2016年12月28日水曜日

おそらく経済的な意味でのフロンティアではないミャンマーが、フロンティアである理由 (2)

前章、「1. たぶんミャンマーは経済的な意味でのフロンティアではない」の続きです。

2. ミャンマーが経済的なフロンティアではないのは、ミャンマー国内の問題以外の要因も大きい

そもそも投資先としてミャンマーが注目されるようになったのは、約5年前に事実上の鎖国を解除した政治的な転換の他に、先進国諸国が過剰生産力(過剰資本)に見合う市場を見つけられなくなっているから(需要不足)という理由があります。
もちろん、こうした過剰生産力の行き着く市場として途上国が注目されたのは、ミャンマーが最初ではありません。ゴールマン・サックスがBRICSレポート(「Dreaming with BRICs The path to 2050」)を2003年10月に発表したのを嚆矢とするのが一般的な認識でしょう。
さて約15年間にわたって展開された、資本主義経済から隔離されていた国の市場をグローバル企業の新興市場に転換するある種の社会実験だったのですが、成果はどうだったのでしょう?
詳細は分かりませんが、どうもインドの一部の地域と中国の沿海部以外はぱっとしないのが実態ではないしょうか。それ以外の地域が発展して、独自の産業を生み出したとは聞きませんし。
考えてみれば歴史の発展過程が、単線的・直線的に発展するというマルクス経済主義的な進歩史観は、社会や(経済を含む)制度は環境や民族固有の神話を変数とした方程式の解に過ぎず、すべての現象は相対化して評価すべきという構造主義的な分析方法に塗り替えられて久しいので、途上国がG7やOECD参加諸国同様の発展段階を経るという仮定はかなり厳しいような気がします。

以下に同様の主張のリンクを貼ります。

ブラジル・ロシア・インド・チャイナという“周辺”が成長して、世界経済をけん引するというシナリオなのですが、このシナリオは、単線的発展段階論の考 え方で、遅れた国がいずれ進んでくるということを前提にしています。インドはいずれイギリスになるというような考え方です。最初は鳴物入りだったこの議論も、最近は思ったような成長発展が見られず、ずいぶんと旗色が悪くなってきています。結局、“低開発化”された“周辺”は“中核”とは異なる道を歩んでいるので、同じような成長をすることはできないのです

ミャンマー(ビルマ)に限って言えば、1886年に王制から英植民地になり、第二次世界大戦中の一時的な日本軍占拠時代を経て、1948年独立国家、1962年社会主義国家化、1988年の軍政期以来2011年末まで事実上の鎖国という歴史を辿っていて、そこに資本主義的なシステムの痕跡を探すことは困難です。
ミャンマーへの進出を検討する海外企業は、自国同様のマーケットがミャンマーに存在するという前提を捨てるのが妥当でしょう。それぞれの国・土地には固有の歴史や文化があり、それが海外からの投資に不向きだからと言って文句を言う筋合いは基本ありません。

なぜ、この5年間多くの海外の個人投資家や企業がミャンマーに押し寄せていたのか、最近読んだ水野和夫著『株式会社の終焉』(ディカヴァー・トゥエンティワン、2016年)に準拠して、論を進めます。

日本の10年国債利回りは2.0%以下という超低金利が20年近く続いていました。それは、先述したように『地理的・物的空間』における利潤率が低下したことに起因しています。別の言い方をすれば、設備投資をして製品を作っても儲からない低成長の時代が続いているからです」(P44)

日本とドイツは、10年国債利回りもマイナスとなっていますが、これは、日本とドイツが世界で最も『資本係数』が高い国だからです。資本係数とは民間資本ストックを実質GDPで割った比率です」(P49)

(資本係数が年々上昇していることについて)「資本係数の増加率がプラスだということは、実質GDPより資本ストックの増加率が高いことを意味します

(フォルクスワーゲン、三菱自動車のデーター改ざん問題、東芝の不正会計問題に触れて)「この2つの産業で不祥事が起きたのは、決して偶然ではありません。
近代においては、自動車産業と電気機械産業は特別の産業でした。『鉄道と運河』の時代に実現した『より遠くは』、自動車の出現によって、いつでもどこでも行きたいという個人レベルの『より遠く』、『より早く』の欲求の実現へと進んでいきました。さらに家電産業は、個人に『より合理的に』を付加してくれました。最初はTV、そして次にPC、最近ではスマホが、どこに行けば何があるかを教えてくれます。
つまり、この二つの産業は、個々人が自由に欲望を追求していくことが認められる民主主義の時代にあって、それをかなえてくれる特別な産業となったのです。
そして、日本とドイツという、その産業において最も成功を収めた特別な国(マイナス利回りの国)で、不正事件が起きた。これは近代の限界を示す、何よりの証拠です」(P142-P143)



