2021年9月24日金曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーヴァードライブ』4 (2)

 4(2)

 調べてみると、瞑想センターによってメソッドや指導法にかなり違いがあることがわかった。瞑想のメソッドはサマタとヴィパッサナーの二つに大きく分けられる。サマタは呼吸などの対象へ一点集中することによって禅定の状態に達することを目指している。ヴィパッサナーは集中力を使わずに、心身の観察によって気づきを得る瞑想法だ。ただし、ヴィパッサナーから枝分かれして、サマタのような集中没頭型の瞑想法を開発した比較的新しい分派もある。伝統的な指導法として、サマタ瞑想によって禅定の状態に達し、意識にニミッタと呼ばれる光が現れるようになった後に、次の段階としてヴィパッサナー瞑想に入るメソッドを採る瞑想センターもある。このメソッドでは、光が現れるようになるまで次の段階に進めないため、何年も先の見えない修業を続ける瞑想者もいるようだ。
 いずれの瞑想法も最終的な目標は解脱して涅槃に達することを目的としている。
 解脱とは、条件付けられた欲望や本能から超出した、認知の転換を意味する。人間も生物として、他の生物と共通する欲望や本能を備えている。自己保存を図るため快を求め不快を避ける欲求や、自らの遺伝子のコピーを増やす衝動に基づく生殖本能は他の生物と変わりない。進化の自然選択によって獲得されたこうした形質は、個体の自己保存と遺伝子の拡散を目的とするもので、それは必ずしも個人の幸福とは結びつかない。

 最初期の仏教は、通常の世間の人々の考える、欲望により形作られた世界を解体し、そこから超出するラディカルな理論と実践の体系として出発した。これは仏教が、古代インド北部の王国の王子として生まれ、容姿にも才能にも恵まれ、物質的には何不自由ない環境で暮らしていた青年、ゴータマ・シッダールタによって開かれたことに由来している。世俗のレイヤーでは悩みようのないこの青年ですら逃れられなかった「苦」–––パーリ語の「ドゥッカ」の翻訳に漢字のこの文字が当てられた。単なる苦痛というよりもより射程の広い意味を持つ。英語では「不満足(unsatisfactoriness)」と訳されいる–––から解放されるため、六年に及ぶ思索と修行の果てに証得したのは、「世の流れに逆らう」智慧だった。ゴータマが達したのは、生物的な本能に根ざした、快適な状態を望み、いとおしいものを愛で、危険や不快から遠ざかる感覚を「苦」を形作る煩悩として滅尽し、世俗のレイヤーの価値観が織りなす世界から別の次元、涅槃へと超出することで、真の自由を獲得できるという結論だった。
 「覚者」仏陀となったゴータマが完成させた、欲望や本能による条件付けから解放された領域、涅槃に到達するための理論と実践の体系である仏教の、実践の分野を担う修行が瞑想だ。
 こうしたオリジナルの仏教が持つ、反直感性やラディカルさは、五百年から千年あまりの歳月をかけて伝播し、それぞれの地域の固着の習俗や宗教と習合した東アジアでは薄められたり、変質したりしているが、南アジアの上座部仏教では、その原初の特質を色濃く残している。私が南アジアの仏教に興味を持ち、瞑想センターへの滞在を決めたのもそうした部分に惹かれたからだ。

 どの瞑想センターに滞在するかについては、ずいぶんと考えた。
 対象を一点に絞って集中するサマタ瞑想や、観察の対象を瞑想時の足の痛みに集中するヴィパッサナー瞑想の分派である集中没頭型のメソッドを採用する瞑想センターは、指導者が攻撃的なことがよくあるようだ。一つの対象に集中没頭して、力づくで思考や感情を無効化するこのメソッドは、精神的な消耗度が高いため、それに耐えられるのは偏執的な性向の人物である場合が多い。そして外部の環境や内的な思考・感情を無視して一点に集中する修行を続けた結果として、ある種の不寛容さや独善性を招きやすいようだ。ミャンマーで、第二次世界大戦後に開発されたヴィパッサナー瞑想の分派である集中没頭型のメソッドは、短期間の修行で解脱者を続出させたことで、一躍注目を浴び、一時はミャンマーの仏教界で瞑想法の主流をなすまでになった。しかし、独善的な傾向をもつ指導者を多数輩出し、異なるメソッドを採用する瞑想センターを激しく批判したため、ミャンマーの仏教界を混乱させる弊害も生んだ。そして、このメソッドを採用する瞑想センターには、外国人の修行者に評判が良くないところが少なからずある。勝手がわからずまごつく初心者の外国人が、指導者から怒鳴られることも珍しくないからだ。
 一方、伝統的なヴィパッサナー瞑想のメソッドを採用する瞑想センターは、穏やかな雰囲気で、指導者も温厚なようだ。ヴィパッサナーとはパーリ語で明確に観ることを意味している。ヴィパッサナー瞑想は、集中力を使わずに、心身の状態をニュートラルに観察する瞑想法だ。この瞑想法は集中没頭型のように短期の瞑想修行で解脱することはない代わりに、人格的な成熟を促す副次的な効果も期待できるという。仏陀は、瞑想法についての経典『大念住経(マハーサティパッターナ・スッタ)』を残しているが、この経典に最も忠実と言われているシェ・ウ・ウィン瞑想センターを選ぶことにした。この瞑想センターの創設者のシェ・ウ・ウィン師は、もともと集中没頭型の瞑想法を学んだ人物だった。しかし、このメソッドで解脱した指導者の多くが攻撃的で、その排他性から他の瞑想法を批判したことで、ミャンマーの仏教界の混乱と民衆の困惑を招いたことを深く憂慮した。ミャンマーは、人口の八割以上が仏教徒であり、敬虔な上座部仏教の信徒が多いため、僧侶とりわけ解脱者である指導者の社会的な影響力が強い。こうした状況を省みて、シェ・ウ・ウィン師は、戦後に主流となった集中没頭型の瞑想法を封じ、伝統的なヴィパッサナー瞑想を伝える自らの名を冠した瞑想センターを創立した。
 ヴィパッサナー瞑想は、観察による気づきの実践を主眼としているが、この「気づき」はマインドフルネスと英訳されている。二十一世紀になって西洋社会で注目されているマインドフルネス瞑想もヴィパッサナー瞑想がベースとなっている。ただしシリコンバレーの1T企業の経営者などが推薦している世俗的なマインドフルネス瞑想は、判断力の向上などの現世的な実利を目的としているため、瞑想の基盤となる仏教経典の教えとの結びつきは弱い。オリジナルの仏教では、ヴィパッサナー瞑想により得られた気づきにより、瞑想者は三相–––無常、条件付けられた苦、無我–––といった世界の真理を認識する智慧へと到達するとされているが、西洋で流行しているマインドフルネス瞑想の多くは、こうした現実をメタ認知するという視座の獲得は目指していない。このような測定可能な効果を求める世俗的なマインドフルネスは、仏教的マインドフルネスにあった真理との関係を切り離し、世俗的な価値基準へと矮小化しているとの仏教界からの指摘もある。そもそも解脱つまり涅槃への到達を目標とする瞑想の実践は、「役に立つ」とか「人格がよくなる」のような世俗の世界が織りなす物語の中で上手に機能することを求める文脈から超出することを本質としている。修行により解脱の最終段階に達した阿羅漢は、欲望により形作られた世界から完全に逸脱した存在となる。そのため、世俗の生活を営むことはもはや不可能となり、選択肢は出家して残りの一生を瞑想寺院・瞑想センターで送るか死ぬかしかない。それを肯定するのが仏陀の説いた仏教と、そのエッセンス受け継ぐ南アジアの上座部仏教のラディカルなところだ。

