2016年11月28日月曜日

ミャンマーのファッション雑誌が急速にまともになってきている件について

ご存知の通り、ミャンマーは2011年まで約50年間ほぼ鎖国状態にありました。この期間、外国の文化が入ってこなかったため、民族衣装以外の洋服の着こなしの伝統がまったくと言っていい程ありません。
ヤンゴンの街を歩いていても、かなり謎の着こなし方をしている人を見かけることが多いですが、ファッション雑誌も同様で、グラビアを見てもスタイリストが洋服の基本的なルールが分かっていないのが見て取れます。
基本的に『VOGUE』とかの欧米のモード誌をミャンマー流に解釈したファッション・グラビアが掲載されているのですが、解釈の方向が斜め上過ぎて、とんでもところに着地しているケースがほとんどでした。
ところが最近 パラパラと現地のモード誌を手に取ってみると、かなりまともになっていました。
今回は当地でいちばんメジャーなモード誌、『MODA』をご紹介します。


 特集記事は、KENZOとH&Mのコラボです。H&Mミャンマーで売ってませんけど。

以下は、ミャンマーのデザイナーとスタイリストによる、ファッション・グラビア。
デザイナーとスタイリストの力量とセンスにより、クオリティにかなりバラツキがあります。

これは何でバイクのタンクが小道具に使われるのかが謎。

ミャンマーらしい過剰さが前面に出たデザイン。シンプルで機能的な物をよしとする考え方は、この国ではまだ一般的ではありません。

 個人的にはこのページが一番いいかなと思います。比較的シンプルだし。

ミャンマーの森ガール?

今、日本に一時帰国中なのですが、ミャンマーの方が腰の位置が高くて、足が真っすぐな洋服が似合う体型の女性が多いと感じます。センスさえ身に付けば、ミャンマーはファッションのポテンシャルが高いと思います。そもそも、ロンジー生地の多様さを見れば、着る物に関する関心の高さが伺えますし。

メンズはまだまだ発展途上です。メンズの場合は特にトラッド等を基本とした組み合わせのルールが厳格なので、その辺を理解したデザイナーがまだいないのではないかと推測します。

最後にお隣の国インドのファッション・スナップを掲載します。4、5年前にネットで拾った画像ですが、あまりのお洒落さに感動して保存したのが、HD上に残っていました。ミャンマーこのくらい垢抜けると街を歩いていて楽しくなると思います。

では、お前はどうなのか?、と聞かれるとつらいところなのですが。いまの着る物の基準は汚れてもいい物になっています。外歩くと道は犬の糞だらけで、雨期にはしょっちゅう車の撥ねた泥水を被る環境で暮らしているので。
そのうち、生活水準を上げて、着る物にも気を配れるようにしたいです。ええ。

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2016年11月18日金曜日

ミャンマーで流行中の生地を使ったドレスです

現在ミャンマーで流行中の生地を使用したワンピース・ドレスを製作しました。
従来、ミャンマーでは、服飾に使用する生地は、原色の複雑な模様のものが使われることが多かったのですが、近年になってストライプなどのシンプルな柄も人気になってきています。

Sleeveless Dress 20USD

With Sleeves 30USD

こんなドレスを着て、ミャンマーのトレンドを楽しみませんか?

商品は、Princess Tailoring Shop (No.15A/B Ground Floor, Nyaung Tone Road, Sanchaung Township, Yangon) でご覧になれます。


モデル着用写真やさらなる情報は、以下のYANGON CALLINGのFBページでご覧になれます。
https://www.facebook.com/ygncalling/

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2016年11月7日月曜日

なぜ自分探しの若者はミャンマーを目指すのか?