先進国企業は、国内へ投資しても利潤率が極めて低いか、場合によっては過剰設備となって負の資産になり得る。特に日本やドイツなどの自動車や産業機械の生産・販売が盛んな国では、市場の成長率より設備の増加率の方が高くなる傾向にある。そうした過剰生産力の行き先として目指したのが、2000年代のBRICsであり、近年のミャンマーだったわけですね。グローバリゼーションの帰結と言っても良いでしょう。これは先進国企業側の都合であって、ミャンマー側には関係のない事由です。
ただ、先行指標としてBRICsを見る限り、新興国市場から多大の利益を上げることには、あまり大きな期待はしない方が良さそうです。
むしろ最後発の進出国となったため、ミャンマーは進出してくる企業にとって問題が先鋭化しているような気すらします。実質的な産業基盤が育成されていないのに、土地投機だけが先行して地価が高騰したり、外資系企業で働くスキルのある人材が稀少なため採用条件に見合う人材の人件費がコストに見合わないレベルに上昇したり、といった問題はミャンマーにいる人には広く知られています。
そもそも上述の著書で、著者の水野和夫氏は、経済成長を前提とするシステムの資本主義や株式会社といった制度が限界に突き当たっているため、成長を目指さない新たな定常的なシステムに移行すべきと主張しています。もし氏の言うとおり、現在の利潤率の低下が、グローバル資本主義的なシステムの限界に起因するならば、ミャンマーに(もしくは他の新興国に)投資しても根本的な問題が解決することはありません。

それでも、というか、だからこそミャンマーに来る理由があります。少なくとも、ある種の人間にとっては。
次章以降では、それについて記述します。

次章は、
3. 経済的フロンティアではないミャンマーは何のフロンティアなのか?〜それでもミャンマーに来る理由
です。

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2016年12月26日月曜日

おそらく経済的な意味でのフロンティアではないミャンマーが、フロンティアである理由 (1)

今年最後の投稿になると思うので、ここ一年考えていたことを出来るだけ体系的にまとまめて書くことにします。

1. たぶんミャンマーは、経済的な意味でのフロンティアではない

ミャンマーが「アジア最後のフロンティア」として俄然注目されたのが、2011年11月にクリントン米国務長官(当時)来麺以来だったので、これを書いているのが2016年の年末で、ちょうどまる5年ほどになります。
この5年の間に、外国人の個人投資家や様々な国の外資系企業がミャンマーに参入しましたが、経済的な意味でのフロンティアとしての期待に見合う成果が上がった例は寡聞にして知りません。
キリンビバレッジ、カールズバーグ、ハイネケン等のビール会社やアサヒ飲料、コカコーラ等の清涼飲料水メーカー、エースコック、ネスレ等のインスタンス食品メーカーなどの消費材メーカーによる進出・投資が目立ちますが、いずれも体力のあるコングロマリットもしくは大企業が、10年・20年先を見据えて投資したケースで、累積投資額の回収ができていないのは当然として、単年度黒字化を達成しているかどうかも分かりません。

日本の個人投資家や中小企業に関しては、4年程前に急増し、2年前くらいまでは見かけた、「アジア最後のフロンティア」という惹句につられてやって来た、射幸心に充ちた個人や社長をめっきり見かけなくなりました。尤もこの種の人たちは、経済的な側面にしか興味がないので、利益が上がらないと判断すると早々とミャンマーを去るため、ほぼ一年で同じ顔を見なくなるのですが。
ミャンマーの富裕層も、このような個人投資家や中小企業の社長がやって来なくなったため、新たなジョイン・ベンチャーの提携先や投資家が減ったことに焦っているように見えます。
海外の大企業の場合、コンプライアンスが重要となるため、合意に至るまでに、必要書類の作成やデーターの提示、そして契約書で提携内容や条件を明示する必要がありますが、海外で活動するごく一部のコングロマリットを除く、ミャンマー富裕層が所有するオーナー企業のほとんどが、そうしたペーパーワークや交渉には対応できないため、彼らは国外の提携先として中小企業を狙う傾向が強いです。しかし、その資金源や技術供与の相手として、彼らが期待していた層が、ミャンマーから関心を失いつつあるようです。