 五月の上旬の福岡発––バンコク着とその一週間後のバンコク発––ヤンゴン着の航空券をネットで検索して購入した。シェ・ウ・ウィン瞑想センターに五月中旬からの滞在は可能かどうか尋ねるため、Webサイトで連絡先やeメールを調べたが、センターでは予約の受付はしていなかった。直接現地へ行って滞在できるかどうか尋ねるしかないようだ。
タイもミャンマーも三十日以内ならビザ無しで滞在できる。
 福岡南アジア美術館の学芸員、山本良恵からeメールで返信があった。送ったレポートについての礼に将来性のありそうなアーティストやギャラリーがあれば繋いで欲しいと書き添えてあった。こちらの情報収集力も少しは認められたようだ。

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2021年9月20日月曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーヴァードライブ』4 (1)

 4(1)

 重野が帰った後、もう一杯ボウモアのソーダ割りを飲んだ。ターンテーブルの上の音盤は、ディアンジェロのライブ盤になっていた。「Brown Sugar」が店内に流れている。 
 店を出て、大名から大濠公園のマンションまで歩いて帰った。福岡城の城址を囲む堀に沿って植えられた桜は若葉を茂らせていた。堀の水面は睡蓮の葉に覆われている。睡蓮の花が咲く頃には、タイかミャンマーにいるはずだ。

 それからの十日間は、リサーチに時間を費やした。タイとミャンマーの現代美術の動向を調べた。
 東南アジアの国の中で、この二つの国を選んだのには理由がある。アジアの国々でアートマーケットが活況なのは、アートバーゼル香港が開催される香港と東南アジアで最も富裕層が居住するシンガポールだが、これらの国では、すでに有力ギャラリーが進出しているため新規参入は難しい。
 タイは一九九七年のアジア通貨危機でのタイバーツの下落を経た後、着実に成長を続け、一人当たりの実質GDPは二〇〇〇年代になってから八五パーセント近く伸びている。生活水準と可処分所得の向上に比例して文化的な関心も急激に高まっている。二〇〇八年には、現代美術を扱う大規模な美術館バンコク・アート&カルチャー・センターが開業している。また二十年にわたる経済成長の中で生まれたニューリッチの二代目や三代目が続々と首都バンコクにギャラリーを開設して、現地のアートマーケットは活況を呈している。街のDVDショップには、ジャン=リュック・ゴダール、ウォン・カーウァイ、ソフィア・コッポラらの作品が目立つ場所に置かれ、バブル経済が崩壊した後、一時的に文化的な爛熟が進んだ一九九〇年代後半の日本を思わせた。巨大なショッピングモールが次々と建設され、ヨーロッパやアメリカのラグジュアリーブランドのショップが中を埋めている。バンコクの商業都市としての規模は明らかに東京より大きい上、国際化もより進んでいる。外国人の居住者や観光客が多いため、ロンドンやニューヨークなどの先端文化や風俗が伝播する速度も東京よりも早い。
 ミャンマーはタイと対照的な国だ。長らく軍政で、経済停滞が続いたこの国では、ハイブランドで埋め尽くされたショッピングモールなど望むべくもない。二〇一一年に民政移管が実施され、二〇一五年の総選挙の結果、翌年、五十四年ぶりの文民政党による与党が誕生した。二〇一一年の民政移管後、海外からの投資が一気に拡大した。世界に残された数少ない経済フロンティアとしての注目を浴びたためだ。だが、その外国投資も二〇一五年をピークに減少傾向にある。電力や交通などのインフラが脆弱で、外国企業を保護する法律が未整備なことで、進出したものの事業が立ち行かずに撤退する企業が相次いだ。隣国のタイが一九八〇年代からODAを通じてインフラの整備を推進し、海外から企業の誘致に成功したことで、工業化と輸出の拡大が進み、目覚ましい経済発展を遂げたのとは異なる歴史を歩んでいた。少数の例外を除き、外国人や外資系企業がこの国で経済的な成功を収めるのは困難であることは明らかになりつつある。それでも、この国に惹かれる外国人はいた。未開拓で未整備な荒野のようなフロンティアの広がりを目にして、利得を超えた好奇心やある種の冒険心をくすぐられるのだろう。アート関係者からほぼ無視されているこの国に関心を持つ私もそうした人間の一人なのかもしれない。
 そしてこの対照的な両国は国境を接しており、首都バンコクと商都ヤンゴンは飛行機で一時間半足らずで移動できた。まず、福岡からバンコクへの直行便のあるタイに行って、それからミャンマーに移動することにした。最終目的地のミャンマーで、瞑想センターにしばらく滞在してみることにした。ネットの情報や上座部仏教の解説書を読むと、多くの瞑想センターがミャンマーに存在することがわかった。

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2021年9月2日木曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーヴァードライブ』1 2019年4月 福岡市大名(2)

3 二〇一九年四月 福岡市大名(2)