最近、ミャンマーに海外から来る若い人が増えたなあと思います。サンチャウンでの定点観測に過ぎませんが、サンチャウン通りで若い外国人を見かけることが多くなりました。
そうした人たちの一人であるアジア系アメリカ人のティファニー・テンさんが、ミャンマーに来た経緯をブログに書いていたのを見つけました。彼女の人種的バックグラウンドについての記述も含めて、ミャンマーに来るに至った経験を面白く読んだのでご紹介します。
ミャンマーに来る日本人の若い人も増えているはずですが、今のところ日本人の若者が書いた、論旨が一貫した考察をまとめた文章を読んだことがありません。
彼女のように幼い頃から人種的な問題に遭遇して、自分のアイデンティティに自覚的にならざる得なかったケースと、学校や会社などの所属する組織でどういう種類の人間かをカテゴライズされることが多く、個人として自分が何者かを意識する機会が少ない日本人との違いかもしれません。

ミャンマーでアジア系アメリカ人でいること ティファニー・テン
中華鍋に当たった杓子がカチャカチャと音を立てて、脂っこい揚げ物が街角で作られている。サイドカーの付いた自転車が道を譲るようにベルを鳴らす。私はキュービクルの中の蛍光灯に囲まれたオフィス・スペースから飛び出して、野良犬とモンスーンが吹き荒れる土地へとやって来た。

ヤンゴンでは、私はだいたい欧米から来た外国人として見なされた。ヨーミンジー通りをWifiの使えるカフェに向かって歩いていると、別の外国人がEasy Cafeにやって来てアイスラテを頼んで、8時間も店に居座る。私はアメリカ、それともカナダ、フランス、中国から来たように見えるみたいだ。

ヤンゴンに住む外国人たちはみんな「どこから来たの?、どうしてここにいるの?、どれだけここにいるの?」と知りたがる。聞いてくる相手によって私の答えは変わってくる。「アメリカから」「ニューヨークから」もっと具体的に「ニュージャージーから」。そこは私が生まれた場所だし、本籍地には違いない。だけど、ここ数年の間そこを「故郷」だと感じたことがない。
「どうしてここにいるの?」
ミャンマーに住むことへの疑念は、私が一ヶ月前にヤンゴンに着いた途端に吹き飛んでしまった。三年間海外に移り住むことについて自問自答した末に、私はとうとう実行に移した。飛行機が着地した時に、胸が高鳴り、喜びがこみ上げて来た。とうとうミャンマーにやって来た。香港でも、上海でも、東京でもない。これは観光旅行ではない。私にとってのコンフォート・ゾーンの外で暮らすことなのだ。

そう、これがヤンゴンっ子に対する私のいつもの回答だ。
「ニューヨークから来たの! 会社で三年間働いたわ。それで、何か別の経験がしたくなった。大学院とフェローシップに応募した。コロンビア・ジャーナリスト・スクールとスクール・オブ・ヴィジュアルアートのイノベーション・プログラムに合格した。でも、ミャンマーに来たかった。それでここにいるの。フェローシップを得て、インヤー・レイクの職業訓練校で教えるの。最低一年間はいるつもりよ」

うわっ、何か恥ずかしい。野心満々で、自分の実績を並べ立てて、他人と違うところを見せようとしてる、典型的な自分探し中の20代半ばのゆとり世代みたい。7つもの「プロジェクト」を抱えているけど、本当の意味での目的も方向性も持ってない。でも、私は私のビジネスのバックグラウンドと、社会的インパクト(それと執筆や他の創作活動)に対する熱意を組み合わせて、最終的に漠然とそう呼んでいる「キャリア」として形成することを考えている。

ヤンゴンは暖かく私を迎え入れてくれた。それは私が心を開いて近づいていったからだろう。
自分への覚え書き:「ポジティブなマインドは、ポジティブな結果を生む」
私の好奇心は、今までで一番刺激的で、ファニーで、情熱的で、共感できる人たちに会わせてくれた。みんな何らかの理由を持って、ミャンマーに住んでいる。

