール化(要するにパソコン化・スマホ化)がトヨタの製造技術をバイパスして実現すれば、その地位も危うい。

人材が均質で、現場の労働者が勤勉なことが、事業の強みになりにくい21世紀になってから、日系企業の凋落が目立ち始めたのは、決して偶然ではありません。 ここ20年間さんざん議論されてきた(そして解決していない)問題なので、いまさら私が書くまでもありませんが。日経新聞系のメディアとかは、日本にGAFAが生まれない理由について年中書いているような気がするし(そして、何ら解決しているように見えない)。

この問題については、下記の本に体系立てて、詳しく説明されていますので、ご興味のある方はお読みください。


なんでこうしたことを延々と書くかと言うと、日本の行く末を案じてるから、という部分もなくはないのですが、ほぼ毎日、無言で10時間ぶっ通しでPC入力作業していると、作業の単調さに倦んで、いろいろと余計なことを考え出すからです。
他にも入力しながら、考えていることがあるので、気が向いたら書くかもしれません。
とりあえず、ミャンマー帰国の目途が立つまで、日本でこのバイトを続けるつもりです。

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2020年5月15日金曜日

COVID-19騒動の中での日本への帰国体験記を書いた

4月24日から、日本に一時帰国中です。
帰国してから、3週間が経とうとしています。こんなに長く日本に滞在するのは、2012年にヤンゴンに住むようになってから初めてです。
帰国して2週間は、Airbnbで取った新宿御苑のアパートで待機していました。
東京に滞在するのも、8年振りでした。新宿の街は、紀伊國屋書店も伊勢丹新宿店も閉まっていて閑散としていました。
今は、福岡の大濠公園の近くに住んでいます。
福岡では、多くの人々が大濠公園でジョギングする姿も見られ、現在の東京ほどの閉塞感と圧迫感は感じません。こちらでも、飲食店の多くは、閉まっていたり、テイクアウトのみの営業だったりはしますが。
最近、ミャンマーの日本語フリーペーパーから、日本へ帰国した時の状況について書くように依頼されました。以下に書いた記事を転載します。このまま採用されるかどうかは不明です。
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COVID-19騒動の中での日本への帰国体験記

4月24日午後11時、私は、成田国際空港第一ターミナル到着ロビーにいました。周囲には、私も含めて5,6人がロビーのベンチで過ごしています。私と同じく、ヤンゴン発のANA NH814便で成田に到着した人たちです。海外からの帰国者は、公共交通機関の使用禁止を要請されているため、明日の迎えが来るまで、皆ここで一晩過ごすのでしょう。
一か月前まで、自分がこの時期に、この場所にいるとは思っていませんでした。

3月中旬時点での、私の4月の計画は、次の通りでした。
4月5日 The Makers Marketに出店
4月8日 ヤンゴン-->チェンマイ ティジャン(水祭り休暇)
4月19日 チェンマイ-->ヤンゴン ミャンマーに帰国

4月5日に開催予定だったThe Makers Marketは、毎月一回ヤンゴンで開催されている、ローカルメイドの工芸品や雑貨を集めたナイトマーケットです。タイのようにローカル・マーケットが充実していないミャンマーで、ここでしか手に入らないローカル・ブランドの商品が購入できるイベントとして、在緬外国人に人気のイベントです。毎回、3000人近い来場者を集客しています。


3月8日に開催されたThe Makers Marketの様子

しかし、3月末になって、コロナウィルスの感染拡大の影響により、状況が次々と変わり、当初の計画はすべて覆りました。
まず、タイ政府の発令により、3月26日から、すべての国境ルートから、外国人の入国禁止となります。続く3月31日には、ミャンマー政府により、国際空港への旅客航空便の着陸禁止が発令されます。さらに、ミャンマー政府が4月中のイベント自粛を要請したことで、4月5日開催予定だったThe Makers Marketは中止となります。