 ターンテーブルの音盤がまた切り替わった。今度は山下達郎のライヴ盤『IT'S A POPPIN' TIME』だった。
「話は変わるけど、山下達郎と村上春樹って似てないか?」と私は言った。
「なんだそれ? 少なくとも、顔は似てないぞ」
「そうじゃなくて、キャリアの進め方に共通するものを感じる」二杯目のギムレットを飲み終えた私は、ボウモアのソーダ割りに切り替えた。「達郎の初期のアルバムからは、カーティス・メイフィールドやアイズレー・ブラザーズの直接的な影響が聴き取れるし、春樹の初期の作品も、カート・ヴォネガットやリチャード・ブローディガンとの近似性を、発表当時は、批評家から指摘されていた。二人とも、リズム&ブルースやカウンターカルチャー小説といったアメリカの都市文化からの影響を出発点に、キャリアを重ねる中で、日本的な文脈を織り込んだオリジナリティを確立している。そうした意味で二人とも極めて日本的なクリエイターともいえる。この国の文化の基層は、外来の文化や文物をローカライズして、習合させることで成り立っているからね。漢字にしても、仏教にしても」
「なるほどな」重野が応えた。「経済学者のケースだと、宇沢弘文があてはまるかな」重野が二杯目のブラントンのオンザロックを頼んだ。「新古典派の理論経済学者として出発した宇沢は、シカゴ大学で頭角を現し学派を形成するまでになったが、ベトナム戦争が激化する中で右傾化するアメリカの政治経済に対する失望と反発からアメリカを去ることを決意する。日本への帰国後、今度は社会問題として先鋭化していた公害の問題に直面する。当時の高度成長期の日本では、水質汚染や大気汚染などの公害が引き起こす、健康被害や環境問題が深刻な社会問題となっていた。そうした被害が起こった現地に足を運び、被害者の支援グループや市民運動にコミットメントする過程を経て、宇沢は従来の経済学が無視していた外部不経済–––市場の取引外で生じる不利益–––をも包括する経済学の理論を構想した」
「主流の新古典派経済学では、私有されていない自然環境は、企業や個人が利潤追求のため制約なしに使ってよいとされていた?」
「そう、宇沢はその前提に疑問をもったはずだ。そこで市場経済の外にある環境や制度を経済学の対象に取り込もうとした。具体的には、海や山や大気などを自然資本、交通や電力などを社会的インフラストラクチャー、教育や医療などを制度資本と定義した。そしてこれらを市場原理が適用されるプライヴェート・セクターとは別の体系で運用されるべき社会的共通資本として概念化した。参照されたのは、人類のあらゆる文化や地域で観察されるコモンズの存在だ。たとえば、イランのボネー、スペインのエルタ、インドネシアのスバクなどの灌漑用水や、日本の入会制度、イタリアのヴァーリ、西アフリカのアカディアなどの沿岸漁業についての共有管理システムだ」
「『見えざる手』に導かれて、市場が調和的に均衡するという伝統的な経済学のもつ一神教的な価値観を、市場の外にあるものを取り込むことで多神教的なそれに展開させたともいえるな」
「面白い逸話が残っている。一九九一年に時のローマ法王ヨハネ・パウロ二世に経済学者として、この社会的共通資本を御進講した宇沢を、後に法王は、宇沢のことを『あの仏教徒』と呼んでいた」
「神の意思において市場が常に均衡するという一神教的な経済学に、市場以外の概念を導入したことに多神教の仏教的な世界観を感じたのかもな。仏教には、ユダヤ・キリスト教のような超越的な唯一神は存在しない。
 仏教的な世界観だと、お前が今飲んでいるバーボンも大麦や水などの原料だけに還元できない。太陽、大地、空気、木、雨、風などのウィスキーの原料以外の宇宙のすべてがそれに含まれている。仏教の縁起や因果という概念では、森羅万象のネットワークの中で、様々な要素や事象が交差し、切り結んだ結果として、我々の目の前の世界は構成されている」
「単純な要素還元主義では世界は説明できないということか。ケネス・アローとジュラール・ドブルーは、エレガントな数学的な手法を使って、世の中すべての生産と消費が一致する一般均衡のモデルを定式化したが、それは極めて限られた条件のもとでしか成立しない。そこでは人間は、経済的な利益を最大化すること以外の関心を持たない。言ってみれば、贈与もボランティアも恋愛も友情も存在しない世界だ。行動経済学の分野でも、そうした経済人の実在は疑われている。
 さらに完璧な市場の存在が前提とされている。つまり、すべての消費者は購入する製品やサービスについて完全な情報を持っていて合理的に行動するし、市場には寡占や独占は存在しない」
「完璧な市場などといったものは存在しない。 完璧な絶望が存在しないようにね」と私が返すと、重野が鼻で笑いながら応えた。
「ケインズは大恐慌の時代に、市場の不完全性を明らかにした。たしかにあの時に、新古典派の主張するような完璧な市場は存在しなかった。そうした状況で、政府支出などを通じて人為的に需要を作り、市場を安定させるというケインズの示した経済に対する処方箋は、当時は革命的とも言えた。ポール・サムエルソンは『南海島民の孤立した種族を最初に襲ってこれをほとんど全滅させた疫病』にたとえてるし、ポール・クルーグマンは『世界の見方をまるっきり変えてしまい、いったんその理論を知ったらすべてについて違った見方をするようになってしまう理論』と言っている。二人ともノーベル経済学賞の受賞者だ」
「『見えざる手』のような超越的な力に頼らず、自助努力で問題を解決すると言う点では、ケインズ革命は仏教と似ているかもしれない。もっとも仏陀の説いた仏教は、瞑想によって解脱して、欲望を消滅させることを目的にしているから、解脱者が増えたらその分確実に需要も供給も減る。解脱者は、労働も生殖もしないし、喜捨で施される以外の自発的な消費もしないからね」
「ケインズは『孫たちの経済可能性』という一九三〇年に発表したエッセイで、百年後の世界を予想している。ケインズの予想では、今から約十年後の二〇三〇年の世界では、技術革新によって物質的な要求は満たされ、日々の生活を保証するレベルの経済的な問題は解決されている。これは今の先進国には、ほぼ当てはまる状況だな。
 今のところ当たってないのが、そうした社会では一日三時間も働けば十分なため、人々は余暇をどう過ごすかに頭を悩ませるだろうという予想だ。『特別な才能もない一般人』が趣味や余暇を見つけるのは大変だろうと、彼は心配している。一世を風靡した経済学者で、有能な財務官僚で、やり手の投機家で、芸術家との親交が深かった、貴族的なエリートを自認していたケインズならではでのご心配だろうが。今後、そうした世界が訪れるなら、瞑想に没頭する人間が増えるのも悪くない。みんなたいして働く必要がないわけだからな」
「俺もタイとミャンマーにリサーチに行ったら、ついでにミャンマーの瞑想センターにしばらく滞在してみようかと思っている」
「お前は働く必要があるだろ」と重野がまた笑った。「そういえば、ジョン・スチュアート・ミルも、経済成長の時代が終わった後の人口や資本ストックが一定となる定常経済を予想している。十九世紀半ばのことだから、ケインズより一世紀近く前になる。
 ミルが予想した定常経済では、資本や人口が定常状態にあっても、技術革新の進歩や文化活動の停滞は起こらない。むしろ利潤の追求という成長経済の中で求められる目標から解放されることで、より高次の発展が期待できると考えた」
「経済成長そのものは普遍的な価値観ではありえないからね。いつの時代も考えられてきた真・善・美や幸福の追求とは位相が違う」
「そうかもしれないな。経済成長が政府目標となったのは、第二次世界大戦後のアメリカからだ」グラスのブラントンのオンザロックを飲み干して重野が言った。「そろそろ帰るよ。明日も朝から役員会だ。少なくとも、うちの古参の役員たちは、五十年前の日本の高度成長期を体験しているから、経済成長の神話をいまだに信じている。俺も社外取締役として残るためには、彼らの意向に沿う提案をしないといけない。それが現実的かどうかは別として」
「また連絡する。ミャンマーから帰ってきた後になるだろうけど」
「ああ、またな。次に会う時は、お前は解脱してるのかもな。涅槃の世界がどんなものか教えてもらえるとありがたいよ」