パアンやバゴーのようなヤンゴンの外に出ると、アジア系アメリカ人は好奇心と同じくらい困惑に遭遇する。私はそれには馴れているはずだが、私のような外見の外国人に、いかに多くの人が馴れていないかに驚いてしまう。一見ミャンマー人かもしれない。でもすぐにいくつかのフレーズをつっかえて、「バーマ ザカ ネー ピョウ ダー(私は少しミャンマー語がしゃべれます)」と言うと、人種当てゲームが始まる。「日本?、韓国?」。私は中国人の血も少し入っているので、そう答えるのが一番正確かもしれない。ベトナム人?、フィリピン人?、それは私の特徴的な肌の色からの類推。彼らは私がどこから来たのか訊ねる。「ア・メ・リ・カ!」と私。その答えは、しばしば笑顔と握手を呼び起こす。別の機会では、答えてもまだよくわかってもらえずに、私がアジアの国から来たと思っていると言いたいけど、英語で言えないようだった。私が去った後も、謎はその場に残っていた。

私はこれまでの人生で、人種に関する問題とずっと付き合ってきた。一番最初の思い出は、幼稚園でクラスメイトが「何人?」と聞いたことだ。「アメリカ人」と私は答えた。小さい時に、ママがこれが正しい答えと教えてくれたからだ。目をくるくる回して、ため息の後に、次の質問が必然的に続く。「わかる。でもお父さんとお母さんはどこから来たの?」。知らなかった。両親はアジアの二つの違う国からやって来て、ニュージャージーで出会ったと、五歳のときにはどう説明していいのか知らなかった。パパはビルマで生まれたけど、ビルマ人ではない。私はこれをどう説明していいのか長い間わからなかった。

時は流れて大学時代。私は詩の入門クラスにいる唯一のアジア系の学生だった。Juda Bennett教授は私が授業に積極的に参加して、「大胆な選択」をすることで、私を可愛がってくれた。彼は中西部のヒッピー・コミューンで暮らしていた時代のことを話してくれた。ピース・コープに応募するよう私を励ましてくれた。彼は自分がそうしなかったことを後悔していた。「今となっては、私にはもう遅すぎるからね」
ニュージャージーみたいな保守的な州立大学にいても、私が外の世界に対する関心を失っていないとも言ってくれた。
オーケー、クール。でも、他人の人生を自分のものとして生きることはできない(こんな風に私はすぐに目の前の冒険を避けてしまう)。

私はニューヨークのロレアルで働きはじめた。楽しい時もあったけど、だいたいにおいてルーティンとやりがいの無さが辛かった。マダガスカルとペナンでのピース・コープへの応募に失敗した後、ウエストコーストとアジアに照準を据えた。私はアジア人の、あるいはアジア系アメリカ人の作家にハマった。Peter Hessler、Eddie Huang,、村上春樹、 Celese Ng。もしかして作家になれる?

アジアに来るまでずいぶん時間がかかった。ロレアルで働いた後、中国と日本とミャンマーをバックパッカーとして回った。帰国して、また働いた。アメリカで最も由緒あるブランドのブルックス・ブラザーズに入社した。ロレアルで働くよりもさらに嫌だった。たくさんのアジア地区のフェローシップ(フルブライトとか、シュワルツマンとか)とカリフォルニアでの仕事に応募した。両親は、私がニューヨークとニュージャージー近隣から離れることを認めなかった。私を子供のままにしておくため、より選択を困難にするため。でも、私の決心は変わらなかった。

そして今、私はここにいる。そして信じられないくらいハッピー。人種とジェンダーの問題には日常的に出くわす。そしてミャンマー人がこの問題にどう対処するかを目撃する。アメリカではこの問題にどう対処しているのかニュース記事を読む。私は変化を起こそうとしている。時間が自分にとって意味のある存在であるよう挑戦している。なんて時間は早く過ぎ去ってしまうのだろう。それは変化のめまぐるしいヤンゴンにふさわしいことかもしれない。そう私はここにいる。汚れた街路とやたらと蚊に刺される場所に。教えることと学ぶこと。ミャンマー語では、教えることも学ぶことも、同じひとつの言葉で表現する。そう、私は学んでいる。それだけは確かなことだ。

