2022年1月24日月曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーバードライブ』15 (2)

 15(2)

  私たちの関心は、しだいに社会状況を反映して、私たちを取り巻く不条理な世界を表現することへと向かいます。描かれる作品も具象絵画から抽象的、表現主義的なものへと変わりました。
 そうして、私たちは「レベル88(Level88)」と名付けた美術グループを結成します。レベルの綴りは、反抗を意味するRebelではなく、水平や同等を表すLevelです。八月八日に集まった人々の願いや思いが、あたりまえの日常になることへの願いを込めて名付けました。
 私たちはグループ展の開催を企画します。
私たちの制作した作品を展示することは、当時のミャンマーでは困難でした。展覧会を開催するには、事前に情報省の検閲部の許可が必要でした。展示作品の点数、それぞれの作品のサイズ、作品の内容などを申請しますが、抽象画などの展示の許可はなかなか下りません。当局が美術と認めるのは、農村や寺院を描いた伝統的な具象絵画で、そこから外れた作品は反社会的、反体制的な意図を持つとみなされました。仮に展示ができても、検閲官がやってきて、作品に展示不可のスタンプを押すこともありました。検閲官は、作家の意図に関わらず、黒は闇、国軍のシンボルカラーである緑は軍、赤は革命を象徴していると勝手に解釈して規制しました。
 ヒトラーは、ダダイズムやキュビズムなどの新しい美術を退廃美術と呼んで弾圧しました。スターリンも前衛美術を禁止し、写実的な作品以外の制作を許しませんでした。独裁者のすることはみな同じです。
 でも、暴力でデモのような直接的な運動は封じ込めても、想像力や精神の自由まで奪うことはできません。作品を創造することは、社会の要求する常識や規範から自己を解放し、己の生を肯定することを意味します。強圧的な権力が自由な表現を恐れるのは、想像力が最も純粋な形の不服従だからでしょう。私たちには特定の政治的な意図やイデオロギーは存在しませんでした。ただ、想像力のおもむくまま自由に表現できる場を求めていただけです。軍事政権が押し付ける無意味な決まり事や規則に従わずに済む、ささやかでも自由な空間を作りたかったのです。
 そうして、私たちはゲリラ的にグループ展の開催を始めます。展示会場は、川沿いの倉庫、あるいは空き家や廃墟となったビルなどです。場所は毎回変えました。秘密警察の目を逃れるためです。グループのメンバーの親類や知人の物件で開催する時はオーナーの許可を取りましたが、打ち捨てられた廃屋や廃墟となったビルなどを会場にした時は無許可で展示することもありました。長年にわたって経済が停滞していたこの国には、当時の首都ヤンゴンにも誰も管理していない空き家や廃ビルがたくさんありました。明け方に会場に作品を運び込んで展示し、午後三時に撤収というスケジュールです。照明がないので夜間の展示はできません。車を持っていたメンバーは車に作品を積んで会場にやってきましたし、私のように車のないメンバーの作品は、小型のトラックを持っていたアウン・ミンがまとめて運んでくれました。
 来場者は私たちレベル88のメンバー十人のみです。秘密警察に知られれば逮捕されて、投獄される危険もありましたから、関係者を最小限にする必要がありました。この秘密のグループ展は、在学中は半年に一度の頻度で開催していました。秘密の会場で、互いの作品を鑑賞し、批評し合うのはエキサイティングな体験でした。あの頃、自分を表現する場は他にありませんでしたから。
 制作を重ねるうちに各人のスタイルも確立されていきました。アウン・ミンは寓意を含んだ表現主義的な作風、ボー・ナインは抽象表現主義に影響を受けた抽象画、テット・テットは国軍のプロパガンダ看板を素材にしたポップアート作品といった風に。私はイヴ・クラインやルーチョ・フォンタナといった知的なアプローチで美術の枠組みを拡張するアーティストに惹かれました。彼らの表現には、私が専攻していた数学の論理的な美しさに通じるものを感じました。
 その頃、現代美術について入手できる情報は非常に限られていました。当時のミャンマーは、ほぼ国交を閉じていましたし、もちろんインターネットもありません。船員が海外から持ち込む本や雑誌、あるいはフランス文化を紹介する施設Institut français de Birmanieの図書室にある美術関係の本だけが情報源でした。私たちは、数少ない情報を互いに共有しながら、手探りで新しい表現を模索していきました。
 私たちが大学を卒業してからは、互いの時間を合わせることが難しくなったため、年に一回の開催と決めました。私は卒業後の進路として、数学を学んだことが活かせる、計画・財務省や中央統計局などの政府機関への就職を考えていましたが、国軍の弾圧を目の当たりした後は、政府のために仕えるという気持ちにはなれませんでした。Institut français de Birmanieで現代美術のことを調べるのと同時に、この施設の提供するフランス語のクラスに通いました。フランス語ができれば、図書室にある美術書の解説も読めるようになると考えたからです。受講後も独学を続けるうちにかなり上達したので、フランス語を教えることで生計を立てることにしました。今は自分で教室を開いていて、頼まれれば家庭教師もしています。
 私たちは卒業してからも、必ず年に一度グループ展を開催することを誓い合いました。
みんな美術以外で生計を立てながら創作を続けました。そして、グループ展で集まった時に、一年間の創作の成果を発表します。作品が展示されたのは、麻袋が山高く積まれた倉庫の片隅や、廃ビルの奥まった部屋の中や、打ち捨てられた家具が散乱する廃屋などでした。
そうした場所で、互いにメンバーの作品を鑑賞し、批評します。そこは、想像力を解放し、自らの思いをためらいなく口にできる唯一の場所でした。私たちには、民衆が政府に従順であるように、あらゆる規則や規範が張り巡らされた社会からの避難所が必要でした。私たちはのグループ展は、想像の王国への亡命だったとも言えるかもしれません。私たちは、その王国に仕える宮廷芸術家でした。作品が飾られた廃墟は、私たちの作品を奉納する、名も知れぬ神を祀る神殿でした。
 早朝から午後過ぎまでのグループ展が終わると、私たちは元いた世界に戻って行きます。
帰りの車の中で、「地下と地上の破壊分子に注意せよ」という国軍のプロパガンダ看板を見て、アウン・ミンが「俺たちも破壊分子になるのかな?」と言って、笑っていたのを覚えています。
 グループ展が終わってからも、折に触れてメンバー間で連絡を取り合い、創作の進捗を伝え合いました。もちろん当時は携帯電話もSNSもありませんから、電話での伝言ゲームのような連絡方法でした。私たちの他にも、ミャンマーにいくつか現代美術グループは存在しましたが、交流はありませんでした。どこかで情報が漏れて秘密警察に伝わることを私たちは恐れてましたから。実際、他の現代美術グループのメンバーが、見せしめ的に投獄されることもありました。
 普段は政府が押し付ける現実の社会で暮らし、年に一度、私たちが本来住むべき想像の王国へ戻る、そんなことが二十年以上続きました。いえ、むしろ私たちにとっては、政府の提供する社会が虚構で、私たちの作り上げた想像の王国こそが現実でした。その場所でのみ、私たちは、自らを解放し、自由に語らい、議論し、共感し合えたからです。
 結局、軍事政権は二十三年間も続きました。政府の規制や検閲は、時期によって厳しくなったり、緩くなったりしましたが、いずれにせよ表現の自由はありませんでした。検閲官の気分や独断で、作品や活動が反政府的・反社会的なものとみなされました。反政府的だと判断されたアーティストや軍事政権を風刺したコメディアンが投獄されて、三年近く獄中で過ごすことも珍しくありませんでした。運が悪ければ拷問を受けました。拷問の方法は、鉄棒で殴る、電気ショック、熱湯をかけるなど様々でした。彼らの想像力は人間が多様な存在であることを認めるよりも、人々を弾圧する方法を考え出すことにもっぱら発揮されたようです。過酷な獄中生活で、精神や肉体を病んでしまった人もたくさんいます。
 幸い二〇一五年の総選挙で、アウンサンスーチーさん率いるNLD(国民民主連盟)が大勝し、今のミャンマーは民主政権によって運営されています。一九九〇年の総選挙でもNLDが勝ちましたが、軍事政権は選挙結果を認めず、同じ政権がその後もずっと続きました。その時代と比べると大きな進歩です。
 今では、アウン・ミンは自分のギャラリーを運営して、後進の育成に努めています。ボー・ナインはアムステルダムに渡って創作活動を続けています。私が大学を卒業した後、しばらくして父が亡くなり、母と弟を養う必要があったため、海外に行く夢は叶いませんでした。フランスで美術館を回って、美術書でしか見たことがない作品を思う存分鑑賞するのが私の夢でした。それでも、こうして創作活動を続けれられているのは幸せです。仲間の多くは日々の生活に追われるあまり、美術への熱意を失い創作を断ちました。十人で始まったレベル88のメンバーの中で、今でも創作を続けているのは、アウン・ミン、ボー・ナイン、私の三人だけです。
 ここは私たちの記憶の集積庫です。若かった私たちの希望や理想、そして失望や挫折が、それぞれ作品の形を取って積み重なってます。
 私は時折この部屋を訪れて、メンバーの作品を見直します。すると、その作品が過去のグループ展に出品されたときの誰かの批評や巻き起こった議論の記憶が蘇ります。時には辛辣だったりすることもあったけど、そこには創作への情熱を共有しているという親密な空気が常に漂っていました。
 「これは単なるノスタルジーなのだろうかか?」私は自分にそう問いかけたことがあります。答えは「いいえ」です。
 ここには輝かしい勝利も、目覚ましい成功も、万人が認める賞賛もありません。でも、私にとってここに眠る作品は、創作の起源、表現の始原が刻まれた碑のようなものです。
 私たちの作品は、現代美術の潮流という観点から見れば、時代遅れで不恰好なのかもしれません。現代美術の世界が情報戦なのは私も知っています。美術史や美術業界のコンテキストを理解した上で、斬新なコンセプトを打ち出せなければ評価の対象になりません。入手できる情報が乏しく業界のルールも知らない私たちは、そうした知的ゲームに参加することさえできませんでした。
 でも、ここが私たちにとっての原点である以上、やはりここから出発する他ありません。それが流された血、失われた命、未来を奪われた者たちへの私たち–––少なくとも私に課せられた責務なのです。