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2021年8月31日火曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーヴァードライブ』1 2019年4月 福岡市大名(1)

3 二〇一九年四月 福岡市大名(1)

 福岡市の大名の雑居ビル内にあるバー「スモール・タウン・トーク」には、私以外の客はまだいなかった。バーテンダーの背後のスピーカーからダニー・ハサウェイの『L1VE』が流れている。午後七時の店内の空気はまだ酔客に掻き回される前で澄んでいた。  
 今夜、重野聡とここで待ち合わせをしていた。浄水通りの彼の祖父の邸宅で会ってから二週間あまりが過ぎていた。福岡南アジア美術館で学芸員との面談をセッティングしてくれた礼も直接会って言いたかったが、重野が多忙で、なかなか彼の時間が取れなかった。
 私がその間にしたことといえば、せいぜいタイとミャンマーの現代美術についてのレポートをまとめて、福岡南アジア美術館の学芸員、山本良恵へメールを送ったくらいだった。
 ギムレットを一杯飲み終わる頃に、重野がやって来た。私の隣のカウンター席に腰掛けて、ブラントンのオンザロックを頼んだ。いつの間にか、ターンテーブルの上の音盤がカーティス・メイフィールドのライヴ盤に変わっていた。今夜の選曲ははライヴ盤を中心に組み立てるらしい。 
「遅れて悪い。いろいろと立て込んでてね。大学は新学期が始まったばかりで、いろいろと行事がある。会社は、祖父さんが亡くなってから、新体制になったので、役員会が頻繁に開かれてる」
 仕事帰りの重野はヒューゴ・ボスのグレーのスーツで、茶色のコードバンのウィングチップを履いていた。私はデニムジャケットとチノパンツにスニーカーという普段着だった。
 「この前は、福岡南アジア美術館への口利きありがとう。おかげで学芸員に会えたよ」
「どうだった?」
「何とも言えないね。こちらは何の実績も肩書きもないわけだし」
「しかし、お前はなんで経済学部を卒業して、アートの仕事なんか始めたんだ?」重野が尋ねた。 
「いろいろと理由はあるけど、経済学的な観点からだと価格形成の面白さに惹かれたということになるかな。
 たとえば、アダム・スミスやカール・マルクスの唱えた労働価値説、つまり商品に投入された労働量によって価格が決まるという理論はあてはまらない。ピカソは九十一年の生涯でおよそ一万三五〇〇点という大量の絵画を描いているが、一枚当たりに要した時間は非常に短いと言われている。知ってのとおり、ピカソは美術市場で最も高い値段のつく画家の一人だ」
「キャリアの長さを考えれば、生涯を通じて投入された労働量は多いだろ」
「ところがそうとはいえないんだ。ピカソの評価は、キャリアの前半の方が圧倒的に高い。美術愛好家でもある経済学者デイヴィッド・ギャレソンが調査したところ、ピカソの二十代半ばに描いた絵は平均して一点につき、六十代に描いた絵の四倍の値がついている。つまりアートのマーケットでは労働価値説はあてはまらない」
「新古典派の限界効用説は適用できるだろう。供給量の限られた希少品だから、作品を一つ購入することによって得られる満足度が高い」
「必ずしもそうともいえないんだ。特に現代美術については。作り過ぎてもだめだが、寡作すぎるとマーケットで市場が形成されない。いまの傾向だと、マルティプルしやすい–––平たく言うとグッズ化しやすい–––アーティストの作品の価格が上がりやすかったりする。草間彌生も村上隆もルイ・ヴィトンとコラボレーションしているけど、そうした傾向とは無関係ではないだろうね」
「家の祖父さんはオリジナルのコレクターだったけどな。複製品の人気がオリジナルの評価に逆流してるってことか」
「そうとも言える。さっきの質問にもう一度答えると、古典派や新古典派経済学の枠に収まらない人間の欲望について関心があるからということになるかな」
「ずいぶんご大層な理由だな」重野が笑いながらまぜっ返した。「で、それで食えそうなのか?」
「正直まだわからない。競合が少ない東南アジアの現代美術に専門化するつもりだ。もうすぐリーサーチのため、タイとミャンマーに行く」

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2021年8月25日水曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーヴァードライブ』1 2019年4月 福岡市中洲(2)

2 二〇一九年四月 福岡市中洲(2)