いかがでしたか?
私が彼女の投稿に興味を持ったのは、近年の文学への関心の世界的な潮流が、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェやジュノ・ディアスのような移住者や移民によるアメリカ文学に向かっていることに関連しています。チママンダ・ンゴズィ・アディーチェについては、ミャンマー文学との近接性をネタに以前ブログに書きました
ジュノ・ディアスの『オスカー・ワオの短く凄まじい人生 (新潮クレスト・ブックス)』は、ここ5、6年で読んだ中で一番面白い小説です。ガルシア・マルケスとカート・ヴォネガット.Jrが合体したような作風で、しかも重要なモチーフとして日本のオタクカルチャーまで登場します(主人公が日本のアニメや特撮のオタク)。



チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの作品ではアメリカ国内のナイジェリア人コミュニティの場面が出てきますし、ジュノ・ディアスの作品にもカリブ系移民のコミュニティがルーツのアイデンティティ確認の場として機能していることが読み取れます。彼女の場合、自分の民族的なバックグラウンドを共有するそうしたコミュニティを持たないので、アイデンティティの在処を見つけるのが、より困難なのではないかと想像しました。
さらっとしか書いてませんが、WASP的価値観や美学の総本山であるブルックス・ブラザーズでの仕事は楽しめなかったようです。何があったのかちょっと興味があります。
将来、過去の経験を相対化できるようになった時に、その時の経験を書いたのを読んでみたいです。今は、まだその時期ではないのでしょう。

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2016年10月26日水曜日

The Myanmar wears PRADA? プラダを着たミャンマー?

Dear Fashion Lovers in Yangon,
ヤンゴン在住のファッション愛好家の皆様へ

It seems to be a good news for you if you are looking for a cool clothe made in Myanmar with a reasonable price.
You can get a dress like PRADA under 10% price with PRADA one.
This time we applied the glossy Myanmar traditional fabric for some of our dresses.
It became to be like a PRADA dress  consequently by combination of our minimalism design and the gloss of fabric.
もし、あなたがお手頃な価格で洗練されたミャンマー製の洋服を探していらっしゃるなら朗報かもしれません。
プラダみたいなワンピース・ドレスが、その十分の一以下の価格で購入できます。
今回、いくつかのドレスの素材として、光沢感のあるミャンマーの伝統的な生地を選びました。
ミニマリズム的なドレスのデザインと光沢感のある素材の組み合わせで、出来上がりが何だかプラダのドレスみたいになりました。

30USD
30USD
30USD

If you are interested in the products, please come to see them at Princess tailoring shop in Yangon (No.15A/B Ground Floor, Nyaung Tone Road, Sanchaung Township, Yangon; A map of the shop place is attached below).
もし商品にご興味があれば、Princess Tailoring Shop (No.15A/B Ground Floor, Nyaung Tone Road, Sanchaung Township, Yangon; 下記に地図を添付しています) で手に取ってご覧ください。

We also made dresses with being popular pattern of fabric recently in Myanmar.
Burmese women have made their longyi with colorful geometric pattern fabrics traditionally.
These days they become to use checked, striped or floral pattern fabrics for their longiyi.
You can enjoy the trend in Myanmar by wearing this dress besides wearing the longyi :-)
その他に、現在ミャンマーで流行中の生地を使用したワンピース・ドレスも製作しています。
伝統的にロンジーには、カラフルな幾何学模様の生地が使われることが多かったのですが、近年になってチェックやストライプや花柄のような柄も使われるようになってきています。
このドレスを着れば、ロンジー以外の衣服でもミャンマーのトレンドを楽しめます。

25USD
25USD
30USD



More information and wearing images with a model are available below Facebook page of YANGON CALLING;
https://www.facebook.com/ygncalling/

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2016年10月21日金曜日

ある晴れた朝に、ヤンゴンで100%の女の子に出会うために

僕はある晴れた10月の朝にサンチャウン通りを歩いていた。空には刷毛で佩いたような薄く霞んだ雲が暗示的に浮かんでいた。雲たちは雨期の終わりを告げる楽天的なメッセージを地表に伝えていた。