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2022年1月17日月曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーバードライブ』15 (1)

 15(1)

 私たちの活動は一九八八年に遡ります。この時、私たちは美術サークルに属するラングーン大学の学生でした。専攻は生物学だったり数学だったりと–––私は数学科の学生でした–––ばらばらだったけれど、美術に対する関心や情熱を持った学生が自主的に十人ほど集まって結成されたサークルです。講義のない土日の教室に外部から講師を招いてデッサンなどを学んでました。
 この年の三月に喫茶店でラングーン工科大学の学生達と地方政府の高官の息子との間で、他愛のないことで喧嘩が起こりました。騒ぎが大きくなって警官がやって来た時に、学生の一人が射殺されました。工科大学の学生は怒り、デモが始まります。この運動は五マイル先のラングーン大学へもすぐに飛び火します。きっかけは何だってよかったのだと思います。一九六二年の軍事クーデターから続く軍事政権に学生たちは飽き飽きしてましたから。ラングーン大学は常に政治運動の中心でした。建国の父アウンサン将軍による植民地からの独立運動もここから始まりました。
 
 その週のうちに両大学の学生による共同デモが起こります。一万五千人を超える学生たちがインヤー湖畔に集まりました。棒も石も持たない平和的なデモでした。しかし、政府は軍と治安警察を出動させます。軍用トラックで追い立てられた学生は湖に逃げ込みました。溺れて這い上がろうとする学生は警棒で殴られ、沈められました。四十人あまりの学生が溺死しました。自動小銃により発砲もあり、二百名を超える学生が射殺されました。逮捕された学生達が小さなトラックに多数押しこまれたため、警察署に着くまでに四十人が窒息死するという事件もありました。この後、すべての大学が三ヶ月閉鎖されました。
 