 席に着いた彼女がウェイトレスにコーヒーを注文して、話し始めた。「すみません。突然上司に言われてここに来たので、事情がわかってないんです」
「こちらこそ貴重なお時間をいただいて、恐れ入ります。友人の親族のコネクションを通じて、東南アジアの現代美術を担当する学芸員さんを紹介していただくようお願いしました」
「それで本日はどういう御用件なんでしょうか?」
「銀座の画廊に勤めてましたが、一か月ほど前に退職しました。こちらで東南アジアの現代美術専門のギャラリストとして独立することを考えています。フリーのギャラリストとして何かお手伝いできることはないかと思い、お訪ねいたしました」
「ご存知かもしれませんが、まずは当館についてご説明させてください。当館は、南アジアの現代美術を収集、保存、展示する、世界唯一の美術館として一九九九年に開館しました。約三四〇〇点の作品を所蔵し、随時、展覧会などで展示しています。福岡市のアジアの美術関係者との交流は長い歴史があります。日本で最初のアジアの現代美術展『アジア美術展』が、福岡市美術館により開催されたのが一九七九年です。その頃から福岡市美術館によるアジアの現代美術の収集は始まっています。南アジアの現代美術の作品の多くは、西欧美術とは文脈が異なり、既存の美術館ではコレクションの展示がなじまなかったため、福岡市美術館から枝分かれする形で、当館『福岡南アジア美術館』が開館されました。開館を記念して、開館と同年の一九九九年に『第一回アジア美術トリエンナーレ』が開催され、その後、原則三年に一度、トリエンナーレはこれまで計五回開催されています。残念ながら諸事情で、二〇一四年を最後にトリエンナーレの開催は休止していますが、少なくとも、南アジアの現代美術に、世界で最も早く注目して、最初に取り上げたのは福岡の美術関係者であったことは確かです。早くから福岡市の学芸員が現地を訪れ、調査の上、アーティストを選抜、招聘し、展覧会を開催して、時には作品を購入したことで、南アジアのアーティストや学芸員には当館はよく知られた存在です」
 おそらくあちこちで何度も説明して慣れているのだろう。よどみなく流れるように一気に話し切った。 
「もちろん、公的な美術関係者には広く認知されているし、これまでの活動も高く評価されてるでしょうね。でも最近バンコクなどの東南アジアの大都市に増えている独立系のギャラリーの活動はご存知ですか?」
 彼女は、少し悪戯っぽく微笑んだ。「私どもが公務員だからといって、時流に疎いとは限りませんよ。美術の専門家としていつも現地の情報はフォローしています」
「失礼しました。ただ、東南アジアの新進のアーティストは、独立系のギャラリーが主な発表の場で、現地の公的な美術機関や美術関係者とは交流がないケースの方が多いです。私はそうした中からめぼしいアーティストやギャラリーを見つけて、関係を築いている最中です」
「もちろん存じています。そうした場所も海外出張した時の調査対象に入れています」
 彼女と話していると、東京のアートマーケットに属する人々と接していた時に感じていたのと同じ印象を受けた。社交的で、にこやかで、万事そつない。弾力性のある透明な繭のような膜に覆われていて、それより先に近づくとやんわりと押し戻される。
 地元出身者でないことは、言葉遣いや立ち振る舞いでわかる。美術館の学芸員は、オーケストラの楽団員と同様、極端な買い手市場だ。一定以上の規模の都市で、組織に欠員が出て、補充の求人を出すと、全国から応募者が殺到する。美大や音大からは、毎年確実に卒業生が送り出されるが、彼らが学んだことに関連する職種の求人は、同じ割合で増えていないからだ。彼女も相当な競争率を勝ち抜いて今の職を得ているはずだ。
「もしかしたら、私が知っている東南アジアのアーティストやギャラリー、現地の美術運動で、こちらの学芸員さん達がまだご存知ないものもあるかもしれません。よろしければ無償で現地の情報をご提供させていただけませんか?」もう少し粘ってみることにした。美術館の展示や購入を仲介する立場になれば、現地のアーティストやギャラリーから得られる信用や協力もずいぶん違ってくる。直接の収入にはならなくとも、やってみる価値はある。
「アジアの美術関係者の中では、当館のプレステージは、こちらで想像するよりずいぶんと高いです。東南アジアの現代美術家の中には、当館での展覧会の開催や、当館が中心となってキュレーションするアジア美術トリエンナーレへの参加を、自国外での認知を広める最初のステップと考えているアーティストも一定数います。そのため、先方から展示や購入のオファーも少なくありませんが、こちらで集客を望めるアーティストの作品でない限りお断りせざるを得ないのが現状です。もちろん無料で情報をご提供くださることはお断りしませんが」
「では後ほど、メールでレポートをお送りします。もしご興味のあるアーティストやギャラリーがあればお知らせください。来月、タイとミャンマーに行く予定です。ご紹介したアーティストの作品の展示や購入をご検討されるなら、私が彼らに美術館の意向をお伝えしますし、簡単な交渉なら代理としてお引き受けします」
「あまり期待されないでくださいね。ご存知の通り、当館は市営で予算も限られています。現代美術を扱う公立の美術館でも東京現代美術館なんかと比べれば、使える予算の桁が違います。正直言って、ここでは現代美術に関心のある人々の数は限られていますし、その中でも扱っているのが南アジアの現代美術ですから。東京やアジアの美術関係者には、世界で唯一の南アジアの現代美術に特化した美術館であることを評価されていますが、市民の皆さんの関心が高いとは言えません。西欧絵画、たとえば印象派やキュビズムのように、鑑賞のしかたが広く知られた分野でもないですし。どうしたら市民の皆さんに南アジアの現代美術をもっとご理解していただけるかについては、私たち学芸員もいまだ手探りです」
「いまのお仕事を始めてどれくらいなのですか?」
「二年になります。東京の美大を卒業して、しばらくフリーのキュレーターをやっていました。今の仕事が決まって、福岡に引っ越しました。まだ、こちらのことは知らないことばかりで」
「私も戻ってきたばかりですが、よろしければご案内しますよ。いちおう地元なので土地勘はあります」
 もう一度、彼女が微笑んだ。今度は、相手から何の感情も読み取ることができなかった。「ご親切にどうもありがとうございます。でも、職場の皆さんが気にかけてくださっているので、ご心配には及びません」
 彼女を覆う透明の膜が、再びやんわりと私を押し戻すのを感じた。

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2021年8月19日木曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーヴァードライブ』1 2019年4月 福岡市中洲(1)

 2 二〇一九年四月 福岡市中洲(1)

 重野に会った約一週間後、私は福岡市の中洲にある福岡南アジア美術館で人を待っていた。福岡南アジア美術館は、南アジアの現代美術に特化した世界で唯一の美術館だ。美術館は、福岡市の歓楽街、中洲の商業ビルの中にある。建物の上層フロアの二階(正確には高さを維持するため三階分のフロアを使用している)がこの美術館に割り当てられている。一〇〇〇平方メートルを少し超えるギャラリー二つと約四〇〇平メートルにシアターホール、図書室、カフェなどを備えた文化施設だ。
 