まあ、それは仕方ないし、ある意味当然かなと思います。
これだけ事業申請等の許認可が煩雑で、法律の運用が不透明で、電源・物流や一定の教育レベルの人材といったハード・ソフト両面のインフラが脆弱な上、ミャンマー側の事業者や政府決定が事由で損害を負った場合も司法判断による補償も実施されることがなければ、営利目的の個人や組織の足が遠のくも当然だと思います。
インパクトが大きかったのが、シンガポールの投資会社がいったん開発許可を得たヤンゴン市街地の大型プロジェクトが、その後シェダゴンパゴダの景観を損なうという理由で許可を取り消され、ミャンマー政府から代替地を提供するというアナウンスがあったものの、その後の経緯が不明となったケースです。この政府方針の転向による開発案件の中止で、投資側は数十億から数百億円の損失を被ったと思われます。海外からのミャンマー投資に対する潮目が変わったのは、この時期からだったような気がします。

ミャンマーで活動して安定した利益を上げている日本の個人事業者や日系企業もありますが、その多くがミャンマーに進出する日系企業へのサポート(法務・財務・コンサルティング等)を業務としているか、ODA等の日本の税金を財源としたプロジェクトの受注で利益を上げることを目的としています。いずれにせよ、日本の企業や日本の公的資金を対象とした事業で、ミャンマーの国内市場そのものを対象とした事業ではありません。
日経ビジネス・オンラインや東洋ビジネス・オンラインで、ここ数年の間ミャンマー特集が始まったことが何度かありましたが、ほとんどの場合、連載が途中で終わってしまうのは、誌面に紹介できる成功例が少ないからだと推測されます。顧客が日系企業や日本人がメインの事業だと、ミャンマーに進出した成功事例の紹介としてニュース・バリューが今ひとつなので、扱いにくいのでしょう。

長くなったので、続きは明日以降に書きます。
章立ては以下の通りです。年内完成を目指します。

2. ミャンマーが経済的なフロンティアではないのは、ミャンマー国内の問題以外の要因も大きい
3. 経済的フロンティアではないミャンマーは何のフロンティアなのか?〜それでもミャンマーに来る理由

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2016年12月6日火曜日

ミャンマーでヴィンテージ・ファブリックについて考えた

11月末にビジネス・ヴィザの更新のため、2週間程日本へ帰国しました。
実家でミャンマーで着れそうな衣類を探して、タンスの引き出しを漁っていたら、10年程前に集めていたアメリカン・ヴィンテージ・ファブリックの端切れがたくさん出てきました。
こんな物を集めていたことを、見つけるまで、すっかり忘れていました。

アメリカでも大量生産による既製品が市場を席巻する前は、現在のミャンマーのように衣類用の生地が消費者向けに大量に販売されていました。これを買ったのは吉祥寺にあるヴィンテージ・ファブリック専門店で、オーナーがNYに在住した20年あまりの間に買い付けたデッド・ストックです。デザインに異国風な味わいがあるのは、こうした生地の多くが東欧からの移民によってデザインされたからではないかと聞きました。









近年、ファースト・ファッションの在り方に多くの消費者が疑問を感じてきているようです。帰国時にデベロッパーの友人と酒を飲んでいたのですが、テナントのファースト・ファッション・ブランドの売上の成長が鈍化もしくは、微減傾向にあると聞きました。
こうした安価な大量生産の衣類に構造的に存在する途上国労働者の搾取や、ワンシーズンでの使い捨てが環境にも好ましくないため、近頃はスローファッション的なムーブメントも起こっています。ブルックリンのような消費先進地に本拠を置くEverlaneMM.LaFleurなどの、長く着られるの定番商品を謳ったり、環境への配慮や生産者への工賃を公表して搾取が介在していないことを明示するメーカーも現れています。



まだミャンマーには中小規模の生地生産者が残っているので、このような40~60年代のNY周辺でデザイン・生産されていた生地をミャンマーで少量生産して復刻できれば面白いなと思います。