 それでも、軍政に対する抗議や抵抗は衰えることなく、八月八日にゼネストと大規模なデモが起こりました。一九八八年の八月八日に起こったため、我が国では8888民主化運動として知られています。
 この時のデモには二十万人近い人々が参加したと言われています。それまでの学生が中心だったデモとはスケールがまったく異なるものでした。ダウンタウンのスーレー・パゴダ前は、見渡す限り人で埋め尽くされていました。学生、公務員、農民、医療関係者、法律家、仏教徒、ムスリム、あらゆる職業、階層、年齢の人間が集いました。こんなことは今まで一度もありませんでした。あちこちから「打倒一党独裁」や「デモクラシーの獲得」を叫ぶ、地鳴りのようなシュプレヒコールが湧き上がりました。何かが変わるかもしれない、軍の高官に独占されていた富や権力が平等に行き渡る社会が訪れるかもしれない、そんな期待とそれがもたらす高揚感にデモ隊全体が包まれていました。この時に感じた一体感や高揚感は、今でもリアルに思い出せます。

 この日を境に、軍政への抗議から始まったデモは、しだいに民主主義の実現、経済の自由化といった主張へと焦点が絞られていきます。
 私たちの美術サークルも、学生のデモ隊が掲げるスローガンが書かれた幟や横断幕を作るのを手助けしました。私はそれまで特に政治に興味がある学生ではありませんでした。それ以前のデモにも参加しませんでした。両親から危ないから行くなと止められていましたから。でも、周囲の熱気に押されて、この日のデモには参加しました。大規模なデモはその後四日間続きました。私の参加した日ではありませんでしたが、軍はやはりデモ隊に発砲し、多数の人が亡くなりました。

 しかし、運動はこの後だんだんと停滞し始めます。理由の一つは、運動に明快な戦略を欠いていたことです。軍事政権側も少し譲歩の姿勢を見せたこともありましたが、双方の落とし所を見つけることができませんでした。
 もう一つの理由は、運動全体を統括して指導するリーダーが現れなかったことです。
ミンコーナイン、モーティーズンといった学生活動家は8888民主化運動を主導していました。そして、母親の介護のため一時帰国中だったアウンサンスーチーさんが押し出されるように政治の表舞台に登場したのもこの頃です。でも、運動を一本化して、軍事政権と交渉する人物は現れませんでした。
 
 状況が行き詰まる中、運動もしだいに暴力化していきます。政府のスパイがデモ隊の飲料水に毒を入れたのが発覚した時は、五人の首が切られ、晒首が通りに並んでいたと聞きました。爆弾を持っていると疑われたカップルが誤って斬首される痛ましい事件もありました。政府のスパイがデモ隊に紛れて運動を撹乱しようと試みたため、疑心暗鬼になった群衆の間でリンチや処刑が相次いだとも聞いています。多くの交番が暴徒に襲われ武器が奪われました。逮捕されたデモの参加者を収監するのと入れ替わりに、服役中の犯罪者が刑務所から大量に釈放されて街の治安が悪化しました。街に放たれた犯罪者は、デモを煽動して暴力を誘発するよう言い含められていました。政府のスパイや暴徒から身を守るために、地区ごとに武装した自警団が結成されました。デモはあちこちの地域で散発的に起こっていました。

 膠着と混乱が深まる中、九月十八日に事態は大きく動きます。その日の午後四時過ぎに国営ラジオ局の番組が突然中断し、軍隊行進曲が流れました。それに続いて男性のアナウンサーが、法秩序の回復と治安維持のため、民意に基づき国軍が全権を掌握したと告げました。一九六二年以来のミャンマーで二度目の軍事クーデターでした。軍用車が当時首都だったラングーンに集結してきました。国境で少数民族のゲリラと戦っていた部隊が呼び寄せられたのです。それから二日間、兵士達が非武装の市民を撃ち始めました。街中に銃声が響き渡りました。この時、動くものはすべて撃たれたと伝えられています。民家の窓際に人影が見えても撃たれました。私は息を潜めて家族と家の中に閉じ篭っていることしかできませんでした。この軍の弾圧による死亡者は千人とも三千人とも言われていますが、正確な数はいまだにわかっていません。民衆を制圧すると戒厳令が敷かれ、集会は禁止されました。こうして自由を求める私たちの願いは圧倒的な暴力によって潰されました。
 およそ一万人の学生が逮捕を恐れて国境地帯に逃れ、カレン民族同盟(KNU)やカチン独立機構(K1O)といった長年国軍と対立しているゲリラ組織に合流しました。私の同級生も何人か行方知らずとなりました。彼らのその後は、生死すらわかっていません。
 翌年、国名はビルマからミャンマーへ、首都はラングーンからヤンゴンへと改称されました。民主化運動の拠点となった大学は閉鎖され、キャンパスを遠い郊外へ移転させることで、学生運動の芽を摘みました。

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2022年1月13日木曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーバードライブ』14

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 ゲストハウスの近くでタクシーを拾って、プーから教えられた住所へ向かった。二十分ほど走って着いた場所は、ヤンゴン郊外の住宅街で、通りの両側に四、五階建の古びたアパートが並ぶ連なりが、一〇〇メーターほど先の大通りが横切るまで続いていた。それぞれのアパートの下には日本の中古車が隙間なく路上駐車されている。人通りは少ない。商業施設らしきものもないので、ベッドタウン的な地域なのかもしれない。 
 すべての建物が同様に古び、コンクリートの外壁は煤けて黒ずんでいる。個別の特徴らしきものがないため、建物の区別がつかない。路上に捨てられたゴミや果物を売る露店などの人の暮らしを感じさせるものがなければ、ゴーストタウン化した廃墟だと言われても信じるだろう。
 メモに書かれた建物の番号と、建物入り口の上部に取り付けられた金属プレートに記された番号を照合して、中に入った。狭い玄関口を抜けて、粗いコンクリートで作られた急な階段を登る。階段は埃っぽく、ペットボトルやタバコの吸い殻が散乱していた。フロア毎に向かい合わせに二つのドアがある。最上階の五階まで登って、部屋番号を確かめて、右側のドアの横に付いた呼び鈴を押した。