 私が福岡に移住した理由の一つに、東京よりも立地がアジアに近いことがあった。東南アジアのアーティストを専門にするギャラリストとして活動すれば、他の同業者との差別化ができるのではないかと考えたのだ。
 東京のアート・マーケットは、買い手も売り手も、ほぼ富裕層のネットワークに属していた。東京の中で連綿と資産や文化資本を受け継いできた人々だ。彼らの多くは、学費の嵩むリベラルな校風の私立高校の卒業生で、同じような服を着て、同じような話し方をし、(概ね誰とでも社交的であるものの)親しく付き合うのは同じ階層に属する人々とだった。直接の交流がない業界内の人物でも、仕事上の必要性が生じれば、知人や親族を通じて、比較的容易にコンタクトをとることができた。こうした地縁、血縁で結びついたネットワークの外にいる地方出身者で、名を知られた現代美術のアーティストとも特別なコネクションを持たない私が、東京で独立してアート・ビジネスを営むのは難しいと考えた。
 そこで、市場での評価がまだ完全に定まっていない東南アジアの現代美術に特化して、既存のアートディーラーとの差別化することを考えた。福岡は、アジアの現代美術を専門に扱う福岡南アジア美術館があるほか、アジアの二十数カ国の現代美術が一同に会する福岡アジア美術トリエンナーレを開催していた。アジアの現代美術がほぼ無視されていた時代から、市営美術館がアジアのアーティストの作品を購入していた歴史もある。

 今日この美術館へ来たのは、南アジアの美術を担当している学芸員にヒアリングするためだった。市の関連部署に電話をしても、メールを送っても思うような反応が得られなかったので(こちらに何の実績もないので当然ともいえるが)、重野の祖父の生前の美術関係者との伝手を頼って面談にこぎつけた。
 美術館併設のカフェでコーヒーを飲みながら待っていると、約束の午後一時半ぴったりに学芸員が現れた。
「お約束していた、小林天悟さんでいらっしゃいますか?」声の主は、三十代前半の女性だった。「はじめまして、山本良恵と申します」
「はじめまして、小林です」互いに名刺を差し出して、交換した。
 市営の美術館の職員だが、地方公務員にありがちな、個人の特性がまったく見えてこないタイプではなかった。むしろ正反対だ。sacaⅰのミリタリージャケットに同系色のカーキのタイトスカートを合わせている。髪はミディアムショートで、首筋のあたりで綺麗に切り揃えられていた。よく手入れされた爪には、ナチュラルカラーのマニキュアが塗られていた。ブラウンのミディアムカラーのアイシャドウに縁取られた二重の大きな目がくるくると動き、知的好奇心をもって外の世界を観察している。
 この日、私が着ていたのは、ジュンヤワタナベのグレンチェックのジャケットとチノパンツで、靴はグレーのニューバランスのスニーカーだった。スーツだと硬い印象を与えるのではと思い、それ以外で所有する数少ない比較的フォーマルな服をワードローブから選んでいた。この相手なら、今日の衣服の選択はそうは外していないはずだ。もちろん私のワードローブの極めて限られた選択肢の中での話だが。 

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2021年8月12日木曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーヴァードライブ』1 2019年4月 福岡市浄水通り(2)

1 2019年4月 福岡市浄水通り(2) 

 私が銀座の画廊を退職し、下北沢のアパートを引き払って福岡に移り住んだのは一ヶ月前だ。叔父が遺してくれたマンションにそのまま暮らすことにした。十階建マンションの五階にある2LDKのその部屋からは、すぐそばの大濠公園を見下ろせた。下北沢で借りていた1DKのアパートに比べればずいぶん広くて快適だ。大濠公園は、福岡市の中心部に立地する、美術館、能楽堂、日本庭園を内に備えた都市型の公園だ。二十二万六千平方メートルの大池を取り囲む約二キロメーターの周回歩道は、市民のジョギング・コースとして親しまれている。
 毎朝、起きると大濠公園でジョギングした後、部屋に戻ってコーヒーを淹れて飲んだ。ネットでニュースを読んで、協業の可能性のあるアートビジネス関係者に連絡を取った。夜は本棚から本とLPを取り出して、読書をしながら音楽を聴いた。テレヴィジョンの『マーキー・ムーン』やパティ・スミスの『ホーシズ』やルー・リードの『トランスフォーマー』を聴きながら、ロベルト・ポラーニョの『2666』やジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリの『千のプラトー』を読み、酒を飲んだ。おそらく叔父もこうして夜を過ごしていたのだろう。酒好きだった叔父は、小さなバーが開店できるくらいのボトルを残していてくれたので、幸い飲む酒に困ることはなかった。これも私のために残していてくれたのかもしれない。叔父の心遣いに感謝した。ボトルのコレクションは、スコッチ、バーボン、焼酎が中心で、日本酒やワインは少なかった。叔父の生前の私生活を連想させるような遺品は、部屋から注意深く取り除かれていた。

 重野にコンタクトを取ったのもこの頃だ。地場財界の重鎮であった彼の祖父の死は、この地で大きく報道された。
 一般に、価値のある美術作品がまとまって市場に出る機会は「3D」––- 死(Death)、離婚(Divorce)、負債(debt)–––と言われている。やはり私も、コレクターとして知られる彼の祖父の遺品が市場に出る可能性を考えた。
 
「家の遺族は、美術品を一括で買い取ってくれる業者を探している」と重野が言った。
「それは俺には手に余る仕事だな。二、三点なら買ってくれるコレクターを仲介できると思う。俺も自分のビジネス用の在庫として欲しいものがある。もちろんキャッシュの持ち合わせはないから、叔父から引き取ったマンションを売った金で買える作品になるけど」  
「遺産の処分の方針については、いま親族と税理士が話し合っている。それ次第だな。お前でも関われそうなら、また連絡するよ」 
「恩に着るよ」

