そうした人たちの一人であるアジア系アメリカ人のティファニー・テンさんが、ミャンマーに来た経緯をブログに書いていたのを見つけました。彼女の人種的バックグラウンドについての記述も含めて、ミャンマーに来るに至った経験を面白く読んだのでご紹介します。
ミャンマーに来る日本人の若い人も増えているはずですが、今のところ日本人の若者が書いた、論旨が一貫した考察をまとめた文章を読んだことがありません。
彼女のように幼い頃から人種的な問題に遭遇して、自分のアイデンティティに自覚的にならざる得なかったケースと、学校や会社などの所属する組織でどういう種類の人間かをカテゴライズされることが多く、個人として自分が何者かを意識する機会が少ない日本人との違いかもしれません。
ミャンマーでアジア系アメリカ人でいること ティファニー・テン
中華鍋に当たった杓子がカチャカチャと音を立てて、脂っこい揚げ物が街角で作られている。サイドカーの付いた自転車が道を譲るようにベルを鳴らす。私はキュービクルの中の蛍光灯に囲まれたオフィス・スペースから飛び出して、野良犬とモンスーンが吹き荒れる土地へとやって来た。
ヤンゴンでは、私はだいたい欧米から来た外国人として見なされた。ヨーミンジー通りをWifiの使えるカフェに向かって歩いていると、別の外国人がEasy Cafeにやって来てアイスラテを頼んで、8時間も店に居座る。私はアメリカ、それともカナダ、フランス、中国から来たように見えるみたいだ。
ヤンゴンに住む外国人たちはみんな「どこから来たの?、どうしてここにいるの?、どれだけここにいるの?」と知りたがる。聞いてくる相手によって私の答えは変わってくる。「アメリカから」「ニューヨークから」もっと具体的に「ニュージャージーから」。そこは私が生まれた場所だし、本籍地には違いない。だけど、ここ数年の間そこを「故郷」だと感じたことがない。
「どうしてここにいるの?」
ミャンマーに住むことへの疑念は、私が一ヶ月前にヤンゴンに着いた途端に吹き飛んでしまった。三年間海外に移り住むことについて自問自答した末に、私はとうとう実行に移した。飛行機が着地した時に、胸が高鳴り、喜びがこみ上げて来た。とうとうミャンマーにやって来た。香港でも、上海でも、東京でもない。これは観光旅行ではない。私にとってのコンフォート・ゾーンの外で暮らすことなのだ。
そう、これがヤンゴンっ子に対する私のいつもの回答だ。
「ニューヨークから来たの! 会社で三年間働いたわ。それで、何か別の経験がしたくなった。大学院とフェローシップに応募した。コロンビア・ジャーナリスト・スクールとスクール・オブ・ヴィジュアルアートのイノベーション・プログラムに合格した。でも、ミャンマーに来たかった。それでここにいるの。フェローシップを得て、インヤー・レイクの職業訓練校で教えるの。最低一年間はいるつもりよ」
うわっ、何か恥ずかしい。野心満々で、自分の実績を並べ立てて、他人と違うところを見せようとしてる、典型的な自分探し中の20代半ばのゆとり世代みたい。7つもの「プロジェクト」を抱えているけど、本当の意味での目的も方向性も持ってない。でも、私は私のビジネスのバックグラウンドと、社会的インパクト(それと執筆や他の創作活動)に対する熱意を組み合わせて、最終的に漠然とそう呼んでいる「キャリア」として形成することを考えている。
ヤンゴンは暖かく私を迎え入れてくれた。それは私が心を開いて近づいていったからだろう。
自分への覚え書き:「ポジティブなマインドは、ポジティブな結果を生む」
私の好奇心は、今までで一番刺激的で、ファニーで、情熱的で、共感できる人たちに会わせてくれた。みんな何らかの理由を持って、ミャンマーに住んでいる。
パアンやバゴーのようなヤンゴンの外に出ると、アジア系アメリカ人は好奇心と同じくらい困惑に遭遇する。私はそれには馴れているはずだが、私のような外見の外国人に、いかに多くの人が馴れていないかに驚いてしまう。一見ミャンマー人かもしれない。でもすぐにいくつかのフレーズをつっかえて、「バーマ ザカ ネー ピョウ ダー(私は少しミャンマー語がしゃべれます)」と言うと、人種当てゲームが始まる。「日本?、韓国?」。私は中国人の血も少し入っているので、そう答えるのが一番正確かもしれない。ベトナム人?、フィリピン人?、それは私の特徴的な肌の色からの類推。彼らは私がどこから来たのか訊ねる。「ア・メ・リ・カ!」と私。その答えは、しばしば笑顔と握手を呼び起こす。別の機会では、答えてもまだよくわかってもらえずに、私がアジアの国から来たと思っていると言いたいけど、英語で言えないようだった。私が去った後も、謎はその場に残っていた。