 内側からドアを開かれた。迎えてくれたのは銀縁の眼鏡をかけた中年女性だった。五十代の中頃だろうか。地味な茶系のロンジーの上にシンプルな白いブラウスを着ていた。何かの研究者のような学究的な佇まいの人物だった。
「ようこそ、Khin Suです」と彼女は言った。挨拶を済ませると中に通された。
 コンクリートの床が剥き出しとなった装飾のない部屋だった。壁はミントグリーンに塗られていた。ミャンマーの賃貸物件では一般的な壁の色だ。多数のカンヴァスに描かれた作品が壁に掛けられたり、無造作に重ねて壁に立て掛けられている。人が住んでいる気配はない。
「ここは私たちの作品の倉庫として使ってます」と彼女は言った。「私たちの活動についてプーから聞いてますか?」
私は首を振った。「いえ、長く活動されているということ以外は知りません」
「説明すると長くなりますが、お時間は大丈夫?」と気遣うように彼女は尋ねた。
 私は頷いた。「特にこれから予定はありません」
「じゃあ座ってお話ししましょう」そう言って彼女は部屋の隅にあった青いプラスチック製の椅子を二脚部屋の中央に置いた。我々が向かい合わせに座ると彼女は話し始めた。

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2022年1月10日月曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーバードライブ』13

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 午前中に〈Bodhi Taru〉のカフェで、MacBookを開いて福岡南アジア美術館の学芸員、川奈梨沙へSoe MayとChu Chu Khineの作品の写真にキャプションを付けてメールを送信した。
 昼前になって今年最初のスコールが降った。大粒の雨が灼けたコンクリートの舗道を激しく叩きつけた。荷車にココナッツを山積みした行商人や自転車の横に車輪の付いた座席を取り付けた人力車の車夫がずぶ濡れになりながら、庇や屋根を求めて通りから走り去った。来月六月になれば本格的な雨季に入る。それからは、ほとんど晴れ間の見えない空の下、断続的な豪雨で腰の高さまで路面が泥水で冠水する日々が雨季の明ける十月末まで続く。
 ビル・ブラックがテーブルに近づいてきた。「紹介するよ。共同経営者のプーだ」。そう言って、隣の小柄なミャンマー人女性へ手をかざした。
「あなたはアートの仕事をしてると聞いたわ。私も〈グリーン・エレファント・ギャラリー〉というこちらの作家を扱うギャラリーを経営してる。海外とも取引してて、昨夜シンガポールから戻ってきたばかりよ」。短髪の女性はそう語った。無地の黒のTシャツとグレーのショートパンツを履いている。年齢はおそらく三十代後半で、化粧気はなかった。
「東南アジアの現代美術をリサーチしてます。いい作家や作品があれば日本の美術館やコレクターに紹介するつもりです」
「有望な作家は見つかった?」と彼女は訊いた。
「Soe MayとChu Chu Khineという二人の作家は日本でも評価されそうです」と私は答えた。
「あの二人は最近注目されてる作家ね。他のギャラリーの専属だけど」。彼女は、そう言って肩をすくめた。「うちで扱ってるのは主にミャンマーで長く活動している現代美術家なんだけど、関心があるなら紹介するわ」
「ええ、ミャンマーの現代美術の歴史に詳しいとは言えないので、興味があります」
「じゃあ、ちょっと待って」。そう言うと彼女は別のテーブルの上に置いたスマートフォンを手に取って電話をかけた。通話先とミャンマー語で話しながら、私の方を向いて尋ねた。「明後日の午後三時は空いてる?」
「大丈夫です」と返事した。ここに泊まっている間は、街のギャラリーを見て回るつもりだったが、行き当たりばったりに回るより紹介者のいた方が効率が良いだろう。
 彼女は電話を切ると傍のナプキンにボールペンで文字を書き込んだ。「明後日の午後三時にここへ行って」ナプキンにはミャンマー文字の住所とKhin Suという名前が書かれていた。

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2022年1月3日月曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーバードライブ』12

