第二章
7
タイでのあと一件のアポイントメントは三日後だった。その間にバンコクの街を歩いて回った。
プラ・スメン通りは、〈タイランド・ストレージ〉のKullaya Wongrugsaが言うとおり、新たなギャラリーの集積地となっていた。ギャラリーはカフェなどに併設された小規模なものが多い。カフェは中産階級と思しきタイの若者で賑わっていた。在学中の美大生や卒業して間もない若いアーティストの作品の展示が中心だ。経済成長が一段落して、踊り場を迎えたこの国の若者の関心がアートなどの文化的な方向に向かっているのが見て取れる。同じ通りのセレクト・ブック・ストアには、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェやジュノ・ディアスの英語版のペーパーバックと村上春樹のタイ語訳の著作が棚に並んでいた。同時代の世界文学の潮流を反映させた棚作りだ。こうしたオーナーの嗜好や関心が店の品揃えとして表現されている独立系書店は、ある程度、文化が成熟した世界各地の都市で見かける。隣国のミャンマーのような途上国ではこうした本屋はない。
コンドのあるトンローから隣駅のエマカイにかけて、セレクトショップ、古着屋やサードウェーブカフェが点在している。セレクショップではエンジニアド・ガーメンツのシャツ、古着屋ではビームスやユナイテッド・アローズのワンピースを見つけた。バイヤーが日本にも買い付けに来ているようだ。トンローの路地にタイファンクや伝統音楽のモーラムやルクトゥーンを専門に扱う中古レコード屋があった。こうした音源はフィジカルでないと入手できないため、世界中からDJやコレクターが買い求めにやって来る。テキサスのサイケ・ファンク・バンド〈Khruangbin〉のように、こうしたタイの民族音楽に影響受けた国外のミュージシャンも二〇一〇年代に入ってから現れ始めている。
バンコク郊外のシーナカリンのナイトマーケットの広大さには圧倒された。平安時代の日本の学僧が大唐西市の、あるいはヴェネツィア共和国の商人が元の大都宮城の市場の賑わいを見た時に同じ驚きを感じたかもしれない。
鉄道駅の跡地で開かれているナイトマーケットは、あらゆる形と色のネオンや照明に照らされた無数の店が見渡す限り立ち並んでいる。市場は、屋台、レストラン、雑貨などのテーマ毎にエリア分けされていて、古い倉庫を店舗に改装したヴィンテージ・エリアでは、一九五〇年代のキャデラックやシボレーが展示・販売されていた。こんな車は映画でしか見たことがなかった。このエリア付近のレストランは、アメリカのダイナーを模した建物だった。これほど広くはないものの、バンコクには他にも大規模なナイトマーケットが少なくともあと五つはある。とても一週間の滞在では回りきれなかった。
トンローの隣駅プロンポンのアイリッシュ・パブ〈ロイヤルオーク〉はいつも欧米人の客で賑わっていた。コンドのプールでひと泳ぎした後、昼はここのオープンテラス席でビールを飲んで、ハンバーガーを食べるのが日課になった。パブは日系のスーパーマーケットの側にあるため、日本人の駐在員の家族がよく目の前を通り過ぎるのが見えた。昼間からビールを飲んでいる自分が、彼らから遠く隔たった場所にいるのを感じた。
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