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2016年11月28日月曜日

ミャンマーのファッション雑誌が急速にまともになってきている件について

ご存知の通り、ミャンマーは2011年まで約50年間ほぼ鎖国状態にありました。この期間、外国の文化が入ってこなかったため、民族衣装以外の洋服の着こなしの伝統がまったくと言っていい程ありません。
ヤンゴンの街を歩いていても、かなり謎の着こなし方をしている人を見かけることが多いですが、ファッション雑誌も同様で、グラビアを見てもスタイリストが洋服の基本的なルールが分かっていないのが見て取れます。
基本的に『VOGUE』とかの欧米のモード誌をミャンマー流に解釈したファッション・グラビアが掲載されているのですが、解釈の方向が斜め上過ぎて、とんでもところに着地しているケースがほとんどでした。
ところが最近 パラパラと現地のモード誌を手に取ってみると、かなりまともになっていました。
今回は当地でいちばんメジャーなモード誌、『MODA』をご紹介します。


 特集記事は、KENZOとH&Mのコラボです。H&Mミャンマーで売ってませんけど。

以下は、ミャンマーのデザイナーとスタイリストによる、ファッション・グラビア。
デザイナーとスタイリストの力量とセンスにより、クオリティにかなりバラツキがあります。

これは何でバイクのタンクが小道具に使われるのかが謎。

ミャンマーらしい過剰さが前面に出たデザイン。シンプルで機能的な物をよしとする考え方は、この国ではまだ一般的ではありません。

 個人的にはこのページが一番いいかなと思います。比較的シンプルだし。

ミャンマーの森ガール?

今、日本に一時帰国中なのですが、ミャンマーの方が腰の位置が高くて、足が真っすぐな洋服が似合う体型の女性が多いと感じます。センスさえ身に付けば、ミャンマーはファッションのポテンシャルが高いと思います。そもそも、ロンジー生地の多様さを見れば、着る物に関する関心の高さが伺えますし。

メンズはまだまだ発展途上です。メンズの場合は特にトラッド等を基本とした組み合わせのルールが厳格なので、その辺を理解したデザイナーがまだいないのではないかと推測します。

最後にお隣の国インドのファッション・スナップを掲載します。4、5年前にネットで拾った画像ですが、あまりのお洒落さに感動して保存したのが、HD上に残っていました。ミャンマーこのくらい垢抜けると街を歩いていて楽しくなると思います。

では、お前はどうなのか?、と聞かれるとつらいところなのですが。いまの着る物の基準は汚れてもいい物になっています。外歩くと道は犬の糞だらけで、雨期にはしょっちゅう車の撥ねた泥水を被る環境で暮らしているので。
そのうち、生活水準を上げて、着る物にも気を配れるようにしたいです。ええ。

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2016年11月18日金曜日

ミャンマーで流行中の生地を使ったドレスです

現在ミャンマーで流行中の生地を使用したワンピース・ドレスを製作しました。
従来、ミャンマーでは、服飾に使用する生地は、原色の複雑な模様のものが使われることが多かったのですが、近年になってストライプなどのシンプルな柄も人気になってきています。

Sleeveless Dress 20USD

With Sleeves 30USD

こんなドレスを着て、ミャンマーのトレンドを楽しみませんか?

商品は、Princess Tailoring Shop (No.15A/B Ground Floor, Nyaung Tone Road, Sanchaung Township, Yangon) でご覧になれます。


モデル着用写真やさらなる情報は、以下のYANGON CALLINGのFBページでご覧になれます。
https://www.facebook.com/ygncalling/

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2016年11月7日月曜日

なぜ自分探しの若者はミャンマーを目指すのか?

最近、ミャンマーに海外から来る若い人が増えたなあと思います。サンチャウンでの定点観測に過ぎませんが、サンチャウン通りで若い外国人を見かけることが多くなりました。
そうした人たちの一人であるアジア系アメリカ人のティファニー・テンさんが、ミャンマーに来た経緯をブログに書いていたのを見つけました。彼女の人種的バックグラウンドについての記述も含めて、ミャンマーに来るに至った経験を面白く読んだのでご紹介します。
ミャンマーに来る日本人の若い人も増えているはずですが、今のところ日本人の若者が書いた、論旨が一貫した考察をまとめた文章を読んだことがありません。
彼女のように幼い頃から人種的な問題に遭遇して、自分のアイデンティティに自覚的にならざる得なかったケースと、学校や会社などの所属する組織でどういう種類の人間かをカテゴライズされることが多く、個人として自分が何者かを意識する機会が少ない日本人との違いかもしれません。

