先週は、Facebookのタイムラインが、ボウイ関連の話題で埋め尽くされていました。
ただ、ミャンマー在住日本人やミャンマー人は、まったくと言っていいほど無反応だったので、一人くらいこの件について書いても良いかと思い、この投稿をします。
1. デヴィッド・ボウイと私
私が初めてボウイを聴いたのは、15歳位だったと思います。
『ロック名盤百選』みたいなガイド・ブックを読んで、当時、すでに名盤として評価されていた『ジギー・スターダスト』を知り、有名なアルバムらしいから聴いてみようと思ったのがきっかけです。
当時、厨二病真っ盛りの私は、当然のようにハマりまくりました。
思春期の自我の目覚めや、ロックリスナーの感じるマイノリティとしての疎外感といった当時の心情に、ボウイの楽曲がピッタリと寄り添うに感じられたのですね。今、思い出すと、気恥ずかしいですけど(笑)。
それから、『アラジン・セイン』、『ロウ』とアルバムを聴き進み、すっかり私の思春期時代のアイドルの一人となりました。
地方の中途半端な進学校で、抑圧的で鬱屈した青春を過ごしていたため、ボウイは、そうした状況から精神的に解放されたいという願望を仮託する対象であると同時に、その存在のあり方が権威的なものからの解放の象徴として感じられた訳ですね。
ティーンエイジ・アイドルとしてのボウイ受容の典型的な例だったと思います。
高校を卒業して大学生になると、環境が変わり、すっかり能天気になったため、いつしかボウイを聴く機会も少なくなってしまいました。『レッツ・ダンス』以降のアルバムは、ほとんど聴いていないので、忠実なファンとはとても言えませんね。
ボウイについて詳しく知りたい方は、NHKサウンドストリートの放送の書き起こし「渋谷陽一、デヴィッド・ボウイ(David Bowie)を語る」をどうぞ。私のボウイ観は、大部分、渋谷陽一氏に影響されています。この放送もリアルタイムで聴いていたはずです。
2. デヴィッド・ボウイと仏教
ボウイのキャリアの特徴として、アルバム毎にコンセプトを明確に設定して、楽曲もヴィジュアル・イメージもキャラクターも次々と変化させていったことがあげられます。
中性的な衣装に身を包んだ地球に落ちてきた異星人(グラム期)--> カルロス・アルマーやルーサ・バンドラスといったアメリカのソウル/R&B畑のミュージシャンを起用したブルー・アイド・ソウルマン(プラスチック・ソウル期)--> ブライアン・イーノとベルリン三部作を製作した耽美的なアーティスト(退廃的ヨーロッパ人期)--> シックのナイル・ロジャースをプロデューサーとして抜擢したポップスター(MTVポップスター期)と時代や本人の興味の変遷につれて、サウンドやイメージやキャラクターが目まぐるしく変化して行きます。
現在、原始仏教について、理論・実践の両面から、明晰かつ簡略な解説・説明がなされていると評価の高い『仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か』という本を読んでいますが、読んでいて分かり辛かった部分が、ボウイのキャリアをイメージしたことで理解が進みました。
この本で説明されている、「我・無我」についての部分です。
ブッタは、「常一主宰」の「実体我」を否定しています。
それでは、ブッタの「自らを島とし、自らをよりどことして、他をよりどころとせず」という発言の「自ら」とは何?、という疑問が生じます。加えて、仏教の謂う輪廻転生があるなら、「実体我」のない世界での輪廻の主体は何か?、という疑問も生じてきます。
本書では、ブッタは「常一主宰の実体我ではない経験我については、必ずしも否定していない」、仏教で言及される自己とは、「縁起の法則にしたがって生成消滅を繰り返す諸要素の一時的な(仮の)和合によって形成され、そこで感官からの情報が認知されることによって経験が成立する、ある流動し続ける場のことである」と述べられています。
これを読んでも、いまいちピンと来なかったのですが、ボウイについて、それぞれの特定の活動期(ex.グラム期)の中に実体を探すのではなく、変化・流動し続ける運動体として捉えることで、アーティストとしての全体像を結ぶことをアナロジーとして考えたことで、腑に落ちた気がします。
仏教の理解にも役立つとは、ボウイの偉大さを改めて認識します。
3. デヴィッド・ボウイとミャンマー
冒頭にも述べた通り、ミャンマー国内ではボウイの訃報に関してのリアクションはほとんどありませんでした。試しに、事務所の子にボウイを知っているかどうか聞いてみたのですが、やはり知らないとのことでした。1962年から2011年までのボウイのキャリアを占める大部分の期間を、事実上の鎖国をしていたので当たり前と言えば、当たり前ですが。
ただ、ミャンマーのジャーナル『Myanmar Times』には、ボウイについての記事が掲載されていました。英『Guardian』誌からの転載記事ですが。
そう言えば、半年くらい前にバンコクで買ったボウイTシャツをミャンマーで着ていても、突っ込まれたことがありません。先週、イギリス人が経営する近所のカフェ&バーRough Cutで、これを着ていたら軽くプッとされたのが、唯一の反応らしい反応です。
まだまだ、ミャンマーに来る外国人のタイプもビジネス一辺倒の人が多く、アートとか音楽とかファッションとか文学とか、つまりボウイが一人で総合化して、体現したような分野に興味がある人が少ないようです。
私も話し相手が欲しいので、そういう人が増えてくれたら嬉しいです。
ゴルフと買春の話題には、まったく興味がないので。
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