12


   Soe Mayに別れを告げてギャラリーを後にした。ここからマハバンドゥーラ通りを二キロメートルばかり西に進むとボージョー・アウン・サン・マーケットがある。宝石、骨董品、民芸品などを扱う店が一〇〇〇軒あまり密集する観光客向けのバザールだ。ここにもギャラリーがいくつかあると聞いていたので、覗いてみることにした。
 英国植民地時代から続くコロニアル様式のアーケード状の建物は歴史を感じさせるものの、マーケットで売られている商品は雑多で、これといった工夫もなく、食指の動くものはなかった。施設内に点在するギャラリーを何軒か回ったが、ミャンマーの風景を印象派風に描いた絵画、僧侶やパゴダなど外国人にとってエキゾチックなモチーフを描いた旅行者向けの作品が主流で心動かされるものはなかった。さしずめチャイナ・トレード・ペインティング–––十八世紀末から十九世紀後期の清朝で描かれた西洋への輸出用絵画–––のミャンマー版といったところだ。
 早々にボージョー・アウン・サン・マーケットを出て、裏口の石畳の舗道伝いにローカル環状線の鉄道を跨ぐ木製の陸橋を登った。橋の片側に露店がいくつか出ていた。地べたに敷いたビニールシートの上に川魚や鶏肉・豚肉、野菜や果物が無造作に並べられている。魚や肉の生臭い匂いが鼻を突いた。四十度近い気温の中を歩いてきたので、体は汗まみれになっていた。今は五月の中旬で本格的な雨季に入る前だが、空気は湿気を孕み始めていた。街を行く現地の人々の半分程度は男女とも民族衣装である巻きスカート、ロンジーを穿いていた。トップスはTシャツが多い。この気候の中で一番過ごしやすい服装なのだろう。
 陸橋を降りた先はヨーミンジー通りに通じていた。ブティックホテルや外国人向けのカフェ、レストランが集まるエリアだ。何か目新しいものはないかと付近を散策していると、入口にカラープリントされたビニールシートの横断幕が張られた建物が目に入った。
「An Exibition by Chu Chu Khine」という
個展を告げるキャプションとその文字を挟んで、髪を高く結い、片手に尖塔のような形をした何らかの儀式に用いられる壺を片手に抱えた同じ女性の絵が左右対称に配されていた。女性はエンジーと呼ばれる長袖のブラウス状の民族衣装を上に着ているがボトムスはショーツ一枚だった。
 描かれた絵の奇妙なコントラストに惹かれて中に入ってみることにした。敷地内には木造二階建ての建物を改装したギャラリーがあった。交差した木製の格子により菱形の幾何学模様を形作った窓が二階に並んでいるのが見える。ミャンマーの伝統的な意匠を持つ古民家だった。少しばかり京都の町屋を連想させる。木製のアーチ状のポーチをくぐってドアを開けると、中は白く塗られた壁にアクリル絵の具で描かれたカンヴァスが等間隔に架けられた空間だった。私の他に客はいなかった。
 展示されている作品はすべて外の横断幕と同じ顔の女性像だった。皆髪を高く結っている。記録写真などで見る、日本の正月の鏡餅のように円形が二段重ねになった形状のビルマ王朝時代の女性のヘアスタイルだ。正面を向いた女性達の視線はカンヴァスの中からこちらに向けられているが、そこからは何の表情も読み取れない。伝統的な衣装を身につけた女性像は、半裸だったり、はだけた衣服から乳房が覗いていたりした。性的なタブーの強いミャンマーで裸婦像の作品は珍しい。背景は民族衣装のロンジーに使われる柄が描かれているか、作品によってはロンジーの布が直接カンヴァスに貼られているものもあった。
 絵の中の同じ顔をした半裸の女性達は、足を組んだり、広げたり、腕を組んだり、頬杖をついたりしていて、どことなく挑発的な態度のように見える。同じ人物が異なった衣装を着て、様々なポージングを取るという表現手法はシンディー・シャーマンの「アンタイトルズ・フィルム・スティール」を思い出させた。ステレオタイプ化された女性像に対する問題意識が作品の核となっていることも共通している。現代美術の分野では、いささか定型化されたテーマだが、それを補ってあまりあるだけの強度とオリジナリティが作品を世界的な水準にまで押し上げていた。スマートフォンで作品の写真をいくつか撮って、作家の名前をアプリのメモに記入した。
 展示スペースは二部屋で、奥の部屋から入り口に通じる部屋に戻って外に出ようとしたところ、若いミャンマー人の女性から作品がカラー印刷されたパンフレットを渡された。丈の短い上衣のエンジーと巻きスカートのロンジーというミャンマーの伝統的な民族衣装姿だった。上下とも光沢のある白地のシルクに金の刺繍が施された高級感のある生地で仕立てられていた。ミャンマーで着られている民族衣装は、仕立て屋に客が気に入った生地を持ち込んで作らせた、一点物のオーダーメイド品だ。テーラーの看板は、ヤンゴンの街角の方々にあげられている。ミャンマー人女性は、行きつけのテーラーを必ず持っていると言われている。他の国の女性が、気心の知れたスタイリストのいる美容院に通うのと似ている。
 パンフレットを受け取ると、「私の個展はどうだった?」と訊かれた。
「これ君が描いたの?」と私は驚いて尋ねた。こんなに若い女性の作品だとは思っていなかった。
「そう」と彼女は微笑んで答えた。笑うと丸みのある頬にえくぼができた。真紅のリップが引かれた口元から綺麗な歯並びが覗けた。くっきりと弧を描いた太い眉の下の大きな瞳は意思的な眼差しを宿している。褐色の肌と彫りの深い顔立ちの典型的なビルマ美人だ。
 虚を衝かれて咄嗟に言葉が出てこなかった。言うべきことを考えながら改めて彼女の姿を眺めた。タイトなエンジーとロンジーが細身の体にぴったりと張り付いている。長く伸ばされた黒髪は背中まで達し、室内の照明を反射してひそやかな煌きを放っていた。数秒間の沈黙の後、彼女に訊いた。「描かれているのは同じ女性に見えるけど何か理由はあるの?」
「女性達はマンダレー王朝の女官をイメージしてる。イギリスの植民地になる前の最後の王朝ね。私はマンダレー出身なの。私の地元では、この時代の女官がいまだに理想の女性像だったりするわ」。彼女は絵の一枚を指差しながら答えた。
「女性が半裸だったり、下に身につけてるのがショーツだけだったりするのは何か意味があるの?」
「民族衣装を着た女性達がセクシャリティを強調しているのは、この国の女性に求められるステレオタイプの女性像に対する違和感から来ている。女性達が現代的なポーズを取ってるのも、女性を縛るそうした過去の因習めいたものが現代へと繋がっていることを表しているの」
「背景がロンジーの柄なのもそうした意図が反映してる?」
「そう」と彼女は頷いて、再び微笑んだ。
「日本で展覧会に参加したり、作品を販売することに興味がある? 君の作品は海外でも受け入れられそうだ。ミャンマー固有の民族的なモチーフとテーマの世界性が共存してるから」
「ありがとう。去年パリで個展を開いたわ。評判も上々だったし、絵も何枚か売れた」
 彼女は若いけど、まったく無名の作家というわけでもないようだった。すでに目を付けている海外の画商もいるのだろう。気付くのが遅かったかなと少しばかり後悔した。
「日本の福岡という都市に南アジアの現代美術に特化した美術館があるんだ。そこの学芸員へ君の作品を紹介してもいいかな?」
「もちろん。他の国で私の作品が認められるのは嬉しいわ。今のところ海外ではヨーロッパとシンガポールでしか個展をしたことがないから」
「君の作品を見せて、先方に関心がありそうなら連絡する。展示とか購入とかにつながればいいけど」
「ありがとう。今までギャラリーでの経験しかないから、美術館で作品を展示できる機会があれば嬉しいわ」
 渡されたパンフレットにも書かれていたが、Facebookのアカウントとメールアドレスを念のため確認してギャラリーを出た。エアコンの効いた室内から外に出ると、湿気を含んだ熱帯の空気が体にまとわりついた。湿度の高さが雨季の到来が近いことを告げていた。

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2021年12月31日金曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーバードライブ』11