ミャンマーでアジア系アメリカ人でいること ティファニー・テン
中華鍋に当たった杓子がカチャカチャと音を立てて、脂っこい揚げ物が街角で作られている。サイドカーの付いた自転車が道を譲るようにベルを鳴らす。私はキュービクルの中の蛍光灯に囲まれたオフィス・スペースから飛び出して、野良犬とモンスーンが吹き荒れる土地へとやって来た。

ヤンゴンでは、私はだいたい欧米から来た外国人として見なされた。ヨーミンジー通りをWifiの使えるカフェに向かって歩いていると、別の外国人がEasy Cafeにやって来てアイスラテを頼んで、8時間も店に居座る。私はアメリカ、それともカナダ、フランス、中国から来たように見えるみたいだ。

ヤンゴンに住む外国人たちはみんな「どこから来たの?、どうしてここにいるの?、どれだけここにいるの?」と知りたがる。聞いてくる相手によって私の答えは変わってくる。「アメリカから」「ニューヨークから」もっと具体的に「ニュージャージーから」。そこは私が生まれた場所だし、本籍地には違いない。だけど、ここ数年の間そこを「故郷」だと感じたことがない。
「どうしてここにいるの?」
ミャンマーに住むことへの疑念は、私が一ヶ月前にヤンゴンに着いた途端に吹き飛んでしまった。三年間海外に移り住むことについて自問自答した末に、私はとうとう実行に移した。飛行機が着地した時に、胸が高鳴り、喜びがこみ上げて来た。とうとうミャンマーにやって来た。香港でも、上海でも、東京でもない。これは観光旅行ではない。私にとってのコンフォート・ゾーンの外で暮らすことなのだ。

そう、これがヤンゴンっ子に対する私のいつもの回答だ。
「ニューヨークから来たの! 会社で三年間働いたわ。それで、何か別の経験がしたくなった。大学院とフェローシップに応募した。コロンビア・ジャーナリスト・スクールとスクール・オブ・ヴィジュアルアートのイノベーション・プログラムに合格した。でも、ミャンマーに来たかった。それでここにいるの。フェローシップを得て、インヤー・レイクの職業訓練校で教えるの。最低一年間はいるつもりよ」

うわっ、何か恥ずかしい。野心満々で、自分の実績を並べ立てて、他人と違うところを見せようとしてる、典型的な自分探し中の20代半ばのゆとり世代みたい。7つもの「プロジェクト」を抱えているけど、本当の意味での目的も方向性も持ってない。でも、私は私のビジネスのバックグラウンドと、社会的インパクト(それと執筆や他の創作活動)に対する熱意を組み合わせて、最終的に漠然とそう呼んでいる「キャリア」として形成することを考えている。

ヤンゴンは暖かく私を迎え入れてくれた。それは私が心を開いて近づいていったからだろう。
自分への覚え書き:「ポジティブなマインドは、ポジティブな結果を生む」
私の好奇心は、今までで一番刺激的で、ファニーで、情熱的で、共感できる人たちに会わせてくれた。みんな何らかの理由を持って、ミャンマーに住んでいる。

パアンやバゴーのようなヤンゴンの外に出ると、アジア系アメリカ人は好奇心と同じくらい困惑に遭遇する。私はそれには馴れているはずだが、私のような外見の外国人に、いかに多くの人が馴れていないかに驚いてしまう。一見ミャンマー人かもしれない。でもすぐにいくつかのフレーズをつっかえて、「バーマ ザカ ネー ピョウ ダー(私は少しミャンマー語がしゃべれます)」と言うと、人種当てゲームが始まる。「日本?、韓国?」。私は中国人の血も少し入っているので、そう答えるのが一番正確かもしれない。ベトナム人?、フィリピン人?、それは私の特徴的な肌の色からの類推。彼らは私がどこから来たのか訊ねる。「ア・メ・リ・カ!」と私。その答えは、しばしば笑顔と握手を呼び起こす。別の機会では、答えてもまだよくわかってもらえずに、私がアジアの国から来たと思っていると言いたいけど、英語で言えないようだった。私が去った後も、謎はその場に残っていた。