タイへの外国人の入国禁止となった時点で、予約していたヤンゴン、チェンマイ往復航空便は運航休止になりました。
前回のビザランで3月末にバンコクから戻って来た時、ミャンマーへはノービザで入国していました。いつもは滞在日数70日のビジネス・ビザで入国していますが、この時はティジャンの休暇が近く、2週間程度の短期滞在になるからです。
この安易な判断が、仇となります。
ノービザで入国すると、滞在延長の申請ができません。よって、滞在期限が切れるまでに、どこかへ出国する必要があります。しかし3月末時点で、周辺のASEAN諸国は、ほぼ封鎖中となっていました。
こうなると、日本人の私が入国できる国は、日本しかありません。
実家のある福岡行のチケットをネットで探しましたが、これが見事にない。ハノイや香港経由のメジャーなトランジット便は全便休航となっています。
では、日本への直行便しかないとANAのウェブサイトへ。
検索すると、滞在期限前の運航便の片道チケットの価格が15万円から20万円へと高騰しています。日本からミャンマーへの往路は全席空席なので、しかたないのでしょうけど。やむえず、オーバステイになっても、できるだけ安い価格のチケットを探して、約1か月先の4月24日ヤンゴン発の片道8万円のチケットを購入しました。

さて、今の環境下で、日本に帰国するとどういう状況になるかを、先にミャンマーから帰国した知り合いや周囲の友人へ聞いたところ、ものすごく面倒なことになっていました。

政府は、海外からの帰国者へ、以下の要請をしています。
- 海外からの帰国者は、もれなく2週間の待機を命じられる
- 日本帰国から2週間の待機期間中は、公共交通機関の使用禁止

そして、2週間待機の宿泊場所は、自己解決かつ自費で賄う必要があります。
この条件だと、関東近辺以外の居住者は、空港からアクセスできる場所に自費で宿を取り、しかも、その場所まで公共交通機関を使わずに行き着く必要があります。こうした条件を課すなら、政府が宿泊施設と移動手段を用意するのが筋ではないかと思いますが、残念ながら、個人での自己解決が求められています。
しかたなくAirbnbで、東京に2週間待機する宿を取りました。
問題は、宿泊地までの移動手段です。
先にミャンマーから帰国していた千葉の知人に頼んでみたところ、快く引き受けてもらえました。しかし、承諾から3日後に断りの連絡があります。家族に話したところ、猛反対に遭い、車のキーを取り上げられたとのことです。
となると、残る選択肢は、空港発の予約制リムジンバス・サービスくらいしかない。しかし、これが公共交通機関に入るのか、入らないのかの判断に苦しみます。小学生の頃、遠足のおやつはX円までという教師からの指示があった時、「先生、バナナはおやつに入るんですか?」とお約束のように聞く児童のような疑問です。
考えあぐねていたところ、4年くらい会っていない、以前ミャンマーに住んでいた友人から突然メールが入りました。私のブログを読んで、ミャンマーにスタックしていることを知り、メールをくれたようです。空港から宿泊地への移動手段に困っていると伝えたところ、ご親切にもレンタカーを借りて迎えに来てくれると言ってくれました。ありがとうHさん。あなたがいなければ、移動で詰んでいた。

航空チケットは取った、2週間宿泊する待機場所も予約した、空港から宿泊場所までの移動手段も確保した。でも、これで一安心とはいきません。
ビザの問題が残っています。
この頃、突然国境を閉鎖されたため、私同様にオーバーステイを余儀なくされた在緬外国人のトラブルが続発していました。地元の英字フリーペーパーでは、外国人が移民局へ延長申請のために赴いても、役所をたらい回しにされて、結局延長ができないケースが多発していることが記事になっていました。ビザの滞在期限が切れると、法律上、賃貸住宅へ居住することはできず、かと言ってホテルにも宿泊することもできません。住処を失ったある在緬外国人男性が、ミャンマー人女性のガールフレンドのアパートに転がりこんだところ、借主である女性の勤務先からクレームがついて追い出され、文字通りホームレスになってしまったケースも報告されています。
ミャンマーは異性間のモラルが厳格なため、周囲の住人や関係者は、未婚のミャンマー人女性と外国人男性が同居することを快く思いません。幸いにして(と言うべきか)私は、女性と縁がなく、アパートへの女性の出入りもないので、近隣の住人の反感を買い、密告されて住居を追い出される可能性は低そうです。しかし、そうは言っても、安心はできません。

その後、今回の特例で、ビジネス・ビザ以外でも、移民局で延長申請が可能になったとの情報を得ました。4月上旬に、パソーダン通りの移民局に着くと、建物前から優に100メーターは続く長蛇の列ができていました。どうやら、みんなビザの延長申請に来ているようです。私も一時間以上列に並んで、担当官に必要書類を提出しました。手続きが完了したら、電話するということでしたが、結局、連絡はありませんでした。