 ジョージ・ネルソンがデザインしたテーブルの上に、PCに繋がれたVRゴーグルがあった。ゴーグルは横二十センチ、縦と奥行きが十センチ程度の大きさだった。
「これは何だ?」と私は尋ねた。
「機能的磁気共鳴断層撮影でスキャンした祖父さんの脳の活動を、プログラマーが作ったアルゴリズムで変換して映像化したものが見れる」
「何だってそんなことをしたんだ?」
「祖父さんは、三十年以上臨済宗の禅をやっていた。熟練の瞑想者の脳の活動は、普通の人間それとはけっこう違うらしい。祖父さんは現代美術のコレクターだったが、自分で作品を作ることはなかった。これを作ったのは亡くなる半年くらい前だ。これをインスタレーションと呼べるなら、祖父さんが作った生前唯一の作品と言えるかもしれない。自分でも何か作品を残したかったかもな」
「見てみてもいいかい?」
「ああ、ちょっと刺激的かもしれないが、お前なら大丈夫だろう」
 私はVRゴーグルを手に取って、自分の顔に取り付けた。
「じゃあ、PCをオンにして、これから流すぞ」後ろから重野の声がした。
 しばらくして、眼前に映像が浮き上がってきた。無数の発光する不定形なアメーバ状の物体が視界全体に迫ってくる。それぞれの物体はひも状に突起を伸ばしながら、相互に複数の物体と繋がっている。個々の物体から複数の突起が現れ、細長くそれを伸ばしながら、軟体動物の触手が何かを掴むように次々と他の物体に繋がっていく。まるで脳の神経細胞から軸索が伸びて、シナプスが他の神経細胞の樹状突起の受容体へシグナルを送っているのを見ているようだ。
 個々の物体は新しく現れては消え、それにつれて互いの接続点が変わることで、ネットワーク全体も不断に流動している。
 こうした現象を概念化したモデルがいくつかあったのを思い出した。
 ひとつは、空海の唱えた重々帝網だ。仏法の守護神である帝釈天の宮殿を飾る光り輝く網を例に取って説明された世界像だ。網の結び目ひとつひとつは、鏡球(宝珠)で、互いに鏡像を映し合っている。それぞれの鏡球に、全方位の他の鏡球が映り込むことで、鏡球のひとつひとつがネットワーク全体を包摂している。鏡球が互いに鏡映し合い、個であると同時に相互に連結したネットワークの全体である世界像。個々が相互に結びつき、映し合うことで、関係性が生じ、あらゆる事象が起きていく。空海は、世界を律する縁起の法則を、このモデルによって説明した。
 あるいは、ドゥルーズ=ガタリが提唱したリゾームの概念。ドゥルーズ=ガタリは、超越的な一者から他のものが派生していく固定的、不活的なツリー型の思考形式に対峙する、流動的で生命力を孕んだモデルとしてリゾームの概念を提唱した。多方に線が飛び交い、異質な結節点が互いに影響を与え合いながら、ネットワーク全体が生成変化して形成される、脱中心的で、始まりも終わりもない、個と全体の境界が不可分なエネルギーの力場だ。
 そして、現代美術の分野でも眼前の映像と同様の世界観を感じさせる作品があったのを思い出した。
 草間彌生の一九六〇年制作の作品『Infinity Nets Yellow(無限の網 黄)』だ。草間のスタジオを訪ねたフランク・ステラが個人的に買い取り、美術界で草間の再評価の機運が高まる中、二〇〇二年にワシントンのナショナルギャラリーにより百万ドルで購入された作品だ。個々のドットが相互に複雑に絡み合いネットワークを構成し、個と全体の境界が消失し、図と地が等しく存在する図像は、まるで空海やドゥルーズ=ガタリがモデル化した世界像をカンヴァス上に具現化したようだ。
 
 そして私の遍歴はここから始まった。行き先は、ダンテがくぐった地獄の門でも、ロバート・プラントが歌った天国への階段でもなく、ブッダの説いた涅槃の入り口だった。

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2021年8月7日土曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーヴァードライブ』1 2019年4月 福岡市浄水通り(1)

1 2019年4月 福岡市浄水通り(1) 

 私はタクシーに乗って、福岡市浄水通りの邸宅に向かっていた。浄水通りは、福岡市の緑に囲まれた閑静な高級住宅地で、大邸宅、高級分譲マンションが建ち並ぶ丘と、富裕層向けのレストラン、カフェ、ブティックなどが軒を連ねる麓を結ぶ約八〇〇メートルの並木道だ。一九八〇年代にジョルジオ・アルマーニが日本に本格的に参入する前に、テストマーケティングのため日本で最初のブティックを作ったのがこのエリアだと聞いたことがあるが真偽のほどは定かではない。
 目指す邸宅は丘の中腹にあった。タクシーから降りて、背の高い鉄扉の脇にある、風雨に晒されて年季の入ったインターフォンを押して、訪問を告げた。
「お約束していた小林天悟です」
インターフォンを通して返事があった。「ああ、いま行く」重野聡の声だった。
 内側から関が開けられ、鉄扉が開いた。「久しぶり。古い家だから電気解錠じゃないんだ」
 二年振りに会う重野は、ヒューゴ・ボスと思しきネイヴィーのピンストライプのスーツを着ていた。学生時代にラグビー部に所属していた胸板の厚い重野によく似合っていた。
 門から建物まで繋がる芝生に埋められた石畳を並んで歩いた。
「祖父さんが亡くなってから、誰も住んでない。生きていた頃は、祖母ちゃんと通いのヘルパーが二人いたが、今は家の両親が祖母ちゃんを引き取って、一緒に暮らしている」と重野が言った。
 
 邸宅のオーナーは、一か月程前に九十歳代で物故していた。彼は、地方銀行の頭取で、地場デベロッパーの創業者でもあった人物だ。現代美術のコレクターとしても知られていて、その嗜好は彼の経営するデベロッパー事業の開発物件にも反映されていた。一九九〇年代初頭には、先鋭的な現代建築家六人によるデザイナー・マンション群を福岡市郊外に建設したこともある。各棟に、レム・コールハース棟、スティーブン・ホール棟といった設計者の名前を冠したこの集合住宅群は、冒険的なプロジェクトとして、竣工当時、国内外の建築関係者の話題をさらった。
 二十メートルほど続く石畳の先にある建物は、ガラス張りの大きな窓が連なるル・コルビュジエ風のモダニズム建築だった。科学の進歩が人類の発展に貢献するとナイーヴに信じられた、地球温暖化の心配なんか誰もしなかった時代の建築様式だ。
 一階はギャラリーを兼ねたリビング・ルームとキッチンで、二階がベッドルームのようだ。一階は、二階へと繋がる螺旋階段以外はほぼ遮蔽物のない、広さ三〇〇平米メートル程度の段差のない平坦な空間だった。そこにオーナーの収集したコレクションが所々に展示されている。
 ジャクソン・ポロックの紙作品、ジャスパー・ジョーンズのマップ・シリーズ、プライス・マーデンのドローイング、ジョゼフ・コーネルの木箱を使った立体コラージュ、フランク・ステラの金属製オブジェ。一九五〇年年代から七〇年代にかけて制作された、抽象表現主義、ミニマリズムなどのアメリカ現代美術を中心に構成されたコレクションだった。日本が不動産景気に沸いた、一九八〇年代中頃から一九九〇年代前半にかけて蒐集されたようだ。その頃はデベロッパー事業が好調で、蒐集のための資金も豊富だったのだろう。アートが今ほど投資対象として一般的でなく、まだ1Tで成功した起業家が美術市場に参入する前の時代だったので、今よりずいぶん手頃な価格で購入できたはずだ。
 窓から見える庭は和洋折衷で、枯山水の様式に則っているが、小石や砂が敷き詰められるべき部分は芝生となっていた。ヘンリー・ムーアの彫刻作品が庭の中央にあった。
 オーナーのお気に入りだったと思しき作品の前には、ミース・ファン・デル・ローエがデザインしたバルセロナ・チェアが置かれている。ジャクソン・ポロックやプライス・マーデンなどがお気に入りだったらしい。
「相続税対策のため、この家も美術品も売り出す予定だ」重野が言った。