 11

  待ち合わせの場所は、ダウンタウンのギャラリー〈Burm/art〉だった。マハバンドゥーラ通りの東端にあるそのギャラリーは、現地に住むアメリカ人女性が運営していると聞いた。
 ギャラリーでは個展が開催中だった。磁器の立体作品がいくつかの台座の上に置かれていた。壁に取り付けられた作品もある。台座の上の作品群は、植物と女性像や人体パーツが融合した不思議なフォルムのものだった。ぱっくり開いた大きな傷口を持つトルソーには、内部から伸びた枝が複雑に交差し、葉を茂らせ、棘を尖らせ、花を咲かせていた。壁に取り付けられた蛇をモチーフにした作品群も胴部から触手のような突起が飛び出し、葉と花が絡みついた内臓を備えていた。
 面会の約束をしていたSoe Mayの作品だった。彼女はアメリカのアート誌に「注目すべき三〇歳未満の三〇人のアーティスト」の一人に選出されたこともある。日本でその記事を読んだ私は、今回の面会を申し込んでいた。アメリカとミャンマーを行き来している彼女は折良く私のミャンマー訪問時に一時帰国していた。
 ギャラリー内の壁で仕切られた事務スペースから二十代後半の中国系の女性が現れた。
「Soe Mayさん?」と私は声を掛けた。
「連絡してくれた日本の人?」と彼女は言った。
「そうです。お会いできて嬉しいです」
 背は高くないが恰幅が良い体型で、セミロングに伸ばされた髪は額で横分けされていた。化粧気はない。Vネックのシンプルな黒のワンピースを着ていた。
 彼女の促すままに傍のテーブルを挟んで向かい合わせてに腰掛けた。
初対面の挨拶を済ませると展示されている彼女の作品について尋ねた。「磁器の立体作品ばかりなのは何か理由はあるの?」
「私は中国系ミャンマー人の三世としてここで育ったの。私の実家は、ここの近所のチャイナタウンにある。家には先祖の代から伝わる花瓶や茶器があって、磁器は身近な素材だった」
「自分の民族的なアイデンティティを反映させるためにこの表現を選んだ?」
「最初はそんな深い理由はなかった。創作を始めたのも化学を学ぶつもりでシアトルに留学したんだけど、定員いっぱいで入れなくてファインアートの学科に入ったのがきっかけ。いろいろと試してみたけど、絵筆でカンヴァスをなぞるより、手で直接粘土を捏ねる方がしっくりきたの」
「人体のパーツと蛇が作品のモチーフになってるけどこれはなぜ?」
「人体パーツの作品はある種の自己像ね。伝統的なミャンマーの社会が求める女性性に対する違和感や自分の内側にある他者性が表れている。蛇はいろんな意味に表彰化されることに惹かれるの。邪悪さの象徴とも吉兆とも見られる。ミャンマーの神話では守護神のひとつでもある。そしてわたしの干支は蛇なの」
「二つとも君のアイデンティティに根ざしてるんだ。どちらのモチーフにも内部が露出してて中に植物のようなものが見えるね」
「自分の経験や精神性のいろんな要素が出てきたみたい。受けた傷と生命力、死と再生、儚さと永遠性、どうとでも解釈できるけど自然に湧き出てきたものなの。作ってるうちに自分のアイデンティティが自然に現れた感じ」黒めがちな瞳を真っ直ぐに向けて彼女は答えた。「故郷を離れて創作を始めたアメリカでの孤独感や疎外感、それ以前にも、ビルマ人がマジョリティであるミャンマー社会に、中国系ミャンマー人として完全に溶け込めなかったことも関係してるかもしれない」
 対立する多様な要素を含みながら、それらを一体化した彼女の作品は彼女の出自や経験も反映されているようだ。「君の作品にはミャンマー的な土着性と同時に世界に繋がる普遍性も感じさせる。閉じられた部分と開かれた部分が両立している。それは君が中国系ミャンマー人であることやアメリカでの経験が反映されたからなんだ」
「おそらくそうなんだろうけど、あまり自己分析はしないことにしてるの。それが足枷になって作品の幅が狭まるのを避けたいから」
「それもそうだね」と私は答えた。「ところで僕は日本の福岡というところに住んでる。あまり知られてないけどヤンゴンの姉妹都市でもある。ここに福岡南アジア美術館という南アジアの現代美術に特化した市営の美術館がある。ここに作品を収蔵することに興味がある?」
「その場所もその美術館のことも知らないけど、公営の美術館に私の作品が展示されるのは魅力的ね」
「それにASEAN各国からレジデンス・アーティストも招聘している。一定期間住んで、創作活動のためのアトリエが提供されるし、ワークショップを開催することもできる。よかったら向こうに、いま受け入れ枠があるかどうか確認してみるよ」アメリカのアート誌に取り上げられた実績のある新進アーティストなら美術館側も受け入れに積極的だろうと予想して提案してみた。
「制作拠点にしてるアメリカとASEANで最大の現代美術のマーケットのあるシンガポールでの活動で手一杯だから日本のことは考えたことがなかった」と彼女は戸惑いがちに答えた。「ミャンマーには条件に合う窯と粘土素材がないからシアトルの工房を借りて制作してるんだけど、そうした制作に必要な環境は用意してもらえるの?」
「大丈夫だと思う」
「考えてみるわ。アメリカよりも日本の方が近いから制作拠点としては便利だし」
「それに東京より福岡の方が南アジアに立地が近い分、文化的な親和性がある。日本で初めてアジアの現代美術展が開かれたのも福岡だし」さらにひと押ししてみた。彼女の創作するユニークな立体作品を東京よりも先に紹介したかった。「帰国したら担当の学芸員と相談してみる」 
「わかったわ。まだ、決めてたわけじゃないけど。日本に行くことは考えたことがなかったし」
「できるだけいい制作環境が準備できるよう交渉してみる」
「ありがとう。条件次第で考えてみるわ」

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2021年12月27日月曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーバードライブ』10