4月上旬、移民局前にできていた行列

移民局からの連絡を待つうちに、夜間外出の禁止令が発令され、外出に対する規制がさらに強まっていきました。こうした中で、処理されているかどうかもわからない申請を、再度一時間以上列に並んで、移民局で確認する気にもならなかったので、ビザの延長申請は立ち消えになりました。こうした状況で多くの外国人が、ビザの延長を果たせず、運の悪かった人が路上に放り出される事態に陥ったのでしょう。
タイ政府は、ビザの種類に関わらず、手続きなしで滞在期限を自動延長する救済措置を発表しましたが、残念ながらミャンマーは、そこまで外国人に対して配慮がされる国ではありません。

こうなると、オーバーステイの延長料金を空港で払うしか方法はありません。
夜間の外出禁止など、規制が日に日に増していく中で、宙ぶらりんな立場で過ごすのは、あまり気分の良いものではありませんでした。
まいったのは、夜間外出禁止令の発表により、ANA NH814便の運行時間が突然変更されたことです。ANAに確認したところ、その時点では、フライトが半日後ろ倒しになる予定だとの回答でした。それでは、移動をお願いしているHさんの都合がつかない日時に到着するので、やはり移動で詰む。繰り返しますが、公共交通機関の使用はできません。
果たして、フライト3日前になってANAから届いたメールを開くと、半日前倒しのスケジュールへと変更となっていました。このスケジュールなら、早く着くぶん待ち時間は長くなりますが、Hさんが迎えに来れる時間には成田空港に着いています。迎えが無理となった場合、レンタカーのキャンセルも発生するので、直前までHさんとやりとりをしていました。

4月24日、出発の日のヤンゴン国際空港は未だ封鎖中で、閑散としていました。どうやら運航しているのは、ANAの臨時便だけのようです。搭乗手続きを終え、スーツケースを預けて、イミグレーションのフロアに移動します。気になっていた、オーバーステイの手続きは、イミグレーション前の窓口で、一日当たり3USDのオーバーステイ料金を払うことで、難なく終わりました。以前も同じ手続きをしたことがありますが、ミャンマーでは、唐突にシステムが変更することがよくあるので、実際やってみるまで気が抜けませんでした。
ANA NH814便の搭乗率は、10%程度でした。帰る必要のある邦人はすでに帰国していて、これから帰国する在緬邦人はあまり多くないのでしょう。午後1時半に、ヤンゴン国際離陸した飛行機は、定刻通り。夜10時半に成田国際空港へ着陸しました。
機内で4、5枚の書類を渡され、それぞれに2週間の待機期間中の宿泊地の住所や、日本での連絡先を記入します。宿泊地の管轄保健所からの連絡方法について、Lineのスマートフォン・アプリを使うか、保健所からの電話を受けるかの選択項目もありました。とりあえず、アプリでの報告へチェックを入れておきましたが、ミャンマーは入国制限対象地域の国ではないため、保健所からの確認はないようでした。
飛行機から降りると、イミグレ前に待機していた検疫官に記入した書類を渡し、簡単な問診を受けた後、入国審査カウンターへと進みます。搭乗客が少なかったこともあり、飛行機を降りてから、検疫、入国審査を経て、到着ロビーに出るまで要した時間は30分程度でした。

そして、到着ロビーのベンチで、翌日午後2時に迎えが来るまで、13時間待機します。成田空港の到着ロビーも閑散としていました、ロビーにいるのは、私と同便で到着して、翌日まで迎えを待つ5、6人の人たちと空港のスタッフのみです。ちなみに到着ロビーに着いてから、移動の規制はありませんでした。迎えを頼める親族・友人が見つからず、他に方法がなければ、やむえず公共交通機関を使う人がいてもおかしくはありません(私もそうした可能性がある)。そのような事態を招かないためにも、政府が何らかの移動手段を用意すべきではないか、と到着後も改めて思いました。