私はこれまでの人生で、人種に関する問題とずっと付き合ってきた。一番最初の思い出は、幼稚園でクラスメイトが「何人?」と聞いたことだ。「アメリカ人」と私は答えた。小さい時に、ママがこれが正しい答えと教えてくれたからだ。目をくるくる回して、ため息の後に、次の質問が必然的に続く。「わかる。でもお父さんとお母さんはどこから来たの?」。知らなかった。両親はアジアの二つの違う国からやって来て、ニュージャージーで出会ったと、五歳のときにはどう説明していいのか知らなかった。パパはビルマで生まれたけど、ビルマ人ではない。私はこれをどう説明していいのか長い間わからなかった。
時は流れて大学時代。私は詩の入門クラスにいる唯一のアジア系の学生だった。Juda Bennett教授は私が授業に積極的に参加して、「大胆な選択」をすることで、私を可愛がってくれた。彼は中西部のヒッピー・コミューンで暮らしていた時代のことを話してくれた。ピース・コープに応募するよう私を励ましてくれた。彼は自分がそうしなかったことを後悔していた。「今となっては、私にはもう遅すぎるからね」
ニュージャージーみたいな保守的な州立大学にいても、私が外の世界に対する関心を失っていないとも言ってくれた。
オーケー、クール。でも、他人の人生を自分のものとして生きることはできない(こんな風に私はすぐに目の前の冒険を避けてしまう)。
私はニューヨークのロレアルで働きはじめた。楽しい時もあったけど、だいたいにおいてルーティンとやりがいの無さが辛かった。マダガスカルとペナンでのピース・コープへの応募に失敗した後、ウエストコーストとアジアに照準を据えた。私はアジア人の、あるいはアジア系アメリカ人の作家にハマった。Peter Hessler、Eddie Huang,、村上春樹、 Celese Ng。もしかして作家になれる?
アジアに来るまでずいぶん時間がかかった。ロレアルで働いた後、中国と日本とミャンマーをバックパッカーとして回った。帰国して、また働いた。アメリカで最も由緒あるブランドのブルックス・ブラザーズに入社した。ロレアルで働くよりもさらに嫌だった。たくさんのアジア地区のフェローシップ(フルブライトとか、シュワルツマンとか)とカリフォルニアでの仕事に応募した。両親は、私がニューヨークとニュージャージー近隣から離れることを認めなかった。私を子供のままにしておくため、より選択を困難にするため。でも、私の決心は変わらなかった。
そして今、私はここにいる。そして信じられないくらいハッピー。人種とジェンダーの問題には日常的に出くわす。そしてミャンマー人がこの問題にどう対処するかを目撃する。アメリカではこの問題にどう対処しているのかニュース記事を読む。私は変化を起こそうとしている。時間が自分にとって意味のある存在であるよう挑戦している。なんて時間は早く過ぎ去ってしまうのだろう。それは変化のめまぐるしいヤンゴンにふさわしいことかもしれない。そう私はここにいる。汚れた街路とやたらと蚊に刺される場所に。教えることと学ぶこと。ミャンマー語では、教えることも学ぶことも、同じひとつの言葉で表現する。そう、私は学んでいる。それだけは確かなことだ。
いかがでしたか?
私が彼女の投稿に興味を持ったのは、近年の文学への関心の世界的な潮流が、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェやジュノ・ディアスのような移住者や移民によるアメリカ文学に向かっていることに関連しています。チママンダ・ンゴズィ・アディーチェについては、ミャンマー文学との近接性をネタに以前ブログに書きました。
ジュノ・ディアスの『オスカー・ワオの短く凄まじい人生 (新潮クレスト・ブックス)』は、ここ5、6年で読んだ中で一番面白い小説です。ガルシア・マルケスとカート・ヴォネガット.Jrが合体したような作風で、しかも重要なモチーフとして日本のオタクカルチャーまで登場します(主人公が日本のアニメや特撮のオタク)。
チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの作品ではアメリカ国内のナイジェリア人コミュニティの場面が出てきますし、ジュノ・ディアスの作品にもカリブ系移民のコミュニティがルーツのアイデンティティ確認の場として機能していることが読み取れます。彼女の場合、自分の民族的なバックグラウンドを共有するそうしたコミュニティを持たないので、アイデンティティの在処を見つけるのが、より困難なのではないかと想像しました。
さらっとしか書いてませんが、WASP的価値観や美学の総本山であるブルックス・ブラザーズでの仕事は楽しめなかったようです。何があったのかちょっと興味があります。
将来、過去の経験を相対化できるようになった時に、その時の経験を書いたのを読んでみたいです。今は、まだその時期ではないのでしょう。
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