 重野が私をここに呼んでくれたのは、つい最近私がギャラリストとして独立したからだった。私が通っていた地元の国立大学の学生時代の友人だった重野は、好意で他の画商やオークションハウスに公開するより先にコレクションを見せてくれたのだ。重野は同じ大学の大学院へ進んだ後、経済学部の助教になっていた。彼の祖父が創業した地場デベロッパーの社外取締役も務めていた。
 私は大学を卒業してから、三年間電気通信会社に勤め、銀座の画廊に転職し五年働いた後、その職を辞したところだった。銀座の画廊では、比較的高齢の富裕層の人たちに、日本の作家の印象派風の絵画や美人画を販売していたが、やはり同時代的なアートの世界との接点が欲しくなり、独立することにした。

 私は両親が地方公務員という、ある意味典型的な地方の中流家庭に育った。公務員や教員といった浮き沈みのない堅実な職業を選択することが常識的な人生設計と考えている、いささか保守的な人生観と生活感覚を持ち合わせた親族や両親に囲まれた環境で育ちながら、決して安定的とは言えないアートの世界に職を求めることになったのは、母方の叔父の影響が大きかったのかもしれない。
 叔父は、大学を卒業してから、(彼の親族が考えるような)定職に就かず、組織に属することもなく、フリーのプログラマーと個人投資家として生計を立てていた。時間の自由がきくため、気が向くと一人でよく旅に出ていた。行き先は、美術館巡りのためヨーロッパだったり、ビーチでくつろぐために東南アジアの離島だったりと、その時々の興味や関心によって方々で、これといった一貫性や傾向はなかった。こうしたボヘミアン的な気質の叔父は、堅実さと安定性を良しとする保守的な価値観を信じて疑わない我が親族からは少なからず疎まれていた。私はこの二十歳近く年上の叔父が気に入っていて、小中学生の頃、福岡市の大濠公園近くの叔父のマンションへよく遊びに行った。それについて、母親があまりいい顔をしなかった。「小さな頃から協調性がなくて、一人で自分の好きなことばかりしていた、身勝手な人」というのが、母親の自らの弟に対する人物評だった。「あなたもあの人に似たところがあるので心配」という息子の私に対する懸念も、それほど間違っていなかったのかもしれない。
 一人暮らしの叔父は、自分の趣味に合わせてリノベーションしたマンションの一室で多くの時間を過ごしていた。プログラミングも金融取引も自宅のコンピューターを使って完結する作業なので、仕事のために外に出る必要がないのだ。叔父は、国内の株式市場の後場が閉じる午後三時以降は仕事をしないことにしていたので、小中学生時代は、週に二、三日は、放課後に叔父のマンションに寄った。天井近くまで達した壁全面を占める特注の本棚には、アナログ・ディスクと本が隙間なく埋められていた。二人でソファに並んで腰掛けて、叔父はビールを私はジュースを飲みながら、叔父が本棚から取り出してレコードプレーヤーに載せたLPを一緒に聴いた。レコードのコレクションは、ジャズ、ロック、リズム・アンド・ブルースが中心で、JBLの大型スピーカーから流れるのは、ドアーズの『ストレンジ・デイズ』だったり、スライ・アンド・ファミリー・ストーンの『暴動』だったり、マイルズ・デイヴィスの『ビッチェズ・ブリュー』だったり、ジョニ・ミチェルの『コート・アンド・スパーク』だったりだった。
 私が高校、大学へと進級すると、同年代の友人付き合いが忙しくなり、ひと頃よりは疎遠になっていった。社会に出てからは年に一、二回、東京から帰省した時に外で会って酒を飲む仲だった。最後に会ったのは、一年ほど前で、福岡市の大名にあるバーだった。勤め先から独立してギャラリストになることを考えていることを伝えると、「いいんじゃない。俺とかお前は、好きなことしか真剣になれないタイプなんだから」というのが叔父の意見だった。
 叔父が五十代の前半の年齢で、胃がんにより突然この世を去ったのは三ヶ月ほど前だった。身内の誰も彼ががんに罹っていたことを知らされていなかった。そして、叔父は生涯未婚だった。それほど多くない叔父の友人たちが葬式を取り仕切った。プログラミング言語の研究サークルの仲間やラテンアメリカ文学愛好会のメンバーが叔父の友人たちだった。何人かの身内が形式的に葬式に参列した。突然の死による葬式だったため、東京にいた私は参列できなかった。株式、債券などの金融資産は生前に現金化されて、死後は信託により、葬式の費用や手伝ってくれた友人たちへの心付けを差し引いた金額が途上国支援のNGOに寄付された。特別な贅沢をしなければ、人ひとりが十年くらいは余裕を持って暮らせる金額だ。法定相続人である母親はいくぶん不満そうだったが、信託は弁護士により滞りなく執行され、誰も口を挟む余地はなかった。遺言により、私は親族で唯一の相続人として、叔父が居住していた大濠公園のマンションの一室とそこに収められていた蔵書とレコードコレクションを受け継いだ。これについては、誰もさしたる不満はないようだった。みんなそれぞれ持ち家に住んでいたし、蔵書もレコード・コレクションも彼らにとっては処分が面倒なガラクタに過ぎないからだ。

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