4月24日、成田空港第一ターミナル到着ロビー

出国と到着の経緯を書いたところで、指定の字数をとうに過ぎました。
私がミャンマーで取り組んでいるプロジェクトについても、少しお伝えしたかったのですが。
私のミャンマーでのミッションは、「ミャンマーの素材を使って、世界で通用するブランドを、ミャンマーで作る」ことです。世界のどの都市でも通用するクオリティを持った、ミャンマー発のブランドを作ることを目標としています。
お時間があれば、私のブランドYANGON CALLINGのWebサイトとFacebookページを見ていただけると嬉しいです。
Webサイト:
https://www.ygncalling.com/
Facebookページ:
https://www.facebook.com/ygncalling/




5月中旬の現時点で、ミャンマーへいつ戻れるか状況は不透明ですが、ミャンマーへ入国できる環境が整いしだい、帰る予定です。また、The Makers Marketなどのイベントで、皆さんとお会いできる日が訪れることを心待ちにしております。
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2020年4月4日土曜日

コロナ対策で自宅勤務中のミャンマー女子に写真を撮らせてもらった

現在、ヤンゴン市内では、飲食店の営業も店内での飲食は禁止されて、数少ない営業中のお店も持ち帰りのみとなっています。
街は閑散として、普段は賑わっている場所でも人通りはまばらです。
さっき聞いた話によると、4月10日から4月21日まで、外出禁止令が発令されそうです。
人聞きなので、真偽の程はわかりませんが、この国では、空港閉鎖も飲食店の営業禁止も突然発令されて即施行されたので、可能性はあります
(4月5日追記:どうやら、政府が「ティンジャン(ミャンマー正月)で休日となる10~19日の外出を、食品や医薬品の購入目的を除いて自粛するよう通達した」事実に尾ひれが付いて、一律の外出禁止令が布告されるとの噂に転じたようです。公共のニュースに対する信頼度が低いミャンマーでは、確度の低い噂がSNSを通じて拡散しやすいです)。

そんな不穏な空気が漂う中ですが、ミャンマーのメディア企業で働く近所のミャンマー人女子に商品着用写真を撮らせてもらいました。
今、彼女の勤務先でも従業員の出勤を自粛して、ビデオ会議などのリモートワークで業務対応しているようです。
そうした状況なので、平日の昼間にアパートにお邪魔して、写真を撮らせてもらえました。
彼女のアパートの狭いバルコニーで撮影したので、アングルを選べませんでしたが、着用イメージはある程度伝わるかと思います。

















上記商品のサイズ・価格などの詳細は、こちらのページでご覧になれます。
https://www.ygncalling.com/shop

この時期、多くの人が自宅に籠ることを強いられるはずなので、これを機会に、手持ちの服でできるコーディネートを試したり、積読中の本を読んだり、みなさん自宅でできることを楽しめるよう気持ちを切り替えられたらいいなと思います。

ちなみに彼女とは、読書SNS Goodreads で知り合いになりました。
読了リストに、洋書ファンクラブで紹介されていた、 Daisy Jones & The Sixが上がっていたので、興味を持ってこちらからコンタクトしました。
この本の邦訳が出るのを待つか、原著で読むかちょうど迷っている時だったので。


本書は、70年代の架空のロックバンドについての手記・回想録というスタイルで描かれたフィクションです。
レビュー読むと、主人公のモデルとして、フリートウッド・マックのスティービー・ニックスが想起されるようです。
ちなみに、彼女にこの本の感想を聞いたら、イマイチだったということでした。
主人公のDaisyのキャラクター造形が、ミャンマーの文化的価値観と離れすぎていてなじめなかったようです。
それに加えて、60年代末から70年代初期にかけてロック音楽が表象していた時代の空気感など、時代背景や前提となる知識がないと楽しめないのかもしれません。タランティーノの映画『ワンスアポンアタイムインハリウッド』同様に。
あの映画について、公開当時に話題にしていたミャンマー人は、アメリカとかヨーロッパの大学を卒業して戻ってきた富裕層の子女のみでした。
彼女はヤンゴン外語大学のフランス語科卒で、フランス語と英語ができますが、自分をWorking Class Womanと自己紹介していました。ミャンマーの上流階級・富裕層は、キャリアの最初から親族経営の会社の役員になるか、親の資金で起業するかが一般的なので、身内でもない他人に指図されて働くこと自体がWorking Classと定義されるのかもしれません。ミャンマー国外から出たこともないみたいな様子でした。
そうした子が、こうしたタイプの小説を原著で読むことはミャンマーではかなりレアケースです。
少しずつですが、ミャンマーの文化的価値観や文化の受容性も多様化しつつある気配を感じます。

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