10

 翌朝、窓から差し込む日射しで目を覚ました。外を見ると燕脂色の僧衣に身を包んだ托鉢僧達が近隣の民家を回っていた。在家の住民達が僧が抱えた鉢の中に米を注いでいる。ミャンマーで毎朝繰り返されている光景だ。
 バスルームで洗顔して外を散策することにした。ホステルのある路地から大通りに出ると向かいにカンドージー湖が見える。通りを横切って、湖のある柵内の敷地に入った。敷地内には湖を囲んで公園やレストランが点在している。
 湖上に渡された木製の遊歩道を進むうちに、賑わっている場所があるのを見つけた。そちらを目指して歩くと〈Yangon Farmers Market〉と入口に垂れ幕が掛かった広場に行き着いた。入ってみると三十あまりのテントが設置され、テント毎に様々な野菜や果物が販売されていた。見たこともない南国の果物を並べられたテントもある。フレッシュジュース、ジャム、コーヒー豆などの加工した食品も売られている。この場所で定期的に開かれている朝市のようだ。看板やパッケージに、オーガニックであること、地場産であることを謳っているのが目立った。訪れている客は、外国人とミャンマー人が半々だった。民生移管後に外国人居住者が増えて、こうしたオーガニック食品の需要も生まれているのだろう。ひと通りテントを眺めて、来た道を引き返した。
 
 宿に戻ると、一階のカフェにビル・ブラックがいた。
「おはよう、どこかに行ってたの?」そう言って、テーブルの上のMacBookから顔を上げてこちらを見た。
「湖の周りを散歩してた。朝市をやってたよ」と言うと、「ああ、あれは毎週末やってるんだ」と彼は答えた。 
 私も彼の近くのテーブル席に座った。「オーガニックとかローカル・メイドとかを強調した店が多かったけど、そういうのがこちらでは盛んなの?」と訊いてみた。
「ここに住む外国人と一部の裕福なミャンマー人相手の商売だね。まあ、うちのカフェの客層もそうなんだけど」
「ここを始めてどれくらい経つの?」と私は尋ねた。
「一年半くらいだね。その前はここの1LOで働いてたんだけど」
「ミャンマーは住んで長いの?」
「八年くらいになるね。イギリスの大学でビルマ語を学んだから、ミャンマーに来るのは当然の成り行きだった。君は観光に来たの?」
「ミャンマーは三回目なんだ。東南アジアの現代美術のリサーチのために来た。日本でアート関係のビジネスをしている」近くにいたミャンマー人のスタッフにスムージー・ボウルとカプチーノを頼んだ。
「共同経営者のプーがギャラリーをやってるからよければ紹介するよ。彼女は今シンガポールに行ってるけど、今週戻ってくる。たしか君の滞在は一週間だったよね?」
「ここには一週間泊まる予定だ。それから瞑想センターに行くつもりなんだけど。ギャラリーをやっている君の共同経営者に会えると嬉しいな。いろんなツテがあった方がいいから」
「戻ってきたら教えるよ。彼女もミャンマーにいるときは、だいたいここにいるから」
 スムージー・ボウルとカプチーノが運ばれてきた。スムージーにはスライスしたマンゴーとバナナとキウイがトッピングされていた。スプーンですくって口に含むとココナッツ・ミルクと果物の甘い香りで口内が満たされた。「ありがとう。瞑想センターに行くのは君の共同経営者に会ってからにするよ」と私は答えた。