私はこれまでの人生で、人種に関する問題とずっと付き合ってきた。一番最初の思い出は、幼稚園でクラスメイトが「何人?」と聞いたことだ。「アメリカ人」と私は答えた。小さい時に、ママがこれが正しい答えと教えてくれたからだ。目をくるくる回して、ため息の後に、次の質問が必然的に続く。「わかる。でもお父さんとお母さんはどこから来たの?」。知らなかった。両親はアジアの二つの違う国からやって来て、ニュージャージーで出会ったと、五歳のときにはどう説明していいのか知らなかった。パパはビルマで生まれたけど、ビルマ人ではない。私はこれをどう説明していいのか長い間わからなかった。

時は流れて大学時代。私は詩の入門クラスにいる唯一のアジア系の学生だった。Juda Bennett教授は私が授業に積極的に参加して、「大胆な選択」をすることで、私を可愛がってくれた。彼は中西部のヒッピー・コミューンで暮らしていた時代のことを話してくれた。ピース・コープに応募するよう私を励ましてくれた。彼は自分がそうしなかったことを後悔していた。「今となっては、私にはもう遅すぎるからね」
ニュージャージーみたいな保守的な州立大学にいても、私が外の世界に対する関心を失っていないとも言ってくれた。
オーケー、クール。でも、他人の人生を自分のものとして生きることはできない(こんな風に私はすぐに目の前の冒険を避けてしまう)。

私はニューヨークのロレアルで働きはじめた。楽しい時もあったけど、だいたいにおいてルーティンとやりがいの無さが辛かった。マダガスカルとペナンでのピース・コープへの応募に失敗した後、ウエストコーストとアジアに照準を据えた。私はアジア人の、あるいはアジア系アメリカ人の作家にハマった。Peter Hessler、Eddie Huang,、村上春樹、 Celese Ng。もしかして作家になれる?

アジアに来るまでずいぶん時間がかかった。ロレアルで働いた後、中国と日本とミャンマーをバックパッカーとして回った。帰国して、また働いた。アメリカで最も由緒あるブランドのブルックス・ブラザーズに入社した。ロレアルで働くよりもさらに嫌だった。たくさんのアジア地区のフェローシップ(フルブライトとか、シュワルツマンとか)とカリフォルニアでの仕事に応募した。両親は、私がニューヨークとニュージャージー近隣から離れることを認めなかった。私を子供のままにしておくため、より選択を困難にするため。でも、私の決心は変わらなかった。

そして今、私はここにいる。そして信じられないくらいハッピー。人種とジェンダーの問題には日常的に出くわす。そしてミャンマー人がこの問題にどう対処するかを目撃する。アメリカではこの問題にどう対処しているのかニュース記事を読む。私は変化を起こそうとしている。時間が自分にとって意味のある存在であるよう挑戦している。なんて時間は早く過ぎ去ってしまうのだろう。それは変化のめまぐるしいヤンゴンにふさわしいことかもしれない。そう私はここにいる。汚れた街路とやたらと蚊に刺される場所に。教えることと学ぶこと。ミャンマー語では、教えることも学ぶことも、同じひとつの言葉で表現する。そう、私は学んでいる。それだけは確かなことだ。

いかがでしたか?
私が彼女の投稿に興味を持ったのは、近年の文学への関心の世界的な潮流が、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェやジュノ・ディアスのような移住者や移民によるアメリカ文学に向かっていることに関連しています。チママンダ・ンゴズィ・アディーチェについては、ミャンマー文学との近接性をネタに以前ブログに書きました
ジュノ・ディアスの『オスカー・ワオの短く凄まじい人生 (新潮クレスト・ブックス)』は、ここ5、6年で読んだ中で一番面白い小説です。ガルシア・マルケスとカート・ヴォネガット.Jrが合体したような作風で、しかも重要なモチーフとして日本のオタクカルチャーまで登場します(主人公が日本のアニメや特撮のオタク)。



チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの作品ではアメリカ国内のナイジェリア人コミュニティの場面が出てきますし、ジュノ・ディアスの作品にもカリブ系移民のコミュニティがルーツのアイデンティティ確認の場として機能していることが読み取れます。彼女の場合、自分の民族的なバックグラウンドを共有するそうしたコミュニティを持たないので、アイデンティティの在処を見つけるのが、より困難なのではないかと想像しました。
さらっとしか書いてませんが、WASP的価値観や美学の総本山であるブルックス・ブラザーズでの仕事は楽しめなかったようです。何があったのかちょっと興味があります。
将来、過去の経験を相対化できるようになった時に、その時の経験を書いたのを読んでみたいです。今は、まだその時期ではないのでしょう。

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