僕は雲たちの送るメッセージに応えて、それにふさわしい曲を頭の中で再生していた。テンプテーションズの歌う「マイ・ガール」やウィントン・ケリーのピアノ・トリオが演奏する「オン・グリーン・ドルフィン・ストリート」やニック・ロウの歌う「恋する二人(Cruel To Be Kind)」みたいな、とびきりチャーミングな曲を選曲した。
本当ならiPodで聴きたかったのだけど、僕のiPodは雨期の最中の2か月前に自宅が浸水して以来、使えなくなっていたから、頭の中で再生するしかなかった。8月の昼下がりに起きた集中豪雨で排水溝から溢れた雨水が、濁流となりサンチャウン通りから僕のアパートまで押し寄せた。その日帰宅した僕は、流れ込んだ泥水で貯水槽みたいになった部屋で、考古学者が海底に没した古代の遺跡を発掘するみたいに、水底に沈んだiPodを拾い上げたのだ。iPodは水中で永遠の眠りについたきり、二度と目を覚ますことはなかった。

Before

After

とにかく、もう集中豪雨があるたびに自宅の浸水を心配する必要がなくなったことは(少なくとも来年の雨期までは)、ドイツ軍の占領から解放されたのを知った1944年8月のパリ市民みたいに僕の気持ちを浮き立たせた。

そんなよく晴れた10月の朝、僕はサンチャウン通りで100%の女の子に出会った。
彼女はレモン・イエローのエインジーと幾何学模様のラインが入った紫色のロンジーを身につけていた。彼女の衣服はよく訓練された忠実な盲導犬みたいに彼女にぴったりと寄りそっていて、彼女にしっくりと馴染んでいた。自分で言うのも何だけど、僕はシャイで人見知りをする方だ。
でも、話しかけないわけにはいかなかった。なんといっても彼女は100%の女の子なのだ。
「よかったらモヒンガーでもどうかな? もし君が朝食をすませてなかったらの話だけど」
彼女は突然話しかけられたことに戸惑いながら答えた。「モヒンガーなら今朝家族といっしょに食べたわ」
「じゃあ、お昼にタミンジョーはどうかな? この辺に評判の店があるんだ」
「申し訳ないけど、友だちとランチの約束があるの」
だったらと、僕は通りに面したビア・ステーションを指差して言った。「僕は、ほぼ毎日夕方になるとここでビールを飲んでるんだけど、よかったら一杯付き合ってもらえないかな?」
「悪いけど、お酒を飲む相手を探しているなら他の人を誘うべきね」


やれやれ。僕は100%の女の子に出会ったことに夢中になって、この国の90%の女の子が(もしかしたらそれ以上の割合かもしれない)飲酒をしないことをうっかり忘れていたのだ。
僕は固い岩盤に突きあたった鉱山技師のような気分になった。岩盤の下には自分の望むものがあるのはわかっている。だけど地中深く埋まったそのひんやりとした岩盤は、未知の巨大な惑星みたいに、どれくらいの大きさで、どれくらいの深さなのか見当もつかないのだ。
僕が次の言葉を探しあぐねていると、彼女は別の世界に飛び立つある種の渡り鳥みたいに、きっぱりと移動の意思を示しながら僕とは反対の方向へ歩いていった。
僕にできるのは、彼女の形の良いお尻が幾何学模様のラインが入った紫色のロンジーを揺らすのを眺めることだけだった。左右に揺れるロンジーの幾何学模様は何かの信号のようにも見えたけど、どれだけ見つめていても、そこから意味のあるメッセージを読み取ることはできなかった。

そんなわけで、今日も僕はまた100%の女の子に出会うことを願いながら、サンチャウン通りを歩いている(僕のアパートはサンチャウン通りに面しているので、歩かないわけにはいかない)。
でももう一度100%の女の子に会ったとき、僕はなんて言うべきなのだろう?



候補として名前があがっていたとは言え、今年は意外な人が獲りましたね。
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