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2021年12月14日火曜日

【小説】『ニルヴァーナ・オーバードライブ』9

9 

 チェックアウト時間の十一時前に部屋を出て、レセプションにキーを返した。コンドを出ると、スーツケースを引いてコンドと同じブロックの裏手にあるカフェ〈ブルーダイ・カフェ〉に入った。ミャンマー行きの飛行機は夜の便なので、それまで時間を潰すつもりだった。
 トンローの住宅街の一画にあるそのカフェは、近隣の若いタイ人が主な客層だった。MacBookでグラフィック・デザインをしたり、動画を編集している独立系のクリエイターらしき若者も数人いた。梁の横木が剥き出しになった天井と寄木張りのフローリングのウディなインテリアの店で、四分の一程度が物販スペースになっていた。アメリカのヴィンテージ・ウェアの古着を吊るしたラックと地元の作家による陶器が並べられた棚が置かれている。木枠のガラス窓から前庭に植えられたパームツリーとシダ植物が見える。とりあえずパスタとカプチーノを頼んだ。昨日ビールを飲んだ〈ロイヤルオーク〉の隣にあった日系の古本屋で買ったフィリップ・K・ディックの小説を読んだ。
 カフェには二時間ほど滞在した。スーツケースを引いてスクンビット通りに出て、歩道脇のエレベーターで高架を登り、トンロー駅の改札に達するまで十分くらいだった。トンロー駅からBTSに三十分ほど乗車してモーチット駅に着くと、高架を降りてバス停へと向かった。ドンムアン空港行きのエアポートバスのバス停にはすでに十人くらいのバックパッカーが列をなしていた。行列の最後尾に並んでバスを待った。午後の日射しが容赦なく肌を刺した。たえず行き交うバスやタクシーが吐き出す排ガスが周囲に沈殿していた。熱気と息苦しさで意識が朦朧としてくると、いったい自分がどこに居て、どこに向かおうとしているのかも分からなくなってくる。空港行きのA1バスが来るまで二十分ほど待った。頭がぼうっとしたままバスに乗り込んだ。スーツケースを荷物置き場に置いて、なんとか空いていた座席に座る。タイ人二割、外国人が八割くらいの割合でバスは満席だ。女性の車掌が乗客一人ひとりを回って、個別に三〇バーツを徴収して、バス券を渡していく。高速道路を三十分ほど走った後、バスは空港への連結路に沿って旋回しながら国際線ターミナル前に到着した。
 ドンムアン空港国際線ターミナル1は搭乗手続きを待つ旅行客でごった返していた。L C Cの旅客数が世界最多であるこの空港は、ASEAN各国と中国各地との定期便が発着の大部分を占めている。スーツケースを持った旅行客の行列が、チェックイン・カウンター・エリアの外側に設けられた柵を幾重も取り巻いている。通路が人とスーツケースや手荷物カートで塞がれているため、空港内を歩くのもままならない。私の搭乗便の出発時刻は午後七時半で、空港に着いたのが 午後三時半頃なので時間の余裕はあるはずだが、この様子だと搭乗手続きのためチェックイン・カウンターにたどり着くのにどれだけ時間が掛かるのかも分からない。とりあえずチェックイン・カウンター・エリア入口の反対側まで達した列の最後尾に並んだ。私の搭乗便の受付はまだ始まってなかったが、列で待っているうちにその時間になるだろう。
 二時間あまり並んで、チェックイン・カウンター・エリアの内側に入った。カウンターで搭乗手続きを済ませ、スーツケースを預けた。搭乗時間まで一時間半程度あったので、空港内のフードコートでグリーンカレーを食べ、シンハービールを飲んだ。
 搭乗ゲート前のロビーの座席もほぼ満席で空いてるシートは少なかった。床に座り込んでスマートフォンを触っている乗客も多い。
 搭乗ゲートから離れた場所の空いている席を見つけて座った。搭乗時間まで一時間あまりあるので、カフェで読んでいたフィリップ・K・ディックの小説の続きを読んだ。荒廃した火星で日々の暮らしに苦闘する地球からの移住者や未来を幻視する自閉症の少年が登場するが、移動で疲れているせいかストーリーの展開が頭に入らない。
 読書に集中できなくなると周囲を見渡した。ミャンマー行きの複数の定期便のための搭乗ゲート並ぶ出発ロビーなのでここで待つ乗客はミャンマー人が多かった。ある程度裕福なミャンマー人にとってバンコクは手近な買い物エリアとなっている。特に若いミャンマー人にとっては、最新のファッションや風俗に触れられる先端エリアとして人気が高い。
 予定の出発時間を三十分ほど過ぎてから搭乗開始のアナウンスがあった。搭乗ゲートをくぐって、外に横付けされたランプバスに乗り込む。駐機場を横切って、タラップの付けられた機体前にバスが着くと、乗客はめいめいバスを降りて、タラップを登り、機内に入っていく。
 ノックエアDD4238便は定刻より三十分あまり遅れて離陸した。バンコクの高層ビル群と渋滞した車のヘッドランプの連なりが織りなす夜景が遠ざかると、窓の外は闇に包まれた。離陸して一時間ほどで機体はヤンゴン上空に達した。街の上空を飛んでいるはずだが眼下の光はまばらだった。ただ、ライトアップされて黄金色に輝く巨大な仏塔シュエダゴン・パゴダだけが闇の中で光を放っていた。
 ヤンゴン国際空港に到着したのは午後九時前だった。イミグレーションの列に並ぶ人間の数はそう多くなく、十五分ほどで入国できた。空港で手持ちの米ドルを現地通貨のチャットに両替し、スマートフォンを使うために五〇〇〇チャット分のプリペイドカードを買った。ミャンマーに来るのは三回目で、現地キャリアのS1Mカードはすでに持っているため、必要分をチャージをすればいい。
 スーツケースを引いて入国ロビーに出るとタクシーの運転手が次々と群がってくる。ミャンマーでは、タクシー運賃は料金交渉をして決める。空港発のタクシーは、相手側が強気になるため、運賃が割高になる。スマートフォンで配車アプリのGrabを起動してみたがディスプレイ上に車が現れない。空港からの利用客には相場より高い料金を請求できるため、システムが料金を自動計算するGrabを使わせないのが不文律となっているようだ。空港の敷地外の通りまで出てGrabを使うという方法もあったが、朝からの移動で疲れていたので気が進まなかった。何人かのドライバーと交渉して、宿まで一万チャットで折り合った。相場より二、三割割高だがしかたない。
 空港を出発した車はピーロードを南下して進んだ。まばらに並んだ蛍光灯の街灯が街路を仄暗く照らしている。インヤー湖に差し掛ると湖の尽きるところで左折してインヤロードに入った。前方に黄金色に輝くシュエダゴン・パゴダが見える。パゴダを覆うのは本物の黄金で、肉眼では見えないが尖頭部分の装飾にはダイヤモンドやルビーなどの宝石が七〇〇〇粒以上ちりばめられていると聞く。ASEAN最貧国であるこの国の富のすべてをこの仏塔が吸い込んでいるような気がしてくる。
 タクシーが予約していたホステル〈Bodhi Taru〉の前に停車した。通りの両側に四、五階建てのローカルアパートメントが並ぶ裏通りだった。僅かな街灯に照らされた薄暗い通りの先に、黄金色のシュエダゴン・パゴダが輝いている。
 ホステルは一階がカフェで、二階が宿泊施設となっている。一階部分は一面のガラス張りなので、天井から吊るされた暖色の白熱灯に照らされた内側が見渡せた。十席ほどの木製のテーブルとソファが三席、奥は右側がキッチンカウンター、左側に二階の宿泊施設に通じる階段が見える。カフェの営業時間は過ぎていりようで客はいなかったが、三十代半ばの白人男性が奥のテーブルでMacBookを開いていた。
 中に入って「今夜から宿泊予定なんだけど」と声を掛けると、立ち上がって「ああ、予約していた日本人だね。ようこそ。僕はオーナーのビル・ブラック」と言った。立つと身長が百八十センチ近くあるのがわかった。金髪の長髪を後ろで縛ってポニーテールにしていた。細面の顔にボストン型の眼鏡が載っていた。欧米人にしてはスリムな体型だった。どことなく三十代の頃のジョン・レノンを思わせる風貌だ。アクセントと雰囲気からおそらくイギリス人だろうとあたりをつけた。
「案内するよ」彼はそう言って、カウンター下からキーを取り出した。彼の後に付いて奥の階段を登った。ドミトリーが二室、個室が二室の小規模なホステルだ。宿泊サイトで予約したが、空いていた個室を予約していた。キングサイズのダブルベットが置かれたシンプルな内装の部屋だった。バスルームとトイレは共用のため部屋内にはない。テラスに面した窓からミントグリーンに塗られた向かいの民家が見えた。
「じゃあ。明日の朝も下のカフェにいるから何か用事があれば遠慮なく言って」そう言うと下に降りて行った。
 ビールが飲みたかったが周囲に買えそうな売店はなかった。朝からの移動で疲れていたので、共用のバスルームでシャワーを浴びて、歯を磨くとすぐに寝た。

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